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「深大寺に、雨が降っている」 著者:水野 祐三

 「中学校2理科上」の裏表紙の内側では、「陸地と海底の地形のようす」と題されて、太平洋やインド洋の青とユーラシアやアメリカ大陸の緑が広がっている。小さな日本が、その地図では中央を陣取っている。それはみんな同じだろうけど、あたしの教科書が少し違うのは、地図の上一面に「ウザ川ウザ子」なんてマジックペンで書いてあったりすることだ。
 あたしは石段に座って、右肩上がりの黒い線を水で湿らせたハンドタオルで擦っていた。背後のお堂の中では五体の仏さまが、灯籠の明かりに照らされて微笑んでいる。深大寺の元三大師堂の脇からひっそりと伸びている石畳の階段を四十六段、口に出して数えながら上り、あたしはいつも開山堂の前で座る。平日の夕方、ここまで上がって来る人は多くない。小さな崖になっている茂みの向こうに、深大寺本堂や参道のざわめきが遠く聞こえる。
あたしはこの場所が好きだった。小さい頃、よく押入れに籠った感じと似ていた。こうして座っていれば、何かが流れ落ちてゆく気がする。あたしは夜を待ち、朝を待たなかった。
油断していたのだ。風もないのに茂みが音を立てて揺れて、一人の人間が転がり出てきたっていうのに。あたしは動けず、隠れ損なった。気がついたら制服を着た彼が、あたしの足元で蹲っていた。彼は首を上げ、あたしの目と目が合った。飴玉を待つみたいに口を開け、瞳が左右に揺れている。なんだか自分が彼にとって初めての、未知なる生き物になった気分がした時、彼が不意に、取り繕うように笑った。
彼は土埃にまみれ、袖口や背中、伸び掛けた黒い髪、あちらこちらに草をつけていた。あたしと同じ校章だけが襟元で汚れずに光っている。おでこにはニキビが溢れ、まだランドセルの匂いがする。前に児童館で見掛けた時彼は、かごめかごめの鬼のポジションで、背の高いブレザー数人を見上げ、笑っていた。
彼の視線が、あたしの膝元に落ちた。そこにあるのは、「ウザ川ウザ子」の黒い文字だ。慌てて鞄で隠したけれど、彼の目がしっかりと捕えるのをあたしは見た。顔が一気に熱くなって、
「消えろよ! 目ざわり、あっち行け」
言い放ってから、恵梨ちゃんの口調そっくりだと気付いた。彼は笑ったまま、あたしを見上げている。
「バカ? どっか行けって言ってんの!」
 彼は何度も頷くけれど、動く気配はない。しかも笑い続ける。あたしは、両足を地面に叩きつけた。
「あたしの場所っ。出てって!」
 立ち上がった拍子に、「中学校2理科上」が膝から滑って、石段を二段転げ落ちた。彼がスローモーションで首を動かし、目で追って、着地した。
「行くよ、行く、もちろん。あと五分だけ。
一分でもいい。すぐは、勘弁して」
 変声期前の声は甲高く、かすれていた。あたしは、彼の右足が靴を履いていないことに気付いた。白い靴下は足の裏が、足型が取れそうなほど真黒だ。彼の首筋と手の甲に、赤い血が滲んでいた。あたしは、権利もないのに主張をしたバツの悪さでそっぽを向いた。
 音だけの雷が空を叩いている。風が通り過ぎた時、彼は「中学校2理科上」を拾い上げた。あたしは横目で見ただけだった。彼がディパックを開き、取り出したのは除光液だ。
「100均」
照れ隠しか言葉を投げてから彼は除光液をティッシュに浸し、「中学校2理科上」の裏表紙を開いて内側を撫でた。「ウザ川」の「ザ」が、一瞬で消えた。それから「ウ」が、もうひとつの「ザ」が、「子」が。最初から何もなかったかのように、裏表紙の内側に青と緑の世界が蘇った。彼はゆっくりと教科書を閉じた。目を落とし背表紙をじっと見つめると、「中学校2理科上」を縦にしたり横にしたり、ページの端を指ではじいたり、落ち着きのない動きを繰り返した。あたしは彼から「中学校2理科上」を奪い取って胸に抱えた。「ありがとう」なんて言葉は出ないから彼を睨んだら、
「任せて、こういうこと。上履きについた匂いが親にばれない方法、とか、得意」
 親指を自分に向けておどける彼に、
「何言ってんの?。遊びよ、こんなの」
 彼は親指を持て余す。
「もう、一分、経った」
 区切るように言うと、彼は幾度も頷いて、また笑う。
「笑うなッ」
彼の顔が、形だけの笑みを残して固まった。あたしは畳みかける。
「ご機嫌取ってる気? 何言ったって笑って、キモイウザイムカつく、分かんない?」
 彼は唇の端に貼りついた笑みを噛みしめ、
「同じくせに、宇田川 由香子……」
“ウザ川ウザ子”よりも今、聞きたくない名前だった。あたしが睨めば、彼も返してくる。あたしの視線の先で彼の頬に、雫が一粒こぼれて流れた。まさか涙? 身構えると同時に手元に重さを感じて見ると、「中学校2理科上」に水玉が落ち始めていた。あっという間に増える。背表紙ではあたしの名前が叩かれ、煙ってゆく。彼方の境内や参道から、突然の雨に人々がさんざめく喧騒が上ってきた。
お堂の軒下に逃れ、あたしは驚いた。彼が雨を浴び、喉を鳴らして、鼻から突き抜ける笑い声を立てていたからだ。全身は濡れ落ちてゆくのに、雨のカーテンが彼だけを避けているようだった。嬉しそうだった。
「濡れてるだろな、アイツら。雨に降られて、ヒーヒー言ってるよ。ざまぁないぜ。ね? そうだよね?」
 ワイシャツが雨に濡れてひっつき、色を失くした白の向こうに、彼の体が透けて見えた。背中に脇腹に鳩尾に、痣が、浮かんでいた。あたしは彼に頷いた。何度も頷き、軒下から出ていた。途端に無数の雨があたしの体にぶつかる。制服の下で皮膚を滴り落ちてゆく。
「恵梨ちゃんたち、油性ペンで書いたの。小百合も可菜もみんな、大笑いしてた。分かる? ”ウザ子、ウザ子”って手拍子叩くの。あたしも笑ったよ。どうしようもないもん。昔は仲良かったんだ。恵梨ちゃん、有り得ないくらいイヤな顔して、”もう死んで”って」
 雨に叩かれて揺れる瞼を耐え、彼が力を込めてあたしを見つめた。開山堂では五体の仏さまが雨の音に耳を澄ましている。
―雨、雨ふれふれ、母さんがっ。蛇の目でお迎えうれしいなっ。
静寂を破いて聞こえたのは、複数の、ばらばらな男たちの声だった。石畳の階段の向こうからだ。あたしは彼を振り向き、一瞬で凍りつく人の顔、というものを初めて見た。
 首を伸ばすと階段の下で、いくつもの傘が揺れていた。透明なビニールの向こうに、白い襟や紺色のネクタイ、笑う赤い唇や虹色のミサンガが見え隠れする。手に持っているのは、泥水の入ったペットボトルだ。楽しそうな笑い声が聞こえる。カチカチカチカチ音がするので見たら、彼の歯が震えて鳴っているのだった。
「なんで分かるんだ、ここにいるって」
「理由なんて、あったことある?」
―雨、雨ふれふれ、かけるくんっ、一緒に遊ぼう、うれしいなっ。ピッチピッチチャップチャップ、ランランラン。
声は近付いてくる。一人が顔を上げ、あたしと彼を見つけた。あたしは顔を動かさず、
「かける、って、どういう字?」
「”飛翔”の”翔”」
 あたしは、翔の手を取って駆け出した。背後で声が上がり、足音が勢いを増す。開山堂を抜け出たら、目の前に神代植物公園の入口があった。あたしは入場券も買わずに「深大寺口」と書かれたゲートを突っ切った。
 受付のおじさんが叫んでいる。振り返ると突破しようとした男子たちとおじさんが揉めている。あたしは翔の手を引っ張って、全速力で走った。
 背の高い木々が、雨からあたしと翔を守ってくれる。翔とつないだ手の平の中で、水がチャポチャポ音を立てている。汗なのか雨なのか、あたしには涙に思えた。哀しくても悔しくても泣けない人は、涙じゃなくて汗を掻いたり、雨が代わりに泣いてくれたりするんじゃないだろうか。
 森を通り小川を越えると、視界が一気に開けた。広大な芝生。雨なのに眩しい。空との間を遮る物はなく、斜め前から降ってくる。あたしと翔は芝生に溜まった水溜りを蹴って走った。翔の荒い息遣いがあたしの耳の中にこだまする。
「もしあたしたちが、二人で消えたら、みんな喜ぶかな」
 翔は力試しをする時のように、あたしの手をきつく握り締めた。公園に人の姿は見えない。斜めに降る雨と、花壇から伸びる花々と、あたしと翔。
―行ってらっしゃい。気をつけてね。
 なんでこんな時に、今朝の、玄関でのお母さんを思い出すんだろう。
 あたしたちはスピードを上げ、更に進もうとして、足が止まった。その先は、なかった。あるのは金網で、向こう側では自動車が慌しく行き交っている。あたしたちは立ち尽くした。
「おーい、君たちー」
 大きな声に振り向くと、広い芝生の向こうによたよたと、受付のおじさんが現れた。
翔がふっと、笑い声を漏らした。つられてあたしも吹き出した。それを見て翔が更に笑った。あたしも声を立てた。雨は上がろうとしている。あたしの右手の先で、翔の手の平は乾いている。その向こうから、翔の体温がドクドクとあたしの胸を打つ。

水野 祐三(東京都三鷹市 /42歳/女性/主婦)

   - 第7回応募作品