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<第4回応募作品>「薔薇が咲いたら」 著者:北川 淳

薔薇が咲いたらまた連絡ください
馨からの返信が喬の携帯電話の液晶に光り、暗い部屋の中の喬の顔を白く浮き上がらせた。喬は明かりをつけて本棚からアルバムを取り出すと、大学時代の友人が集まった写真を探し、馨の姿を見つけた。そこにいる馨は仲間に肩を抱かれ、写真に撮られる恥ずかしさを隠そうとするように、体を斜めにして少し口元を緩め、困ったようにあいまいな微笑を浮かべていた。
アルバイトのために遅れて友人の別荘を訪ねた喬は疲れの抜けぬまま酒に酔い、林間の涼しさにすぐに眠ってしまったのだが、その後サークルの部室で仲間たちが集まった写真を見て、どうして誰も起こしてくれなかったのかと怒り、あまりよく寝ていたからとみんなに笑われたことを思い出した。もう何年も昔のことだ。
 喬は冬の間に引っ越ししたことを、少ない友人に連絡していたところに馨へ連絡することを思いついたのだった。アルバムの集合写真の隣には色とりどりの薔薇の中に笑顔で腰をかがめた馨の写真がある。これはうまく写ったからといって馨に手渡された写真だ。
 本当は薔薇が咲き始めたころに、馨にもう一度連絡をしなくてはいけなかったはずだ。だが喬は連絡をしないまま、植物公園の噴水の周りで、鮮やかな色を保っていた薔薇はしおれ、その庭園の周りに紫陽花の咲く時期までも過ぎてしまっていた。喬はまた馨の短い返信を読み返し、携帯の目覚ましのアラームを設定して電話を閉じる。明かりを消して喬はベッドの上に横たわる。自動車が静かに角を曲がる音が聴こえた。

かりかりと乾いた音が電柱の上から聞こえてきて、信号待ちをしている喬の右腕に鳥肌を立たせた。振り返ると腹を上に向けた蝉が、電柱のそばのアスファルトに転がっていた。それは今ただ動きを止めているだけなのだろう。誰かが足先で触れたときに驚くような羽音を立ててアスファルトの上を滑っていく光景を喬は想像した。殻を脱ぐのが早すぎたのだと喬は思う。仲間の出てくる前に命が切れてしまうなんて。信号が変わり喬は自転車のペダルを踏み込んで坂を下る。
この道路は昔の道の名残だと喬は自転車に乗りながら思う。深大寺に暮らしていた人たちの通った道。いったいどれくらい昔からこの道を歩いていたのだろうかと、ぼんやりしながら自転車を走らせる。ゆるやかに左右に曲がる道はすぐ先が見えず、振り向くと走ってきた道はまるで消えてしまったかのように思える。自転車の速度を上げると、買い物から帰るビニール袋を提げた親子や犬と散歩する人が街灯の下に現れては暗闇に消えていく。夕闇の中で道路に水を撒いていた人が家の中に入っていく。水にぬれた道路を喬の自転車が横切って音を立てる。十字路は直角に交わらずに思いがけない方向から車が現れてきたことが何度もあって、ここに住み始めてから喬は道路に立ったミラーの確認をするようになった。もう少しでお盆になる。喬は仕事帰りにそのことだけを考えるようになっていた。疲労はそれまで抜けないだろう。

ビールが切れたのを口実に、夜の涼しさを求めて喬は買い物に出かける。ドアを開けると思ったよりも蒸し暑いことに気づく。夏の熱気はアスファルトの中に閉じ込められ、夜の間にため息のように吐き出される。畑のほうから湿った冷たい空気が流れ込むのを喬は感じた。闇の中に水が滴り落ちるように蝉の音が響いている。鳴いている蝉の数を想像する。木々の中にひそんでいるのは数匹だろう。もう次の日付を迎えようとしているのに、夜空はまだ夕焼けの落ちたすぐあとのような赤みを薄い雲に映していた。都心の光が雲に映っているのだろうかと思いながらコンビニエンスストアまで歩き、駐車場でひらけた空をもう一度見上げると、西の空まで薄く赤みを残している。真夜中の夕焼け、と喬は思いつく。
ベッドに腰掛けてビールを飲みながら喬は携帯電話を見る。誰からもメールはない。携帯を閉じて横になる。気楽に連絡を取れる友人は減っていくと喬は考える。それはあるときから急に始まったと思う。結婚、引っ越し、東京を離れるもの。そういった連絡が来るたびに、それぞれの生活から喬は切り離されていくように感じる。自分の居場所を知っている仲間はもうほんの数人だけだろう。みんなそれぞれの星座を夜空に形づくる。小さいものや大きいもの、複雑なもの、単純なもの。それぞれの星座が完結して薄い雲の向こうの夜空に瞬いているのを喬は感じる。その夜空の星座の中を流れていく星。目を閉じた喬は想像する。あれは僕の星じゃない。
馨の背中の白さを喬は横になったまま思い出す。まだ二人とも大学生のときのことだ。それから二人は学生以外の何かになるとは想像できていなかった。少なくとも喬にとっては。はじめて見た馨の背中は、ナイフで剥いたばかりの林檎のように白かった。自分で自分の背中を直に見ることはできない。それだけで喬は馨にささやかな優越感を抱いた。背中に指を滑らせようとすると、くすぐったいと笑って震える馨の髪が揺れていた。指を組んでひざを抱えた馨の手が見える。耳の複雑な形がむきだしになる。こちらを向いてほしいと喬は思う。でも馨はこちらを向いてくれない。声に出そうとするところで、喬は目を覚ます。

とても暑い。喬はTシャツを脱いでベンチに腰をかけた。植物公園のそばの広場にはベンチが置いてある。目の前に四角く緑に切り取られたように短い草の野原が続き、その周りを高い木々が取り囲んでいる。お盆の東京の空は澄み渡り、湧き上がる雲の白さと空の青さのコントラストが普段よりもずっと強く感じる。草の青い匂いが渦を巻いて喬を包み、裸の上半身に染みこむようだ。細く白い雲のラインを斜めに作りながら、旅客機の機体が白く輝くのが見える。
コンビニの袋からペットボトルを取り出すと、喬は腕に冷たい水をかけ、それから帽子にも水をかけてかぶりなおす。背中に帽子から滴る水を感じながら、喬は水を飲んだ。お盆休みはそれほど人出がないだろうと思ったが、これほど人がいないとは思わなかった。日焼けをしたいと思っていた喬には好都合だった。ぬかるみにできた水たまりにカラスが群れている。
濡らした帽子が乾いてから喬はリュックからカメラを取り出して、サンダルを脱いだ裸足の足先と、目の前の四角い草原の空き地と青い空と雲が同時に写るように工夫しながら写真を撮った。黒いカメラが日ざしを受けてあっという間に熱くなっていくのが、カメラを握る手のひらから感じられた。しばらくの間、構図を変えて撮ってみた後でカメラをしまい、もう一度水を飲んでからTシャツを着て喬は立ち上がった。
 百日紅が咲いているはずと思い喬は植物公園に来た。公園に入り、すぐ右に曲がって百日紅の林に向かい、手のひらを青空に向けて広げているような百日紅の枝と桃色の花をカメラで写す。薔薇の植えてある噴水を撮ろうとして、誰もいない庭園の中に思いがけず薔薇が満開であることに喬は気づいた。カメラを持ってきて正解だったと思う。見る人のいない中で咲く薔薇は触られなかったためか、ひとつひとつの花弁が汚れずにいて美しい。噴水のある池は水が抜かれていて、無人の庭園の中に咲く薔薇の間を歩きながら、喬は何枚も写真を撮っていた。
 馨は結婚するのだ、それがいつなのかはわからないが、そうなのだと友人から連絡を受け取っていた。それが喬をためらわせていたのだった。だがこの薔薇の強烈な色彩の中で喬は決めていた。馨をこの薔薇の中で写真に写して、もう一度彼女の声を聞きたい。返信はもう戻ってこないかもしれない。でも、もう一度馨に連絡をしよう。薔薇が咲いたと。そしてこの薔薇の中にいる二人の姿を想像しながら、喬は薔薇のほかに誰も写らないカメラのシャッターを切った。

北川 淳(東京都調布市/32歳/男性/会社員)

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