暮も押詰った十二月下旬、昼食後の眠気と戦いながら欠伸をかみ殺していた時、外線電話が鳴った。
「税務調査の件で連絡させて頂いております。年明けに事前打ち合わせをお願い出来ればと思います」大村総括主査と名のる女性は事務的に告げた。目が覚めた。経理部の仕事とは言え、税務調査はいつも気が滅入る。一旦始まれば、この招かれざる客のお相手が三~四か月は続く。お陰で年末年始休暇は重い気分で過ごす事になる。十月で会計帳簿を締め、十二月末までが決算処理、それに続いて法人税の申告を一月末までに行う。その直後に税務調査だから息をつく間もない。年明けの金曜日、担当の部員と伴に会議室で調査官一行を待ち受けた。挨拶を済ませ、五人の名刺を着席順にテーブルに並べる。西島正人はあらためて「総括主査 大村麗子」と書かれた名刺の文字を見た。麗子だ。今は眼鏡をかけているが面影がある。中原麗子とは大学のゼミで一緒だった。先程「はじめまして」と紋切り型に挨拶したが、そうではなかった。麗子の部下の調査官のひとりが翌月から始まる税務調査の事前準備に関して説明を始めたが、内容が全然耳に入ってこなかった。麗子は私と同い年だから結構な歳だ。彫りの深い目鼻立ちの整った色白な面立ちは昔と変わっていない。目尻のあたりに少し皺が増えたか。彼女が私に気が付いたかどうかは分からない。

大学を卒業したのはほとんど三十年前だ。多摩丘陵の一角を占める私達が通った大学は当時都心からその地に移転して間がなく、周りに遊ぶところもなく広くて新しいことだけが取り柄のキャンパスだった。麗子と初めて話したのは2年の暮れで3年次から始まる会計学を専門としたゼミの顔合わせ兼忘年会が居酒屋で行われた時だった。新入ゼミ生は十五人ほどだったが、宴席を決めるくじ引きで幸運にも彼女の隣の席になった。
「どうも、西島です。よろしく」
「中原です。こちらこそ」
「火曜の2限目の経済原論の授業、いつも最前列の席に座っていますね。僕も一緒の履修です。同じゼミになれて嬉しいです」そのうちひとりずつ自己紹介が順番に始まった。彼女はウヰスキーのテレビCMをパロって 「 "少し愛して、長く愛して"の大原麗子と一字違いの中原麗子です」、と微妙な空気を漂わせた。ちょっとはずしているが、数少ない女性のゼミ員なので許された。彼女の名を知らなくとも、その存在を経済学部内で知らない者は当時いなかった。彼女は美人女子大生を表紙にする週刊朝日にも載ったし、体育会乗馬部でもエースだった。インカレ上位入賞で学内のスポーツ新聞にも取り上げられていた。小柄ながら手足の長い体型と大きな瞳、高い鼻梁、そして長い黒髪、中近東系を思わせるエキゾチックな顔立ちはキャンパスですれ違う男性を振り向かせるには十分魅力的であった。もし当時、大学ミスコンがあれば上位入賞の本命間違いなしだ。ゼミ内でも、果敢にアタックをしている者もいて、斉藤健一もその一人だった。生意気にも車通学をしていて家が同じ方向だったので、時々彼女の自宅の最寄り駅まで送り、交際のきっかけをうかがっていた。彼の努力は報われることはなく、後の時代で言う所謂アッシー状態だった。彼女は少なくとも学内に特定の彼氏がいるという噂は聞かなかったし、学業に専念する模範的な学生であった。当時の典型的な学生であった自分や健一は、サークルや麻雀、ビリヤードに飲み会と勉強は二の次でモラトリアムを謳歌していた。私達は学生運動もすっかり下火になった頃に現れた、今では死語になった「新人類」と言われた世代だ。山中湖で行われた夏のゼミ合宿の時だった。最終日の打ち上げで将来について、みんなで話しをした。当時はバブル景気の前兆期で新卒の就職は売り手市場だった関係もあって、多くは大手企業への就職を希望していた。私は第一に給料が高いところであれば、仕事自身にやりがいとか、生きがいとかを求めるよりも、生きるための糧をそこで稼ぎ、その金で自分の時間を楽しみたいと言う考えだった。今思うと、世間知らずの小生意気な若造だった。麗子は公務員志望だった。親方日の丸の安定が主な理由ではなく、社会貢献が実感できる仕事がしたいと言った。派手な容姿の割に考え方は堅実そのものだった。秋になっても相変わらず自分は明確な将来へのビジョンもなく自堕落な学生生活を貪っていた。単調な生活が退屈だった。大学入学以来、塾の講師のアルバイトで貯めた金がある程度まとまった額になったので、3年終了時に一年間休学をしてアメリカへ語学留学に行くことにした。もう少しモラトリアムの湯船に浸かっていたかったからだ。今の学生だったら、さしずめ自分探しの旅に出るとでも言うのだろう。私は旅立に際して心残りがあった。麗子と一度デートしたかった。自分の中で何かモヤモヤした彼女に対する不完全燃焼の気持ちに区切りをつけたかった。憧れの延長線上にある好意が、恋心ではないと言えば嘘になる。同じ時間、空間を二人でほんの少し過ごしたかった。今で言う厨二病。遅れての罹患だが。大学が春休みに入った二月のとある日、思い切って麗子に電話をかけた。幸い本人がでた。彼女以外の誰かが出たらと思うと気が気ではなかった。スマホを家族一人一人が所有する今の時代では決して味わえない緊張感があった。
「一年間アメリカに語学留学することにした。来月早々に出発するけど、その前に二人で会えないかな?今月の最後の日曜の十一時、深大寺の山門で待っている。家、調布だったよね。散歩がてら来てよ」
「突然、何?留学?初耳ね。悪いけど最近、就職試験準備で忙しいの・・・ でも行けたら行くね」
当日、今にも泣き出しそうな曇天の中、深大寺山門で小一時間待った頃に麗子は現れた。
「 "少し待たせて、長く待たせて、中原麗子です"遅れてごめん」
「つまんねえ~ でも今日はありがとね」
「寒いから、先にお参りしようよ」
本堂にお参りした後、寺務所に立ち寄り、「今日、待たせたお詫びと無事を願って」と御守りを渡された。門前の老舗蕎麦屋で天そばと熱燗で昼食。神代植物公園まで足をのばし、紅梅、白梅が咲き匂う園内で春の兆しに触れ、思い出のひと時を過ごした。

二月から始まった税務調査も佳境に入った五月の中旬、西島正人は大村総括主査と調査会場の会議室で二人きりで向き合っていた。ゴールデンウイークを挟んだ二回の交渉の結果、追徴課税額を米国本社の設定した金額までに抑えることができた。ひと安心だ。税務調査の話がひと通り終わったところで大村総括主査ではなく、個人としての旧姓中原麗子に切り出した。
「大村総括主査、大学の同じゼミ仲間として、少しお話ししてよろしいでしょうか?」「そうですね。私もお話ししたいと思っていました。まず調査を第一に考えて同窓であることを明かさずに配慮して頂いた事を感謝します。再会は偶然とは言え、"びっくりぽん"です」
「朝ドラからの・・相変わらず微妙ですね。ところで私は語学留学を名目にした気ままな旅から帰って、ゼミのみんなとは一年遅れで卒業し、今の外資系企業に就職しました。中原さんに帰国後一度電話をしたのですが、つながりませんでした。中原さんは希望通り公務員となり、活躍されているのを知り嬉しかったです。こんな形でまた会えるとは何かの縁ですね。三十年前、深大寺で会って以来で懐かしかったです」
「私が卒業して入局した頃、父の転勤で私を除く家族は引っ越して、私は一人暮らしを始めました。最後に会ったのが深大寺ですか。私は記憶にありませんね。他の誰かと勘違いされていませんか?」
「会っていますよ。現に中原さんから深大寺でもらった御守りまだ返納せずに家にあります。そうだ!今度の日曜、一緒にお礼参りに行ってください」
「御守りですか、気になりますね。何か思い出すかも。日曜なら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。三十年前と同じく、深大寺の山門、十一時と言うことでお願いします」

「おはよう~待った?」麗子は深大寺の初夏を彩る新緑の木漏れ日の中から白いワンピースで現れた。口調も今日は昔のままだ。
「全然。待っていない」と私。調査期間中見慣れたスーツ姿と違って華やいで、眼鏡も外している。若き日の彼女の姿が瞳の裏に蘇る。年甲斐も無くときめく。
「よお。西島、元気だった?」
麗子の後ろから頭髪の薄い小太りのオッサンが馴れ馴れしく話しかけてきた。この声、聞き覚えがある。
「もしかして斉藤か?何でお前が今日ここに・・・」
「麗子は俺の嫁さんだ」
「えっ、でも苗字が・・・」
「俺は高校の時にお袋が再婚して、大村姓になった。付属高校から推薦で大学に進学した時、面倒なのでずっと旧姓の斉藤で通した。4年の時に麗子と同じく国税専門官試験に合格して、入局後付き合いが始まり結婚した」
「昔話はお参りの後で。お蕎麦屋さんでお昼をとりながらにしたら」と麗子。
持って来た御守りの感触が掌から薄れて消えていく。"少し待たせて、長く待たせて"三十年前の言葉が甦る。あの時待たされた後、本当に麗子に会ったのか不安を覚えた。常香炉から漂う煙が眼にしみる。

多摩 三郎(神奈川県川崎市/男性)

 午前8時48分、深大寺発調布駅北口行きのバスを、私は主人である一哉と待っている。

 初夏だというのに、まだ朝は肌寒い。冷たい空気に、私が派手なくしゃみをすると、一哉は愉快そうに笑った。

「なんだ、豪快だな」

 いつものように軽口を叩いて私をからかう。

そんなところは嫌いじゃないけれど、今朝は少し恥ずかしくて、一哉の柔らかそうな目じりのシワを軽く睨んだ。


 週に3回、目の不自由な一哉の通院のため、私たちはこのバスを利用している。もう3年になるだろうか。

 もともと私は、この地域で生まれ育ち、近くの公園を駆け回るような子供時代を過ごしていた、が、学校に入る頃には、ここを離れてしまったから、特別な思い入れはなかった。

 それでも今、この地域で一哉と暮らせることを幸せに思っている。

 一哉と出かければ、ご近所さんも、参道の商店の人も声をかけてくれ、何かと親切にしてくれる。静かな暮らしの中で暖かな人の優しさに、故郷というだけでなく、私はこの街を気に入っていた。


 そんな穏やかな日々に、この小さな秘密が現れたのはいつからだろう?

 自覚したのは、ほんの一瞬、顔なじみにくれただけの、あの人の笑顔を見てからだった。すれ違う時に、確かに私に向けられる笑顔。

 ただ、それだけ。


「そろそろ来るかな......」

 一哉の声で我に返った。

 誰も知らない秘密を乗せ、バスが近づいてくる。

 私は少し身構えた。一哉は見えなくても、私のことをしっかり観ている。

 もう、すでに気づかれているかもしれない。

 バスが止まると、あの人は今日も少し眠そうな顔で降車してきた。まだ歳は20代だろう。ツヤのある髪のサイドを思い切りよく刈り込んだ髪型は、精悍な作りの顔によく似合う。

 細身の白いシャツは少し着崩れて、頼りなく見えるところが、女心をくすぐる。

 普段の凪いだ生活の中で、彼の無自覚な若さは私には眩しいくらいだった。

 あの細く長い指に触れられたら、どんな感じだろう......。

 私は降車客を待つふうに、何気なく彼を見上げた。本当にさりげなさを装う、ここが毎回緊張する。

 やはり彼は、私を見つけると嬉しそうに会釈をしてくれた。鼓動は最高潮に高まる。

 この数秒だけの恋。

 彼は決して振り返ることなく、バスを降りるとそのまま、道に沿って歩いてゆく。

 私は淡く軽い秘密を抱え、素知らぬ顔でバスに乗り込んだ。


「ん? 今朝はずいぶんとご機嫌だな」

 一哉は何気なくつぶやく。

 目の不自由な彼は、目が見える私よりも世界が良く見え、良く知っている。感覚が研ぎ澄まされているからだろうか。

 季節も、天候も周囲の感情や状況も、見えるものより敏感に感じ取ることができる。

 それでいて、一哉はいつも世界に寛容だった。時に、見えない目で観る世界を面白がり、楽しむことのできる彼を私は尊敬し、心から愛していた。

 私のことだってすべてお見通しなのだから......。

 ただ、からかわれていることが分かっていても、私は見透かされたかもしれない恥ずかしさに、そして小さな罪悪感に、何も答えずそっと目を伏せた。


 病院の帰りにバスを降りると、私たちは少し散歩するのが日課だった。

 深大寺の山門をゆっくり上り、神様にご挨拶をしたら、帰り道に植物園へ寄る。ここで巡る季節の中、私たちはバラ園の香りに癒され、雑木林で落ち葉を踏む音を楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾けた。

 この季節なら、私は青葉の落とす濃い影を、一哉は青い香りのする風を楽しみながら歩く。

 いつもの分かれ道に出ると、一哉は迷わず左へ曲がる。右手から聞こえてくる、幼い歓声に私たちは背を向けるように植物園を後にする。

 これも私への気づかいだとわかっている。

「すまんな......」

 この時だけは、普段愉快な一哉も、少しさびしそうにつぶやく。

 私は一哉との、この静かな生活を愛しているのに。何も悪くはない彼に、返す言葉が見つからないまま、いつものように私は、聞こえないフリをした。


 その夏、一哉が体調を崩して寝込んでしまうと、私たちはあのバスに乗ることもなくなってしまった。

 最後のわがまま――私と離れたくない、そう言って、一哉は最期を自宅で迎えたいと希望した。

 一哉に残された時間は、そう多くはないという現実を受け入れることに、私は精いっぱいだった。時々、バスの彼を思いだしたりもしたけれど、小さな秘密は、小さなまま、やがてホコリをかぶり私の心の片隅に放って置かれた。

 生命あふれる、騒々しくも眩しい外界とは、異空間のような静かな夏を私たちは過ごした。熱い太陽の光に焦がされる窓の外で、うるさくセミが鳴いても、この家の中はひんやりと薄暗く静かだ。定期的に鳴る機械音と、一哉の細いうめき声が時折重なる他には、永遠に時が止まってしまったように思える。

 浅い息の下で、一哉は囁くように私に言った。

「また、植物園へ行きたかったな...。そうだ、今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう...」

 もうお互い、そんなことができる年でもないのに、またからかって......。

 こんな時でも、冗談を言う彼が愛おしい。

「ごめんな、もうあのバスには乗せてあげられないな...」

 そんな......。一哉はやはり気づいていたのだ。私の小さな秘密に。

 私は一哉に頬を寄せ、静かに泣いた。そうしていつまでも、彼のベッドに寄り添っていた......。


「たまには気分転換に外出しなきゃ」

 一哉が逝って、落ち込んでいる私を、お節介な友人は無理やり外へ連れ出した。正直まだそんな気分じゃない。仏頂面で車に乗り込んだが、窓から見覚えのある街並みが流れて、あの植物園へ向かっているとわかった。

 車を一歩降りると、なつかしい空気とともに、一哉との思い出が一気に流れ込んできた。一緒にいたころと同じ、暖かい日差しを浴びると、幸せな記憶が私を包み込む。

 枯れ葉を踏みしめる音を楽しみながら進むと、私たちはいつもの分かれ道に出た。

 友人は迷わず右へ向かって行く。

「向こうに広いドックランがあるの。可愛い子がたくさんいるかも」

 ゆっくりと友人について行くと、お祭りのように賑やかな広場に出た。

 いつも楽しそうな声はここから聞こえてきたのか。思っていたよりも大勢の人がここを利用していた。何故だか、体の奥から湧き上がる、弾むような感情が胸を叩く。

 公園で遊ぶ人の中に、見覚えのある細い背中を見つけた。

 バスの彼だった。懐かしい友人に再会したような喜びに、考える前に体は動いていた。

 人をかき分け、傍へ駆け寄る私の足が、止まった。

 彼は――若い女の子を連れている。

 出来るだけ驚かさないよう、私は彼の連れている女の子にゆっくり近づき、声をかけた。

「こんにちは、あなたのご主人、素敵な方ね」

「え? ...あ、はい。ありがとうございます...」

 突然、年配の女に声をかけられて、戸惑っている女の子の傍に、彼は首をかしげながら駆け寄ってきた。


「こんにちは。......あれ? 見覚えあるなぁ」

「すいません、急に」

 慌てて追いかけてきた友人が、彼に挨拶する。

「いや、見覚えあるなぁと思って」

「ああ、もしかしたら街ですれ違っているのかも。この子は盲導犬を引退したばかりなんです」

「......ああ、あの子だ!」

 彼は私を思い出すと、あの時と同じ笑顔で、あの細く長い指で私の頭や首を撫ではじめた。

 あれだけ夢想したのに......感触はまったく違うけれど、その暖かさは一哉を思い出させた。

「現役のころ、こんな場所で遊ばせるのは難しかったそうです。亡くなったご主人が一度連れて行ってあげたかったと仰っていて...」

 お節介な友人の声を置いて、私は新しい若い友人を追い、駆け出す。


『今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう』


 走る風に瞬間、一哉を感じて、私はもっと加速した。


うどうのりこ(広島県)

 子どもの頃、引っ越し先はいつもお寺の傍だった。
 裁判所に勤める父には定期的に転勤があったが、どの地域でも官舎からは決まって隣り合う広い墓地が見えた。なぜかは分からない。地代が安かったのかもしれない。
 だから今でもお寺と聞くと、真夏でも、お参りの人がいてもひんやりと沈黙していた墓石の連なりを思い出すし、ただいまと玄関を開ける前に官舎の外廊下から見えるその光景をどう受け止めれば良いのか迷っていた少女時代に立ち返るのだ。
「――紫陽花、もう枯れちゃってるんだね」
 境内へ続く生垣を目線で指して、堺君は愛想よく笑った。唇から覗いた歯が生えたてみたいに真っ白い。私はその視線を辿り色のない花弁の瑞々しい様子を見て、
「小学校の理科の問題みたい」
「なに?」
「習わなかったっけ?中性の土で育つと紫陽花に色がつかないっていうの」
 そうだったかなあと堺君が惚けたところで最後のバス停を過ぎ、私たちは目的地へ到着した。敷地の境界には青々と繁った木々が濃い影を落としていて、一瞬、強く目をつむった。打ち水のされた参道。土産物屋を覗く観光客。蕎麦屋の看板。
「楽しそうだね」
 拍子抜けした声の私に、堺君は「あ、この先にまだ店並んでてさ」と見当違いな弁解をした。そのくせちっとも臆していなくて、男の子らしい軽そうなスニーカーが打ち水を踏むたびシャリシャリと音を立てた。
「抹香の匂いがあんまりしないね」
「そう?」
「お墓も見当たらない」
「こっちはメインストリートだから」
 参道をメインストリートと評する彼の世界観には、いつもクスリとさせられる。そして言ったそばから、
「青いのは、水をたくさん吸ったんだと思ってた」
 真顔でそんなことを呟く。正面の山門脇の紫陽花は今が盛りだった。
 調布で一人暮らしを始めたと同期の女の子に話すと、隣のテーブルからいきなり挙手して会話に参戦してきたのが堺君だった。自分は就職するまで深大寺の近くに住んでいた。高井さん行ったことないの?じゃあ今度案内してあげるよ。焼鳥をぽんぽんと口に放り込みながら気安く笑っていたから、私もグラスを傾けつつ、じゃあお願いしますと笑って返した。行きたくないなと思ったわけではなかった。ただ、その前に立て続けに三度も食事に誘われるとは思わなかったけれども。
「こういうのは五円玉だって、昔からお袋が譲らなくてさ」
 本堂の前で、食事の誘いと同じ身軽さと強引さでもって彼は五円玉を差し出してきた。押し合いへし合いが何往復かするも、結局は私が折れることはもう二人とも了承済みだ。
「そういう迷信みたいなの普段バカにしてるくせに、子どもには躍起になって御利益与えようとするようなとこない?母親ってさ」
 石段を上りながら、堺君が会話をつないでくれる。私は、微笑みだけを返して神妙に正面を向き、本堂に一礼した。堺君も慌てて私に倣う。貰ったばかりの五円玉を投げてしまうと、私は目を閉じられないまま、本堂の暗がりをじっと見つめて両手を合わせていた。今目を閉じれば、瞼の裏には母がいるような気がした。
 私にはほとんど記憶のない母だ。いつ、なぜいなくなったのか未だにはっきりとは聞いていない。
 ただ父と、同じくらい寡黙な兄と共に嗅ぎ慣れた抹香の土地を離れ、また新たな墓地の並びを見下ろす官舎へと移り住むことを繰り返すうち、多分母はもうどこにもいないのだろうという観測がゆっくりと心に根付いていった。そのことに各々が触れないながらも確信していけるように、私たち家族はお寺を渡り歩いていくようだった。
 だからお寺へ出掛けようと言われて、実家の近くなんだとにこにこと誘われて、心のどこかでもう気が滅入っていた。そんなのは彼を遠ざけるための言い訳じゃないかと何度自分を馬鹿にしても、億劫になった心は簡単には向き直らなかった。
 そっと伺った横顔の、短い睫毛が埋もれるくらい目を瞑った様子が子どもみたいな堺君。その目がふと開いて、きょとんを私を捉える。
「小さい子みたいに真剣にお祈りしてたよ」
 一緒に出掛けるのも最後かもしれないと思うとずけずけと物が言えてしまうのは私の変な癖だ。それでも彼は大して気にした風もなく澄ました顔で、
「高井さんは子ども好きそう」
 私は、曖昧に笑って砂利を爪先で弾いた。
 子どもは確かに嫌いではないけれど、今の堺君が言った「子ども」とは恐らく自ら育てる家族としてのニュアンスが含まれている。そしてその意味で言うと、家族というイメージが私には雲のようにぼんやりと掴めない。
 やっぱりダメかなと、こっそり自分に溜息をついて考える。彼は悪くないのだけれど、こうして歩いているだけでも二人の間に齟齬が生まれている。その齟齬を埋めていくことが恋愛の楽しみじゃないのと女子力の権化のような友達は力説するけれど、どうも彼とは埋めていかなければならない項目が多すぎる気がした。真っ白な歯並びを横目に見ながら、その齟齬を彼にも気づいてもらいたいと思う。ずるい算段だ。
「私の家さ。父親の転勤が多かったんだけど、引っ越し先がいつもお寺の隣だったんだ――」
「ああー、だから高井さん頭いいんだ!」
 私の語尾を食い気味で、そのくせやけに納得した感嘆符を堺君は発した。私は心底不思議で、
「私、頭いいような言動を堺君の前でしてましたっけ?」
「してますよ。ていうか、その発言の感じがもう頭いいっぽい」
「胡散臭いな」
「でも普段からそう感じるもん。たまに研修とか会議とか一緒になった時もさ、隙あらばスマートに助け船を出すべく身構えてても、高井さんはそんな隙見せない」
 真顔で返すから、ちょっと笑いそうになる。
「でも、それがうちの引っ越しとどう関係するの?」
「ホラ、あれ。お線香の煙浴びると頭が良くなるって言わない?」
 今行き過ぎた常香炉を振り返って、彼は両手で頭に煙を浴びるジェスチャーをした。そんな迷信は知らない。首を傾げると、「ええー、堺家は寺に来るたびにみんなでこれやってたのにな。マイナー迷信だとしたらすげえ恥ずかしいじゃん」と嘆いた。頭が良くなるよと抹香を全身に浴びて、五円玉を握りしめて参拝に臨む堺家の図は、今、口では嘆きながらもきっと笑い話にしかしないだろう彼の姿を見ていれば容易に想像がつく。私には遠く眩しくて、近寄り過ぎる前にいつも逃げ出してしまう他人の履歴だ。それを、この人は私が逃げ出そうとする素振りを見せる前にぽんぽん差し出してくる。
 茅葺の正門を潜ると、最初に彼が話していた土産物屋が両脇に並んでいる。打ち水が蒸発して、石段を下るほど足元から熱が来る。
「そういえばさっき、小さい頃お寺の隣に引っ越しがどうって言ってたよね。話の腰折っちゃったけど、なんだっけ」
「そう。どこへ越してもお墓とお線香の匂いがついてきて、縁起が悪いなって思ってたの」
「ふうん」
「でも、堺家方式で考えると全然縁起が悪くないから、どうでも良くなっちゃった」
「ハハハ、そりゃ良かった」
 くっきりとした喉ぼとけを見せて、彼は快活に笑った。なんだか、身体のパーツまで大らかな人だと思った。隣にいると、こちらの思考まで大まかになっていくみたいだ。
 店先の小物を物色しようとしたら、急に目を覗き込まれて、明朗に尋ねられた。
「今日だけじゃなくて、また一緒にどこか出掛けてくれる?」
 そして私は、漸く知るのだった。彼は、逃げ出そうとしていた私にとっくに気づいていたこと。敏感に気づいていたのに、そんな私から逃げずにこうして問いかけてくれたこと。
 私の心がぐずぐずと引っかかり続けいていること。人を投げ出してしまいたくなる癖。私の履歴。それらはただの言い訳で、本当は私自身の怠惰に過ぎないかもしれないこと。彼はまだ知らずに尋ねているだろう。それでも、私は「そうだね」と答えて、はっきりと頷いた。堺君はそれ以上言い募らず、視線を他所へ投げた。
「アルカリ性だ」
 くっきりと青い紫陽花の花を指して、教えてあげる。堺君の目が、また少年みたいにくるりと驚く。
「青は、アルカリ性の色だよ」
 ホラ、やっぱり頭いいじゃん。よく水を吸った植物のような伸びやかさで、彼が笑った。

薫(東京都/28歳/女性)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

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