五時を過ぎた境内は、人影もまばらだった。
茶屋も閉店しているのだから無理もないか、と佳苗は思った。日勤の終わりと同時にあたふたと飛び出し、境内にも入れないのではとドキドキしながら車を走らせてきたから、がらんとした空間に辿り着いたときはほっとすると同時に少し拍子抜けした。
 訪れる人が少ないお寺はどこか寂しい。桜の開花が2割程度なのもあるかな。でも十日後には満開どころか、もう葉桜かもしれないと佳苗は思った。その日は職員総出でグループホームの入所者をこの深大寺に花見に連れて来る。今日はその下見に来たのだ。
 本当は満開に合わせたいが、入所者の年齢を考慮すると遅くの方が寒さのリスクは避けられる。仕方ないかな。日没近い曇天の下、腕をさすりながら佳苗は境内を歩いていた。
 前方に高齢の二人連れが、肩を並べて歩いていた。ご夫婦だろう。
 思わず立ち止まり、佳苗は二人を目で追っていた。
 そろりそろりと歩を合わせる一対。ふと立ち止まり、杖のご主人の肩に奥様が自分のストールを掛けた。また、そろりそろり、一対の影となり歩みだし、ゆっくりゆっくり、山門へと向かっていった。
 ―共白髪。
 唐突にそんな言葉が浮かんだ。
 同時に、直弥の顔も。
 瞬間、涙が溢れそうになり、佳苗は慌てて踵を返した。

 駐車場に停めた車内でそっとスマホを開ける。フォトアプリを起動すると、直弥の笑顔が飛び出してきた。この前まで待ち受けにしていた写真。
 この笑顔を見るとしんどい時でも勇気とやる気が湧いてきたのに、今は涙しか出ない。
 車外に目をやる。沿道にも桜。
 ―此処、前に直弥と来たことあったなあ。サークルのイベントだったかな。確かまだ付き合う前だ。
 あの時は楽しかったなあ。おそば食べて、お団子食べて。無邪気におみくじ見せ合って。暫くして付き合い始めたんだっけ。
 大学を出てそれぞれ就職しても、二人の関係は終わることなく続いた。
 ずっと一緒だと思っていた。自分は直弥とずっと一緒に生きていくのだと、心のどこかで思っていた。
ずっと。共白髪となるまで。
 ―私は、何を間違えてしまったのかしら。
 互いに仕事が忙しくなっていた。社会人になって3年、正念場ではあった。予定が合わず時だけが過ぎてくことも多くなった。約束のドタキャンも何回かあった。
 やっと逢えても、近況=仕事の話ばかりに終始してしまう事もあった。
 何処でボタンを掛け違えてしまったのだろう、ギスギスした空気が二人の間に流れるようになった。一体感を感じなくなった。
 『私達このまま、ダメになっちゃうの?』メッセージアプリからそんな言葉を投げたときは、吐く息がまだ白かった。
 返事の来ないままどれだけ経ったろう。
 これっきり、なのかな。
 画面を消した。両の目から、大粒の涙がポロッと零れた。

 花見当日は数日来の花冷えも解消し、雨の心配も無かった。認知症の高齢者を連れての遠出だ、不安材料は少ない方が良い。思いのほか桜がもったのは嬉しい誤算だった。やっぱりみんな花見は喜ぶ。どことなく顔がほころび、ニコニコしている。
 下見のときとは打って変わって、参道は午前中から人で溢れ活気づいていた。普段静かな環境で暮らしている入所者さんが驚かないかと心配したが、皆が久々の遠出を楽しんでる様子に佳苗はほっとした。
 佳苗は茶屋通りでフミさんの車椅子を押していた。フミさんは足腰も、時折面会に来る娘さんの記憶もおぼつかなくなってきてるが、感情を荒立たせる事も少ない穏やかな人だ。衰えからか近頃は発語も少ないが、たまに見せる笑顔が可愛い。
 「フミさん、寒くないですか。人が多くてびっくりしてないですか。」
 佳苗は人にぶつからないよう気を配りながらゆっくり車椅子を押す。石畳に車椅子が揺れる。
 境内の方が静かで良いかな、と店の軒を抜け、車椅子を押しスロープを上がった。境内は砂利が引いてあるが車輪を取られることは無さそうだ。桜の樹が傍にあるのか、花びらがたえずひらひら舞っている。
 「本堂に行って、お参りしましょうか。」
フミさんに声をかけた。どこか遠くを見ているようなフミさんの表情。楽しめてるかな。少し心配になった。
 ゆっくり車椅子を進めていると、突然大きな鐘の音が響いた。
 ゴーン・・・。
 佳苗は驚いて左を見た。鐘楼だ。
こんな時間に鐘を突くとは知らなかった。
 ゴーン・・・。ゴーン・・・。
 お腹の底に沁み入るような大きな音。鐘突きを間近に見たことなど殆ど無いなあと佳苗は思った。車椅子も鐘楼の方に向け、暫く鐘の音に聞き入っていた。すると、
 「たもつさん・・・」
 小さな、しかしはっきりとした声がすぐそばから聞こえてきた。
「たもつさん・・・たもつさん・・・」
 佳苗は驚いてフミさんを覗きこんだ。涙声だ。
 『たもつさん』て?娘さんが「たまには思い出してくれるように」と居室の壁に貼った、亡きご主人の写真に添えられた名前では無い。お孫さんの名とも違う。
 フミさんはますます涙声になった。
「帰ってくるって言ったのに。必ず生きて帰ってくるって言ったのに。二年参りして約束したのに。帰ったら祝言上げようって約束したのに。」
 ぎくりとした。
「おどさんにも許し請うて、絶対一緒になろうって言っだのに。待っでたのに」
 聞いたことも無いフミさんの訛り。はっとした。これ、きっと、フミさんの昔の話だ。おそらくご主人と一緒になる前の。齢九十を超えたフミさんが娘時代に戻っている。鐘の音が呼びさましたのか。
 生きて帰ってこなかった『たもつさん』とは。佳苗は思いを馳せた。戦地にでも赴いたのだろうか。
「たもつさん...逢いたい...逢いたい...」
 何度も繰り返しながら、フミさんは俯きはらはらと涙を流す。風が吹き、花びらがはらはらとフミさんの肩に舞い落ちてくる。

 車中でも暫くフミさんは泣いていたが、疲れたのだろう、ホームに着くころには眠ってしまった。
 夕刻、退勤前、佳苗は恐る恐る部屋を訪れた。目は覚めたかな。まだ感情は揺れ動いたままだろうか。
 フミさんは静かに目を開け天井を見ていた。いつもの穏やかな顔だ。
 「桜、綺麗だったね。」
感極まって泣いたことなど覚えていない様子で佳苗に話しかける。佳苗は面食らい、同時に安堵もした。
 『たもつさん』とはどんな恋をしていたのだろう。聞いてみたくもあるが、また心が乱れても、と佳苗が思いあぐねていると、フミさんから思いもかけない言葉が飛び出した。
 「橘さん、好きな人いるの?」
 思わず答えに詰まった。居ますと言っていいのか、居ましたと言うべきか。
 フミさんは構わず続ける。
「大事な人がいるなら、手を離しちゃ駄目よ。この人、と思った相手からは、決して離れちゃ駄目よ。」
佳苗の反応を気にすることなくフミさんは一方的に続ける。
「大事な人の手は、離しちゃいけないのよ。」
 何度も繰り返す、同じ言葉を。認知症ゆえの言動だろうが、佳苗には、様々な記憶が消えつつあるフミさんからの、強烈なメッセージであるよう受け取れた。鐘楼の前での出来事など忘れたような顔で、それでもフミさんは昔の恋を、心の底で重く引き摺っている。叶わなかった思いは、胸の奥で今でも燻り続けている。
 ―あなたは、そうなっちゃ駄目よ―
 そんな声が聞こえた気がした。

 運転席に座ったまま佳苗は暫く微動だにしなかった。やがて、そっとスマホを開いた。アプリを起動し、あれ以来触れてない直弥の名前をタッチする。トーク画面が開いた。
『今日入所者さんたちを花見に連れてったの。深大寺、まだ桜残っていたよ。
全て散ってしまう前に、もう一度直弥と見に行きたい。』
ひと息に書いた。そして、一寸考え、
『すぐには難しいようなら、葉桜、見に行くのでもいいよ。』
そう付け足し、大きく深呼吸して、送信を押した。
 そのままスマホを額に付け、ハンドルに体を預けたまま、祈るように目を瞑った。
 どのくらい時が経ったか。バイブが振動し、びくっと跳ね起きた。画面を点ける。
メッセージが表示された。『直弥さんがスタンプを送信しました』
 佳苗は急いでスワイプし、画面を確かめた。

 満開の桜の画が飛びこんできた。

櫻 千鶴乃(東京都八王子市/52歳/女性/会社員)
 今年は桜を見ていない。深大寺門から続く雑木林の新緑を見て、私は気がついた。神代植物公園に来るのはいつぶりだろう。桜が今年の務めを終えた平日の公園は、ひっそりとしていた。
「わかちゃん、ゆっくりしてたのに悪いね」
すっかり小さくなった祖母が、車椅子から私を見上げる。祖父の三回忌を終えた昨日、祖母は急にここに来たいと言い出した。働いている両親に、私は付き添いを頼まれたのだ。
 二ヶ月前、私は五年間勤めた会社を辞めた。社内不倫の末路だった。ハローワークで失業給付金の申請手続きを終えた頃、東京に開花宣言が出たが、私は上を見なかった。

 シンとした林を抜けると、目の前に広々とした芝生が広がる。夫と子どもとお弁当。がんばれば、必ず手に入ると信じていた。彼の妻に子どもができるまでは。
「光一や茜が小さい頃、ちょうどここができて、よく二人を連れてきたんだよ」
祖母の声に我に返る。光一と茜は祖母の子どもで、茜が私の母だ。貿易の仕事で東南アジアを飛び回っていた祖父は、家にほとんどいなかったと母から聞いている。
「二人の子どもを抱えて、なんで一人でこんな大変な思いをしないといけないんだろうって、何度も泣いたのよ」
若き日の祖母の姿が、見たこともない彼の妻と重なる。真っ白になった後頭部を睨みながら、祖母に言われるまま、左に進む。
「ああ、よかった。ちょうど満開ね」
祖母の声に顔をあげると、緑の葉を広げた低木に、球体型に連なった花が咲き誇っていた。
「これ、しゃくなげっていうのよ」
ピンクや白の花々は、一つひとつがまるでラウンド型のブーケのように華やかで豪華だ。
「このお庭を見に来たんだよ。ちょうど見頃だねえ。ありがとうね」
祖母は愛おしそうに花を見上げる。
「ここはおばあちゃんの秘密の場所」
祖母はうふふと笑って、思い出話を始めた。

 母が一歳になった頃、祖父はインドネシアへ単身赴任することになった。一人で子育てをすることになった祖母は、辛くなるとここに来ていた。だが、できたばかりの公園には、温かな家族の姿が溢れていた。父親と遊ぶ子どもたち、それを見てほほえむ母親。見ていると、我慢していた涙が溢れた。
「迷われましたか?」
木立に隠れるように泣いていた祖母に声を掛けてきたのが、庭師の朝井だった。
 二つ年下の朝井は、幼い父や母と追い駆けっこをし、祖母にこっそり花を持たせたりした。祖母は朝井に会うのが楽しみになっている自分に戸惑いながらも、公園に行くのを待ちわびるようになる。
「いつかカナダに行って、この花の勉強をしたいんです」
何度も見返しているのか、擦り切れたしゃくなげの写真を恥ずかしそうに見せた朝井を、祖母は愛しいと思った。
 だが、ほどなくして、祖父の帰国が決まる。それを告げた日から、朝井は姿を見せなくなった。公園の職員に聞くと、朝井は勉強のためにカナダに旅立っていた。
 
 祖母の話はそれだけだった。
「それって、恋でもなんでもないじゃない。なにもなかったんでしょ」
拍子抜けして言うと、祖母はまた、うふふと笑う。
「それでも、恋は恋だったの。あの時、おばあちゃん、すべてを捨ててこの人と一緒になりたいって思ってたんだから」
陽だまりのような祖母らしからぬ、過激な言葉に驚いて、思わず祖母の顔を見る。
「女が長年生きていれば、色々あるものよ。いつの時代も一緒。わかちゃんだけじゃない」
耳を疑った。
「......なに?」
「見てれば分かるのよ。道ならぬ恋ははじめは女を輝かせるけど、時とともに醜くする」
諭すような言い方に、頭にカッと血が上る。
「おばあちゃんになにが分かるのよ! そんな夢みたいな話と一緒にしないでよ!」
祖母を置いて、その場を離れた。とにかくどこかで泣きたかった。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、消えてしまいたかった。
 どれほど歩いたか、売店横のトイレで鏡を見ると、涙で濡れた醜い女の顔が映る。祖母の言葉が蘇る。知られたくなかった。でも、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分がどんどん嫉妬で狂っていくのは分かっていた。でも、それを人から言われるほどきついことはない。目元をハンカチで拭うと、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。急に不安が胸よぎった。慌てて、あの庭へと急ぐ。

 しゃくなげの庭に、人影はなかった。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
木々の間を行ったり来たりし、芝生や雑木林に向かって叫ぶ。心臓がバクバクし、血の気が引いていくのが分かる。
「わかさん、ですか?」
振り返ると、青いキャップをかぶった職員らしき男がいた。
「おばあさん、ご気分が優れない様子でしたので、医務室にお連れしています」
「大丈夫なんですか!?」
男は日焼けした顔で、やさしく笑った。
「はい、脈も安定していますし、ちょっと休めば大丈夫とのことです。孫がこの庭に戻ってくるからと言われて、今来たところでした」小池と名乗った男によると、祖母は車椅子から立ち上がろうとして転んだとのことだった。

 医務室のベッドで、祖母は横になっていた。
「びっくりさせてごめんね」
私の真っ赤な目には触れず、祖母は申し訳なさそうに言う。
「帰る前にもう一度だけ、しゃくなげ、見に行ってもいいかい?」
私は祖母のしわしわの手を握って、うんうんと二回うなずいた。

 夕暮れのしゃくなげの庭を、祖母と小池と眺める。小池は花の説明をしたいと言ってついてきたのだ。赤、ピンク、白、紫......。いくつかの品種の説明をした後、小池は淡いピンクの花の前で足を止める。
「これはうちにいた初代の庭師が開発した品種なんです。しゃくなげが好きでカナダまで勉強しに行った人で、好きだった人の名前をつけたそうです。奥様のお名前ではないので内緒なんですけど、"ちよ"っていうんです」
小池がいたずらっ子のように笑う。私がそっと祖母の肩に手を置くと、祖母は手を重ねた。
「......その、庭師の方、今は?」
祖母が尋ねると、小池は残念そうな顔をした。
「昨年お亡くなりになりました。退職されてからも、よくお孫さんたちを連れて見に来てくれてたんですけどね」
祖母の肩から、ふっと力が抜けた気がした。
「そうですか、お幸せだったんですね。ご説明、とても楽しかったです。ありがとう」
うるんだ目を、祖母は指でそっと拭った。

 公園を出たのは閉園時間間際だった。駅へ向かうバスを待ちながら、祖母に声を掛ける。
「大丈夫?」
「......なにが?」
「だって、あの花......」
「やわらかで愛らしい色だったわね」
「......うん。おばあちゃんにぴったりで」
うふふふ、と祖母は楽しそうに笑う。
「"しの"だと思った? 言ったでしょ。これでもおばあちゃん、あの頃はすごく色気があったんだから」
小さな背中と「色気」という言葉のギャップに、思わず笑う。
「じゃあ、真っ赤とか?」
「そうね、紫とかもいいわね。あー、でもよかった。すっきりしたよ」
「......悔しくないの?」
「......そうだね。なーんだって気が抜けたのはあるけど、どんなに辛くても、前を向いていれば必ず幸せになれる。そう信じてがんばってきたのは正解だったって、答え合わせができたんだから、こんなにいいことはないよ」
祖母は私の手をギュッと握る。カサカサだけど、そのぬくもりがジンと乾いた心に染みた。
「わかちゃんも、大丈夫。大丈夫」
涙がポツリ、ポツリと手に落ちる。その手に祖母がなにかを握らせた。
「独身だって」
「え?」
手の中の紙切れを見ると、携帯番号が書かれている。
「小池さん、わりとイケメンでしょ。二十六歳で独身だっていうから」
「ちょっとおばあちゃん! なにしてんの」
一体、いつの間にそんなことをしていたのか。祖母のおだやかな笑顔の裏には、「女」が潜んでいるのか......。
「ほら、バスが来たよ」
角を曲がり、桜並木の下をバスがやってくる。
「ねえ、おばあちゃんはおじいちゃんといて、幸せだったの?」
祖母の白い頭が、空を見上げるようにわずかに上を向く。
「もちろん、幸せだったわよ。あの頃は辛くて,苦しかったけど、今は心からおじいちゃんといて幸せだったと思ってる。そう思えるのも、きっとあの失恋があったからね。だからこそ、幸せになってやるって思ってきたから」
バスに乗り込み、窓から木々を見上げる。力強い新緑が、桜の木を覆っていた。

斉藤 柚子(東京都調布市/女性)
 今日、彼は私の部屋でこれまでと同じ様子で、一時間にも満たない短い時間を過ごした。この数か月間がまるで嘘のように、とても静かで穏やかな時間だった。彼は私の言葉に優しく微笑み、時に相槌をうち、いくつかの他愛もない話題を口にした。
 本当に、この時間がこれからもずっと続くかのようだった。
 今までと違うことといえば、珈琲に一切ミルクを入れなかったことと、玄関を出る時に、「またね」と言うかわりのキスをしなかったことだ。
 ドアが閉まる寸前、「最後くらい送らせてよ」と言った私に、「そうだね」と彼はやっぱり穏やかな笑顔を私に向けて言った。

 一年で一番昼間が長いこの時期、空はまだかすかな昼の青を残していた。最寄りである『調布市総合体育館前』のバス停に向かう間、私たちは無言だった。何を話せばいいのか、話すべきなのか。もう二人の共通の言葉を失ってしまっていた。
 バス停の前で私たちは並んで、静かにバスを待つ。何度か彼は小さく咳払いをした。「風邪?」と聞くと、彼はうつむき、「ちょっと埃っぽいね」とまるで照れたように小さな声で言った。

 『つつじヶ丘駅』行きのバスは間もなくやってきた。バスは当たり前に私たちの目の前に停車しドアが開いた。彼は短く、「じゃあ」と言って乗り込んでいった。私は小さくうなずいただけだった。
 他に乗客がいないガラガラのバスの一番後ろに座った彼は、もう私のほうを見ることもなく、ただただまっすぐに正面を見据えていた。ドアが閉まる。バスが走り出す。私は彼の後姿を見送った。

言い争う毎日の中で、それでも前向きにと二人で決めた結論だった。お互い納得した別れだった。もう、あんな風にお互い傷つけあうのは嫌だった。積み重なる小さな嘘、心に赤い筋をひくナイフような鋭い言葉、憎しみに満ちた瞳...それまで見たことのないお互いを見せ合い、これ以上相手に絶望するのは嫌だった。
 今ならまだ、きれいな思い出を残して離れられる、そう思った。だから別れることを選択した。まだ少しでも好きだという感情が残っているうちに。思い出までもが穢れてしまわないうちに。
 
バスが遠ざかるにつれ、暮れかけた淡い闇の中に光がにじみテールランプがぼやけていく。二人で過ごした時間も同じように、いつか私の中でぼやけて、あいまいになって、そしてその形すら思い出せないくらいになっていくのだろう。
 嫌だ。
 突然胸の中に強い思いが沸き上がってきた。そんなの、嫌だ。
 彼との思い出が消えてしまうなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
 胸の奥で、ざわざわと何がが生き物のようにうごめき出す。鼓動が早くなり、後頭部が焼けるようにじりじりとしてくる。
 追いかけなくちゃ。
 このまま彼を行かせてはいけない。これで終わりにしちゃいけない。だって...だって、まだ彼をなくしたくない。
 別れ話をしているこの数か月、心の奥底に意図的に沈めていた感情がぼこっ、と浮かんであらわになる。
 追いかけなくちゃ。でも、どうやって?
 バスはもうほとんど見えなくなっている。気持ちばかりがあせって、キョロキョロあたりを見回す。深大寺へ続く道のフェンスにかかった"深大寺まで五百メートル"と書かれた看板が目に入った。
 突然思い出した。『つつじヶ丘駅』行きのバスは、『深大寺植物公園』を回り、『深大寺』を経由してから『つつじヶ丘駅』に向かう。しかも『深大寺』で時間調整のため、数分止まることもあったはず。この森を抜けて『深大寺』のバス停まで走れば、追いつくことができるかもしれない。
 深大寺へと向かう道を見通す。暮れていく空を揺らすように、深大寺の森があやしくザワザワと音をたてていた。
 途中のバス停で人がたくさん乗ってくれたら、途中の信号にバスが捕まったら、そうやって深大寺到着までに時間がかかれば...
 深大寺に祀られているのは縁結びの神様だと聞いたことがある。私達が別れるのは、神様がのぞんだことなのだろうか。私は深大寺に向かって駆け出した。神様と、勝負だ。
 人気のまったくない薄暗い道に、私のヒールの音だけが響く。よりによってヒール靴...彼が最後に見る私の姿が、スニーカーやカジュアルなサンダルなんて嫌だったのだ。ほんの少しでもきれいだったと、かわいかったと思ってもらいたかったのだ。
 深大寺の森が、私を嘲っているかのようにざざーっ、ざざーっと大きく揺れる。間に合うわけがないだろう、往生際が悪い奴だ、一度手を放したくせに...
 ヒールの靴は着地するごとにグラグラと揺れる。走りにくいことこのうえない。いつ足をくじいてしまうかわからない。
 私は立ち止まり、そしてヒールを脱いで、バトンのように持って再び走り出した。足の裏を怪我するかもしれない。でもそんなことを恐れていたら、神様との勝負になんて絶対勝てっこない。
 少し走っただけなのに息が苦しい。のどの奥がヒリヒリと痛くなり、脚がどんどん重くなる。森の木々がさらに嗤う。あきらめなよ、間に合うわけがないじゃないか...
 長い坂道を転びそうになりながも駆け下りて、門前に出た。昼間なら蕎麦屋などに並ぶ人々でにぎわっているが、店はひとつも開いておらず、参拝客も見当たらない。昼間の喧騒が嘘のように通りは静まり、眠りにつこうとしていた。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえる。あと少し、あと少し。お願い間に合って...
 角を曲がった時、止まっているバスがついに見えた。間に合う、そう思ったが、重くなった脚は思うように前に出ない。
 もうそこまでというところで、バスのドアが閉まった。止まって!そう叫びたかったが、声はでなかった。
 バスが動き出す。一番後ろの席に座った彼の、彫像のように動かない横顔が見える。行かないで、お願い、行かないで...
 声にはならなかった。ありったけの思いを込めて心の中で叫ぶ。神様、お願い、バスを止めて。
 通り過ぎるバスの中で、突然、彼がこちらを見た。私に気づいて表情が変わった。一瞬の間。そして、運転手さんに向かって何か叫んだ。
 バスが止まる。ドアが開いて、彼が駆け下りてきた。もう動けずに立ち尽くす私のもとに驚いた顔で駆けてくる。その後で、バスはゆっくり遠ざかっていった。
 言わなきゃ、そう思ったが、息が上がって話せない。ぜいぜいと粗い息をしている私を、彼は何も言わずに黙って見ていた。
 どれだけの時間がたっただろう、彼が空を見上げて大きく息を一つ吐いた。そして細かく瞬きをしながら言った。
「足、大丈夫?」
 予想していなかった言葉をかけられて、すぐには理解ができなかった。何も返せないでいると、
「怪我したんじゃないの?足の裏」
 再び言われて、私は足の裏を見てみた。いつの間にか何かを踏みつけたのだろう、ところどころ血が出ていた。それを見て初めて、足の裏が痛むことに気がついた。
 彼が苦笑いをする。
「なんで無茶するんだよ。せっかくのきれいな足が傷だらけじゃないか」
 だって、あなたをなくしたくなかった、そう言いたかった。呼吸はさっきより苦しくなかったけれど、それでもやっぱり言葉は出なかった。
「ほら」
 彼が背中を向けた。何のことかわからずにぼんやりしていると、彼がこちらを見ずに続けた。
「おぶされよ。そんな足じゃ家まで歩けないだろ」
 彼の言葉をどう解釈していいのかわからずにいると、早く、と彼が促す。私は彼の背中に身体をあずけた。
 首筋から嗅ぎなれた彼の匂いがする。彼の体温を感じて、途端に涙がボロボロとあふれてきた。
「とりあえず足の怪我、手当しないと」
 彼は歩き出す、さっき後にした私の家に向かって。
 彼はそれから何も話さなかった。私も彼の背中で何も言わずに彼を身体で感じていた。
 さっきあんなに怖く感じた深大寺の森のざわめく声が、今はなぜか優しく聞こえる。
「...鼻水、背中についちゃうよ」
 やっと絞り出した私の言葉に、彼はぶっきらぼうに答える。
「鼻水ぐらい、いくらでもつけろよ」
 さっきよりも大股で、彼は歩き続ける。さらにあふれてくる涙を隠すように、私は彼の背中に顔をうずめた。
 足の手当てが終わったら、とりあえず、もう一度珈琲を入れよう。今度は彼の好みで、ミルクをたっぷり入れて。
 話は、それからにしよう。

小山みどり(東京都世田谷区/44歳/女性/会社員)
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