五時を過ぎた境内は、人影もまばらだった。
茶屋も閉店しているのだから無理もないか、と佳苗は思った。日勤の終わりと同時にあたふたと飛び出し、境内にも入れないのではとドキドキしながら車を走らせてきたから、がらんとした空間に辿り着いたときはほっとすると同時に少し拍子抜けした。
 訪れる人が少ないお寺はどこか寂しい。桜の開花が2割程度なのもあるかな。でも十日後には満開どころか、もう葉桜かもしれないと佳苗は思った。その日は職員総出でグループホームの入所者をこの深大寺に花見に連れて来る。今日はその下見に来たのだ。
 本当は満開に合わせたいが、入所者の年齢を考慮すると遅くの方が寒さのリスクは避けられる。仕方ないかな。日没近い曇天の下、腕をさすりながら佳苗は境内を歩いていた。
 前方に高齢の二人連れが、肩を並べて歩いていた。ご夫婦だろう。
 思わず立ち止まり、佳苗は二人を目で追っていた。
 そろりそろりと歩を合わせる一対。ふと立ち止まり、杖のご主人の肩に奥様が自分のストールを掛けた。また、そろりそろり、一対の影となり歩みだし、ゆっくりゆっくり、山門へと向かっていった。
 ―共白髪。
 唐突にそんな言葉が浮かんだ。
 同時に、直弥の顔も。
 瞬間、涙が溢れそうになり、佳苗は慌てて踵を返した。

 駐車場に停めた車内でそっとスマホを開ける。フォトアプリを起動すると、直弥の笑顔が飛び出してきた。この前まで待ち受けにしていた写真。
 この笑顔を見るとしんどい時でも勇気とやる気が湧いてきたのに、今は涙しか出ない。
 車外に目をやる。沿道にも桜。
 ―此処、前に直弥と来たことあったなあ。サークルのイベントだったかな。確かまだ付き合う前だ。
 あの時は楽しかったなあ。おそば食べて、お団子食べて。無邪気におみくじ見せ合って。暫くして付き合い始めたんだっけ。
 大学を出てそれぞれ就職しても、二人の関係は終わることなく続いた。
 ずっと一緒だと思っていた。自分は直弥とずっと一緒に生きていくのだと、心のどこかで思っていた。
ずっと。共白髪となるまで。
 ―私は、何を間違えてしまったのかしら。
 互いに仕事が忙しくなっていた。社会人になって3年、正念場ではあった。予定が合わず時だけが過ぎてくことも多くなった。約束のドタキャンも何回かあった。
 やっと逢えても、近況=仕事の話ばかりに終始してしまう事もあった。
 何処でボタンを掛け違えてしまったのだろう、ギスギスした空気が二人の間に流れるようになった。一体感を感じなくなった。
 『私達このまま、ダメになっちゃうの?』メッセージアプリからそんな言葉を投げたときは、吐く息がまだ白かった。
 返事の来ないままどれだけ経ったろう。
 これっきり、なのかな。
 画面を消した。両の目から、大粒の涙がポロッと零れた。

 花見当日は数日来の花冷えも解消し、雨の心配も無かった。認知症の高齢者を連れての遠出だ、不安材料は少ない方が良い。思いのほか桜がもったのは嬉しい誤算だった。やっぱりみんな花見は喜ぶ。どことなく顔がほころび、ニコニコしている。
 下見のときとは打って変わって、参道は午前中から人で溢れ活気づいていた。普段静かな環境で暮らしている入所者さんが驚かないかと心配したが、皆が久々の遠出を楽しんでる様子に佳苗はほっとした。
 佳苗は茶屋通りでフミさんの車椅子を押していた。フミさんは足腰も、時折面会に来る娘さんの記憶もおぼつかなくなってきてるが、感情を荒立たせる事も少ない穏やかな人だ。衰えからか近頃は発語も少ないが、たまに見せる笑顔が可愛い。
 「フミさん、寒くないですか。人が多くてびっくりしてないですか。」
 佳苗は人にぶつからないよう気を配りながらゆっくり車椅子を押す。石畳に車椅子が揺れる。
 境内の方が静かで良いかな、と店の軒を抜け、車椅子を押しスロープを上がった。境内は砂利が引いてあるが車輪を取られることは無さそうだ。桜の樹が傍にあるのか、花びらがたえずひらひら舞っている。
 「本堂に行って、お参りしましょうか。」
フミさんに声をかけた。どこか遠くを見ているようなフミさんの表情。楽しめてるかな。少し心配になった。
 ゆっくり車椅子を進めていると、突然大きな鐘の音が響いた。
 ゴーン・・・。
 佳苗は驚いて左を見た。鐘楼だ。
こんな時間に鐘を突くとは知らなかった。
 ゴーン・・・。ゴーン・・・。
 お腹の底に沁み入るような大きな音。鐘突きを間近に見たことなど殆ど無いなあと佳苗は思った。車椅子も鐘楼の方に向け、暫く鐘の音に聞き入っていた。すると、
 「たもつさん・・・」
 小さな、しかしはっきりとした声がすぐそばから聞こえてきた。
「たもつさん・・・たもつさん・・・」
 佳苗は驚いてフミさんを覗きこんだ。涙声だ。
 『たもつさん』て?娘さんが「たまには思い出してくれるように」と居室の壁に貼った、亡きご主人の写真に添えられた名前では無い。お孫さんの名とも違う。
 フミさんはますます涙声になった。
「帰ってくるって言ったのに。必ず生きて帰ってくるって言ったのに。二年参りして約束したのに。帰ったら祝言上げようって約束したのに。」
 ぎくりとした。
「おどさんにも許し請うて、絶対一緒になろうって言っだのに。待っでたのに」
 聞いたことも無いフミさんの訛り。はっとした。これ、きっと、フミさんの昔の話だ。おそらくご主人と一緒になる前の。齢九十を超えたフミさんが娘時代に戻っている。鐘の音が呼びさましたのか。
 生きて帰ってこなかった『たもつさん』とは。佳苗は思いを馳せた。戦地にでも赴いたのだろうか。
「たもつさん...逢いたい...逢いたい...」
 何度も繰り返しながら、フミさんは俯きはらはらと涙を流す。風が吹き、花びらがはらはらとフミさんの肩に舞い落ちてくる。

 車中でも暫くフミさんは泣いていたが、疲れたのだろう、ホームに着くころには眠ってしまった。
 夕刻、退勤前、佳苗は恐る恐る部屋を訪れた。目は覚めたかな。まだ感情は揺れ動いたままだろうか。
 フミさんは静かに目を開け天井を見ていた。いつもの穏やかな顔だ。
 「桜、綺麗だったね。」
感極まって泣いたことなど覚えていない様子で佳苗に話しかける。佳苗は面食らい、同時に安堵もした。
 『たもつさん』とはどんな恋をしていたのだろう。聞いてみたくもあるが、また心が乱れても、と佳苗が思いあぐねていると、フミさんから思いもかけない言葉が飛び出した。
 「橘さん、好きな人いるの?」
 思わず答えに詰まった。居ますと言っていいのか、居ましたと言うべきか。
 フミさんは構わず続ける。
「大事な人がいるなら、手を離しちゃ駄目よ。この人、と思った相手からは、決して離れちゃ駄目よ。」
佳苗の反応を気にすることなくフミさんは一方的に続ける。
「大事な人の手は、離しちゃいけないのよ。」
 何度も繰り返す、同じ言葉を。認知症ゆえの言動だろうが、佳苗には、様々な記憶が消えつつあるフミさんからの、強烈なメッセージであるよう受け取れた。鐘楼の前での出来事など忘れたような顔で、それでもフミさんは昔の恋を、心の底で重く引き摺っている。叶わなかった思いは、胸の奥で今でも燻り続けている。
 ―あなたは、そうなっちゃ駄目よ―
 そんな声が聞こえた気がした。

 運転席に座ったまま佳苗は暫く微動だにしなかった。やがて、そっとスマホを開いた。アプリを起動し、あれ以来触れてない直弥の名前をタッチする。トーク画面が開いた。
『今日入所者さんたちを花見に連れてったの。深大寺、まだ桜残っていたよ。
全て散ってしまう前に、もう一度直弥と見に行きたい。』
ひと息に書いた。そして、一寸考え、
『すぐには難しいようなら、葉桜、見に行くのでもいいよ。』
そう付け足し、大きく深呼吸して、送信を押した。
 そのままスマホを額に付け、ハンドルに体を預けたまま、祈るように目を瞑った。
 どのくらい時が経ったか。バイブが振動し、びくっと跳ね起きた。画面を点ける。
メッセージが表示された。『直弥さんがスタンプを送信しました』
 佳苗は急いでスワイプし、画面を確かめた。

 満開の桜の画が飛びこんできた。

櫻 千鶴乃(東京都八王子市/52歳/女性/会社員)
 今年は桜を見ていない。深大寺門から続く雑木林の新緑を見て、私は気がついた。神代植物公園に来るのはいつぶりだろう。桜が今年の務めを終えた平日の公園は、ひっそりとしていた。
「わかちゃん、ゆっくりしてたのに悪いね」
すっかり小さくなった祖母が、車椅子から私を見上げる。祖父の三回忌を終えた昨日、祖母は急にここに来たいと言い出した。働いている両親に、私は付き添いを頼まれたのだ。
 二ヶ月前、私は五年間勤めた会社を辞めた。社内不倫の末路だった。ハローワークで失業給付金の申請手続きを終えた頃、東京に開花宣言が出たが、私は上を見なかった。

 シンとした林を抜けると、目の前に広々とした芝生が広がる。夫と子どもとお弁当。がんばれば、必ず手に入ると信じていた。彼の妻に子どもができるまでは。
「光一や茜が小さい頃、ちょうどここができて、よく二人を連れてきたんだよ」
祖母の声に我に返る。光一と茜は祖母の子どもで、茜が私の母だ。貿易の仕事で東南アジアを飛び回っていた祖父は、家にほとんどいなかったと母から聞いている。
「二人の子どもを抱えて、なんで一人でこんな大変な思いをしないといけないんだろうって、何度も泣いたのよ」
若き日の祖母の姿が、見たこともない彼の妻と重なる。真っ白になった後頭部を睨みながら、祖母に言われるまま、左に進む。
「ああ、よかった。ちょうど満開ね」
祖母の声に顔をあげると、緑の葉を広げた低木に、球体型に連なった花が咲き誇っていた。
「これ、しゃくなげっていうのよ」
ピンクや白の花々は、一つひとつがまるでラウンド型のブーケのように華やかで豪華だ。
「このお庭を見に来たんだよ。ちょうど見頃だねえ。ありがとうね」
祖母は愛おしそうに花を見上げる。
「ここはおばあちゃんの秘密の場所」
祖母はうふふと笑って、思い出話を始めた。

 母が一歳になった頃、祖父はインドネシアへ単身赴任することになった。一人で子育てをすることになった祖母は、辛くなるとここに来ていた。だが、できたばかりの公園には、温かな家族の姿が溢れていた。父親と遊ぶ子どもたち、それを見てほほえむ母親。見ていると、我慢していた涙が溢れた。
「迷われましたか?」
木立に隠れるように泣いていた祖母に声を掛けてきたのが、庭師の朝井だった。
 二つ年下の朝井は、幼い父や母と追い駆けっこをし、祖母にこっそり花を持たせたりした。祖母は朝井に会うのが楽しみになっている自分に戸惑いながらも、公園に行くのを待ちわびるようになる。
「いつかカナダに行って、この花の勉強をしたいんです」
何度も見返しているのか、擦り切れたしゃくなげの写真を恥ずかしそうに見せた朝井を、祖母は愛しいと思った。
 だが、ほどなくして、祖父の帰国が決まる。それを告げた日から、朝井は姿を見せなくなった。公園の職員に聞くと、朝井は勉強のためにカナダに旅立っていた。
 
 祖母の話はそれだけだった。
「それって、恋でもなんでもないじゃない。なにもなかったんでしょ」
拍子抜けして言うと、祖母はまた、うふふと笑う。
「それでも、恋は恋だったの。あの時、おばあちゃん、すべてを捨ててこの人と一緒になりたいって思ってたんだから」
陽だまりのような祖母らしからぬ、過激な言葉に驚いて、思わず祖母の顔を見る。
「女が長年生きていれば、色々あるものよ。いつの時代も一緒。わかちゃんだけじゃない」
耳を疑った。
「......なに?」
「見てれば分かるのよ。道ならぬ恋ははじめは女を輝かせるけど、時とともに醜くする」
諭すような言い方に、頭にカッと血が上る。
「おばあちゃんになにが分かるのよ! そんな夢みたいな話と一緒にしないでよ!」
祖母を置いて、その場を離れた。とにかくどこかで泣きたかった。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、消えてしまいたかった。
 どれほど歩いたか、売店横のトイレで鏡を見ると、涙で濡れた醜い女の顔が映る。祖母の言葉が蘇る。知られたくなかった。でも、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分がどんどん嫉妬で狂っていくのは分かっていた。でも、それを人から言われるほどきついことはない。目元をハンカチで拭うと、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。急に不安が胸よぎった。慌てて、あの庭へと急ぐ。

 しゃくなげの庭に、人影はなかった。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
木々の間を行ったり来たりし、芝生や雑木林に向かって叫ぶ。心臓がバクバクし、血の気が引いていくのが分かる。
「わかさん、ですか?」
振り返ると、青いキャップをかぶった職員らしき男がいた。
「おばあさん、ご気分が優れない様子でしたので、医務室にお連れしています」
「大丈夫なんですか!?」
男は日焼けした顔で、やさしく笑った。
「はい、脈も安定していますし、ちょっと休めば大丈夫とのことです。孫がこの庭に戻ってくるからと言われて、今来たところでした」小池と名乗った男によると、祖母は車椅子から立ち上がろうとして転んだとのことだった。

 医務室のベッドで、祖母は横になっていた。
「びっくりさせてごめんね」
私の真っ赤な目には触れず、祖母は申し訳なさそうに言う。
「帰る前にもう一度だけ、しゃくなげ、見に行ってもいいかい?」
私は祖母のしわしわの手を握って、うんうんと二回うなずいた。

 夕暮れのしゃくなげの庭を、祖母と小池と眺める。小池は花の説明をしたいと言ってついてきたのだ。赤、ピンク、白、紫......。いくつかの品種の説明をした後、小池は淡いピンクの花の前で足を止める。
「これはうちにいた初代の庭師が開発した品種なんです。しゃくなげが好きでカナダまで勉強しに行った人で、好きだった人の名前をつけたそうです。奥様のお名前ではないので内緒なんですけど、"ちよ"っていうんです」
小池がいたずらっ子のように笑う。私がそっと祖母の肩に手を置くと、祖母は手を重ねた。
「......その、庭師の方、今は?」
祖母が尋ねると、小池は残念そうな顔をした。
「昨年お亡くなりになりました。退職されてからも、よくお孫さんたちを連れて見に来てくれてたんですけどね」
祖母の肩から、ふっと力が抜けた気がした。
「そうですか、お幸せだったんですね。ご説明、とても楽しかったです。ありがとう」
うるんだ目を、祖母は指でそっと拭った。

 公園を出たのは閉園時間間際だった。駅へ向かうバスを待ちながら、祖母に声を掛ける。
「大丈夫?」
「......なにが?」
「だって、あの花......」
「やわらかで愛らしい色だったわね」
「......うん。おばあちゃんにぴったりで」
うふふふ、と祖母は楽しそうに笑う。
「"しの"だと思った? 言ったでしょ。これでもおばあちゃん、あの頃はすごく色気があったんだから」
小さな背中と「色気」という言葉のギャップに、思わず笑う。
「じゃあ、真っ赤とか?」
「そうね、紫とかもいいわね。あー、でもよかった。すっきりしたよ」
「......悔しくないの?」
「......そうだね。なーんだって気が抜けたのはあるけど、どんなに辛くても、前を向いていれば必ず幸せになれる。そう信じてがんばってきたのは正解だったって、答え合わせができたんだから、こんなにいいことはないよ」
祖母は私の手をギュッと握る。カサカサだけど、そのぬくもりがジンと乾いた心に染みた。
「わかちゃんも、大丈夫。大丈夫」
涙がポツリ、ポツリと手に落ちる。その手に祖母がなにかを握らせた。
「独身だって」
「え?」
手の中の紙切れを見ると、携帯番号が書かれている。
「小池さん、わりとイケメンでしょ。二十六歳で独身だっていうから」
「ちょっとおばあちゃん! なにしてんの」
一体、いつの間にそんなことをしていたのか。祖母のおだやかな笑顔の裏には、「女」が潜んでいるのか......。
「ほら、バスが来たよ」
角を曲がり、桜並木の下をバスがやってくる。
「ねえ、おばあちゃんはおじいちゃんといて、幸せだったの?」
祖母の白い頭が、空を見上げるようにわずかに上を向く。
「もちろん、幸せだったわよ。あの頃は辛くて,苦しかったけど、今は心からおじいちゃんといて幸せだったと思ってる。そう思えるのも、きっとあの失恋があったからね。だからこそ、幸せになってやるって思ってきたから」
バスに乗り込み、窓から木々を見上げる。力強い新緑が、桜の木を覆っていた。

斉藤 柚子(東京都調布市/女性)
 今日、彼は私の部屋でこれまでと同じ様子で、一時間にも満たない短い時間を過ごした。この数か月間がまるで嘘のように、とても静かで穏やかな時間だった。彼は私の言葉に優しく微笑み、時に相槌をうち、いくつかの他愛もない話題を口にした。
 本当に、この時間がこれからもずっと続くかのようだった。
 今までと違うことといえば、珈琲に一切ミルクを入れなかったことと、玄関を出る時に、「またね」と言うかわりのキスをしなかったことだ。
 ドアが閉まる寸前、「最後くらい送らせてよ」と言った私に、「そうだね」と彼はやっぱり穏やかな笑顔を私に向けて言った。

 一年で一番昼間が長いこの時期、空はまだかすかな昼の青を残していた。最寄りである『調布市総合体育館前』のバス停に向かう間、私たちは無言だった。何を話せばいいのか、話すべきなのか。もう二人の共通の言葉を失ってしまっていた。
 バス停の前で私たちは並んで、静かにバスを待つ。何度か彼は小さく咳払いをした。「風邪?」と聞くと、彼はうつむき、「ちょっと埃っぽいね」とまるで照れたように小さな声で言った。

 『つつじヶ丘駅』行きのバスは間もなくやってきた。バスは当たり前に私たちの目の前に停車しドアが開いた。彼は短く、「じゃあ」と言って乗り込んでいった。私は小さくうなずいただけだった。
 他に乗客がいないガラガラのバスの一番後ろに座った彼は、もう私のほうを見ることもなく、ただただまっすぐに正面を見据えていた。ドアが閉まる。バスが走り出す。私は彼の後姿を見送った。

言い争う毎日の中で、それでも前向きにと二人で決めた結論だった。お互い納得した別れだった。もう、あんな風にお互い傷つけあうのは嫌だった。積み重なる小さな嘘、心に赤い筋をひくナイフような鋭い言葉、憎しみに満ちた瞳...それまで見たことのないお互いを見せ合い、これ以上相手に絶望するのは嫌だった。
 今ならまだ、きれいな思い出を残して離れられる、そう思った。だから別れることを選択した。まだ少しでも好きだという感情が残っているうちに。思い出までもが穢れてしまわないうちに。
 
バスが遠ざかるにつれ、暮れかけた淡い闇の中に光がにじみテールランプがぼやけていく。二人で過ごした時間も同じように、いつか私の中でぼやけて、あいまいになって、そしてその形すら思い出せないくらいになっていくのだろう。
 嫌だ。
 突然胸の中に強い思いが沸き上がってきた。そんなの、嫌だ。
 彼との思い出が消えてしまうなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
 胸の奥で、ざわざわと何がが生き物のようにうごめき出す。鼓動が早くなり、後頭部が焼けるようにじりじりとしてくる。
 追いかけなくちゃ。
 このまま彼を行かせてはいけない。これで終わりにしちゃいけない。だって...だって、まだ彼をなくしたくない。
 別れ話をしているこの数か月、心の奥底に意図的に沈めていた感情がぼこっ、と浮かんであらわになる。
 追いかけなくちゃ。でも、どうやって?
 バスはもうほとんど見えなくなっている。気持ちばかりがあせって、キョロキョロあたりを見回す。深大寺へ続く道のフェンスにかかった"深大寺まで五百メートル"と書かれた看板が目に入った。
 突然思い出した。『つつじヶ丘駅』行きのバスは、『深大寺植物公園』を回り、『深大寺』を経由してから『つつじヶ丘駅』に向かう。しかも『深大寺』で時間調整のため、数分止まることもあったはず。この森を抜けて『深大寺』のバス停まで走れば、追いつくことができるかもしれない。
 深大寺へと向かう道を見通す。暮れていく空を揺らすように、深大寺の森があやしくザワザワと音をたてていた。
 途中のバス停で人がたくさん乗ってくれたら、途中の信号にバスが捕まったら、そうやって深大寺到着までに時間がかかれば...
 深大寺に祀られているのは縁結びの神様だと聞いたことがある。私達が別れるのは、神様がのぞんだことなのだろうか。私は深大寺に向かって駆け出した。神様と、勝負だ。
 人気のまったくない薄暗い道に、私のヒールの音だけが響く。よりによってヒール靴...彼が最後に見る私の姿が、スニーカーやカジュアルなサンダルなんて嫌だったのだ。ほんの少しでもきれいだったと、かわいかったと思ってもらいたかったのだ。
 深大寺の森が、私を嘲っているかのようにざざーっ、ざざーっと大きく揺れる。間に合うわけがないだろう、往生際が悪い奴だ、一度手を放したくせに...
 ヒールの靴は着地するごとにグラグラと揺れる。走りにくいことこのうえない。いつ足をくじいてしまうかわからない。
 私は立ち止まり、そしてヒールを脱いで、バトンのように持って再び走り出した。足の裏を怪我するかもしれない。でもそんなことを恐れていたら、神様との勝負になんて絶対勝てっこない。
 少し走っただけなのに息が苦しい。のどの奥がヒリヒリと痛くなり、脚がどんどん重くなる。森の木々がさらに嗤う。あきらめなよ、間に合うわけがないじゃないか...
 長い坂道を転びそうになりながも駆け下りて、門前に出た。昼間なら蕎麦屋などに並ぶ人々でにぎわっているが、店はひとつも開いておらず、参拝客も見当たらない。昼間の喧騒が嘘のように通りは静まり、眠りにつこうとしていた。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえる。あと少し、あと少し。お願い間に合って...
 角を曲がった時、止まっているバスがついに見えた。間に合う、そう思ったが、重くなった脚は思うように前に出ない。
 もうそこまでというところで、バスのドアが閉まった。止まって!そう叫びたかったが、声はでなかった。
 バスが動き出す。一番後ろの席に座った彼の、彫像のように動かない横顔が見える。行かないで、お願い、行かないで...
 声にはならなかった。ありったけの思いを込めて心の中で叫ぶ。神様、お願い、バスを止めて。
 通り過ぎるバスの中で、突然、彼がこちらを見た。私に気づいて表情が変わった。一瞬の間。そして、運転手さんに向かって何か叫んだ。
 バスが止まる。ドアが開いて、彼が駆け下りてきた。もう動けずに立ち尽くす私のもとに驚いた顔で駆けてくる。その後で、バスはゆっくり遠ざかっていった。
 言わなきゃ、そう思ったが、息が上がって話せない。ぜいぜいと粗い息をしている私を、彼は何も言わずに黙って見ていた。
 どれだけの時間がたっただろう、彼が空を見上げて大きく息を一つ吐いた。そして細かく瞬きをしながら言った。
「足、大丈夫?」
 予想していなかった言葉をかけられて、すぐには理解ができなかった。何も返せないでいると、
「怪我したんじゃないの?足の裏」
 再び言われて、私は足の裏を見てみた。いつの間にか何かを踏みつけたのだろう、ところどころ血が出ていた。それを見て初めて、足の裏が痛むことに気がついた。
 彼が苦笑いをする。
「なんで無茶するんだよ。せっかくのきれいな足が傷だらけじゃないか」
 だって、あなたをなくしたくなかった、そう言いたかった。呼吸はさっきより苦しくなかったけれど、それでもやっぱり言葉は出なかった。
「ほら」
 彼が背中を向けた。何のことかわからずにぼんやりしていると、彼がこちらを見ずに続けた。
「おぶされよ。そんな足じゃ家まで歩けないだろ」
 彼の言葉をどう解釈していいのかわからずにいると、早く、と彼が促す。私は彼の背中に身体をあずけた。
 首筋から嗅ぎなれた彼の匂いがする。彼の体温を感じて、途端に涙がボロボロとあふれてきた。
「とりあえず足の怪我、手当しないと」
 彼は歩き出す、さっき後にした私の家に向かって。
 彼はそれから何も話さなかった。私も彼の背中で何も言わずに彼を身体で感じていた。
 さっきあんなに怖く感じた深大寺の森のざわめく声が、今はなぜか優しく聞こえる。
「...鼻水、背中についちゃうよ」
 やっと絞り出した私の言葉に、彼はぶっきらぼうに答える。
「鼻水ぐらい、いくらでもつけろよ」
 さっきよりも大股で、彼は歩き続ける。さらにあふれてくる涙を隠すように、私は彼の背中に顔をうずめた。
 足の手当てが終わったら、とりあえず、もう一度珈琲を入れよう。今度は彼の好みで、ミルクをたっぷり入れて。
 話は、それからにしよう。

小山みどり(東京都世田谷区/44歳/女性/会社員)
 その寺の裏通り佇んでいた幽霊に会ったのは梅雨の頃だった。
 その日私は、深大寺南町にある叔父宅の留守番をする事になっていた。
 深大寺に来るのは十二年ぶりの中学生以来で、懐かしさが込み上げる。それで私は夕刻になってから散歩に出掛ける事にしたのだった。
 ところが、道に迷った。
 確か深大寺本堂前の通りを抜け、そのまま武蔵境通りを越え、緑の多い住宅街、季節は六月だったので、花盛りの紫陽花を楽しみながら歩いていたのだが、気が付けば道が分からなくなっていた。二十五歳にあるまじき失態をしでかしてしまい、あげくに頼りの携帯も家に置いて来てしまったから困った。
 薄暮を過ぎ、いよいよ夜の暗さが辺りに降りて来ると、近年体験しない暗さになった。
 というのも、まったく街灯がないのだ。
 灯りのなさに心細くなりながら、どこかとんでもない方向へと連れて行かれるのではないかと不安になる。
 だけど心配とは裏腹に、道は見覚えのある場所へと繋がっていた。
 そう、ここは深大寺本堂の裏手の道だ。
 ようやっと頭の中に自分の現在地が浮かぶ。
 ここからなら家まであともうちょっとだ。
 ほうっと安堵の息を吐き出して、(家に帰れる...)と緩んだ顔を上げると、その家へと抜ける細道がこれまでの比でなく真っ暗である事に気付いて閉口する。
「.........」
 人とすれ違えば、軽く会釈しなくては気まずいほどの細い小道である。
 両側には鬱蒼とした雑木林があり、まるで道を覆わんとするばかりに迫り出している。
 私は唾を飲み込む。
 一度引き返して、そば屋などの並ぶ本堂の表通りへ出ようかと思ったが、もう歩き続けてかれこれ四時間が過ぎている。
 この暗い細道さえ抜けてしまえば、ベタつく汗を流すお風呂も、バスに乗る前に吉祥寺駅で購入した惣菜の夕飯も待っている。
 ええい、行ってしまえ、と私は思い切った。
 そして踏み出すや暗闇。背後に光。
 六月の湿気た風に樹々がざわめき、思わずして鳥肌が立ち、肩が持ち上がる。だが、怖気ている自分に知らん顔をして進む。
(もう、なんでどこもそこもこんなに暗いんだろう...。ここは都内でしょう...)
 誰とも会いませんようにと祈りながら、中盤辺りに差し掛かった時だった。
 緩やかなカーブの切れ目に、横を向いた男が、夜空を仰いでぽつんと立っているのが見えたから、心臓を掴まれた。
 なぜって、その若い男は場違いに着物を纏い、憂いた横顔、宵の下で見るにまさに"幽霊"だったからである。
(つ、ついに見てしまっ...)
 と、愕然とし、背筋に冷たいものを走らせるが、私は慌てて顔を振るった。
 いやいや、待て待て。幽霊だのどうだのなんて、今この場合、問題ではない。というか、怖いから問題にしない。
 問題は、どうであれ、あれの傍をすり抜けなければ帰宅が出来ないという事である。
(回り道...、しようかな...)
 幸い向こうは私に気付いていない。こんな暗闇に着物姿で佇んでいる男など、詳細不問で避けるべきである。
 しかし、私はもう疲れ切っていた。
 ここを通ればもう家なのだと思うと、なかなか引き返す気持ちになれない。
 それで暗がりに佇む着物の男を見ていたのだが、彼の遠い目や、ひどくくたびれた表情を眺めていると、徐々に心配になって来た。
 芥川か、太宰か。着ているもののせいで、まるで不調に追い詰められた作家のようだ。まさか木を見上げてよからぬ事を考えているのではないだろうな...、と頭に過ぎると、私はしばし悩んだ末、自分でも驚くのだが、声を掛けるという結論を出したのだった。
「あ、あの...、どうかされましたか?」
 少々離れた位置から恐る恐ると声を掛けられ、着物の男がぴくりと反応する。
 上を見仰ぐのを止め、ひどく緩慢な動作でこちらに振り返る。
 そして、私の姿を見止めるなり、「ああ、見つかってしまった」というような残念そうな表情をしたのだった。
 私が(やはり幽霊...)と息を呑む間に、着物の男はそんな表情を引っ込めた。そして、代わりに困ったような笑みを作ると、こちらに身体の向きを変え、口を開いた。
「やあ...、驚かせてしまったみたいですみません。ちょっと考え事をしていたのです」
 まともな受け答えが返って来て、私はきょとんとする。と、着物の男が小首を傾ぐ。
「しかし、ここなら誰もいないと思ったのですが、この暗い道が怖くなかったのですか?」
 予想外に話を振られてしまった私は慌てる。「え?えっと...怖かったんですけど、早く帰りたくって。でも歩いて来た道もぜんぜん街灯がなくて暗かったんです。都内なのに...」
 と、地元の人であろうのに、失礼な一言を漏らしてしまい、私はハッと口を閉じた。
 気まずそうにしていたら、話の続きを待っていた着物の男は、ある拍子に「ああ」と一人合点すると、にっこりとした。
 私の背後を指で示す。
「あちらへずっと行った先にに天文台があるのをご存知ですか?ここいらは星がよく見えるよう、光が制限されて街灯を少なくしているのです。暗くて驚かれたでしょう」
 どうも気を遣われたと分かって私は恐縮する。男は、街灯の代わりに足元の照明を多く置いていると付け加え、
「でもここに長くいると慣れてしまうものですよ。暗闇も楽しいものです。ここいらの暗さは昔から変わりません」
 と、長い事小道にいた風な事をいうので、やっぱり幽霊なのかしらと私は思う。
 男の穏やかな口調と小道の暗闇、歩き回った疲れにぼんやりとして、私は次第に現実感がなくなって来た。この着物の男をどう捉えていいか分からなくなって、眉を困らせる。
「...さっきの昔からって...、昔の深大寺ってどんな所だったんです?」
 場つなぎの小さな質問に、暗闇の中で男が袖を揺らし、「ふうむ」とあごを撫ぜたのが分かる。
「お寺は江戸の頃からもうありましたけど、周辺には本当に何もありませんでした。野原や畑ぐらいでしょうか」
「...畑ってやっぱりおそば?」
 私がちょこんと口を挟むと、男は頷く。
「ええ、そうです。そばは稲の代わりです。元々ここらは米を作るには向かない土地なのですよ」
 それを聞いて意外に思った。なぜならここは湧水に恵まれた場所でなかったか。そう、深大寺本堂の隣にだって深沙大王という水神を祀ったお堂があったはずだ。
 水といえば田んぼなのになぜ、と、私が考え込んでいると、ふいに男の声がした。
「ほら、湧き水は冷たいでしょう?米を作るためには溜池を作って一度温めなくてはいけなかったのですよ」
 冷たい清水は、茹で上がったそばを晒すのには具合がよいのですけれどね、と男は笑う。
 心を読まれてしまった私は呆気に取られる。
 以降も男は私の呟きや問いをよく察して、深大寺界隈の歴史や民話などを話してくれた。
 まるで久しぶりに人と話したみたいに、嬉しそうに話す彼の様子に、私も知らずの内に軽く微笑んでいて、そして暗い小道が怖くなくなっていた。
 私達はいつの間にか三鷹通り方面へと歩き出していて、明るい道路が見えた所で男は暗闇に立ち止まり、「では、気を付けて」と私を明るい通りへと送り出した。そして元来た道へと消えて行ったのだった。

 不思議な体験をし、叔父宅の留守番を無事に終えた私は、あれは幽霊だったのか、なんだったのかとしばらく気になっていたのだが、ある日、ひょんな所から答えを貰う事になる。
 私の叔父は深大寺観光の広報を手伝っていて、「お前、散策したのならちょっと感想を頼まれてくれないか」と呼ばれたのだ。
 そして再び叔父宅を訪れた時、なんと、居間にYシャツを着たあの男が、広報担当として座っていたのである。
 お互いに驚き、広報担当、だから詳しかったと理解した時、私は思わず笑ってしまった。
「あの時、なんで着物姿だったんですか?」
 現代着の彼に尋ねるとぎくりと肩を揺らしてまずそうにしたが、やがて「やあ、実は...」と降参して教えてくれた。
 要は毎年恒例の夏の広報を書くのに詰まってしまい、気分を出すために浴衣を着て徘徊していたらしい。しかし先取りし過ぎた夏の様相にも、半ばやけくその打開策にも自ずと恥ずかしさはあったようで、明るい所には出られず、真っ暗なあの道にずっといたのだそうだ。
「そうだったんですか」
 叔父が居間へと戻って来ると、照れ入る彼と、笑っている私の様子にきょとんとする。
 が、取り直して取材を始める事にしたらしい。機嫌のいい叔父がさっそく私を指差す。
「いやなに。この子がこっちに来た時、郷土史にやたら詳しい奴に会ったらしくてな。一緒に歩いたのがえらい楽しかったって何度も俺に話すんだよ」
 第三者の感想を交えて作る郷土史案内マップなんて面白いだろう、と張り切る叔父。
 はたとする彼に、今度は私が照れて赤くなる番だった。

一月(東京都練馬区/34歳/女性/自営業)
見知らぬアドレスからのメール、またしつこい迷惑メールかと思われたでしょうが、詐欺とか勧誘の類いではないのでご安心ください。私は北海道に住む三十代の女性です。電話やメールをする相手が全くいないという訳ではないのですが、そうした日々つながっている人とは違う誰かと話をしてみたい、そんなふざけた思いからあてずっぽうのアドレスにメールしました。直接話したり逢ったりしたいと思っている訳ではないので、連絡先などを聞くつもりもありませんし、ご迷惑ならばどうかすぐに削除ください。でももしも馬鹿げた大人の戯れに少し付き合ってもいいと思われるなら、返信いただけたらと思います。 

そうは言っても、もちろん最初は新手の迷惑メールだと思った。そうじゃないにしても、危ない奴が多い昨今、女性が自分から素性のわからない相手に連絡を取るなんて、この人も相当危ない人かもしれないと思いつつ、それにしては何となく誠実な印象を受けたので、自分を特定する情報を伝えなければいいか、と軽い気持ちでメールを返した。そんな風にして僕らの不思議な「文通」が始まった。 
僕は自分のことはほとんど伝えなかったが、彼女は普通に自分のことを書いてきた。仕事は美術館の学芸員をしていて、花とミスチルとミステリーが好きで、虫とセロリと人混みが大嫌い。二年程前にノラ猫の里親になり、猫の「すもも」と暮らしている。 
もちろん名前や住所を書いている訳ではないが、「どこの誰だかわからない相手にそんな個人情報を教えたら危ないですよ」と送ると、彼女は「相手がどんな人か、少しやりとりをすればわかりますから」と返してきた。 
「悪い奴かもしれないのに」と返信したものの、そういう風に信用されると、きちんとせねばと思ってしまうのも計算づくなのか。 
僕らは、好きなテレビやお昼に食べたものなどたわいない話もしたし、環境問題や海外の紛争についてなど真面目な話もした。最初は興味半分だったが、同年代の独身同士で話も合い、見知らぬ相手ゆえ何も気にせず思ったことを言えるのが楽しくて、いつしか僕は彼女からのメールを心待ちにしていた。 
彼女は東京に友人がいて何度か来たことがあると言い、どこに来たのか聞いてみると、偶然にも馴染みのある深大寺と近くの植物公園の名を挙げた。嬉しくて僕は「実は学生の頃はその辺りに住んでいて、神代植物公園は特別な思い出のある場所なんですよ」とメールしていた。 
「初めて自分のことを教えてくれましたね、うれしいです。それはどんな思い出なんですか?」 
そう聞かれて、今までずっと心の奥にしまい込み、でもずっと引っかかっていた記憶が蘇ってきた。 
大学二年の秋、僕はその植物公園でアルバイトをした。簡単な園内作業の仕事だったが、その頃いつも秋桜の前に座って絵を描いている女の子がいた。特別美人でもないが真剣な眼差しに惹かれるものがあり、僕はいつもその娘を横目で気にしながら作業をしていた。ある時何気なく後ろを通りながら絵を覗き込むと、赤やピンクに咲き誇る秋桜の中に僕の姿が描かれていた。絵のモチーフとしてピッタリだっただけなのだろうが、嬉しくて僕は思わず「これ僕ですか?」と声をかけた。それがきっかけで由貴と話すようになり、いつしか僕らは付き合うようになった。 
由貴は都内にある美大の二年生で、偶然にも僕のゼミの女の子と高校の友達だった。僕らは卒業前までの二年間付き合ったが、由貴はいつもびっくりするようなことをした。 
ドライブ中に道で轢かれた猫を見つけると、「埋めてあげよう」となきがらをダンボールに入れて車で山まで運び、酔っ払いに女の子が絡まれているのを見たら、「やめなさい」と買い物してきたばかりの卵を相手に投げた。そうした由貴の行動にハラハラさせられることは度々で、その後の処理はいつも僕の仕事だった。そして一段落した後に由貴が晴れやかな表情でVサインをし、僕が苦笑いしながら右手を挙げて敬礼を返すのが、僕らの「アイシテル」のサインだった。
曲がったことを嫌い、子供のような素直さを持った由貴を、本当に僕は大好きだった。でもそんな彼女を僕は裏切った。 
四年生になって、由貴は早々に大手の出版社への就職が内定していたが、僕はなかなか就職が決まらなかった。大企業や業種にこだわる僕に、由貴はもっと広い視野を持つように助言したが、僕は聞き入れず、小さな諍いが絶えなくなっていった。そんな時、街で知り合った女の子と仲良くなり、僕はその娘に逃げ場を求めてしまった。 
出逢ってちょうど二年経った秋、僕は由貴に電話で理由も告げず別れたいと言った。由貴はちゃんと会って話したいと言い、二人が出逢った秋桜の前で会う約束をしたが、約束の日に僕はそこへ行かなかった。それっきりお互い連絡をせぬまま、結局僕は卒業間際に希望とは違う小さな食品メーカーに就職した。
身勝手に別れた最低最悪な自分。ずっと胸の奥に押し込んでいた記憶だったが、文字に打ち出すと言葉が溢れてきて、僕は会ったこともない彼女に全てを打ち明けていた。 
「どうしてそんなことをしたんですか?」 
彼女の問いに自分でもうまく説明出来ない。由貴を嫌いだった訳じゃない。ただ由貴の純粋さは時に僕の不実さに光を当て、一緒にいて苦しくなることがあった。自分勝手な言い訳だけど、由貴に見合う人になりたいとの気持ちと実際の不甲斐ない自分とを受け入れられず、彼女から逃げ出したのかもしれない。 
「そうですよね、自分でも理由なんかわからず、意味がないってわかっててもやってしまうことってあるから」 
そう返してもらって、僕は自分の気持ちが少し整理出来た気がしたけれど、そのやりとりを最後に彼女からメールは来なくなった。 

僕は胸にぽっかりと穴が開き、まるで失恋でもしたかのような喪失感でいっぱいだった。僕のひどい行為に呆れてしまったのか、気付かぬ内に何か気に障ることを言ってしまったのか。でも僕らは恋人でも何でもないので、問い詰めることも出来ない。 
そうして一ヶ月が過ぎた頃、電車の中で偶然懐かしい人に会った。ゼミ仲間で由貴の友達の佐奈だった。 
彼女と会うのも十数年ぶりで、せっかくだからと二人でコーヒーショップに入った。ひとしきり近況報告した後、この間のメール以来ずっと気になっていた由貴について聞いてみた。すると思いもしない答えが返ってきた。 
「実は由貴、先月亡くなったの。彼女、大学を卒業してずっとデザイン系の雑誌の編集をやってたんだけど、数年前に大病して仕事も辞めたのよ。大手術をしてしばらく静養してたけど、何とか仕事を復帰できるまでに回復してね。せっかく生き延びた命だから好きなことをしたいって、狭き門らしいけど募集のあった北海道の美術館に就職したの。年に何回か会うくらいだったけど、すっごく元気になってて、自分の絵もまた描くようになって良かったって思ってた。でも一年程前に病気が再発して、半年くらいずっと寝たきり生活だったの。そして先月急に容態が悪くなって」 
あまりにも予想外の話に僕は言葉を失った。 
美術館、北海道、先月から連絡が途絶えた、これだけ一致して偶然ってことはない。思えば、彼女の話で由貴に共通する部分はたくさんあったし、僕はずっとアドレスを変えてなかったから、メールが来たって何ら不思議ではない。 

次の日曜日、僕は一人神代植物公園に来ていた。ちょうど由貴と出逢い別れたのと同じ季節で、園内は秋の花が咲き乱れ、僕はかつて由貴が座っていた場所に腰を下ろすと、一面に広がる秋桜をぼんやりと眺めていた。 
由貴はどうして僕にメールしてきたんだろう。僕のことをずっと許せずにいたのか、それとも気まぐれにちょっと連絡してみようと思っただけなのか。 
由貴の真意はわからない。でも、とにかくちゃんと心を込めて謝らなくちゃ。そしてまっすぐに精一杯生きたことを心から敬い、たくさんの輝く時間をくれたことへの感謝を伝えなくちゃ。僕は由貴へ最後のメールを打った。あの時の気持ちを、そして今の気持ちを。 
スマホのボタンを押すと、ザーっという音と共に画面に送信の表示が出る。そしてすぐに、今度はメールの着信音が鳴った。 
届かないとわかっていたので、配送エラーの通知が来ると思っていた。でも画面を見ると、送信者には、何度もやりとりをした彼女のアドレスが出ていた。 
(え、まさか?) 
急に胸が高鳴り、慌ててメールを開いた。 
タイトルも本文も何もなく、画像が貼り付けてあるだけのメール。画像は一枚の絵だった。出逢った時に彼女が描いていたのと同じ、色とりどりの秋桜。でも、その真ん中に描かれていたのは、あの時の僕ではなく、少し年を重ねた僕と彼女の二人だった。 
やっぱり由貴だったんだね。 
絵の中の僕らが、恋人同士なのか、夫婦なのか、ただ再会しただけなのかはわからない。でも由貴が思っていたことは少しわかった気がするよ。
アドレスがまだあって、来たメールに自動返信されただけなのだろうが、知らなければびっくりするさ。最後まで驚かされてばかりだ。 
秋桜を揺らす風に吹かれながら、Vサインしている絵の中の由貴に、僕は最後の敬礼を返した。

コカネサン(神奈川県厚木市/50歳/男性/公務員)
 そうだ。死んで霊魂になれば、あの世の人と結ばれるじゃないか――。
単純明快なその答えに気付いたとき、私が自分で自分を殺す行為がひどく崇高な儀式に思え、彼の元に行ける嬉しさで体が震えた。

 私は小さい頃から、この世とあの世の境を彷徨っている人ならざる者が見えた。思春期を過ぎた頃から徐々に見える機会は減っていき、最近は全くないと言っていい。いや。大人になるにつれ、見えているのに見ようとしなくなっただけかもしれない。
 今日、久々に見た「それ」は、私が大学のゼミ講義をサボってやってきた深大寺の参道で胸に大きく「唐揚げ」と筆文字で印字されたTシャツを着て、所在なげに佇んでいた。

 都内の住みたい町ランキング1位の町からバスで約30分。都会の喧噪から切り離された緑深い場所、深大寺。私が先輩の先輩という六歳上の男性と付き合い始めた頃、一人で縁結びのお参りに来たことがある。
 彼、私にベタ惚れだったけど、神頼みってのもやっておくべきかなって。だって彼、奥手で焦れったかったんだもの。神仏の手も借りて一気にゴールまで行きたかったわけ。
 彼、初めて会ったとき素っ気なくて。照れてるのが分かった。目も合わせてくれなくて。何百通と送ったおはようとおやすみメールにも全然返してくれなかったし。不器用な人なんだよね。風の噂で彼が結婚したって聞いたときは変な女に捕まっちゃったのかな、って。私が助けなくちゃ、って。相手の女に包丁持って直談判しに行ったら警察に連れて行かれちゃった。だって逆上されたら怖いでしょ?で、まあ、その後も本当にいろいろあって、彼には二度と会えなくなっちゃった。
もう、終わり。彼がいない人生なら、ジ・エンドにしようと決めた。ただその前に、深大寺に「ちょっと!効き目なかったじゃん!」と盛大に文句を言ってやりたかったのだ。

境内のそこここで紫陽花が揺れている。
その中の白い紫陽花の固まりが花嫁のブーケに見えて、めちゃくちゃに毟り取ってやりたい衝動に駆られた。
よし。憎しみを込めて手を伸ばしかけたとき、さっきの唐揚げクンの視線に気付いた。私をジッと見ている。なによ。数本折ってやろうと思っただけよ。思っただけ。そう心で言い訳しながら手を引っ込めた。
それにしてもひどい趣味。奴のTシャツを見ていると、吸い込む空気に唐揚げ臭が充満しているように感じてくる。
そのとき、一組のカップルが笑いながら唐揚げクンの身体を通り抜けていったものだから、私はギョッとした。「そっち」の人だったのか――。
もう随分長いこと「それ」系には出会ってなかったのに。自分の死を意識した途端、目の前に幽霊が現れるなんて、私の霊的波動は大したものだわ。
ああ、だったら余計にそのTシャツが不憫だ。若い唐揚げクンがどのような最期を迎えたのかは与り知らぬことだけど、人生最後の日のファッションがそれでは、さぞ心残りであったろうに。そうか。だからここで彷徨っているのだな、と私は妙な納得をした。
そして私は、ふらふらと歩き始めた。
周囲はカップルがほとんどで、それ以外は家族連れか女性同士のグループといったところか。年頃のオンナ一人など自分だけだ。
本当なら、ここを彼と笑いながら歩いていたはずなのに。「ええ?そんな願掛けしてたの?心配性だなあ」なんて額をつつかれながら。それは、叶わぬ夢となったのだけど。
なのに、私はどうしてこんな所にたった一人でいるのだろう。寂しい。辛い。苦しい。惨めだ。死にたい死にたい死にたい。
次々と生まれるネガティブワードが心の隙間を埋め尽くし、それは真っ黒い塊となって、身体の中心にずうんと落ちてきた。
その黒い塊が重くて、私は身体を支えきれず、本堂から坂道を降りていった先にある、延命観音の前のベンチに座り込んだ。
黒い塊は、紙が水を吸い込むように、中心から手や足や頭の先に向かって、じわじわと広がり、私の身体を蝕んでいった。このままでは私そのものが真っ黒い塊になってしまう。でも動けない。重いのだ。動きたくない。
「楽に......なりたいなあ......」
呟いて、頭だけ揺らして、自分の手首を見た。やっぱり切ると痛いのかな。
そのとき風が強く吹いて、私は軽く目を閉じた。瞼を開いて顔を上げると、唐揚げクンが私の前に立っている。
ジッと視線を合わせて相対する形になった。唐揚げクンは眉間に皺を寄せている。なんでそんな顔をしてるんだろう。
また、風が吹いた。気付くと唐揚げクンは少し先に移動して、こちらを見ている。
私は立ち上がって、近付いていった。
そこには、青のグラデーションがかかった紫陽花が咲いていた。
気付くと、唐揚げクンはまた消えていた。
慌てて辺りを見回すと、道の向こうで顔だけこちらに向けて立っている。追いかける。
また、消えたと思ったら先にいる。
私は彼の姿を見失うまいと走っていた。
ああ、ここにいた。唐揚げクンを見付けて立ち止まった瞬間、ふっ...と、チリン、と涼やかな音が耳を撫でてきた。
チリン、チリン、チリン......。
いくつもの風鈴が光を受けて煌めき、風に揺れている。微笑みながら私に、とっておきの内緒話を教えてくれているようだった。
きれい。楽しい。嬉しい。
いつの間にか身体は軽くなっていた。真っ黒い塊は溶け出して、キラキラした光がすうっと心に差し込んでいた。
唐揚げクンが笑っている。手をおいでおいでして、私を呼んでいる。熱い眼差し。
瞬間、自分の罪の大きさを思い知った。
――霊魂までも夢中にさせるなんて。私ったら罪な女――。
袖すり合うも多生の縁、とは言うが、彼とは何か深い繋がりがあるのかしら。私、最初はあなたのこと、ただの変な奴って思ってたのに。こんなに優しくされて、あれ?やだ、私も?......彼のことで苦しんでたのに、節操のない女だって呆れる?いい女は恋多きものなの。だけど、私は霊のあなたとは――。
そのとき、思考回路が一つの結論を叩き出した。私は死にたかったんだ。唐揚げクンは幽霊。ならば、取るべき道はひとつ。

唐揚げクンは車通りの方へ移動していた。
車通りの向こうから爆音が近付いてくる。一台の車が猛スピードで走ってきたのだ。
今だ!
 私はその身を、車の前に投げ込んだ。

次の瞬間、不意にざあっと強い風が吹き、私の身体は宙に浮いて後ろに倒れた。急ブレーキをかけつつハンドルを切った車は、間一髪で私の身体の脇を擦り抜け、急停止した。

一体何が起こったのか分からなかった。
突然、手の平に痛みを感じて、見ると血が流れている。咄嗟に地面に着いたときに切ったのだろう。
どくどくどく。
身体から溢れ出す赤い血と痛み。それは紛れもなく私が生きている証だった。わらわらと集まった野次馬の声が遠くに聞こえる。
風が吹いた。振り向くと、唐揚げクンが立っていた。目と目が合う。その瞬間、私は全てを悟った。唐揚げクンは笑って頷いていた。彼の想いが痛いほど伝わり、私はくしゃくしゃの笑顔で返した。
瞬きをした刹那、唐揚げクンは消えた。

そば守観音から参道を振り返る。本堂の方向に向かって私は深々と頭を下げた。悪態ついてごめんなさい。素敵なご縁をありがとうございます。
唐揚げクンに直接お礼を言いたかったけど、これでいい。会うと未練が残る。
そろそろバスが来る時間だ。
私は顔を空に向け、一歩を踏み出した。

――やっと帰ったか。
唐揚げクンは忌々しげに顔を歪ませると、参道を振り返った。
浮遊霊だった唐揚げクンは、漂い、風に乗り、深大寺に流れ着いた。この世に未練という執着で留まっているわけではなく、本格的に昇天する四十九日までの短いバカンスのようなものだ。だからこそ唐揚げクンは、この自然豊かで穏やかな時間の流れる深大寺での満ち足りた生活を乱されたくなかったのだ。

あの女、「死にたい」オーラ全開で最悪だったな。万が一ここで死なれちゃ、俺の四十九日まで一緒にいる羽目になる。考えただけでゾッとするね。だから、どうにか帰らせようと誘導してやってたのに。あそこで飛び出すか?慌ててありったけの力で突き飛ばしてやったぜ。でもま、なんか生きる希望を持ってくれたみたいだし?結果オーライ。
けど、今思い出しても胸クソ悪い。あの女のTシャツ。背中にでっかく「天誅!」って書いてあってさ。意味分かんね。お前が天誅だよ。どんだけ趣味が悪いんだよ。あーもう二度と来んな!

こんな罵詈雑言を、唐揚げクンが声にならない声で叫び続けていたことを私が知るはずもない。
知らぬが仏。

梅川陽衣(東京都中野区)
超満員の車内は、乗客たちの放つ熱気で充ちていた。バックパッカーの大型リュックに遮られ、先ほどから美咲の姿は全く見えない。加えて心地よいバスの揺れは、俺の意識を徐々に奪っていった。人生初の尾行にしては、少々緊張感を欠いていたと言わざるを得ない。
不意に鳴った扉の開閉ブザーで覚醒した俺は、慌てて美咲の姿を探した。彼女は今まさに降車ステップに足を掛けようというところだ。俺は居眠りを咎められた生徒のような勢いで立ち上がり、通路の乗客を掻き分けて何とか最後尾でバスを降りた。
降り立つと同時に、金木犀の甘い香りが鼻を掠めた。バス停の表示は「深大寺」。
美咲はいったい、こんなところへ何をしに来たのだろう。
一時間程前、吉祥寺の美容室で偶然美咲を見掛けた。降って湧いたような好機にどうしてもそのまま立ち去ることができず、美容室の前をウロウロしながら三十分ほど待った。店を出たらすぐ声を掛けるつもりだったが、折悪く美咲の携帯に着信が入り、話しながら歩き始めた彼女の後を図らずも付いて行く形となった。その後も勧誘や客引きに阻まれている間に美咲が路線バスに乗り込んだものだから、勢いで俺も乗車したというわけだ。我ながら少々常軌を逸した行動だと思うが、恋の始まりとは得てしてそういうものなのだ。
深大寺の山門に着いたところで、美咲が突然立ち止まった。声を掛けるなら絶好のタイミングだったが、俺は躊躇った。美咲の様子は、山門の建造美に魅入っているという類いのものではなく、彼女自身もまた、何かを躊躇しているように見えたからだ。美咲の心を惑わす何かがここに存在するということか。そんなことを考えている間に、美咲が再び歩き始めたので慌てて後を追った。
それにしても、普段のビジネススタイルも知的でいいが、まとめ髪も色気が増していい。白いワンピースも彼女の楚々とした美しさをよく引き立てている。わざわざ美容室で髪を結ってもらうくらいだ、友達の結婚式にでも参列するのかもしれない。
そう言えば、半年程前別れた女が、
「結婚式は深大寺で挙げたい!」
と言っていた。合コンで出会ってその日のうちに、相撲取りかと見紛うほどの張り手でベッドになぎ倒され、なし崩し的に付き合うことになったのだが、詮索と束縛にそろそろ限界を感じ始めた頃、ふいに飛んできたこのセリフに恐れをなして逃げ出した。
苦い記憶を辿ったことで、はたと理性が働いた。偶然を装って話し掛けるにしては、おひとり様の三十男と深大寺はあまりに縁遠い場所ではあるまいか。そもそも美咲は、俺のことをどう思っているのだろう。
美咲と出会ったのは、オフィスビルのエレベーターの中だった。美咲はいつも昇降ボタンの一番近くに立ち、人の流れに合わせてさり気なく開閉ボタンを押していた。俺は彼女の社員証をチェックし、23階の商社に勤務する今野美咲という女性だと知った。
二週間ほど前のある日、遅めの昼飯を取った後、閉まる直前に駆け込んだエレベーターに美咲が乗っていた。同乗者はいない。
いつもの美咲なら、社員証の社名を見て階数ボタンを押すぐらいのことはさらりとしてくれる。しかしその日は違った。俺が乗り込むなり咄嗟に顔を背けたのだ。もしやと思ったが、定期的に鼻をすする音で確信に変わった。美咲は泣いていた。信じられないことに、俺はその瞬間恋に落ちた。ポケットの丸まったハンカチが恨めしかったが、同時に楽観的な打算も生まれた。泣き顔を見られた男のことは否が応でも忘れられないはずだ。同乗者Aから三雲さん、ひいては亮介くんに昇格するチャンスは十分にある。その日以来、彼女に声を掛ける機会をずっと狙っていたのだ。
しかし、山門で再び歩き始めてからというもの、美咲はまるで意を決したようにひたすら前だけを見つめて歩を進めており、一向に振り返ったり周囲を見回したりする気配がない。これではさりげなく美咲の視界に入るチャンスなどそうそう巡ってこないと思った時だった。少し速めのリズムを刻んでいたヒールの音がぴたりと止まり、くるりと踵を返したかと思うと、美咲は真っ直ぐ俺に向かって歩み寄ってきた。唐突に訪れた願ってもいない展開に、俺は生唾を飲み込んで身構えた。
「あなた、吉祥寺からずっと私のこと付けてましたよね。」
「付けていたというか、声を掛けるタイミングを窺っていただけで......。」
険のある声と血走った目にしばし圧倒されていたが、やっとの思いでそう答えた。
「そういうのをストーカーって言うんです。ついて来てください。」
そう言って歩き出した美咲に、俺は呆然としたまま付き従った。このまま警察に突き出されるのだろうか。やはり美咲にとって俺は、今までもこれからも同乗者Aでしかなかったというわけだ。想定し得る中で、いや想定の範疇を超えて最悪の展開だった。
前を歩いていた美咲の後ろ姿が木立の間で急に止まった。てっきり寺務所にでも連れて行かれると思っていたのだが。いまいち状況が飲み込めないでいる俺の目に映ったのは、さっきまでとは打って変わって、強張った表情でただ一点を見つめる美咲の横顔だった。
視線の先には、今し方結婚式を挙げたばかりの一組の新郎新婦がいる。
「あの新郎、先日まで私の婚約者だった人です。」
「はい?」
「二週間前突然、『他に好きな人ができたから別れて欲しい。彼女のお腹には俺の子がいる。』と言われました。」
あの涙の訳が、図らずも明らかになった。
「はぁ......それであなたはなぜここに?......まさか、狂気の沙汰なんてことは?」
ここに至って、白いワンピースにまとめ髪という彼女の出で立ちに合点がいった。花嫁を挑発するための討ち入り装束というわけだ。
「最初はそのつもりでした。でも、結局討ち入るどころか一人で相手の女の顔を見る勇気もなくて。そしたら、護衛にはうってつけのデカい男が都合よく後を付けてきたので。」
どうやら俺は、羊の皮を被った狼にまんまと惚れてしまったらしい。
木立の陰から覗いた新婚夫婦は、親族や友人たちから祝福を受け、まさに幸せの最中にいるように見えた。
美咲はその様子を黙って見つめている。
新郎は見るからに優柔不断な男だ。新婦の方は......ん?あれ?もしやあの女は―――。
その時だった。
「キャーーー!ストーカー!」
新婦の叫び声に、隣で美咲の肩がビクンと波打つのが分かった。無意識に俺のシャツの袖を固く握っている。
しかし、新婦が指さしたのは美咲ではなく俺だった。参列者たちが一斉に怪訝そうな視線をこちらに寄越した。
「あの人、昔ちょっと付き合ってあげただけなのに、私が結婚するってどこかで調べて私のこと奪いに来たのよ!」
半狂乱で新郎の腕にしがみついているその新婦は、半年前俺が尻尾を巻いて逃げ出したあの束縛女だった。きっと新郎のことも、千代の富士張りの突っ張りで一気に土俵際へ追い込んだのだ。
その場はにわかに騒然となったが、白いワンピース姿で傍らに立つ美咲に気付いた新郎は、事の真相を察したようだった。人違いだよとかなんとか言って新婦を宥め、その場をどうにか収めようとしている。
美咲は事の展開について行けないという感じで、ぽかんと口を開けたままだ。
俺は騒ぎが大きくならないうちに退散しようと、ダッシュに備えて美咲の手を取った。そして一度は背を向けたものの、思い直して振り返り未だ火柱の上がる火中へゆっくりと歩いていった。美咲の手を引いたまま。
参列者には心配や怪訝の表情よりも、好奇心に溢れた目の方が多いことが、新郎新婦の人となりを窺わせる。
「何か勘違いをされているようですが、僕たち今日は結婚式の打ち合わせに伺ったんです。来月こちらで式を挙げるもので。」
戦々恐々としていた新郎の表情が幾分和らいだ。それと入れ替わるように、うっすらと後悔の念が浮かんだように見えた。未だ檻の中の猿のようにキーキー言っているに新妻に比べ、捨てたはずの女の美しさに改めて気づいたのだろう。美咲は、そんな新郎の視線を振り払うように俺を見上げ、行こうと言った。
事の成り行き上、手をつないだまま参道を歩いていると美咲が言った。
「あなたって、女性の趣味悪いんですね。」
「三雲と言います。それに、女性の趣味が悪いと言うなら、あなたの元彼も同様かと。」
一瞬むっとした美咲だったが、すぐに涼しい顔で続けた。
「知ってます。エステートビル18階、D社勤務の三雲亮介さん。」
......どうやら俺は、またとんでもない女に引っ掛かってしまったらしい。
どこからともなく、金木犀の甘い香りが鼻を突いた。その時、美咲が静かに呟いた。
「『陶酔』って言うんです、金木犀の花言葉。甘い香りは一瞬にして人の心を奪うから。でも結局、数日で儚く散っちゃうんですよね。」
自分への戒めか、それとも俺への警告か。
「しばらく行ったところに植物公園があるんですが、行ってみませんか?『真実の愛』とかが花言葉の花でも探しに。」
ダメ元でそう誘ってみた。
少し驚いた表情でこちらを振り向いた美咲の首が、小さく縦に振れた。
秋の風が二人の背中をそっと押した。

もりかわ詩歌(鳥取県岩美郡/32歳/女性/公務員)
派手な赤い服を着た人がいるのかと思った。小島由香は、満員電車に吐き出されるようにして、明大前駅のホームに降り立った。その視界の隅を赤いものが動いた。朝の通勤時間には似つかわしくないが、東京には色々なファッションを好む人がいる。きっと赤い服が好きな人なのだろう。そんなことを考えながら振り返った。
すると、そこに赤い達磨が踊っていた。頭からすっぽりと被った張り子のような胴体からは、細くて白い手足が伸びている。それが、力が抜けたようにゆらゆらと揺れながら、独特なステップを踏んで踊っているのだ。
由香は、あまりの衝撃に瞬きや息をするのも忘れてその達磨を見つめた。ところが、由香以外は達磨が見えないのか、人々は達磨の横を無表情で通り過ぎていく。達磨はまるで世界から切り離されたかのように踊り続ける。
次の電車がホームに入ってきた。電車が運んできた風が由香の頬を撫でる。その瞬間、達磨が消えた。
夢でも見たのだろうか。最近、仕事が忙しく、寝不足が続いている。無性にこの体験を誰かに話したい気分になったが、誰にも信じてもらえないような気もした。結局、会社の同僚にも家族にさえも、由香は達磨の話をすることはなかった。
それからも達磨は、由香の前に何度も現れた。会社帰りにふらりと立ち寄った書店やカフェの隅で、ビルの隙間や通りの向こう側で踊っていることもあった。そして、やはりそれは由香以外の誰にも見えていないのだ。
地元の友人から見合いの話をされたのは、由香が日々の達磨の出現に疲れ始めてきた頃だった。見合いと言っても実にざっくりとしたもので、由香に紹介したい人がいるので連絡先を教えても良いかと聞かれたのだ。
由香が三十五歳を過ぎてからというもの、周囲は禁句のように結婚についての話を避けるようになっていた。由香自身、結婚どころか彼氏を作ることもすっかり諦めきっていた。近頃、達磨のことで頭がいっぱいだった由香は、深く考えることもなく承諾していた。
由香が悩む間もなく、その日の内に相手から連絡が入り、週末には深大寺に行く約束をしていた。由香は相手のことよりも、そんな時でさえも達磨が現れるのだろうかということばかり考えていた。

石原健介という名前と、ぼやけた顔写真しか分からなかったが、待ち合わせの調布駅に着いた時には相手の男性がすぐに分かった。柱に寄りかかるようにして待つひとりの男性の横で、達磨が踊っていたからだ。戸惑いながら、男性の方へ近づく由香の後ろにも、やはり達磨が一体ついてくる。
ふと顔をあげた男性は、由香を見ると、次に由香の後ろで踊っている達磨を見た。達磨が二体になってしまった。
「達磨がいますね」
「はい、踊る達磨がいます」
健介と初めて交わした言葉は、初対面の挨拶などではなく達磨についてだった。
深大寺行きのバスに乗った。バスにまで達磨はついて来るのかと思いきや、健介とバスに乗り込んだ時は、二体の達磨は煙のように消えていた。ところが、バスが動きだすと、途中の道やバス停に、二体の達磨は現れては消えた。由香と健介の困惑などお構いなしに、二体は並んでゆらゆらと踊っている。
バスに揺られながら、お互いに達磨が現れた経緯や達磨とのエピソードなどを語り合った。この奇妙な達磨の存在を分かち合える嬉しさに、由香は思わず夢中で喋っていた。

「参拝の前に少し休憩しませんか」
バスが深大寺に着き、参道を歩き始めた時、健介が言った。
山門近くの露天でおやきを買い、お茶をもらうと池が見えるベンチに二人並んで腰をかけた。いつの間にか、二人の両脇には一体ずつ達磨がいる。本来ならば、初めてのデートで緊張する場面であるはずなのに、ゆらゆらと踊り続けている達磨を見ていると緊張が溶けていくようであった。
一体この状況は何なのだろう。思わず、由香は笑っていた。すると、隣でもぐもぐとおやきを食べていた健介が、一口お茶を啜ったかと思うと、神妙な顔つきで湯呑を置いた。
「あなたは、僕の奥さんになる人なのだと思います」
唐突な言葉に、由香の笑いは引っ込んだ。顔が赤くなっていくのを感じる。健介は、まるで天気の話でもするかのように淡々と話し始めた。
「僕は小さい頃から勉強ばかりしてきました。純粋に勉強することが、楽しかったし、それこそが僕のやるべきことだと思って、わき目もふらずに」
由香は健介が何を言おうとしているのか戸惑いつつ、そして、先ほどの強烈な言葉の意味を計りかねながら、耳を傾けた。
「友人や同僚が、普通に女性と知り合って、結婚して家庭を築いているのを見ながら、僕はこれといった感想も持たず、ひたすら勉強に打ち込んできた。でもあるとき、ふと気になった」
湧水を湛えた池では、岩に上がった亀が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
「ふと、勉強以外のものを見てみたくなった」
由香は首をかしげた。
「そしたら、目の前に達磨が踊っていたのです。ゆらゆらと奇妙な動きで。僕は、初め頭がおかしくなったのかと思いました」
「勉強のしすぎで」
由香の言葉に健介が深く頷いた。
「本気で悩みました。これは、病院に行くべきではないかと。でも医者に行ったところで、信じてもらえるだろうかとも思いました」
「分かります。私も同じく悩みましたから」
「悩んでいた時に、由香さんとの話が降って湧いてきたのです」
「湧いてきた」
「そうなのです。それで、きっとこの達磨は、この見合い話の前兆なのではないかと思うように」
「分かるような、分からないような」
「人生に意味のないことはないのだと僕は思います。僕がずっと今まで勉強ばかりしてきたのも、こうやって達磨が現れて、目の前で踊っていることも。全て僕にとって意味のあることだと」
「踊る達磨に意味ですか」
「調布駅にあなたが達磨とやってきたとき、確信に変わりました。僕は悩みながらも奇妙な達磨を受け入れた。そして、あなたも戸惑いながらも達磨を受け入れている。そんな僕とあなたは、出会うべきだったのだと」
やっとここにきて、あの衝撃的な言葉の結論に辿りついたことに、由香は気がついた。
人生には意味がある。だとしたら、私が今まで生きてきたことも、男性と出会いもなく仕事ばかりして、悩んでいた日々にも、全て意味があったというのだろうか。全ては、自分と同じように踊る達磨を連れてきたこの男性に出会うためだったと。
二体の達磨は踊り続けている。
出会ったばかりにも関わらず、プロポーズのような言葉と達磨を絡めた人生論のようなものを真剣に語る目の前の男性に、由香は不思議と親しみが沸くのを感じた。確かに、達磨が現れて由香は動揺した。でもどこかで受け入れていた。それはなぜだろう。なぜかこの達磨が、不気味で嫌悪する存在に思えなかったからだ。ましてや息苦しく感じていた毎日の生活に、どこか肩の力を抜いてくれたような気もしていたのだ。
由香にはこの達磨の意味など分からない。でも、これは悩むべきことではなく、笑うべきことだということは分かる。
その考えに至った時、由香は肩を揺らしながら笑い出していた。隣では健介が不思議そうに目を丸くしている。
「おかしいですか」
「おかしいどころか、この状況にも、あなたの言葉にも嬉しくて、何だか笑いが込み上げてきます」
ハンカチで目じりを抑えながら笑っていると、健介も肩を揺らし始めた。いつの間にか二人で声を出して笑っていた。通りを歩く人々が、二人の笑い声に誘われるように振り返った。
理屈などない。直観として、目じりを垂らして笑う健介の笑顔が、とても素敵だと由香は思った。もっとこの笑顔を見ていたいとも。
二人は、深大寺境内へと向かった。二人の先を二体の達磨は石段の上を器用に回りながら踊り、登って行く。
「達磨に見とれて、私が転びそうです」
由香の言葉に、健介は静かに手を握ってきた。健介の手はとても大きくて温かだった。
二人は本堂で手を合わせた。参拝が終わると、またどちらからともなく手を繋ぎ合わせた。
「おや。どこへいったのでしょう。達磨が消えましたね」
驚いて辺りを見回すと、健介の言う通り達磨の姿はどこにもなかった。
「これでやっと落ち着いて話ができますね」
「二人きりになると、逆に落ち着かなくなってきました」
健介は由香を見下ろすと、優しく微笑んだ。
「もう少しこの辺を散策したら、深大寺蕎麦を食べましょう。蕎麦はお好きですか」
「大好きです」
由香は思わず答えていた。
「あの、お蕎麦も健介さんもという意味です」
深大寺の優しい木漏れ日が二人を包み込む。
そして、この瞬間から、二人の恋は踊り出した。

右城 薫理(東京都調布市/43歳/女性/家事従事)
暮も押詰った十二月下旬、昼食後の眠気と戦いながら欠伸をかみ殺していた時、外線電話が鳴った。
「税務調査の件で連絡させて頂いております。年明けに事前打ち合わせをお願い出来ればと思います」大村総括主査と名のる女性は事務的に告げた。目が覚めた。経理部の仕事とは言え、税務調査はいつも気が滅入る。一旦始まれば、この招かれざる客のお相手が三~四か月は続く。お陰で年末年始休暇は重い気分で過ごす事になる。十月で会計帳簿を締め、十二月末までが決算処理、それに続いて法人税の申告を一月末までに行う。その直後に税務調査だから息をつく間もない。年明けの金曜日、担当の部員と伴に会議室で調査官一行を待ち受けた。挨拶を済ませ、五人の名刺を着席順にテーブルに並べる。西島正人はあらためて「総括主査 大村麗子」と書かれた名刺の文字を見た。麗子だ。今は眼鏡をかけているが面影がある。中原麗子とは大学のゼミで一緒だった。先程「はじめまして」と紋切り型に挨拶したが、そうではなかった。麗子の部下の調査官のひとりが翌月から始まる税務調査の事前準備に関して説明を始めたが、内容が全然耳に入ってこなかった。麗子は私と同い年だから結構な歳だ。彫りの深い目鼻立ちの整った色白な面立ちは昔と変わっていない。目尻のあたりに少し皺が増えたか。彼女が私に気が付いたかどうかは分からない。

大学を卒業したのはほとんど三十年前だ。多摩丘陵の一角を占める私達が通った大学は当時都心からその地に移転して間がなく、周りに遊ぶところもなく広くて新しいことだけが取り柄のキャンパスだった。麗子と初めて話したのは2年の暮れで3年次から始まる会計学を専門としたゼミの顔合わせ兼忘年会が居酒屋で行われた時だった。新入ゼミ生は十五人ほどだったが、宴席を決めるくじ引きで幸運にも彼女の隣の席になった。
「どうも、西島です。よろしく」
「中原です。こちらこそ」
「火曜の2限目の経済原論の授業、いつも最前列の席に座っていますね。僕も一緒の履修です。同じゼミになれて嬉しいです」そのうちひとりずつ自己紹介が順番に始まった。彼女はウヰスキーのテレビCMをパロって 「 "少し愛して、長く愛して"の大原麗子と一字違いの中原麗子です」、と微妙な空気を漂わせた。ちょっとはずしているが、数少ない女性のゼミ員なので許された。彼女の名を知らなくとも、その存在を経済学部内で知らない者は当時いなかった。彼女は美人女子大生を表紙にする週刊朝日にも載ったし、体育会乗馬部でもエースだった。インカレ上位入賞で学内のスポーツ新聞にも取り上げられていた。小柄ながら手足の長い体型と大きな瞳、高い鼻梁、そして長い黒髪、中近東系を思わせるエキゾチックな顔立ちはキャンパスですれ違う男性を振り向かせるには十分魅力的であった。もし当時、大学ミスコンがあれば上位入賞の本命間違いなしだ。ゼミ内でも、果敢にアタックをしている者もいて、斉藤健一もその一人だった。生意気にも車通学をしていて家が同じ方向だったので、時々彼女の自宅の最寄り駅まで送り、交際のきっかけをうかがっていた。彼の努力は報われることはなく、後の時代で言う所謂アッシー状態だった。彼女は少なくとも学内に特定の彼氏がいるという噂は聞かなかったし、学業に専念する模範的な学生であった。当時の典型的な学生であった自分や健一は、サークルや麻雀、ビリヤードに飲み会と勉強は二の次でモラトリアムを謳歌していた。私達は学生運動もすっかり下火になった頃に現れた、今では死語になった「新人類」と言われた世代だ。山中湖で行われた夏のゼミ合宿の時だった。最終日の打ち上げで将来について、みんなで話しをした。当時はバブル景気の前兆期で新卒の就職は売り手市場だった関係もあって、多くは大手企業への就職を希望していた。私は第一に給料が高いところであれば、仕事自身にやりがいとか、生きがいとかを求めるよりも、生きるための糧をそこで稼ぎ、その金で自分の時間を楽しみたいと言う考えだった。今思うと、世間知らずの小生意気な若造だった。麗子は公務員志望だった。親方日の丸の安定が主な理由ではなく、社会貢献が実感できる仕事がしたいと言った。派手な容姿の割に考え方は堅実そのものだった。秋になっても相変わらず自分は明確な将来へのビジョンもなく自堕落な学生生活を貪っていた。単調な生活が退屈だった。大学入学以来、塾の講師のアルバイトで貯めた金がある程度まとまった額になったので、3年終了時に一年間休学をしてアメリカへ語学留学に行くことにした。もう少しモラトリアムの湯船に浸かっていたかったからだ。今の学生だったら、さしずめ自分探しの旅に出るとでも言うのだろう。私は旅立に際して心残りがあった。麗子と一度デートしたかった。自分の中で何かモヤモヤした彼女に対する不完全燃焼の気持ちに区切りをつけたかった。憧れの延長線上にある好意が、恋心ではないと言えば嘘になる。同じ時間、空間を二人でほんの少し過ごしたかった。今で言う厨二病。遅れての罹患だが。大学が春休みに入った二月のとある日、思い切って麗子に電話をかけた。幸い本人がでた。彼女以外の誰かが出たらと思うと気が気ではなかった。スマホを家族一人一人が所有する今の時代では決して味わえない緊張感があった。
「一年間アメリカに語学留学することにした。来月早々に出発するけど、その前に二人で会えないかな?今月の最後の日曜の十一時、深大寺の山門で待っている。家、調布だったよね。散歩がてら来てよ」
「突然、何?留学?初耳ね。悪いけど最近、就職試験準備で忙しいの・・・ でも行けたら行くね」
当日、今にも泣き出しそうな曇天の中、深大寺山門で小一時間待った頃に麗子は現れた。
「 "少し待たせて、長く待たせて、中原麗子です"遅れてごめん」
「つまんねえ~ でも今日はありがとね」
「寒いから、先にお参りしようよ」
本堂にお参りした後、寺務所に立ち寄り、「今日、待たせたお詫びと無事を願って」と御守りを渡された。門前の老舗蕎麦屋で天そばと熱燗で昼食。神代植物公園まで足をのばし、紅梅、白梅が咲き匂う園内で春の兆しに触れ、思い出のひと時を過ごした。

二月から始まった税務調査も佳境に入った五月の中旬、西島正人は大村総括主査と調査会場の会議室で二人きりで向き合っていた。ゴールデンウイークを挟んだ二回の交渉の結果、追徴課税額を米国本社の設定した金額までに抑えることができた。ひと安心だ。税務調査の話がひと通り終わったところで大村総括主査ではなく、個人としての旧姓中原麗子に切り出した。
「大村総括主査、大学の同じゼミ仲間として、少しお話ししてよろしいでしょうか?」「そうですね。私もお話ししたいと思っていました。まず調査を第一に考えて同窓であることを明かさずに配慮して頂いた事を感謝します。再会は偶然とは言え、"びっくりぽん"です」
「朝ドラからの・・相変わらず微妙ですね。ところで私は語学留学を名目にした気ままな旅から帰って、ゼミのみんなとは一年遅れで卒業し、今の外資系企業に就職しました。中原さんに帰国後一度電話をしたのですが、つながりませんでした。中原さんは希望通り公務員となり、活躍されているのを知り嬉しかったです。こんな形でまた会えるとは何かの縁ですね。三十年前、深大寺で会って以来で懐かしかったです」
「私が卒業して入局した頃、父の転勤で私を除く家族は引っ越して、私は一人暮らしを始めました。最後に会ったのが深大寺ですか。私は記憶にありませんね。他の誰かと勘違いされていませんか?」
「会っていますよ。現に中原さんから深大寺でもらった御守りまだ返納せずに家にあります。そうだ!今度の日曜、一緒にお礼参りに行ってください」
「御守りですか、気になりますね。何か思い出すかも。日曜なら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。三十年前と同じく、深大寺の山門、十一時と言うことでお願いします」

「おはよう~待った?」麗子は深大寺の初夏を彩る新緑の木漏れ日の中から白いワンピースで現れた。口調も今日は昔のままだ。
「全然。待っていない」と私。調査期間中見慣れたスーツ姿と違って華やいで、眼鏡も外している。若き日の彼女の姿が瞳の裏に蘇る。年甲斐も無くときめく。
「よお。西島、元気だった?」
麗子の後ろから頭髪の薄い小太りのオッサンが馴れ馴れしく話しかけてきた。この声、聞き覚えがある。
「もしかして斉藤か?何でお前が今日ここに・・・」
「麗子は俺の嫁さんだ」
「えっ、でも苗字が・・・」
「俺は高校の時にお袋が再婚して、大村姓になった。付属高校から推薦で大学に進学した時、面倒なのでずっと旧姓の斉藤で通した。4年の時に麗子と同じく国税専門官試験に合格して、入局後付き合いが始まり結婚した」
「昔話はお参りの後で。お蕎麦屋さんでお昼をとりながらにしたら」と麗子。
持って来た御守りの感触が掌から薄れて消えていく。"少し待たせて、長く待たせて"三十年前の言葉が甦る。あの時待たされた後、本当に麗子に会ったのか不安を覚えた。常香炉から漂う煙が眼にしみる。

多摩 三郎(神奈川県川崎市/男性)

 午前8時48分、深大寺発調布駅北口行きのバスを、私は主人である一哉と待っている。

 初夏だというのに、まだ朝は肌寒い。冷たい空気に、私が派手なくしゃみをすると、一哉は愉快そうに笑った。

「なんだ、豪快だな」

 いつものように軽口を叩いて私をからかう。

そんなところは嫌いじゃないけれど、今朝は少し恥ずかしくて、一哉の柔らかそうな目じりのシワを軽く睨んだ。


 週に3回、目の不自由な一哉の通院のため、私たちはこのバスを利用している。もう3年になるだろうか。

 もともと私は、この地域で生まれ育ち、近くの公園を駆け回るような子供時代を過ごしていた、が、学校に入る頃には、ここを離れてしまったから、特別な思い入れはなかった。

 それでも今、この地域で一哉と暮らせることを幸せに思っている。

 一哉と出かければ、ご近所さんも、参道の商店の人も声をかけてくれ、何かと親切にしてくれる。静かな暮らしの中で暖かな人の優しさに、故郷というだけでなく、私はこの街を気に入っていた。


 そんな穏やかな日々に、この小さな秘密が現れたのはいつからだろう?

 自覚したのは、ほんの一瞬、顔なじみにくれただけの、あの人の笑顔を見てからだった。すれ違う時に、確かに私に向けられる笑顔。

 ただ、それだけ。


「そろそろ来るかな......」

 一哉の声で我に返った。

 誰も知らない秘密を乗せ、バスが近づいてくる。

 私は少し身構えた。一哉は見えなくても、私のことをしっかり観ている。

 もう、すでに気づかれているかもしれない。

 バスが止まると、あの人は今日も少し眠そうな顔で降車してきた。まだ歳は20代だろう。ツヤのある髪のサイドを思い切りよく刈り込んだ髪型は、精悍な作りの顔によく似合う。

 細身の白いシャツは少し着崩れて、頼りなく見えるところが、女心をくすぐる。

 普段の凪いだ生活の中で、彼の無自覚な若さは私には眩しいくらいだった。

 あの細く長い指に触れられたら、どんな感じだろう......。

 私は降車客を待つふうに、何気なく彼を見上げた。本当にさりげなさを装う、ここが毎回緊張する。

 やはり彼は、私を見つけると嬉しそうに会釈をしてくれた。鼓動は最高潮に高まる。

 この数秒だけの恋。

 彼は決して振り返ることなく、バスを降りるとそのまま、道に沿って歩いてゆく。

 私は淡く軽い秘密を抱え、素知らぬ顔でバスに乗り込んだ。


「ん? 今朝はずいぶんとご機嫌だな」

 一哉は何気なくつぶやく。

 目の不自由な彼は、目が見える私よりも世界が良く見え、良く知っている。感覚が研ぎ澄まされているからだろうか。

 季節も、天候も周囲の感情や状況も、見えるものより敏感に感じ取ることができる。

 それでいて、一哉はいつも世界に寛容だった。時に、見えない目で観る世界を面白がり、楽しむことのできる彼を私は尊敬し、心から愛していた。

 私のことだってすべてお見通しなのだから......。

 ただ、からかわれていることが分かっていても、私は見透かされたかもしれない恥ずかしさに、そして小さな罪悪感に、何も答えずそっと目を伏せた。


 病院の帰りにバスを降りると、私たちは少し散歩するのが日課だった。

 深大寺の山門をゆっくり上り、神様にご挨拶をしたら、帰り道に植物園へ寄る。ここで巡る季節の中、私たちはバラ園の香りに癒され、雑木林で落ち葉を踏む音を楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾けた。

 この季節なら、私は青葉の落とす濃い影を、一哉は青い香りのする風を楽しみながら歩く。

 いつもの分かれ道に出ると、一哉は迷わず左へ曲がる。右手から聞こえてくる、幼い歓声に私たちは背を向けるように植物園を後にする。

 これも私への気づかいだとわかっている。

「すまんな......」

 この時だけは、普段愉快な一哉も、少しさびしそうにつぶやく。

 私は一哉との、この静かな生活を愛しているのに。何も悪くはない彼に、返す言葉が見つからないまま、いつものように私は、聞こえないフリをした。


 その夏、一哉が体調を崩して寝込んでしまうと、私たちはあのバスに乗ることもなくなってしまった。

 最後のわがまま――私と離れたくない、そう言って、一哉は最期を自宅で迎えたいと希望した。

 一哉に残された時間は、そう多くはないという現実を受け入れることに、私は精いっぱいだった。時々、バスの彼を思いだしたりもしたけれど、小さな秘密は、小さなまま、やがてホコリをかぶり私の心の片隅に放って置かれた。

 生命あふれる、騒々しくも眩しい外界とは、異空間のような静かな夏を私たちは過ごした。熱い太陽の光に焦がされる窓の外で、うるさくセミが鳴いても、この家の中はひんやりと薄暗く静かだ。定期的に鳴る機械音と、一哉の細いうめき声が時折重なる他には、永遠に時が止まってしまったように思える。

 浅い息の下で、一哉は囁くように私に言った。

「また、植物園へ行きたかったな...。そうだ、今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう...」

 もうお互い、そんなことができる年でもないのに、またからかって......。

 こんな時でも、冗談を言う彼が愛おしい。

「ごめんな、もうあのバスには乗せてあげられないな...」

 そんな......。一哉はやはり気づいていたのだ。私の小さな秘密に。

 私は一哉に頬を寄せ、静かに泣いた。そうしていつまでも、彼のベッドに寄り添っていた......。


「たまには気分転換に外出しなきゃ」

 一哉が逝って、落ち込んでいる私を、お節介な友人は無理やり外へ連れ出した。正直まだそんな気分じゃない。仏頂面で車に乗り込んだが、窓から見覚えのある街並みが流れて、あの植物園へ向かっているとわかった。

 車を一歩降りると、なつかしい空気とともに、一哉との思い出が一気に流れ込んできた。一緒にいたころと同じ、暖かい日差しを浴びると、幸せな記憶が私を包み込む。

 枯れ葉を踏みしめる音を楽しみながら進むと、私たちはいつもの分かれ道に出た。

 友人は迷わず右へ向かって行く。

「向こうに広いドックランがあるの。可愛い子がたくさんいるかも」

 ゆっくりと友人について行くと、お祭りのように賑やかな広場に出た。

 いつも楽しそうな声はここから聞こえてきたのか。思っていたよりも大勢の人がここを利用していた。何故だか、体の奥から湧き上がる、弾むような感情が胸を叩く。

 公園で遊ぶ人の中に、見覚えのある細い背中を見つけた。

 バスの彼だった。懐かしい友人に再会したような喜びに、考える前に体は動いていた。

 人をかき分け、傍へ駆け寄る私の足が、止まった。

 彼は――若い女の子を連れている。

 出来るだけ驚かさないよう、私は彼の連れている女の子にゆっくり近づき、声をかけた。

「こんにちは、あなたのご主人、素敵な方ね」

「え? ...あ、はい。ありがとうございます...」

 突然、年配の女に声をかけられて、戸惑っている女の子の傍に、彼は首をかしげながら駆け寄ってきた。


「こんにちは。......あれ? 見覚えあるなぁ」

「すいません、急に」

 慌てて追いかけてきた友人が、彼に挨拶する。

「いや、見覚えあるなぁと思って」

「ああ、もしかしたら街ですれ違っているのかも。この子は盲導犬を引退したばかりなんです」

「......ああ、あの子だ!」

 彼は私を思い出すと、あの時と同じ笑顔で、あの細く長い指で私の頭や首を撫ではじめた。

 あれだけ夢想したのに......感触はまったく違うけれど、その暖かさは一哉を思い出させた。

「現役のころ、こんな場所で遊ばせるのは難しかったそうです。亡くなったご主人が一度連れて行ってあげたかったと仰っていて...」

 お節介な友人の声を置いて、私は新しい若い友人を追い、駆け出す。


『今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう』


 走る風に瞬間、一哉を感じて、私はもっと加速した。


うどうのりこ(広島県)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
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ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
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