見知らぬアドレスからのメール、またしつこい迷惑メールかと思われたでしょうが、詐欺とか勧誘の類いではないのでご安心ください。私は北海道に住む三十代の女性です。電話やメールをする相手が全くいないという訳ではないのですが、そうした日々つながっている人とは違う誰かと話をしてみたい、そんなふざけた思いからあてずっぽうのアドレスにメールしました。直接話したり逢ったりしたいと思っている訳ではないので、連絡先などを聞くつもりもありませんし、ご迷惑ならばどうかすぐに削除ください。でももしも馬鹿げた大人の戯れに少し付き合ってもいいと思われるなら、返信いただけたらと思います。 

そうは言っても、もちろん最初は新手の迷惑メールだと思った。そうじゃないにしても、危ない奴が多い昨今、女性が自分から素性のわからない相手に連絡を取るなんて、この人も相当危ない人かもしれないと思いつつ、それにしては何となく誠実な印象を受けたので、自分を特定する情報を伝えなければいいか、と軽い気持ちでメールを返した。そんな風にして僕らの不思議な「文通」が始まった。 
僕は自分のことはほとんど伝えなかったが、彼女は普通に自分のことを書いてきた。仕事は美術館の学芸員をしていて、花とミスチルとミステリーが好きで、虫とセロリと人混みが大嫌い。二年程前にノラ猫の里親になり、猫の「すもも」と暮らしている。 
もちろん名前や住所を書いている訳ではないが、「どこの誰だかわからない相手にそんな個人情報を教えたら危ないですよ」と送ると、彼女は「相手がどんな人か、少しやりとりをすればわかりますから」と返してきた。 
「悪い奴かもしれないのに」と返信したものの、そういう風に信用されると、きちんとせねばと思ってしまうのも計算づくなのか。 
僕らは、好きなテレビやお昼に食べたものなどたわいない話もしたし、環境問題や海外の紛争についてなど真面目な話もした。最初は興味半分だったが、同年代の独身同士で話も合い、見知らぬ相手ゆえ何も気にせず思ったことを言えるのが楽しくて、いつしか僕は彼女からのメールを心待ちにしていた。 
彼女は東京に友人がいて何度か来たことがあると言い、どこに来たのか聞いてみると、偶然にも馴染みのある深大寺と近くの植物公園の名を挙げた。嬉しくて僕は「実は学生の頃はその辺りに住んでいて、神代植物公園は特別な思い出のある場所なんですよ」とメールしていた。 
「初めて自分のことを教えてくれましたね、うれしいです。それはどんな思い出なんですか?」 
そう聞かれて、今までずっと心の奥にしまい込み、でもずっと引っかかっていた記憶が蘇ってきた。 
大学二年の秋、僕はその植物公園でアルバイトをした。簡単な園内作業の仕事だったが、その頃いつも秋桜の前に座って絵を描いている女の子がいた。特別美人でもないが真剣な眼差しに惹かれるものがあり、僕はいつもその娘を横目で気にしながら作業をしていた。ある時何気なく後ろを通りながら絵を覗き込むと、赤やピンクに咲き誇る秋桜の中に僕の姿が描かれていた。絵のモチーフとしてピッタリだっただけなのだろうが、嬉しくて僕は思わず「これ僕ですか?」と声をかけた。それがきっかけで由貴と話すようになり、いつしか僕らは付き合うようになった。 
由貴は都内にある美大の二年生で、偶然にも僕のゼミの女の子と高校の友達だった。僕らは卒業前までの二年間付き合ったが、由貴はいつもびっくりするようなことをした。 
ドライブ中に道で轢かれた猫を見つけると、「埋めてあげよう」となきがらをダンボールに入れて車で山まで運び、酔っ払いに女の子が絡まれているのを見たら、「やめなさい」と買い物してきたばかりの卵を相手に投げた。そうした由貴の行動にハラハラさせられることは度々で、その後の処理はいつも僕の仕事だった。そして一段落した後に由貴が晴れやかな表情でVサインをし、僕が苦笑いしながら右手を挙げて敬礼を返すのが、僕らの「アイシテル」のサインだった。
曲がったことを嫌い、子供のような素直さを持った由貴を、本当に僕は大好きだった。でもそんな彼女を僕は裏切った。 
四年生になって、由貴は早々に大手の出版社への就職が内定していたが、僕はなかなか就職が決まらなかった。大企業や業種にこだわる僕に、由貴はもっと広い視野を持つように助言したが、僕は聞き入れず、小さな諍いが絶えなくなっていった。そんな時、街で知り合った女の子と仲良くなり、僕はその娘に逃げ場を求めてしまった。 
出逢ってちょうど二年経った秋、僕は由貴に電話で理由も告げず別れたいと言った。由貴はちゃんと会って話したいと言い、二人が出逢った秋桜の前で会う約束をしたが、約束の日に僕はそこへ行かなかった。それっきりお互い連絡をせぬまま、結局僕は卒業間際に希望とは違う小さな食品メーカーに就職した。
身勝手に別れた最低最悪な自分。ずっと胸の奥に押し込んでいた記憶だったが、文字に打ち出すと言葉が溢れてきて、僕は会ったこともない彼女に全てを打ち明けていた。 
「どうしてそんなことをしたんですか?」 
彼女の問いに自分でもうまく説明出来ない。由貴を嫌いだった訳じゃない。ただ由貴の純粋さは時に僕の不実さに光を当て、一緒にいて苦しくなることがあった。自分勝手な言い訳だけど、由貴に見合う人になりたいとの気持ちと実際の不甲斐ない自分とを受け入れられず、彼女から逃げ出したのかもしれない。 
「そうですよね、自分でも理由なんかわからず、意味がないってわかっててもやってしまうことってあるから」 
そう返してもらって、僕は自分の気持ちが少し整理出来た気がしたけれど、そのやりとりを最後に彼女からメールは来なくなった。 

僕は胸にぽっかりと穴が開き、まるで失恋でもしたかのような喪失感でいっぱいだった。僕のひどい行為に呆れてしまったのか、気付かぬ内に何か気に障ることを言ってしまったのか。でも僕らは恋人でも何でもないので、問い詰めることも出来ない。 
そうして一ヶ月が過ぎた頃、電車の中で偶然懐かしい人に会った。ゼミ仲間で由貴の友達の佐奈だった。 
彼女と会うのも十数年ぶりで、せっかくだからと二人でコーヒーショップに入った。ひとしきり近況報告した後、この間のメール以来ずっと気になっていた由貴について聞いてみた。すると思いもしない答えが返ってきた。 
「実は由貴、先月亡くなったの。彼女、大学を卒業してずっとデザイン系の雑誌の編集をやってたんだけど、数年前に大病して仕事も辞めたのよ。大手術をしてしばらく静養してたけど、何とか仕事を復帰できるまでに回復してね。せっかく生き延びた命だから好きなことをしたいって、狭き門らしいけど募集のあった北海道の美術館に就職したの。年に何回か会うくらいだったけど、すっごく元気になってて、自分の絵もまた描くようになって良かったって思ってた。でも一年程前に病気が再発して、半年くらいずっと寝たきり生活だったの。そして先月急に容態が悪くなって」 
あまりにも予想外の話に僕は言葉を失った。 
美術館、北海道、先月から連絡が途絶えた、これだけ一致して偶然ってことはない。思えば、彼女の話で由貴に共通する部分はたくさんあったし、僕はずっとアドレスを変えてなかったから、メールが来たって何ら不思議ではない。 

次の日曜日、僕は一人神代植物公園に来ていた。ちょうど由貴と出逢い別れたのと同じ季節で、園内は秋の花が咲き乱れ、僕はかつて由貴が座っていた場所に腰を下ろすと、一面に広がる秋桜をぼんやりと眺めていた。 
由貴はどうして僕にメールしてきたんだろう。僕のことをずっと許せずにいたのか、それとも気まぐれにちょっと連絡してみようと思っただけなのか。 
由貴の真意はわからない。でも、とにかくちゃんと心を込めて謝らなくちゃ。そしてまっすぐに精一杯生きたことを心から敬い、たくさんの輝く時間をくれたことへの感謝を伝えなくちゃ。僕は由貴へ最後のメールを打った。あの時の気持ちを、そして今の気持ちを。 
スマホのボタンを押すと、ザーっという音と共に画面に送信の表示が出る。そしてすぐに、今度はメールの着信音が鳴った。 
届かないとわかっていたので、配送エラーの通知が来ると思っていた。でも画面を見ると、送信者には、何度もやりとりをした彼女のアドレスが出ていた。 
(え、まさか?) 
急に胸が高鳴り、慌ててメールを開いた。 
タイトルも本文も何もなく、画像が貼り付けてあるだけのメール。画像は一枚の絵だった。出逢った時に彼女が描いていたのと同じ、色とりどりの秋桜。でも、その真ん中に描かれていたのは、あの時の僕ではなく、少し年を重ねた僕と彼女の二人だった。 
やっぱり由貴だったんだね。 
絵の中の僕らが、恋人同士なのか、夫婦なのか、ただ再会しただけなのかはわからない。でも由貴が思っていたことは少しわかった気がするよ。
アドレスがまだあって、来たメールに自動返信されただけなのだろうが、知らなければびっくりするさ。最後まで驚かされてばかりだ。 
秋桜を揺らす風に吹かれながら、Vサインしている絵の中の由貴に、僕は最後の敬礼を返した。

コカネサン(神奈川県厚木市/50歳/男性/公務員)
 そうだ。死んで霊魂になれば、あの世の人と結ばれるじゃないか――。
単純明快なその答えに気付いたとき、私が自分で自分を殺す行為がひどく崇高な儀式に思え、彼の元に行ける嬉しさで体が震えた。

 私は小さい頃から、この世とあの世の境を彷徨っている人ならざる者が見えた。思春期を過ぎた頃から徐々に見える機会は減っていき、最近は全くないと言っていい。いや。大人になるにつれ、見えているのに見ようとしなくなっただけかもしれない。
 今日、久々に見た「それ」は、私が大学のゼミ講義をサボってやってきた深大寺の参道で胸に大きく「唐揚げ」と筆文字で印字されたTシャツを着て、所在なげに佇んでいた。

 都内の住みたい町ランキング1位の町からバスで約30分。都会の喧噪から切り離された緑深い場所、深大寺。私が先輩の先輩という六歳上の男性と付き合い始めた頃、一人で縁結びのお参りに来たことがある。
 彼、私にベタ惚れだったけど、神頼みってのもやっておくべきかなって。だって彼、奥手で焦れったかったんだもの。神仏の手も借りて一気にゴールまで行きたかったわけ。
 彼、初めて会ったとき素っ気なくて。照れてるのが分かった。目も合わせてくれなくて。何百通と送ったおはようとおやすみメールにも全然返してくれなかったし。不器用な人なんだよね。風の噂で彼が結婚したって聞いたときは変な女に捕まっちゃったのかな、って。私が助けなくちゃ、って。相手の女に包丁持って直談判しに行ったら警察に連れて行かれちゃった。だって逆上されたら怖いでしょ?で、まあ、その後も本当にいろいろあって、彼には二度と会えなくなっちゃった。
もう、終わり。彼がいない人生なら、ジ・エンドにしようと決めた。ただその前に、深大寺に「ちょっと!効き目なかったじゃん!」と盛大に文句を言ってやりたかったのだ。

境内のそこここで紫陽花が揺れている。
その中の白い紫陽花の固まりが花嫁のブーケに見えて、めちゃくちゃに毟り取ってやりたい衝動に駆られた。
よし。憎しみを込めて手を伸ばしかけたとき、さっきの唐揚げクンの視線に気付いた。私をジッと見ている。なによ。数本折ってやろうと思っただけよ。思っただけ。そう心で言い訳しながら手を引っ込めた。
それにしてもひどい趣味。奴のTシャツを見ていると、吸い込む空気に唐揚げ臭が充満しているように感じてくる。
そのとき、一組のカップルが笑いながら唐揚げクンの身体を通り抜けていったものだから、私はギョッとした。「そっち」の人だったのか――。
もう随分長いこと「それ」系には出会ってなかったのに。自分の死を意識した途端、目の前に幽霊が現れるなんて、私の霊的波動は大したものだわ。
ああ、だったら余計にそのTシャツが不憫だ。若い唐揚げクンがどのような最期を迎えたのかは与り知らぬことだけど、人生最後の日のファッションがそれでは、さぞ心残りであったろうに。そうか。だからここで彷徨っているのだな、と私は妙な納得をした。
そして私は、ふらふらと歩き始めた。
周囲はカップルがほとんどで、それ以外は家族連れか女性同士のグループといったところか。年頃のオンナ一人など自分だけだ。
本当なら、ここを彼と笑いながら歩いていたはずなのに。「ええ?そんな願掛けしてたの?心配性だなあ」なんて額をつつかれながら。それは、叶わぬ夢となったのだけど。
なのに、私はどうしてこんな所にたった一人でいるのだろう。寂しい。辛い。苦しい。惨めだ。死にたい死にたい死にたい。
次々と生まれるネガティブワードが心の隙間を埋め尽くし、それは真っ黒い塊となって、身体の中心にずうんと落ちてきた。
その黒い塊が重くて、私は身体を支えきれず、本堂から坂道を降りていった先にある、延命観音の前のベンチに座り込んだ。
黒い塊は、紙が水を吸い込むように、中心から手や足や頭の先に向かって、じわじわと広がり、私の身体を蝕んでいった。このままでは私そのものが真っ黒い塊になってしまう。でも動けない。重いのだ。動きたくない。
「楽に......なりたいなあ......」
呟いて、頭だけ揺らして、自分の手首を見た。やっぱり切ると痛いのかな。
そのとき風が強く吹いて、私は軽く目を閉じた。瞼を開いて顔を上げると、唐揚げクンが私の前に立っている。
ジッと視線を合わせて相対する形になった。唐揚げクンは眉間に皺を寄せている。なんでそんな顔をしてるんだろう。
また、風が吹いた。気付くと唐揚げクンは少し先に移動して、こちらを見ている。
私は立ち上がって、近付いていった。
そこには、青のグラデーションがかかった紫陽花が咲いていた。
気付くと、唐揚げクンはまた消えていた。
慌てて辺りを見回すと、道の向こうで顔だけこちらに向けて立っている。追いかける。
また、消えたと思ったら先にいる。
私は彼の姿を見失うまいと走っていた。
ああ、ここにいた。唐揚げクンを見付けて立ち止まった瞬間、ふっ...と、チリン、と涼やかな音が耳を撫でてきた。
チリン、チリン、チリン......。
いくつもの風鈴が光を受けて煌めき、風に揺れている。微笑みながら私に、とっておきの内緒話を教えてくれているようだった。
きれい。楽しい。嬉しい。
いつの間にか身体は軽くなっていた。真っ黒い塊は溶け出して、キラキラした光がすうっと心に差し込んでいた。
唐揚げクンが笑っている。手をおいでおいでして、私を呼んでいる。熱い眼差し。
瞬間、自分の罪の大きさを思い知った。
――霊魂までも夢中にさせるなんて。私ったら罪な女――。
袖すり合うも多生の縁、とは言うが、彼とは何か深い繋がりがあるのかしら。私、最初はあなたのこと、ただの変な奴って思ってたのに。こんなに優しくされて、あれ?やだ、私も?......彼のことで苦しんでたのに、節操のない女だって呆れる?いい女は恋多きものなの。だけど、私は霊のあなたとは――。
そのとき、思考回路が一つの結論を叩き出した。私は死にたかったんだ。唐揚げクンは幽霊。ならば、取るべき道はひとつ。

唐揚げクンは車通りの方へ移動していた。
車通りの向こうから爆音が近付いてくる。一台の車が猛スピードで走ってきたのだ。
今だ!
 私はその身を、車の前に投げ込んだ。

次の瞬間、不意にざあっと強い風が吹き、私の身体は宙に浮いて後ろに倒れた。急ブレーキをかけつつハンドルを切った車は、間一髪で私の身体の脇を擦り抜け、急停止した。

一体何が起こったのか分からなかった。
突然、手の平に痛みを感じて、見ると血が流れている。咄嗟に地面に着いたときに切ったのだろう。
どくどくどく。
身体から溢れ出す赤い血と痛み。それは紛れもなく私が生きている証だった。わらわらと集まった野次馬の声が遠くに聞こえる。
風が吹いた。振り向くと、唐揚げクンが立っていた。目と目が合う。その瞬間、私は全てを悟った。唐揚げクンは笑って頷いていた。彼の想いが痛いほど伝わり、私はくしゃくしゃの笑顔で返した。
瞬きをした刹那、唐揚げクンは消えた。

そば守観音から参道を振り返る。本堂の方向に向かって私は深々と頭を下げた。悪態ついてごめんなさい。素敵なご縁をありがとうございます。
唐揚げクンに直接お礼を言いたかったけど、これでいい。会うと未練が残る。
そろそろバスが来る時間だ。
私は顔を空に向け、一歩を踏み出した。

――やっと帰ったか。
唐揚げクンは忌々しげに顔を歪ませると、参道を振り返った。
浮遊霊だった唐揚げクンは、漂い、風に乗り、深大寺に流れ着いた。この世に未練という執着で留まっているわけではなく、本格的に昇天する四十九日までの短いバカンスのようなものだ。だからこそ唐揚げクンは、この自然豊かで穏やかな時間の流れる深大寺での満ち足りた生活を乱されたくなかったのだ。

あの女、「死にたい」オーラ全開で最悪だったな。万が一ここで死なれちゃ、俺の四十九日まで一緒にいる羽目になる。考えただけでゾッとするね。だから、どうにか帰らせようと誘導してやってたのに。あそこで飛び出すか?慌ててありったけの力で突き飛ばしてやったぜ。でもま、なんか生きる希望を持ってくれたみたいだし?結果オーライ。
けど、今思い出しても胸クソ悪い。あの女のTシャツ。背中にでっかく「天誅!」って書いてあってさ。意味分かんね。お前が天誅だよ。どんだけ趣味が悪いんだよ。あーもう二度と来んな!

こんな罵詈雑言を、唐揚げクンが声にならない声で叫び続けていたことを私が知るはずもない。
知らぬが仏。

梅川陽衣(東京都中野区)
超満員の車内は、乗客たちの放つ熱気で充ちていた。バックパッカーの大型リュックに遮られ、先ほどから美咲の姿は全く見えない。加えて心地よいバスの揺れは、俺の意識を徐々に奪っていった。人生初の尾行にしては、少々緊張感を欠いていたと言わざるを得ない。
不意に鳴った扉の開閉ブザーで覚醒した俺は、慌てて美咲の姿を探した。彼女は今まさに降車ステップに足を掛けようというところだ。俺は居眠りを咎められた生徒のような勢いで立ち上がり、通路の乗客を掻き分けて何とか最後尾でバスを降りた。
降り立つと同時に、金木犀の甘い香りが鼻を掠めた。バス停の表示は「深大寺」。
美咲はいったい、こんなところへ何をしに来たのだろう。
一時間程前、吉祥寺の美容室で偶然美咲を見掛けた。降って湧いたような好機にどうしてもそのまま立ち去ることができず、美容室の前をウロウロしながら三十分ほど待った。店を出たらすぐ声を掛けるつもりだったが、折悪く美咲の携帯に着信が入り、話しながら歩き始めた彼女の後を図らずも付いて行く形となった。その後も勧誘や客引きに阻まれている間に美咲が路線バスに乗り込んだものだから、勢いで俺も乗車したというわけだ。我ながら少々常軌を逸した行動だと思うが、恋の始まりとは得てしてそういうものなのだ。
深大寺の山門に着いたところで、美咲が突然立ち止まった。声を掛けるなら絶好のタイミングだったが、俺は躊躇った。美咲の様子は、山門の建造美に魅入っているという類いのものではなく、彼女自身もまた、何かを躊躇しているように見えたからだ。美咲の心を惑わす何かがここに存在するということか。そんなことを考えている間に、美咲が再び歩き始めたので慌てて後を追った。
それにしても、普段のビジネススタイルも知的でいいが、まとめ髪も色気が増していい。白いワンピースも彼女の楚々とした美しさをよく引き立てている。わざわざ美容室で髪を結ってもらうくらいだ、友達の結婚式にでも参列するのかもしれない。
そう言えば、半年程前別れた女が、
「結婚式は深大寺で挙げたい!」
と言っていた。合コンで出会ってその日のうちに、相撲取りかと見紛うほどの張り手でベッドになぎ倒され、なし崩し的に付き合うことになったのだが、詮索と束縛にそろそろ限界を感じ始めた頃、ふいに飛んできたこのセリフに恐れをなして逃げ出した。
苦い記憶を辿ったことで、はたと理性が働いた。偶然を装って話し掛けるにしては、おひとり様の三十男と深大寺はあまりに縁遠い場所ではあるまいか。そもそも美咲は、俺のことをどう思っているのだろう。
美咲と出会ったのは、オフィスビルのエレベーターの中だった。美咲はいつも昇降ボタンの一番近くに立ち、人の流れに合わせてさり気なく開閉ボタンを押していた。俺は彼女の社員証をチェックし、23階の商社に勤務する今野美咲という女性だと知った。
二週間ほど前のある日、遅めの昼飯を取った後、閉まる直前に駆け込んだエレベーターに美咲が乗っていた。同乗者はいない。
いつもの美咲なら、社員証の社名を見て階数ボタンを押すぐらいのことはさらりとしてくれる。しかしその日は違った。俺が乗り込むなり咄嗟に顔を背けたのだ。もしやと思ったが、定期的に鼻をすする音で確信に変わった。美咲は泣いていた。信じられないことに、俺はその瞬間恋に落ちた。ポケットの丸まったハンカチが恨めしかったが、同時に楽観的な打算も生まれた。泣き顔を見られた男のことは否が応でも忘れられないはずだ。同乗者Aから三雲さん、ひいては亮介くんに昇格するチャンスは十分にある。その日以来、彼女に声を掛ける機会をずっと狙っていたのだ。
しかし、山門で再び歩き始めてからというもの、美咲はまるで意を決したようにひたすら前だけを見つめて歩を進めており、一向に振り返ったり周囲を見回したりする気配がない。これではさりげなく美咲の視界に入るチャンスなどそうそう巡ってこないと思った時だった。少し速めのリズムを刻んでいたヒールの音がぴたりと止まり、くるりと踵を返したかと思うと、美咲は真っ直ぐ俺に向かって歩み寄ってきた。唐突に訪れた願ってもいない展開に、俺は生唾を飲み込んで身構えた。
「あなた、吉祥寺からずっと私のこと付けてましたよね。」
「付けていたというか、声を掛けるタイミングを窺っていただけで......。」
険のある声と血走った目にしばし圧倒されていたが、やっとの思いでそう答えた。
「そういうのをストーカーって言うんです。ついて来てください。」
そう言って歩き出した美咲に、俺は呆然としたまま付き従った。このまま警察に突き出されるのだろうか。やはり美咲にとって俺は、今までもこれからも同乗者Aでしかなかったというわけだ。想定し得る中で、いや想定の範疇を超えて最悪の展開だった。
前を歩いていた美咲の後ろ姿が木立の間で急に止まった。てっきり寺務所にでも連れて行かれると思っていたのだが。いまいち状況が飲み込めないでいる俺の目に映ったのは、さっきまでとは打って変わって、強張った表情でただ一点を見つめる美咲の横顔だった。
視線の先には、今し方結婚式を挙げたばかりの一組の新郎新婦がいる。
「あの新郎、先日まで私の婚約者だった人です。」
「はい?」
「二週間前突然、『他に好きな人ができたから別れて欲しい。彼女のお腹には俺の子がいる。』と言われました。」
あの涙の訳が、図らずも明らかになった。
「はぁ......それであなたはなぜここに?......まさか、狂気の沙汰なんてことは?」
ここに至って、白いワンピースにまとめ髪という彼女の出で立ちに合点がいった。花嫁を挑発するための討ち入り装束というわけだ。
「最初はそのつもりでした。でも、結局討ち入るどころか一人で相手の女の顔を見る勇気もなくて。そしたら、護衛にはうってつけのデカい男が都合よく後を付けてきたので。」
どうやら俺は、羊の皮を被った狼にまんまと惚れてしまったらしい。
木立の陰から覗いた新婚夫婦は、親族や友人たちから祝福を受け、まさに幸せの最中にいるように見えた。
美咲はその様子を黙って見つめている。
新郎は見るからに優柔不断な男だ。新婦の方は......ん?あれ?もしやあの女は―――。
その時だった。
「キャーーー!ストーカー!」
新婦の叫び声に、隣で美咲の肩がビクンと波打つのが分かった。無意識に俺のシャツの袖を固く握っている。
しかし、新婦が指さしたのは美咲ではなく俺だった。参列者たちが一斉に怪訝そうな視線をこちらに寄越した。
「あの人、昔ちょっと付き合ってあげただけなのに、私が結婚するってどこかで調べて私のこと奪いに来たのよ!」
半狂乱で新郎の腕にしがみついているその新婦は、半年前俺が尻尾を巻いて逃げ出したあの束縛女だった。きっと新郎のことも、千代の富士張りの突っ張りで一気に土俵際へ追い込んだのだ。
その場はにわかに騒然となったが、白いワンピース姿で傍らに立つ美咲に気付いた新郎は、事の真相を察したようだった。人違いだよとかなんとか言って新婦を宥め、その場をどうにか収めようとしている。
美咲は事の展開について行けないという感じで、ぽかんと口を開けたままだ。
俺は騒ぎが大きくならないうちに退散しようと、ダッシュに備えて美咲の手を取った。そして一度は背を向けたものの、思い直して振り返り未だ火柱の上がる火中へゆっくりと歩いていった。美咲の手を引いたまま。
参列者には心配や怪訝の表情よりも、好奇心に溢れた目の方が多いことが、新郎新婦の人となりを窺わせる。
「何か勘違いをされているようですが、僕たち今日は結婚式の打ち合わせに伺ったんです。来月こちらで式を挙げるもので。」
戦々恐々としていた新郎の表情が幾分和らいだ。それと入れ替わるように、うっすらと後悔の念が浮かんだように見えた。未だ檻の中の猿のようにキーキー言っているに新妻に比べ、捨てたはずの女の美しさに改めて気づいたのだろう。美咲は、そんな新郎の視線を振り払うように俺を見上げ、行こうと言った。
事の成り行き上、手をつないだまま参道を歩いていると美咲が言った。
「あなたって、女性の趣味悪いんですね。」
「三雲と言います。それに、女性の趣味が悪いと言うなら、あなたの元彼も同様かと。」
一瞬むっとした美咲だったが、すぐに涼しい顔で続けた。
「知ってます。エステートビル18階、D社勤務の三雲亮介さん。」
......どうやら俺は、またとんでもない女に引っ掛かってしまったらしい。
どこからともなく、金木犀の甘い香りが鼻を突いた。その時、美咲が静かに呟いた。
「『陶酔』って言うんです、金木犀の花言葉。甘い香りは一瞬にして人の心を奪うから。でも結局、数日で儚く散っちゃうんですよね。」
自分への戒めか、それとも俺への警告か。
「しばらく行ったところに植物公園があるんですが、行ってみませんか?『真実の愛』とかが花言葉の花でも探しに。」
ダメ元でそう誘ってみた。
少し驚いた表情でこちらを振り向いた美咲の首が、小さく縦に振れた。
秋の風が二人の背中をそっと押した。

もりかわ詩歌(鳥取県岩美郡/32歳/女性/公務員)
派手な赤い服を着た人がいるのかと思った。小島由香は、満員電車に吐き出されるようにして、明大前駅のホームに降り立った。その視界の隅を赤いものが動いた。朝の通勤時間には似つかわしくないが、東京には色々なファッションを好む人がいる。きっと赤い服が好きな人なのだろう。そんなことを考えながら振り返った。
すると、そこに赤い達磨が踊っていた。頭からすっぽりと被った張り子のような胴体からは、細くて白い手足が伸びている。それが、力が抜けたようにゆらゆらと揺れながら、独特なステップを踏んで踊っているのだ。
由香は、あまりの衝撃に瞬きや息をするのも忘れてその達磨を見つめた。ところが、由香以外は達磨が見えないのか、人々は達磨の横を無表情で通り過ぎていく。達磨はまるで世界から切り離されたかのように踊り続ける。
次の電車がホームに入ってきた。電車が運んできた風が由香の頬を撫でる。その瞬間、達磨が消えた。
夢でも見たのだろうか。最近、仕事が忙しく、寝不足が続いている。無性にこの体験を誰かに話したい気分になったが、誰にも信じてもらえないような気もした。結局、会社の同僚にも家族にさえも、由香は達磨の話をすることはなかった。
それからも達磨は、由香の前に何度も現れた。会社帰りにふらりと立ち寄った書店やカフェの隅で、ビルの隙間や通りの向こう側で踊っていることもあった。そして、やはりそれは由香以外の誰にも見えていないのだ。
地元の友人から見合いの話をされたのは、由香が日々の達磨の出現に疲れ始めてきた頃だった。見合いと言っても実にざっくりとしたもので、由香に紹介したい人がいるので連絡先を教えても良いかと聞かれたのだ。
由香が三十五歳を過ぎてからというもの、周囲は禁句のように結婚についての話を避けるようになっていた。由香自身、結婚どころか彼氏を作ることもすっかり諦めきっていた。近頃、達磨のことで頭がいっぱいだった由香は、深く考えることもなく承諾していた。
由香が悩む間もなく、その日の内に相手から連絡が入り、週末には深大寺に行く約束をしていた。由香は相手のことよりも、そんな時でさえも達磨が現れるのだろうかということばかり考えていた。

石原健介という名前と、ぼやけた顔写真しか分からなかったが、待ち合わせの調布駅に着いた時には相手の男性がすぐに分かった。柱に寄りかかるようにして待つひとりの男性の横で、達磨が踊っていたからだ。戸惑いながら、男性の方へ近づく由香の後ろにも、やはり達磨が一体ついてくる。
ふと顔をあげた男性は、由香を見ると、次に由香の後ろで踊っている達磨を見た。達磨が二体になってしまった。
「達磨がいますね」
「はい、踊る達磨がいます」
健介と初めて交わした言葉は、初対面の挨拶などではなく達磨についてだった。
深大寺行きのバスに乗った。バスにまで達磨はついて来るのかと思いきや、健介とバスに乗り込んだ時は、二体の達磨は煙のように消えていた。ところが、バスが動きだすと、途中の道やバス停に、二体の達磨は現れては消えた。由香と健介の困惑などお構いなしに、二体は並んでゆらゆらと踊っている。
バスに揺られながら、お互いに達磨が現れた経緯や達磨とのエピソードなどを語り合った。この奇妙な達磨の存在を分かち合える嬉しさに、由香は思わず夢中で喋っていた。

「参拝の前に少し休憩しませんか」
バスが深大寺に着き、参道を歩き始めた時、健介が言った。
山門近くの露天でおやきを買い、お茶をもらうと池が見えるベンチに二人並んで腰をかけた。いつの間にか、二人の両脇には一体ずつ達磨がいる。本来ならば、初めてのデートで緊張する場面であるはずなのに、ゆらゆらと踊り続けている達磨を見ていると緊張が溶けていくようであった。
一体この状況は何なのだろう。思わず、由香は笑っていた。すると、隣でもぐもぐとおやきを食べていた健介が、一口お茶を啜ったかと思うと、神妙な顔つきで湯呑を置いた。
「あなたは、僕の奥さんになる人なのだと思います」
唐突な言葉に、由香の笑いは引っ込んだ。顔が赤くなっていくのを感じる。健介は、まるで天気の話でもするかのように淡々と話し始めた。
「僕は小さい頃から勉強ばかりしてきました。純粋に勉強することが、楽しかったし、それこそが僕のやるべきことだと思って、わき目もふらずに」
由香は健介が何を言おうとしているのか戸惑いつつ、そして、先ほどの強烈な言葉の意味を計りかねながら、耳を傾けた。
「友人や同僚が、普通に女性と知り合って、結婚して家庭を築いているのを見ながら、僕はこれといった感想も持たず、ひたすら勉強に打ち込んできた。でもあるとき、ふと気になった」
湧水を湛えた池では、岩に上がった亀が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
「ふと、勉強以外のものを見てみたくなった」
由香は首をかしげた。
「そしたら、目の前に達磨が踊っていたのです。ゆらゆらと奇妙な動きで。僕は、初め頭がおかしくなったのかと思いました」
「勉強のしすぎで」
由香の言葉に健介が深く頷いた。
「本気で悩みました。これは、病院に行くべきではないかと。でも医者に行ったところで、信じてもらえるだろうかとも思いました」
「分かります。私も同じく悩みましたから」
「悩んでいた時に、由香さんとの話が降って湧いてきたのです」
「湧いてきた」
「そうなのです。それで、きっとこの達磨は、この見合い話の前兆なのではないかと思うように」
「分かるような、分からないような」
「人生に意味のないことはないのだと僕は思います。僕がずっと今まで勉強ばかりしてきたのも、こうやって達磨が現れて、目の前で踊っていることも。全て僕にとって意味のあることだと」
「踊る達磨に意味ですか」
「調布駅にあなたが達磨とやってきたとき、確信に変わりました。僕は悩みながらも奇妙な達磨を受け入れた。そして、あなたも戸惑いながらも達磨を受け入れている。そんな僕とあなたは、出会うべきだったのだと」
やっとここにきて、あの衝撃的な言葉の結論に辿りついたことに、由香は気がついた。
人生には意味がある。だとしたら、私が今まで生きてきたことも、男性と出会いもなく仕事ばかりして、悩んでいた日々にも、全て意味があったというのだろうか。全ては、自分と同じように踊る達磨を連れてきたこの男性に出会うためだったと。
二体の達磨は踊り続けている。
出会ったばかりにも関わらず、プロポーズのような言葉と達磨を絡めた人生論のようなものを真剣に語る目の前の男性に、由香は不思議と親しみが沸くのを感じた。確かに、達磨が現れて由香は動揺した。でもどこかで受け入れていた。それはなぜだろう。なぜかこの達磨が、不気味で嫌悪する存在に思えなかったからだ。ましてや息苦しく感じていた毎日の生活に、どこか肩の力を抜いてくれたような気もしていたのだ。
由香にはこの達磨の意味など分からない。でも、これは悩むべきことではなく、笑うべきことだということは分かる。
その考えに至った時、由香は肩を揺らしながら笑い出していた。隣では健介が不思議そうに目を丸くしている。
「おかしいですか」
「おかしいどころか、この状況にも、あなたの言葉にも嬉しくて、何だか笑いが込み上げてきます」
ハンカチで目じりを抑えながら笑っていると、健介も肩を揺らし始めた。いつの間にか二人で声を出して笑っていた。通りを歩く人々が、二人の笑い声に誘われるように振り返った。
理屈などない。直観として、目じりを垂らして笑う健介の笑顔が、とても素敵だと由香は思った。もっとこの笑顔を見ていたいとも。
二人は、深大寺境内へと向かった。二人の先を二体の達磨は石段の上を器用に回りながら踊り、登って行く。
「達磨に見とれて、私が転びそうです」
由香の言葉に、健介は静かに手を握ってきた。健介の手はとても大きくて温かだった。
二人は本堂で手を合わせた。参拝が終わると、またどちらからともなく手を繋ぎ合わせた。
「おや。どこへいったのでしょう。達磨が消えましたね」
驚いて辺りを見回すと、健介の言う通り達磨の姿はどこにもなかった。
「これでやっと落ち着いて話ができますね」
「二人きりになると、逆に落ち着かなくなってきました」
健介は由香を見下ろすと、優しく微笑んだ。
「もう少しこの辺を散策したら、深大寺蕎麦を食べましょう。蕎麦はお好きですか」
「大好きです」
由香は思わず答えていた。
「あの、お蕎麦も健介さんもという意味です」
深大寺の優しい木漏れ日が二人を包み込む。
そして、この瞬間から、二人の恋は踊り出した。

右城 薫理(東京都調布市/43歳/女性/家事従事)
暮も押詰った十二月下旬、昼食後の眠気と戦いながら欠伸をかみ殺していた時、外線電話が鳴った。
「税務調査の件で連絡させて頂いております。年明けに事前打ち合わせをお願い出来ればと思います」大村総括主査と名のる女性は事務的に告げた。目が覚めた。経理部の仕事とは言え、税務調査はいつも気が滅入る。一旦始まれば、この招かれざる客のお相手が三~四か月は続く。お陰で年末年始休暇は重い気分で過ごす事になる。十月で会計帳簿を締め、十二月末までが決算処理、それに続いて法人税の申告を一月末までに行う。その直後に税務調査だから息をつく間もない。年明けの金曜日、担当の部員と伴に会議室で調査官一行を待ち受けた。挨拶を済ませ、五人の名刺を着席順にテーブルに並べる。西島正人はあらためて「総括主査 大村麗子」と書かれた名刺の文字を見た。麗子だ。今は眼鏡をかけているが面影がある。中原麗子とは大学のゼミで一緒だった。先程「はじめまして」と紋切り型に挨拶したが、そうではなかった。麗子の部下の調査官のひとりが翌月から始まる税務調査の事前準備に関して説明を始めたが、内容が全然耳に入ってこなかった。麗子は私と同い年だから結構な歳だ。彫りの深い目鼻立ちの整った色白な面立ちは昔と変わっていない。目尻のあたりに少し皺が増えたか。彼女が私に気が付いたかどうかは分からない。

大学を卒業したのはほとんど三十年前だ。多摩丘陵の一角を占める私達が通った大学は当時都心からその地に移転して間がなく、周りに遊ぶところもなく広くて新しいことだけが取り柄のキャンパスだった。麗子と初めて話したのは2年の暮れで3年次から始まる会計学を専門としたゼミの顔合わせ兼忘年会が居酒屋で行われた時だった。新入ゼミ生は十五人ほどだったが、宴席を決めるくじ引きで幸運にも彼女の隣の席になった。
「どうも、西島です。よろしく」
「中原です。こちらこそ」
「火曜の2限目の経済原論の授業、いつも最前列の席に座っていますね。僕も一緒の履修です。同じゼミになれて嬉しいです」そのうちひとりずつ自己紹介が順番に始まった。彼女はウヰスキーのテレビCMをパロって 「 "少し愛して、長く愛して"の大原麗子と一字違いの中原麗子です」、と微妙な空気を漂わせた。ちょっとはずしているが、数少ない女性のゼミ員なので許された。彼女の名を知らなくとも、その存在を経済学部内で知らない者は当時いなかった。彼女は美人女子大生を表紙にする週刊朝日にも載ったし、体育会乗馬部でもエースだった。インカレ上位入賞で学内のスポーツ新聞にも取り上げられていた。小柄ながら手足の長い体型と大きな瞳、高い鼻梁、そして長い黒髪、中近東系を思わせるエキゾチックな顔立ちはキャンパスですれ違う男性を振り向かせるには十分魅力的であった。もし当時、大学ミスコンがあれば上位入賞の本命間違いなしだ。ゼミ内でも、果敢にアタックをしている者もいて、斉藤健一もその一人だった。生意気にも車通学をしていて家が同じ方向だったので、時々彼女の自宅の最寄り駅まで送り、交際のきっかけをうかがっていた。彼の努力は報われることはなく、後の時代で言う所謂アッシー状態だった。彼女は少なくとも学内に特定の彼氏がいるという噂は聞かなかったし、学業に専念する模範的な学生であった。当時の典型的な学生であった自分や健一は、サークルや麻雀、ビリヤードに飲み会と勉強は二の次でモラトリアムを謳歌していた。私達は学生運動もすっかり下火になった頃に現れた、今では死語になった「新人類」と言われた世代だ。山中湖で行われた夏のゼミ合宿の時だった。最終日の打ち上げで将来について、みんなで話しをした。当時はバブル景気の前兆期で新卒の就職は売り手市場だった関係もあって、多くは大手企業への就職を希望していた。私は第一に給料が高いところであれば、仕事自身にやりがいとか、生きがいとかを求めるよりも、生きるための糧をそこで稼ぎ、その金で自分の時間を楽しみたいと言う考えだった。今思うと、世間知らずの小生意気な若造だった。麗子は公務員志望だった。親方日の丸の安定が主な理由ではなく、社会貢献が実感できる仕事がしたいと言った。派手な容姿の割に考え方は堅実そのものだった。秋になっても相変わらず自分は明確な将来へのビジョンもなく自堕落な学生生活を貪っていた。単調な生活が退屈だった。大学入学以来、塾の講師のアルバイトで貯めた金がある程度まとまった額になったので、3年終了時に一年間休学をしてアメリカへ語学留学に行くことにした。もう少しモラトリアムの湯船に浸かっていたかったからだ。今の学生だったら、さしずめ自分探しの旅に出るとでも言うのだろう。私は旅立に際して心残りがあった。麗子と一度デートしたかった。自分の中で何かモヤモヤした彼女に対する不完全燃焼の気持ちに区切りをつけたかった。憧れの延長線上にある好意が、恋心ではないと言えば嘘になる。同じ時間、空間を二人でほんの少し過ごしたかった。今で言う厨二病。遅れての罹患だが。大学が春休みに入った二月のとある日、思い切って麗子に電話をかけた。幸い本人がでた。彼女以外の誰かが出たらと思うと気が気ではなかった。スマホを家族一人一人が所有する今の時代では決して味わえない緊張感があった。
「一年間アメリカに語学留学することにした。来月早々に出発するけど、その前に二人で会えないかな?今月の最後の日曜の十一時、深大寺の山門で待っている。家、調布だったよね。散歩がてら来てよ」
「突然、何?留学?初耳ね。悪いけど最近、就職試験準備で忙しいの・・・ でも行けたら行くね」
当日、今にも泣き出しそうな曇天の中、深大寺山門で小一時間待った頃に麗子は現れた。
「 "少し待たせて、長く待たせて、中原麗子です"遅れてごめん」
「つまんねえ~ でも今日はありがとね」
「寒いから、先にお参りしようよ」
本堂にお参りした後、寺務所に立ち寄り、「今日、待たせたお詫びと無事を願って」と御守りを渡された。門前の老舗蕎麦屋で天そばと熱燗で昼食。神代植物公園まで足をのばし、紅梅、白梅が咲き匂う園内で春の兆しに触れ、思い出のひと時を過ごした。

二月から始まった税務調査も佳境に入った五月の中旬、西島正人は大村総括主査と調査会場の会議室で二人きりで向き合っていた。ゴールデンウイークを挟んだ二回の交渉の結果、追徴課税額を米国本社の設定した金額までに抑えることができた。ひと安心だ。税務調査の話がひと通り終わったところで大村総括主査ではなく、個人としての旧姓中原麗子に切り出した。
「大村総括主査、大学の同じゼミ仲間として、少しお話ししてよろしいでしょうか?」「そうですね。私もお話ししたいと思っていました。まず調査を第一に考えて同窓であることを明かさずに配慮して頂いた事を感謝します。再会は偶然とは言え、"びっくりぽん"です」
「朝ドラからの・・相変わらず微妙ですね。ところで私は語学留学を名目にした気ままな旅から帰って、ゼミのみんなとは一年遅れで卒業し、今の外資系企業に就職しました。中原さんに帰国後一度電話をしたのですが、つながりませんでした。中原さんは希望通り公務員となり、活躍されているのを知り嬉しかったです。こんな形でまた会えるとは何かの縁ですね。三十年前、深大寺で会って以来で懐かしかったです」
「私が卒業して入局した頃、父の転勤で私を除く家族は引っ越して、私は一人暮らしを始めました。最後に会ったのが深大寺ですか。私は記憶にありませんね。他の誰かと勘違いされていませんか?」
「会っていますよ。現に中原さんから深大寺でもらった御守りまだ返納せずに家にあります。そうだ!今度の日曜、一緒にお礼参りに行ってください」
「御守りですか、気になりますね。何か思い出すかも。日曜なら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。三十年前と同じく、深大寺の山門、十一時と言うことでお願いします」

「おはよう~待った?」麗子は深大寺の初夏を彩る新緑の木漏れ日の中から白いワンピースで現れた。口調も今日は昔のままだ。
「全然。待っていない」と私。調査期間中見慣れたスーツ姿と違って華やいで、眼鏡も外している。若き日の彼女の姿が瞳の裏に蘇る。年甲斐も無くときめく。
「よお。西島、元気だった?」
麗子の後ろから頭髪の薄い小太りのオッサンが馴れ馴れしく話しかけてきた。この声、聞き覚えがある。
「もしかして斉藤か?何でお前が今日ここに・・・」
「麗子は俺の嫁さんだ」
「えっ、でも苗字が・・・」
「俺は高校の時にお袋が再婚して、大村姓になった。付属高校から推薦で大学に進学した時、面倒なのでずっと旧姓の斉藤で通した。4年の時に麗子と同じく国税専門官試験に合格して、入局後付き合いが始まり結婚した」
「昔話はお参りの後で。お蕎麦屋さんでお昼をとりながらにしたら」と麗子。
持って来た御守りの感触が掌から薄れて消えていく。"少し待たせて、長く待たせて"三十年前の言葉が甦る。あの時待たされた後、本当に麗子に会ったのか不安を覚えた。常香炉から漂う煙が眼にしみる。

多摩 三郎(神奈川県川崎市/男性)

 午前8時48分、深大寺発調布駅北口行きのバスを、私は主人である一哉と待っている。

 初夏だというのに、まだ朝は肌寒い。冷たい空気に、私が派手なくしゃみをすると、一哉は愉快そうに笑った。

「なんだ、豪快だな」

 いつものように軽口を叩いて私をからかう。

そんなところは嫌いじゃないけれど、今朝は少し恥ずかしくて、一哉の柔らかそうな目じりのシワを軽く睨んだ。


 週に3回、目の不自由な一哉の通院のため、私たちはこのバスを利用している。もう3年になるだろうか。

 もともと私は、この地域で生まれ育ち、近くの公園を駆け回るような子供時代を過ごしていた、が、学校に入る頃には、ここを離れてしまったから、特別な思い入れはなかった。

 それでも今、この地域で一哉と暮らせることを幸せに思っている。

 一哉と出かければ、ご近所さんも、参道の商店の人も声をかけてくれ、何かと親切にしてくれる。静かな暮らしの中で暖かな人の優しさに、故郷というだけでなく、私はこの街を気に入っていた。


 そんな穏やかな日々に、この小さな秘密が現れたのはいつからだろう?

 自覚したのは、ほんの一瞬、顔なじみにくれただけの、あの人の笑顔を見てからだった。すれ違う時に、確かに私に向けられる笑顔。

 ただ、それだけ。


「そろそろ来るかな......」

 一哉の声で我に返った。

 誰も知らない秘密を乗せ、バスが近づいてくる。

 私は少し身構えた。一哉は見えなくても、私のことをしっかり観ている。

 もう、すでに気づかれているかもしれない。

 バスが止まると、あの人は今日も少し眠そうな顔で降車してきた。まだ歳は20代だろう。ツヤのある髪のサイドを思い切りよく刈り込んだ髪型は、精悍な作りの顔によく似合う。

 細身の白いシャツは少し着崩れて、頼りなく見えるところが、女心をくすぐる。

 普段の凪いだ生活の中で、彼の無自覚な若さは私には眩しいくらいだった。

 あの細く長い指に触れられたら、どんな感じだろう......。

 私は降車客を待つふうに、何気なく彼を見上げた。本当にさりげなさを装う、ここが毎回緊張する。

 やはり彼は、私を見つけると嬉しそうに会釈をしてくれた。鼓動は最高潮に高まる。

 この数秒だけの恋。

 彼は決して振り返ることなく、バスを降りるとそのまま、道に沿って歩いてゆく。

 私は淡く軽い秘密を抱え、素知らぬ顔でバスに乗り込んだ。


「ん? 今朝はずいぶんとご機嫌だな」

 一哉は何気なくつぶやく。

 目の不自由な彼は、目が見える私よりも世界が良く見え、良く知っている。感覚が研ぎ澄まされているからだろうか。

 季節も、天候も周囲の感情や状況も、見えるものより敏感に感じ取ることができる。

 それでいて、一哉はいつも世界に寛容だった。時に、見えない目で観る世界を面白がり、楽しむことのできる彼を私は尊敬し、心から愛していた。

 私のことだってすべてお見通しなのだから......。

 ただ、からかわれていることが分かっていても、私は見透かされたかもしれない恥ずかしさに、そして小さな罪悪感に、何も答えずそっと目を伏せた。


 病院の帰りにバスを降りると、私たちは少し散歩するのが日課だった。

 深大寺の山門をゆっくり上り、神様にご挨拶をしたら、帰り道に植物園へ寄る。ここで巡る季節の中、私たちはバラ園の香りに癒され、雑木林で落ち葉を踏む音を楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾けた。

 この季節なら、私は青葉の落とす濃い影を、一哉は青い香りのする風を楽しみながら歩く。

 いつもの分かれ道に出ると、一哉は迷わず左へ曲がる。右手から聞こえてくる、幼い歓声に私たちは背を向けるように植物園を後にする。

 これも私への気づかいだとわかっている。

「すまんな......」

 この時だけは、普段愉快な一哉も、少しさびしそうにつぶやく。

 私は一哉との、この静かな生活を愛しているのに。何も悪くはない彼に、返す言葉が見つからないまま、いつものように私は、聞こえないフリをした。


 その夏、一哉が体調を崩して寝込んでしまうと、私たちはあのバスに乗ることもなくなってしまった。

 最後のわがまま――私と離れたくない、そう言って、一哉は最期を自宅で迎えたいと希望した。

 一哉に残された時間は、そう多くはないという現実を受け入れることに、私は精いっぱいだった。時々、バスの彼を思いだしたりもしたけれど、小さな秘密は、小さなまま、やがてホコリをかぶり私の心の片隅に放って置かれた。

 生命あふれる、騒々しくも眩しい外界とは、異空間のような静かな夏を私たちは過ごした。熱い太陽の光に焦がされる窓の外で、うるさくセミが鳴いても、この家の中はひんやりと薄暗く静かだ。定期的に鳴る機械音と、一哉の細いうめき声が時折重なる他には、永遠に時が止まってしまったように思える。

 浅い息の下で、一哉は囁くように私に言った。

「また、植物園へ行きたかったな...。そうだ、今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう...」

 もうお互い、そんなことができる年でもないのに、またからかって......。

 こんな時でも、冗談を言う彼が愛おしい。

「ごめんな、もうあのバスには乗せてあげられないな...」

 そんな......。一哉はやはり気づいていたのだ。私の小さな秘密に。

 私は一哉に頬を寄せ、静かに泣いた。そうしていつまでも、彼のベッドに寄り添っていた......。


「たまには気分転換に外出しなきゃ」

 一哉が逝って、落ち込んでいる私を、お節介な友人は無理やり外へ連れ出した。正直まだそんな気分じゃない。仏頂面で車に乗り込んだが、窓から見覚えのある街並みが流れて、あの植物園へ向かっているとわかった。

 車を一歩降りると、なつかしい空気とともに、一哉との思い出が一気に流れ込んできた。一緒にいたころと同じ、暖かい日差しを浴びると、幸せな記憶が私を包み込む。

 枯れ葉を踏みしめる音を楽しみながら進むと、私たちはいつもの分かれ道に出た。

 友人は迷わず右へ向かって行く。

「向こうに広いドックランがあるの。可愛い子がたくさんいるかも」

 ゆっくりと友人について行くと、お祭りのように賑やかな広場に出た。

 いつも楽しそうな声はここから聞こえてきたのか。思っていたよりも大勢の人がここを利用していた。何故だか、体の奥から湧き上がる、弾むような感情が胸を叩く。

 公園で遊ぶ人の中に、見覚えのある細い背中を見つけた。

 バスの彼だった。懐かしい友人に再会したような喜びに、考える前に体は動いていた。

 人をかき分け、傍へ駆け寄る私の足が、止まった。

 彼は――若い女の子を連れている。

 出来るだけ驚かさないよう、私は彼の連れている女の子にゆっくり近づき、声をかけた。

「こんにちは、あなたのご主人、素敵な方ね」

「え? ...あ、はい。ありがとうございます...」

 突然、年配の女に声をかけられて、戸惑っている女の子の傍に、彼は首をかしげながら駆け寄ってきた。


「こんにちは。......あれ? 見覚えあるなぁ」

「すいません、急に」

 慌てて追いかけてきた友人が、彼に挨拶する。

「いや、見覚えあるなぁと思って」

「ああ、もしかしたら街ですれ違っているのかも。この子は盲導犬を引退したばかりなんです」

「......ああ、あの子だ!」

 彼は私を思い出すと、あの時と同じ笑顔で、あの細く長い指で私の頭や首を撫ではじめた。

 あれだけ夢想したのに......感触はまったく違うけれど、その暖かさは一哉を思い出させた。

「現役のころ、こんな場所で遊ばせるのは難しかったそうです。亡くなったご主人が一度連れて行ってあげたかったと仰っていて...」

 お節介な友人の声を置いて、私は新しい若い友人を追い、駆け出す。


『今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう』


 走る風に瞬間、一哉を感じて、私はもっと加速した。


うどうのりこ(広島県)

 子どもの頃、引っ越し先はいつもお寺の傍だった。
 裁判所に勤める父には定期的に転勤があったが、どの地域でも官舎からは決まって隣り合う広い墓地が見えた。なぜかは分からない。地代が安かったのかもしれない。
 だから今でもお寺と聞くと、真夏でも、お参りの人がいてもひんやりと沈黙していた墓石の連なりを思い出すし、ただいまと玄関を開ける前に官舎の外廊下から見えるその光景をどう受け止めれば良いのか迷っていた少女時代に立ち返るのだ。
「――紫陽花、もう枯れちゃってるんだね」
 境内へ続く生垣を目線で指して、堺君は愛想よく笑った。唇から覗いた歯が生えたてみたいに真っ白い。私はその視線を辿り色のない花弁の瑞々しい様子を見て、
「小学校の理科の問題みたい」
「なに?」
「習わなかったっけ?中性の土で育つと紫陽花に色がつかないっていうの」
 そうだったかなあと堺君が惚けたところで最後のバス停を過ぎ、私たちは目的地へ到着した。敷地の境界には青々と繁った木々が濃い影を落としていて、一瞬、強く目をつむった。打ち水のされた参道。土産物屋を覗く観光客。蕎麦屋の看板。
「楽しそうだね」
 拍子抜けした声の私に、堺君は「あ、この先にまだ店並んでてさ」と見当違いな弁解をした。そのくせちっとも臆していなくて、男の子らしい軽そうなスニーカーが打ち水を踏むたびシャリシャリと音を立てた。
「抹香の匂いがあんまりしないね」
「そう?」
「お墓も見当たらない」
「こっちはメインストリートだから」
 参道をメインストリートと評する彼の世界観には、いつもクスリとさせられる。そして言ったそばから、
「青いのは、水をたくさん吸ったんだと思ってた」
 真顔でそんなことを呟く。正面の山門脇の紫陽花は今が盛りだった。
 調布で一人暮らしを始めたと同期の女の子に話すと、隣のテーブルからいきなり挙手して会話に参戦してきたのが堺君だった。自分は就職するまで深大寺の近くに住んでいた。高井さん行ったことないの?じゃあ今度案内してあげるよ。焼鳥をぽんぽんと口に放り込みながら気安く笑っていたから、私もグラスを傾けつつ、じゃあお願いしますと笑って返した。行きたくないなと思ったわけではなかった。ただ、その前に立て続けに三度も食事に誘われるとは思わなかったけれども。
「こういうのは五円玉だって、昔からお袋が譲らなくてさ」
 本堂の前で、食事の誘いと同じ身軽さと強引さでもって彼は五円玉を差し出してきた。押し合いへし合いが何往復かするも、結局は私が折れることはもう二人とも了承済みだ。
「そういう迷信みたいなの普段バカにしてるくせに、子どもには躍起になって御利益与えようとするようなとこない?母親ってさ」
 石段を上りながら、堺君が会話をつないでくれる。私は、微笑みだけを返して神妙に正面を向き、本堂に一礼した。堺君も慌てて私に倣う。貰ったばかりの五円玉を投げてしまうと、私は目を閉じられないまま、本堂の暗がりをじっと見つめて両手を合わせていた。今目を閉じれば、瞼の裏には母がいるような気がした。
 私にはほとんど記憶のない母だ。いつ、なぜいなくなったのか未だにはっきりとは聞いていない。
 ただ父と、同じくらい寡黙な兄と共に嗅ぎ慣れた抹香の土地を離れ、また新たな墓地の並びを見下ろす官舎へと移り住むことを繰り返すうち、多分母はもうどこにもいないのだろうという観測がゆっくりと心に根付いていった。そのことに各々が触れないながらも確信していけるように、私たち家族はお寺を渡り歩いていくようだった。
 だからお寺へ出掛けようと言われて、実家の近くなんだとにこにこと誘われて、心のどこかでもう気が滅入っていた。そんなのは彼を遠ざけるための言い訳じゃないかと何度自分を馬鹿にしても、億劫になった心は簡単には向き直らなかった。
 そっと伺った横顔の、短い睫毛が埋もれるくらい目を瞑った様子が子どもみたいな堺君。その目がふと開いて、きょとんを私を捉える。
「小さい子みたいに真剣にお祈りしてたよ」
 一緒に出掛けるのも最後かもしれないと思うとずけずけと物が言えてしまうのは私の変な癖だ。それでも彼は大して気にした風もなく澄ました顔で、
「高井さんは子ども好きそう」
 私は、曖昧に笑って砂利を爪先で弾いた。
 子どもは確かに嫌いではないけれど、今の堺君が言った「子ども」とは恐らく自ら育てる家族としてのニュアンスが含まれている。そしてその意味で言うと、家族というイメージが私には雲のようにぼんやりと掴めない。
 やっぱりダメかなと、こっそり自分に溜息をついて考える。彼は悪くないのだけれど、こうして歩いているだけでも二人の間に齟齬が生まれている。その齟齬を埋めていくことが恋愛の楽しみじゃないのと女子力の権化のような友達は力説するけれど、どうも彼とは埋めていかなければならない項目が多すぎる気がした。真っ白な歯並びを横目に見ながら、その齟齬を彼にも気づいてもらいたいと思う。ずるい算段だ。
「私の家さ。父親の転勤が多かったんだけど、引っ越し先がいつもお寺の隣だったんだ――」
「ああー、だから高井さん頭いいんだ!」
 私の語尾を食い気味で、そのくせやけに納得した感嘆符を堺君は発した。私は心底不思議で、
「私、頭いいような言動を堺君の前でしてましたっけ?」
「してますよ。ていうか、その発言の感じがもう頭いいっぽい」
「胡散臭いな」
「でも普段からそう感じるもん。たまに研修とか会議とか一緒になった時もさ、隙あらばスマートに助け船を出すべく身構えてても、高井さんはそんな隙見せない」
 真顔で返すから、ちょっと笑いそうになる。
「でも、それがうちの引っ越しとどう関係するの?」
「ホラ、あれ。お線香の煙浴びると頭が良くなるって言わない?」
 今行き過ぎた常香炉を振り返って、彼は両手で頭に煙を浴びるジェスチャーをした。そんな迷信は知らない。首を傾げると、「ええー、堺家は寺に来るたびにみんなでこれやってたのにな。マイナー迷信だとしたらすげえ恥ずかしいじゃん」と嘆いた。頭が良くなるよと抹香を全身に浴びて、五円玉を握りしめて参拝に臨む堺家の図は、今、口では嘆きながらもきっと笑い話にしかしないだろう彼の姿を見ていれば容易に想像がつく。私には遠く眩しくて、近寄り過ぎる前にいつも逃げ出してしまう他人の履歴だ。それを、この人は私が逃げ出そうとする素振りを見せる前にぽんぽん差し出してくる。
 茅葺の正門を潜ると、最初に彼が話していた土産物屋が両脇に並んでいる。打ち水が蒸発して、石段を下るほど足元から熱が来る。
「そういえばさっき、小さい頃お寺の隣に引っ越しがどうって言ってたよね。話の腰折っちゃったけど、なんだっけ」
「そう。どこへ越してもお墓とお線香の匂いがついてきて、縁起が悪いなって思ってたの」
「ふうん」
「でも、堺家方式で考えると全然縁起が悪くないから、どうでも良くなっちゃった」
「ハハハ、そりゃ良かった」
 くっきりとした喉ぼとけを見せて、彼は快活に笑った。なんだか、身体のパーツまで大らかな人だと思った。隣にいると、こちらの思考まで大まかになっていくみたいだ。
 店先の小物を物色しようとしたら、急に目を覗き込まれて、明朗に尋ねられた。
「今日だけじゃなくて、また一緒にどこか出掛けてくれる?」
 そして私は、漸く知るのだった。彼は、逃げ出そうとしていた私にとっくに気づいていたこと。敏感に気づいていたのに、そんな私から逃げずにこうして問いかけてくれたこと。
 私の心がぐずぐずと引っかかり続けいていること。人を投げ出してしまいたくなる癖。私の履歴。それらはただの言い訳で、本当は私自身の怠惰に過ぎないかもしれないこと。彼はまだ知らずに尋ねているだろう。それでも、私は「そうだね」と答えて、はっきりと頷いた。堺君はそれ以上言い募らず、視線を他所へ投げた。
「アルカリ性だ」
 くっきりと青い紫陽花の花を指して、教えてあげる。堺君の目が、また少年みたいにくるりと驚く。
「青は、アルカリ性の色だよ」
 ホラ、やっぱり頭いいじゃん。よく水を吸った植物のような伸びやかさで、彼が笑った。

薫(東京都/28歳/女性)

1

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
→第13回公募 募集要項

Facebookはじめました

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。
転載等に関してご質問がございましたら、事務局までご一報下さい。

深大寺周辺地域紹介

深大寺地域観光マップ

Facebook始めました

最近のトラックバック