夜露で、健太のブルゾンは濡れていた。どこかの家の軒下にでも寝ていたのだろう。昨夜遅く、一杯飲み屋で焼酎をストレートで飲んでいたのは覚えているが、そのあとのことは霧に包まれたようで、まるで記憶がない。胃の底に汚物がたまっているような不快感で、吐き気がこみ上げてくる。ふと顔を上げると、目の前にお寺の境内が広がっている。深大寺という由緒あるお寺だ。山門には白梅がかれんな花びらを満開に咲かせている。柔らかな朝日が境内の木々の瑞々しい葉を照らしている。健太は水が飲みたかった。体の五臓六腑が水分を欲しているようだ。喉がひりひりするほど渇いている。お寺なら、水のみ場くらいあるだろうと、アルコールで浸された頭で考えてみた。
 森の木立から鳥の鳴き声が聞こえてくる。山門から本堂に向かってよろよろしながら歩いていくと、ピンクのカーディガン姿の女性が両手をすり合わせて熱心にお参りしている。こんな朝早くに境内にいるのは、健太とその女性だけではないか。年の頃は三十代半ばくらいだろう。ロングヘアーを後ろで束ねている。サンダル履きなので、近所に住んでいるのだろうと思った。健太は少し離れた太い大木の影から、その様子を眺めていた。というより、余りの二日酔いのひどさに、木に寄りかかっていたかったのだ。その女性は何か、口をもぐもぐ動かしている。お願いごとでもしているようだ。
 本堂の中には、確か阿弥陀如来像が祭られていると記憶している。深大寺からそう遠くない安アパートに住んでいるとはいえ、お寺に足を運ぶことなどまったくない。信仰心がないわけではないが、そういう生活と縁の遠い生き方をしてきた。ましてや、ここ数年の間に、自分の身に降りかかった不幸せを考えると、世の中に本当に神仏がいるのかどうか、疑わしくなってくる。その女性もきっと、何か困りごとがあって 藁にもすがる思いでこのお寺にやって来たのだろうと健太は思った。
 女性は十分間くらいも手を合わせていただろうか。ようやくお参りを終えて、踵を返した。そのとき顔がはっきり見えたが、頬が濡れていた。手にしていたハンカチで、そっとまぶたをぬぐっている。顔はいくぶん青白く、髪もほつれている。ひょっとしたら、体が悪いか寝ていないのではないかと、酔った頭で健太は考えた。
 女性は石の階段を下りるとき、ふらっと体が揺れたかと思うと、しゃがみこんでしまった。健太はその場に駆け寄って、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 女性はびっくりしたような表情で健太を見上げた。濡れた目が朝日に光っている。
「具合が悪いのでしたら、救急車でも呼びましょうか?」
健太は二日酔いで多少、呂律が回らない口調で話しかけた。
「いえ、もう大丈夫です。ちょっとめまいがしたものですから」
女性は鈴の音のような声で答えた。
 健太は手を差し出すと、女性は素直に応じて握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
 境内には緑の木々の葉がかもし出す、むせるような匂いで満たされている。
「深呼吸をすると、いいかもしれませんね」と、健太は自分から大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。肺の中の細胞ひとつひとつに新鮮な空気が吸い込まれ、体全体にエネルギーが注ぎ込まれるような感じがした。
「僕は二日酔いで具合が悪いんです」と健太が言うと、女性はふふと含み笑いをしてから、同じように深々と息を吸い、吐き出した。女性の顔に赤みがさしてきたようだ。都会の喧騒の中で、深大寺の空気だけはまったく別世界のような新鮮さを健太は感じた。

 肩を並べて、ゆっくりと元三大師堂に向かって歩き出した。周りは雑木林が覆い茂り、都会の中で暮らしていることを一瞬、忘れさせてくれる。健太は生まれ育った北国の田舎の風景を思い出していた。
「何かお願いごとがあったんですね。長い時間、神仏に手を合わせていたから」
健太の声は二日酔いを忘れたかのように弾んでいる。
「見てたんですか。身の上にいろいろありまして、もはや自分の力ではどうしようもないところまで、追い込まれてしまって」
 女性の声は消え入りそうだった。話によると、次のようなものだった。女性は三十五歳で、百合子という名前だった。夫が血液のガンで半年前に急死し、幼い子供を二人かかえて、途方に暮れているという。収入がなくなったため、ビル会社の清掃のパートに出ているが、親子が暮らしてゆくにはほど遠い収入の少なさ。将来を考えると、胸が押しつぶされそうで、毎日死にたいと思っているというのだ。
 健太も正直に身の上を話した。「僕もね、会社をリストラされ、収入が途絶えました。そのとき、妻は子供連れて実家に帰ってしまいました。それから、僕は毎日、真剣に職を探しましたが、四十も半ばだと再就職はとても難しく、履歴書の段階ではねられてしまうのです。面接さえ、受けられないのですからね」
 健太の口調は自嘲めいていた。
「昨夜も安酒場で飲んで、べろべろに酔い、どうやら野宿したようです」と、健太は冗談めかした口調で言い、伸びたひげをなぞった。女性は無言で、健太の話を聞いている。
 森の木立の隙間から、絵の具を塗ったような青い空がのぞいている。小鳥たちのさえずりが耳に心地よい。
 「人生、七転び八起きというではありませんか。一生懸命、生きている人間を神仏は見捨てることはないはずです。真剣に願い、できる限りの努力をしていれば、きっと良い方向にゆくと思いますよ。ぜったいにそうに違いありません。夢と希望を捨てないことです。神様は奇跡を起こすのですから」
 健太は自分でも不思議なほどに饒舌に話した。それは百合子のためというより、自分に言い聞かせようと熱弁を振るっているのかもしれなかった。これまで神仏など信じてはいなかった。しかし、これでもか、これでもかと身に降りかかる災難を思うと、最後は神仏しか頼るものはないのではないかと思えるようになった。
「今日はよかったわ、健太さんに会えて。何か生きる勇気みたいなものを与えてくれて、ありがとう。私は両親が早くに亡くなっていて、兄弟はだれもいないものだから、相談する人がいなくて・・・。夫の親とはソリが合わないし、毎日死ぬことばかりを考えていたの。どうしようもなくて、自然と神様に手を合わせていた」
 百合子は途切れ途切れに言った。
 
 時計を見ると、午前十一時を回っていた。かなりの時間を境内で過ごしたが、清澄な空気に包まれて、人生を見つめ直していると、あっというまに時間が経った。二人は山門を出た。その前の通りには門前町の雰囲気が漂い、名物の深大寺そばやお土産屋が軒を連ねている。赤や青の幟もそよ風に吹かれて揺れている。
「お腹すいてませんか? そばでも食べましょう」
 健太は百合子を誘った。
「そうですね。久しぶりにお腹がすいちゃいました」と、百合子の顔は笑っている。
二人はこぢんまりした蕎麦屋に入り、ざる蕎麦を注文した。
「私、男性の人と二人だけで食事するのは、すごい久しぶりなんですよ」
「それは光栄です。もしよかったら、これからもときどき会って食事をしましょう」
 健太は百合子の目を見ながらいった。その言葉に、百合子はこくんと頷いて、柔らかな笑みを浮かべた。開け放たれた店の玄関からは、深大寺を訪れる参拝者の姿がよく見える。うららかな日差しを浴びて歩く人たちの背中には、それぞれの人生が張り付いている。中には思い荷物を背負って、喘いでいる人も少なくないのだろうと健太は思った。ならば、困った者同士が手を取り合って生きてゆくのも悪くはない。いや、人は一人では生きてはゆけないものだから、困った者どうしが助け合ってゆくのが人生ではないかと、つくづく健太は思う。そのことを百合子に伝えたくて喉まで言葉が出かかったが、もう少し自分の身辺を整理してからでも遅くはないと考え直した。
「深刻そうな顔をして、なにを考え込んでいるの?」と、百合子は笑みをたたえながら尋ねた。
「いや、なんでもないんだよ」と健太はあわて気味に、蕎麦湯をごくりと飲み干した。

(了)
 
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<著者紹介>
芝田 賢一(北海道札幌市/52歳/男性/自由業)

 お寺、おそば、そのふたつだけでは足らず、右隣で熱心にそばを食べる男、という状況までが加わって、私はようやく佑太君のことを思いだした。そして、あの日私に訪れた痛みの記憶と、あの日からずいぶん遠くにきてしまったのだという実感、そのふたつがあいまって、私は泣きだしそうになってしまった。
「中学生のときのこと、今急に思いだしたわ」
 涙がでてきてしまう事態をさけるために、私は浩平に話しかけた。
「中三のとき、塾の同じクラスの生徒で初詣に行って、その帰りにそばを食べたの」
 そばをほおばったまま、浩平は私の方を向いてうなずいた。
 浩平の実家で開かれた咲ちゃん――彼のお姉さんの娘で、今日で四歳になった――の誕生会の後、私たちはバスで深大寺に来た。植物公園のアジサイが今きれいだからと、浩平のお母さんにすすめられたのだ。くもり空の下、私たちは植物公園をじっくりまわり、それから深大寺に参拝し、おみくじを買ったり湧水を飲んだりしているうちに夕方になった。運動不足の私たちふたりは歩きまわったことでくたくたになり、それで、せっかくだしおそばを食べて休んで帰ろうという話になったのだ。
「それ、俺もときどきあるなあ」
 自分のそばをきれいに片づけてから、浩平は言った。
「昔の思い出って、ふいによみがえってくるよな。何かをきっかけに」
 今度は私がそばをすすりつつうなずく番だった。
「なんでこんなことまでおぼえてるんだよ、って自分に突っ込みたくなるくらい、細かいところまで思い出せるんだよな。いつも大事なことおぼえてなくて困っているのに」
 私たちは笑みを交わし、それからしばらくそれぞれの思いにふけった。浩平はそば湯を飲みながら、私は残りのそばをすすりながら。

中三のときの元旦の朝、私たち四人は塾の前に集合してから、地元のお寺に合格祈願の初詣に行った。冬らしい乾いた日で、太陽は顔を隠し、空気はきんきんに冷えていた。
部活を引退したあと、私は定年退職したおじいさんが開いている小さな塾――英数だけを教える個人塾で、狭い教室はいつもこもったにおいがした――に通いはじめた。私が入ったのは地元トップの県立高校を目指すクラスで、私の他には女の子二人と男の子一人、全員が違う中学に通っていたのだが、私たちは妙に気が合って、集まると親密な家族のような空気がうまれた。授業前と授業後、小さな教室は笑い声で満ち、私は塾に夜遅くまで残りすぎて母にたびたび叱られた。
女三人の中に溶けこめるだけあって、佑太君は変わった男の子だった。床屋で短く刈った髪の毛には、いつも寝ぐせがついている。自転車に乗っているときは、川本真琴の歌を低い声で口ずさむ。グリコの健康ヨーグルトが大好物で、よく口の端を白くしたまま塾に来てしまって――途中で買い食いしてくるのだ――笑われていた。
私は、いつのまにかその彼を好きになっていた。裏のない自然な親切さとか、うしろ首に浮き出るまっすぐな骨のかたちとか(授業中、たまに目が離せなくなった)、英単語の小テストの前に、突然ぐわっと集中して単語帳に向かう時の締まった横顔とか。
けれど私は、自分のその気持ちを最後まで隠し通した。その頃の私は今より輪をかけて内気だったし、そのことが発覚してしまうと四人の親密な輪が壊れてしまう気がしたからだ。
当時の私にとって、その輪は何よりも大切だった。
初詣を終えた帰り道、年中無休のそば屋の前を通りがかったときに、食べていこうと提案したのは佑太君だった。俺年越しそば食べそこなったんだ、と。他の女の子二人も食べていないと言い、私は前の夜に食べていたが嘘をついた。参拝の行列に並んだせいで体が冷えていたし、すこしでも長く四人でいたかったからだ。
でも、そばを食べはじめてすぐに、私はそのことを後悔した。
四人そろって志望校に合格しないかぎりこの輪は失われてしまう、と私は考えていた。だが、志望校の人気と私たちの成績とを分析すると、その可能性はゼロに近い。つまり、年が明けたということは、大切な輪を失う年になったということを意味していた。参拝の間は、ただお寺に遊びにきたというふうに思うことで現実をごまかしたのだが、そばを食べているうちに、年が明けたという事実も一緒に私の中に入り込んできたようにふと感じ、一度そう感じてしまうと、もう自分をごまかせなくなったのだ。
 三分の一ほど食べたところで、私はついに箸を置き、
「みんな、受かるのかな?」
 と言ってしまった。心の中でふくらんだ不安を、抑えきれなくなったのだ。
それまで私たちの中で、その話はタブーだった。向かいに座っていた女の子二人の顔に戸惑いの色が広がった。
「そりゃそうだよ」
 横に座っていた佑太君が、食べる手を止めずに言った。
「受かるって、全員」
 私の好きな例の真剣な横顔で、さも当然のように。
 力強いその言葉に女の子二人は安心し、再びそばをすすりはじめた。一方、私は自分が恥ずかしくなって、その場から逃げだしたいと思い、その気持ちと同じだけ強く、佑太君にがっしり捕まりたいと思った。
 だが、そのどちらもできるわけがない。
途方にくれた私は、彼の椅子に無造作にかけられていたジャンパー(ふかふかした黒のナイロンジャンパーで、一枚で防寒できるその道具はいかにも彼らしかった)の袖をこっそりと掴み、かろうじてその席にとどまっていた。
「食べないんだったらもらってもいい?」
 佑太君に笑顔で訊かれて、私は思いきり動揺しながらうなずいた。そしてうなずいたのとちょうど同時に、信じると決めた。信じて力を尽くす以外、方法はないのだから......。

「初詣っていえば、俺、大学に入った年からずっとこの深大寺に初詣に来てるんだ。必ず元旦に」
 そば屋を出たときに、浩平が言った。
「すごいね。縁起かつぎ?」
「うん。浪人した年、俺ひとり家に残って勉強しながら年越していたんだけど、除夜の鐘が耳に入ってくると、前の年はきちんと初詣に行かなかったせいで受験に失敗した気がしてきてさ。一度そう思っちゃうと、なんだかそわそわしちゃって」
「その気持ち、わかる」
「だろ? それで夜中の寒い中、自転車で一時間近くかけてこの寺に来て、缶コーヒー持って行列を並んでお祈りしたんだ。それですっきりして家に戻る途中、雨が降りだしてさ。おそろしく冷たい雨が。そのせいで風邪ひいて、正月中寝込んじゃったよ」
 私は笑った。浩平は、職場で思われているとおり律儀で、しかし職場で思われているより間が抜けていて、私は彼のそういう所を気に入っている。
 浩平の話は、久々に私に訪れた思い出が残していったかなしさを、雨のあとの風みたいに遠くへ運んでいってくれた。
 結局、私たち四人のうち目標校に合格できたのは女の子一人だけで、私たちは別々の高校に入った。また四人で集まろうと言ってはいたが、一度も実現しなかった。私はその流れを、避けられないものとして、自分でも不思議なくらい自然に受けいれることができた。私なりに精いっぱい努力したという自負のおかげだと思う。たとえ奇跡がおきて全員が志望校に受かっていても、いずれは同じ結果になったはずだ。あの小さな輪は、限定された世界でしか成立しえない性質のものだったから。
私は自分の入った高校で新しい輪を築き、佑太君への想いが時の流れの中で溶けてうすまったころに、新しい恋をした。それからくりかえし新しい世界で新しい恋をして、今、すぐ疲れるくせに歩くことが好きな浩平に恋をしている。無理して話題を探す必要はなく、ただ並んで歩くだけで幸福になれることを、私は彼に教わった。
日が沈み、涼しくなった参道は心地良く、左右の雑木林のたくましい木々――中には私の頭上におおいかぶさるくらいまでに生い茂っているものもある――を眺めながらぼんやり歩いていると、エネルギーをもらっているような気持ちになる。
でも冬には、これらの木々は葉を失っているだろうし、同じように私も、失いたくないものを失わないために力を尽くし、でもやはり多くを失って、新しい年を迎えることだろう。
年が明けるとき、初詣の人々でにぎわうこの参道に、私も立っているだろうか?
信じて、力を尽くそう。
そう決めてから、私は浩平のごっつりした手をにぎり、自分が失うかわりに得てきたもの――彼自身と、すこしは成長したはずの私自身――を確かめた。あいかわらず内気なままの私ではあるけれど、それでも。


(了)
 
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<著者紹介>
中川 慶介(埼玉県 所沢市/26歳/男性/会社員)

 家から歩いて十五分。春もまだ浅い中、眠るような本堂の左に一本の木が堂々と立っている。
 ヒトツバタゴ。別名、なんじゃもんじゃの木。そう呼ばれる彼が今回の患者だ。
 彼が盛大に花を咲かせられるよう施肥をするだけなのだけど、高校を出てすぐ樹木医として働き出して三年。僕一人だけで治療する初めての患者が彼とは思いもよらなかった。この木は僕に樹木医を目指すきっかけをくれた。そんな彼に恩を返せることは嬉しいことだ。
 まず施肥のため、地面に二つの円を描く。幹を中心に枝の先端を半径にしたものと、それに三十センチほど足したもの。
 そのために一番長い枝を探していた時だ。制服を着た男女が木に近づいて来て、おもむろにカッターを取り出して幹に傷を付け始めた。
「おい! なにしてんだ!」頭で考える前に口が動いていた。「何の権利があってお前らはこの木に傷をつけてんだ! 木だってな、生きてんだぞ!」
「はぁ? なにこのおっさん。気持ちわりんだけど......あぁ、冷めちった。行こうぜ」
二人は悪びれもせずに行ってしまった。
 拭いきれないものを胸に抱きつつ作業に戻り、十分ほど経ったろうか。
幹を挟んだ向こうから、身長が高くすらっとした女性がひとり、さっきの子たちのように幹に近づいてくる。また何かするんじゃないかと横目でチラチラ見ていたら、その女性は幹の横を通り過ぎてきた。
「あの、すいません」
「はひ!?」思ってもいなかったことに声が裏返ってしまった。「......なんですか?」
「よかったら手伝わせてもらえませんか?」
そう言い、爽やかな笑みを浮かべた彼女は真っ白なピーコートを羽織っていて、下はスカート。どう見ても土をいじるには適していない恰好だ。
「えーと、別にいいですけどその恰好じゃ......」
「いいんです。こう見えても私、大学で植物の勉強しているんです。でも文字とばかり向き合って分かるものじゃないでしょう、植物って。だから手伝わせてくれないかなーと。......だめですか?」
 そこまで言われ断る理由のなくなった僕は、承諾のサインとして軍手を差し出す。
「素手じゃさすがに。それとあんまり無理しないでね」それだけ言って仕事に戻ろうとした僕を、彼女は呼び止めた。
「ごめんなさい。えーと、お名前は?」
「名前? ユウキだけど」
「じゃあ、あの、ユウキさん。この地面に書かれた円って何か意味があるんですか?」
「あるよ。この二つの円に挟まれた辺りが、大体だけど根の先がある辺りなんだ。根と枝って対応してるもんでさ、枝の広がり方を見れば根の広がり方が予測できるんだ」
「そうなんですか。なるほど」
「で、他に質問は?」僕の意地が悪い質問に、彼女はばつが悪そうに笑って顔を赤くした。
 ほとんど僕一人の仕事になるかと思っていたら、なかなかどうして、彼女は次々と施肥をするための穴を掘っていった。さすがに僕よりは遅いものの、大学で勉強しているというのはあながち嘘でもなさそうだ。
「へぇ、うまいね」
「そんなことないです」
取れてしまうんじゃないかというくらいにぶんぶんと首を振り回す彼女に、僕は魔法瓶を指し示した。
「休憩にしよう。おかげで思ったより早く終わりそうだし」
スコップをその場に置いて門前通りまで出る。蕎麦屋兼土産屋の向かいにあったベンチに座り、お茶をついで彼女に手渡した。温かいお茶が僕らの空気を溶かしたかのように話が弾んだ。
といっても、僕から話したのは高卒ですぐに樹木医の道に進んだことくらいで、ほとんど彼女の話だった。
樹里という名前だということ。僕と同い年だということ。大企業の社長令嬢だということ。東京大学に通っていること。送り迎えは車で、一人では簡単に家から出してもらえないほど不自由だということ。それが嫌で、ささやかな反抗に一人大学から抜け出し、昔住んでいた頃によく来た深大寺へやってきたということ。
そんな樹里の話を遮るように、最近の曲らしい音楽が鳴り響いた。携帯電話の着メロらしい。携帯の画面を見て樹里はため息を漏らし、一拍置いて通話ボタンを押した。
「もしもし......はい、ごめんなさい。......はい、はい、今から帰ります」
電話を切り、樹里はもう一度ため息を漏らした。
「帰って来なさいって。私、行きますね」
そう言ってバス乗り場の方へ数歩行ってから、思い出したように振り返った。
「ユウキさん、またここに来ますか? もっと色々と教えてもらいたいんですけど」
「うん。今度の日曜には来るよ」
「分かりました!」
樹里はまるで小学生のように、嬉しそうに頭の上で大きく手を振って行ってしまった。
 次の日曜日、予定通り経過を見に深大寺へと出かけると、ヒトツバタゴの下には樹里がいた。
僕を見つけた彼女は眩しそうに笑った。
その顔を見て僕の心はきゅっと縮んだ。
 それからも毎週、木の様子を見に深大寺へ行くと、樹里も必ずと言っていいほど来ていた。彼女は別になにをするわけでもなく、いつも楽しそうに植物や日常の他愛のない話を一時間くらいして帰っていった。そんな樹里の影響か、僕は彼女と会うことが楽しみになってきていた。
会う回数を重ねるごとに樹里への恋心が大きくなっていった。でも、樹里のことを知れば知るだけ、それに比例するように僕の劣等感も膨れ上がっていった。
高卒止まりで、いくら医者と言っても樹木医の僕が、東大通いで社長令嬢の樹里と釣合うのか。
 豊かな森が日々刻々と深緑に色づいていく中、僕の心は少しずつ黒く染まり、石のように重くなり、沈みこんで行った。
そんな一日一日苦しくなって行く気持ちを抱えて迎えた四月。その初めての日曜日を境に、樹里の姿が深大寺から消えた。代わりに一通のメールが携帯に届いていた。
『親に知られました。ずっと見張られています。もう行けないかもしれません』
 それからも毎週深大寺に通ったけれど、メールの通り、先週も、そして今週も樹里の姿はなかった。でも残念な気持ちの反面、これでよかったのかもしれないという気持ちも胸に浮かんできた。
 所詮、僕と樹里とでは釣合わない。
 そう。そう思い込めば、この苦しみからは解放されるものだと思っていた。けれど、ますます樹里への想いが万力のように僕の胸を締め付ける。
 そのあまりの苦しさに山門前の階段に腰を下ろしてしまった。そんな僕の横を通り抜け、本堂へと向かう男女の会話が嫌でも耳に入ってくる。
「......ってる? ここが縁結びで有名なのは昔話から来てるんだって。だから......」
 深大寺に伝わる有名な話だ。湖畔に立ち続ける青年のイメージが嫌でも今の僕と重なる。
 そのイメージを頭から追い出すように首をめぐらした。山門の向こうにヒトツバタゴが見える。まるで雪が積もったような彼。その下に樹里の姿はない。
僕はあの木の下で立ち続けているだけでいいのか?
 ......答えなんて分かりきってる。
 僕は立ち上がり、バスを待つのもわずらわしくて、調布駅へと走った。息を切らしたまま切符を買い、改札を抜け、電車に飛び乗った。
 そうさ。釣合うか釣合わないかなんて、周りが勝手に決めることだ。僕のこの気持ちにそんなことは関係ない。僕は......樹里に会いたい。
 そう気持ちを決めた僕に、一時間の道のりなんて一瞬だった。気付いた時には有名な赤門の前にいた。僕は赤門をくぐって左の、話に聞いていた建物を目指して歩いた。会える保障なんてないのに。それでも、絶対に会える、という奇妙な確信を胸に歩いた。
 そして探し始めてすぐに、建物から出てくる懐かしい人影を見つけた。
 いた!
 樹里はいつかのピーコートのように真っ白なセーターを着ていた。
樹里も僕に気付いた。色々な表情が顔を駆け巡っている彼女のところへと、僕は走り寄った。
「......はぁはぁ」
走ったからだけでなく、胸が苦しい。この苦しさをどう言葉にすればいいだろう?
「......まだ俺が知っていることを全部教えてないぞ!」
 樹里が吹き出した。その目には涙が溜まっていた。
「ばか」そう優しく樹里は言い、僕の存在を確認するようにそっと腕を回した。「会いたかった」
「俺も。......そうだ。あの木、綺麗な花を咲かせたよ」
「そう」と、静かに樹里がうなずく。
 そして僕らは、示し合わせたように歩き出した。声に出さなくても分かり合えた。
樹里に会うため急いで来た道のりを、今度は彼女の手を握りゆっくりと戻る。
 二時間ほどかけて戻ってきた山門をくぐると樹里は小さく感嘆の声を上げた。
「わぁ......綺麗」
 満開のヒトツバタゴが迎えてくれる。
あまりの見事さに、僕らはしばらく声もなく白い花たちを眺めた。
「ねえ樹里。なんで初めて会ったあの時、俺に声をかけてきたの?」
「それは、ね。単純に植物の為に働きたかった。あとユウキさん、この木の為に怒ったでしょ? ほら、高校生ぐらいの子らに。人の為に怒れるって素晴らしいことだと思うの。あの時は木だったけど」
樹里がくすくすと笑う。
「で、その時にね、ユウキさんのことを知りたくなったの。植物を守る人に悪い人はいないっていうのが持論だから」
「何だ、それ」僕もつられて笑う。「俺は樹里が話してきたとき、あまりに白い服装をしてたから、この人はヒトツバタゴの妖精かもと思った」
なにそれ、と樹里も笑い返す。
「......私ね、親に知られて、ここに来られなくなった時、あの絵巻物の話みたいだって思ったの」
「それ、俺も思った」樹里と視線が合う。「......あのさ、樹里の両親は俺を認めてくれないかもしれない。けど、絶対俺自身の力で認めてもらうから。深沙大王や亀の助けなんて待ってられない。俺は樹里のところまで、自分の足できっと辿り着いて見せるから。だから......」
 見つめ合う僕らの間を一陣の風が通り抜けていく。雪と見紛うばかりの花吹雪の中、髪に白い花飾りを着け、目に涙を溜めた樹里の顔が近づいてくる。その姿は本当に妖精みたいだ。
 白く染まる世界、僕らの心が出会った。

(了)
 
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<著者紹介>
佐々木 淳志(埼玉県さいたま市/23歳/男性/運送業勤務)

こちらで紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。

第5回応募作品

第4回応募作品

第3回応募作品

第2回応募作品

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
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紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
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何卒ご了承ください。

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