少女は、その細い指先で傘を咲かせた。

 ああ、降るなと思ったら、期待を裏切らず降ってきてくれた雨。まどかは気に入りの水玉の折り畳み傘を広げることで、この難を逃れた。
「入れてあげないこともないけど?」
得意げに言うと、目の前の大人は笑った。
「お願いします。入れてください。」
大人は、まどかに手を合わせた。
まどかはニッと笑った。
 大人のその仕草が、とてもかわいかったので。
「特別だからね。」
入れてあげるわと、まどかは傘を差し出した。相合傘。
(これも深大寺の神様の魔法かしら。)
そう思って、まどかは降りしきる雨空を見上げた。
そして愛しい大人の掌をきゅっと握った。

 季節は、梅雨に入ろうとしていた。
 草木の精気が最も強い季節。
 さつきの花々が咲き乱れ、気の早い紫陽花も顔を出してくる。
 カタツムリも、まもなく姿を見せるだろう。
 まどかは今、彼女がこの世で最も好きな男と、縁結びの神様がおわす深大寺に来ていた。
 理由は簡単で、まどかは外へ出かけたい、男は蕎麦を食べたい、と主張し、利害が合致したのが深大寺だった。
(そして、縁結び。)
 まどかは、この大人に恋をしていた。
14歳のまどかと、それより8歳年上の彼。
 年の離れた幼馴染の関係では、もう満たされない。それが分かってしまった。
(この人に、恋人ができて、結婚して、子供ができるのを、妹のような幼馴染として見守っているだけなんて、拷問だわ。)
神様、縁結びの神様、どうかお願い、と、まどかは思って、男を見上げた。
「冷えてきたね。
 お蕎麦でも食べようか。」
まどかのぐるぐるした気持ちなんて知らず、目の前の大人は優しかった。
そして不思議なことに、さっきまでお腹の中で暴れていたぐるぐるした気持ちは、大人がまどかに優しくしてくれると、とたんに大人しくなる。
これを恋というのだと、少女は知った。
「うんとあったかいのがいいわ。」
そう言って、まどかは口角を上げて花のように微笑む。少しでも、大人っぽく見えるようにと。

兄妹のように育ってきたふたりだった。当然のように、一緒に食事もしてきた。
それでも、こうやってふたりで蕎麦を食べる時間は、まどかには、幸せの象徴のように思えるのだ。
あったかくて優しい。
ほっとして、おいしい。
「やっぱり名物なだけあるよね」
いつ食べてもうまいんだもんなあ、と蕎麦をすすりながらもらす目の前の大人の男が、とっても愛おしいと思う。
(まるで、子どもみたいなのね。)
 雨はざあざあ降っていて、深大寺の緑はむせかえるように青かった。
 世界には、まどかと大人しかいなくなってしまったようで。
 それは幸せな想像だった。
 蕎麦屋の雨どいを水が伝う音が、きゃらきゃらと笑った。
 「今、この時間がずっと続けばいいのに。」
少女が、いつか観た映画の中のセリフだった。映画のヒロイン―現実の大女優のように。少女は、早く大人の女になりたかった。
「幸せなの、今。」
すると彼も、僕もだよ、と言ってうなずいてくれた。
 その言葉が、恋愛とは離れた意味と知ってはいたけれど。
 まどかはすっかり嬉しくなって。
次は土産物屋に行きたいわと青年の手を取った。

 「雨の深大寺もいいね。」
 相合傘で、ふたり石畳の道を歩く。
 身長の高い大人が傘の柄を持って。まどかは、大人の傘を支える腕にしがみついて。
「出店街のね、蕎麦パンがかなりおいしいんだよ。本当に、何個でもいける。」
 彼は、深大寺がとても好きなのだと言った。気が向けば、バスに乗り継いでやってくるのだと。
(でも、確かにこの人にはこの場所が似合う。)
深い緑に、彼の黒い髪はよく映えた。
蕎麦の懐かしくて優しい香りは、彼の存在とひどく似ていた。
まどかが幼稚園から、兄妹のように育ってきた。
けれども、彼が深大寺を好むことを知ったのは、つい最近だ。
(だから、一緒に連れて行ってとだだをこねた...。)
想いは募る一方だった。
 (私はこの人に恋をしている。)
年の差なんて関係ないと思いたい。
 それは、とても難しいことかもしれないのだけれど。
 とくに、兄妹のように育ったふたりにとっては。

 そうしているうちに、土産物屋の並ぶ道へと入っていった。
 雨が降ってきた為か、参拝客もまばらだった。
 雨の日に来てくれたからね、特別にサービスよと言って、出店のおばさんが蕎麦パンを50円おまけしてくれて。目の前の大人は、年甲斐もなく子どもみたいに喜んだ。
 蕎麦パンは懐かしくて甘い味がした。ふたりで傘の中で食べた。
 (今でなくとも。いつか、この想いを伝えることができるだろうか。)

 「本堂にお参りしたら、僕らも帰ろうか。」
 ああ、もうこの人との時間が終わっちゃうのか、もったいない。
なんて、名残惜しいんだろう。
 そう、思ってしまって。

 だからつい、口を滑らせてしまった。
「私は、帰らなくてもいいよ。」
 と。
「ずっとこのままでもいいの。」
ひとつ口をついて出た言葉は、せきをきったようにあふれ出した。
「私たち、一緒なら。」
「大好きなこの地で、一生だって暮らしたっていいわ。」
「緑に囲まれて暮らすの。私たち、時々は植物公園まで散歩に行って、手を繋いで花々をめぐるの。」
「雨が降ったら、音楽を止めて水音を聴くの。夜になったら虫の声を。風が通れば、鈴音を。ふたりでお茶を飲みながら、そういうことをいっぱい話すの。」

(お願い、あなたの隣にいたいの。)

『あなたが好きなの。』と。
その一言はどうしても言えなかった。
 だから、一気に口をついて出た言葉たちは雨音に溶けていく。
 横たわるのは沈黙で、降り注ぐのは雨音だった。
ふたりはずっと見つめ合っていた。
少女と、男。
子どもと、大人。
 どこまでも対極な二人だった。
 けれどもふたりはひとつの傘の中にいて、それだけが少女の救いだった。
 伝わればいい。
 そう思った。
 まどかは願った。この雨と、神様に。
 だから、そっと―
 少女が今まで、身のうちに募らせた、思いの丈の深さを思えば、あまりにも些細すぎる所作で。
 大人の傘を支える手に、自分の白い手を重ねた。

 「まどか。...僕は、どうしたらいい?」
 その、困ったように笑う顔が、一番好きかな、と思った。

 

ピンクパールのマニキュアの指先で、傘の花を閉じた。
 涼やかなドアベルが、雨音に混じってその音色を奏でた。
 「ただいま。」
 そう言って帰ってきたのは、僕の奥方だった。
 「おかえり。雨に当たらなかった?」
そう聞くと、彼女は得意げな笑みで、お気に入りの水玉の傘を掲げてみせた。
 どうやら風邪をひく心配はなさそうだ。
 「よかった。」
 僕は安心する。
 この雨に打たれてはと、心配していたところだ。
 「コーヒー豆、頼まれていたのを買ってきたわ。あと、小麦粉とハーブソルト。」
 手際よく、店のカウンターにそれらを並べる。いつ見ても出来た奥方だと、僕は感心してしまう。
「今日は、お客さん来ないわね。」
空っぽの店内を見て、彼女はぽつりとつぶやいた。
 僕らは、夫婦で喫茶店を営んでいる。
 小さな店だが、僕らの誇りだ。
 常連さんも出来たし、味にも定評がある。
 しかし、この天気。
 ―今日は、雨だ―
 集客は見込めないだろう。
「ねえ。」
カウンターに背をあずけ、彼女は僕に語りかける。
「わたしの一世一代の告白を覚えてる?」
僕は、笑ってうなずいた。
「覚えてるよ。僕も、さっき思い出していたんだ。」
「雨が降ってた。」
「8年前も、君の水玉の傘に助けられたね。」
「貴方ってば、食べることばっかりで。」
「君といると、何でもおいしくなるんだよ。」

「私は子どもで、子どもであるということがとても悔しかったの。」
 けれども、その横顔は、14歳のあの日、あの時間のまま。
 きっと何も変わっていない。
 妻は笑って、僕の腕にその細い手を絡めた。
「ねえ、今からお蕎麦食べに行かない?」
今から?と聞くと、そう今からよ、と奥方は言う。
「出掛けるの。水玉の傘で。」
「相合傘で?」
「蕎麦の後は蕎麦パンで。」
「その後はお参りで?」
「いいじゃない、神様にお願いすることも、お礼を言うこともたくさんあるわ。」
 あの頃とちっとも変わらない晴れやかな笑顔に、やっぱり僕は負けてしまう。
「きっとお参りが終わる頃には、雨も上がるわ。
 そしたら、植物公園に行きましょう。
 濡れたってかまわないわ。
 きっと楽しい。」
僕はうなずく。
入り口の、『OPEN』の掛け看板を『CLOUSE』に裏返して。

僕たちは手を取った。
そしてひとつの傘で、深大寺の道を一緒に歩みだした。

草木の精気が最も強い季節。
 さつきの花々が咲き乱れ、気の早い紫陽花も顔を出してくる。
カタツムリも、まもなく姿を見せるだろう。

季節は、梅雨に入ろうとしていて。

緑は深く、雨音はどこまでも優しかった。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
四季(東京都調布市/22歳/女性/会社員)

 見上げると、淡い水色の空を背景に、生まれたばかりのやわらかな木の葉がざわざわと音をたてて風に揺れていた。優理子は立ち止まって耳を澄ませる。ざわざわと揺れているのは風が森に残していったささやきではなく、もしかしたら自分の胸の奥に吹いていく風のせいではないかしらと優理子は思った。だから昨日、夫の秀幸が、
「ひさしぶりにデートしようよ。」
と言ったとき、迷わず、
「深大寺に行きたいわ。」
と言ったのかも知れなかった。
 日曜日だというのに朝から会社に出かけた秀幸の仕事が終わるのを待って、優理子は深大寺の森で秀幸と待ち合わせていた。昼下がりの穏やかな時間を楽しむ人の中で、優理子が見慣れたストライプのシャツを見つけると、秀幸もすぐに優理子に気がついて右手を上げて合図した。ひさしぶりに二人きりのデートだというのに、秀幸は庭で車にワックスをかける時と同じ顔で少し笑った。そして、いつもと同じ質問をするのだった。
「子供達はどうした?」
だから優理子もいつもとかわらぬ顔で、まるで「洗濯物を出してちょうだい」と言う時と同じ声で答えたのだ。
「美悠はバトミントンの練習試合ですって。陽菜は吹奏楽部の自主練習。トランペット持って出かけたわ。」
「そうか。じゃあ、団子でも食うか。」
「うん。でも、その前にお参りよね。」
深大寺の動物霊園には昔一緒に暮らしていた犬のタロウが眠っている。もう十年も前に空の向こうに逝ってしまった。慰霊塔の前で手を合わせると、線香の香りが思い出をつれてやってくるのだった。
 それは二十年前の冬の朝、二人で婚姻届を出しに行った時のことだった。先に来た優理子が市役所の広場で待っていると、秀幸は白い息を吐きながらタロウを連れてやって来た。タロウはワンワンと二回ないて秀幸が持つ綱を力いっぱい引っ張って駆けて来ると、優理子に飛びついてペロペロと顔を舐めた。優理子はタロウを抱き寄せて背中や首を撫でながら顔を上げると、タロウの耳の向こうで「おはよう」と笑う秀幸と目が会った。いつになく強くて優しい色を湛えた瞳に出会って、優理子はなぜだか胸がキュッとして、思わずタロウの耳を撫でだ。優理子はタロウの耳のやわらかな感触を指先に感じながら、ああ今日からこの人とずっと一緒に暮らしていくのだな、と思ったのだった。 
優理子はその日からつづいていく暮らしの中で幾度となくこの朝のことを思い出すことになる。結婚が人を変えていくのか。それとも恋という病が甘い夢を見せて、結婚という妙薬を得て完治して、そこから積み重ねていく日々が日常という生活だったのか。優理子は最近ため息ばかりついていた。 
深大寺の山門につづく石畳の道を下って参道に出ると、道の両側には団子や煎餅や土産の小物を売る店が並んでおり、たくさんの人で賑わっていた。秀幸は草団子を二つ買って店先の椅子に腰掛けた。優理子はセルフサービスのお茶を茶碗に注ぎ、二人並んで団子を食べた。気持ちのいい陽射しにふと顔を上げると、優理子の頭の上で新緑の紅葉がキラキラと光を零して揺れていた。
「紅葉、きれいねえ。」
思わず呟いた優理子の声に、秀幸は、
「ああ。」
と答えたきり、売り子の娘が鉄板で団子を焼く仕草を見ている。芽吹いたばかりの紅葉の葉はつややかな黄緑色をしていて、風に揺れると、まるで赤ちゃんが小さな手を振っているかのように見えた。優理子はまだ小さかった美悠と陽菜を思い出していた。小さな手で母に抱きついて放れなかった二人も、すでに高校生である。子どもを中心に暮らしてきた優理子の生活も、今となっては優理子の手を必要とすることが少なくなってきていた。自分の生活にぽっかりと穴があいたみたいで、なんとなくおちつかない感じがしていた。
「そう言えばあの茶碗、まだあるのか?」
蕎麦屋の隣の焼き物屋に気づいて、秀幸が思い出したように言った。子供達がまだ小学生だった頃、夏休みの宿題の自由製作で茶碗を作りに来たことがあった。美悠は湯飲み茶碗に向日葵の絵を描き、陽菜はご飯茶碗にピンクのウサギを描いた。どちらも上手とは言いづらい絵ではあったけれど、焼き上がった茶碗は味わいのある作品に仕上がっていた。大切に抱えて帰った二人の笑顔を、優理子は今もはっきりと思い出すことができる。
「あの茶碗、しばらく使ってから割れちゃったのよ。でも捨てられなくて接着剤でくっ付けて、食器棚の奥にずっとしまってあったのよ。多分、まだあると思うわ。あっ、これ、二人には内緒ね。割ったの私だから。」
「心配ない。もうすっかり忘れているよ。」
幸せな場面は優理子の記憶に鮮明に残っているというのに、夫や子供達の記憶の中では、いつの間にか色褪せてしまっているのだろうか。美悠と陽菜が今を生きるのに精一杯で昔作った茶碗のことなど忘れているように、秀幸もあの冬の朝のことなど覚えてはいないのかも知れないと思うと、優理子は少し悲しい気持ちになった。タロウの耳の向こうで目が合った、あの秀幸の瞳の奥にあった確かな感情を、優理子はもう一度確かめたくて秀幸の顔を覗き込んだ。秀幸は唇の端についた餡子を舌で器用に掬い取るように舐めていた。
 参拝は最後にとっておいて、二人で散歩してみることにした。参道を突き当たった所に水生植物園があり、紅葉のトンネルをくぐって順路を行くと沼地がある。いくつもの植物が芽を出していたが、名前が言えるものはほとんどなく、道端に咲いているタンポポやハコベの白い花ばかりが目に入った。沼地をひとまわりしてから坂を登って行くと、木造りの看板に城址跡を示す矢印があった。
「お城があったなんて知らなかったわね。」
深い森の中を歩いているような錯覚をおこしてしまいそうなほど、そこはとても静かだった。少し湿った空気が肌によく馴染んで、深く息を吸い込むと土や草の匂いがした。坂の上から若い男女が手をつないで下りて来るのが見えた。二人は互いの指を絡めるように手を握っており、時おり耳元でささやき合っては笑う後ろ姿を見送ると、優理子は胸の奥で何が疼くのを感じた。道の端にはシャガの花が咲いていて、その花びらを彩っている美しい色や形に気を取られて、優理子はついうっかり足を滑らせてしまった。
「あっ、あーっ!」
優理子がバランスを崩して転びそうになったとき、秀幸の手が腕を掴んで引き戻した。
「危ないなあ。」
「助かったあ。」
優理子はこのままどさくさに紛れて秀幸の手をとって歩きたいような気持ちになったが、今さら照れくさくてわざと両手をポケットに突っ込んだ。
 坂を登りきると鮮やかな黄色が視界いっぱいに飛び込んできた。菜の花だ。まるで絵本のページをめくったら意外な展開が待っていたかのような景色に、優理子は声を上げた。
「きれいねえ。」
白い蝶がひらひらと舞っていた。
 坂を登って来て少し汗ばんだ秀幸が、上着のシャツを脱いで腰に巻きつけた。
「わっ、そのTシャツ着て行ったの!まさか会社で上着脱がなかったでしょうね?」
秀幸が着ていたTシャツは古びて色が褪せ、首の周りが少しほつれていた。
「いや、脱がなかったよ。何で?」
「それ、よれよれだからパジャマのかわりに着てたのに、外で着たらダメでしょう。」
「まあな。だけどお前だってあちこち擦り切れたTシャツ何枚も持っているじゃないか。しかもエプロンの下によく着てるし。」
「だって着ていて気持ちがいいんだもの。」
新しいTシャツは着ていて気分がいいけれど、長い間着込んだものは、色が褪せて形が崩れて首周りもほつれていたりするのだけれど、肌に馴染んでとても気持ちがいいのだ。普段着の下に見えないように着ることもあるが、パジャマのかわりに着ると、なぜだか心地良い眠りに誘ってくれる。だからなかなか捨てられないのだ。
「古いものは馴染みがいいからな。まあ、古女房と同じってもんだな。」
秀幸の背中には、若き日の面影を残して古びた味わいが滲んでおり、二人で過ごす時間にとてもよく馴染んでいた。
 深大寺の山門をくぐり、白い花が咲くナンジャモンジャの木の下に来ると、ひと組の老夫婦が手をつないで歩いて来た。背の曲がったおばあさんの足取りを気にしながら歩くおじいさんの仕草は紳士的で、つないだ手と手で互いの体を支え合っているかのように見えた。二人は仏前で両手を合わせ、おばあさんの方が少し長く祈っていた。これから何十年か先に、夫婦という形はどんなふうに変わっていくものだろう。優理子は手を合わせ、穏やかな日常に感謝を込めて、まだ見ぬ明日の日々を祈った。
「植物公園の中を抜けて帰ろうか。」
という秀幸の誘いに二人は神代寺門から植物公園に入った。花がまだひとつも咲いていない薔薇園を優理子は秀幸と並んで歩きながら、これから咲く花のことを考えていた。緑の葉が生き生きと茂る広場にやがて色とりどりの薔薇の花が咲き、甘い香りで満たされていく様を思い浮かべてみるのはとても楽しかった。それは、まだ見ぬ明日にどんなエピソードが生まれるのか、楽しみに思う気持ちに似ていたからだ。優理子は秀幸の腕に自分の腕をそっと絡めてみた。眩しいほどに光降る午後、やわらかな水色の空に鶯の鳴く声がした。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
ただの ひろこ(東京都西東京市/43歳/女性/主婦)

駅ビルのシャッターが開く直前、先輩の今日子が香織にささやいた。
「二人とも早番だから、仕事が上がったら夕飯にお蕎麦でも食べない。おごるわよ。深大寺に親戚がやっている店があるの」
 シャッターが大きな音をたてて開き、ランチまでの時間を潰そうとしている買い物客が足早に店の前を通り過ぎて行く。眼鏡などまだまだ必要なさそうな主婦が多い。香織が頭を下げながら横を向くと、今日子はベストからブラウスをはみ出させたまま、通路を入って通り過ぎるだけの客におざなりのお辞儀をしている。
「ブラウスがはみ出ていますよ」
 今日子は頭を下げたまま、左手を後ろに回してブラウスをスカートに押し込み、香織に向かって、おでこに指をあてた。お礼のつもりらしい。
眼鏡のショーケースが少しでも曇ったりしていると、店長に嫌味を言われる。新入社員の香織にはガラスとにらめっこするのが目下の重要な仕事だ。これでお給料を戴けるのだ。ひとり、暮らし始めた部屋に、早くベッドや本棚、ボーナスが入ったら、テレビ、電子レンジ。いや、貯金も少しはしないと病気になったら困る。
 窓の無い職場からようやく出ると、まだビルの隙間に陽が差していた。仕事で扱っていると、眼鏡をかけた通行人に自然目が行くようになる。今日子も同じらしく、二人で同じ青年を目で追ってから顔を見合わせて笑った。青年は若いのに地味な灰色のスーツを着こなして、フレームの太い赤茶の、見方によっては派手な眼鏡をぴったり合わせている。
「職業病よね」と、今日子が笑いながら言った。
肩を並べて話しながらバスを待つのは、新鮮で楽しかった。この町に就職が決まってからアパートを借り、人の流れに紛れて、毎日馴れない職場に行き、又一人帰る毎日が寂しかったことに、香織は今気づいた。
 「深大寺は天台宗、そこに店を出す蕎麦屋の女房は女学生からのクリスチャン。その息子で従兄は無宗教、ときたものよ」
 どうでもいいんだけどさ、と、買ったばかりらしい薄い春のジャケットを身体に合わせるように揺すって、今日子が話すうちにバスが来た。のろのろと繁華街を過ぎ、住宅街を右折左折と繰り返していくうちに辺りの風景が沈み出し、乗客もあらかた降りてしまった。山道と錯覚するような景色が現れた。バスの中に暖房が入ったらしく、足元から暖かい空気が立ち上ってくる。ひっぱってもひっぱっても膝上まであがってくるスカートをまたひっぱりながら、香織は顔をしかめた。里親の実子は小柄で、香織より十歳も年上だった。駅ビルの中には若い子向けの安いスーツも売っている。あと少しで最初の給料も出るし、欲しい物はたくさんあるが、このスカートを早く捨ててしまいたかった。
 ようやくバスを降りた。ほかには誰も降りない。ここからは乗車する客の方が多く、なかなかバスは発車しなかった。道路を冷たくなった風が吹き始めて、さらら、さららと近くから音がする。
(園の裏山の竹林の音・・・)
 想い出に立ち止まる間もなく、動き出したバスの後ろを渡って今日子が歩き出した。暗闇に浮かぶ店はそれほど大きくもなく、こざっぱりしている。やたらに木の彫刻や置物があるような店を想像していた香織には予想外だった。さっきの葉音がまだ耳に残っている。畳の席に座った今日子が障子を少し開けたので、白い灯に被さるようにしなう竹が目に入った。さっきの音はやはり竹の葉音だったのだ。久しぶりに聞くのはやっぱり懐かしい。でも、園を懐かしいとは思いたくない気持ちがそれを邪魔した。
 ガラスで隔てた西側で、蕎麦を打っているのが今日子の従兄のようだ。麺棒を握る拳に力が入っているのが遠くからでもわかった。もうそろそろ店じまいらしく、最後の二人連れの客が会計を終えた。
「今月もやっとここに来られたよ。定年になって暇になったのはわしだけで、婆さんは出歩いていてね。毎日留守番だよ」
 レジの女性が笑っている。
「あんなこと言って・・・。この人、図書館で時代小説を借りてきてね。読書三昧なんですよ。日が暮れたら洗濯ぐらい取り込んで欲しいのに、全く気がつかないで読みふけっていてね」
 仕事の手を休めて、従兄が今日子の隣に座ったのも気づかないほど、香織は初老の夫婦
に気を取られていた。
「毎月来てくれるんだ。感じのいいご夫婦だよね。子供さんは独立して二人で暮らすのには、家が広すぎる。って、先月は話していたっけ」従兄が今日子と香織のどちらともなく話しかけた。
「アタシは、年取ったら孫とかに囲まれて、いい婆ちゃんをしたいな」
「今日子がいい婆さんになるかなあ。意地悪婆さんなら向いてると思うけど、ねえ、そう思わないかい」従兄は、今度ははっきり香織に目を合わせている。返事に困るけど、香織もそんな気がして笑顔が出た。
職人という誇りや奢りがあったり、この従兄のようなちょっと年上の世代は、難しい人が多いと感じていたが、そうは見えない。香織が育った環境にはこういう青年は見当たらなかった。一見さばさばしているようで気配りのききそうなところは今日子と似ているようだ。穏やかな青年の印象がこの深大寺という土地としっくり合うように思った。
 五月連休が過ぎ、梅雨が明ける頃には、今日子の都合がつかない時でも、香織は深大寺の店に足を運ぶようになっていた。泰斗の仕事が一段落するのを待ちながら、無意識に座敷の円卓を台拭きで拭いていく。
 もっと年が近くて、同じようにぎりぎりの生活をしている男の子のほうが自分にふさわしい。食事も映画も割り勘で、お互いのアパートを見せ合っても引け目を感じないで済むような・・・。頭ではわかっていた。心の中でさららさららと竹がざわめく。いつか終わりが来るような不安がある。
 暖簾を引込めて、香織の前にようやく座ると、泰斗はさっきからの昔行った家族旅行の話を続けた。
「で、蕎麦の花だよってじいちゃんが電車の窓から指差す、その先にはさ・・・」
言いかけると、最初にこの店に今日子と来た時、会計をしていた女性が湯のみを手にして、香織の横に腰をおろしながら話を取ってしまった。
「蕎麦の花じゃなく、ヒメジョオンの雑草が辺り一面生えてたのよ」
「母さん、話を取るなよ」
「ようするにじいちゃんがボケて大変だったって話でしょ。だから父さんは早くあんたに跡をつがせたがったのよ。おれもボケたら誰がこの蕎麦の味を継ぐんだって言ってね」
 さりげなく香織は泰斗の母に観察されているのを知っていた。学校で友達ができて遊びに行くとたいていは、おやつを出しながら母親がそばに来る。きちんと挨拶をして相手の話をよく聞くこと、香織は今、育った背景にとらわれずに評価されようとしている。
 また、風に竹が葉をならしている。どうしても過去という背景が香織を押さえつける。
聞いているうちに音がどんどん大きくこだまして胸が苦しくなる。
 香織を送るために、泰斗はワゴン車を出しに出て行ってしまった。どうしようもなくうつむいて、香織は台拭きを何度も折りたたんだ。
「今晩も風が強くなってきたわね。あなたには、竹の葉はどんな音をたてているのかしら」
 泰斗の母はそう聞きながら返事を待たなかった。
「変なこと聞いちゃったかしら。実はね、泰斗には笑われそうで言ったことなかったけど、ここに嫁いでからそりゃあいろいろあったけど、泰斗を生んでからは、どこか根性が据わったのかしら、何か屈託があるとき、聞こえるの。竹がささら、ささら、って言ってるように聞こえるのよ・・・。そんなのどうにでもなるさ、そんなのどうにでもなるさ、そう言ってるように」
 そんなのどうにでもなるさ・・・。香織は、泰斗の母の言葉を噛み締めるように、胸でつぶやいた。ボーナスで買ったばかりの淡い緑のスーツは安物だけど、膝にたっぷりフレアーが入って、香織の若さを引き立てている。泰斗の母の視線が柔らかく香織をとらえた。
「若いときは、どんなことでもそれが自分にとっては、どうしようもないくらい、深刻に思えるの。本当はね、そんなのどうにでもなるさ、ってことでも・・・」
 
野川のサイクリングロードで泰斗はワゴン車を止めた。香織もこの辺りの地理に明るくなった。野川には小さな橋が幾つもかかっていて、それぞれに名前がついている。ここの橋は中耕地橋、といい、中央自動車道が近い。
 泰斗が顔を寄せてくると恥ずかしさで胸が早い動悸を打っているのに、顔は自然に上を向いた。確かな気持ちがそこにあって二人を結び付けようとしている。
「男ってホント、大雑把で面倒臭がりだからね。おふくろにも今日子にも言われたよ。おまえが動け、捕まえろ、逃がすな、離すな」
 100キロは出ているだろう自動車のライトが視界の先で走っている。中央高速でいつか長野へ行ってみたい。泰斗の広い背におずおずと腕を回していきながら香織はそう思った。ささら、ささら。声に出さずに何度も繰り返し、自分を励ました。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
関 佳子 (東京都東村山市/45歳/女性/主婦)

「マジ?」
 昼休みの雑踏の中、僕は友達の言葉にすがりたくなった。
「知らね。でもさ、女子の間で結構流行ってるらしい」
「ここ男子校だしぃ」
 僕は、心の中の得体の知れない塊と、長めの髪で隠した左耳の辺りの腫れを悟られないように、いつもどおりの軽い受け答えをする。三階のベランダからは、校庭の片隅にあるサッカーゴールが小さく見えた。
 男子校、高校二年、サッカー部仲間。僕たちは集まると、女の子の話かエロい話しかしない。受験はまだ先。頭の中に、キルイホッフや微分積分について考える余地はない。
「マサはさ、別に、怪しい都市伝説に頼んなくてもいいじゃん。今朝も遅刻するほど彼女とラブラブなんだろ?」
「朝練ないからって、朝までコースするなって、マサ」
 周りの友達は口々にテンポとノリだけで話を進める。自分に話が振られたのを笑ってやりすごしながらも、ひりひりとした遅刻の原因の痛みを左頬に感じた。
 僕がすがりたくなった言葉は「深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは一段階進む」というもの。
 つまり、深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは......手をつなぐ程度の者はキスをし、キスまでの者はベロチュウをし、ベロチュウをしたことがある者は胸くらい触れるというのだ。
「いい加減、怪しい」
「つーか、バレンタインとか母の日みたいな感じの企業戦略を感じるけど」
「ばーか。そこまで行ったら王道だろ」
 あまりに陳腐な都市伝説を僕たちは鼻で笑った。校庭ではスプリンクラーが回り始めた。
「でも、ありかもな」
 突然、一番モテル奴が言った。
「例えばさ、デートってったら、渋谷とかじゃん。で、映画観るくらい?キスする脇道とか下手に入るとカツアゲされるしさ。やっぱ寺とか蕎麦とか新鮮じゃん」
 モテル奴の言葉には説得力がある。
 僕はベランダの手すりに顎を乗せ、ところどころ錆始めたサッカーゴールをぼんやりと眺めた。そして、今朝、僕に吐き捨てられた暴言を思い出した。「リナの痛みとか苦しんだこととか、こんなもんじゃないんだからね!」同時に校章入りのカバンで左の頬を殴られ、ミニスカートによるキックを腰に喰い、一瞬後に遠心力付エナメルバッグのボディブロー。一番効いたのは「最テー」という呟くように搾り出された言葉だった。リナの女友達四人は、僕から離れると、朝の駅のホームに消えていった。
 深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは一段階進む、のか?
 僕は、ベランダから顎を上げて言った。 
「オレさ、今日、深大寺行く。部活パス」
「えええ?」
 サッカー部仲間が僕の言葉に驚いた。
「マサが部活サボるなんて、宗教変えた?」
「本とは、彼女とキスもまだって?」
「そりゃねぇべ。マサみたいに、足も速いけど手も早そうな奴が」
「とにかく、今日はオレ、深大寺だから」
 僕は、一人教室に戻ってメールを送信した。
 リナと深大寺へ行こう。

 バスが大きなカーブを曲がり、僕とリナを揺らした。付き合い初めの頃、リナの制服の布の端が触れただけで、心臓が壊れそうだったっけ。付き合い初めの二年前は、女の子が自分の隣にいるって大変なことだったんだ。
「部活サボるなんて。いいの?」
 リナはいつもどおり、かわいい顔で僕を覗き込む。
「今日だけ特別」
 僕は、心の中の得体の知れない塊を悟られないよう笑って答えた。
「雨が降っても、サッカーだけはサボらないじゃん。怪我してテーピングしてても」
「オレって、そんなに真面目な印象?」
「塾は平気で遅刻するけどね」
 リナはかわいい顔で、意外と手厳しい。
 緑の木立が続く中、僕はリナとバスを降りた。木々の葉を通った太陽が、柔らかにリナを包んだ。渋谷とは違う。ディズニーランドともぜんぜん違う。
「毛虫いそう」
 リナは、歩道に並ぶ樹を見上げた。
「大丈夫。オレはちゃんと逃げられるから」
いつもの軽い会話を続ける。
「マサったら、ひっどぉい」
 そうさ。僕はひどい。「最テー」の男だ。
 平日の下校時、陽の長い季節でも辺りは少しずつ暗くなっていく。木々のライトグリーンがビリジアンにゆっくりと変化していく。
 リナと指を繋いだまま、深大寺本堂にとりあえず歩を進めた。
 夏を忘れないように鳴く蝉の声が、思考を麻痺させようとする。展開すべき言葉を捜さなければいけないのに。頭に浮かぶのは、今朝、リナの友達から浴びせられた数々の罵倒の言葉ばかりだった。
 夕暮れの境内には、年老いたカップルがちらほらいた。僕達はたった二年しかつきあっていないのに、信じられないくらいリナのことを考える時間が増えた。白髪のおじいさんとおばあさんになるまで一緒にいたカップルは、気が遠くなるくらいお互いのことを思い合ったんだろう。
 ひんやりとした水で手を洗い、僕は、賽銭箱の前まで歩きながら、財布の中から十円玉を取り出した。
「ね、マサは何お願いするの?」
 リナが斜め左下から僕の顔を覗き込んだ。
「ん? 恋愛成就」
 手を合わせている間、左の頬の痛みがよみがえった。
 僕が顔を上げたとき、左では、まだリナが祈っていた。ここ一ヶ月で痩せた指が綺麗に揃えられていた。
「立ったまま寝るなって」
 僕は、リナの耳元で言い、細い指を握った。
「寝てない!」
 笑いながら応えたリナの指を握ったまま、敷き詰められた小石の上を足早に歩いた。
「蕎麦食おうぜ」
 僕が言うと、リナは「私も食べようと思ってた」と言った。
 細い小道、蝉時雨と木々の葉の音をBGMにしてリナを見た。バスから下りたときよりもグリーンと夕暮れが柔らかく溶け合った中、真剣な瞳が僕を見つめていた。
 リナも、怪しい都市伝説を知っているのかもしれない。
 クーラーの効いた蕎麦屋の店内で、一気に水を飲んだ。
「リナ、今朝、リナの友達から聞いたんだ」
 遠回りはやめてストレートに言った。
「赤ちゃんのこと、どうして言ってくれなかった? 一人で病院行ったの?」
 僕の赤ちゃんを妊娠したことでリナは悩み、今朝、友達思いの四人の女の子が、僕にそのことを教えてくれた。駅の片隅で、僕はただ事実に驚いたまま、いつもは清楚な女の子達に罵倒され、ボコられた。
「子宮外妊娠だったから。おろしたんじゃないよ。簡単な手術をしたの」
「オレって、そんな大事なこと相談できないくらい頼りない?」
「きっと困ると思って」
 淡々とした口調。僕は、背筋を伸ばして座っているリナを見た。
「ね、まず、お蕎麦を注文しよ?」
 リナは、まるでテレビ番組の話題のように話を押しやった。その潔さに、僕の喉の奥に熱いものが込み上げてきて、同時に目から涙が出てきた。
 リナは困った顔で僕を見ながら、ざる蕎麦を二つ注文した。
「ね、マサの学校でも、深大寺の話、流行ってる? だから来たんでしょ?」
 僕は二つのげんこつを目に当て、涙を止めようとしていた。リナは続けた。
「終わりにしよっか?」
 その瞬間、心の中にあった得体の知れない塊の正体に気づいた。
僕は、リナが別れの決心をしていたことを、ずっとどこかで感じていたんだ。だから、深大寺で一段階進むという言葉にすがったんだ。
「嫌だ!」
 深大寺中の蝉の鳴き声より大きな声だった。
「嫌だ、嫌だ。絶対嫌」
リナにとって一段階進むって、別れることなのか? 僕にとっては、お互いに気が遠く
なるほど思い合える存在になることなのに。
 沈黙の中、僕は、運ばれてきた蕎麦を鼻水といっしょにすすった。店内に響く下品な音は、営業妨害以外の何ものでもない。蕎麦猪口を左手に持ったまま、念じるように一心に、ずるっずびっと続けた。
 不意に、涙でぼやけた視界に、ハンカチが差し出された。
「マサ、もう少し味わって。美味しいよ」
 音に観念したのか、リナが沈黙を破った。
 目の前のリナは、美しく箸を舞わせ、形のいい唇に蕎麦を運んでいた。

 店を出ると、木の葉の間から月灯りが雫のように一歩前のリナにこぼれた。
「楽しいだけじゃなくなってもいいの?」
 深いビリジアンの木々の葉を風がさわさわと奏でる中、リナの声が心に響いた。
 僕は、差し出された細い指を握り締めた。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
北 由美子 (神奈川県横浜市/41歳/女性/主婦)

 胸の奥が熱く疼いた。末期の痛みだろうが何故か懐かしい感覚に囚われた。それこそ何十年ぶりかに「ここ」に還って来たからか。ゲルマン系らしく能力的には極めて優秀だが、事務的な物言いしかしない専属ドクターが言うには「いつ逝ってもおかしくない。」らしい。自分の最期の地を、やはり「ここ」に求めてしまった事を認めざるを得ない様だ。
 三十数年前、逃げる様に渡米してから、ひたすら働いた。運もあったが、自分でもここまで上りつめられるとは思っていなかった。とにかく日本を、「ここ」を、そしてあの頃の自分とあの女を、頭から追い払いたかっただけだったのだが。その年は公共放送の大河ドラマが取り上げた「新撰組」ブームとやらで、ここ植物園にまで展示場ができている。時代の流れに抗った熱い男たち、その多くが若くして命を落とした。そんな彼らから見れば、自分は宗旨変えをして、代わりに富と名声を手にした変節漢と言う事になるのかもしれない。
 「おじいちゃん、大丈夫?」ふとかけられた可愛らしい声。母親に手を引かれた5歳位の女の子。「おじいちゃん」か。五月晴れの中、薔薇の芳香に眩暈を覚えそうなこの植物園の原色に近い美しさの中で、まだ60前だが、単身異国で勝ち得た富と名声の代わりに、自分の顔には深い無数の皴が刻まれていた。強壮を誇った長身は砂漠にただ一本残った枯れ木の様に朽ち果て、艶やかだった黒髪は面影も無く暗灰色だ。「本当に大丈夫ですか?病院にお連れしましょうか?すごく辛そう。うち、この近所のお蕎麦屋なので、よろしければちょっとお休みになられてはいかがですか?」上品で落ち着いた感じのする30歳位の母親。「いや、ご迷惑をかけては。」慌てて立ち上がるが胸の痛みで情けなくも蹲ってしまう。「だめです。本当にすぐ近くだから。」支える様にして歩き出す。ああ、どうか自分に構わんでくれ、と思いながらも、力なく体を預けるしかない枯れ木の自分。そう、「あの女」もどこか、いつもおせっかいだったっけ。
 1969年、大学闘争の真只中、激しく口論する男と女。「あなたの言う、熱い想い、だけでは人はまとまらないわ!」「おまえに何がわかる。女が政治の事に口を挟むな!」いつもこうだ。心の中では彼女の助けを常に渇望しているのに。信州の寒村から上京して来た自分は、沿線にある法科が有名な私大に通う為、ここ深大寺にある蕎麦屋に住み込みで寄宿させてもらっていた。そこの一人娘が奇しくも同じ大学同期の才媛、暁子だった。意志の強さを現す真直ぐな輝きを放つ瞳、華やかでハリウッド女優の様な容姿の一方、細やかで気が回り、明るく闊達な彼女は男子学生達の憧れの的だった。田舎から出て来て、何事にも負けず嫌い位しか取得の無か
った自分には眩し過ぎて、素直な想いが口をつく事はなかった。何事にも単純で、熱くなりやすい自分が、当時世の若者を熱くしていた「闘争」にのめり込むのは自明の理であった。そんな自分を、何故か理知的な暁子がいつもサポートしてくれた。
暁子の綿密な理論構成を、自分は代弁し、行動する形で、いつしか他大にも知られる「闘士のリーダー」となっていた。「いい?今はみんな熱くなっているからわからないでしょうけど、あなたも私も大人になって行くのよ。働いて生活をしていかなくてはならないわ。国を語る事も大切だけど、自分と自分の周りにもっと目を配ってよ!」「働くべき時が来たら働くさ。おまえ一人俺が食わせて行ける!」勢い余って口をついた言葉にハッとする。暁子も一瞬驚いた顔をしたが、何も言わず自分の胸に飛び込んで来た。胸の奥が熱く疼いた。不器用に暁子を抱きしめ、比翼の鳥が結ばれた様に満たされ眠りについた。
 「もう着いたよ、おじいちゃん!」女の子の声でふと我に返る。「ここは!」そうか、ここだったのか。建替えたのか、当時の店の面影も少ないが、清廉な湧き水をポンプ式の井戸で引いているここは忘れるべくもない、あの店だった。倒れこむ様に奥座敷に休ませてもらい、蕎麦湯を出された。そう、あの懐かしい香りと、心の昂ぶりなど全てを包み込む深い安らぎと。「お薬を飲む前に、胃にやさしいからうちの蕎麦湯は良いですよ。」若い母親が心配そうに声をかける。「あなたのご家族は?」「ここは祖父の代からのお店で、祖父は私がまだ幼い頃に亡くなり、母が女手一つで私を育ててくれました。その母も昨年の暮れに亡くなり。今は入り婿に来てもらった主人と切り盛りしていますのよ。」「君のお父さんは?」「母は父の事はあまり話しをしてくれませんでした。ただ、熱く真直ぐで不器用な人だった、とだけ。」そうだったのか。自分はまさに、何も知らずに、本当に守るべきものを残したまま故国を去ってしまっていたのだ。陳腐な言い方にはなるが、いよいよ「お迎え」という奴が来たらしい。本能的にそう悟った。「君のお母さんは幸せだったのだろうか。」「何故そんな事をお聞きになるのです?母はとても強い人でしたから。そう、清廉の水の様に、いつまでも変わらずに澱む事無く。」
 「ねえ、武。うちのお蕎麦はなんでおいしいと思う?」「それはお前、親父さんが名人だからだろう。」大きなデモの前日、ギラギラと暑い真夏の昼前、先の大戦で「撃墜王」の称号を欲しい儘にしたらしいが、一言も戦争については語った事の無い親父さんが黙々と、その無骨で大きな手でそば粉をこねる傍らで暁子が言った。「ううん。それはもちろんだけど、それだけじゃないの。」「寒く、けっして豊かとは言えない土地で育まれた強いそば粉に、全てを包み込む様な深大寺の清廉の水、この二つが水魚の様に交わるからおいしいのよ。」漢籍にも造詣の深い暁子が得意顔で言う。「ふーん、なるほどなあ。」この様な会話になると闘士と言われた自分もすっかり形無しだった。「武がそば粉なら、私が清廉の水になってあげる!」思わずうつむき黙り込むしかできない無骨な男二人。その夜の事であった。唐突に私服警官二人に率いられた警官隊が店を訪れ、有無を言わさず自分は連行された。明日のデモには何としても出なくては。仲間を裏切れない。「暁子!後の事は頼んだ。」絶叫する自分。取調べの中で、計画を事前に漏洩したのが誰あろう暁子であった事を知らされた。何故!拘束されている間のそのデモはかつて無い規模で、多くの仲間が傷つき、捕らえられたが、そこには暁子の姿はなかった様だ。後日釈放された自分は、店にも故郷にも戻らず、僅かな蓄えをはたいて振り切る様に渡米をした。自分の熱く、そして青かった恋と故国への想いへの決別の瞬間であった。
 まったくツテもアテも無く、ただ故国とあの女を超越できる可能性だけを求め、人種の坩堝のニューヨークに飛び込んだ。不法就労状態でイタリア系移民の経営するレストランの皿洗いから始めた。しかし生活費は切り詰め、移民にも門戸の広いビジネススクールに通い、貪欲に実業の世界でのし上がる機を狙った。英語も生活の中でいつしか母国語と変わらず使える様になっていった。そんな中、たまたま知遇を得た米国でも有数のユダヤ系金融グループの長が、東洋的精神主義への単なる憧憬なのか、亡国の虚無感からひたすらに足掻く野心の塊の様な自分を見出し、いたく気に入り、半ば強引に自分の娘を娶らせ養子とした。その金融グループの中で、自分は故国と暁子へ復讐でもするかの如く我武者羅に働き頭角を現した。日本のバブル崩壊期には、故国の企業を多数強引に買収し、日本では悪名を馳せた。そんな中、ふいに宣告された肺癌。余命幾ばくも無いと悟った私は、延命治療などの一切を拒み、グループの全権を最大の宿敵ではあったが、最も信頼もおける副社長に委ね、妻と子達にも何も告げず、単身この深大寺へと還って来た。暁子に会いたかった訳ではない。何故か、ただゆっくりとここで眠りたかっただけなのだが。
 そうだったのか。あの時、自分との間に子ができ、一人の女として、母として、私と、子供を守ろうとしての漏洩だったのか。女は明日の夢よりも、今日の現実を確かな糧として生きるという。私は暁子を失ってから、心の虚無を埋める様に仕事だけに打ち込んで来た。もう誰かを愛する事など無いと思っていた。ただ、暁子にも筆舌に尽くせない程の辛苦があっただろう。昨今では日々世界的にメディアを賑わかせていた私に、一切連絡も寄こさずに。嗚呼、嗚呼、それこそこの国を去って以来、流す事を忘れていた涙が滂沱の如く、枯れて水気のなくなった頬を流れて行った。「おじいちゃん、痛いの?」心配そうに女の子が自分の手を握りしめ覗き込む。「大丈夫だよ。君はなんていうお名前なの?」「廉(れん)だよ。男の子みたいに変わった名前でしょう?おばあちゃんが付けたの。お母さんが清(せい)、二人で『清廉(せい・れん』なんだって。難しいね。」
 嗚呼、自分の一生はなんて幸せな輝に満ち足りたものだったのだろうか。それこそ清廉な水の中にゆっくりと体を横たえられた様に、胸の痛みがスッと去った。「ありがとう廉ちゃん、ありがとう清さん。そしてありがとう、暁子。少しだけ、このまま眠らせてもらうよ。」「あなたは!?」驚いた母親の問いには、もう答えられる自分はいなかった。ただ、ただ静かに流れる清廉の水音だけを聴きながら、比翼の鳥の翼がもう一度、三十余年ぶりにつながり、天へとゆるやかに羽ばたいていった瞬間であった。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
石黒 隆士(東京都調布市/38歳/男性/会社員)

 「よかったら一緒に深大寺で土鈴を作りませんか。来週までに考えておいてください」
 授業の帰りがけに村岡篤史からそう言われた時、佐伯由香は、奴隷? いや、土鈴だよね・・・・・・それにしても、この人、なんて古臭いんだろう、と思った。
 最初のデートで土鈴作りなんてあり得ない。普通は渋谷とか六本木で映画からでしょ、と呆れもしたが、すぐに考え直した。
 私、何を期待してるんだろう。村岡くんはただの友達、好きに言わせておこう。どうせ自分には関係ないし。だいたい深大寺ってどこにあるの?
 横浜に住んでいる由香にとって、深大寺はあまり馴染みのないお寺だった。
 そういえば深大寺蕎麦が有名だっけ。まあ、いいや、とりあえずお断りしよう。
 次の週の授業で篤史と顔を合わせた由香は少し気まずかったが思い切って言った。
「私には土鈴はちょっと無理です・・・・・・」
 篤史は予想より遥かにあっさり「そうですか」と答えた。そして、由香のすまなさそうな表情をどう捉えたのかわからないが、
「それじゃ、深大寺植物園なら?」
と切り返してきた。由香は再度戸惑った。
植物園?それもパスだわ、と心の内で即行却下。なのに篤史は「返事は来週で」なんて言う。いったいどういう人なんだろう。
 由香はすかさず「それも無理です」と答えていた。そこで初めて篤史の顔が悲しそうな表情に変わったのがわかった。
 村岡くん、ごめんなさい。だけどあなたって、いつもどうしてそんなに垢抜けない服装なの? それじゃまるで秋葉原のオタクじゃない? 「シャツ・イン・リュック」は勘弁です。
 由香の弟が教えてくれた言葉だった。「シャツ・イン・リュック」とは、シャツのスソをしっかりズボンの中に入れ、リュックを背負って歩いている方々だそうだ。自分がそんな人と並んで歩くなんて・・・・・・
 篤史はよく見れば、顔立ちもそれなりに整っているし、どこか育ちの良さも感じられる。
 篤史の実家は萩にあり、なんでも旧家らしい。周囲にお寺が多い環境で育ったせいか、木立に囲まれたお寺が好きで、以前、東京では深大寺周辺のたたずまいが一番落ち着くのだと話してくれたことがあった。
 そこへ由香を案内しようとして、彼は思い切り失敗したのだ。
 由香が篤史と知り合ったのは、大学三年になって入った国文科のゼミでだったが、特に親しいという訳ではなかった。ただ篤史には人を安心させる雰囲気があった。
 それでも、やはり土鈴作りや植物園は、由香にとって、あまり嬉しくなかった。
 篤史はそれからゼミで顔を合わせても何も誘わなくなったし、由香には注意を払っていないように見えた。由香はこれで一件落着したと安心していた。
 ところがあるとき、由香が学食でサークル仲間と遅い昼を食べていると、篤史が大きな紙袋を持って近づいてきた。
「佐伯さん、ここにいたんですね」
 由香に白い歯を見せながら屈託なく話しかけてくる篤史。由香の中には、土鈴作りや植物園を断ったきまずさと、それにもめげない彼の強さに少し驚く気持ちがあった。
「なにか?」
「これ、萩の夏みかんなんです。食べてください。美味しいですよ」
 篤史は紙袋の中から大きくてごつごつした夏みかんの玉を一個取り出し、由香の目の前に置いた。由香はしばし呆然とそれをみつめてしまった。内心はかなりのパニック。
 こんな立派な夏みかん、見たことがない。だけどね、私がどうしてここで夏みかんをもらわなくちゃいけないの? 恥ずかしい。
 その時、由香の横で篤史と夏みかんを交互に眺めながら、友人の真奈美がキツネにつままれたような顔をしていた。彼女はこう思っていたに違いない。
「やだ、このダサい人、由香の知り合いなの?」
 少なくとも篤史は由香たちのテニスサークル仲間にはいないタイプの学生だった。
 学食に白昼堂々、夏みかんなどという柑橘系ではマイナーな果物を持ち込むのだから只者ではない。どうせならオレンジとかグレープフルーツにして欲しかった。それならまだ救いの余地があったというものを。
「あ、村岡くん、ありがと」
 由香はやっとの思いで一言発したが、そのあとが続かない。篤史はそんな由香の困惑を全く解さず
「この中にいっぱい入ってるんですよ。実家から送ってきたんです」
 と紙袋を由香に押し付けてきた。由香にはもうそれをはねつける気力がなかった。袋の重みに負けたのかもしれない。夏みかんが七、八個は入っていたと思う。
 ああ、これじゃ、まるで近所のオバチャンたちのお付き合いじゃない。
 そのときだった。テニスサークルの王子様的存在で学内でも人気者の前島裕太が爽やかに現れたのだ。空気が一瞬にして変わる。
「あ、前島くん!」
 真奈美が叫んだ。その言葉に周囲も前島を見る。都会的に洗練された前島がいつのまにか「シャツ・イン・リュック」の篤史の横に来ていた。あり得ないツーショット。
「ねえ、みんな、これからお茶でも行かない?」
 少し沈黙があったが、二、三人が立ち上がる。
「行きましょう、前島くん!」
 真奈美が努めて明るく言った。
 ところが、由香は立とうにも、ひざの上の夏みかんが重石となって、すぐには立てなかった。仮に立ったとしても、そんな荷物を持って王子様とお茶なんて、自分の美学に反する。紙袋の柄も素敵過ぎた。
 もう、村岡くんったら・・・・・・
 気づけば由香は独り学食に取り残されていた。篤史もいつの間にか消えて、テーブルの上の夏みかんが、そのごつごつした肌を西日にさらしていた。
 自宅にたどり着くと、由香は夏みかんをリビングのテーブルの上に置いた。
「ふう・・・・・・」
「どうしたの、これ?」
 由香の母がけげんそうに尋ねてきた。
「うん、ちょっとねー」
「いまどき、珍しいじゃない。これ、きっと美味しいわよ」
「ええ?」
 由香は耳を疑った。篤史も同じように言っていたからだ。
 形がまちまちな夏みかんを大きい順に並べたら、ロシアのマトリョーシカ人形みたいになった。なかなか愛嬌のある姿だ。
 母がその中から一つを手に取って、ナイフで器用に皮をむいていく。ずいぶんと厚い皮だ。由香は母の手元にみとれた。やがてみずみずしい果肉が現れ、思わずツバを飲み込んでいたら、携帯が鳴った。由香はあわててバッグから携帯を取り出す。真奈美からメールが届いていた。
(さっきの夏みかん騒動の話題で王子様もカフェラテを飲みながら大笑い。ウチの大学にもあんなダサい奴がいたんだなって。あの人、誰なの?由香も大変だね)
 どうしてか、由香はそこで猛烈に腹が立ってきた。
 ひどい。誰がどんな権利があって村岡くんのことをけなすの?
「由香、夏みかんがむけたわよ」
 いつのまにかテーブルの皿に綺麗な黄色い房がぎっしり並んでいた。
由香は恐る恐るその一つを口に含んだ。
「うう、すっぱい」
母の目が笑った。
「それが美味しいんじゃない」
母の口ぶりは妙に自信ありげだった。
「由香がお腹にいたとき、よく夏みかんを買ってきて食べたものよ。こんなに立派なのじゃなかったけど」
 そうか、私は生まれる前から夏みかんにお世話になっていたのか、と由香は不思議な縁を感じた。
 それから数ヶ月が過ぎたある日、由香の足は深大寺へと向いていた。
 雨がそぼ降るウィークデー。由香は調布駅から独り深大寺行きのバスに乗った。
 窓の外をぼーっと眺めていたら、深大寺入口のバス停を通り過ぎてしまい、あわててブザーを押して深大寺植物園で下車した。
 凛とした静寂に包まれた緑の森。由香はその気高さに引き込まれた。
 ここだったんだ、植物園って・・・・・・
 赤い傘をさしながら由香は入場券を買って中へ入っていった。
 フラワーボックスが整然と並んでいる。ずいぶんと手入れの行き届いた空間だ。雨に濡れた木立も美しい。
 由香はとうとう自発的にここまで来てしまったのだ。
 村岡くん・・・・・・
 由香は急に篤史が恋しく思えてきて、辺りをキョロキョロ見回した。
 居る訳ないよね・・・・・・
 その翌週、深大寺の門前にある焼き物屋さんで仲良く並んで土鈴に絵付けしている篤史と由香の姿があった。
「村岡くん、それ何の花?」
 篤史の手元をのぞきながら由香が聞く。
「夏みかんの花」
「へえー。そんなのあるんだ」
「やだなー、花があるから実もあるんだよ」


(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
平岡 なを(神奈川県横浜市/51歳/女性/主婦)

       ......永く、永く、眠っていた恋人の種。
                    永い、永い、眠りから目覚めるため、花を咲かせるため、
                    愛しい人の手にふれられるのを、待っていた。


 雨の降る七夕の夜。深大寺近くのアパートに越してきたばかりの美紅(みく)は、窓を伝う雨を見つめ、ため息をついていた。美紅は二十三歳。一ヶ月前に家族から離れ、初めて一人暮らしを始めた。都内の短大を卒業し、社会人生活は二年目だった。特に美人でもなく、可愛くもなく、いたって内気でおとなしい性格で、人と話すのが苦手だ。派遣の仕事をしていて、電話でお客さんのクレームを聞いたり、注文を受けたりしていた。
 会社で電話の対応が悪いからと上司から怒鳴られ、まわりも冷ややかで助けてくれる人もなく、すっかり萎縮し、自信を失くしていた。今日も何を怒鳴られるのだろう、そう思えば思うほどミスばかりを繰り返した。人の顔色ばかりをうかがうようになり、すっかり自信を失っていた。心を開いて相談できるような友達もいなければ、やさしく慰めてくれるような恋人もいない。ふと寂しくなり、美紅はドアの鍵をおろし、傘を差して外に出た。

 午後七時を回っていた。美紅の足が深大寺に向かっていた。この前、仕事帰りに三鷹駅からバスに乗っていた時、小さな子どもが深大寺の七夕が綺麗だと言っていたのを思い出したからだ。この街に越してきてから、美紅は深大寺を一度も訪ねたことがなかった。信心深い方ではないし、神社や寺にはあまり興味がなかった。ただ、寂しい気持ちを救って欲しかった。落ち込んだり、人を憎んだりする、いやな気持ちを清らかに洗い流して欲しかった。
 深大寺の山門はかたく閉ざされていた。美紅の頭の上は、鬱蒼とした樹々の葉並が生い茂っている。薄い膜のような細やかな雨が葉並を伝って石畳の上に落ち、鈍い銀色の光を滲ませていた。山門前の参道に七夕の笹が並んでいた。七夕のあでやかな飾りつけが雨の雫に濡れ、まるで泣いているようだった。蕎麦屋や土産屋も扉をかたく閉ざし、人の気配はまったく感じられない。美紅は心細い気持ちでいっぱいになった。

 美紅は、うつむきがちに雨の音を聞いていた。やがて美紅は、山門前に流れる小さな川に沿って歩いた。道路を渡ると、水生植物園の看板が見えた。だが、そこも扉が閉まっていた。水生植物園の脇には小道があり、美紅は何かに吸い込まれるようにして、その小道を歩いた。小道は上り坂となっていて、濃く茂った樹々のざわめきが、頭の上から聞こえてきた。いつもの臆病な自分なら怖くて進めなかったが、何かの強い不思議な磁場のようなものが美紅を引き寄せていた。
 曲がり角に差しかかった時、傾きかけた看板があった。鏡のようだった。鏡は、街灯に照らされた樹々の一部を映し出していた。
 ――なぜ、こんなところに鏡が。
 美紅は、恐る恐る鏡を覗き込んだ。しかし、鏡は雨に濡れた葉並を映し出すだけで、美紅の姿がどこにも映らない。美紅は、ぞっとして振り返った。その瞬間、突然に白い光に包まれ、美紅は目がくらみ、何も考えられなくなった。

 気がつくと、美紅は大きな岩の上に座っていた。荒れた大地が広がり、それは急な斜面となっていた。ここからそう遠くない上の方に険しい山の頂が見えた。山頂付近には、明け方とも、夕暮れとも言えないような青っぽい紫色の空が淡い色で光っていた。目の下には見渡す限りの雲海が広がっていた。
 ――ここは、どこなんだろう。
 美紅は、ぼんやりした頭でそう思った。目の前に小さな池があった。なぜか、強く心が動いた。美紅は岩から降りて、池に向った。

 池には、水面いっぱいに蓮が浮かんでいた。緑の水面の中で、一輪の蓮の花が今まさに咲こうとしていた。ふっくらと蕾を膨らませ、小さくふるえていた。
 次第に空が明るくなってきた。空は青っぽい紫から、赤っぽい紫へと静かに移り変わりゆく。蓮の花は夜明けの光を浴び、淡いピンク色の花びらを静かに開いた。美紅は池の畔にしゃがみ、その蓮の花に手を伸ばし、やわらかな花びらにふれた。
 美紅の前に金色の光の輪があらわれ、その中から人が現れた。背の高い、感じのいい青年だった。青年は切れ長の目で美紅をやさしく見つめ、そして口を開いた。
「僕は、ずっと永い、永い間、眠り続けていたんだ。起こしてくれてありがとう」

「あなたは誰?」
美紅は、ゆっくり立ち上がり、青年の顔を見つめながら言った。
「僕は永い、永い眠りから目を覚ました蓮の花。きみと出逢うために生まれてきたんだ」
 青年は澄んだ声でそう言って、美紅にそっと手を伸ばした。美紅も自然に手が伸びた。青年の手が美紅の手にふれた時、美紅は青年と一緒に蓮の池の上に浮かんでいた。美紅は、青年と手をつないで蓮の池の上を歩いた。隣で青年は会社での悩みごとを聞いてくれたり、励ましてくれたり、慰めてくれたりもした。
青年は、やさしい目で言った。
「まだ、まだ、これからだよ。良い方向に自分を変えてゆけばいいんだよ」
今まで、そんなことを言ってくれた人は、美紅にはいなかった。
「あなたみたいな人に出会ったのは初めて」
美紅は、ゆっくり微笑した。そして、時間が経つのも忘れ、いつまでも彼と一緒にいたい、と思った。

 いつの間にか、日が高くなっていた。青年は微笑むのをやめ、ふと寂しげな顔をした。
「ごめんね。もう、あまり時間がないんだ」青年の顔が悲しそうに曇った。青年は視線を落とした。その先には、命を終えようとしている一輪の蓮の花があった。
 青年は、悲しそうな顔をした。美紅の心は揺れた。
「もう会えないの? どこに行くの?」
 青年は答えなかった。寂しげに微笑するばかりだった。やがて青年は金色の光を放ち、微笑だけを残して消えた。美紅は眩しさのあまり目を細めた。

 雨の静かな音が聞こえた。葉並を濡らす雨の音。美紅は雨の中に立っていた。目の前に鏡があった。寂しそうに立っている自分の姿が映っていた。美紅は目を伏せ、顔を両手で覆い、静かに泣いた。彼がいなくなったことが、寂しくて泣いた。

 翌日、日曜日の朝。美紅は昨日のことを確かめたくて再び深大寺を訪れた。雨はあがり、明るい光が雲の切れ間から差し込んでいた。美紅は、山門前を流れる小さな川の流れに沿って歩き、道路を渡った。水生植物園の門が開いていた。植物園の脇には小道が続いていた。美紅は少しためらったが、昨日の小道ではなく、水生植物園の門に向った。植物園内の湿原を歩き、小川に沿って歩き、小さな池に突き当たった。そこには、一輪の蓮の花が愁いに満ちた淡いピンク色の表情を浮かべて、ひっそり咲いていた。 
 美紅はなんとか蓮の花にふれようと無理な姿勢で身を乗り出した。地面は昨日の雨でぬかるんでいる。美紅は、小さな悲鳴をあげて足をすべらせた。その瞬間、後ろから強い力で抱きとめられた。
「大丈夫ですか」
澄んだ声がした。昨夜、鏡の向こうで出会った青年の声だと、美紅は気づいた。美紅は振り返った。そこには、蓮の花の精ではなく、ひとりの人間の男の人が立っていた。切れ長の目が、美紅をやさしく見つめた。

「もしかして、昨日の夜、ここに来ませんでしたか?」
驚いた顔で青年の方から切り出した。美紅も驚いて目を大きく見開き、ゆっくりうなずいた。
青年の顔に穏やかな微笑が浮かんだ。
「信じてもらえないかもしれないけれど、七夕の夜に、心寂しくなり、清らかな気持ちになりたくて、僕はひとり深大寺を訪れたんだ。不思議な体験をした。永い眠りから覚めると、蓮の池の前に君と似た人が立っていた。その人と別れた後、これが手のひらにあったんだ」
 青年はポケットから何かを取り出し、美紅に見せた。
彼の手のひらに、蓮の種があった。美紅は、その種の上に、自分の手のひらをそっとのせた。それから、ふたり、目をあわせ、薄紅色の微笑みを浮かべた。 


(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
吉澤 慎一(千葉県千葉県市/36歳/男性/会社員)

「何祈っているの?」という妻の声がきっかけで過去から引き戻された。
「家内安全」と答える。嘘ではない。
「随分熱心に祈ってたね」
「そりゃそうだ。僕は家長だぜ。家の安全を熱心に祈るのは当然だろ」
「そうですね」
「お父さん、カチョーなの?この前係長の試験落っこちたってお母さんが言ってたじゃない」
 小学生一年生の娘のカナが惚けたことを言う。妻が含み笑いをする。

追憶に浸っていたせいで熱心に祈っていたように見えた。家内安全を祈りつつ、高校生の頃のことを思い出していた。あの頃は別のことを祈っていた。
 僕は調布市内の都立高校に通っていた。六大学に入るのが三十人くらいの学校だった。熱心な進学校というわけでもなく、かといって底辺校でもなく、勉強したい生徒はする、そうでない生徒も進路はちゃんと考えるいうところだった。
 三年生の時に彼女が出来た。美園は同じクラスのバスケット部の子で、僕より五、六センチくらいは背が高かった。明るく活発だったけど、上背があるのを気にしてバスケをしている時以外はいつも猫背気味だった。はにかんで笑うのが可愛らしかった。
たまたま席が隣同士になって、よく勉強を教えた。僕は難関のN大を目指していて、そこそこ成績が良かったのだ。それから段々一緒に遊ぶようにもなった。恋人として付き合うようになったのは、夏が過ぎ、美園がバスケットボール部を引退した後だった。美園はようやく女としての自分に気付いたみたいだった。
僕らは受験生で二人一緒に勉強するばかりだったけど、縁結びのご利益のある深大寺にはよく行った。美園も僕もお互いが初めての恋人だったから、なんの疑問もなく「ずっと」とか「永遠」なんて言葉を使って二人の仲を祈った。

 「お父さん、まず何を見ようか?」妻と僕に挟まれてカナが言う。上機嫌で声も弾んでいる。晴れ渡った五月に両親と出掛けるのだから当然だ。
「そうだなぁ。」腕時計に目をやると針は十一時を指していた。「先にバラ園を一回りしようか。その後芝生の上にビニールシートを広げてお弁当を食べよう」
「さんせーい」妻と娘の声が交わる。
「今日のお弁当は何?」カナが訊く。
「何かな~?」妻が焦らす。
「昨日の夕飯の残りの煮物とコンビニ弁当のナイルバーチのフライ、タルタルソース掛けを弁当箱に移し変えたやつ!」僕は面白がって意地悪を言う。
「何それ~!?」カナは聞き慣れない言葉に興味を示し、「ナイルバーチ、ナイルバーチ」と繰り返す。
「変なこと教えないの! カナ、変なことを言うお父さんの手をつねっちゃいなさい!」
カナは面白がって僕の手の甲を抓る。自分の力が弱いのを補うべく爪を立てている。これが存外痛い。
「痛ッ、イタ、タ、タ、タ。何を~、やり返してやる!」
そう言ってカナの頭が僕の腰の辺りにあるのをいいことに、お尻を娘に打ち付ける。カナはよろける。妻が手を握っていなかったら転んでいただろう。
「やったな~!」
 カナはそう言うと僕のお尻を何度も打ち始めた。
「ごめん、ごめん。許してよ」
「許さない!」尻を打ち続けるカナ。こういうときの子供はふざけているのか本気なのか分からない。
「ごめん。どうしたら許してくれる?」
「肩車したらっ!」
――肩車!
 カナの言葉に対して重く鋭く独白する。三〇も半ば過ぎた男にとって、子供を肩車することはその一回一回が挑戦である。
「い、いいよ」
 わ~いと喜ぶカナの声を遠くに聞き、僕はしゃがむ。鼻からゆっくり息を吐きながら腹筋に力を込める。
 双肩にカナの体重を感じると、腹筋にさらに力を溜めて立ち上がる。腰を痛めることのないようにゆっくりと、ゆっくりと。
「たか~い」
 僕の身長はせいぜい一六〇センチメートル。それでもカナはこんな歓声を上げてくれる。
「良かったね~」こう言いながら、妻がそっとカナの背中に手を添え、落ちないようにしているのが分かる。
 こんな時間が永遠に続けば良いと思う。カナは成長し、僕らから離れていくだろう。でも僕らはずっと家族だ。

美園との「永遠」は長くは続かなかった。高校卒業後、僕はN大に、美園は体育系の短大に入学した。希望の大学に入ったものの、僕はなかなかそこで居場所を見つけられなかった。難関大学らしく、クラスの連中は聡明で洗練されていた。それに対して中堅都立から歯を食いしばって勉強して合格した僕は、自分が何か野暮ったい感じがして、皆に上手く馴染めなかった。大学で上手くいかなかった分、僕は美園に頼った。美園の前で高校時代の「頭のいい僕」を演じれば、しっくりと自分を保つことが出来た。しかし、美園には美園の生活がある。彼女の短大はカリキュラムが濃密で一週間に一回会えるのがやっとだった。僕はもっと会えないかと迫った。結局、そんな僕の様子に嫌気の指した美園が新しい恋人を作った。
その事実を知った後の後の僕は惨めだった。大学も休みがちになった。代わりに何をやるというわけでもなく、暇つぶしにマスターベーションをし、夜は独りで酒を飲んだ。自分のベッドの上の反吐の冷たさと悪臭で目覚めることもあった。
無為の毎日が続いた。高校時代に二人で歩いた場所を独り巡った。深大寺や神代植物園も歩いた。深夜、美園の家に電話を掛けた。相手が出ると怖くなって切った。酒を飲むと無性に寂しくなって一ヶ月に一遍くらいはそんなことをしてしまう。無言でも何か繋がっている気がしてしまうのだ。一年が過ぎた。ある日受話器の向こうの声が言った。「誰だか分かっているのよ。今、彼氏がいないから、また付き合う?」

三人でバラ園を廻る。人込みの中でカナがはぐれてしまわないようしっかりと手を握る。カナは僕に手を取られあっちのバラこっちのバラを見て歩く。時折花冠に花を突っ込んで「いいにお~い」と言ったり、お気に入りの色の花を見ると「まあ、なんてキレイなんでしょう」などとディズニーアニメで覚えた言葉で嘆賞したりする。
ある時は初めての恋人と、ある時は独りで歩いた場所を今は家族と歩いている。何だか妙な気分だ。

痩せ犬に骨を投げつけるような美園の言葉。携帯電話のなかった時代だ。美園は僕の電話に迷惑し、ああ言えば僕が遠ざかると思ったのだろう。
美しい思い出を自ら壊して、堕ちるところまで堕ちた僕は一つ開き直った。大学に居場所なんてなくていい。僕は単位を取るために大学にせっせと通い、家で音楽を聴き、本を読みながら残りの大学生活を過ごした。

「ご飯にしようか。お父さん、そろそろ疲れちゃったよ。」
 僕が提案すると、妻と娘は「お父さん、男のくせにだらしな~い。」と言いながらも、嬉しそうに芝生の上にビニールシートを敷く。そこへ妻の作った弁当を広げる。
「わぁ」娘が歓声を上げた。
弁当箱の中にはカナの好きなアニメのキャラクターの顔が詰まっていた。赤ピーマンやイチゴ、海苔を使ってよく似せて作っていた。
「昨日の残りなんて入ってないじゃ~ん」
「でしょ~」
 話題は弁当箱の中のアニメキャラクターの話になり、僕も頑張って、ビール片手にその話の輪の中に入る。
 
「お父さん、起きてよ」
カナに揺り起こされた。一緒に走り回った後、ビールを飲みすぎていつの間にか眠ってしまったらしい。日の光が大分やわらかくなっていた。
「お父さん、お友達が出来た。美里ちゃんっていうの。沢山遊んでもらっちゃった」
 カナは自分よりやや年上の女の子と手を繋いでいた。
「ありがとうね」と僕が言うと、女の子は、はにかんだように笑う。その笑みに見覚えがある。ふと二人の向こうに目をやると、妻と長身の女性が談笑しながらこちらを見ている。逆光に女性の顔の輪郭だけがはっきり浮かぶ。
 僕は胸に込み上げるものがあって心の中で叫ぶ。
――おぅぃ、美園。お前にとっても、この場所は特別なのかい?あの時の僕はとてつもなく格好悪かったけど、見てくれ、今はこんなふうにお父さんとして頑張っているよ。カナがいると、小さな僕がとても大きくなるんだよ......。
「じゃぁ私帰るね」美里が言うと、カナは「バイバイ」と答えた。
僕らも家に帰ろう。


(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
前田 栄一(埼玉県志木市/33歳/男性/会社員)

「あんたどこにおるがや?」
「お姐さん、堪忍。心配掛けてしもて...。」
「元気におるがなら、ほんでいいがやけど、金箔屋の旦那さん、あんたの踊りが観たいっちゅうて、ずっと待っておいでるがやぞ。いい加減帰ってきまっし。」
「あっ、明日には金澤...、帰るさけ。」
 志摩子の声は段々と小さくなり、武蔵国の面影を残す千二百年以上続くといわれる深大寺の杜、騒ぐ蝉の声に掻き消されていった。

吉祥寺の百貨店で働いていた志摩子が、初めての一人旅で訪れた金澤の"にし"のお茶屋、格子窓の奥から聞こえる三味の音に心惹かれ、芸の世界に憧れて東京を捨て芸妓の道に入って十年になる。「故郷を捨てる」ということはあっても「東京を捨てる」ということはなかなか人には理解されない。東京に生まれた人間にとっては、本来東京が故郷ということになる筈なのだが、「故郷は東京。」と胸を張って言えない何か不思議な感覚がこの国には存在していた。しかし、志摩子は東京を捨てた。自立した女になるために。
その東京に、十年ぶりに志摩子は戻ってきた。住み慣れた吉祥寺の街からバスに揺られ、ひとり深大寺へと向かった。十年の金澤生活の中で、いつの間にか日本的な美を愛でる感覚が志摩子の心には染み込んでいた。
「廓の紅の壁と、この緑は良く似合うわね。廓という非現実の世界ですら、自然に似合う、それがこの国の文化なのかもしれないわね。」
志摩子はそんなことを考えながら、深緑の参道をゆっくりと歩いた。色白の志摩子のうなじは、藍色の古風な浴衣によく似合う。参道の木々からもれる木漏れ日が、黒に赤の鼻緒のついた志摩子の下駄を優しく、しかし夏の暑さと相まって時にジリジリと痛く照らしていた。

吉祥寺駅から深大寺へ向かう道沿いの風景も、この十年で随分変わってしまった。"若者の街"、"住みたい街ナンバーワン"等と、そこに生まれたものにとってはお門違いのような持て囃され方をし始めたのも、ちょうど志摩子が金澤へと出て行った頃だったろうか。毎月のように入れ替わるテナントはまだしも、平日の昼間からモクモクと煙を吐いていたあの昭和の焼き鳥屋・"いせや"ですら、細長いのっぽビルへと建て替わるという。この街を出て行く、あの傷心だった志摩子を優しく包み込むように見送ってくれた温かなオレンジ色の電車もまた、冷徹なるステンレス製の車両へと移り変わっている。

「あなたに会いたい。」
心に重たい溜息のような想いが募ったのは、バスがようやく井の頭公園の森を過ぎた頃だった。
「『昔の恋を引きずるのは男の人の方』、だなんて云われるけど、そんなの嘘よ。恋をファッションや自己満足の道具にしか考えられない女の強がりもしくは、戯(言)...。」
 と言いかけて、大学を卒業する年、自ら選んだ恋の過ちに顔を赤らめた。
「女って身勝手ね。」
 そうお天道様に呟いたら急に可笑しくなっちゃって、巾着袋をギュッと握り締めて笑いを堪えるのに必死だった。

「幸ちゃんへ
  急に出て行くことになっちゃってごめんね。『なっちゃって』だなんて、誰かに責任押し付ける様な言い方だよね。でも私、自分じゃどうしていいかわからなくて...。鍵は新聞受けに入れておきます。落語家になりたいっていう幸ちゃんの夢、私これからも応援してるから。今は私、まずは私、ひとりで立っていける女になりたいの。『傍にいるだけで幸せだよ。』って幸ちゃんの言葉、あの時反発しちゃったけど、ホントは凄くすごく嬉しかった。そんな言葉が似合う女になったらまた会ってくれる?だなんて、ごめんね、身勝手にも程があるわよね。幸ちゃんを支えてくれる、そんな素敵な女性に出会ってね。
ありがとう、本当にありがとう。志摩子」

 置手紙をコタツの上に、私は二年続いた幸ちゃんとの同棲生活に別れを告げた。大人の女性に憧れていた私は、百貨店の化粧品売り場に就職も決まり、ひとつまたひとつと自分の気持ちに嘘を塗り重ねることを覚えていった。
 ...嘘で塗り固められた恋だったのかもしれない。当時流行り始めたインターネットで一儲けした大学時代の先輩と、六本木や青山でデートを重ねたりもした。「自立した君の生き方を僕は尊重するよ。」、眩いばかりの"東京"の夜景を背景にしてかけられる優しい言葉に私は陶酔し、そして捨てられた。
 都会での自立した女の生き方なんて、最後には空虚になるだけ。都会の夜空じゃ、輝ける星も街のネオンに掻き消されてしまう、そう思ったら、遠く離れた金澤の街で芸に生きる決心がついた。
 歴史ある街で、心づくしのもてなしをお姐さん方から学ぶ度に、自分の心が生き返ってくることを実感した。自立した女とは、人の心に触れ合って、そして見つけていくものなのだと、ようやく私の胸に響いてきた。
 そしたら急にあの時幸ちゃんが私にかけてくれた「傍にいるだけで幸せだよ。」って言葉が、たまらなく愛しく迫ってきて、気づけば東京、羽田からのモノレールに乗っていた。それから一週間ほど、今となっては懐かしい"東京"の街をふらついた。同棲時代に幸ちゃんとよく飲みに行った吉祥寺の居酒屋で、二ツ目さんになった幸ちゃんの、深大寺で開かれるという落語会のチラシを見つけて、こうしてバスに飛び乗ったの。

 お寺の緑は心地がよい。金澤という、杜と水に囲まれた街での生活が長くなった志摩子にとって、深大寺の杜はどこか心落ち着き、そして懐かしいものに感じられた。
 本堂の隅に作られた高座に幸ちゃんが座っている。着物の袂からすうっと伸びる細い腕、そしてコマを回す仕草の手の平から青い血管が柔らかく浮き出している。幸ちゃんの手はあの時のまんま。『悋気(りんき)の独楽』という、落語の名作を一人何役もこなしながら演じている。
「旦那さんのコマと女将さんのコマがくっついたら今夜はお帰りになります。そいで、旦那さんのコマとお妾さんのコマがくっついたら今夜は、...お泊りです。さぁ、廻った廻った!」
 志摩子は自分の心をそのコマに託してみたい気持ちになっていた。今も変わらぬ、いや変わらぬと志摩子が信じて止まないまっすぐな幸ちゃん。まっすぐな幸ちゃんにまっすぐ向き合えない自分自身に少々居心地が悪かった。
「幸ちゃんにもし、想う人がいるならば、考えたくはないけれど、もしも奥さんがいらっしゃるのなら、私はお妾さんのコマでいい。だからせめて傍にいさせて...、お願い。」
 コマは「コツン」と乾いた音を立ててぶつかる。
・・・
 悋気とは嫉妬のこと。
「一度は乾いた恋を求めた私だけれど、今の私が求めているのは、"コツン"だなんてそんな乾いた音じゃないみたい。」
 志摩子は湿ったこの国の夏の暑さに、襟元を流れる汗を何度も何度も拭った。
 一方で、見知らぬ土地で暮らし、十年の歳月をかけてようやくその街を"故郷"と呼べそうになったというのに、心残りの過去の恋を追いかけて、一度は捨て去った筈の、冬には空っ風の吹き荒れるこの乾いた"東京"に戻ってきたこの矛盾に、無理に折り合いをつけないでも良いような、そんな気持ちにもなっていた。
「あなたに会いたい。」
 唯それだけが真実なのだと思った。あの頃毎晩のように嬉しそうに語ってた幸ちゃんの夢、その夢をこうして一歩ずつ叶えて生きる幸ちゃんに会えたんだから...。会いたいというその気持ちの答えは、今目の前にいる幸ちゃん、あなたがそこにいるということ。

 高座が終わり、志摩子は落語を聴きに来ていた地元のご老人や、蕎麦を目当ての観光客に交じって、境内の釈迦堂へとゆっくりと歩を進めた。
外の強い日差し、うだる様な暑さとは打って変わって、コンクリート造りのその建物の中は少しひんやりと感じられた。そこに祀られた白鳳時代のお釈迦さま、千年の時を超え、明治時代にこのお寺のお堂の下から発見された仏さまだという。まっすぐに誰かを想い続けたかのような清純な眼差し。千年の暗闇の中から、夏の日差し差し込むこの地上にお出ましになったのだ。
恋とは盲目、お日さまを背に立つあなたの陰を追いかけるようなもの。想いが強まる度に眩くなるばかり。逆光線、そう、私からあなたが見えなくとも恋は恋。

「やっと会えたね。」

 お釈迦さまに対面した志摩子の目には、ただただ涙が流れていた。
 ふと差し出されたハンカチに、この人の傍で生きたいと、心に決めた志摩子がいた。そして夏の湿った風がゆっくりと、ゆっくりと二人の間を撫でていた。

(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
松田 亜世(東京都武蔵野市/28歳/男性/フォークな唄うたい)

「さっきの句碑だけど・・」
 弘子が、不意に言った。散歩した深大寺境内には多くの歌碑や句碑がある。その中で、弘子は、草田男や波郷のように著名ではないが、俳壇では重鎮だった、その人物の句碑の前に、暫く佇み、興味深げに読んでいた。
「ああ、皆吉爽雨の句碑のこと・・?」
 「みなよし・そうう。爽やかな雨。白々と明け行く刻の雨。いい俳号だなあ」など考えを巡らしながら、辰彦は目を細め、相変わらず弘子は『マニアックだな』と思った。
 二人は、近くの蕎麦屋で、新蕎麦を楽しみ、名物の蕎麦饅頭とお茶で寛いでいた。
「だけじゃなく、井澤正江との師弟の・・」
 弘子は、意外なことを口にした。
 井澤は、皆吉歿後、皆吉が創刊した俳誌『雪解』を引き継いだと聞いている。
「二人とも、地味だけど、いい句を詠んでいるよね・・」
 それほど爽雨に詳しいわけではないが、俳壇の元締めたる俳人協会の設立に携わり、副会長を務め、第一回「蛇笏賞」を受賞、印象深い句を多く残しているのは知っている。
「爽雨って、私あんまり知らないけど、例えばどんな句・・?」
「僕の好きなのは、〈ふくるると消ゆると秋の雲二つ〉とか、〈新茶くむつひのしずくに力あり〉という句・・」
「なるほど・・。いい句ねえ・・。じゃあ、井澤正江は?」
「有名なのは、〈白繭の翳れば山河はたと暮れ〉という句。師匠と弟子では詠みっぷりがかなり違うよね」
「そうね・・。でも、こんな話、あなたとするの、何年ぶりかしら・・?」
「あれ以来だからね。十年になるかなあ・・」
 辰彦は、ちょっと考え込む風情であった。
「そう・・。あれ以来・・、ねえ」
 弘子も感慨深げに頷いた。
『あれ』というのは、思い出したくもないが、弘子が俳句を捨てるきっかけになり、二人が別れる遠因にもなった出来事である。
 嫌な事件だった。こういう世界にありがち、と言えば言えたかもしれないが、弘子は勿論、辰彦にとっても痛恨事だった。
「こうして君と、再び、ここで会えるなんて、そのときは思いもしなかったけどね」
 待った甲斐があった、と辰彦は思った。
「ホントに待っていてくれたのね。今でも夢じゃないか、と思っているもの」

 十年前、二人は共に二十代後半、俳句結社「逍遥」の若手会員だった。町田の句会で、最初に弘子の句に注目したのは、辰彦だった。
 控えめな女性なのに、斬新で、切れ味の鋭い句を詠む。辰彦は、人柄を含め、次第に弘子に惹かれて行った。
 同じ句会に、師岡八重子という美貌の女流がいて、男の会員のアイドル的存在だった。しかし、句は弘子のほうが遥かに上。八重子にとって、弘子は目の上の瘤だった。
 そして、事件が起きた。弘子が「逍遥」に出した句に、八重子がクレームをつけたのである。この句は主宰から、秀句として評を貰ったのだが、季語を除き、他の結社の主宰の昔の句にソックリだと言うのである。
 八重子は、そのことを、評者である主宰に手紙で書き送った。主宰は、次号で、類想・類句の問題に触れ、「確かに似ているが、句意が全く違う。類想・類句は短詩形文芸の宿命だが、怖れてはならない。むしろ、花開くべき才能が、こういうことによって、萎縮してしまう方を怖れる」と述べた。
 八重子は、納まらない。「女を武器に主宰に取り入っている」など、弘子を誹謗中傷する心無い噂を撒き散らした。弘子は「逍遥」での活動を諦めざるを得ず、更に、現状にも嫌気がさし、俳句の筆を折る結末となった。
 辰彦は、心を痛めた。
この句は、悩んでいた弘子からアドバイスを求められ、「こうした方がいい句になる」と言い、従った結果、騒動に発展したからだった。つまり、責任の一端は辰彦にあった。
〈チョコレート苦きは秋の別れ言〉
 弘子はこの句を残し、辰彦の前から消えた。八重子が密かに辰彦に想いを寄せ、辰彦もまた美貌の八重子に惹かれた結果、自分を排除するため謀事を巡らせた、との疑いを持ったようなのだ。
「こんなことで迷惑をかけてしまうなんて、思いも寄らなかった」
 別れの日、吟行によく訪れた深大寺の寺領を散策しながら、辰彦は心から詫びた。
「いいのよ。これも私に与えられた運命」
 意外にも、さばさばした顔で弘子は頬笑んだ。何かを吹っ切りたいという姿勢が見えた。
「君への想いは変わらない。今回のことで、心に蟠りが無いと言えば嘘になるだろう。しかし、もし、僕への気持ちが残っているのなら、何時までも待っているつもりだ」
「有難いけど、そんなの夢物語に過ぎないわ。もう少し経ったら、きっと、八重子さんが、あなたの傍にいると思うから」
「それは誤解だ。僕は彼女を句友以外の何者とも思っていない」
「そうかしらね・・」
 弘子は、半信半疑のようだった。しかし、辰彦の人生にとって、弘子を失うことは、単なる一つの失恋以上の重みがあった。互いに切磋琢磨し、高めあう、句友であり、いい意味での句仇に他ならなかったからだ。
「それならこうしよう。十年後、もし、僕が今の結社にいたなら、必ず君との思い出の句を発表する。そのとき、僕への心が残っていたら、連絡くれないか」

〈薔薇散って残り香淡き寝覚めかな〉
 十年後、辰彦は弘子との思い出の句を他の二句とともに、『逍遥』に発表した。この間、辰彦は同人に推挙され、主宰の選を経ない、同人欄に載せたのである。
 暫く何の反応もなかった。以前の電話番号に連絡したが、「この番号は、現在使われておりません」という声が聞こえるばかり。
 弘子が『逍遥』を取り続けている保証はなく、仮に取っていても、その気がなければ読むことはないだろう、とも考えた。焦った。
 待つこと一月。漸く弘子から手紙が届いた。かなりの葛藤があったようだった。
「本当に待っていて下さったのですね。あなたらしいけど、馬鹿みたい」
 そう書いてあった。嬉しかった。あのまま人生を送っていたら、恐らく大きな悔いを残すに違いない。たとえ弘子が待っていてくれなくても、もう一度会い、現在の心境を聞くだけでもいい、とも思っていた。

「さっきの二つの句だけど・・」
「皆吉爽雨と井澤正江の・・?」
「そう・・、あれは一種の相聞歌というか、相聞句と取れないかしら・・」
 また予想外の言葉を弘子は口にした。心の内が読める言葉だった。暫く、俳句の世界から離れたことが、物事を客観的に見て、新しい発見に結びつくということはよくある。
「相聞句・・?まあ、主宰と会員、特に異性間の場合は一種の疑似恋愛みたいなところがあるからね。例えば、君も知っている、高浜虚子と森田愛子なんかはそうだよね」
「虚子の〈虹立ちて忽ち君の在る如し〉と愛子の〈虹消えてすでに無けれどある如し〉という句。互いを想い合う気持ちが凄いわね」
「虚子の『虹』と言う小説のモデルになって、愛子は有名になったけど・・。
〈春惜しむ深大寺そば一すすり〉という爽雨に対し、〈そのひまの空はまぼろし辛夷咲く〉という井澤正江の句は、受ける形になっているよね・・。疑似恋愛は別にしても、辛夷の花言葉は『信頼』、師への深い想い入れが読み取れる句だよな。師匠が蕎麦を一啜りする間の空が幻、というのだから・・。
 だけど、どうして相聞句だと思ったの?」
「ううん・・、別に。ただ、そう思っただけ・・」
「そう・・。でも何となく分かる気がする・・」
「会おうと決心するには勇気が要ったけど、この慌しいご時世に、十年も待つなんて。
 まるで平安時代の恋物語だわ。
 あなたがそこまで馬鹿正直だとは思わなかった。私の見込み違い」
 弘子は何が可笑しいのか、ホホホと笑った。
「馬鹿で、見込み違いで悪かったかな?」
 辰彦も笑いながら言った。空白の十年が忽ち埋め尽くされる感触があった。勿論、現実に、二人の距離を埋めるのは、それほど簡単なことではない、と分かってはいるが・・。
「そんな・・。でも嬉しかった。さっきあなたが、蕎麦を食べている姿を見て、本当に夢なら覚めないで、と思ったもの・・」
 それは辰彦も同じだ。目の前に弘子がいること自体奇蹟としか思えない。
「ありがとう・・。ただ、お互いもうそんなに若くはない。これからは、それぞれに、そして二人の間も、どうなるか分からないけど、前向きに、大切に生きて行きたい」
「賛成・・。ところで、八重子さんはその後どうなさったの?」
「僕に脈が無いと分かると、サッサと辞めて、別の結社に行ったよ。以後音信不通。今どうしているか知らない」
「そう。でも俳句を再開するにしても、あなたとは、別の結社に行く。もう嫉妬はコリゴリだから」
「それは賛成だな」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 辰彦は、来年の新蕎麦の時期、弘子とどう過ごしているだろうか、と想像した。そして、何故か、囲炉裏の灰の中から掻き出される、一片の埋み火を思い浮かべたのだった。


(了)
 
-------------------------------------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
相原 文生(神奈川県相模原市/68歳/男性/無職)

<<前の10件 12|3|4 次の10件>>

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
→第13回公募 募集要項

Facebookはじめました

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。
転載等に関してご質問がございましたら、事務局までご一報下さい。

深大寺周辺地域紹介

深大寺地域観光マップ

Facebook始めました

最近のトラックバック