6月の雨が煙るように降っている。それがタイヤの滑りを鈍らせているのか、道路が混んでいる。河野大樹はこの30分間で何度目かのため息をつく。いつもなら寺に着いている時間なのに、調布駅界隈を抜け出せない。
「ねえ、今度花屋見つけたら、車停めてよ」
助手席の沼田亜紀が言う。
「さっき買ったじゃないか」
 亜紀はハンドルと大樹の間に仏花の束を差し出し、かしゃかしゃと振った。
「だって、やっぱりちゃちなんだもん。大樹のお義母さん、多分何か言いそう」
半年後の結婚を控え、亜紀は初めて河野の父の墓参りをする。
「大樹の家ってお花に大好きでしょ。庭なんてイギリスの庭園みたい」と言って、亜紀は持参する花を中々決められなかった。店員のアドバイスを聞いて、ランやトルコキキョウでまとめたが、まだ不安らしい。
「その花で十分だよ」と亜紀を宥めれば良いことは、大樹には分かっている。
でも、カーナビの時計が10時40分と表示されているのが目に入ると、アクセルを踏む方に神経がいってしまう。信号が赤になろうとしても、交差点を突っ切る。
「こんな運転する人だったけ?お義母さんとの約束まで余裕あるじゃない」
亜紀が非難するが、大樹は次の交差点も強引に渡った。

休日のためか、駐車場が混んでいた。それでも雀のお宿近くの駐車場の奥に一台空きを見つけ、大樹は車を停めた。
「花屋さん、寄ってくれなかった」
亜紀の頬はちょっと膨れている。
「その花で十分だよ」と言う好機だ。大樹が口を動かそうとしたとき、視界の片隅で紫のものが動いた。そちらに目を向け大樹ははっとした。
淡い紫色の傘を差した女性が深大寺通りを横断し、水生植物園の方に歩いている。傘のため、顔は見えないが、あの後ろ姿は・・・。
「ちょっと急がないと」
大樹が急かすと、
「雨の中、走るの?」
 亜紀は呆れた顔になる。
「うちの母親、待たされるの嫌いなんだよ」
大樹は雨の中、傘もささずに走り出した。
「河野家にとって、お墓参りって凄い行事なのね」
 男一人の一人っ子だからと、亜紀は大樹のことをマザコン認定したがる。今日の行動が決定打になるかもしれない。でも、大樹は走るのをやめなかった。

 待ち合わせ場所の山門前に、母里子の姿は見当たらない。
 「まだ来てないみたいよ。良かったね」
 亜紀は山門前に並ぶ蕎麦屋の建物を珍しげな顔で見ている。バブル期に開発された住宅地で育ったので、深大寺界隈の景色がもの珍しいのだ。「東京じゃないみたい」と弾んだ声をあげ、スマホで写真を撮り始めた。
「墓の方かもしれない」
 大樹はまた山門前の道を深沙大王堂に向かって歩き出した。
「まだ写真撮ってるんだけど」
「墓参りすんでから」
「信じられない」

 こじんまりとした深沙大王堂を右に曲がると、いっそう緑が濃くなる。小さな石段を上がって、深山茶屋の前を通り過ぎると、墓所がある。人の行き来はほとんどなない。
大樹は母が来ていないことを願っていたが、それは叶わなかった。
里子は河野家の墓の前にいた。
「母さん」
大樹が声を掛けると、里子が振り向いた。その手には紫陽花の花束を握りしめている。
遅かった。大樹は臍を噛む。里子の手にある紫陽花は供えてあったものだろう。
里子の足もとには薔薇の花束が落ちていた。自宅の庭から持ってきたと思われる、里子ご自慢の薔薇だった。大樹は薔薇の花束を拾い、
「かあさん・・・父さんの会社の人が来てくれたんじゃないかな」
「命日なんて誰も覚えてないわよ。紫陽花なんて持ってくるのは、あの女に決まってる」
里子は紫陽花を地面に叩きつけた。
遅れて墓所に来た亜紀は、地面に散らばる紫陽花を見て、息を呑む。
「もう10年経っているんじゃないか」
「10年たってね、いきなり墓参りに来たのが嫌なのよ」
 里子の目の淵が赤くなっているのに大樹は気付いた。
「捨てて来てくれる?」
 亜紀は身を屈めて紫陽花を拾い始めた。墓所で起こっている事態がまるで理解できていない。でも、亜紀がこの場で出来ることは他になかった。
「俺がやるからいいよ」
大樹は亜紀を制止し、薔薇の花束を渡す。そして、紫陽花を拾い、周囲に散らばった花弁も集める。

10年前、大樹はこうして散らばった紫陽花を集めたことがあった。父の病室でのことだ。そして、母が父を罵倒している間、大樹は病室を抜け出した。病院の外にいた紫陽花の送り主に、父の言葉を伝えた。
「こんなにきれいな紫陽花を見られて、思い残すことはないとのことです」
「もう病院には来るなってことね」
 大樹の肩についた花弁を取りながら、津山絵里子は寂しそうに微笑んだ。

大樹は「捨ててくる」と言って、墓所を出た。そのまま水生植物園に向かう。
雨にもかかわらず、水生植物園に巡らされた木道はかなりの人が行き来している。水芭蕉の季節のためだろう。
津山絵里子は、池に面した木道の一画にぽつんと佇んでいた。大樹の気配に気付いたのか、振り返る。絵里子は、一瞬驚いた顔をしたが、大樹が抱える紫陽花を見て、笑みを浮かべる。
「見つかっちゃった?去年までは大丈夫だったのに」
「去年までね、俺は早く来ては、片付けてた
んだ。母に、花が見つかったら、騒ぎになる
から。なのに、今年は道が混んでて」
絵里子は大樹の頭上に傘を差しだしてきた。だが、大樹は遠慮して傘を押し返す。
「お父さんが亡くなる前に遺言でも残していた?津山絵里子は何をしでかすか分からないから注意しろって」
「違いますよ。最初の命日に、たまたま早く
来たんですよ。そしたら、紫陽花が飾ってあ
って」
「これはまずいって思ったんだ」
 絵里子はまた可笑しそうに笑う。
「紫陽花は鬼門ね。大樹君にとっては」
大樹の父は花好きだったが、春から夏に掛けては特に紫陽花に目がなかった。
でも、母の里子は薔薇の栽培に凝り始め、庭の景観を損ねると言って、紫陽花を抜いてしまった。
「お父さんに花を見せたくって。でも、あなたのお母さん、必ず見破るのね」
「俺が早く来れば、今年も見つからなかった」
「でも、もう迷惑を掛けるのも今年で終わりだから。田舎に帰るの」
 大樹は絵里子の顔を思わず見詰めた。
「結婚するんですか?」
「ううん、そんな華々しい話じゃない。40になると色々ありましてね。親の介護というやつよ」
大樹はすぐには返事が出来なかった。元気だったころの父が絵里子と一緒にいるところを見たことがある。絵里子のいる空間だけ、違う空気が流れているようだった。それほどに華やかなオーラを絵里子は放っていた。介護をする絵里子など大樹は想像出来なかった。
「ここね、河野さんがプチ尾瀬と呼んでるの。おうちの整備された庭園も好きだったけど、自然な感じが大好きなのよね」
「親父は10年も前に死んだのに、まだ現在形で語るんだ」
絵里子は大樹の顔を覗き込んだ。大樹は思わず緊張する。
 10年前、絵里子に触れられた肩が熱くてその晩は眠れなかった。それから毎年、絵里子の紫陽花を捨てたことはない。密かに持ち帰り、枯れるまで部屋に置いておいた。
絵里子は傘を持っていない手で、大樹のほほを撫でた。絵里子の目には、大樹は高校生と映っているのかもしれない。
「紫陽花の始末、よろしくね」
 絵里子はくるっと踵を返すと、水生植物園の入り口へと歩いていく。
 大樹は遠ざかって行く薄紫の傘を見詰めた。
父の愛人だった女性に、近付く勇気は大樹にはなかった。今年ようやく会えたと思ったら、絵里子は東京を去っていく。
このときを逃せば、一生縁がないだろう。
絵里子を追って、大樹が歩き出そうとしたときだった。亜紀から携帯メールが届く。
「どこまで捨てに行ってるの?嶋田家さんに移動。お義母さん、大ちゃん来るの待ってからお蕎麦注文するって。だから早くね」
現実と折り合いをつけるためには、早急に紫陽花を処分しなければならない。今年は家に持ち帰ることが出来ないのだ。
だけど、これは絵里子の最後の紫陽花だ。
雨足が強くなる中、大樹は木道の上にただ立ち続けていた。

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<著者紹介>
上原 久美(東京都世田谷区)
清太朗は、これまでのお礼ですと志保の前に封筒を置いた。
「いただきませんわ」と志保はうつむいた。
そばが運ばれてきた。志保がじっとしているので、清太朗は封筒を戻した。
 食べている間、二人は黙っていた。清太朗がふと目をやると、志保は、細く流れるような眉をやや顰め、ぽってりした唇を心持ちつきだすようにして、そばをすすっていた。少しやつれたようで肌の白さが目立つが、豊かで柔らかい感じは、以前と変わらなかった。
 志保は、祖父の女である。だが、七十に近い祖父の清は、日盛りに一人で百貨店へ出かけ、帰りに倒れて救急病院に運ばれ、意識のないまま、ひと月ほど入院していた。
十年前、気性の荒い祖父を受けとめていた祖母が他界すると、祖父の癇癪の矛先は清太朗たち家族に向った。身一つで上京して事業を興した人ゆえ、性格にも厳しいところがあるのは家族も承知していた。暮らしも仕事も祖父が築いたものの上に成り立っていたのだが、時折みせる不条理な感情の爆発に、敬意も感謝も薄れていった。入り婿で現社長の父と経理の母の間や専務の清太朗と事務を執る妹の梨香との間に、いさかいが起こるようになった。繊細なところもある祖父は、長年の夢だった一人暮らしをすると言い出し、深大寺界隈に家を借りた。そこへ何人めかの家政婦としてやってきたのが、秋田出身で看護師をしていたという志保だった。
通いから住み込みへ、そして男女の仲へと関係が変わるうちに、祖父の色つやも身なりもよくなり、禁煙にも成功したのをみて、母も梨香も志保を褒め、行き来もしていた。志保のお陰で、家族は祖父を追い出した後ろめたさから解放され、家庭内は平穏だった。
しかし、三年前の志保の妊娠で、状況は変わった。当時、婚約中だった梨香は、相手の一族に知られたら破談ものだ、始末をつけるようあの女に直談判するとわめいた。だが、子どもは流れ、梨香の結婚は続かなかった。
その後も、祖父と志保は一緒に暮らしていたが、祖父が会長を務める自らの空調会社へ顔を出すことも、あまりなくなっていた。
病院には母と梨香が交替で付き添っており、志保が行っても早々に追い返された。そのうち、ごたつく前に、まとまった金を渡して関係を絶とうという話が出るようになった。その役が清太朗にまわってきた。彼は、志保のためには祖父と別れるのがいいと思っていたが、まだ早いと渋った。倒れる前、ふらりと現れた祖父に、志保のことを頼まれていたからでもあった。だが、両親はこういうことは早い方がいいと言い、梨香は次期社長としても長男としても自覚が足りないと非難した。そこで、気が進まないながら、志保の指定した深大寺へやって来たのだった。
清太朗は、そばをすすりながら、以前見た炎天下のそばの花のことを思い出していた。白い可憐な花をいただき、華奢な姿で真夏に立つ姿に、どれほど強いのだろうと驚いたのだった。そんなそばを食したことで、力を得た清太朗は、重い空気を破って、「深大寺にはよく来るんですか?」と訊ねた。
「ええ。毎日。清太朗さんは、初めて?」
「学生時代に、二、三度来ました。縁結びの神様が祀ってあるそうですね。妹はときどき来ているようで、つい先日も、男友達とお参りに来た話を母にして、おじいちゃんがこんな時なのに、とたしなめられていましたよ」
 そうですかと志保の顔が曇った。
「それにしても、涼しくなりましたね」
「ええ。清さんも、暑さによく耐えて、がんばりましたわ。さすがです」
「祖父の所に来ていただいて、八年ですね。長い間、ありがとうございました」
「やめてください。ご存命ですわ」
「しかし、医者から意識が戻る可能性は、極めて低いと言われています」
「生きていてくださることが、支えです」
ふと、清太朗は、志保をいじめたくなった。
「祖父のどこがそんなにいいんですか?」
「失礼な言い方をなさるのね」
「男はいくらだっているじゃありませんか」
「どれだけ男性がいようと、清さんという方は一人です」と、志保はつぶらな瞳に力をこめて言って、「教えてあげるわ。声が素敵なところ、絵も字も上手なところ、優しいところ、男らしいところ、淋しがりやなところ、わがままなところ」と指を折りながら数えた。
「もういいですよ」
「まだだめ。それに、時どき癇癪をおこすところも嫌いじゃないの」
「癇癪もいいんですか?」
「頭の回転が速くて想像力が豊かだから、他の人より反応が素早く大きくでてしまうんだわ。それに、清さんが癇癪をおこせば、ほかの人は癇癪をおこさなくてもすむでしょう」
「参ったな」
「数えきれないわ。でも、どれだけ並べても決定的じゃない気がするの。やっぱり、わからないから恋、ということなのかしら」
 志保は小首をかしげた。
「実は、倒れる前に、祖父からあなたのことを頼まれているんです」
 清太朗は、封筒を再び志保の前に置いた。
「受け取ってもらえませんか。あなただって生活がある。月々のものは決して多くなかったし、金は邪魔になりませんよ」
 志保はまたうつむいて、「哀しいわ。恋がお金に変わってしまうも、それに頼らなければ生きていけないことも」と言った
「しかし、現実問題として、祖父がああいう状態である以上、頼れるものには、頼った方がいい。金はあなたを守りますよ」
志保は、しばらく考えていたが、ありがとうございますと頭を下げた。
「でも、おそばは離れません。勝手ですけれど、家政婦時代の退職金として頂戴します」
 店を出た二人は、水車館の前を歩いて、寺の方へ向った。お参りをするという志保に、清太朗も同行することにした。
「清さんに似てきましたね」と志保は、横に並んだ清太朗に笑いかけた。
「よく言われます」
「耳たぶや爪の形まで。お声も似ているわ。さきほども、清さんに言われているようで、それでいただく気になったんです」
 大黒天と恵比寿尊の前を通ってつきあたりのお堂まで来ると、志保は、「ここが、梨香さんのいらした深沙大王堂ですわ」と言った。
清太朗の脳裏に恋人の顔が浮かんだ。結婚願望の強い彼女は、祖父のことがひと段楽するまで待っていてくれるかわからなかった。自分も、近々お参りに来ようかと思った。
だが、自分や梨香のように、他人の恋路を邪魔しようとする者の恋の願いを、縁結びの神様はききいれてくれるものだろうかとも思った。もちろん、広く等しい神様は、寛大な心をもっているのだろう。だが、人間側の問題として、他人の恋路に口をはさんだり邪魔をしたりする癖に、自分の恋の成就を平然として願うのは、虫がよすぎる気がした。人にはそういうところがあるとわかっていても、釈然としなかった。だが、それが人というものなのだろう。さきほどの恋愛と金の話にしても、志保だけでなく、人の哀しい性質なのだと清太朗には思えてきた。
しかし、そんな思いが深刻になりすぎないのは、この深大寺の自然に抱かれているからかもしれなかった。さまざまな木々の形状や濃淡に身を浸していると、わが身が唯一無二の存在として尊いと思われるが、同時に大きな命の流れにおいては取るに足らない存在だという気もしてきた。祖父たちのことは、成り行きに任せようと清太朗は思った。
深沙大王堂の脇の道を右に曲がって、静かな道を歩いた。前方に赤いのぼりが見えた。
「ここですわ。こちらの延命観音様に、毎日、清さんのことをお願いに来ているんです」
 清太朗は、看板に記された由来を読んだ。秋田の象潟から出土した観音石を深大寺に移築したとのことだった。
「象潟は、実家の近くですの。清さんと一緒に旅行したこともあるんですよ」
「そうでしたか」
「ご縁のある観音様にお願いしているんですから、絶対に大丈夫ですわ」
 二人はまた緑の降るような道を歩き出した。
「さきほどお賽銭をおさめたとき、あなたの財布で何か揺れていましたね」
 志保は、縮緬の蝦蟇口を取り出した。黒い玉の下に、赤や黄色や緑の紐が結んであった。
「ムクロジのお守りですわ。この黒い丸いのは種なんです。本堂の右側に、樹齢が百五十年になるご霊木があるんですが、これはそのご霊木から取れた種だそうです」
「この真ん中の赤い字は、梵字ですか?」
「ええ。種字といって、これはキリクと読むそうです。この一文字で元三大師様を表しているんだそうです。後で、ご案内しますわ」
二人は、乾門から入って、大師堂にお参りをし、本堂の境内へ出た。
「あの木がムクロジですわ」
 志保は、本堂の横の背の高い木を指さした。
常香楼のあたりで、お宮参りの一行が、清太朗に、写真を撮ってほしいと声をかけてきた。若い母親が、赤ん坊を抱いていた。
 清太朗は、ちらりと志保を見て、断わって行き過ぎようとしたが、志保は、「撮ってさしあげたら」とほほえむと、ムクロジへ向ってまっすぐ歩き出した。
 写真を撮った清太朗は、ムクロジの幹をなでている志保のそばに来ると、木を見上げた。
「優しい姿をした木だな」
そして、案内を読むと「ムクロジは、無患子と書くんですね」と言った。
「三年前は泣いたわ」と志保はつぶやいた。「でも、今度は何があっても守るの」
清太朗を見た志保の目に力がこもっていた。
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<著者紹介>
川森 弘子(東京都調布市/47歳/女性/主婦)
 私は野良猫である。人間でいえば38歳と9ヶ月。名前は坂田真弓。親と同居する野良猫である。その証拠に私の母は
 「誰かもらってくれる人はいないかしら」
と寝言のようにつぶやいては、私の嫁ぎ先を探している。私は立派な野良猫である。

「そうだ、お姉ちゃん! 深大寺行けば?」
 どこにでも首を突っ込みたがる紗香が腹話術のように出っ張った子持ちの腹を揺らし、野良猫を台所に追い立てた。
「私の友達、あそこにお参りしてすぐに彼が
 できたんだって」
 台所にまで届く大声で紗香は野良猫に叫ぶ。

 ...そうだね、いっそそのまま仏門にでも入ろうかな...

 私は飲まないお茶の湯がわくのを待ちながら、言わない言葉を飲み込んだ。
 四十の門番に首根っこをつかまれると冗談にも悲哀がまじり、私は今まで以上に言葉を選ぶようになっていた。野良猫にはとかく生きづらい世の中である。

 ...深大寺...

 その言葉に忘れかけていた記憶がよみがえる。

「ねえ、聞いてる?」

 深大寺の山門にほど近い喫茶店で、外見は昭和なのに、中身だけ「今どき」の正明が私を覗き込んだ。
 そうだ、こういう話は縁結びの神様に参拝してからにすれば良かった......急に怪しくなった雲行きにあわてて飛び込んだ喫茶店で、私はアイスコーヒーをたのみながらそんな事を考えていた。
 「別に結婚とか、そういうのこだわるタイプじゃないと思ってた」

 ...分別ゴミにだってこだわるのに?...

 まるで結婚にこだわるなんてかっこわるいよ、とでも言いたげな正明の態度に私は口ごもるしかなく、ただ「ふーん」とストローを包む薄い紙を指先でもてあそんだ。私がもてあそべるのはこの紙が精一杯、そう思うと正明の話など耳には入ってこなかったが、正明は話を変えたいのか昨日の深夜番組を大笑いしながら話しだした。私は指先のストローの袋をクルクルと丸めて爆弾にすると、正明にぶつけた。正明の周囲50キロは一面の焼け野原だ。

「なんだよ?」

 わかっているくせに、笑ってその場を誤摩化そうとする、そんな魂胆の見え透いた明るい笑顔で正明が笑い、私もまた情けない弱者の笑顔を向けた。

 希望なのかすらわからなくなった太陽でも沈めば暗い。それでも黄昏れに生きるより野良猫には暗がりがお似合いだ。3年も続いた正明との、半年前の話である。

 この日を境にプイと消えた正明もまた、野良猫だったのかもしれない。

 そういえばあの時、結局お参りしなかったなあ...西日を浴びながら、神保町の一角のオフィスビルでパソコンの電源を落とした金曜日、ふいにそんな思いが頭をよぎった。

 ......縁結びの神様......

 神頼みで願い事が叶うなら、私はとっくに家猫だ、そう思いながらも、このひん曲がった「へそ」を持つ野良猫は参拝を決めた。

 正明に対しての未練などはもうない。
だけども違う誰かに出会う気配もない。
 その時の私は、大勢に囲まれながら誰とも目をあわすことのない車内で、次々にくる「毎日」に止まり、やがて終点にたどりつく、それが私という野良猫の人生なのだと、どこかでそう思い始めていた。
 そして同時に、そんな人生になんとか風穴をあけたい、と息苦しさにもがいていた。

 土曜日の朝、私は誰にも言わない精一杯の本気で新しい白いスカートと白いシャツで深大寺に向かった。
 おろしたてのスカートは歩くと布がこすれてシュッと音をたてる。
 それはまるでリズミカルに私を導く歓迎の音色で、一層参拝気分を盛り上げた。
 シュッ、シュッ、シュッ。

 昨夜、一時ふった雨は深大寺周辺の緑を際立たせ、蝉達も気持ちのよい波を奏でていた。あの喫茶店の店先は、今にも歌いだしそうな赤い陽気な花々がまぶしく光っている。

 シュッ、シュッ、シュッ。

 厳かさも相まった澄んだ空気に、スカートの音が響いた。

「どうかどうか神様、この野良めにも、縁をおむすびくださいませ」

 あわせた手は汗ばみ、お腹の底からの願いはもしかしたら口を通じて境内に響いているのではないかと思う切実さで、私から溢れ出た。

「いつでもいい、今でもいい、帰り道でも」

 その時、背後で男性の声がした。

「慌てない!」

 神様の声が?!

 振り返るとそこには、正明......とは似ても似つかぬさわやかな男性が、前を走るおぼつかない足取りの子供の手をつかもうとしていた。

 ......私だって、慌ててるのに......

 私はもう一度神様に向き直ると、誰もつかむ事のない手を合わせ、念入りに、念入りに願いを重ねて、今度は静かに目をあけた。

 ......野良猫だけど、頑張ります......
 縁結びの神様はこの野良猫に、そんな前向きな気持ちをも呼び起こさせたようだった。

 山門に回ろうと私が歩き出すと、先ほどの神様の声の主の親子とすれ違った。

 男性の背後には白い日傘をさした女性が歩いている。どこからみても家族である女性がまぶしいのは、日傘が白いからだけじゃないはず...野良猫根性が痛んだのか、私はすれ違ってふと立ち止まった。

 シュッ、シュッ、シュッ。

 ところが立ち止まったはずの私のスカートから布がこすれる音がする。

 シュッ、シュッ、シュッ。

 シュッ、シュッ、シュッ。
 スカート......、あの人のスカート。
 すれ違った女性のまぶしさが、私と同じこのスカートの白さだと気がついて私は慌てて振り向いたのだが、もうそこには誰の姿も、今すれ違ったはずの家族連れの姿すらなく、そこにはただ静かな境内が広がっていた。

 ...神様、あれは...

 私はその場でもう一度神様に手をあわせると、日傘を一つ買って帰った。

 真っ白でシミ一つない、あの日傘を......。

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<著者紹介>
狐里内 明子(東京都豊島区/29歳/女性/会社員)

 私が彼にふられたのは先月のこと。二十何年の人生で初めて私を愛してくれた男性だった。だからその日は泣いて泣いて、そして涙は涸れないのだと知った。そんな私が深大寺を訪れたのは、まだ失恋の傷が痛々しい頃。桜がひらひらと舞いだした、暖かい季節。そこはそばが有名だと、ふと思い出したのだ。その時に浮かんだ恋人だった人の顔。
 ああ、あの人はそばが好きだったなぁ。
 深大寺は縁結びのご利益もあるから、とあの人は張り切っていた。
私たち、もう付き合ってるのに?
そう尋ねた私に、彼は優しく髪をくしゃりと撫でて笑った。
縁結びには今ある縁をもっと強くする、って意味もあるんだよ。
 と。結局、その縁を強くする前に別れてしまったのだけれど。
それでも、行ってみたい。あの人と一緒に歩いていただろう道を、見ていただろう景色を、聞いていただろう音を、感じてみたい。そう思った途端、体は低い台の上にある埃のベールをまとったパソコンへと向いていた。使い慣れていない機械に四苦八苦しながらも、なんとか新幹線のチケットを購入する。
 そして、木から何の未練も無く離れていく桜の花びらに見守られながら、東京へと向かった。地図片手に迷いながらもなんとか付近まで着き、小さく安堵の息をもらす。そしてぐぅと切なく鳴く腹の虫を宥めながら、近くにあったそば屋に入った。ほどなくして優しそうなおばさんが、隅っこの席に座った私にそばを運んできた。ほかほかと真っ白な湯気が、鈍色の雲を思わせる麺を包んでいる。それに七味唐辛子をかけようと、瓢箪型の容器を傾ける。
「あ」
 かけすぎた、そう思った時にはもう遅かった。灰色が赤に一瞬で覆われた。緑色のねぎも茶色いお汁も、はっきりとした赤になる。慌てて割り箸で丼をまぜるが、しかし、それで赤がなくなるわけでも無く。
「......はあ」
小さく溜め息をついてそばをすする。早々ついていない。ピリリと唐辛子が舌を刺激した。想像以上の辛さに、私の動きが止まる。きっとこの場にあの人がいたら「仕方ないなぁ」と困ったように笑って自分の丼と交換してくれるのだろう。私より大きい男の人の手が、私の丼を掴む幻を見た。刹那、熱い雫が一筋、目から頬を伝って水色のスカートに落ちる。それでもずるずると私はそばをすすった。からいからい。赤がからい。どうしようもなくからくて、つらい。想いが外にあふれ出て、それは湯気となって天井を、私を、包む。優しく悲しいけれど、暖かい。ああ。小さく吐息がもれた。
 赤いそばに口内をヒリヒリさせながら深大寺へと向かう。周りを見るとカップルや家族連れが多く、その誰もが皆楽しそうだった。失恋し、悲しみの波にもまれている最中なのは自分一人だけの気がして、思わず早歩きになる。と、石畳の間に足が引っかかり、べたん、派手に転んだ。
「いった......」
 起き上がろうとすると、左膝に鈍い痛みが走った。おそるおそる膝へと手を伸ばす。ぬるっとした赤いものが手についた。血だ。途端さあっと血の気がひいた。どうしよう。ぼーっと歩くから、早歩きになるから。いい年をして派手にすっころんだ自分が情けない。とりあえず傷口を洗わなければ。ゆっくり立ち上り、一歩踏み出すとまた、ずきりと鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめた、その時。
「怪我したの?」
「え?」
 いきなり後ろから声をかけられて素っ頓狂な声が出た。振り返ると知らないおばさんが心配そうにこちらを見ている。
「あら、血が出てるじゃない。ちょっと来なさい」
 そう言って腕を引っ張られた。その力は私の怪我を思ってか意外にも優しかった。けれど痛みのせいで力がでない私は、彼女にただずるずると引っ張られた。
「え、あ、あの......っ」
 ずるずると連れてこられた先は小さな茶屋。示された丸椅子に私が座ると、おばさんは「ちょっと待ってね」と店の奥へと姿を消した。店内には団子の甘い香りが漂っている。その香りに少しだけ心が和んだ。暫くしてその香りとともにおばさんが救急箱を手に戻ってきた。
「あなた一人?」
「はい」
 慣れた手つきで彼女は私の膝の手当てをしていく。甘い香りをまとった沈黙が私たちの間に静かに落ちてくる。それが完全に沈み切る前に、おばさんは口を開いた。
「傷心旅行の最中?」
「え?」
 いきなりの問いに声が裏返る。そんな私におばさんは、元気がなさそうだったから、と柔らかく笑う。その笑顔に、失恋、したんです、と無理に笑ってみせるとポンと頭を撫でられた。それが彼の行動と重なって視界が滲む。仕方ないなぁ、と笑って彼は私の頭をよく撫でた。別れる直前でさえも。
ここでは泣くまい。小さく息を吸って涙をこらえる。そんな私に気付いたのか気付いていないのか、手当てが終わると彼女は抹茶とお団子を出してくれた。お礼を言って、いれたての抹茶に手を伸ばす。一口啜ると上品な苦みが口いっぱいに広がった。
「あなたなら大丈夫よ」
 外の景色を見ながら苦みを味わっていると、隣でおばさんがほろりと笑う。
「失恋の一つや二つ経験した方がいい女になるものよ。それにね、世の中楽しいことや嬉しいことの方が案外多かったりするの。だから今は我慢しないで、たくさん泣いていいのよ」
 ぽろり。おばさんのその言葉に、雫が一筋頬を伝って落ちる。それが合図のようにぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。そんな私を、おばさんはただ優しく見守ってくれていた。

「団子とお茶のお金はいいわよ。こっちが勝手に出したんだし」
 帰り際、財布を取り出した私に彼女はそう言った。苦い抹茶と甘い団子を胃に収めて、お礼を言って茶屋を後にする。深大寺へと向かう足取りは、不思議と軽かった。
 一礼してお賽銭を投げ、鈴を鳴らす。あの人と一緒に願うはずだったことは、もう願えない。祈れない。だから何を祈ろうか、と思案して、先ほどのおばさんの顔が思い浮かんだ。小さく頷いて胸の前で合掌する。
私のことを大好きだと言ってくれたあの人が、笑顔の日々を過ごせますように。
 そう祈った。楽しいことや嬉しいことがたくさん起こりますように。最後に、よろしくお願いします、と一礼してその場を去った。
「わあ」
その帰りは心に余裕ができたからか、周りが緑で覆われていることに気が付いた。お店の間にひょっこりと顔を出す深緑。空高く伸びる白っぽい緑。花と一緒に風にそよそよと楽しそうに揺れる青緑。なんてきれいなんだろう。私の周りを包む緑に目を細める。あのおばさんがくれた抹茶もきれいな色だったけど、こっちもきれいだ。
 あなたなら大丈夫よ。
小さな茶屋のおばさんの声が耳によみがえる。苦さと甘さ、それにそば屋でのからさも同時に戻ってきた。ゆっくりと目を閉じる。
私なら大丈夫よ。
小さく、呟いてみる。涼しい風が吹いて、そっと目を開けると飛び込んできたのはたくさんの緑と、賑やかなお店。聞こえてくるのは人々の楽しそうな声と、木々のざわめき。 
その仲間に入りたくて、一歩、踏み出した。

「あら、別にいいのに」
「いえ、やっぱりこれはきちんとしておきたくて」
 そう言って抹茶とお団子代をおばさんに渡す。少し悩んだ後、私が戻ってきたのは膝を手当てしてもらった小さい茶屋だった。
「手当てありがとうございます。抹茶もお団子もおいしかったです」
 さっきはまともにお礼も言えなくてごめんなさい。ペコリと頭を下げる。
「こっちは帰り道と反対なのに、わざわざありがとうね」
 顔を上げると、おばさんは嬉しそうに目じりにきゅっと皺を寄せる。
「本当にありがとうございます」
「気を付けてね」
 ありがとうございました、ともう一度頭を下げて店を出た。ゆっくり深呼吸をして緑に包まれる道を歩き出す。
「行ってらっしゃい」
 思わぬ言葉に、さっき出た店を振り返る。店先でおばさんが大きく手を振ってこっちを見ていた。
「......行ってきます!」
 笑顔で手を振り返し、前を向く。
失恋の傷が完全に癒えた訳でも、あの人への気持ちが無くなった訳でもない。暫くはあの人を思って泣くだろう。でもその代わり、苦い抹茶の味も、甘い団子の味も、からいそばの味も忘れない。
私なら大丈夫よ。口の中で呟く。
 春の気温はぽかぽかとして気持ち良く、空は写真を撮りたくなるほどの青空だ。どこからか漂ってきたそばの香りに頬をほころばせ、一歩踏み出す。
私の旅行は今、はじまったばかりだ。
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<著者紹介>
くくち てまり(大阪府大阪市/18歳/女性/学生)

今年の桜が一番きれいだ。
といっても、郡山和正は去年までの桜の美しさなど大して覚えてない。ただ、レジャーシートの上に寝転がり、桜を見ていると、今年の咲き具合は上出来だと思う。
佳苗と堂島にも桜を早く見せたい。
なのに、集合時間を過ぎても2人が現れる気配がなかった。
だから、折を見ては、和正は佳苗にメールを送っているけれど、返信はそっけない。
「まだ新宿出られません」
「あのね、今日は何の日だっけ?」
「とにかく舞台挨拶終わるまで、私は抜けられないの。堂島さんも転勤の引き継ぎみたいだし」
映画に興味ない和正は、佳苗の宣伝の仕事というのがよく分からない。だから、ただの資料配りという認識でいたら、2年前に佳苗にえらく叱られた。「はいはい。了解」と和正は返信し、空を見上げる。眺めていると、眠くなるようなくすんだ青色だ。

7年前の空も同じような色をしていた。
その年の桜の開花は早く、4月に入った頃には散り始めていた。
和正がゼミの先輩の堂島と井の頭公園をぶらぶらしたとき、同じゼミの佳苗が池のほとりにシートを広げ、ぽつんと座っているのが目に入った。最初は何も話さなかった佳苗だけれど、堂島が勧めたビールを飲み干すうちに、ぽつぽつと口を開く。
「東京に来たときから、井の頭公園の桜を楽しみにしてたのに。肝心のお花見の季節になってねえ」
「結局、二股掛けられて、一人で寂しく花見しているってことだろう?」
佳苗の長い失恋話を和正が短くまとめた。佳苗は怒りだし、「いいよ、もう」と立ち上がると、靴を急いで履こうとする。だが、ビールのためか、佳苗は足を滑らせ、
靴が斜面を転がって行く。
和正はすぐに立ち上がり、靴を追い掛けた。池の中に落ちた靴に手を伸ばすが、掴み損ね、そのまま池に落ちた。しかし、和正は靴を掴むと、何もなかったかのようにすぐに岸にあがった。が、駆け付けた佳苗は噴き出した。
全身ずぶ濡れの和正に、桜の花びらが風に吹かれて次々貼りつくのが面白いと佳苗は手を叩いて笑う。さっきまで泣いていたくせにと和正はすねる。後から来た堂島は携帯を取り出し、和正と佳苗を写した。
 それから、3人でお花見をするのが恒例行事となった。ただ、場所は神代植物公園となった。井の頭公園は方角が悪いと佳苗が主張したためである。

 和正はいつの間にか眠ってしまったらしい。気がつくと、佳苗がレジャーシートに座っていた。
「今、来たの?」と和正が聞くと、佳苗は
頷く。
「食うもん、用意してきたか」と和正が重
ねて尋ねると、
「あのね、新宿から直行したんだから、買う暇あるわけないでしょ」
「マジか?おい。どうすんだよ。決めてあ
ったろう。俺が場所取り、堂島さんが飲む物調達で・・・」
 佳苗はちょっとうんざりした顔で、和正に背中を向け、どこかに電話を掛けた。
「堂島さん、食べ物も買ってくるって」
「お前、堂島さんに指示したのか」
「別に大丈夫よ」
と言って、佳苗はレジャーシートの上に大の字になる。遠慮のないその姿に、和正はつい突っ込みを入れたくなる。
「お前さ、いつ髪切ったの?」
「去年の夏か秋頃」
「長い髪は数少ない長所だったのに」
 和正の憎まれ口に、佳苗は同じ調子で返すのがお約束だった。
「抜け毛が止まんないから、切るしかなかったのよね」
なのに、今日は言い返さない。
「ストレスがひどいんじゃないか。連絡くれれば良かったのに」
「はあ?メール一回出したけど返事くれなかったじゃない」
「去年はさ、修士論文に就職活動」
「ハイハイ。両方ともうまくいって良かったね」
「これからは佳苗の相手出来るよ」
和正としては想いをこめて投げたボールだけれど、空振りだった。
佳苗がトイレに行くと言って、立ちあがったからである。

佳苗が席を外している間に、堂島が来た。手にはスーパーの大きな袋を持っている。
和正はさっと立ちあがり、堂島の袋を受け取った。
「遅れて悪かったなあ」
 堂島がレジャーシートの上に腰かける。
「転勤って佳苗から聞きましたけど、どこ行くんですか?」
「シアトルだよ」
「花見が出来なくなるじゃないですか」
「まあな。それは残念だよな」
「寂しくなったら連絡下さいね。佳苗連れてアメリカ行きますから」
 和正は、先ほど佳苗相手には言えなかったことを語り始める。学生時代は何度も堂島に相談に乗ってもらったのだ。      
「久々に会ったら、佳苗の顔色が悪いんでびっくりしましたよ。仕事合わないんじゃないですかね。そろそろ本気で面倒見なきゃいけないときかもしんないですね」
 和正は、堂島が驚いた顔をしているのに気付いた。
「あれ、意外ですかね?」
「いや、そういうんじゃないけど」

佳苗が戻って来たので、花見の宴が始まった。とはいえ、空は雲が広がり、一雨きそうな雰囲気である。
例年、和正と佳苗との掛け合いに、時々堂島が茶々を入れるのが3人の花見のパターンだが、今日は和正のワンマンショーだ。桜などそっちのけで、自分の話ばかりをしている。
「とりあえずシンクタンクに入りましたけど、次の目標はアジアでの起業ですよ。そのときは佳苗が取締役で、堂島さんも社外取締役で行きたいんですよ」
「勝手に決めないでよ」
 佳苗に突っ込まれると、和正の口の滑らかさは増す。
「会社の発起式はやはりここだな。桜の季節がいいな。そのときは堂島さん、絶対に来てくださいね」
 和正のトークを止めたのは、空からポツリポツリ舞落ちる雨の雫だった。空には雨雲が広がっている。
「移動した方が良くない?」
 佳苗が指さしたのは、ばら園の奥にある屋根つきの休憩所だった。
 
 休憩所に移動後、和正は先ほどの将来の構想の続きを語ろうとする。ところが、佳苗がポケットやバッグの中を探し始めた。
「スマホがない」
 佳苗の言葉を聞くや否や、
「俺が探してきてやるよ」
 と言って、堂島が雨の中、飛び出していっ
た。和正は、呆気に取られた。
 堂島は女に冷たい男ではない。けれど、女のためにこんなに素早く動く姿を和正は見たことがなかった。
「5月の連休前に会社辞めるんだ」
 佳苗が小さな声で言ったので、和正は聞き落としそうになる。
「一緒にアメリカ行くの。堂島さんと。結婚するんだ。前もって言えば良かったけど、タイミングが分からなくって」
 次の言葉はしっかり聞こえたが、和正はすぐには何も言えなかった。佳苗の顔を覗き込む。冗談ではなさそうだ。
「プロポーズするつもりだった」
 ようやく出てきたのは情けない言葉だった。言った和正本人ですら、嘘臭く聞こえる。案の定、佳苗の顔が強張った。
「勝手なのよ。和正は。私が辛いときには返事くれなかったじゃない」
「職場の愚痴を聞かされても、返事のしようがないだろう」
「堂島さんは、ちゃんと相手してくれた」
 佳苗の言葉が和正の胸に突き刺さる。
 そこへ堂島が戻って来た。
「結婚おめでとうございます。記念に一枚撮りますか」
 和正が努めて明るい声を出すと、
「ありがとう、まあいいよ、でも」
 堂島は困ったような顔になる。
 和正は自分のスマホを取りだし、堂島と佳苗に向ける。シャッターボタンを押した。 「ちょっと用事思い出したんで、帰ります。2人とも元気で」
 佳苗が何か言ったような気がするが、和正は振り返らずに休憩所を出た。そのまま左に曲がり、自然林が続く道に出る。
立ち止まってスマホの画面を見た。
7年前に堂島が撮ってくれた写真と先ほどの写真。目が潤んでいる佳苗の横に髪に桜の花びらをつけた男が写っている。堂島と和正の立ち位置が変わってしまった。桜を背景に3人でいる時間が楽しすぎて、なかなか一歩踏み出せなかった和正に原因がある。
和正はまた歩き出す。神代植物公園で初めて踏み込む場所で、どこに続いているかも分かってない。ただ、桜が目に入ってこないのが有難かった。
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<著者紹介>
上原 久美(東京都世田谷区)
 通勤電車に揺られながら先ほどの出来事を反芻していた。
 慌ただしい月曜の朝に僕は玄関先でみっともないほど動揺していた。恐る恐る振り向くと彼女の華奢な肩が震えていた。
「好きな人ができました」
 彼女がもう一度宣言した。僕は呆けたように立ち尽くして、ここ数日に感じていた彼女のぎこちなさや違和感の理由を知った。告げたいのに告げられず、それを繰り返すうちに今朝までもつれこんだのだろう。
 沈黙が僕らを飲み込んでいた。
 耐え切れなくなったように胸元の携帯電話がアラーム音を吐き出した。七時十分。駅に向かう時間を指していた。
 ごめん、とりあえず行くよ。彼女は目を伏せたまま頷いた。帰ってきてから、ちゃんと聞くから。彼女は何か言いたそうだったが、卑怯な僕は返事を待たずに逃げ出した。
 電車の窓に反射する自分の青い顔を眺める。会社のデスクで雑務に追われながら、思いつめたような彼女の顔を思い出していた。自分の鈍さを呪った。
 残業をすっぽかした僕は一人で深大寺に来ていた。夏の夜風と交錯して太鼓や笛の音が聞こえてくる。夜空に浮かびあがった木々の存在感に圧倒されながら、にぎやかな祭囃子と夜店から漂うソースの香りが僕の焦燥を包み込んだ。
 盆踊りの輪を掻きわけて浴衣姿の子供たちが駆けていく。紙コップのビールをちびちび飲みながら心地よい喧騒に身を任せた。孤独がそっと僕の隣に寄り添っていた。
 祭りを終えると木々たちが静寂を取り戻していた。僕はのろのろと深大寺を後にする。途中で見つけたベンチに体を預けると疲労が押し寄せた。抗うことを諦めて目を閉じる。

 出会った頃の君を思い出していた。
 三度目のデート場所を君から提案してきたときのことだ。最初は、どうしてお寺で待ち合わせなんだろうと不思議に思った。のちに縁結びで有名なお寺だと知った僕の喜びや浮かれようを君は想像できただろうか。
 蕎麦屋や団子屋が華やかに隣接する通りを並んで歩く。艶やかな黒髪が僕の横で小さく跳ねてシャンプーの香りを漂わせた。細い肩に触れて、君の温もりと柔らかさを知った。
 手を繋いでみたかったけど言いだせなくて、こっそり君の横顔を盗み見していた。長いまつ毛の瞬きにいつまでも見とれていた。手を合わせて拝む君の体温を隣で感じながら、僕はありったけの願いを込めて君を欲しがった。

「大丈夫ですか? 風邪をひきますよ」
 男の声で我に返った。いつのまにか寝過ごしてしまったようだ。携帯電話で時間を確認する。二十三時を回っていた。二時間以上も眠っていたことになる。辺りは静まり返っていた。彼女からの着信がひっきりなしにきていた。
 礼を言おうと男を見上げた。年の頃は二十代後半ぐらいだろうか。人懐っこい笑顔を向けている。スマートだが妙に背が高い。逞しい身体を品のいいスーツに包んでいた。立ち上がろうとすると男が口を開いた。
「失礼ですが沢地さんですか?」
 どういうことだろう? なぜ、この男は僕の名を知っているのか。黙り込んでいるのを肯定と解釈したらしく男は続けた。
「よかった。探していたんです」
 まさか。いや、まさか。律香? リツカ? 彼女の名前を絞り出した。
「ええ、彼女が心配しています。こんな時間になるまで帰らない日はなかったって」
 内向的な彼女が自らの悩みを打ち明けたことからして、まちがいなかった。律香が告げようとしていたのは、きっと彼のことだ。
 須山と名乗った男は「失礼します」と告げると携帯電話を取り出した。
「見つかったよ。うん、だから心配しないで。電車もないし、タクシーで送るよ。いや場所はちょっと内緒で。男同士で話してみたいし」
 電話の相手はおそらく律香だろう。僕は今朝とは比べものにならないぐらい取り乱して「あーうー」という自分の唸り声をまるで他人の声のように聞いていた。

 須山に促されるまま深大寺近くの居酒屋に来ていた。怒りが沸々と込み上げていた。律香はどういうつもりで須山をここに寄越したのか。なぜ、こんな惨めな状況に陥らないといけないのか。
「順を追って説明させてください」
 敵意を感じたのか須山の声は緊張していた。
「僕が深大寺に来たのはお節介でして。彼女に頼まれたわけではないです」
 話のつづきを催促する代わりに無言で睨みつけた。須山は笑顔を引き攣らせた。
「誤解があるようなので彼女と僕の関係をお話ししておきます」
 生ビールが運ばれてきた。須山が乾杯を求めてきたが無視した。
「僕は彼女のことが大好きでした。だから交際を申し込みました」
 須山のジョッキを避けて一口飲んだ。須山も諦めてビールを流し込む。
「ついさっき振られましたけどね」
 弱々しく呟いた。ふうと息を吐いて生ビールのおかわりを注文している。僕は少し混乱していた。
「お父さんが悲しむなら誰とも付き合えないって泣かれましたから」
 須山は僕を見つめ直して力なく笑う。
 ちがうんだよ、律香。僕は少し驚いただけなんだ。
 帰らない父を案じて律香は僕の行きつけの店を順にあたっていたそうだ。彼女を心配した須山はこうして深大寺を訪ねてきた。
「もしも僕なら行きたくなるかもと思いまして。奥さんとの思い出の場所ですよね? 深大寺は」
 僕は黙ってジョッキを傾ける。胸中を見透かされたようで気恥ずかしかった。
 君を亡くして十五年が経つ。僕は彼女を守っているつもりで、実は彼女に救われていた。
 あの頃の僕は自分をこの世で一番不幸な男だと信じていた。眠りにつくと君は隣にいるのに、慌てて飛び起きると霧のように消えてしまう。それを繰り返すうちに眠るのが怖いのか目覚めるのが怖いのか分からなくなった。涙は枯れることを許さなかった。誰の耳にも届かない僕の断末魔。ひっそりと。でも、けたたましく。
 背中をぎゅっと握る小さな手が、かろうじて僕を繋ぎ止めていた。7歳になったばかりの愛娘は僕を存分に困らせた。毎朝のようにランドセルのカバーが気に食わないと口を尖らせた。お泊り会では真夜中にぐずり出し、僕が駆けつけるまで延々と泣き続けた。
 服を着せて、お風呂に入れて、並んで床につく。慣れない育児に奔走しているうちに僕は悲しむことを忘れていた。
「やまとなでしこっていうんですか? 彼女ぴったりですよね。清楚でおしとやかで」
 須山は目を細めた。頬に赤みが差しているのは酒のせいだけではないだろう。
 おてんばだった娘が小学校を卒業するころ、急にしおらしくなったのを思い出した。おそらく僕に負担をかけたくなかったのだろう。
 中学に上がると料理も上手になっていた。高校も地元の県立を選び、大学も家の近所に通った。担任は「娘さんなら更に上を狙える学力があるんですけどね」と首を捻っていた。
 いま思えば、できるだけ僕のそばにいるためだろう。それだけ幼い日に見た父の背中が弱々しく映ったにちがいない。
 贔屓目を抜きにしても美しく成長した年頃の娘がクリスマスイヴも大晦日も毎年のように父と過ごす姿は周囲から奇異に映っていたかもしれない。
 君の代わりをしてくれていたのだろうか。
「きっちり振られましたから、どうか帰ってあげてください。それだけお願いに来ました」
 須山は頭を下げた。僕は今夜の失態を言い訳しつつ、ありがとうと加えた。
 安堵した須山はヤケ酒を急ピッチで再開した。きっと彼は気づいていないだろう。彼女もまた須山と同じ気持ちでいることを、僕が最後に付け加えた「ありがとう」の真意を。
 思い返すと、ここ1年ぐらいの律香は楽しそうだった。服を選ぶ時間が長くなった。化粧が丁寧になった。よく笑うようになった。きっと須山のおかげだ。
 僕は酔いつぶれている彼のスーツに絵馬を滑り込ませた。律香に渡すつもりで深大寺に着いてすぐに選んだものだ。いつかの君と僕も二人の未来を願いながら綴った絵馬。
 寝息をたてはじめた須山をタクシーに押し込む。走りだした夜の景色に君の横顔を探した。あなた、泣きそうよ。そんなふうに笑われている気がした。
 すっかり大きくなった娘が僕のために泣いてくれた。もう、それだけで十分だった。僕らの娘は君に似て優しい。
「お父さんのおかげですよ」
 須山の声にぎょっとする。隣ですやすや眠っている。「大きな寝言だ」と運転手が笑った。
 そういえば我が家に人が泊まるのは何年ぶりだっただろう? 娘は最愛の人が泥酔している姿をどう迎えるのだろう? 想像して僕は笑った。
 あの日の君も笑っている。まだ幼い律香が僕の腰にまとわりついて離れない。君はクスクス笑いながら「いつか、この子が彼氏を連れてきたらどうしましょう?」と囁いた。満ち足りた気持ちに水を差された僕は少しだけ不機嫌になった。そんなの、ずっと先の話だろう。 
 ずっと、ずっと。
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<著者紹介>
谷 真崇(埼玉県蕨市/36歳/男性/会社員)
 空が薄暗くなり、土産物店の明かりが黄色く灯り始める。真知子は足早に店の間を抜けていく。
「あら、真知子ちゃん」
 まんじゅうを売っている女性に声をかけられ、真知子は振り返った。
「戻ってたの」
「そうなんですよー」
 けれど立ち止まらず、そのまま急ぐような素振りをして頭を下げる。この辺りは知り合いが多い。いちいち離婚のことを説明させられるのは真っ平だが、こそこそ避けたくもなかった。
 真知子は深大寺の境内に足を踏み入れた。空間が広く、すっと空気が透き通る。暮れかけた空に、巨木の豊かな葉のシルエットが揺れている。
 昔、境内で遊ぶなとよく親に叱られた。だけど、待ち合わせはいつもここだった。色んな遊びもした。鬼ごっこ、けいどろ、かくれんぼ......。
 一番仲が良かったのは、昇というふたつ年下の男の子だった。真知子は子どもたちのリーダーで、昇にはいつもジュースを買ってこさせていた。
"俺じゃだめなの?"
 五年前、結婚を告げた地元の飲み会の帰り道で、二人きりになった。昇はまだ大学院生だった。
"ばっか、何言ってんの、あんた"
 酔っていた真知子は笑った。
 関西で就職した真知子が昇と会うのは、久しぶりのことだった。大人だから、背格好は変らない。けれど、再会した昇は確かに以前とは変わっていて、真知子は彼と目を合わせるのを避けた。
 変わった彼がなんだかこそばゆかったからだけではなく、彼の自分に対する気持ちを知っていたからでもあった。
 子供の頃、冗談みたいに好きだと何度も言われた。真知子は笑って取り合わなかった。真知子にとって、いつになっても昇は小さな昇のままだった。
"なんでその人と結婚するの?"
 結婚相手は、社に入って知り合った同期だった。慣れない暮らしを助けてもらっているうちに、親しくなって付き合い、結婚を申し込まれた。
"なんでって......"
 真知子は口ごもった。どんな言葉を返しても、昇は納得してくれないような気がした。
 しばらく沈黙が続いたあと、昇は長い息を吐いた。
"久しぶりに、神社の中、通り抜けてこうか"
"......行かないよ"
 真夜中の歩道で見る幼馴染の顔は、まるで見知らぬ大人の男のそれで、不穏な感じに胸がざわめいた。
"私は行かない"
 生暖かい夏の空気がじっとりと絡みつく。
"そっか"
 それきり二人とも話さなかった。家までは五分もない道のりだったのに、じりじりと長く感じられた。
 結果として、真知子の結婚は五年も持たなかった。長いのか短いのかよくわからない。永遠を誓った。彼だけを愛するのだと思った。だけど、あっけなく終わった。
 待ち人はなかなか来なかった。真知子は一人、すっかり夜になった境内に立ち尽くしていた。
 大人になってから、ここが縁結びの神社だと言われていることを知った。縁なんて結んでくれなかったくせに。そよそよと葉ずれの音がする。
「悪い、遅くなった」
 影が近づいてきて手を上げた。
「おかえり」
 穏やかな声が懐かしくて、真知子は微笑んだ。
「......ただいま」
 連絡を取るかは、ずいぶん迷った。どうせ地元に戻ってきたことはすぐに伝わるだろうし、それならば直接会ったほうがいいと思った。
 いや......本当は会いたかっただけだ。
 結婚生活が崩壊していくにつれ、真知子はよく考えた。もし、昇を選んでいたら......。都合のいい夢想だとわかっていた。それでも考えることをやめられなかった。
 夫を愛し続けられると思った。昇のことは、選ばなかった。プロポーズを受けた時、自分の道は決まったのだと思った。
「久しぶり」
 真知子の言葉に、昇はああと短い返事を返しただけだった。沈黙が落ちる。現実の昇は、真知子の記憶の中よりも無愛想で、痩せていた。
「......それで?」
「あ、しばらく、こっちにいるから。またあっちゃんとか陽くんとか、みんなで飲んだりしようよ」
「亜津子はお母さんの介護で大変だし、陽は浮気がばれて離婚調停中」
「え......」
 昇は真知子の見たことのない顔をしていた。化かされたような思いで、急に真知子は境内から逃げ出したくなる。
「パパ」
 真知子ははっとして振り返った。小さな女の子が、昇を目指して駆けてくる。
「おいしかったか」
「うん」
 昇はぱっと笑顔を浮かべ、しゃがんで少女の頭を撫でる。真知子は動けなかった。少女は、自分をじっと見る真知子を、不思議そうな目で見上げた。
「俺だっていつまでも、あんたを待ったりしないよ」
 昇は皮肉っぽく笑った。今更、昇とすぐにどうこうなんて、そこまで虫のいいことを考えていたわけではない。
「......かわいいね、何歳?」
 真知子はしゃがんで少女と目線を合わせる。彼女はいぶかしそうな目で真知子を見、それから昇を見、おずおずと指を四本立てた。
「四歳か」
 ただボロボロになった心を、昇なら癒してくれるのではないかと思った。それこそ勝手な一人よがりじゃないかと、真知子は自分を責める。
「そっか......よかったね」
「元気出しなよ」
「あんたに言われるまでもないよ」
 真知子は笑ってみせた。大丈夫だ。ショックを受けたりなんかしてない。永遠に続く恋はない。一人で生きていかないといけない。
「じゃあ、またな」
 昇は子どもの手を取って、背を向けた。境内の木々を大きく風が揺らしている。
「......待って」
「なに」
 昇は淡々と振り返る。
「......昇、私のこと、好きだった?」
「何でそんなこと、今更聞くんだよ。最低だな」
 昇にこんな風に強い口調でものを言われたのは初めてだった。
「いつだって俺は手下で駄目なやつで、自分の思い通りになるって思ってるんだろ?」
「違う、ごめん、変なこと聞いて」
「離婚して戻ってきて寂しいから、俺を呼び出したんだろ? 変わんないな。ほんと、卑怯なやつ」
 真知子は何も言い返せなかった。
「俺は、あんたの思ってるような、下僕でも純情な男でもない」
「ごめん......忘れて。聞かなかったことにして」
 真知子はうつむき、顔を覆った。元夫は優しい人だと思っていた。だけど、結婚生活は衝突が多く、やがて暴力が始まった。もう選んでしまって、道は決まったのだと思った。この生活に自分は耐えなければいけないのだと言い聞かせた。痛む傷口を抑えながら、思い出していたのは昇のことだった。
 会いたかった。勝手な幻想で、甘えに過ぎないのだとしても。昇のことばかり考えた。彼と過ごした暖かい記憶が、真知子をかろうじて支えてくれていた。
 真知子はふと、昇の左手を見た。当然あると思った指輪はそこにない。そのまま視線を昇の顔に向けると、彼は困ったような苦々しげな表情を浮かべていた。
「なんであんたみたいな奴、俺はいまだに好きなんだろうな」
「え?」
 昇はそのまま、子どもの手を引いて歩いていく。
「待って」

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<著者紹介>
凛子(東京都)
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