右足の腫れは、だいぶ良くなった。少しだけ足首の辺りが疼くけど、この程度なら心配はいらない。
わたしは、ベッドから足を下ろして、サンダルにつま先だけ通した。携帯電話で時間を確認する。床頭台から手鏡を取り出して、髪を整えた。もう三ヶ月も美容室に行ってない。伸び放題の前髪は、ピンで留め、あとはお母さんにもらったゴムで後ろに束ねた。
九時二十分。先生は、いつも時間ぴったりに迎えに来る。たまに五分くらい遅い時もあるけれど、その時は寝癖がついてて、ワックスの艶もないから、たぶん寝坊したんだろう。
サンダルからスニーカーに履きかえて、わたしは静かに先生を待った。
「橋本さーん。おはようございます。リハビリ行きますよぉ」
マスク越しのくぐもった声が廊下に響く。
先生だ。どうやら今日は寝坊しなかったらしい。携帯と鏡を片づけ、急いでベッドカーテンを閉めた。耳慣れた足音が、四人部屋の、一番奥のベッドに近づいて来る。押入に隠れてる子供のように息をひそめた。
「橋本さん?」
先生が、ちょっとだけカーテンをめくって、顔をのぞかせた。わたしは今、先生の来室に気づいたふりをする。
「先生、おはよう」
「足の具合はどう?」
「ちょっと痛いけど、大丈夫。歩けると思います」
口元が緩んでしまうのを抑えながら、ベッドの横に立てかけてある松葉杖を手に取った。
「その格好じゃ寒いから、何か上着とかあるかな? 外は、けっこう寒いよ」
「外?」
思わず先生の言葉を聞き返した。
「本日は、屋外歩行練習に行きます!」
先生は手を叩きながらベッドカーテンを全開にした。普段より三割増しの笑顔がある。
「外を歩くの?」
「そうだよ。もう片(・)松葉(・・)でもいけるし、主治医からは、どんどん歩くように言われてる。今日は天気もいいし、ちょっと長い距離を歩いてみましょう!」
やっぱり先生は張り切っている。けれど、松葉杖の練習を始めてまだ二週間も経ってないし、外なんて歩ける自信なんかない。先生の話では、右足の骨はだいぶくっつき始めたらしくて、今週から体重の三分の二を右足にかけていいらしい。体重の三分の二なんていわれてもピンとこない。先生は、今まで両脇に抱えていた松葉杖を、片方とればちょうどそのくらいになる、と教えてくれた。
言われるままに、今まで両方でついていた松葉杖を一本外して、左の脇に抱えた。先生が心配そうに傍に寄り添ってくれる。わたしは慎重に、一歩踏み込んだ。
右足の底がくすぐったい。足の裏にマシュマロがくっついているみたいだ。しっかり踏んだら、それが潰れてしまうような感じがする。わたしは慎重にそぉっと踏み出した。
先生と一緒に病棟の廊下をゆっくり進む。先生はわたしの速度に合わせるように、歩幅を整えてくれた。正面玄関を出る。先生の言ったとおり、頬にあたる空気がひんやり冷たい。先生はいつも着ている半袖の白衣の上に、アディダスのパーカーを羽織った。すらっと伸びた長い手足は白衣がよく似合う。
「外歩くの久しぶりでしょ? どう、気分いいんじゃない?」
マスクを外して先生が笑みをかけたので、わたしも笑顔で肯いた。隠れていた唇が覗いていてかわいい。
「先生、どこまで行くの?」
「病院の敷地から出て、道路も歩いて、そうだなぁ、橋本さんが歩けるとこまで行こうか」
「歩けるところまで? すんごい、歩けるかもしれないし、ぜんぜん歩けないかもしれないよ」
「大丈夫。途中で休めるところもあるから」
先生は大仰に胸を叩いた。「あと、橋本さん。そのさ、先生ってやめようよ。オレは医者じゃなくて、理学療法士だから、先生じゃないよ」
「だってリハビリの先生じゃん」
わたしが言うと、先生はマスクを口に戻して恥ずかしそうにした。先生だってさ、橋本さんっていう呼び方は止めてよ、よそよそしいよ。胸をよぎる言葉は、心臓の奥にしまった。
三車線の大きな道路に出た。二ヶ月ぶりだ。自分の足で外を歩いてる。久しぶりに感じる街のにおいや喧騒が、わたしの皮膚の表と裏を、ひっくり返してくれるようだった。
外を歩いている自分を、お母さんは喜んでくれるだろうか? 昨日ケンカしたばかりだから、駄目かな。お母さんは自分勝手だから、大嫌いだ。先生がいればそれでいい。
先生は車道側になって、わたしの足がつまずかないようにとか、杖の先がひっかからないようにとか、いろいろ注意してくれた。
どのくらい歩いただろうか。次第に、右足は地面をしっかりとらえることができるようになった。先生がいるから心強い。そのかわり、足首と踵が痛み始めた。
「目的地はあそこ。緑がきれいでしょ」
先生の声で、足下に集中していた視線を上げると、周囲の民家は緑のカーテンに変わっていた。舗装された赤いアスファルトがカーブの奥まで続いている。
「到着しました!」
添乗員にでもなったように先生が右手を広げて、わたしを緑の奥の方へ通した。
「公園? ここ、何処?」
「深大寺だよ」
「ジンダイジ?」
深大寺。先生がゆっくり肯いた。わたしに土地鑑なんてない。救急車で運ばれてそのまま病室に缶詰だから、近くにこんな場所があるなんて知らなかった。
何処か懐かしい風情のあるお店を横目に、先生と並んで歩いた。あの階段を昇れば境内があるんだ、と先生は教えてくれた。深大寺は縁結びで有名で、自分も両親とよくお参りに来ていた。先生は身振りを加えながら、めずらしく饒舌に語ってくれた。
連れてくるなら最初に行き先を告げてよ、リップぐらい塗ってきたのに。わたしは気づかれないように、舌で唇を湿らせた。
「この辺で休憩しよっか」
階段のわきにベンチがあった。先生に杖を渡して、ふたり順番に腰掛ける。
「ねぇ。境内の方にも行ってみたい」
「橋本さん、まだ松葉杖で階段を昇る練習してないから無理だよ」
「練習なんて、いらない。昇れるよ!」
小学生みたくだだをこねる。頭を掻く先生の髪毛から、すぅっと甘い香りが漂う。
なんだか、ずっとこうしていたくなった。先生と、先生の横顔と、先生の長い睫毛をしっかり見ていられる。足の痛みも、学校のことも、お母さんのことも何もかも、全部忘れてしまえそうだ。わたしはズボンの裾をまくって足首を撫でた。「先生、足痛いよ」
「大丈夫?」
先生は慌ててベンチを降りると、わたしの前に屈んで足に手を当てた。
「もう歩けないよぉ。ねぇ、もう少しここで休んでいこうよ」
「ほんとに? 少し無理させちゃったかな」
先生は右手にはめた腕時計をみながら、困った顔をしている。「でもこの後外来の患者さんが来るから――」
「嘘だよん」
わたしがニヤリとすると、えっと先生の目が開いた。男の人が慌てたり、驚いたりするのをみるのは面白い。
でも、嘘じゃないから。足が痛いのも、もっとここにいたいのも、本当だから。
わたしは大きく背伸びして、立ち上がった。なんだかこのまま歩けそうだ。痛みも、杖もなくなって、ふつうに、自然に、今までみたいに歩けそう。そんな気がした。
「ちょ、まった! 杖つかないと!」
「嘘だよん。わかってます」
「まだ体重の全部かけちゃいけないんだからね。右足は、三分の二の荷重だよ」
先生は杖を突くまねをしながら、諭すように言った。
「もぉ、わかってるって」
もう一度、さっきよりも大きく背伸びをした。そして窺うように先生を振り返った。「ねぇ、先生。カルテとか見てさ、わたしのこと――そう、体重とか、いろんなこと、全部知ってるんでしょ」
「え?」
先生が真顔になる。病院にいる時の真剣な目だ。「そうだなぁ。患者さん一人ひとりの情報なんて、そんなに細かく把握してないし」
「ほんとぉ?」
先生のパーカーの袖をひっぱってみた。先生は、うん、と頷きながら、松葉杖を渡してくれた。先生は知ってるんだろう。わたしが入院した理由も、足をケガした理由も、全部。
「よし。そろそろ戻ろうか」
先生が歩き出しす。
「うん」
とわたし。
「帰るまでがリハビリだよ」
と先生。
無事に退院できたら、またここに来よう。杖なんかつかずに自分の足だけで歩いて、その時は先生に名前を呼ばせてやろう。ちゃんと髪もメイクも整えて、先生の手を握ってやるんだ。そして、もう自分で自分を傷つけることはしないって、誓ってやろう。
わたしは先生の後ろを歩いた。ゆっくり、丁寧に、慎重に歩幅を合わせる。
右足はもう痛くなかった。

志田 サラダ(千葉県船橋市/34歳/男性/公務員)
 青々とした緑の木々が、いきいきと葉を力強く開く夏。福子は、からからと音をたてて乾いていく洗濯物たちを、鼻歌まじりでせっせと取り込んでいた。そこへ、ピンポーン...と、ドアチャイムの音が耳にとどく。
(はて。こんな時間になんだろう。)
 ベランダからあわてて部屋にもどり、ちらりと壁掛けの時計を見る。お昼一時すこし前。今日は火曜日だから、生協のお届けものではないし。いっときハマっていたネット通販も、二回続けて故障した時計を引き当ててしまって以来、とんとご無沙汰なのだ。
「はーい、ただいま」
 トントントンと階段を下り、がちゃりと扉をあける。...と。福子の娘の幼稚園の先生、亀山すずがドアの前に立っていた。
 あれ、まだ紗香は幼稚園の時間のはず。何かあったかなと、不安気に福子がすずの顔色を伺ったとき、紗香が後ろからひょこんと勢いよく飛び出してきた。
 紗香は福子の姿をみとめた刹那、小さい目に涙をいっぱいためて、わぁっと泣き出してしまった。紗香の泣き声が、当たりに広がりこぼれる。
「ママ、おひっこし、して。おばけのおうち、やだぁ」

「...じゃあ、紗香はお友だちにからかわれたんですね。」
 すずが説明した経緯では、こうだった。それはお昼寝タイムの前。園児が仲良く遊んでいたとき、隣の組の男の子が「さやかちゃんち、おてらのすぐそばなんだって。ぜったい、おばけが出るぞ」と紗香をからかった。それを周りの子も一緒になって「おばけのうちー」とはやし立てたのだという。
 福子の家は、調布駅から自転車で二十分ほどの、深大寺の門前街すぐ裏手にある。初夏のこの時期、周辺は緑に囲まれ、木漏れ日がきらきらと輝いて街中が美しい。
特に『おばけのおうち』がある場所は、豊かな水源を生かした蕎麦屋が並ぶ参道から少し奥に入り、静かで真っ暗な正しい夜が来る。
 しかし目の前の紗香は、その小さな体を『おばけのおうち』への憎しみでいっぱいにして、体中で福子に訴えている。すずによれば、幼稚園を飛び出した紗香を先生総出でなだめようとしたのだが、いつも大人しい紗香がガンとして、家に帰る、と聞かなかったらしい。

 心配するすずに礼を言って帰したあと、福子はホッと一息ついて、床にぺたんと座った。ひんやりとした板張りの床が心地いい。ぐずる紗香をひざに抱きくるむと、高い体温を感じる。体温までもが熱を帯びて、一生懸命に彼女の不満を伝えてくるようだった。
「ママは『おばけのおうち』が大好きなんだけどなぁ。」
「どうして?」
間髪を入れず抗議の声をあげる紗香に、福子はにっこり笑って語りだした。
 
 ママはね、おばけのおうちのあるこの街で、パパと結婚することに決めたんだ。
 ママがパパと初めて会ったのは、ここからずうっと遠く離れた、京都っていうところ。深大寺は東京の中でもとっても古いお寺だけど、京都には古いお寺がたくさんあって、みんなで大切にしているの。
 ママは、そのとき重い病気が見つかって落ち込んでたんだ。今は治って元気だけど、そのときはどうしたらいいかわからなかった。そんなとき、友だちが教えてくれて京都のお寺にいくことにしたの。お寺にも、お坊さんと一緒にお勉強していいお寺があってね、ママはそこで修行してきたってわけ。そう、期間限定修行僧ってところね。
 ママが行ったのは二月で、京都はとっても寒かった。朝はまだ真っ暗な時間に起きて、雪が降る中で体操をしたあと、こうやって座禅をくんで、じーっとしてないといけないの。足がしびれて痛かったなぁ。暖房はないし、お湯も使えないし、靴下も禁止。冷たいお水で雑巾をしぼって、お寺のお掃除をするの。やっと朝ご飯を食べられるのは起きてから3時間もたってから。シーンとした修行中に、おなかがぐうぐうなったのを覚えてる。
 修行はとっても厳しかったけど、お昼ゴハンの後に自由時間があったの。そこで、はじめてパパと喋ったんだ。パパはお寺に半年もいたから、ママに色々教えてくれたの。最初はね、パパのことお坊さんなんだと思ってた。これ、パパにはヒミツだよ。
 パパの第一印象は、まじめすぎて面白いってこと!パパは、自己紹介でこう言ってた。
「僕はお笑い芸人になりたいんです。人を笑わせるのが楽しくて。でも、なかなか上手くいかなくて、ここで修行させてもらってます。」
 一瞬ぽかんとしてママは思った。
(お笑い芸人になりたくて修行って。...ここお笑い道場じゃなくて、お寺なんだけど。)って。だけど真面目な顔で言うパパが可笑しくて、笑っちゃった。全然お笑い芸人っぽくなかったし。でもパパはそのとき、ママが笑った顔をみて嬉しそうだったなぁ。
 お寺には色々な人がいたけど、みんな話してみると色んな悩みを持っていることがわかったの。大切なひとと別れたり、お仕事がうまくいかなかったりね。紗香みたいに、お友だちとケンカした人もいたよ。
 紗香とおんなじ?
 そう。つらいのはママ一人じゃないって思えて、少しずつ元気になったんだ。相変わらず真面目で面白いパパとの会話も楽しかった。一ヶ月も行ってたのに、あっという間に帰る日になっちゃった。
 ママが帰る準備をしていたら、パパが来て言ったの。修行が終わったら東京で会いませんかって。みんなに声をかけてるって言ってたけど、実はママだけを誘ったみたいよ。
 お寺から帰ってしばらくして、パパから連絡があったの。うちの近くに美味しいそば屋があるから来ませんかって。初めてのデートがおそば屋さんなんて、おかしくてまた笑っちゃった。パパにまた会えるのも楽しみで、わくわくしたなぁ。だけど初めてこの街に来たとき、1日で大好きになっちゃった。
 そのころママが住んでたところは、人もお店もいっぱいで、夜も明るかったけど、この街はずいぶん違ってた。緑に囲まれて、空気も空もお水も透き通って綺麗だった。パパと会ったのもお寺だったから、なんだか懐かしい感じもしたんだよ。お店の人も優しくて、面白いひとばっかり。パパのイメージにもぴったりで、パパともすぐ仲良くなったんだ。
 紗香の大好きな神代公園にもよくピクニックで遊びにいったなぁ。うん、今度の土日は、パパに頼んで一緒にまた遊びにいこう。サルスベリの可愛いお花咲いてるかな。おいしいママ特製おにぎり、たくさんつくってあげる。
 ほんとう?やくそく?
 うん、指きりげんまん、約束だよ。
だけどね、実はママは病気のことをパパになかなか言えなかったんだ。でもパパに結婚してくださいって言われたとき、思い切って打ち明けたの。
 小さい頃亡くなった、ママのおかあさんと同じ病気がママの体にも見つかったこと。もうすぐママも死んじゃうんじゃないかって思うと、不安なこと。

「満さん、貴方と一緒にいたいけれど,いつまでいられるか分からない。結婚しても、子どもを産んだり出来なかったら...。」
 最後は言葉にならなかった。涙があふれてとまらなくなったからだ。病気がわかってから、感情的にならない自分に気づいてはいた。穏やかになったんだと、そう思っていた。
 しかし間違っていた。今まで心のふたを無理やりキュッとしめて、気づかないふりをしていただけだったのだ。福子は、後から伝う涙をおさえる術を知らなかった。 
「福子と同じ病気の人がね、治った話を知っているよ。どうしてだか分かる?」
 満は、福子をまっすぐに見てこう言った。福子は涙だらけの顔のまま、分からないと首をふった。満はいつもの真面目な顔で続けた。
「その人はお笑いが大好きでね、一日中テレビでお笑い番組を見て大笑いしてたんだって。そうしたら半年後、医者も諦めていた病気がきれいに治っていた」
 福子が驚いて顔を上げると、満は両腕を伸ばし、福子の両頬を優しくつねってから、にっこり笑った。
「暗い顔をしてないで笑って。いつまで修行中と同じ顔してるの?僕も福子も、もう修行僧の期間は終わりなんだよ。大丈夫、これからは僕が福子の専属お笑い芸人になってあげる。ここがそば屋だから言うんだけどね、ずっと福子のそばにいるよ。」
 満のつまらない冗談に、つい福子は吹き出す。そして二人で顔を見合わせると、たちまち幸せな笑いが弾けだした。

 すっかりのびきったその日のそばの歯ごたえを、福子は今でも思い出すことが出来る。
「パパは約束どおり毎日笑わせてくれて、ママはどんどん元気になって、紗香まで来てくれた。ママは『おばけのおうち』で育ったパパも、紗香も大好きだよ。紗香にも、気に入ってほしいなぁ。」
 そう言ってふと目を落とすと、紗香は福子のひざの上で、おだやかな寝息を立てていた。福子は微笑んで、紗香を両腕であたたかく包んだ。
 ベランダの竿に残った洗濯物たちが、静かに風に揺れている。そこへ、深大寺の夕方の鐘の音が響いて部屋を満たしていく。その調べは、福子の心にいつまでもやさしい余韻を残していった。



新栄 桃子(東京都/34歳/女性/会社員)
 小さい頃から、蕎麦という食べ物は嫌いだ。
 別にそれほど嫌悪感を抱いているわけではない。ただ、両親が元々九州の出身で我が家の食卓には蕎麦よりうどんの方がよく並んでいたことと、学校の給食でも麺と言えば蕎麦ではなくうどんが出ていたことで、蕎麦そのものをさほど口にする機会が少なかったため、僕の味の記憶にそれを好きになるほどの馴染みがなかっただけかもしれない。
 蕎麦を好きだと思えるようになったのは大学生の頃。その頃は毎週のように深大寺へ赴いては周辺の蕎麦屋を食べ歩きしていた。
 別に好きで行っていたわけではない。深大寺散策と蕎麦の食べ歩きは彼女の一方的な趣味だった。僕はというと、彼女に少しでもいい印象を持ってもらうために、蕎麦が苦手なことを隠してそれに付き合っていた。
 付き合った当初から、僕らの週末のデートコースはそう決まっていた。約束事だったわけではない。平日は授業やバイトで忙しく、遠出ができる週末はというと、蕎麦が好きで食べ歩きしたい、という彼女の希望に、僕が異を唱えなかったから、それが自然な成り行きとなっただけだ。

 夏に初めて二人で深大寺に行った時、バスを降りて右も左もわからない僕らは、とりあえず人の流れを追うようにして勘で歩いた。
 案内所のような小屋を見つけると、すぐさま周辺マップを手に入れ、その場で開いてみると、すぐに彼女が目を輝かせて歓声を上げた。
「見て見て。すごい、蕎麦屋さんがこんなにある」
 言いながら彼女はマップ上の蕎麦屋を指で数え始めた。
「ほんとだ。確かにここに来るまでも何軒かあったみたいだけど、こんなにあるんだね」
 僕は素直に驚いていた。事前に彼女から、深大寺というところの周辺には蕎麦屋がたくさんあるらしい、とは聞いていたが、まさかこの限られた区域にこれほどの数の蕎麦屋があろうとは、想像以上だった。
「ほら、言ったでしょう? だから来てみたかったんだよね」
 少し得意げに、彼女は言った。
 マップを頼りに蕎麦屋を見て回り、散々迷いながらも、決めたのは結局一番の行列ができている店だった。店の敷地を飛び出して、歩道の方にまで十数メートルほどの列が伸びている。それほど大きな店ではなかったが、古民家風の造りで、側を流れる用水路には大きな水車があり、よりいっそうの風情を感じさせた。夏の太陽光がちらちらと肌に触れてきて暑さも感じたが、歩道に沿って植えられた木々が行列客の頭上を覆い囲ってくれていたおかげで、並んでいた大抵の間は太陽からのちょっかいを受けずにすんだ。
 三〇分ほど並んだところで、席に案内された。メニューを見ながら周囲の様子を窺っていると、暑さのせいもあってか、ざる蕎麦が人気のようだった。彼女はもうメニューを見る前からざる蕎麦と決めていたようだが、僕は天ぷら付きのざる蕎麦を注文した。苦手意識の強い蕎麦だけを食べるのは勇気がいる。少々値は張ったが、味の逃げ道を用意しておきたかったのだ。
 蕎麦が目の前に運ばれてくると、彼女は手を叩いて喜んだ。そして早速割り箸を手に取ると、数本の蕎麦を持ち上げ、つゆにはつけず、そのまま静かにすすった。僕はその様子を驚いて見つめていた。
「つゆつけずに蕎麦食べるの?」
 僕が尋ねると、彼女は勝ち誇ったような顔で、
「これが通の食べ方ってやつよ。最初はつゆも何もつけずに、蕎麦本来の味と香りを確かめるの」
 通。これが蕎麦好きを公言する人の食べ方なのか、と僕が感心していると、彼女は途端に照れくさそうに笑った。
「なんてね。こないだテレビで見た受け売り。何もつけずに食べるの、実は初めて」
 肩すかしをくらったような気分だった。少しほっとしてもいたが。
「じゃあ、初めてそのまま食べた感想は?」
 僕の問いに、彼女はしばし考え込むような仕草で答えた。
「やっぱり、つゆにつけた方が好きだなぁ。私にはまだ通の食べ方は早いみたい」
 そう言って笑った。
 僕も自分の蕎麦を、しっかりとつゆにつけてすすった。悪くない、と思った。

 食べ歩きを続けるうちに、蕎麦が好きになっていった。
 彼女は蕎麦についてもいろいろ教えてくれた。
「蕎麦ってね、ほんとに健康にいいんだよ。ビタミンとか食物繊維も豊富だし、ルチンっていう成分が最も特徴的なんだけど、生活習慣病の予防にいいんだって」
 こんな栄養うんちくや、蕎麦の作り方だって教えてくれた。
「うどんと蕎麦ってね、作り方が少し違うんだって。うどんは生地をこねてしばらく寝かせるんだけど、蕎麦はすぐに伸ばすの。そうしないと蕎麦の香りが飛んでしまうから」
 よく知っている口ぶりだったので、自分でも作ることがあるのか聞いてみたが、答えはノーだった。やっぱりこれもテレビやネットの受け売りらしい。彼女はまた照れくさそうに笑ったが、それだけ蕎麦が好きなことに間違いはないらしい。そう思った。

 付き合って約一年が経った頃、彼女から別れを切り出された。その頃にはさすがに毎週のようには蕎麦を食べ歩くことはしていなかったが、それでもいつものように、僕らは蕎麦屋にいた。
 彼女は相変わらずざる蕎麦を注文し、僕もいつしか天ぷらを頼むのを止め、彼女と同じざる蕎麦を注文するようになっていた。
 彼女は初めて一緒に蕎麦を食べた時と同じように、最初の一口をつゆにつけず、そのまますすった。その後はきっちりつゆにつけた蕎麦を、静かに、だけど手を止めることなく食べきった。
 僕はその様子をじっと、たまにうつむくように視線を落としながら見ていた。何か話したかもしれないが、正直覚えていない。
 彼女が最後にありがとう、と言って立ち去ったのは覚えている。それからのことも、よく覚えている。
 彼女がいなくなってから、ようやく目の前の蕎麦に手を付けた。少し乾いて張り付き始めた蕎麦を、思い切りつゆに浸して食べた。
 久しぶりに、嫌いな蕎麦の味がした。

 あの時の蕎麦は最後まで食べきったけど、結局最後まで嫌いだった。
 それからしばらく蕎麦は食べていなかったが、今日久しぶりに深大寺を訪れたので蕎麦屋に入ってみた。水車のない店だった。
 ざる蕎麦だけを注文する。ほどなくして目の前に蕎麦が置かれた。
 最初の一口を箸で持ち上げた時、通の食べ方が、一瞬頭をよぎった。
 しかし僕はその蕎麦を、思い切りつゆの中に浸した。僕は通ではない。
 久しぶりに食べた蕎麦の味は、やはり僕の記憶に長い間居座っていた、嫌いな蕎麦の味だった。
 どうしてまた嫌いになったのだろうか。あの時、あの一年の間に食べていた蕎麦を、僕は確かに好きだった。
 僕は二口目の蕎麦に手を伸ばした。
 いや、そんなのは自分自身、とっくにわかっていたことだ。僕は蕎麦の味を好きになっていたのではない、蕎麦の香りを好きになっていたのではない、ましてや蕎麦屋の雰囲気であるはずもない。
 僕は彼女と食べる蕎麦が好きだった。僕は蕎麦の香りに包まれていたのではなく、彼女の香りに包まれていた。蕎麦を味わっていたのではなく、彼女の存在を、彼女といるその空間を、味わい、噛みしめていた。それはこれ以上ない、幸福感だった。
 彼女を知れば知るほど、おいしい蕎麦だった。彼女を失って、その味も失った。
 今さら確かめるように蕎麦を食べなくても、わかりきっていたことだ。
 目の前の蕎麦を全て食べきって、店を出た。
 あの時食べた水車の蕎麦屋は、目の前にあった。
 久しぶりに食べた蕎麦の、さわやかな余韻が僕の中に佇んでいた。
 蕎麦が好きなのか嫌いなのか、正直僕はまだ迷っている。



川原 浩司(東京都小金井市/30歳/男性/会社員)
「万結ちゃんはさ、どうしてシマウマは白黒の模様になったんだと思う?」
 私はうんざりした。遊園地や動物園などの賑やかなレジャー施設は好まない彼の意向に合わせて来た深大寺公園でも、この有様だ。
現在、お付き合いを続けている鳴樹くんは知的好奇心という物が強いのか、度々答えを求めているような、求めていないような問いを私に投げかけて一人で思考に耽る。
元はと言えば、大学の図書室で物憂げな横顔を毎日見つめているのを気付かれ、声をかけられた事から始まった恋だが、彼がここまでの考察魔とは思わなかった。
 ふと下から見上げる視線を感じ、鳴樹くんが私の返事を待っているのに気付く。慌てて顎に手をやり、首を傾げた。少しわざとらしかっただろうか。
「そ、それは普通に考えて、何か色々と環境に適応して体毛がああいう状態に変化したんでしょ?」
 何となくネットで得た知識で鳴樹くんに応戦するが、子供みたいな澄んだ目は容赦なく私に踏み込んでくる。
「じゃあシマウマにどういう心境の変化があってそういう風になったの?」
 動物の心境なんて、過酷な自然界から生き延びるぐらいしか思い浮かばない。
「えっ、そ、それはやっぱり草食動物だし、元々草の間に紛れるように縞々になった訳でしょ。てことは、自己防衛からじゃないかな」
「でもサバンナで白黒って逆に目立つじゃん。真昼間に草食べてたら僕はここにいますよーって言ってるようなものじゃん」
 やはり彼には付いて行けない。私はため息を喉元に留めて、苦笑いをこぼした。
「......降参です」
 そう言うと、彼は私から興味を失ったように眼下の小川に目を落としてから、立ち上がってぶつぶつと呟く。
「んー、何でシマウマ......シマウマ......」
 彼は顎に手をやりながら、本堂の入口へと向かう。私は半ば腑に落ちない気分で彼の後ろを追う。まだ三度目のデートで、手さえ繋いでいない。
私の求める恋人像からは全くかけ離れているし、鳴樹くんは私の事が好きなのかたまに不安になる。
 本堂は都内の喧騒から外れ、神秘的な静けさに包まれている。少し心が現れるような気がして、沈んだ気分も豊かな緑の風景と穏やかな雰囲気に顔を上げる。
 鳴樹くんもいつの間にか思考を止めて、感心したように本堂を見上げていた。黙っていれば物静かな美青年に見える。けれど、一旦会話をすれば自分の世界に入り込むマイペースな人。
奔放な鳴樹くんに私の理想を押し付けるのはどうかと思うけれど、少し恋人として意識してもらいたいと思うのは間違っているだろうか。
「見て、万結ちゃん。あの木、白い花が咲いてる。近くに行ってみよ」
「あ、うん」
 鳴樹くんの弾んだ声に引きずられるように付いていく。周りの人から私達はどう見えているのだろう。恋人同士に見えたのなら、運がいいかもしれない。
 鳴樹くんは子供みたいに目をきらきらさせて、白い花をつけた木の幹を見上げている。こちらに覆いかぶさるように垂れている木は見上げると、日に透けて眩しい反面、とても美しかった。
「綺麗だね」
「うん」
 ふと鳴樹くんの方に顔を向ける。てっきり木を見上げていると思っていた彼がこちらを向いていたので、驚いた。そして、少し恥ずかしくなる。私は彼の前でどんな顔をしていたのか気になった。
「万結ちゃんはさ、どうして俺と一緒にいるの?」
 脈絡もなく尋ねられた問いに呼吸が詰まる。それは私の中でも、最近心の底に溜まった叫びだからかもしれない。鳴樹くんのまっすぐな瞳が私に突き刺さる。たまらず、逸らした。
「な、何でそんな事聞くの?」
「だって、万結ちゃん俺といても全然楽しくなさそうだから」
「そんな事......」
 図星だ。最初は、こんなかっこいい彼氏がいたら、友達に自慢できるかもしれないって思った。鳴樹くんみたいな人は、きっと私にはもったいないから、こんなチャンスないだろうって思った。
 だから、告白を受けてもらった時、すごく嬉しくて、目先の事しか考えていなかった。結局私は、ただ自分が幸せになればいいって考えてただけで、鳴樹くんがどういう人かなんて知ろうともしていなかったのかもしれない。
「俺はね、万結ちゃんと一緒にいて楽しいよ」
 だから、鳴樹くんのその言葉が衝撃的だった。鳴樹くんはいつも自分の世界にいて、私の事なんてどうでもいいんだろうって思ってたのだ。私ははっと顔を上げて、鳴樹くんを見つめる。
「万結ちゃんは俺のどーでもいい質問にもめんどくさいなーって顔しながらも答えてくれるでしょ。それがすごい嬉しくてさ。俺のわがままにもいつも自分の事我慢してるし」
 鳴樹くんは屈託なく私に笑いかけている。夢みたいだけど、ウソを言っているようには見えない。もしかしたら、私の自惚れかもしれないけれど、鳴樹くんの言葉は徐々に私の心を温めていく。心の奥底に溜まった本音が、水泡のように浮き上がる。
「......鳴樹くんは私の事、どうでもいいんだって思ってた」
 私の声は酷く掠れていて、醜く聞こえた。それがとても、純粋な鳴樹くんを汚してしまいそうで気が引けた。自然と顔が再び下を向き始める。
「......そんな事ないよ。どうでもいいって思ったら、俺が好きな深大寺につれて来ないし」
「え?」
 好きな、という単語につい顔を上げる。
「ここ、落ち着くんだ。小さい頃からじいちゃんとばあちゃんと一緒に来て、参道のお店で団子かみそ田楽を食べる。生まれてからずっと俺の特別な場所だから」
 風が吹く。春の緩やかな風が彼の栗毛を揺らす。鳴樹くんはその髪を抑え、私の視線に気付いて微笑む。それは私が今まで見てきた中でも、一番きれいな笑みだった。
「だから、万結ちゃんにもここを好きになってほしかったんだけど、やっぱり遊園地とかの方が良かった、よね?」
「ち、違うの! つまらないとかじゃないの。ただ、私......私が、鳴樹くんの事何も知らずに、理解しようとしなかったから、勝手に惨めになっただけなの」
「え? そうなの?」
 私の吐き出すような言葉に対し、鳴樹くんはきょとんとした表情で軽く聞き返してくる。彼のペースに振り回されていると知りながらも、私はこくこくと頷いた。結構勇気を振り絞って言ったはずなのに、馬鹿みたいだ。
「そ、そうです......情けないけど」
「じゃあこれから知っていけばいいじゃん」
 鳴樹くんは私の憂鬱な心なんて吹き飛ばして、手を握ってくる。男の子の大きな手になれていない私はそれだけで固まって、何も言えなくなる。彼の顔と手を見比べていると、またきれいな笑顔を向けられた。
「俺、また今日万結ちゃんの事分かったよ。上見る時、口開ける癖あるでしょ」
「み、見てたの!?」
「うん。さっき」
 私はつい口元を隠す。顔が熱い。鳴樹くんの瞳の前では、何もかも白日の下に晒されているような気さえしてきた。けれど、鳴樹くん自身に悪気はない。
「すごく、見ててかわいいなって思った」
 風の音と共に、鳴樹くんの声が私の耳をくすぐる。羞恥で逃げ出したい気分になるけれど、鳴樹くんの手は私の手を掴んだままだ。
 私は握られた手を一旦解いて、彼の指に自分の指を絡める。鳴樹くんは少し目を丸くして私を見つめた。自然と、背の高い彼を見上げて私は尋ねた。
「......これからは、他の所にも一緒に言ってくれる?」
「うん。次は万結ちゃんの好きな所に行こ」
 嫌と言われるのを覚悟して言ったのに、彼はそんな後ろ向きの私の思考を笑顔で吹き飛ばしてしまう。いつの間にか私の心はすっきりとした心地だった。
 私と鳴樹くんの恋は、まだ始まったばかりなのだ。
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望都道 ジロー(千葉県浦安市/19歳/女性/学生)
 変わらないね、と彼は言った。古びた店の、年月で傷んだ木製の柱や壁は、風情があると喩えられる。
「本当ね」
 私は相槌を打ってから、彼の言葉の意味を考えた。
 大学を卒業して、もう十年が過ぎた。
 当時、私は世田谷区の隅の方にアパートを借りていて、そこから近くの大学へ通っていた。最寄り駅はとても縁起のいい名前だったけれど、アパートからは遠く、滅多に利用しなかった。
 これ使いなよと言って、折り畳み式の小さな自転車をくれたのは、同じ講義を受けていた彼だった。私達が一緒なのはその講義でだけだったけれど、計ったように隣の席に着き、教授の話を聞き流しながら二人小声で言葉を交わしたり、敷地内のどこかで偶然顔を合わせることもあった。大学に入って初めて話した相手だったから、同性の友人が出来ても彼はどこか特別だった。
 そして、彼は本当に特別になった。その瞬間のことはよく覚えていないし、境界線などなかったのかもしれない。彼は口数が少なく、私とよく似ていた。
私は母親に、女の子の友達と一緒に暮らすと嘘をついて、彼のアパートへ転がり込んだ。私のアパートよりも小さな、彼のアパートへと。荷作りは何度も中断させられた。
 彼の住んでいたのは、大学から程近い、静かな町だった。季節の移り変わりのよく見える、垢抜けない、貴重な町。自分のアパートを引き払ったのは春だったけれど、年の暮れる前から事実上住み着いていたので、数年振りに積もった雪の町がとても暖かかったのを覚えている。
 今でも確かに自由だけれど、あの頃はあまりにも自由だった気がする。罪なほどに。

彼は蕎麦を啜っている。正面からのやや俯いた顔は、私が一番多く見てきた角度だ。長いまつ毛が際立ち、綺麗だなとか羨ましいなとかいった単純な感想よりも、私はどこか懐かしい気持ちになる。
 懐かしむのは、近くはない過去のこと。私も彼も歳を取ったのだ。
 例えば、大学生は二種類いるとして、何を勉強したのか覚えていない方の部類に、私は入る。卒業してからもまともな職に就かず、だらだらとその日を暮らしてきた。
そして、どちらかといえば彼もそうだった。あまり覇気のある生き方はしていない。気まぐれに職を変え、自己管理もずさんだ。睡眠不足で職場へ行き、居眠りをしてそのまま解雇されたこともある。若さを言い訳にするのも、段々と無理が出てきた。
私がいなければあの人は駄目だと思うから。あの人にもいいところがある。優しいところが。
どこかで聴いた、そんな危険な言い訳に、私もふと共感してしまう時はある。彼は私に良くも悪くも何もしないから、これが恋愛なのかと疑ってしまうのだ。
「ねえ」
 蕎麦を飲み込んだ彼が、窓から店外を見ながら言った。参道に人はまばらで、時折ゆっくりとした足取りの人が通る。
「来週のほおずき、近所の人にも頼まれちゃった。だから三つ買うかも」
「そうなんだ」
 ほおずき、とはほおずき祭りのことだ。年に一度、週末に充てた数日間に催される。彼は毎年、遠くにいる両親の為にほおずきを一鉢買って届けていた。
「近所の人って、誰」
 純粋さを半分だけに、私は訊いた。
「うん。向かいにいるでしょ、おばさん」
 彼は肩を自然にすくめた。視線は参道に向いている。道を隔てた向かいにも蕎麦屋があり、店員のおばさんが通行人を呼び込んでいる。
 彼は人差し指の付け根を鼻先に当てながら、ふっと笑った。今も二人で住んでいるアパートの向かいに、確かにおばさんはいる。いかにもといった風体の人。すれ違えば挨拶を交わす程度だけれど、彼はいくらか親しい。
そういう、柔らかな物腰と雰囲気を持ってはいるのだ。だからどうしても、彼には何かの才能があるのではないかとか、いつかはプロポーズしてくれるのではないかとか、私は想像してしまう。そんな時、私は少しにやけていて、逆の立場なら「どうしたの」と迷わず問うところを彼は何も言わない。

 私は一度、二歳年下の妹に説教されたことがある。妹は大学には通わず、高校を卒業して数年後の若さで結婚した。すぐに男の子を生み、今はお腹に二人目がいる。
「お姉ちゃん、いつまでもそんな生活が続くと思ってたら駄目だよ」
 妹ははっきりと私の目を見て言った。久々に帰った、神奈川にある実家でのことだ。
「その彼と結婚する気がないなら別れるべき。第一、向こうに真剣さがあるわけ」
 私はリビングの古いソファーに腰を掛け、インスタントのコーヒーを啜っていた。妹が口を開いている間、私はずっとカップを両手で持ち、口元に当てたままにしていた。椅子に座り、私を見下ろす妹の視線は、はっきりと見たわけではなく感じたものだ。
 その時はまだ、妹には子供がいなかった。だから何となく、妹にも不幸な予感や雰囲気はあった。ごく平凡でまともな両親の目は、妹のことも私のことも同じように見ていた、まだあの頃は。
 子供が出来たらハッピーエンド、というはずはないだろう。だけれど、学生気分の消えない恋愛ごっこを繰り返す人よりはずっとまともな人生を歩めそうではいる。私は意識とは別の、無意識な心の中で自分をそう戒めたりはするけれど、結局のところどうすることも出来ない、暖かく緩やかで、それでいて冷たく無情な波に飲まれ続けているのだ。

「行こうか」
 相変わらずのろのろと蕎麦を食べていた私に痺れを切らしたように、彼は言った。私は黙って頷く。汁の中に箸を滑らせると、蕎麦はもう残っていなかった。
 会計を済ませ店を出ると、夏の初めの風が吹いた。昨日の雨と、新緑のつんとした匂いが鼻をくすぐる。参道の石畳はまだ少し湿っていて、踏む度に濡れた砂利の音を立てる。私達は共にサンダル履きで、雨が降ってもこの方がいいと考えたのは彼だ。
 私は隣にいながら進む方向は決めず、彼はゆらりと前へ歩く。足は深大寺に向かっている気がするから、「お参りするの」と私は訊いてみた。
「うん」
 何を願うのかは訊けない。知っているようでもあるし、知りたくないようでもある、私からしたら。
 参道を、ずるずると進む。私は彼の手を取った。
 変わらないことはあり得ない。彼から貰い、大事に乗っていたはずの自転車も、今はもう壊れて捨ててしまった。一年はあっという間だねという、その時の職場やテレビの中の年配の人がしみじみと言うのに、そうかなと首を傾げることもなくなってしまった。
だからこそ私達の関係は貴重で、周りにとやかく言われることはなく、私達自身が大切に守っている唯一の現実だった。言葉などなくとも、こうして目の前にある。満腹のお腹をさすり、季節の色の空や空気など感じて、ゆっくりとだけれど確実に歳を取っていくのだ。それがいい。それしかない。

 願いを叶えたことは、私は一度もなかったけれど、その時ばかりは強く願った。言葉を並べるよりも確実に、単純に、息を吐くように。
私の手をぎゅっと握り返して、彼は私の名前を呼んだ。
「深雪は何を願うの」

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山口 海斗(神奈川県川崎市/29歳/男性/フリーター)

 ――歪んでいる物が、必ずしも悪い物だとは限らない。だって、端整に整った物は美しいけれど、歪んだ物には味わいがあるから。康成さんはそう思わない?――

 以前、叔母の遠藤佳代子がそんな言葉を語ったことがある。
 どういう意図があって彼女がそんな事を口にしたのかは分からないが、その言葉は俺の心に鋭く響いていた。

        ◆ ◆ ◆

 深大寺界隈の木々も紅く色づいていて、季節は晩秋に向かって歩みを進めている。平安時代の女流作家である紫式部が源氏物語の中で、源氏の君に「四季のうちで春と秋が美しく、甲乙がつけがたい」という内容の事柄を語らせているが、俺が源氏の君の立場ならば間違いなく秋を選ぶことだろう。
 楓の木々が立ち並び、びっしりと朱色に染まった景色は華やかで、思わず目を奪われる美しさがある。しかし、紅葉樹と常緑樹と、紅と緑の木々が入り混じっている有り様も、それはそれで賑わいがあって、やはり日本の自然の美しさというものに感嘆を禁じ得ない。朱色の落ち葉が敷き詰められた小路を歩いていると、どことなく風流さを感じてみたり、もしくは寂びた心持ちになるのは日本人特有の感性なのではないかと俺は思う。またそれが夜の気配が薄く滲み始めている夕刻頃ともなれば、尚のこと情緒的な気持ちにさせられてしまうのも無理からぬことだろう。茜色の黄昏、それは感傷的な美しさ。どうして夕陽の光は人を物寂しい気持ちにさせてしまうのだろうか............。

「ねえ、康成さん。これ、どう思う?」
 楽焼の茶碗を手にして、意見を求めてきた叔母の声に思索に浸っていた俺はハッと我に返った。
「ええ、良いんじゃないですか?」
「適当に相槌を打ってない?」
「そんなことないですよ」
「本当かしら?」
 俺は取り繕いの苦笑いを浮かべ、叔母はそんな俺を絶対に信じていない訝しむような眼で見ていた。
 遠藤佳代子という女性は家系図的に言って俺の叔母に当たる人なのだが、年齢的には七つしか違いがない。彼女は今年で三十路を迎えてしまったが、未だ独身のままである。
 俺の生家である榊原家と叔母の遠藤家は共に茶道を生業としている家柄で、今年の春に大学を卒業した俺は、修行の名目で遠藤家に預けられている状態だ。『修行』という言葉で語れば少しばかり耳当たり良く聞こえるかもしれないだろうが、実際のところは黒子の如く立ち回っている身分と言った方がニュアンス的には近いような気がする。今日も今日とて、叔母の付き添いとして所用のお供に駆り出されていた。
 その帰り道。深大寺の近くに来ていた俺たちは、叔母の思いつきで、深大寺山門近くの焼き物屋に足を伸ばすこととなった。目的地は木々の中に佇む平屋作りの建物、むさし野深大寺窯。店の前の平台の上には数多の焼き物が所狭しと並べられていた。深大寺焼きの土鈴、信楽焼きの狸の置物。越前焼、美濃焼、京焼、楽焼の陶器類。その内の楽焼一つを取ってみても、絵皿、小皿、中皿、長角皿、四角皿、丼、箸置、杯、花器、抹茶茶碗といった感じに豊富な種類の陶器が陳列されている。その中で叔母のお気に召した物が、どうやら赤楽の半筒茶碗だったらしい。
 楽焼――というのは戦国時代の天正年間に京都で始められた焼き物である。轆轤を使わず、指先だけで陶器の形を作るのが特徴で、陶器を焼く温度としては低めの温度で焼き上げるため、低温焼成ならではの軟質な柔らかさが器に生まれ、繊細な手触り口触りが楽しめる焼き物だ。茶碗を手にした時に、手捏ね作り故の微妙な形の歪み、厚みのある形状がもたらす、程良く自分の手に馴染む感触が楽焼茶碗の魅力の一つであるのは間違いのないところだろう。
「端整に整った物は美しいけれど、歪んだ物には味わいがあるから――でしたっけ?」
「あら......、よく覚えていたわね」
「何となく心に響いた言葉だったので。でも、どういう意図があって佳代子さんがそう言ったのかまでは、今も分かりませんけど」
「意図? 意図と呼べるほど大層な理由なんてないわ。でも、そうね......、仮に人に例えて言うなら、大きな失敗を経験した事のない人間の人生や経歴は綺麗かもしれないけど、大きな失敗や挫折を経験した人間の人生は渋みがあって味わいがある。そんな風に私は考えているの。つまるところ、私自身が捻くれ者だから、綺麗に整った物よりも、歪んでいる物の方が存在が自然に思えて好きなんだと思うわ」
「それじゃ、佳代子さんは何か大きな失敗をした経験があったりするんですか?」
「ふふふっ、そうね......」
 叔母はそこで一旦言葉を区切り、何かを懐かしむような眼をしてから言葉を続けた。
「実は私ね、康成さんくらいの歳の頃に不倫にハマってしまったことがあるの」
「えっ?」
「あまり詳しくは話せないけどね」
「そうなんですか」
 何気ない会話の中に飛び出してきた重い告白に、正直、俺は戸惑いを覚えた。人に歴史あり、とでも言うべきなのだろうか、叔母も三十路という年齢なのだから、今までに色々な人生経験があって然るべきなのは当たり前のことなのだが......。
「だから、今の貴方を見ていると、昔の自分を思い出すと言うか、重なって見えてしまうのだと思うわ」
「それが拒まなかった理由ですか?」
「そうよ。穢れた女で幻滅した?」
 二日前、俺は佳代子さんを押し倒し、強引に身体を重ねた。腕の中にすっぽりと収まるような抱き心地、滑らかで手に馴染む柔らかな肌、魅惑的な肢体に俺は夢中になった。俺は激しく彼女を求め、彼女も俺を受け入れてくれた。しかし一夜明けてみると、彼女はまるで何事も無かったかのように、普段通りの叔母に戻ってしまっていた。それはもう、その夜の出来事は胡蝶の夢か何かだったのかと思えるくらい、俺と佳代子さんの関係に変化は訪れないままだった。
「............。いえ、幻滅はしていません」
 艶然な笑みを浮かべる叔母に、何とも言いがたい気持ちになった。どうやら俺は叔母の手の平の上で踊らされていただけらしい。
「苦い失敗っていうのは、その人の受け取り方次第で良い人生経験になると思うの」
「俺のこの気持ちは失敗だと?」
「ええ、そうよ」
 返ってきたのは迷いの無い断言。
「康成さんの気持ち自体は純粋なものかもしれない。だけど、社会的に、法的に許されない感情なのも事実だわ」
「だったらどうして俺と――」
「試してみたかったのかもしれない」
 俺の言葉を遮って叔母が端的に答えた。
「自分の失敗を人生の糧として生かせるのか、それとも甘い汁の味が忘れられずに何処までも堕ちていくのか。多くのものを失って、それでも尚、私を求めるだけの覚悟が貴方にはあるのかしら?」
 考えていない訳ではなかったが、改めてリスクというものを意識させられると、足が竦み、気持ちが怯む。俺個人だけの事ではなく、榊原家、遠藤家には多くの門人や、少なからずの関係者、支援者の方々が存在する。その繋がり無くして茶道の家は成り立たない。甥と叔母が肉体関係を持ってしまったことが周囲に知られてしまったらどうなるだろうか。それを考えると胃袋に鈍く重い不快感が広がった。
 頭の中で損得計算が駆け巡る。情けなくも、保身で頭がいっぱいになり、佳代子さんに対する恋慕の気持ちが萎えていく自分に嫌悪感を覚えた。
 見事に嵌められてしまった。もし――佳代子さんと肉体関係を持つことがなかったら、俺は長らく彼女を一人の女性として想い続けていたことだろう。だからこそ、叔母は敢えて自分を抱かせる事で、現実を俺に突きつけようとして謀ったのではないだろうか。
「俺は............」
 言葉を躊躇う。上手く言葉が出せない。何も言えずに俺は唇を噛み締めた。青二才――という言葉が頭の中に浮かんだ。握った拳に力が籠もる。今のこの気持ちは何と言えばいいだろうか。屈辱という言葉では到底言い表しきれない悔しさ。恥辱でもあるのだろう。舞い上がってしまっていた俺の姿は彼女の瞳にどのように写っていたのだろうか。それを考えると、愚かな自分があまりにも腹立たしい。色々な感情が頭の中で混じり合い黒い渦を巻いているが、その中で一番強い感覚は無力感なのだろうと思う。倦怠感にも似た疲労が心と身体を苛んだ。俺は自分の不甲斐無さに愕然となるよりほかになかった。
「人生経験の差よ」
 まいったな............。
 俺は今日の出来事を生涯忘れず後悔することになるだろう。なるほど、これが人生の歪みというものか。
 茜色に染まった空を仰ぎ見て、苦い経験を噛み締めた。 

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織倉 ひずみ(兵庫県神戸市)

先生がご自宅に呼んでくださらなくなって、半年が過ぎる。以前は、還暦を越した絵本作家と編集者におかしなことなど起こりようもないと、書斎で打ち合わせを終えた後は、居間に場を移しコーヒーを入れてくださったのに。今では、お会いするのはいつでも、亀の池の見えるこの店になった。
山菜てんぷら蕎麦を食べながら、麻子は向かいに座る坂本先生に目をやった。ちょうど、とろろ蕎麦の最後の一口がつるりと先生の口の中に消えていくところだった。
 坂本先生は、かなりの蕎麦通だと麻子は睨んでいる。所作の全てが粋なのだ。それでいて、ぜんぜん粋じゃない麻子の食べ方を大らかに許してくれるところが、また粋だ。麻子は正直なところ、蕎麦の味はあまりわからないし、そばつゆに蕎麦をドボンとさせたこともあるけれど、それで先生の機嫌が悪くなったことはない。
「君は、おいしそうに食べますねえ」
 むしろ麻子の食べっぷりには目を細め、小鉢やら甘味やら、あれもこれもと頼んでくれる。
「どんどん食べなさい。今日は打ち上げですからね」
 その言葉に、麻子は慌てて居住まいを正した。
「先生、本当に長い間、お疲れさまでした。素晴らしい作品をありがとうございます」
坂本先生が七年に渡って手がけた絵本「黒猫ジュサブロウ」シリーズが、このたび完結した。正式な慰労の席は、編集長も同席で設けられる予定だが、今日は先生が麻子を誘ってくれたのだ。
「書店には予定通り明後日並びます。ネット書店での予約も好調な滑り出しですよ」
「君や編集部のみなさんのおかげですよ。ずいぶんと熱心にやってくれて」
「私、ジュサブロウのファンですから!」
前任者からシリーズを引き継いでから二年。短い間だったが、麻子は主役のノラ猫ジュサブロウに惚れてしまった。艶やかな黒い毛並みを持った若い雄猫は、詩人で旅人。気難しいところもあるが、とびきりのロマンチストなのだ。
「ですけど、結局、最後までジュサブロウの顔は描いていただけませんでしたね」
 美味しそうにビールを飲む先生に、麻子はポロリと言ってしまった。
 先生の絵本に出てくる猫は、顔を見せてくれない。たいていは背中を向けていて、ごく稀にこちらを向いている時は、巧みに顔が隠れているのだ。隠されると余計に見たくなるのが人情というもの。先生公認で、ジュサブロウのイラストを募ったら、保育園児から八十歳まで、集まった作品は千点を越え、麻子たちは嬉しい悲鳴をあげたものだ。シリーズのファンは、ジュサブロウが素顔を見せる日をドキドキしながら待っていたのだ。
 でも結局、最後の一冊でもジュサブロウは顔を見せてくれなかった。そのことが、麻子は残念でならない。絵本ではミステリアスな存在だとしても、設定資料やラフスケッチで目にすることはあるだろうと編集者特権に期待したのに、それも空ぶりだった。
 先生は珍しく、少し困ったように笑った。
「猫の顔は、上手く描けないんですよ」
「そんな、ご冗談を」
坂本先生は水墨画の大家だ。麻子の前任者が絵本の世界に引き込んだ時には、業界が騒然としたそうだ。先生は輪郭をほとんど取らない、天衣無縫で大胆な画風で知られており、とりわけ生物の躍動感には定評がある。絵本でもその力は遺憾なく発揮されて、背を向けた猫からは充分な表情が伝わってくる。
 そんな坂本先生に描けないもの、苦手なものがあるなんて。
 適度にアルコールも回り、相手が麻子のような小娘と言う気安さもあったのだろう。
「どら、描いてみせましょうか」
 鞄から携帯用の硯を取り出した先生は箸袋にサラサラと小筆を走らせた。
「どうですか?」
 滑らされた箸袋を手に取り、麻子は思わず絶句した。素直な反応に、先生は気分を害したようではなく、むしろ面白そうに笑った。
「ね、驚きでしょう」
「いえ、あの・・・・・・」
 麻子は箸袋に目を落としたまま、口ごもった。確かに、これはない。猫の顔のうち全体は上手く捉えているのに、目だけが人間の物なのだ。これでは人面猫だ。いや、猫娘か。
「そう言えば、猫娘って妖怪がいましたね」
 麻子の考えを読んだように、先生が言った。
「これは、呪いなんですよ」
 筆をしまいながら先生は、苦く笑った。
「呪い?」
「実は若い頃に、悔いが残る恋をしましてね」
 そう言えば、坂本先生は独身で、浮いた話の一つも聞いたことはないと編集長が話していたことがある。
「あれはもう、三十年以上昔になるのかな、初めての個展が成功して、少しばかり浮かれていた夜でした」
出会いは、今も調布駅の側にある老舗のバーだった。カウンターで一人祝杯をあげていた若き坂本先生の隣りには、いつの間にか一人の娘が座っていた。ちょっときつめの顔立ちだが、しなやかな肢体から匂いたつ色気に、先生はクラクラしたと言う。
「誘われて、まあそういう関係になったわけです。一夜で終わらず、逢瀬を繰り返して、でもいざ正式に交際をという話になった時、彼女がいきなり言い出したんです。自分は実は化け猫なんだってね」
 先生の眼差しに麻子をからかう色は微塵もなかった。
「そのことを告げるのは、大変な勇気だったのでしょう。黙っていれば、私も周囲の者も全く気づかなかったのに。でも結局ね、私が種族の違いを乗り越えられず、別れることになりました。彼女が去って、私は猫を描けない自分に気づいたのです。恐らく、彼女がかけた呪いなんでしょう」
「そんなことありません!」
 麻子は思わず声をあげた。鞄を引き寄せて、書店に並ぶばかりの絵本を取り出す。
「こんなに生き生きとした猫が描けるんですから。この絵本を読めば、先生が猫をお好きなことも、猫のことをちゃんとわかっていることも伝わってきます」
 ただ画力があれば描けるものではない。骨格や筋肉のつき方、解剖学的に猫を知り尽くしても、それだけでは足りない。坂本先生の描く猫は、絵本の世界で確かに生きている。こんな猫を描ける人が呪われているわけがない。確かに顔の絵は、まあ、あれだけど。
 麻子の力説に、先生はふふと笑った。
「ありがとう。そう言ってもらうと、少し気持ちが軽くなりますよ」
「生意気を申し上げました。すみません」
「いやいや。こんな法螺話に付き合ってくれて、ありがとう。誰にも話したことはないんですよ」
「もちろん、誰にも言いません」
「君も、恋をしたら、後悔しないようになさい。相手の手を離しちゃ駄目ですよ」
 先生の優しい笑顔が、麻子は好きだった。この気持ちを態度に表わしたことはないけれど、先生はきっと気づいていた。だから、外でしか会ってくれなくなったのだ。
「先生、この絵、いただいていいですか?」
 麻子は箸袋を握りしめた。先生はちょっと渋っていたが、あんな話を聞いてしまった以上、これを渡すわけにはいかない。
「シリーズ完結記念に、ぜひ!」
 断固離さないと言わんばかりの麻子に、根負けしたのは坂本先生だ。
「まあ、そんな物で良ければ。君には色々お世話になったことですし。でも人に見せてはいけませんよ」
 それからは他愛ない話をして、山門が閉まる頃、麻子と先生は店を出た。シリーズも完結したし少し羽を伸ばしますよ。と手を振って、坂本先生は夕暮れの町に消えて行った。

 そしてそれが、麻子が坂本先生を見た最後となった。先生はそれきり戻ってこなかったのだ。事故か事件に巻き込まれたのではと、編集部でも総出で心当たりにあたったが、どうあっても、先生の行方は知れなかった。
先生の失踪は美術界でこそちょっとしたニュースとなったが、それも一月とたたぬ内に消えた。先生の残したジュサブロウシリーズは安定して売れ続け、今日も編集部にはファンレターが届く。それを整理して保管するのは麻子の仕事だ。
 いつもの蕎麦屋で一人、先生がお好きだったとろろ蕎麦を注文し、麻子は手帖を開いた。カバーの折り返し部分には、あの日もらった箸袋が忍ばせてある。
 恋をした娘が化け猫だったなんて。
 麻子の気持ちをはぐらかす為に、先生はおかしな作り話をしたものだ。
でも、もしかしたら全部本当のことかもしれないと、麻子はふと思う。
坂本先生は恋をした猫の娘と添い遂げる為に、人の世を捨てていったのだ。今でも案外と近くに先生はいて、でも猫の姿をしているから、みんなは気づかない。
 恋人は黒猫に違いなく、対になるなら先生は白猫だけど、落ち着きと渋みを混ぜ込んで、薄いグレーか、象牙色。
「猫の顔は、上手く描けないんですよ」 
 先生の言葉は正しかった。間違いなく下手くそな猫の絵を見ていると、笑いたいような、泣きたいような、おかしな気分になってくる。麻子は慌てて湯飲みを取り上げて、やわらかな湯気に顔を埋めた。 

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小林 栗奈(東京都国分寺市/43歳/女性/会社員)

調布市にある深大寺門前に並ぶ蕎麦屋の一軒「蓮の家」が私の生家であり職場である。
晴れた日には深大寺参詣や神代植物公園の観光客で一日中客足が途絶えぬまあまあの人気店(食べログの評価3.12)であるが、雨の日はほどほどでやる気が出る。
「深大寺そば一枚。蕎麦後にわらび餅ね」
雨の日には必ず窓際の定位置に座る日焼けした男が蓮実に手をあげ注文を唱える。
「はい。深大寺そば一人前、食後にわらび餅ですね」
と嫌味のように言い直す。なんだよ蕎麦あとって。蕎麦まえならわかるけど...。
「すみません。深大寺そばってどんなお蕎麦なんですか?」
夫婦であろう年配の女性客の方が聞いてくる。またか...今日で9回目だよ...。
「深大寺そばって言うくらいなんだからここら辺の名物蕎麦なんだろ」
片割れの男性客が知ったかぶりをする。
「いえいえ、普通のね、もりそばの事なんですよ。深大寺辺りではもりそばの事を深大寺そばって言うんですよ。私は産まれてからずっとここなんです。昔、浅草で蕎麦屋に入ったら深大寺そばがなくてびっくりしました。もりそばってその時初めて知りました」
「そうなんですかぁ。洒落た呼び方ですね、深大寺そばって」
 そうですねと笑顔で答えて蓮実はメニューの深大寺そばの文字をじっと見つめる。

 多賀も私も成人式を終えたばかりだったっけ、両家に結婚を反対されて家出したのは。
浅草の蕎麦屋に入ってメニューも見ずに深大寺そばって言ったら多賀がもりそば下さいって訂正しちゃって。なんか都会ぶってて感じ悪かったな。あげくの果てに隣同士の蕎麦屋なんだから「蓮の家」潰して「多賀」に統合して俺が経営するなんて言い出しちゃって、M&Aかって。偏差値40の奴が。何であんな奴にバージン捧げちゃったんだろ、馬鹿なあたし。
 いつの間にか蓮実の手でメニューは握り潰されよれよれになっている。
「お蕎麦あがったよ」の声にふと我に返る。

 雨でじとっと濡れている暖簾を仕舞っていると、隣の店「多賀」から多賀が出てきて目が合う。蓮実から話しかけてみる。
「雨やみませんね」
「そうですね。商売あがったりですよ」
 多賀は逃げるように暖簾を抱えて店に入る。
「けっ、ケツの穴の小さい男!」
 蓮実と別れた後、一年後に高校の後輩と結婚して3人の子持ちになった多賀はあれから蓮実の事を避け続けている。

 定休日の月曜日、近所の神代水生植物園で開催される「植物博士と巡る草花散策」に趣味のカメラ片手に参加した。
 入口で参加者の列に並んでいると職員がやってきて「本日の講師は植物博士の半田広輝さんです」と大声で紹介する方を見たら蕎麦前男だった。げっ、休みの日までお愛想ちゃんしなくちゃなんて、アンラッキーなあたし。
「皆さん、今日は草花を穴があくほどじっくり観察してみて下さい。気になる事があったらどんどん質問して下さいね。では、半日よろしくお願いします」
 参加者は拍手で答える。蓮実は参加者の一番後ろをばれないようにこそこそついて行く。

 東の空が急に暗くなり雨がぽつぽつと降ってきた。園内の東屋に駆け込む一行。蓮実もカメラを庇いながら東屋に走る。
蓮実に気付いた半田が近づき声をかけてくる。
「こんにちは。今日はお店お休みですか?」
「あら、こんにちは。月曜は定休日なんです。それにしても驚きました。植物博士だったとは...」
「ただの植物マニアですよ。そういえば、いつもあなたに会う時は雨ですね」
「雨女なんですよ。実際運動会も遠足もいつも雨ばかりだった」
「僕の場合はあなたのせいではなくて、雨の日を狙って「蓮の家」に行くんです。ここの帰りに」
「ん?何でわざわざ雨の日に?」
「晴れた日は深大寺観光の人でお店混むでしょ。それに雨の日の蕎麦は何とも言えずしっとりしていて格段にうまいんです」
「そんなもんですかね」
「ほら、あそこに白い小さな花が沢山咲いているでしょ。蕎麦の花ですよ」
「ホントだぁ。あ、今日は蕎麦の花をカメラに収めたくて参加したんです。蕎麦屋だけにね」
 蓮実はカメラを持ち上げてみせる。
「ははは。小降りになってきたからそろそろ出発しましょう。蕎麦の花ばっちり撮ってくださいね」
 半田が蓮実の背中をさりげなく押す。薄いTシャツから感じる手の感触にドキっとする。
 やば...久々に男性と接触...うぶなあたし。

 次の雨の日、誰も居ない店内で蓮実は一人窓際の半田がいつも座る席で冷酒を飲んでいる。
「雨だってのに、きやしない」
 小一時間ほど経つと蓮実の前には空の瓶が3本ほど転がっている。
 がらがらと扉が開き半田が入ってくる。
「今日はミーティングが長引いて遅くなってしまいました。あるものでいいので一杯飲めますか?」
「あら、先生、おこんばんわぁ」
「あれ?だいぶん出来上がってますね」
「はい。雨ですからね」
「すごい理由だ」
「客が来なくて早仕舞いってことですよ」
「僕もご相伴に預かっていいですか?」
「いいとも~!ってもう終わっちゃったか」
 半田は笑いながら蓮実の前の椅子に腰かける。
 蓮実は深大寺ビールとグラス、お新香、揚げ蕎麦などをお盆に載せて戻ってくる。
「改めまして、僕は半田広輝と申します」
「こりゃ、丁寧にどうも。私は遠藤蓮実です。蓮の花の蓮に実るで蓮実です」
「かわいい名前ですね」
「もうかわいい年じゃないですよ」
「大丈夫、中年の僕にとったらまだまだかわいい女の子です」
 蓮実はちらっと半田の左手薬指を確認する。指輪はしていないし、日焼けの後もない。
「そういえば、あの日蕎麦の花の写真はうまく撮れましたか?」
 ちょっと待っててと言い残しカメラを取りに行く蓮実。半田はビールを一気飲みする。
 2人でカメラを覗き込み撮影した草花を見る。画像を遡って見ていると去年撮った深大寺鬼燈祭りの写真が表示される。ほうずき市のテントの後ろで隠れるようにキスをするカップルに釘付けになる。拡大してみると日焼けした男はまさに半田だった。女の方にも見覚えがあった。まさか多賀の奥さん...。はっと息をのむ蓮実。
 半田は何も気が付かない様子で冷酒を手酌している。蓮実は絞り出すような声で聞いた。
「多賀にはよく行かれるんですか?」
「ああ、去年はよく行きました。でも今年になってから蕎麦の味が変わってしまって。ご主人が脳梗塞やられたんでしょ?幸い経度だったみたいだけど、それから味が落ちたような気がして...今はもっぱら「蓮の家」一筋ですよ」
「...」
 脳梗塞なんて、知らなかった。去年多賀の奥さんが浮気しているという噂が流れていた事を思い出した。ざまあみろとほくそ笑んだんだっけ、ちっぽけなあたし。
「どうかしましたか?急に静かになって...。よかったら外で飲み直しませんか?」
「だったら多賀に行きませんか?同級生なんですよ、ご主人が」
「だ・か・ら、多賀は美味しくないから...」
「蕎麦屋の女が好きですか?」
「は?」
「研究者ですものね、突き詰めるご性格なんでしょうね」
「言ってる事がよくわからないのですが...」
「3軒先の「秀水庵」の女将さん、元ミス調布ですよ。べっぴんさん」
「あそこは甘味がうまくない」
「やっぱり通ってらっしゃった」
「トータル的に「蓮の家」はバランスが取れてますよ」
「可もなく不可もなくですか...」
「いや、そんな事は言ってない。蕎麦も甘味も蓮実さんもトータルでバランスが取れていると褒めているんですよ」
「私はバランスなんか欲しくない!バランスよりロマンスなんだよ、このエロじじい!」
 蓮実は厨房にあった袋から蕎麦粉を掴んで半田に投げつける。頭から蕎麦粉をかぶった半田は茫然と蓮実を見つめる。更に蕎麦粉を掴んで睨むと半田は慌てて店を出て行った。

 前掛けを粉だらけにした蓮実は店を出て湧水が流れる川沿いを歩き深大寺山門に向かう。
 本堂に行き、前掛けのポケットから一万円札を取り出し、えいっと賽銭箱に投げ入れる。
「今度こそ本物の恋ができますように」
これだけお賽銭あげたんだからお願いしますよ神様、と念には念をいれて5分ほど拝む。
 次に隣にある元三大師堂に向かう。木像のおびんずる様の頭を撫でる。あれ?脳梗塞だから頭撫でればいいのよね。早く良くなれ、多賀。フレーフレー、あたし。
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山口 亜紀(東京都中央区/女性/主婦)
 どうして急いでいる時に限って、普段起きないようなことが重なるのだろうか。目覚まし時計を買ってからこの一年間、目覚ましが鳴らなかったことは一度もなかったのに、今朝初めて鳴らなかったし、駅に向かう途中、買ったばかりの靴の底が外れ、家に戻って靴を履き替え、駅まで走って慌てて飛び乗った電車は反対方向に行く電車だった。
おかげで約束の時間の一時間前には着く予定だったのに、三十分も遅刻してしまった。
 バスを降りて、走って深大寺の山門をくぐり境内に入るが、それらしき女性の姿は見えなかった。
 連絡もせずに三十分も遅れたのだ。怒って帰るのも無理はない。鈴木には申し訳ないと思ったが、これでよかったのかもしれないと、少しだけホッとしたのも事実だった。

 大学時代からの親友である鈴木から電話があったのは昨夜遅くのことだった。
「実は明日、取引先の部長からの紹介で女性と会うことになっていたんだ。その部長の先輩のお嬢さんらしいんだけど、いいとこのお嬢さんだけあって男には奥手らしい。それで誰か年頃の男性を紹介してほしいと頼まれて俺が指名されたと言う訳なんだ。部長からは先輩への義理を立てるだけだから、相手を傷つけさえしなければ断っても構わないと言われてるんだ。ところが、明日、今までいくらデートに誘っても応じてくれなかった大本命の女の子がようやくデートしてくれることになったんだ。で、悪いけど、俺の代わりにその女性と会ってほしいんだ。そして、うまい具合に嫌われてほしいんだ。」。
「あまり気乗りしないな。もし、相手の女性が大本命の女の子よりもすごくいい人だったらどうする?案外、赤い糸で結ばれているかもしれないじゃないか。」
 僕は鈴木に翻意させようと言ってみた。
「赤い糸なんて言っているから、いつもうまくいかないだよ。頼むよ。こんなことを頼めるのはお前しかいないんだ。」
 懇願するように鈴木が言った。
「女性に会うのはともかくとして、どうやって嫌われたらいいんだ?清潔感がなくて、だらしない男が女性に一番嫌われるって週刊誌で読んだことがあるけど・・・。」
「さすがにそれはまずい。そうだな。何かにつけてうんちくを垂れるってのはどうだ?相手が辟易するくらいうんちくを垂れて、自分のペースで物事を進める無神経な男でいこう。   
深大寺の山門の前で十一時に会うことになってる。相手の女性の服装は水色のワンピースに白い麦わら帽子だ。こっちはグレイのポロシャツに白いスラックスで行くと言ってる。悪いけど、頼むな。」
 鈴木には何度も女の子を紹介してもらっている手前、無下に断るわけにもいかず鈴木の頼みを引き受けたものの、だんだん気が重くなってきて、なかなか寝付けなかった。

 せっかくここまで来たのだ。お参りして帰ろう。僕は気を取り直すと、本堂に参拝した。
 ふと横を見ると、水色のワンピースに白い麦わら帽子を被った女性がすぐそばに立っているのに気がついた。びっくりするような美人とは言えないまでも、かなりきれいな顔立ちをしている。いいとこのお嬢様だけあって、知的で清楚な雰囲気が漂っていた。
「こんにちは。」
 僕は笑顔を作ると女性に挨拶をした。
元々、僕は女性に気軽に声を掛けたりするのが得意じゃない。むしろ、苦手だと言える。これが、僕自身のデートなら、いつものように上がってしまってもじもじしてしまうところだが、嫌われるのが役目だと思うとリラックスして対応できた。
「こんにちは。暑いですね。」
 女性が笑顔で挨拶を返した。邪気のまったく感じられない、爽やかな笑顔だった。
「ほんと暑いですね。少し境内を歩きませんか?」
 鈴木と昨夜打ち合わせた通り、僕は強引に女性を誘った。
「はい。」
 女性は嫌がる素振りも見せず頷いた。
「深大寺は窪地になっているので、冷たい空気が溜まりやすいんです。湧き水と木々の緑の蒸散作用で付近より二度近く気温が低いんですよ。」 
 僕は歩きながら、昨夜ネットで調べた知識を披露した。
「ここが深沙大王堂です。玄奘三蔵が天竺に行く途中に、砂漠で飲み水がなくなって困っているところを深沙大王が救ったと言われています。縁結びの神様ともされているんですよ。」
 深沙大王堂の前で、深沙大王について昨夜仕入れた情報を説明した。
「右手に行くと神代植物公園があるんですが、
バラ園がきれいですよ。行ってみましょう。」
 僕は女性の意向を確かめもせず、神代植物公園へと歩を進めた。
「ここは都立唯一の植物園で、四千五百種、十万本の植物があるんですよ。」 
 僕はネットで調べた情報を次から次へと繰り出した。
 彼女は僕の過剰とも思える説明に嫌そうな顔も見せず、にこやかに笑って頷いていた。男性が喋っている時には反論せずに黙って聞くようにと言われて育ったのかもしれない。
 ふと、腕時計に目を落とすと午後二時を回っていた。喋ることに夢中だったが、さすがにお腹が減った。彼女もお腹が減っただろう。
「そばを食べませんか?深大寺そばって有名なんですよ。」
「ぜひ。一度、食べてみたかったんです。」
 目を輝かせて彼女が言った。
「二八そばもうまいですが、九割がお勧めです。」
 僕は食べたこともないのに、昨夜読んだブログでお勧めの九割そばを彼女に勧めてみた。
「じゃあ、それでお願いします。植物のこととか、おそばとかいろいろお詳しいんですね。」
 彼女が感心したように言った。
「いえ、それほどでもないです。」
 言いながら、気恥ずかしさを覚えた。
 おいしそうにもりそばを食べる彼女を前に、いくら嫌われるためとは言え、一方的に振り回しているようで、彼女に対して申し訳なさを感じていた。彼女とはまだ数時間しか一緒にいないが、それでも彼女の人柄の良さはよくわかる。鈴木の大本命の彼女がどんな女性かは知らないが、今、僕の目の前にいる女性が、滅多に出会うことのできない素晴らしい女性であることは疑いようがない。鈴木は大きな間違いを犯したのかもしれなかった。 
 スラックスのポケットに入れておいた携帯電話が振動している。無視していたが、何度も振動する。
「すみません。ちょっと急用みたいです。」
 僕は携帯電話を彼女に掲げてみせると席を外した。鈴木からだった。うまくいっているか、気になっているのだろう。
「ごめん。連絡しようと思ったんだけど、こっちもいろいろあって。今、どこにいる?」
「深大寺そばを食べてるよ。」
「そうだよな。せっかくそこまで行ったんだから、そばくらい食べないとな。今度、食事奢るよ。相手の都合が急に悪くなったらしくて。連絡が遅くなってすまん。」
 鈴木が謝った。
「都合が悪くなった?」
「ああ。それで今日はそっちに行けなくなったらしい。また、電話するよ。じゃあ。」
 それじゃあ、今、そばを食べている女性は誰なんだ?鈴木の相手じゃないのか?僕は携帯電話を握りしめたまま、しばらくの間、動けなかった。
「すみません。たいした用事じゃなかったみたいです。」 
 僕は席に戻ると、おずおずと言った。
「急用じゃなくてよかったですね。」
 笑顔で彼女が言った。
「ええ。」
 何か話さなくてはいけないと思うものの、言葉が続かない。
「亡くなった祖母からいつも言われていたんです。深大寺さんにお参りするといいことがあるよって。でも、なかなかお参りする機会がなくて。
今日が祖母の命日だったんです。祖母のお墓参りの帰りに深大寺さんまで脚を伸ばしたおかげで、いろいろ案内してもらって、祖母が好きだった深大寺そばまで食べることができました。ありがとうございました。」
 頭を下げて彼女が言った。
「こちらこそ。ご一緒できて楽しかったです。」
 気の利いた言葉のひとつでも言おうと思うのだが、焦れば焦るほど何も思い浮かばない。喉がすごく渇く。
「こうやってお会いできたのも、何かのご縁のような気がしますね。」
 僕の顔を覗き込むように、彼女が言った。
「ええ、僕もそう思います。赤い糸で繋がっているのかもしれませんね。」
 言って、顔が赤くなった。
「私もそう思います。また、お会いできますか?」
 にこやかに彼女が言った。
「ぜひ、お願いします。」
 クールに決めたかったが、声は完全に裏返っていた。

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白木 真澄(福岡県北九州市/56歳/男性/会社員)
『母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を登るたび いつも溜息をついた...』
さだまさしの"無縁坂"の歌詞である。
四十年も前の歌らしいが、母がよく歌っていたので、十四歳のわたしでも少し歌える。
 毎年母と行っていた深大寺のお祭りは調布駅から歩いて三十分。調布の駅からバスが出ていることを知った時は本当にびっくりした。
それからは、バスに乗りたいよと何度かせがんだが乗せてはもらえず、頑なに母はゆるい坂を登りたがった。
 中学に上がってからは友人と行くようになった。深大寺のほおずき市はこのあたりではデートスポットで、昨年はクラスの地味な女の子がテニス部のチャラっとした先輩と歩いているのを見かけ、大盛り上がりした。彼氏と浴衣でデートすることは女子中学生の憧れなのだ。
 そして今年のほおずき市。クラスのちょっといいなと思っていた男子に誘われ、一緒に行くことになった。
 母に髪を結ってもらっている時、久しぶりにその歌を聞いた。
「ほおずき市っていうと、この歌が出てくるのよね...」

 娘には黙っておこう。十七歳の夏、待ち合わせの南門には二十分も前についてしまっていた。
一年生の時から片思いをしていたクラスメイトからほおずき市に誘われたのだ。
背が高くひょろりとした体型の彼は、どこにいてもとても目立った。ハンサムというわけではないが子どものような透明な瞳と無邪気な笑顔に惹かれていた。
ホームルーム中、隣の席でうつらうつらしていた彼に、翌日ある美術の持ち物を書いて渡したのがきっかけだ。
「ありがとう。お礼に日曜日にかき氷でもおごるよ」と言われた時はピンとこなかったのだが、ほおずき市に誘われているということに気づくのにあまり時間はかからなかった。
「ほおずきの花言葉は"私を誘って"なんだよ」
親友の由子は物知りだ。先週おそろいで買ったメモ帳をほおずき柄にしたのは、花言葉の効果があったのかもしれない。
由子に報告し、不思議な力に大騒ぎしたのが二日前だった。
参道は溢れるくらいの人だし見つけてもらえるかな...と思っている所に、バス停から由子がやってきた。そういえば彼女も今日は大学生の彼氏とデートだと言っていた。
「あれ、今日北門で待ち合わせって言ってなかったっけ」
約束した時パニック状態だったからそんな気もする。
「空いてるし見つけやすいよねって言ってたじゃん」
「そうかも。今から行こうかな」
「わたし彼氏と北門で待ち合わせだから、マコトくんに南門に行けって言っとくよ」
 今思うと由子と一緒に北門まで行っていれば良かったのだが、その時のわたしは少しでも足を休めたくベンチで座ることを選んだ。
頑張って浴衣を着てきたのだが、慣れない下駄に足はもう限界だった。
 そしてマコトくんと会うことなく、ほおずき市は終わった。
 翌日由子に電話したところ、マコトくんには会えなかった、とのこと。彼氏としばらく待っていたけど来なかった。南門できっと恵子に会えたんだ、と思ってた、と。
 交際が始まるのかな、始まったらいいな...という初期も初期の段階だったのでマコトくんの家に電話することもできず彼からも電話がなかった。
 由子も「結局マコトくんっていい加減なヤツだったってことだね。付き合う前でよかったよ」と言っていたし、なんとなく不本意な形でわたしの初恋は始まる前に終わってしまった。
 由子とマコトくんが付き合っていると知ったのは冬休みに入るころだった。
「黙っててごめんね。恵子がマコトくんの事好きだって知ってたから言えなかったんだ。」
そうか。マコトくんも由子のことが好きだったんだ。だから由子に近づくために、あの日わたしのこと誘ったんだ。
「何とも思ってないよ」
 家に帰って少し泣いたけど、親友の新しい恋を応援しようと誓った。
 その後わたしは地方の大学に合格したため実家を離れることになった。それなりに彼氏もでき充実した毎日を送っていたが、たまに入る情報に由子やマコトくんが入っていると心は穏やかとはいかなかった。
五年ぶりに帰省し、変わらない調布駅前に降り立つと見たことのある猫背の男性を見つけた。マコトくんだった。
頭の中で整理する間もなく声をかけてしまった。「マコトくん!」
彼は瞬きをし、三秒くらいたった後「あ」と言い近づいてきた。
「由子元気?」
「今妊娠六か月。暑くて大変そうだよ」
できちゃった結婚したと噂で知っていたけど、本人の口からきくとやっぱりちょっと堪える。
「お茶でもどう?」
自分でも驚くくらい自然に喫茶店に誘った。
大学時代の話し、不況で物が売れないという話し、同級生が外人と結婚した話し...。地元にいない間に起こったことを、一生懸命教えてくれるマコトくんを、わたしはずっと頷いて見ていた。高校の時は正面から見ることもできなかったのに、喫茶店でお喋りするなんてやっぱり大人になったんだなと思う。
話しが落ち着いた頃、ちょっと意地悪な気持ちになり言ってみた。
「わたし、少しマコトくんの事好きだったんだよ。」
「俺もだよ」
笑ってしまった。社交辞令だとしても嬉しい。さすが営業職だ。
「ねぇ、聞きたかったことがあるんだけど」
ずっと引っかかっていたあの日の事。
「「どうして来てくれなかったの?」」
二人同時に同じ言葉が出た。そして同時にびっくりした。
「わたしずっと南門で待ってたんだよ」
「俺はずっと北門で待ってたんだよ」
「由子は北門でマコトくん見かけなかったって言ってたよ」
「え?俺由子に北門で待ってろって言われたけど」
「由子は彼氏と一緒だったでしょ」
「いや...ずっと一人だった。」
「え...」
「一時間くらいたったころ由子がやってきて、もう恵子帰っちゃったみたいだから一緒に帰ろうって...」
そういうことか。由子もずっとマコトくんが好きだったんだ。わたしがマコトくんに誘われたのが悔しかったんだ。それであの日二人が会わないようにする嘘を?
 驚きと混乱で鞄を落としてしまった。
中から、あの日のほおずき柄のメモ帳が飛び出していた。
「そうそう、思い出した。由子に北門に行けって言われたんだけど面倒くさくて帰っちゃったんだ。ごめんね。それはそうと...」とその後はお腹の子の話しや、新婚旅行の話しを聞き話題をそらした。聞きたくもない話しだったし、マコトくんも話したそうではなかったけど、目の前のコーヒーを飲み終わるまで会話を続ける必要があった。
「今日は久しぶりに会えて嬉しかった。由子によろしくね」
そう言い残し足早に店を出た。
もう会うことはないだろう。由子にもマコトくんにも。マコトくんはわたしのこと好きだったんだ...。でも縁がなかったんだ、ただそれだけだ。
足はゆるい坂の向こうの深大寺に向かっていた。自然にあの歌を口ずさんでしまう。
「運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど...」 
ほおずきの花言葉は"私を誘って"だと由子が教えてくれた。
でももう一つ意味があるんだよね。
「そういう事って確かにあると あなたを見てて そう思う」
 由子、わたしも今日マコトくんに使ったよ。"いつわり"

 急に黙ってしまった母を鏡越しに見つめる。
それに気づいた母は、ふぅ、と少しだけ息を吐き、作り笑顔で仕上げの髪留めを差した。
「ねぇ、一番小さいほおずきでいいから買ってきてくれない?」
「いいけど突然なんで?」
「ほおずきの花言葉って知ってる?"私を誘って"って言うのよ」
「誰に誘われたいのよー」
「パパに決まっているでしょ。近いうちにデートに誘ってもらおうと思って」
「ハイハイ、仲いいわね。行ってきまーす」
母は若い頃にほおずきを誰かに渡したんだろうか。そして誰かに誘われたんだろうか。
ほおずき市と無縁坂がわたしには繋がらないけど何か思い出があるのだろう。でもきっとその昔があって今幸せなんだろうな。きつい草履を履き、ドアを開けた。

彼とはちゃんと会えるだろうか。浴衣を誉めてくれるだろうか。バス停まで歩く途中、つい口ずさんでしまう。
「しのぶ しのばず...」
いけないいけない。わたしは彼と縁がありますように。

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大野 晶子(神奈川県川崎市/47歳/女性/パート)

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