家を建てた。
 結婚して五年。夫は今年で三十三歳。定年までにローンを返済することが今後の課題だ。
 三歳になる息子は、先月完成したばかりの新居にまだ馴染めないようで、ずっと夫か私のそばについてまわっている。
 幸せだ。心からそう思う。
 新居にあわせて購入した棚が今日到着した。
 白い壁によくあう木目の美しい棚に、私は写真をたてかけた。
 写真の中では、白無垢姿の私と和装の夫が並んでいる。
 これは五年前、深大寺で挙式をした時の写真だ。
「きよ香。今更だけど、君は本当にそれでよかったのか?」
 夫が唐突に、背後からそう声をかけてきた。
 振り向きつつ、一瞬なんのことかと首を傾げて、私は「ああ」と頷いた。
 夫の視線は写真に注がれている。
 私は、チャペルで挙式をするのが夢だった。
 真っ白のウェディングドレスをきてバージンロードを歩くことに憧れていた。
 当時、挙式会場の候補は三つまで絞っていて、最有力候補は海沿いのチャペルだったのだ。
 結婚式に夢をはせ、胸をふくらませる様子を間近でみていた夫は、いまだに私が突然深大寺で挙式をあげたいと言い出したことを疑問に思っているのだ。
 私は写真をまじまじとみつめ、微笑んだ。
「良かったの」
***
 一八歳の時、私は第一志望の大学に落ちた。
 結果、滑り止めに受けた大学に通うことになった。
 通う大学から志望する企業への就職は困難で、周りに流されるように教員免許を取り、運良く地元の小学校に就職できた。
 けれど教員という職業は私にあわず、四年目で退職した。
 退職したのは、いわゆる就職氷河期と言われる時だった。
 事務員を目指したが、未経験の自分を正社員で雇ってくれる会社は地元になく、派遣社員を選んだ。
 そのとき同期で入ったのが、沙織という女性だった。
 私は二年そこに勤めたが、沙織は一ヶ月で辞めた。
 彼女とは気があって、退職後も何度か飲みにいった。
 ある日、沙織がいい店を見つけたと連れて行ってくれたバー。私ひとりでは到底入れないようなお洒落なそのお店に敦がいた。
***
 敦は東京の人だった。
 長期休暇で一人旅に出ており、宿の近くでたまたま見つけた店に、ふらりと立ち寄ったのだという。
 敦とはすぐに意気投合し、新幹線で二時間の距離に多少迷いつつも、恋人になった。そして一年後、プロポーズされた。応えることに迷いはなかった。
 特別ロマンチックな出会いではないし、エピソードもない。
 けれど、私の人生のどこが欠けても敦には出会えなかった。
 だから私は、これを運命だと思った。
 結婚したら、私が東京に行くことは決まっていた。
 その覚悟というわけではないけれど、挙式も披露宴も東京でしようと決めた。
 私が親しい友人を招くのに対し、彼は会社関係者が多かったのも理由の一つだ。
 挙式会場の下見を兼ねてデートしていたある日、敦が急に深大寺によりたいと言い出した。
 「今の時期紅葉がとても綺麗で、おいしいお蕎麦さんもあるんだ」
 そういう彼に連れられてきた深大寺は、確かにとても綺麗な場所だった。
 参道沿いに立ちならぶ蕎麦屋の暖簾が風になびく。鼻をくすぐる香ばしいかおりはおやきだろうか。時おり顔に落ちる影に上を向けば、見事に色づいた紅葉が青空を覆う。
 お蕎麦の前にまずはお参りをしようという敦に従い、私たちは本堂を目指した。
「深大寺には、恋物語が残っていてね。縁結びの所以があるらしいよ」
 参拝の道中、敦がそんな話を私を聞かせた。
 空腹をこらえて参道を進んでいた私は、話半分に頷く。そして気を紛らわせようと、適当な質問を返した。
「ねえ、『縁』って何だと思う?」
「......いきなり難しい質問をするね」
「別に、そんな真剣に考えないでよ」
 私の言葉を聞いてか聞かずか、敦は「うーん」と考えこんだ。
「そうだな......。今日はまだ知らない、誰かがいる明日をつくる力、かなあ」
「明日?」
「そう。名前も顔も知らなかった君が、ぼくの未来に立っている。そういう大切な......かけがえのない誰かがいる明日を作る力」
 それを縁と呼ぶんじゃないかな?
 そう続けた敦の言葉が、すとんと、私の胸に落ちた。
 私が運命だと感じた力。それを『縁』と呼ぶのか。
 深大寺に残る昔語りのようなドラマチックな話は私たちにはないけれど、私と敦も不思議な『縁結び』の力でここにいるのではないか。
「実は昔からここには家族でよくお参りにきててさ。深大寺の縁結びの力で君に出会えたんじゃないかって勝手に信じてて。それでお礼を言いたいのもあって、今日はここに誘ったんだよな」
 照れたように敦がいう。
「私も......」
「うん?」
「私も感謝したい」
「うん。ちゃんとお参りしよう」 
 私の言葉に、優しく敦が笑う。
 そのとき感じた不思議な感覚を、どう表現すればよいのだろう。
 もう一度この人生をやりなおしても、ここにくればまた敦と出会えるんじゃないか。
 縁を結ぶこの場所は、敦がいる明日をひらく門(かど)なのだ。
 そう考えたとき、私は自然と、深大寺で挙式をしたいと思っていた。
***
「だって君は、ウェディングドレスを着てバージンロードを歩くのが夢だって言ってたし。ぼくが深大寺で縁を結んでもらったって話をしたから気を使ったんじゃないかって思って......」
 ずっと気にしていたのだろうか。
 ぽつぽつと語る敦に、私はそっとほほ笑んだ。
「深大寺でよかったの。今も、そう思ってる」
 だって、と静かに言葉を続ける。
「私、本当に幸せなんだもの」
 海の見えるチャペルも、ウエディングドレスで歩くバージンロードも素敵だけど。
 私は大切な『誰か』へ続く参道を、あなたと歩きたかったのだから。

石川 恭子(愛知県)
 ラッキーカラーは赤というから交差点で赤信号を待って渡った。行き先を決めずに信号の赴くままに進むのが私の流儀なので、今日はその逆をやってみているということになるのだろう。
 外を走るのはやっぱり気分がいい。第一歩を踏み出した時の高揚感。私はこのまま何処にでも行けるのだと思うと、何でも出来そうな気がしてくる。信号だけが私の道先案内人。今日は何処へ連れて行ってくれるのだろう。
 いつもはノンストップで走り抜ける信号で立ち止まると、普段は見えなかった景色が見えてくる。買い物籠を持ったお婆ちゃんに、自転車に乗った学生さん。ベビーカーを押すお母さんに、日傘を差した女性。普段交わらない色んな人達が混ざり合う交差点。私はどんな風に見えているのだろう。まだダイエットのために走っている人に見えるのだろうか? 赤いランニングウェアは持ってなかったけど、靴は赤を選んだ。赤が映えるように上下は白系。そこまで派手ではないと思う。
 青梅街道には入らずに、千川上水の脇を走ることにした。道を挟んで中央に緑があって楽しい。吉祥寺通りで赤信号に止められたから、今日はそのまま直進。三鷹通りは青信号だったから、赤信号を待って左折した。いつもとは違う何処かへと向かって行く期待感に、何かが起こりそうな気がした。

 そもそも、私はこんな風に走ったりするような人間ではなかった。それどころか、小柄な癖に小太りな体型をしていた。自分に自信もなかったから、なんとなく眼鏡を掛けていた。そんな私にも、憧れの上司が居た。その人は別に人目を惹く容姿をしている訳でもないし、そんなに若くもないのだけど、私に声を掛けてくれた。なんとなく会話ができた。
ある日、行きつけの占いサイトで、その人との相性を占った。結果は微妙だった。名前を平仮名にしたり片仮名にしたり、空白を開けてみたりしたけど、良い結果は出ない。何気なく、その人の名前でインターネットを検索していた。変わった名前だったし、何も出て来ないだろうと思った。以前、自分の名前を入れても何もヒットしなかったからだ。ところが、検索結果八十四件。それも、ほとんど全て、マラソン大会のサイトだった。え、嘘、と思った。こう言ってはなんだけど、とてもマラソンなんて出来るような人には見えなかったから。きっと同年代の同姓同名の別人だろうと思った。それでも尋ねていた。
「あの、部長って四十一才でしたっけ?」
「ああそうだよ」
 そんなストレート過ぎる質問に、部長はあっさりと答えてくれた。
サイトに載っていた年齢とぴったり同じだ。マラソンをやっているのか直接聞けばいいのに、何故か言えなかった。
会社の飲み会の席で、たまたま部長の隣になった。
「勿体ないな」
 部長は酔っていた。
「何がですか?」
 ビールを二杯飲んだだけだったけど、確実に酔っていた。
「絶対見栄えするのにと思って」
「え?」
 不意に、居酒屋の喧噪が聞こえなくなった。私の耳には部長の声しか届かない。部長、何の冗談ですか? ビールたったの二杯ですよね? そういう私はビールを一杯飲んだだけだったけど、耳朶まで真っ赤だったと思う。
「君もランニングを初めてみないか?」
言われたことを反芻してみる。私は別に酔っていなかったから、部長が何を言っているのか分かった。
 翌日、さっそくスポーツ用具店に買い物に出かけた。靴とランニングウェアとパンツを買った。どう走ったらいいかも分からなかったので、ランニング雑誌も買った。その日の夜から走った。夜なら誰にも見られなくて済むと思ったからだ。十五分も走らないうちに、動悸が激しくなり、息が乱れ、苦しくなった。帰りは歩いて帰った。もうやめようと思った。でも、翌日の夜も、同じように走っていた。今度は時間を計って、昨日走った十五分の半分、八分で行けるところまで行って、引き返した。家に戻ると、玄関に倒れ込んだ。そんな風に、毎日走り続けた。
我ながらよく続いたと思う。これまで何かの努力なんてしたこともなかったし、一生そういうのとは無縁だろうと思っていた。
気がつけば、体重は十五キロも減っていた。それだけ減ると自分でも分かる。見た目もさることながら、日常の何気ない所作にまで影響が出る。引っ込み思案な性格は相変わらずだったけれど、何かを頼まれれば、きびきびとした動きで対応することが出来た。
「スリムになったよな」「腰が軽くなった」「恋人でも出来た?」
 主に男性社員の評判が良かった。女性社員からは特に何もなかったけれど、正直どうでも良かった。でも、肝心の部長はもう長いこと出張に出ていた。思えば、部長が戻ってきたらびっくりさせよう。そう思って、この数ヶ月頑張ってこられたのだと思う。
 部長が出張から戻ってきた。私は部長と外回りの仕事に出ることになった。
「ちょっと寄って良い?」
 と部長が言うので、何が良いのかよく分からなかったけど、私は、いいですよと言った。
 そこは大きな木のたくさんあるお寺だった。なんというか東京にこんな場所があるのかと驚いた。木に遮られ夏の日差しが柔らかく、蝉の声が聞こえた。人がちらほら居たけど、私の心臓は高鳴っていた。どうして部長はこんなところに寄ったのだろう。今の私を見てどう思ったのだろう。そんなことを気にしながら。本殿へと向かった。賽銭箱にお金を入れ、部長は手を合わせた。私もそれに倣った。
「行こうか」
 部長は笑った。その額には汗が滲んでいた。
 参道を歩く間、私達の間に会話はなかった。友達でも恋人でもなく、会社同士の付き合いなのだから、会話がなくても不自然ではない。それだけに、悲しかった。
「何でもね」
 と部長は言った。
「え?」
「ここって恋愛祈願の寺としても有名らしいんだよ」
「そうだったんですか?」
 部長の言葉の真意を探ろうとする。
「ついでに寄ってみたんだ。悪かったね」
「いえ」
 と答え、私は消えてしまいたいくらいの失意を覚えた。悪かったね、という言葉を脳内で反芻しながら、どうして、部長の隣に居るのだろうと思った。
「それにしても君、見違えたよ。うん、悪くないよ」
 そう言われ、何故だか涙が出てきた。
 その後すぐに、部長は結婚した。

 三鷹駅を通り抜け、私は更に南下していた。今まで来たこともない道だった。既に何処を走っているのか、分からなくなっていたけれど、信号に導かれるままに走った。太陽は高く、とても眩しかった。
高い木が見えてきた。成蹊大学の辺りかとも思ったけれど、もう三鷹駅を通り過ぎている。刹那、心臓がとくんと脈打った。予感めいたものを覚えながら、小学校の横道を抜けて最後の信号を渡った。そこは大きな公園だった。私は立ち止まり、周囲に視線を巡らせると、道案内の看板を見つけた。
"深大寺"
道案内の矢印に従って進むと、すぐに参道が表れた。高い木に、蝉の声。私はその道をゆっくりと歩く。そうあの時と同じように。
ふと、私の脳裏に一年前の光景がまざまざと蘇る。ほろ苦いだけだった夏の思い出。そうか、部長と訪れたのは深大寺だったのか。蝉の声に導かれながら、私は本殿に向かった。
そこは一年前と全く変わりはなかった。変わってしまったことと言えば、部長は結婚し、私はランニングウェアに身を包み、一人でやって来ているということ。私は賽銭箱の方には近寄りもせず、手足を伸ばしながら、場違いな空気を纏わせていた。ふとその時、階段の向こうから赤いランニングウェアを着たランナーが本殿に登ってきた。部長、と思ったけれど、違った。珍しい女性ランナーだ。その人は本殿に着くと、私と同じようにストレッチをしだした。おそらく、ここを一応のゴール、折り返し地点と定めて来たのだろう。女性ランナーは私に気がつくと軽く会釈してきた。ランナー同士の軽いコミュニケーションだった。私は会釈を返しながら、その時には既に、その女性に何かを感じた。
今日のラッキーカラーは赤。
 まさか、と思った。それとも、そうか、と思ったのかも知れない。兎も角、今日のラッキーカラーは赤。青信号を気の向くままに進むのが私の流儀だとするなら、今日はいつもとは逆の赤。私は赤いランニングウェアを着た女性の前まで進むと、赤信号を待つときのように立ち止まった。女性は私を見上げると、明るい笑顔で言った。
「今日は」
 汗が輝き、顔が紅潮している。真っ赤な頬。ラッキーカラーの赤。若く可愛らしい女性だ。
「今日は」
 と私は返した。その時には、互いに互いの運命を感じていたような気がする。
 一年後、私たちは結婚した。恋愛祈願で有名と聞かされたこの場所で、一度は恋に破れた。そして、同じ場所で、私のような者でも普通の女性と結ばれることができた。
 ここには何かあると思う。

九頭院 毬枝(東京都練馬区)
小さい頃から梅干が好きだった。佐伯正春は母が送ってくれた梅干を一粒しゃぶった。酸っぱいけどほんのり甘い。佐伯家秘伝のこの味を父亡きあと母はずっと一人で守ってきた。
そうだ、室井にもあげよう。室井秀之は今夜決起する。両親の説得にほとほと疲れ果てたのだ。佐伯は彼が発つ前に会って激励したかった。我がことのように思えたからだ。
電話で必勝祈願に深大寺参詣を勧めると、神仏はかけおちを許すまいと室井はきっぱりと断った。縁結びの神様はその恋が許されるか許されないかなど一切気にしない。その恋が本物かどうかそれしか見ないものだ。佐伯は勝手な持論を尤(もっと)もらしく振りまくと室井は渋々承諾した。
梅雨空は変わりやすい。昼過ぎから突然豪雨となった。窓硝子にはパチンパチンと大きな雨粒が打ちつけられていた。白い稲妻が走り落雷のたびに板張りの床に地響きが伝わってきた。深大寺までバスか歩きか。貧乏なアルバイト生活にはバス代も響く。室井との約束は午後六時である。

雨が止んだのは午後五時過ぎだった。佐伯は着古したスーツを身にまとい、熨斗袋(のしぶくろ)には『餞別(せんべつ)』と書いてなけなしの一万円札を入れた。アパートを出ると雨で気温が一気に下がり肌寒さを感じた。上空の分厚い雲はどんどん流れていく。路面には所々に大きな水溜(みずたま)りができていた。
三軒隣りの民家の軒先に燕(つばめ)の巣がある。いつもなら大きな口を開けた愛らしい子燕が三羽いるのだが、その日は空っぽであった。佐伯が燕を捜していると玄関からエプロン姿のまま年配のご婦人が出てきた。
「今朝行ってしまったわよ」
「そうですか。行ってしまったんですか」
佐伯は深い溜息(ためいき)をついた。季節は知らないうちに移りゆくのだ。そのご婦人に一礼すると一路深大寺を目指した。
ちょっと待てよ。濡れた路面から薄っぺらな靴底を透し中底がじわじわと湿ってくる。靴下は肌にぴたりと貼り付いていた。ワゴンセールの靴はこんなものか。佐伯は納得した。

深大寺周辺は近年様変わりした。閑静な住宅街にマンションが次々と建っていく。それでも地元の特産品で賑わう【深大にぎわいの  里】辺りから深大寺にかけては都心では見られない緑多い田舎の風景が広がっている。
野川は荒れていた。雷雨の影響で水嵩(みずかさ)が増しいつもの清流は焦げ茶色の濁流(だくりゅう)となって河川敷まできていた。佐伯は橋の欄干からしばし時を忘れ川の流れに目を奪われた。約束を思い出し慌てたのが拙(まず)かった。右足の靴底がズルッとずれてしまった。剥(は)がれないように細心の注意を払ったが深大寺温泉横の急な上り坂では困難を極めた。追い立てられるように午後六時の鐘が聞こえてきた。

深大寺界隈は観光客で賑わう昼間の喧騒(けんそう)がまるで嘘のように静寂であった。日が長いのでまだ明るいのだが、蕎麦屋や土産物屋はこの時間にはほとんど閉まっているので参道には人影はなかった。湧き水の涼しげな音は歩いてきた疲れを癒(い)やしてくれた。
佐伯は石段を上がり山門を潜(くぐ)ると人気(ひとけ)のない境内をぐるりと一望した。五大尊池の傍(そば)に室井とその恋人中津川知子が見えた。寄り添う二人の背中には何処となく悲壮感が漂っていた。
「おお」
室井の第一声はいつもおおだ。
「もうお参りしたのか?」
「いや、まだだ」
「じゃ一緒にお参りしよう」
三人は本堂の前に並んで手を合わせた。佐伯は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、合わせた両手にぐいぐいと力を込めて二人の幸せを切に祈った。佐伯がこんなにも神仏に縋(すが)るのは実は人生で二度目である。

「今年も見れなかったなあ」
佐伯は残念そうに呟(つぶや)いた。ナンジャモンジャは木全体が雪化粧したような白い花を咲かせる。三人は一度も見たことがなかった。
佐伯は室井の手首を握ると『餞別』を手の平に無理やり掴(つか)ませた。
「受け取れないよ」
「僅(わず)かだ。共犯者になりたいんだ!」
佐伯の鋭い眼光(がんこう)の向こうにあるものは室井の想像以上であった。
室井の両親が結婚に反対なのは中津川がバツイチだからである。そんな古い考えが二十一世紀になった今でも存在している。人間の進歩は産業革命や技術革新のスピードに比べたらまだまだ遅いのかもしれない。そしてこの悪しき慣習を打ち破る一翼(いちよく)を担(にな)いたいと餞別にはそんな思いも込めた。

「実は今日・・・三島文子も呼んだんだ」
昔から室井は大事なことをニヤケながら言う癖があった。三島は佐伯のかつての恋人である。佐伯は不意打ちをくらったように動揺した。この七年筆舌に尽くし難い苦しみを味わってきたのだ。
「どうして?」
そのひと言を搾り出すのが精一杯であった。
「私が四人で会いたいと言ったの」
中津川は申し訳なさそうに俯(うつむ)いた。生暖かい風が佐伯の頬(ほお)をすり抜けた。静かだった木々たちがサラサラと枝を揺らし始めた。
佐伯は涙を見せまいと二人に背を向けた。懐かしさに押し潰されそうになった。彼女は今俺をどう思っているだろう。七年前何故彼女は来なかったのだろう。
「三島は来ないよ」
「え?来ない?」
振り返ると室井はまたニヤケてた。
「お子さんが熱を出して」
膨らんだ心の風船がパチンと弾けてしまった。気がつけば小石を拾って五大尊池に投げ込んでいた。緑色の水面(みなも)に波紋がふわっと広がると平和に泳いでいた鯉たちはびっくりして四方に散った。  
「ブンコ、今どうしてる?」
本名はフミコだが佐伯はそう呼んだ。室井は子供のようにもじもじして、中津川は意味なく髪を弄(いじ)りまくった、沈黙を破ったのは中津川だった。
「五年前に見合い結婚して・・・今は子供さんが一人いるみたい」
「見合い結婚?どうせあのくそ親父、あの赤鬼が勝手に決めたんだろ」
佐伯は興奮して砂利を蹴り上げ拳(こぶし)を何度も振った。
「違うわ。父親が末期ガンになってフミコのほうから見合いするって言ったそうよ」

十年前の就職氷河期。別々の大学を卒業した四人は不本意にもアルバイト生活を強(し)いられ、その職場で出会った。同じ境遇の四人は意気投合しすぐに仲良くなった。
やがて室井が就職、中津川が結婚して佐伯と三島は残された。お互い励まし合い愛が生まれたのは自然の流れであった。
「共稼ぎならアルバイトでも生活できる」
プロポーズらしくない言葉だが三島は受け入れた。安易だったかもしれない。夢が消えるように現実が浮き彫りになる。三島の父親は激高した。
「アルバイトの分際で結婚は許さん」
と佐伯を罵倒(ばとう)し頬を殴った。そして七年前のちょうど今頃二人はかけおちを決めた。
「明日六時に深大寺の山門で」
前日のこの電話が二人の最後の会話となった。運命の悪戯なのか。天罰なのか。佐伯は午後六時、三島は午前六時と解釈してしまった。二人はこうしてすれ違ったまま、それっきりになった。

三人は山門を出て石段をゆっくりと下りた。
夕闇に包まれた参道は三方向に分かれる。タクシー待たせているからと室井は左を指さし、
バスで帰るからと佐伯は正面を指さした。
そうだ、忘れるとこだ。佐伯は梅干の入った袋を室井に渡した。
「母が作ったものだ」
室井が袋を開けると周囲にぷーんと酸っぱい匂いが漂った。赤々としてしっとりとした一粒を室井は口に入れた。ゴロゴロと口内を踊らせる。
「うん?甘い」
室井は今日初めて満面の笑みになった。
「室井、絶対逃げ切れよ。頼むから逃げ切れよ。そうすれば・・・」
「そうすれば?」
「そうすれば俺は・・・」
佐伯は感極まって室井を抱きしめた。

室井と中津川が緑の中を消えていく。空は夕焼けで仄(ほの)かに赤かった。佐伯は役立たずの右靴を脱ぎ、バランスが悪いので左靴も脱いだ。そして靴下のまま石畳(いしだたみ)の上を歩いた。ひんやりした。足の裏が痛くなった。しかし不思議と平常心になれた。佐伯は誰もいないバス停のベンチに座ると、七年前に三島の父親に殴られた左頬をそっと触ってみた。もう痛むことはなかった。そして決心して母に電話した。
「腰の具合はどう?・・・そう・・・あんまり無理しないようにね。これからは俺も梅干作り手伝うよ。もう決めたんだ。いいよね?・・・」

蔵野 純助(東京都調布市/46歳/男性)
 朝7時。雨のしとしと降る早朝の深大寺で、マスクをして丸メガネをかけ、あたりを気にしながら、観光客を装う30代は私だけだ。
 この水原環、30年生きてきてこんなにスリリングな気持ちになったことはほぼない。急がなければ。この辺は8時近くになると通学の小学生たちがこの趣ある蕎麦屋が並ぶ界隈を抜けていく。ここで働いていた4ヶ月前にはまさかこんなことになろうとは思っていなかった。
 雨はいつしか霧雨となり、深大寺の新緑は白い空に照らされて黄緑色に変わっている。  ふと腕時計を見ると、もう7時20分。深沙堂へ急げ。小学生に見られてなるものか。大黒天を抜けて、少し早歩きになる。深沙堂が見えてきた。黄緑色がもっさりと乗っかったその堂は、立て札を見なければわからないほどあっさりしている。縁結びの神様というのはたいてい、お堂の周りにハートのモチーフだとかピンク色の旗だとか、丸文字で書かれた『縁結び』の看板とかついているものではないか。深大寺の深沙堂は「そんなもの興味ないもんね」といったようにたたずんでいる。私は堂の横に申し訳ばかりに立てられている絵馬用の看板に向かう。
 「鈴木くんと結婚して子どもが授かれますように」「木村くんとずっと一緒にいられますように」「片想いが終わって田中くんが私のことを好きになってくれますように」などと書かれた絵馬がちょうどよい程度にぶら下がっている。私は傘を開いたまま置いて、絵馬を探し始めた。3月に書いたあの絵馬を。
 「はい。それでは自己紹介させていただきます。水原環です。この『深大寺冬の花緑祭』のディレクターをさせていただきます。アルバイトのみなさん、会期中はよろしくお願いします」
 私はアルバイトの子たちを見渡した。みんな大学生といったところか。若いな。深大寺の魅力をアピールしようと行われることになった深大寺・冬の花緑祭の担当になったのはいいが、冬の深大寺で花とか緑とかどうしろと言うのだろう。企画の意図がよくわからないが、予算がおり、仕事がある。景気のいいことじゃないか。
「蒼井航平です。22歳です。普段はイラストレーターをしています。花や緑のことはよくわかりませんが、絵を描くことは好きです」
 蒼井航平と名乗った青年は色白でひょろりとしているが、イラストを描くだけあって色彩のセンスが良く、清潔感のある服装をしている。いい子かもしれない。
 私が人を見る目がほとほとない人間だということは、その後すぐにわかった。蒼井航平は基本的には真面目なのだが、目を離すとすぐに絵を描いてしまう。会場ではインカムという無線のようなものをつけて各自が持ち場についている。「〜さんとれますか?」と聞いて用件を話すことになっているのだが、「蒼井さん、とれますか?」と聞いて答えが返ってくる割合はだいたい50パーセント。何をしているのか、と見に行くと、だいたい絵を描いている。堂々とした樹を手前に構図をとって、お堂を奥に描いている。またあるときには、お客様の子どもさんと一緒に絵を描いていることもあった。そんなとき、ディレクターの私がお客様に謝罪をする役目なのだが、たいていお客様には「子どもも喜んでいるし、今日この花緑祭に来てよかった」と逆に誉められるのである。
「そんなに絵を描くのが好きなの?」
 私は蒼井航平に聞いた。
「好きっていうのは、どうかわかりませんよ。ただの暇つぶしなのかもしれない。僕の場合はそれが絵だったというだけで」
 蒼井航平はシシシ、と笑った。この子は賢いのか何なのかわからない。
 会場ではいろいろなハプニングがある。「危ない虫が出たので対応お願いします」だとか、「迷子がいます」とか、「花をむしっているお客様がいます」とか。そんなときにも私は飛んで行ってお客様に「お花は自然のままにしていただけませんか」と頼んだり、危ない虫とやらを自ら捕獲したり、大泣きする迷子をあやしたり、落とし物を探したり。
 そんなある日、蒼井からインカムが入った。
「水原さん、とれますか。蒼井です。歩きたばこのお客様がいらっしゃいます。お子さんも近くを歩いているのでご遠慮いただく予定です」
「蒼井さん、とれますか。対応ありがとうございます。私もそちらへ向かいます」
 現場へ向かうと、強面の男性の前で謝っている蒼井航平が見えた。
「お客様。ディレクターの水原です。大変申し訳ありませんがご協力いただけると嬉しいです」
 私は深々と頭を下げた。
「けっ、女に言われたくねえな」
 男性は吐き捨てるように言い、タバコの吸い殻を私に投げつけた。頭を下げたまましばらく震えが止まらなかった。
「女なんかに生まれなきゃよかった。もう女なんか絶滅したい」
 タバコの吸い殻を払いながら言う。
「僕は女性に絶滅してもらっては困ります。女性の描く絵が、世界が、好きです」
 蒼井航平は真面目にそう言った。私は黄緑色の背景に蒼井航平の紺色のカーディガンが反射しているのをただただ見ていた。
 深大寺の自然にはかなり癒され、毎日忙しいながらも全てがうまくいっていた。たった一つの問題を除いては。その問題の解決に乗り出したのは、大成功のうちに終わった深大寺花緑祭の後だった。私は蒼井航平にメールした。「重大な問題が発生したので、今すぐ解決したい」と。その数時間後、私と蒼井航平はチェーンのカフェに向かい合って座っていた。
「で、その問題というのは、、、」
 蒼井航平はお金がないらしく、コーヒーではなく水を飲んでいる。私は手元の水をぐいっと飲んで、言った。
「その、問題というのは、どうやら蒼井くんのことを、好きになってしまったらしくて」
 蒼井航平はコップを持ったまま固まった。
「困りますよね。私も困ります」
 私は、蒼井航平という人間のどこが気に入ったのかわからない、と続けた。
「はっきり言ってしまうと、その気持ちには応えられません」
 蒼井航平は文字通りはっきりと言った。
「そりゃそうですよね。おかしいですよね」
「歳の問題じゃありません。そんなことは関係ない。僕には好きな人がいます。その人のことが本当に好きです」
 「好きです」の響きのあまりの破壊力にその場に倒れ込みそうになった。そして、ふと我に返り、その4文字が私に向けられたものでないことを認識したときにはかなり重傷を負っていた。高校生か、私は。こんなときにも自分で自分にツッコミを入れられるようになったのは大人になったからだろうか。
「で、これ、どうしたらいいんでしょう」
 私は手を口元にあて考え込んでいる蒼井航平に聞いた。しばらくして蒼井航平は言った。
「やめましょう。会うのも連絡するのも」
 私は蒼井航平にふられた。その後も連絡を試みたが、全て無視された。優しい蒼井航平が希望を持たせないために敢えて私を無視しているであろうことも私の恋心を増大させた。傷心の私は毎日、ネットにアップされている蒼井航平の絵を見た。そして、気づいた。彼の絵にはいつも雪が降っていることに。深大寺花緑祭の会期中には雪は降らなかったはずだ。どうしていつも彼の絵には雪が降っているのか。彼のこれまでの絵を辿っているうちに一枚の絵に辿り着いた。「雪子」と題されたその絵には、赤いマフラーを巻いた女の子が描かれている。セーラー服を着たその女の子は肩までの茶色がかった柔らかそうな髪をマフラーに入れ、クロッキー帳を持っている。おそらく高校の同級生だろう。私は直感した。彼女だ、蒼井航平の憧れの君は。もう高校を卒業してから4年は経っているだろう。それなのに、今も雪降る風景を描き続けている蒼井航平はバカだ。本当にバカだ。
 そして、昨日、私は深大寺行きのバスに乗った。バス停に降り立つと、古びた蕎麦屋の提灯が見える。花緑祭が懐かしい。まずは、開山堂へ向かう。堂の中を覗き込み、満功上人様に語りかけた。「蒼井航平が早くイラストレーターとして名をあげられますように。カフェでコーヒーくらい飲めますように」。
 上人様は少し呆れた表情をしたが、「うむ」と言った。お願いします、と強く祈り、深沙堂へ向かう。手には縁結びの絵馬。まさか私がここに絵馬をくくりつけることになろうとは思わなかった。
 その昨日くくりつけた絵馬を今日早速、血眼になって探している。蒼井航平が昨日の深夜にTwitterで「5月ですね。新緑の季節になりました。今日、深大寺にクロッキーに行きます」とつぶやいているのを見てしまったからだ。まずい。非常にまずい。絵馬を見られては困る。取り外すことはできないが、後ろのほうに隠すことはできるだろう。それで始発に飛び乗り、今ここにいる。他人の願いが詰まった絵馬を触ってしまうのは申し訳ないが致し方ない。のっぴきならない事情があるのです、と言い訳をしながら自分の絵馬を探す。あった。
 「蒼井航平が雪子ちゃんと再会してうまくいきますように。水原環」
 その絵馬を奥のほうに隠してから、私は新しい絵馬を取り出して、油性のペンでキュッキュッと願い事を書き始めた。そして、その絵馬をさらに奥にくくりつけた。
 「蒼井航平のことを想うのが今日で最後になりますように。水原環」


有明 月子(東京都港区/33歳/女性/非常勤講師)
 最後の日は、絶対に泣くと思っていた。
沢山の思い出を吸い込んだ俺達の城。お互いの趣味がごちゃ混ぜになったインテリアも、お揃いで買ったお気に入りのカップも、全て消え去ってしまった。
 俺は、段ボールだらけの部屋を見回しながら、そこまで悲しくない自分に、少し驚いている。
「直美。終わったぞ」
 直美は、丹念に化粧をしていた。出る時間を決めても、予定通りに進んだ試しはない。「化粧のノリが良いか悪いかって、その日の肌の調子とか、気温とか、気分とかで色々変わるのよ。男にはわからないでしょうけど」
 そんな言い訳を毎回聞くのも面倒なので、俺はいつしか予定を立てるのを辞めた。男には分からない事を考えたって、どうにもならない。直美の用意が出来たら家を出る。そう決めれば良いだけの話だ。
「ごめんね。お待たせ」
 いつもより赤味が強いチークを付けた直美もまた、寂しそうには見えなかった。
「じゃ、行きましょうか」
「俺は最後に忘れ物がないかチェックしとくから、先出てろよ」
「はいはい」
 誰もいなくなった我が家を隅々まで見通す。記念に写真を撮っておこうかと思ったが、何の記念か分からなくなったのでやめにした。
 玄関を出ると、直美は携帯から目を離して俺を見た。
 冷たい風が吹き付ける。
「随分真剣に眺めてたわね」
「そりゃ、十年間もお世話になった家だし」
 十年......その分俺も直美も年を取った。遥か遠くの未来だと思っていた三十の大台は、もう四年前に突破している。
「寂しい?」
「いや。そうでもない」
「そう」
 直美が、俺の手を握った。
「じゃ、行こうか」
 お互いの手が冷たくて、手を握り合ってもちっとも暖かくならなかった。

 冬の深大寺は空いていた。
 寒い寒いと叫びながら、元気に走り回る子供を眺める。直美が体を震わせた。
「さっむ!」
 確かに、今日はとんでもなく寒い。
「......どうする?」
「どうするって、何よ?」
「この寒さじゃ、外で弁当食べるのは無理だろう。どっか店入ろう」
「え! 嫌よ。外で食べるの! その為にお弁当作って来たんだから」
良一「え~」
直美「今更弱気な事言わないでよ」
良一「......わかったよ」
 近くのベンチに腰を下ろして、俺達は弁当を食べ始めた。
傍を通るカップルが、興味深そうに俺達を盗み見る。物好きな夫婦だと思っているのだろう。
 震える手でおにぎりを頬張る。ふと横を見ると、直美の手も小刻みに震えていた。
 何だかバカらしくなって、俺は笑いが止まらなくなった。
「何?」
「いや、傍から見たら変な奴だよな。こんな真冬にわざわざ外でおにぎりって」
直美の顔にも、笑顔が浮かんだ。
「本当ね」
「あの時は春だったもんな」
「そうそう、深大寺がお蕎麦で有名だって知らなくて、私がお弁当作って来ちゃったんだよね。良一君は嫌がらずに食べてくれたけど、本当は呆れてたんでしょう」
「俺は嬉しかったよ。彼女の手作り弁当って、ずっと憧れてたんだ」
 あの頃も今も、直美の作る料理の味は変わらない。
 変わってしまったのは何だろう?

 久しぶりにチケットを買って、神代植物公園の中を歩いてみる事にした。近場で良いデートスポットを思いつかなかった俺は、直美をよく此処へ連れてきた。バラなんか全く興味がないのに。女性は全員花が好きなんだろうと思っていた時期が、俺にもあったのだ。
「ここは変わらないわ」
「あぁ。そうだな」
「冬でもバラって咲いてるのね」
「だなぁ」
「ほら、覚えてない? 亮一君、此処に来るの初めてだって言ってたのに、何処に自動販売機があるのか知ってて」
「あったなぁ。そんな事」
 下見をしていたのがばれて、物凄く恥ずかしい思いをした。
「馬鹿だよなぁ。俺」
「私は嬉しかったよ。一生懸命考えてくれたんだなぁって思ったから」 
「......」
 二人で歩いたバラ園。大温室。色々な思い出がフラッシュバックして、思わず口をつぐんだ。
 直美が不思議そうに俺を見る。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「もう帰る?」
「え?」
ずっと繋がれていた直美の手が、離れた。
「......どうしたんだよ。まだ来たばかりだろう」
「うん。でも、良一君あんまり楽しそうじゃないから」
 確信を付かれて、ドキンと心臓が脈打った。それは、終わりを告げる鐘の音のように聞こえた。
 タイムリミット。
「ごめんね。我がまま言って、寒い思いさせて」
 最後に謝らせてしまうなんて、自分が情けなくて腹が立つ。
「最後に、初デートをもう一度やり直したいなんて変なお願い、よく聞いてくれたね」
「お前の我がまま聞くのも、きっと最後なんだろうから。別にいいんだよ。気にすんな」
「ありがとう」
「......手」
 もう一度手を繋ぎたかった。だから、直美の方へ手を伸ばした。
直美は、手の平を下に向けた状態で、俺の方にすっと腕を伸ばした。
「......」
 そのポーズがどういう意味を持っているのか、知っている。
俺は、直美の薬指に指輪をはめるマネをし
た。
「誓った癖にね」
 直美がポツリと言った。
「ごめん......」
「別に良いよ。どっちが悪いってわけでもな
いしね。お互いの問題だよ。良一君だけが悪いんじゃない」
「あぁ」
 分かっている。どちらが悪いのでもない。
 一緒に暮らす意味がなくなってしまった。いや、意味がないと思ってしまった事が、問題だった。子供が出来なかった事、一緒に過ごせる時間を、俺が確保出来なかった事、口げんかが絶えなくなった事、お互いの存在が重荷になった事......。
 色んな要素が重なって、徐々に壊れてしまっただけだ。

いきなり直美が、俺のお腹を力を込めて殴った。
「痛っ」
 意味が分からず、お腹を押さえて前かがみになる。
「罰だ、罰」
「......何の罰だよ」
「神様に嘘をついちゃったからね」
「......そうですね」
 一生幸せにする。
 確かにそう誓ったはずだった。
「私にもちょうだい。罰を」
「は?」
「良一君にだけ罰が下るなんて可哀想だし。私も神様に誓ったからさ。だから、殴っていいよ」
「はぁ?」
「いいから殴って。そうしないと、私もすっきりしないの」
 直美は時々、ビックリするけじめのつけ方をする。この突拍子もない思いつきに、付き合った当初は随分ドギマギしたものだ。
「こんな公衆の面前で女を殴れるわけないだろう」
「じゃあ、陰に隠れるとか」
「DVにしか見えないだろう」
「でも......」
 不満そうな直美を見ていたら、急に愛しさがこみあげてきた。
 こんな変な女、この先一生出会う事はないだろう。
気が付いたら、俺は直美を抱き寄せていた。
「ちょっと」
 戸惑ったような声が耳元で聞こえたが、知らないふりをして、更に腕に力を込めた。

 終わってしまった後も、お互いが幸せになれれば良い。俺が与えられなかった時間を、いつか誰かと掴んでくれれば......。
 そんな事を、思いながら。

桐生あゆみ(東京都八王子市/25歳/女性/アルバイト)
おばあちゃんが、また、いなくなった。
「お母さん。おばあちゃんがいない......」
 おばあちゃんの部屋やトイレ、リビング。どこを探してもおばあちゃんは居なかった。
「え、また!?」母がキッチンから慌てて出てきた。「いつから!」
 私は首を振った。
「とにかく探しに行くよ」
 母と私はすぐに家を出た。むっとする熱気が身体を覆う。
「熱っ」
思わず声が出た。真夏日だとニュースで言っていたのを思い出した。
「私は駅のほう行ってみるから、あんた公園のほうお願い」
「分かった」
 母は右、私は左に向かった。
 最初のときは、公園で見つけた。二度目は駅の構内。今回で三度目になる。今度は一体どこに行ったのだろう。
 おばあちゃんがボケはじめてからしばらく経った。骨折して寝たきりになったのがいけなかったらしい。ボケは瞬く間に進行した。おばあちゃんは日に何度も朝刊を取りに行ったり、急にここはどこかと喚きだしたり、ひどいときは家族の名前すら忘れた。
 最近、街を徘徊するようになった。母は日に日にやつれていった。父は老人ホームに預けようかと提案した。私は預けるべきだと思った。でも母は可哀想だと断った
 公園に着いた。公園は入口から全体を一望できるほど小さい。人影はなかった。
 はずれ、だった。シャツは汗でびしょびしょになっていた。私はベンチに腰を下ろした。そうしていよいよ私は老人ホームのこと考え出した。
考えを巡らせていると、携帯が鳴った。液晶画面を確認すると、母からだった。
「もしもし」
「おばあちゃん見つかったわよ!」
「どこで」
「吉祥寺の交番」母は言った。「さっき連絡があったの」
「吉祥寺って......」
 おばあちゃんはどんどん徘徊範囲を広げている。次はどこまでいくのだろうと考えたら、ぞっとした。
「私迎えに行くよ。お母さんまだやることあるでしょ」
「え、でも」
「いいの。まかせて」
 私はおばあちゃんが保護されている交番の場所を聞いて、通話を切った。

「本当にすみません!」
 私は深々と警官に頭を下げた。
「いえいえ。怪我がなくてよかったですよ」
 優しそうな警官だった。
「本当にありがとうございました」
 私は重ねてお礼をいい、おばあちゃんに向き直った。
「帰ろう」
私はおばあちゃんの手を引いた。
「あぁそうそう」去り際に警官が言った。「おばあさん、深大寺に行きたかったらしいよ」
「深大寺、ですか」
 警官は頷いて、「よかったら連れて行ってあげてね」と言った。
 私は曖昧に頷いて、お辞儀をした。
「どうも、お世話様」とおばあちゃんもお辞儀をした。唇には赤い口紅が塗ってあった。
「おばあちゃん、その口紅どうしたの?」
 私がそう聞くと、おばあちゃんは、「あの人が待っとるきぃな」と笑った。

「本当によかった」母は心底安心したというように言った。「念のため、おばあちゃんのお財布に私の連絡先を入れておいて正解だったわ」
 おばあちゃんは家に着いた途端、すぐに眠りについた。今はリビングのソファで寝ている。
「迎えに行ってくれてありがとね」
 母はそう言って、よく冷えた麦茶をくれた。
「いいの。おかあさん大変そうだから」
「あなたは気を遣わなくていいのよ。私は平気だから」
 母は膝をついておばあちゃんの手を握った。おばあちゃんの顔を見るその顔は安堵と疲れのせいかいつもより老けて見えた。
「お母さん、あのね、やっぱりおばあちゃんは老人ホームに――」
「あら、いけない。お鍋が煮立ってる」
 そう言って母は、台所に戻ってしまって、結局言えなかった。
 私はソファによりかかって、目を閉じた。

 おばあちゃんの呻き声で目が覚めた。おばあちゃんはうわごとを言っている。
「し、シロウ、さん......」
ひどい汗だった。息も上がって苦しそうだ。
「え、なに、おばあちゃん。大丈夫」
 私はおばあちゃんを揺すってみるが苦しそうだった。
「薬、持ってくるから待てて!」
 私は二階に走った。おばあちゃんの部屋に薬があるはずだ。
 薬を探すのに手間取った。おばあちゃんは大丈夫だろうか。そう考えならリビングに戻ると、そこにおばあちゃんの姿はなかった。
「おばあちゃん!」家の中を探すがいない。まさかと思って玄関を見ると、おばあちゃんの靴がなくなっていた。
 私は慌てて、家を出た。おばあちゃんの後ろ姿が見えた。
「おばあちゃん、待って!」
 私は叫んだ。走っておばあちゃんを追った。そして羽交い絞めにするようにおばあちゃんを捕まえた。
「ねぇ、一体どこに行く気!」私は怒鳴った。
「やめんさい! 離しんさい!」
 しかし、おばあちゃんは今までにないようなすごい力で私の腕を振りほどいた。私は振り切られ、転倒した。
「おばあちゃん......」
 おばあちゃんは振り返らず、どこか朦朧とした足取りで歩いていく。
 一体どこへ行くの? あんなおばあちゃん初めてだった。記憶を失くしても向かうべき場所がわかるのだろうか。
 私はおばあちゃんがどこへ行くのか、確かめようと思った。

野川を超え、坂を上る。坂の中腹にある喫茶店を右に折れると、レンガ敷き風の石畳の道が現れる。緑がだんだんと深くなっていき、しばらくして深大寺が見えてきた。
おばあちゃんの足は深大寺に向かっていた。深大寺にいったい何があるのか。
雑木林のような駐輪場を抜けて、小径に入った。その道を沿うように小川が流れている。
境内が見える。石段をおばちゃんは登っていく。山門を超えて、神社が見えた。おばあちゃんの進むその先には、大きな樹があった。おばあちゃんはそこに向かっているようだった。
樹の下のベンチにはおじいさんが座っていた。いかにも高級そうなスーツに身を包み、帽子をかぶっている。しかし、よく見ると、足元は便所サンダルという奇妙な風貌だった。
(あれが、おばあちゃんを待ってる人?)
 ベンチにたどり着いたおばあちゃんは、そのおじいさんに言った。
「お隣、いいですか?」
 えぇ、もちろん、とおじいさんは笑った。しかし、なんの会話もないまま、しばらく経った。
 (なんだ、人違いか)私は落胆した。(そうだよね。待ってる人なんているわけないよね)
――おばあちゃんボケてるんだもん。
「またここにきてたんですか!」とすぐ後ろから声がした。「そんなおめかしなんてして!  もう、帰りますよ!」
 振り返ると、そこにはエプロン姿のおばさんが経っていた。
「やぁ、ツキコさん」と、おじいさんが手を挙げた。エプロンの胸元にネームプレートがかかっているが、名前は違う。 
「すまんのぅ。しかし待っとる人がおるんでなぁ。まだ帰れんよ」
「はいはい。それは何回も聞きましたよ」彼女はうんざりというように言った。「いつも待ってる人なんていないじゃないですか」
「おや、君、ひざを怪我しとるじゃないか」
 おじいさんは私に言った。ひざを見ると、確かに擦りむいた跡があり、血が滲んでいた。さっき転んだせいで怪我をしていたようだ。
「これを使いんさい」
 そう言って、おじいさんはポケットから白いハンカチを出した。
「いえ、そんな。これくらい大丈夫です」
「ええから、使いんさい。菌が入っと、あぶねぇからのう。ほれ、そこの水で洗ってな」
 おじいさんは神社のわきにある清めの水場を指した。
「すみません」
 私が頭を下げると、おじいさんは笑った。そして二人は境内を後にした。
 おじいさんに言われた通り、私は清めの水場で膝を洗い、汚れを落とした。思ったほど深くはない。これならこの綺麗なハンカチを使わずに済みそうだった。
 ハンカチを見ると、〈遠藤 士郎〉と名前が刺繍されていた。
 えんどう、しろう。
 私は、はっとして、おばあちゃんのいるベンチを振り返った。
 おばあちゃんは相変わらず、ニコニコと笑っていた。

武山 怜史(東京都調布市/23歳/男性/学生)
 月曜日なのに早起きをしなくていい、というのはだいぶ久しぶりだった。瑞希は布団からはい出ながら、大学に入ってからの四か月を思い返して溜め息をついた。
新しい環境に慣れるだけで終わってしまった四月、サークルの"新入生歓迎合宿"でゴールデンウィークが丸々つぶれた五月、ようやく落ち着いたと思ったら、新人戦の応援やらら高校の同窓会やらで結局ゆっくりできなかった六月、試験に追われて足早に過ぎ去ってしまった七月。
おとといの土曜日からやっと夏休みに入ったお陰で月曜から朝寝坊ができるのだが、高校までの間、大学生に対して抱いていたイメージとは何かが違う、と瑞希は思う。なんというか、大学生はもっと自由で自立しているものだと思っていた。確かに、実家暮らしで両親に生活の一切の面倒を見てもらっていては自立のしようもないかもしれないが。とはいっても、今日のように、父が出張、母が大学の同級会で、家を空けているときに家事をこなすことくらいはできるのだが。
自由、といえば確かに大学生になって自由になることは多くなったかもしれない。制服も校則もない、受けたくもないのに受けなければいけない授業もない。部活やサークルの選択肢も多い。けれど、何かが自由じゃない、と思う。
「なんなんだろう・・・・・・」
 Tシャツの袖に腕を通しながら瑞希は呟いた。丸襟から顔をだして、扇風機をつける。さっきまで扇風機なしでも寝ていたはずなのに、起きたとなると暑くてたまらない。枕元のうちわでパタパタとあおぎながら、瑞希はテレビのコンセントを入れた。リモコンを手に取ってチャンネルを回すと、涼しげな木立が映る。見覚えがある、と瑞希がテレビ画面をまじまじと見ると、右上に"調布市・深大寺"と表示が出た。確かに瑞希の家の近くだ。女性アナウンサーの声がそれに続く。
「旧暦で七夕にあたる今日、八月二日ですが、縁結びの寺としても知られるこちらの深大寺には参拝客が訪れています」
 七夕。最後に短冊に願いごとを書いて、笹に結びつけたのはいつのことだっただろう。たぶん小学校の低学年のころだろうと瑞希は思った。
 深大寺については、小学生のときに何度か家族でそばを食べに行ったのと、中学二年生の元日に友達みんなで除夜の鐘をつきに行った記憶はあるが、それ以来、ご無沙汰している。久しぶりに深大寺に行こう、と瑞希は唐突に思った。

 日焼け止めと虫除けを腕と脚にスプレーし、寝起きに着替えたTシャツと短パンのまま、瑞希は玄関のドアを開けた。自分の赤い自転車をだし、前かごにケータイと財布と玄関の鍵をいれたバッグを放り込む。サドルに腰掛けて、左足で地面を蹴った。浮いた右のペダルを踏みつけるようにしてこぎはじめる。最寄駅まで自転車で行って、そこから深大寺に行くバスに乗るつもりだった。
瑞希の家の前の道を左に曲がると、緩やかな下り坂になっている。ゆっくりとペダルをこぎながら、瑞希は頬にあたる風を感じた。もう十一時をまわっているから、爽快な風、とはいかないが、この感覚はだいぶ久しぶりだった。しゃれた洋服を着ることが多くなったので、大学生になってから通学に自転車を使っていないからだ。道にのびた木の陰の下を通りぬけて息をついた。家を出て十分もたたないが、照りつける日差しに、背中を汗がつたいはじめる。
 瑞希の家から最寄り駅までは近い。駅前の自転車置き場で自転車に鍵をかける。鍵をバッグの内ポケットに入れながら、瑞希は懐かしさが自分を襲うのを感じた。青いエナメルバックに第一ボタンを開けた学ランが目に浮かぶ。この場所で再会した、岸野を思い出したのだった。

 岸野は瑞希の中学の同級生だ。二年のときにクラスが一緒で、割とよく話していたが、高校が別で、卒業と同時に縁が切れた。中学校の同窓会は卒業のときのクラスごとに開かれるので、そのままもう会うこともないだろうと思っていたが、高三の六月にこの場所で再会したのだ。
髪を少し伸ばしていたが、ほとんど中学生のときと変わっていなかったため、瑞希はすぐに岸野に気がついた。自転車をとめながら声をかけるか迷ったが、出口のところで追いついたので、声をかけてみた。
「岸野、だよね?」
「お、戸田じゃん。久しぶり」
振り返った岸野は軽く片手をあげて笑った。戸田は瑞希の名字である。
駅から深大寺へのバスはバス停で待たされることもなくすぐに来た。乗り込むと、運転手さんのすぐ後ろの席に座る。周りよりも高くなっているこの席が瑞希は昔から好きだ。バスに揺られながら、岸野と話したことを思い出す。
何部に入っているのか、理系か文系か、中学の同級生がいまどうしているか。大抵は、そんな誰とでもできるような話だった。
 志望校の話が出たのは、夏休みが明けてすぐだった。通勤電車の中で、岸野が瑞希に尋ねた。
「戸田ってさ、もう志望校決まってる?」
瑞希は岸野が自分に志望校を尋ねた意図を察しかね、答えあぐねたあと、短く聞き返した。
「岸野は?」
岸野は虚を突かれたようだったが、とある地方の大学の名前を挙げた。
「私も」
瑞希は思わずそう呟いていた。岸野が瑞希に告げた大学は、瑞希の志望校でもあった。
「え?」
聞き返した岸野に、瑞希は言った。
「私も、あの大学、行きたいの」

 バスのアナウンスが深大寺が近づいてきたことを知らせる。瑞希はブザーを押した。次、停まります、と機械的な声がして、赤信号にバスが停止した。運転席越しに前方の様子をうかがうと渋滞気味で、深大寺のバス停に着くのはもう少し先になりそうだ、と瑞希は思った。
 岸野は元気にしているだろうか、と今でも毎日のように瑞希は思う。そして元気にしているだろう、と自分で勝手に答えをつける。三月に、岸野と瑞希の道は分かたれてしまった。岸野は志望校に受かり、瑞希は落ちたからだ。岸野は一人暮らしをはじめ、瑞希は実家から第二志望だった大学に通っている。第二志望といっても偏差値は第一志望よりも高いくらいで、親は瑞希に下宿をさせずに済んで嬉しがった。受験前に学校がなくなり、会わなくなってメールをするようになっていた岸野にも、そっちの方がすごいじゃん、といわれたが、そういう問題じゃない、と瑞希は思う。岸野には、そんなことないけど、でもありがとう、と返信してそれからメールしていない。大学生活の楽しそうな写真を見るのも気が向かず、岸野のフェイスブックにもアクセスしていなかった。

 バスが今度こそバス停に停まり、瑞希はバスのタラップから降りた。それと同時に、また蒸し暑さが襲ってくる。アスファルトの照り返しから逃げ込むように、境内に入った。木々のせいか、落ちついた雰囲気のせいか、だいぶ涼しく感じられる。
 瑞希は、ふと後ろに誰か佇んでいる気がして、振り返った。でも、そこには誰もいない。一緒に笑いあえる人は誰も。岸野はまだ帰京すらしていないだろう。いるわけがなかった。つきあっていたわけでもないのに、そんな風に思うのはおかしいけれど、七夕で巡り逢えるのはやっぱり伝説の中の織姫と彦星だけなのだ、と瑞希は思う。
 うつむいたまま本堂までゆっくりと歩いて、木のどっしりとしたお堂に手を合わせた。特に何を願うわけではないけれど、威容に自然と頭が下がる。ふと顔を上げると、隣にはおじいさんとおばあさんが脱いだ帽子を手に、参拝していていた。お堂にもう一礼して、踵を返す。
参道をひきかえしながら、瑞希は思う。今、何かが自由じゃない、と感じてしまうのは、楽しむことを強要されている気がするからかもしれない。部活も行事も楽しむのが当り前、自由にしていることを楽しむのが当り前。周りは皆、今が一番楽しい、みたいな顔をしている。
でもきっと、本当は楽しむのが当り前なのだ。受験も終わって、大学生にせっかくなれたのだから。瑞希自身が第一志望に行かれなかったことにこだわって、なんとなく醒めたような気持ちでいるから、楽しむことを強要されているように感じてしまうだけで。楽しくないわけではないのに。
 「そっか」
瑞希は呟いた。そして、そろそろ卒業しよう、と思った。落ちたことにこだわる自分からも、大学生活を満喫できない自分からも、岸野からも。忘れられなくても、思い出として胸にしまって、新しい恋もしよう。
受験が終わった二月から、もう半年も経ったのだ。あのとき塾の帰りに見上げた夜空の星々は、見えないけれど、今瑞希が見ている真昼の青空の中にあるはずだった。
また地球が太陽のまわりを半周めぐって冬が来たら、この青空にある星がもう一度夜空に輝くときがくる。頬を刺すような寒さに白い息をはきながら、綺麗な空が見たいと瑞希は思った。


竹村 沙世(東京都)
調布駅を降り、天神通りを進むと大寒桜が目に入った。暫く見ないうちに随分と立派に育った木は、すでに花を散らした後だった。子どもの頃に見た満開の桜の姿を頭に浮かべると、少しずつ昔の思い出や土地勘が蘇ってきた。何だか妙になつかしさが高まり成美はこのまま深大寺に立ち寄ることにした。
心地良い陽気に誘われてか深大寺は参拝客で賑わっていた。その傍らには多くの僧侶たちが色とりどりの僧衣を着てお経を唱えている。境内は花で着飾れ、艶やかな着物を着た女性の姿も多く見られた。長い距離を歩いたせいか、喉が渇いたところに都合よく参拝客にお茶がふるまわれていたので、列に並んで順番を待った。黄褐色をしたお茶は見ただけで、いつもの緑茶と違うことはすぐにわかった。一口飲んでみると、ほのかな甘みが口の中に広がり、乾いた喉を癒しながら体の中へしみ込んでいった。喉が渇いていたせいだろうか、一口目では感じなかったが、二口目を口にした時、懐かしい味であることに気がついた。
その時、僧侶の1人がこちらを窺っているのが見てとれた。すると僧侶はゆっくりと近づき、成美の前に立った。禿頭に恰幅の良いその僧侶に成美は見覚えはなかった。
「甘茶の味、懐かしかっただろ成美」
僧侶に名前を呼ばれても暫く誰だか思い出せなかったが、薄ら笑ったその目元を見て思い出した。
「もしかして拓哉」
「ああ。久しぶりだな」
「かれこれ15年振りかしら」
里崎成美はかつて小学生まで東町で暮らしていた。母は成美が6歳の時、不慮の事故で他界し、それ以来父が男手ひとつで成美を育てた。そして父の転勤に伴い二人は深大寺を離れ、大阪で暮らすこととなった。拓哉こと、大崎拓哉はかつて成美が深大寺に住んでいた頃の幼馴染である。
「暫く見ないうちに随分綺麗になったな」
「そんなに茶化さないでよ」
「別に茶化してなんかないよ。ところで今
日は、大阪からここにきたのかい」
「ううん。実は会社の転勤で上京したのよ。
この4月から下北沢に住んでるわ。何だか昔住んでいた深大寺が懐かしくなって足が向いてしまったの」
「そうだったのか。でもわかるよ。深大寺
は本当にいいところだからな」
成美と拓哉はそれから暫く、子どもの頃の思い出を一つひとつ掘り起しては、大切に噛みしめるように話を続けた。二人の会話は深大寺の澄みきった青い空の下、途切れることはなかった。
どのくらいの時間が経っただろうか。これまで夢中になって話していた成美の表情が、拓哉の一言でどことなく硬くなったように見えた。
「ところで渡真利さんにはもう会ったかい」
黙ったままの成美に拓哉は続けて話しかけた。
「ほら。和彦さんだよ。子どもの頃、よく
遊んでくれたじゃないか。俺たちのことを弟妹のように可愛がってくれてさ」
「和彦さんか。懐かしいな」
「訪ねてくるといいよ。武蔵境通り沿いで小さい蕎麦屋をやってるから」
「そうなんだ。ちょうどお腹もすいたことだし、いってみようかな」
拓哉と別れた成美は1人和彦のところへ向かった。黒漆喰の重厚な建物の店頭は、あいかわらずの混みようだ。その建物を右折し更に歩を進める。暫く深大寺を離れていたにもかかわらず、子どもの頃の記憶は案外と身体に刻み込まれているようで、ひとりでに足が動く。深大寺通りにさしかかると満開の桜並木が広がった。時折吹く風に揺られ、花びらがひとつまたひとつと宙を舞う。そのひとつが頬をかすめ、ゆっくり足元に落ちていく。成美は足を止め、今しがた落ちた花びらを見つめると、その視線を静かに上へと向けた。満開の桜のわずかな隙間をぬった光が通りの所々を射す。その光景を見て成美は暫く考え込むように動きを止めた。脳裏には幼き頃の思い出が少しずつ蘇っていた。
成美の父は大学教授という仕事柄、日々研究に追われ、拓哉の母もまた女手1つで生計を立てるため夜遅くまで働いた。家にいても1人ぼっちの2人は、ほぼ毎日のように会ってはいっしょに遊んだ。そんな2人に、近所の人もまた温かく接してくれた。渡真利友里もその1人だった。2人の親が安心して働けたのもたぶん彼女のおかげかもしれない。友里は成美と拓哉のことをまるで自分の子どものようにかわいがってくれた。そして友里の息子の和彦も本当の弟妹のように面倒をみてくれた。高校生だった和彦は勉強を教えてくれたり、色々なことで相談にのってくれるなど、2人にとっても実の兄以上に心強い存在となっていった。そんな和彦に成美は少しずつ恋心を抱くようになっていった。6年生にもなると思春期を迎える歳だから、けして不思議なことではないかもしれない。成美は和彦と話すだけで意識するようになっていた。鼓動が早くなり、身体が段々熱くなっていく。自分の気持ちをいい出すこともできず、それどころか感情と裏腹になぜか和彦とは距離をとってしまう自分がいた。でも和彦はそんなことを知ってか知らずか、以前と同じように成美にやさしく接してくれた。そんな和彦の態度が成美にとっては逆につらかった。いっそうのこと冷たく突き放してほしかった。どうにもならないことはわかっているのに、なぜか心の整理がつかず、気持ちの晴れない日が続いた。成美の父もいつもと違う娘の様子を見て、声をかけるが、男親には娘が恋心を抱いていることなど頭の片隅にもなかった。父といい争いになった。これまでに1度たりともそんなことはなかったが、父の言葉の1つひとつがなぜか癇に障った。気がつけば成美は家を飛び出し、夜の街を無我夢中で歩いていた。どこをどう歩いたのか、まったく覚えていなかったが、気がつくとひとり植物公園の自由広場にいた。大きな木の根元に腰掛け、膝を抱えて泣いた。夜空を見上げると、霞んだ先に金色の丸いお月さまが見えた。何だかこっちを見て励ましてくれているように感じた。
どのくらい時間が経っただろうか、ふと見上げると成美の前に人が立っていた。暗くてはっきりと見えなかったが、それが誰かはすぐにわかった。
「やっぱりここにいたね。お父さんが心配しているから帰ろう」
和彦がかけてくれた言葉はいつもと変わらないやさしいものだった。差しのべられた彼の手をしっかりと握り締め、2人家路に向かった。不思議なことに何のためらいもなく、素直な気持ちになれた。
緑溢れる武蔵境通りを歩いていると、いかにも蕎麦屋らしい建物が目にとまった。近くまでいくと入口の横はガラス張りとなっていて、中には多くのサンプルが展示してあった。鴨南蛮のサンプルを横目に、視線を上げると、蕎麦処「和田よし」の屋号が掲げられていた。一呼吸整えて、入口に立つと自動扉が静かに開いて、中からひんやりとした空気が漂ってきた。昼が過ぎたにもかかわらず、店内は結構混んでいる様子だった。2人いる店員の1人が案内にやってきた。近づいてくる途中で見覚えがあることに気づき、軽くおじぎをした。店員もおじぎをかえしてきたが、成美の顔を見て、半信半疑な様子でいたので成美の方から声をかけた。
「おばさま、ご無沙汰しております。以前お世話になった里崎成美です」
友里はすぐに思い出し、懐かしそうな顔で話しかけてくれた。
「久しぶりだね、成美ちゃん。元気で暮らしていたかい」
色々なことを心配して聴いてくれるのは、少しも変わっていなかった。友里の人の好さは昔のままだった。
鳥南蛮を注文して、出てきた蕎麦を口に運こぶと、和風出汁と蕎麦のかおりが鼻から抜けていった。これをつくったのが和彦だと思うと、何だかゆっくりと味わうように食べた。
蕎麦を食べ終える頃になると、店内の客も減ったため、友里が横に座って話をはじめた。その際に、もう一人の店員が和彦の嫁の遙香であることを聞いた。遙香のお腹は少し膨らんでいるように見えたが、あえて聞かなかった。和彦に嫁がいることは普通のこととはわかっていても少しだけブルーになった。自分は今さら何を期待しているのだろうと苦笑した。その時、厨房の中から懐かしい声がした。振り向いてその姿を見ると和彦がそこにいた。容姿はやはり昔のままとはいかないようだが、それは成美を見る和彦も同じことだと思った。
「成美ちゃん、別嬪さんになっちゃつて、すごく見違えちゃったね」
成美と和彦は昔を懐かしみながらたくさん話をした。そこには6年生だった成美ではなく、大人に成長した二人の会話があった。
「成美ちゃん、これからもいつでも遠慮なく寄っていってね」
「はい。そうさせていただきます」
成美は見送りに出てくれた家族に深く一礼して立ち去ろうとしたその刹那、和彦が声を発した。
「僕たちはずっと家族だから、成美ちゃんの幸せをいつも祈っているよ」
そこには、満面の笑みを湛えた和彦の姿があった。そう、成美が家を飛び出し、迎えに来てくれた時と同じ和彦の笑みがあった。おもわず涙が出てきて止まらなかった。でもとてもうれしかった。思い出の詰まった深大寺に帰れる場所ができたのだから。

石田 隆(愛知県清須市/48歳/男性/会社員)
吉井佳樹は相棒からヨシと呼ばれていたが、それは名字にちなんでなのか名前にちなんでなのか、はたまた、おあずけを解除する時の合図なのかは判然としない。
ヨシは来年の一月に成人式を迎えるが、生まれてこのかた女性と付き合ったことがなかった。ただし、相棒を勘定に入れなければの話だ。相棒の針谷まりやは、ヨシと同い年で家も隣だった。おまけに小中高はおろか大学も一緒で、地元の電通大に通っていた。
美人の幼馴染がいるってどんな気持ちかとサークル仲間に訊かれたことがあるが、ヨシに特別な感慨はない。幼馴染がどんなに美人だろうが、恋人として交際しているわけじゃない。現状では手すら握る機会がないのだ。
とは言え、高校生になったばかりの頃、ヨシは思い余って一度だけ、直球勝負で彼女に尋ねたことがある。
「ハリヤにとって俺って、なんなの?」
「商売道具ね」と針谷は即答した。
二人は昔からものを作るのが好きで将来一緒の設計事務所を持とうと約束していた。この約束は小学校時代からのものだったが未だにぶれず、だからこそ工学科に進学したという背景もあった。
「それだけ?ほかには?」ヨシは何か別の言葉を引き出したくて質問を重ねたが
「それで充分でしょ」と針谷はきっぱり言った。「例えばそうね、恋人を大事にするのは初めのうちだけかもしれないけど、商売道具はその商売をしてる限り大事にするでしょう。それってすごく良いと思わない?」
俺なら、ハリヤが彼女になってくれたら、ずっとずっと大事にするのに!ヨシは声を大にしてそう言いたかったが、実際には、せめて相棒くらいにしてくれないかと頼むのが精一杯だった。以来、ふたりの間柄は幼馴染から公式に『相棒』となった。特に何が変わったわけでもなかったが。
針谷はすらりとした長身で、端整な顔立ちをしていた。それにもまして美しいのは彼女の立ち姿だった。立ち居振る舞いもきびきびしていて、周囲の人々はその姿を見るだけで小気味良かった。一方ヨシは、身長は平均だが全体に丸っこくて、どんくさいように見える。顔も特徴がなく十人並みである。将来はげそうもないことだけが慰めだ。二人が並んで歩いていると、相棒というよりは「姫様とその従者」みたいに見えるんじゃないかと、ヨシは少なからず自虐的に考えている。まちがっても恋人同士とは思われないだろう。
ヨシのつまらない未来予想では、ある日針谷がナイスガイを自分の前に連れて来て言う。
『彼と付き合うことにしたけど、ヨシが仕事仲間だってことに変わりはないから、これからもよろしくね』と、にっこり笑いながら。
ヨシは相棒との間に決定的な隙間ができるであろうそのXディが、一日でも遅く来るよう祈りながら過ごしていた。
しかし、その日は意外な形でやって来た。十一月の最後の金曜日、午後の授業のない二人が、学食で遅いランチをとっていた時のことだった。珍しく早く食べ終わった針谷が、スマホの画面をみながら言った。
「ヨシ、わたし、一級建築士の資格とることにした」
「え?だって、うちの大学は施工管理技士の資格は取れるけど、建築士になれるコースは無いよ」
「本女の三年次編入試験に受かったの」  針谷は僕にスマホを向けながら
「今日の正午から合格発表だったんだけど。これ、わたしの受験番号」と合否確認サイトらしき画面の一点を指した。
「い、いつ編入試験なんて受けたんだ。なんで黙ってたの」
「試験は先週。黙ってたのはなんとなく。でもずっと考えてたことなの。わたし達の事務所には建築士も施工管理技士も必要だよ」
「建築士資格が必要な仕事は外注にしようって決めてたじゃないか」
「それはやっぱり現実的じゃないもの。建築士のいない設計事務所なんて。ヨシだって、ほんとはそう思ってたでしょう?」
「だけど......」
「わたし、編入手続きの準備があるから先に行くね」
針谷はさっさと二人分のランチトレーを一つにまとめて立ち上がった。ヨシがショックで動く事も出来ず、そのきびきびした背中をただ見送っていると、トレーを返却した針谷が戻ってきて、鬼太郎茶屋のシールのついたミニボトルを彼の前にコトリと置いた。
「二人で祝杯を上げようと思ってたんだけど、あげるわ。二十歳の誕生日、おめでとう」
「鬼太郎茶屋に酒なんか置いてあったか?」
ヨシはもう、いろいろ手一杯で、本当はもっと言わなくちゃならない大事なことがあるのにと焦りながら、どうでもいいようなことを口走っていた。
「鬼太郎茶屋で買ったのはシールだけよ」
そっちか!そっちなのか......ヨシが唖然としている間に今度こそ本当に針谷は立ち去ってしまい、ヨシはひとり、ミニボトルと共に残された。これまで針谷からの誕生日プレゼントと言えば、彼女が使い倒した玩具をくれるのが幼い頃からの通例になっていた。さすがに二十歳ともなれば酒なのか?
ヨシは去年もらった「ぼよよん銃」を思い出した。引き金を引くと紐のついたスポンジ玉が前方へ飛ぶ代物だ。紐を手繰って玉を再接続すればまた撃てる。銃にはもうひと工夫あって、発射した瞬間ボヨヨ~ンという間の抜けた音が鳴る仕組みになっていた。しかし、もらった時点ですでに、「ガリガリ」というノイズがかすかに聞こえるのみになっていた。針谷は銃を相当ぶっ放してきたらしく、センサーが壊れて反応しなくなっていたのだ。
今年は二十歳という節目だけあってどんな玩具をもらえるのか密かに楽しみにしていたのに。来年の春からは別々の大学、今年からもらえない玩具。針谷は何と言ったか。『先に行くね』そう言った。『二十歳の誕生日、おめでとう』とも。でも、いろいろと違うぞ、ハリヤ。第一、俺の誕生日は明日だ!
ヨシはミニボトルを勢いよく開けてぐいと飲み干し、空瓶をポケットにねじ込んで駆け出した。針谷を追いかけてのことではない。このまま座っていたら泣き出してしまいそうだったからだ。学食を出て大学の東門を出て三鷹通りを北上して走りに走った。もうメロスにでもなった気持で走った。ただしヨシメロスにはシラクスの町で待つセリヌンティウスはいない。先に行ってしまう相棒がいるばかりだ。一キロ半も走ると、さすがに息が上がってきた。二人が一緒に通った深大寺小学校の信号も見えてきた。あの信号を左に曲がれば蕎麦屋の連なる深大寺通りだ。深大寺の蕎麦屋にハズレはないが、ヨシは祖父の代から懇意にしている紅葉屋の前で走るのをやめた。紅葉屋の軒先には少し遅めだが、その名のとおり紅葉が今を盛りと色づいていた。その鮮やかさに一瞬はっとしながら、引き戸を開けて中に入った......までは覚えている。

「連絡ありがとうございます。商売道具を引取にきました」
遠くで針谷の声がするなと思ったら、その本人にゆり起こされた。
「ほら、起きて起きて。もう夜の七時よ!」
衝立に囲われた小上がりの隅でヨシは目覚めた。目の前にほっとしたような針谷の顔があった。ヨシと目が合うと彼女は微笑んだ。なんてきれいなんだろう、とヨシは改めて思った。おまけにとても優しい。
「未成年が酒なんか飲んじゃ駄目じゃない」
「酒をくれた本人がよく言うよ」
「まさか、あの七十ミリのミニボトルだけで酔いつぶれたんじゃないわよね?」
「一気に飲んですぐ全力疾走したんだ。『少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も速く走った』」
『走れメロス』の一節を引用したのがピンときた相棒は、バッグから全長二十糎ほどの小さなプラスティックハンマーを取り出し、「太宰か?」とツッコミながらヨシの頭を軽く打った。ピコっと軽快な音がした。
「誕生日イヴおめでとう。はい、これ、ほんとの誕生日プレゼント」
針谷はもう一度ヨシの頭にピコっとやってから、リボンのついたハンマーを彼に渡した。
 二人は紅葉屋の親父さんに丁寧に礼を言って店を出た。しばらく歩くとヨシが言った。
「親父さん、良い人だよね。でもなんでハリヤに連絡してくれたのかな」
「うち、あそこから出前とるから電話番号知ってたんだと思うけど」
「いや、俺んちの番号だって知ってるのに、なんで君の家に電話したかってことだよ」
「ハリヤハリヤって泣きながら連呼してたから、みかねたんですって」
 ヨシは真っ赤になってその後すぐ蒼ざめた。
「う、嘘だろ?ね、嘘だよね?」
「本当よ。本当に本気でわたしは、二人の事務所のことを考えているの。わたしは一生仕事をするつもりよ。何度も言ったけど、商売道具はその商売をしてる限り大事にし続けるものなの!わたしにとっては一生!一生商売道具を大切にするって言ってるのに!」
「質問の答えになってないけど、なんか今、すごく嬉しいこと言ってくれたんだよね」
ヨシは彼女の名を呼んで、そっと手を握った。彼女はすぐにその手を振り払った。
「まりやって呼ぶなって言ったでしょ!」
「なんで?君の名前じゃないか?」
「なれなれしいわ、商売道具のくせに」
「そりゃないだろ」
ヨシがしょんぼりしていると、くすりと笑って、針谷のほうから手を差し出した。
「手をつないでヨシ」
「わん」              


木村 光治子(千葉県佐倉市/46歳/女性/会社員)
武蔵野台地には金融機関の電算センターが点在している。東京に本社がある保険会社や銀行の多くが、地盤が安定した千葉県中央部や武蔵野台地一帯に電算センター用地を選んできたからである。万富銀行の電算センターも、調布市の住宅街の一角にある。敷地内に植えた桜などの樹木が大きく枝を張り、無窓で厳つい鉄筋の建物や監視カメラを目立たないようにしていた。
五月連休が明けた週の土曜日、万富銀行電算センターの通用口から城野香織と大川翔太が出てきた。二人は万富銀行のシステム子会社万銀システムに勤めるシステムエンジニアである。
金曜日にシステム故障が発生したことから、十数名のチームのリーダーとして、入社十年目の香織が修復作業を指揮した。翔太は、制御機能に強くフットワークもいいからと、違う部署から香織が無理矢理借りてきた応援要員である。修復作業は、メンバー全員の特性を引き出した香織の采配もあり、予定以上に順調に進み、土曜日の朝には終了した。最終チェックを済ませてチームを解散し、報告等の後処理を終えると、正午近くになっていた。
「応援ありがとう。おかげで、なんとか修復できたわ。」
「僕なんて何の役にも立っていませんよ。香織さんがビシッと決めていたので、ただ居るだけで終わりました。夜食に仕込んだおにぎりが好評だったのが唯一の貢献ですかね。」
翔太は、専門書が詰まった重そうなリュックを背負い、ノーネクタイのシャツの袖をまくり上げていた。謙遜しているが、修復個所のチェックは全て翔太が行なっていた。おまけに、入社三年目と一番の年下だったことから、コンビニへの買出しも担当した。翔太がいなければ、作業は日曜日まで続いていたはずである。寝不足の顔には満足感が滲んでいた。香織は、初夏に似合う青色のジャケットを着ていた。さすがに表情には疲労が浮かぶが、端正な目鼻立ちとともに爽やかな雰囲気を保っていた。
翔太は、歩き始めると大きく手を振り上げて深呼吸をした。快晴、桜の樹は新緑に覆われている。香織に笑顔を向け、深大寺で蕎麦を食べていかないかと提案した。
「三十時間近くセンターの中に閉じ込められていたせいもあるけど、五月晴れの空気がおいしいではないですか。このまま、帰るのはもったいないですよ。」
「そういえばお隣の神代植物公園ではバラが見頃だとか、京王線に吊広告が出ていたわ。」
翔太と一緒に仕事をする機会は多かったが、年下であり部署も異なることから、プライベートの場で話をしたことはなかった。徹夜明けで皮膚がベタベタしており、さっさと帰ってシャワーを浴びたいとも思ったが、全身の神経がささくれて真直ぐ帰りたくないとの気分も強かった。一瞬躊躇したが翔太の提案に乗ることにした。
縁結びの寺として有名な深大寺に二人連れで来たことに気付いたのは、バスを降りた時だった。思わず赤面したことを覚られないよう、急ぎ足で歩いた。深大寺本堂や元三大師堂の前を通り抜け、裏手にある古民家風の佇まいの蕎麦店に入った。
「食べる前にお参りをしておかなくてもよかったでしょうか。」翔太が訊ねた。
「今日は、お蕎麦が目的。徹夜明けの無精髭じゃ、大師様に失礼でしょう。」
香織の言い訳を信じたのか、髭はまずいですねと顎をさすり、盛蕎麦とビールを注文した。
「私は、日本酒がいいな。ご当地の地酒『野川』があったら、常温でお願いします。」
香織が日本酒を注文したことに、意外だといった表情をしたが、最近の若い女性の間でブームになっているという説明で納得した。
ご苦労様と翔太のグラスにビールを注ぎ、自分は手酌でとお猪口に日本酒を注いだ。再びご苦労様と杯を合せて一気に飲み干し、二人同時にああと声を出して破顔した。仕事以外で話すのは初めてだったが、週刊誌ネタで盛り上がった。翔太は平成生まれだと言うが、最近のアイドル情報に疎く、香織が知らないような往年の女優に詳しかった。
「『野川』というお酒は、それだけでもいけるけれど、本来は食中酒なの。蕎麦との相性が最高でしょ。」香織も負けじと日本酒の知識を披露した。ビールの中瓶が空くと、翔太も地酒「野川」を注文した。
「いい女がお猪口を傾けるところって、風情があって絵になりますよね。セピア色のフィルターを通して、昭和の映像を見ているような感じかなあ。レトロというか、ノスタルジーというか。」翔太が独り言のように呟いた。
お猪口を口に運ぼうとしていた香織の手が止まった。きっと睨みつけたが、翔太は何も気づかなかった。香織もすぐに表情を戻して話を続けた。
応援のお礼だからと香織が支払いを持ち、これから植物園に行くと告げた。お供をすると申し出る翔太に、早口で言い放った。
「レトロでセピアな昭和の大年増には一人が似合うそうなので、お供は要りません。」
突然の拒絶に呆然としている翔太を残し、逃げ込むように神代植物公園に入った。レトロとかセピアとかが、自分に向けられた言葉でないことは香織にも分っていた。翔太にとって、昭和は古き良き憧れの時代である。昭和生まれの香織にしても、昭和のことなど殆ど知らないが、翔太に線引をされた気がした。香織が昭和で、翔太が平成。どうということのないことだけれど翔太に意地悪を言ってみたくなった。徹夜明けのうえに「野川」が沁みた頭は何も考えることができず、言ってしまった。何となく、物語が始まる予感がした。
バラは広い庭園一面に咲き誇っていた。想像を超える見事さだった。徹夜明けのひどい顔で会うのは、バラに失礼かなとふと思った。それでも、バラの花の一つ一つを見てまわり、声を出さずに「バラが咲いた」を口ずさんだ。生まれる前に流行ったと聞く古い歌である。「バラが咲いた」以外の歌詞はうろ覚えだった。同じフレーズを何度も繰り返していると、次第に穏やかな気分になっていった。
即売所ではバラの花束が安かったので一束もらい、もう一度ばら園を見渡した。遠くに自分を探しているらしい翔太を見つけた。
翔太も香織を見つけたようで、全力で走ってきた。ゼエゼエと肩で息をしながら、途切れ途切れに話した。
「考えました。僕は香織さんに大変失礼なことを言いました。言っていたと分りました。本当に申し訳ありません。」やっとここまで言うと、ベンチに座り込んでしまった。
「済みません。走り回っていたら身体がふらふらしてきて。たいして飲んでないのですが。」真直ぐにばら園に来ずに、公園内を走り回ったのだろうか。かなり朦朧としている。
ミネラルウォーターを買ってきて、翔太の横に腰掛けた。
「はい、お水。」渡そうとしたが、翔太の身体は大きく横に振れた。押し戻したり、前のめりになるところを引き戻したりしているうちに、香織の膝の上に翔太の頭が乗って、そのまま動かなくなった。
香織の膝枕で翔太は寝息を立てていた。少々揺すっても起きる気配はない。仕方がないので、また「バラが咲いた」を声を出さずに唄った。今度は、幸せな気分になってきた。
ミネラルウォーターのボトルをハンカチでくるみ、翔太のおでこに当てようとした時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
翔太は、眼を閉じたまま携帯を取ると、ふぁいと応じた。暫くふぁい、ふぁいと返事をしていたが、眼を開けて、顔を覗き込んでいる香織に気がつくと跳ね起きた。
「済みません。いえ、こちらの事です。済みません。」香織にぺこぺこと頭を下げながら、携帯電話と話をしていたが、やがて真剣な顔付きになり、これから戻ると言って切った。
「センターからの呼び出しでした。」
「私も行った方がいいかしら。」
「いえ、香織さんのご担当とは別のシステムの故障です。制御機能に詳しい人が出払っていて、近くにいるのは僕だけだそうで、取り敢えず戻ってみます。」
少しの間、躊躇ってから翔太が言った。
「信じてもらえないかもしれませんが、僕は前から香織さんに憧れていました。彼女になって欲しいとか大それたことを望んでいた訳ではないのですが、今日、偶然に、蕎麦をご一緒でき、すっかり舞い上がってしまいました。」
どう答えたものかと黙っていると、翔太が続けた。
「それが、さっき気が付いたのです。ばら園で香織さんを見つけた時、香織さんは、仕事で見たことのない優しい顔でした。昭和の男たちは、美味しい日本酒のことを教えたようですが、ばら園には連れて来ていません。ばら園に誘って、香織さんの優しい顔を引き出した平成のトンチンカン男にも、望みがあるのではないかと思い付きました。」
無精髭を剃ってくるので、もう一度一緒に深大寺に来るチャンスはないかと言う。
美味しい日本酒は女子会で覚えたことで、的外れも甚だしい。しかし、翔太が自分のことを先輩としてだけではなく、女性として接したいという気持ちに、素直にうれしかった。物語は始まった。しかも、舞台はばら園、最高のシチュエーション。
「考えておくね。」
役者は二人とも寝不足なうえに、昼酒が入っている。香織は踏みとどまった。
何か言いたそうにしたが、翔太は黙ってバス停がある出口に向かって駆けていった。
「今日のところは、これでよし。」
香織は、再びばら園を巡ることにした。

フク タニシ(千葉県鎌ヶ谷市/61歳/男性/会社員)
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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

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