僕が美絵と出会ったのは、幼馴染の吉郎が主宰したコンパだった。「聖慶女子大と言えば、お嬢様ばかりだからな。お前なら、人畜無害だし」とあからさまに人数合わせで声を掛けてきたのだが、蓋を開けてみれば、その「お嬢様」と付き合う事になったのは、参加メンバーの中で僕一人だった。
「深大寺って知っています?」
席で隣り合わせた女の子が声を掛けてきた時、僕は必至でアラビアータを口に放り込み、ビールで流しこんでいる所だった。明らかに僕と目が合っているのか、三秒ほどかけて確認した後に、
「知っているよ。寺だよね。調布にある。そばが有名。後は縁結び。毎年、深大寺をテーマにした短編小説募集なんかもやっている」
 僕も密かに小説を応募しようと思っていたので、深大寺については、ある程度の事は知っていた。
 その子は、僕を見てニッコリと笑うと、
「そう、良く知っているね。私、あの近くに住んでいるの。だから、深大寺あたりを良くぶらぶらしているの」
 変わった子だなと思った。瞳がこぼれそうなほどに大きいな美人だし、その服装からも育ちの良さが滲みでているのに、一番冴えない恰好の僕に声を掛けてくる。そもそも、この子はこの中で一番綺麗なのに、このコンパ中も他の男を遠ざけているように見えた。
 彼女は、どうでもいいような話題をダラダラと続けた。オジギソウを見た事があるかとか、宇宙人って信じるかとか、カメは好きかとか、両親は健在かとか。そんな、大凡、合コンには相応しくない内容。
 意気投合とは言わないだろう。ただの世間話以下の雑談を延々と一方的に付き合わされただけだ。居酒屋を出る時間になり、ほとんどのメンバーは二次会のカラオケに向かった。しかし、僕と彼女はカラオケに行かず、駅に向かいながら、延々と下らない雑談を続けていた。
「大丈夫?もう十時過ぎだけど」
 僕は、一応は初対面の礼儀として言うと、彼女は急に落ち着かない様子になった。
「え?不味い。もう帰らないと。ああ、もう!ごめんね。あ、そうだ」
 グッチの鞄から慌てて手帳を取り出して、ペンですらすらと走り書きをすると、びりびりと破いて僕にその紙を手渡した。
「それ、私の携帯の連絡先。時間がなくて、番号交換できないから、渡しておくね。じゃあ!」
 そのメモを渡すなり、彼女は駅前のロータリーに向けて全力で走りだした。僕は、彼女が無事、タクシーに乗り込むのを見てから帰路についた。メモには携帯番号の他に「美絵」という名前が書かれていて、それを見て僕は初めて彼女の名前を知った。
 翌日、渡されたメモの番号に電話すると、美絵は当たり前のように「深大寺に一緒に行こうよ」と言いだした。
 これが初めてのデートだった。ただ、仲見世を歩き、土産物屋を覘き、そばを食べ、御賽銭を二人で投げて、園芸品を見て、最後に池でカメを見ただけだったが、それを経て、僕らは互いに親しみの感情を持った。
それ以降も、二人でお台場やら横浜やらに出かけたが、具体的に付き合おうとか言う話は出なかった。
七月七日、再び深大寺へ二人で訪れた時に、僕は、僕らの関係について、少しばかり緊張しながら美絵に訊いた。
「なあ、僕たちってどういう関係だと思う?」
 美絵はあからさまにがっかりした表情を僕に向けた。
「あのさ。私は初めっから付き合っている気満々だったのだけど、違っていたってこと?」
「いや、そうじゃない。こういう自然発生的な付き合い方ってのは、貴重だし、素晴らしと思う反面、これが勘違いだとすると、自分としても辛いので確認した次第」
 ふうっと、美絵は息を吐き出して、にっこりと笑った。彼女はこういう所があって、次の瞬間には全く違う表情をする。僕は、コロッと変わる彼女の表情を見るのが好きだった。
 僕らは仲見世の通りに設置されている笹に短冊をそれぞれ結びつけた。笹には既に大量の短冊が結びつけられていて、遠目から見るとそのカラフルな短冊の一つ一つに誰かの願いが込められているなんて事も忘れてしまいそうになる。お互いに何を願ったのかは内緒だったが、酷く幸せな気持ちだった。

 でも、今はその笑顔は僕の手の届く範囲には存在しない。美絵とは年明けから連絡が取れなくなった。携帯電話も解約されていた。それだけで、すべての連絡手段が無くなってしまったに等しい。僕は彼女の家も知らない。住所も自宅電話番号も知らない。合コンをセッティングした吉郎に、あの時の女子メンバーの連絡先を聞いて連絡をしてみた。
「ああ、美絵は休学中だよ。短期留学でロンドン行くって...。美絵の家って両親が今時珍しいくらい過保護なんだけど、留学を良く許したなって...」
 少し同情が混じった声を聞いて、僕は悲しくなった。僕が思う程に彼女は僕の事を好きな訳でもなかったのだ。何がいけなかったのだろうか。もしも、それがはっきりと彼女から告げられていたのであれば、僕も諦めがついたのかもしれない。しかし、何が起っているのかもわからない状況では諦めようもなかった。
 冬がきて、春がきても、彼女の事が忘れられなかった。女々しい男だと自分でも思ったが、その気持ちをぶつける相手がいない。それ故に僕はますます彼女の事を、その表情の一つ一つを、忘れる事ができずにいるのだろうと思う。
 彼女が消えてしまってからも、僕は何度か深大寺を訪れた。仲見世を歩き、本堂を眺めながら、彼女と初めて会った時に話していた取りとめの無い話を思い出す。境内を裏口から出て坂道を下る途中の園芸屋にはオジギソウがあったし、その更に先の池にはこれでもか、という程に亀が泳いでいる。本堂の向かい側の大きな木の根元に佇む石仏はまるで宇宙人のようだった。今さらになって、すべてが深大寺に繋がっていたんだとわかった。
 七月七日、僕は今日も深大寺に来ている。一年前、僕が短冊に込めた願いは叶わなかった。僕があの時の望んだのは、美絵との未来だけだった。「ずっと一緒に居たい」それだけを書いた短冊。
 仲見世には、あの時と同じように笹が設置され、短冊が風で揺られている。僕は笹の直ぐ脇に設定されたテーブルで短冊に願いを書こうとするが、何を書いて良いものか迷う。じっと、オレンジ色の短冊を睨むが、筆は遅々として進まない。
「あの...」背後から女性の声を聞いて我に返った。僕がテーブルを長時間占拠していた為だろうと思い、「すみません」と振り返るとそこには美絵がいた。
「え」僕は驚き、それ以外に言葉を発する事すらできなかった。
「あ、何も書いてないね、それ」彼女は僕の短冊を指差した。
「いや、そんな事よりも一体どういう事?」
「短期留学だったからね。もう終了して、今日帰国したところなの」そっけなく言ってから、彼女はにっこりと微笑んだ。
「そういう事じゃない」僕がムッとして言うと、彼女は急にシュンとしてしまい、泣きそうな顔になった。彼女に怒気を含んだ言葉を浴びせたのはおそらくこれが初めてだ。
「ごめんね。うちの両親、凄く厳しいの。あなたとの事を話したら、勝手に留学の話を進められて。素直に言う事を聞くつもりなんかなかった。いざこざの末、結局、賭けをする事にしたの」
「賭け?」僕は唐突な彼女に話についていけずに口を挟んだ。
「そう。暫く会えなければお互い気持も冷めるだろう、なんて言うから半年合わなくても私たちは絶対変わらない。もしそうだったら、ちゃんと私たちの事を認めて欲しいって」
 僕からすれば馬鹿馬鹿しい話なのだけど、彼女を様子は真剣そのもので、これに対して何か感情的にモノを言うのは躊躇われた。
「で、どうなったの?」僕は訊いた。
「勿論、認めてもらえたよ。賭けだけじゃないけどね。深大寺のお陰かな」
美絵は悪戯っぽく笑う。
「深大寺の恋愛短編小説に応募したの」
 突然、ガラリと変わった話の内容に僕は面食らって言葉も出ず、首を傾けた。
「入賞はしなかったけど、サイトには掲載されているの」彼女は得意そうに続ける。「その小説では、私たちと同じ名前の登場人物がいて、彼らは両親の反対を押し切って、勝手に籍を入れちゃうの」
「つまり、それを両親に見せたの?このままだとこうなるぞって?」僕は大人しそうな彼女の大胆な行動に舌を巻いた。
「うん。凄く効いたみたいね。あ、でも...」
 急に不安そうな顔で、美絵は僕の目を見つめて言う。
「私の気持ちは半年前から変わって無いけど、もしかして、変わっちゃったのかな...」
僕は美絵の弱々しい声を聞いて、ようやく微笑むができた。
「去年の短冊に書いた通り」少し意地悪く、突き放すと、美絵はムキになって反応した。
「見て無いからわからないよ。その短冊に同じ言葉を書いてみてよ」
僕は、その少し膨れた顔が愛おしいと思う。
「じゃあ、今年は見せ合おうか?」
僕の言葉に彼女は素直に頷いた。

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<著者紹介>
岩 司 (埼玉県北葛飾郡/33歳/男性/会社員)

  私は自分の名前が嫌いだ。虎。あの凶暴な肉食獣である。その名前をなぞるように私は育った。幼い頃から名前をからかう男子がいれば拳を浴びせてよく暴力沙汰を起こしては母が同級生の家へ謝りに行った。そんな私も高校生になり周りの女の子達を見つめるとみんな恋に浮き足立っている。恋人がいる子もいれば、片思いの子もいる。問題は、恋をしていない子が私以外にいないことである。蒸し暑い教室の中、白い夏服たちが眩しい。汗をかいても、女の子はどうして花のような匂いがするんだろう。私の浅黒い肌からは獣みたいな汗臭さしか感じず、扇ぐ手を止めて窓の外へと目をやる。どこまでも高く青い空に白い雲たちが楽しそうに泳いでいる。私は独り置いて行かれたような気持ちになる。「虎は好きな人いるの?」とうとう私に白羽の矢が立った。女の成分がまるでない女がどんな男を好きになるのだろうと、女の子達が私を囲み固唾を飲んで答えを待っている。「いるよ、当然。」言ってしまった。その後も聞かれるがまま答えていくと、私は同じ陸上部の先輩のことが好きで、今度の日曜日にデートへ行く約束をしていることになってしまった。
 その時だった。何かが倒れる鈍い音、女の子の甲高い叫び声、男子の低いどよめきが一斉に上がった。何が起こったか半分私にはわかっていただけに、誰よりも速くそこへ駆けつけて倒れている人間を抱き起こし背負って運んだ。
 もう一つ大嫌いな名前がある。
 「瑞希君、また倒れちゃったのね。いつも悪いわね虎ちゃん。」
 保健室の先生が見つめる先、白いベッドの上に白い人影がある。瑞希。女の子みたいな名前だと幼い頃からよくからかわれていた。言われる当人も困ったように微笑むだけだった。私はそれが許せなくて、からかう男子を虎のように追いかけては懲らしめた。目の前で眠る瑞希は華奢で折れそうな体をしていて、青白く整った顔立ちは人形のようでこのまま目が覚めないんじゃないかと思う。瑞希が何度倒れて私が何度こうして運んでも、この不安な気持ちだけは慣れることができない。長い睫毛が、揺れた。ゆっくりと開いた瞳に見つめられる。「虎、ごめん。」まだはっきりしない頭でいつも最初にそう言う。そしてまた翳りのある微笑みを向ける。私はやっぱり許せない。唇を噛み締める。瑞希はいつも悲しそうな顔でしか笑えない。瑞希の生まれながらに弱い体を、憎む。病魔を追い立てて懲らしめることはできない。それならせめて私の男勝りな力を瑞希に少しでも分けてあげられたらいいのに。放課後の始まるチャイムが鳴り、瑞希がゆっくりと起き上がる。
「虎、陸上部の時間だよね。俺のことは大丈夫だから、行って。」
私は首を振る。家まで送っていくよ、そう言おうとした時、
「ここから、陸上部の練習が見えるんだ。」
 窓から風が吹いて、彼の三日月みたいに儚げな横顔に、色素の薄い髪が陽に透けてさらさらと揺れる。
「虎が走っているのを見ると、俺も風を感じることができるんだ。」
 その言葉に背中を押されるようにして、私は土埃舞うグラウンドへと向かった。いつものように練習をした後、先輩をデートに誘った。驚いたことに先輩は肯いてくれた。この様子も瑞希に見えているのかなと思うと、なぜか胸が痛んだ。その針のような痛みのせいで保健室の方を見ることができなかった。
 土曜日、晴天の下、私は瑞希と深大寺行きのバスに乗っている。明日に控えたデートの予行練習に付き合ってもらうことにしたのだ。
 「そういえば、なんで深大寺?深大寺と言えば」「蕎麦」と私が答え「植物園」と瑞希が同時に言う。私達が分かれた意見を延々と言い争っていると、坂道を上るバスはいつのまにか終点の深大寺前へと着いた。
 緑が、深い。さっきまで街中にいたのに、不思議だ。バス停から一歩足を踏み入れると石畳の床が涼しい。両脇にお土産さんが並んでいて、まるで縁日みたい。どこかで風鈴が鳴る。一つ一つのお店を丁寧に見ている瑞希の腕を引っ張る。まるで小さい頃に戻ったみたいだね、そう笑うと、瑞希も魔法がかかったみたいににっこりと微笑んだ。私は瑞希のそんな曇り無い笑顔を見たのは初めてだったので、見入ってしまった。
木漏れ日輝く緑の屋根を潜り抜け、絶えず清水の流れる音を辿って、私達は水車の回る蕎麦屋さんを見つけた。澄んだ空気と薫高く冷たい蕎麦が、咽喉を滑り落ちていく。私は大盛りを頼んでもまだ食べたくて、瑞希が笑いながら少し分けてくれた。
再び二人で歩き出すと、不意に塔が現れる。天へ向けて立つ、動物霊園の慰霊塔だった。
 「いつだって、虎なんだよ。」
 塔を見上げる瑞希が、そのままどこか遠くへ行ってしまいそうで、
 「俺に、生きろって元気づけてくれる。」
 私は瑞希の腕を掴んだ。大丈夫どこへも行かないよと瑞希が微笑む。一陣の風が吹いて無数の葉が海の波のような音を立てる。その中に聞きなれない声がした。その主を見ると白い猫がこちらを見ている。私が思わず「おいで。」と手招きすると猫は走り去ってしまった。追いかけてみよう、と瑞希が私の手を引く。いつも私の背に隠れていた瑞希の背中をいま私は追いかけている。いつの間に、私よりも背が高くなったんだろう、こんなに背中が広くなったんだろう。小道を行くと、深大寺の境内に入る。お寺の建物の中から荘厳なお経が聞こえる。私の内に秘められた、生や、死や、苦や、喜びが、しみ渡ってくる、言の葉の波音だった。瑞希の足が止まる。いつの間にか賽銭箱の前に居た。手を合わせ二人それぞれ願いを唱える。目を開けると瑞希が私を見ていた。「何をお願いしたの?」そっと聞いてくる。瑞希の体が良くなるように。言えなかった。今日ここに来て、笑ってくれて、元気になってくれて、これ以上何を望むというのだろう。
最後に、隣接する神代植物公園へ行くことにした。普段は花に無関心の私でさえ色とりどりの花に囲まれることがこんなに嬉しいのだから、花が好きな瑞希はなおさらだろう。
 「私、全然女の子らしくない。こんな花たちみたく、綺麗になりたいよ。」
 「虎だって綺麗だよ。強くて美しいと思う。」
 何の悪びれた色も無くそう言われるとこっちの方が恥ずかしくなる。私は話を逸らそうとして「いい匂いだね。」と言って、花びらの中に鼻を寄せる。
 「花が似合うって、女の子らしいこと?」
 え?と彼の方へ向き直ると、私の鼻の上を彼の指先がなぞって、花粉が黄色く染めた。 
「花、似合うよ。」
 彼の笑顔が眩しかった。
 日曜日、曇り空の下、私は一人、深大寺行きのバス停へ向かっていた。慣れないスカートと踵の高いミュールを履いているせいで、うまく歩けない。私は先輩とデートをして恋をしてこれでやっと女の子の仲間入りだと自分に言い聞かせていた。空虚で真っ暗な心の穴に小石を投げているようだ。何も響かない。小石につまずいて、転ぶ。擦り剥けた膝と、踵の折れた靴。頬に、水の粒が当たる。空を仰げば、どんよりとした雲から雨が降っている。目から、次から次へと涙が溢れる。どしゃぶりの雨になる。私じゃない。こんなこと、私らしくない。苦しい。本当にしたいことは、違う。誰か、助けて。助けて、
 「瑞希。」
 開いた傘を、雨から庇うように私の上に差し出してくれた、その人は瑞希だった。
 「やっぱり、天気予報、見てないと思った。」
 走ってきたのだろう、息が苦しそうだ。体に障るのに、私なんかのために、走ったんだ。
 「バス停まで、行こう。」
 戸惑う私を無理やり背負って、歩き出す。彼の首筋からは薬の匂いがした。このままバス停で彼と別れてしまったら、もう一生会えないような気がする。怖くて、しがみつく。
 「これは、深大寺にある弁天池の伝説。」
 泣きじゃくる私をあやすように彼が語り出す伝説。昔々あるところに、一人の美しい娘がいた。そこへ青年が現れ娘と恋に落ちる。しかし、娘はやれないと両親は娘を池の中島へと閉じ込めてしまう。青年はただただ池のほとりで立ち尽くすしかない。毎日深沙大王に祈り続けもし娘に逢えれば社を建て貴方様を祀りましょうと誓うと、池から一匹の亀が現れ青年は亀の背に乗り島へと渡り娘と逢うことができたという。
 「俺はその亀になる。虎の恋を、叶えるから、だから、泣くな。」
 立ち止まって苦しそうに大きく息をしては、また歩く。そうしながら「でもうまくいかなかったらごめん、俺のせいだ。」と呟く。
 「昨日お寺で虎の恋の成就を願うべきだったのに自分のことを願ったんだ。今隣にいる女の子と結ばれたいって。でも俺、体は弱いし、男らしくないし、だからせめて」
 「馬鹿!」
馬鹿は私だ。女の子らしいことにこだわって、ありのままの自分に嘘をついて、
「弱いとか男らしくないとか、関係ない。私だって瑞希が好き。だから、今日行きたくなかったの。」
 静かに降ろしてくれた、そのバス停に先輩はいない。きっと遅刻を怒って帰ってしまったのだろう。私達は顔を見合わせる。
「先輩に電話で謝ったら、虎の靴を買ってこのまま深大寺へ行こう。」
 「でも、雨だよ。」
 「雨の深大寺も乙かもよ。」
 私の知らない、大人びた笑顔で瑞希が誘う。もっと知りたくて、私は肯いた。

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<著者紹介>
斉藤 努 (京都調布市)

 三日三時、深大寺にて待つ
 あかりからの年賀葉書に書いてあった文面に頭を抱える。これじゃぁ年賀状じゃなくて果たし状だ。中三にもなって、全体何を考えているんだか。
「いいじゃない、慎太郎。ちゃんとこうして2人で合格祈願に来れたんだから」
「そうだけどさ。家が隣同士だから結局同じバスで来たじゃん。深大寺で待つも無いだろ」
「ユーモアよ、ユーモア」
 僕とあかりのユーモアセンスには深くて大きな溝があるらしい。いくら幼馴染で似たような環境で育ったとは言え、こういうのは先天的な物のようだ。
「でもさ、お正月も3日だって言うのに、すごい人手ね。まさかお参りするのにこんなに並ぶなんて」
「だね」
 僕らは参拝客の列に並んでそのうんざりする長さに肩をすくめた。動き回っているならまだしも、こうやってじっと立っているだけだと余計に寒さが身に染みる。僕らは両の掌に何度も息を吐きかけて擦り合わせたり、その場で足踏みしたりして寒さをしのいだ。のろのろとしか進まない参拝の列がうらめしかった。ようやく表門をくぐって大きな香炉のところまでやって来たころには、僕らの体はすっかり冷えてしまった。もくもくと漂う線香の煙は涙腺や鼻の粘膜を刺激したが、冷えた体にはその温かさが有難かった。
「慎太郎、ちょっとは頭よくなるように、ちゃんとお線香の煙かぶっときなさいよ」
「あかりはついでに顔にもかけときな。ご利益で可愛くなるかもよ」
「結構です。私は元々可愛いですから」
 全く可愛くないことを言う。黙っていれば良家のご令嬢に見えなくもないのに。
 やっと賽銭箱の前までたどり着くと、僕らは財布から百円玉を1枚取り出して放り込んだ。競うようにして威勢良く鈴を鳴らす。勢いで危うく拍手を打ちそうになるのを押し留めて手を合わせ、目を閉じて受験合格を祈願する。お寺で拍手を打った日にゃあかりになんて言われるかわかったもんじゃない。危ない、危ない。もう頃合いだろうと思って目を開けると、あかりはまだ目をつぶって手を合わせていた。
 神妙な面持ちで祈るあかりの横顔に僕は見とれてしまった。
 この前あかりと深大寺に来たのは中二の夏だった。あの頃、僕はあかりのことが気になって仕方がなかった。それが恋なのかそうでないのか未だに自分でも分からない。
 結局僕らは幼馴染以上にも同級生以上にも進化することなく、時の流れのまま受験戦線へと突入した。今思うとこれが僕らのベストな距離で、あの頃の気持ちはしあわせな勘違いだったのかも知れない。そんな枯れた想いでいたのに、どうして今あかりの横顔にどきどきしてるんだろう。
 僕がひとり悶々としていると、ようやくあかりが目を開けた。
「百円ぽっちで長々とお祈りされても、神様も迷惑だろ」
「いいのよ、受験生なんだから」
「だいたいさ、深大寺の神様って縁結びの神様だろ。受験は管轄外じゃないの」
「いいのよ、ついでなんだから」
 何がついでなんだか分からなかったが、それは置いておいて僕らは人の流れに任せて門 前のみやげ物屋が並ぶ通りを歩いた。
 冷たい木枯らしが頬をかすめていく中、「甘酒」と書いたのぼりが魅惑的にはためいていた。僕らは茶屋で甘酒を飲んでひと息つくことにした。
 茶屋の長椅子に並んで座り、甘酒の入った紙コップを両手でつつんで暖をとりながらすすると、滑り込んだ熱々の液体が口の中いっぱいに甘さを振りまいた。
「美味しい」
「温まるね」
 僕らはふうふう言いながら甘酒をすすった。
「慎太郎が受験する高校ってさ、大学の付属だったよね」
「そうだよ。理工系の私大の付属」
「私の高校も短大の付属校なんだ。女子高なのは気に入らないけど、もう一度受験勉強しなくてもいいのは、ありがたいかなって思うんだよね」
 あかりは志望校を決めるのにひと悶着あったらしい。女子高なんか行かないと頑として言い張ったあかりが、結局はお母さんが進めるお嬢様学校を第一志望にしたのは、僕が志望校を私立の理数科高校一本に絞ったのと同じ時期だった。
「高校に受かったら大学までエスカレーター式だもんね」
「まあね」
「大学生になったらさ、合コンとかするのかな」
「さあ、するかもね」
「合コンてさ、男の子と女の子が一緒にお酒のんでおしゃべりするんでしょ」
「そんなもんかな」
「ねえ、今から練習しない?丁度お酒もあるし」
 また妙なこと言い出す。お酒と言っても甘酒だし。しかし僕の反対意見など昔から通った例がない。結局あかりに押し切られて「合コンごっこ」をする羽目になったのだった。
 しばしの間、2人で向かい合って無言で甘酒をすする。こうやって改まって顔を合わせると、気まずいというか気恥ずかしいというか、なんか妙な気分だ。
「ねえ、質問かなんかしなさいよ。こういうのは男の方から話すものよ」
「え?あ、うん。そうか」
 一抹の理不尽さを感じながらもそんなものかと思い質問を考える。
「えと、あかりさんのご趣味は?」
「絵画を少々。慎太郎さんは?」
「パソコンを少々」
 何かが違う。
 しばしの沈黙の後、あかりのやめようかのひと言で「合コンごっこ」はあえなく打ち切りとなった。緊張から解き放たれやれやれと思う反面なぜか残念な気もした。
「そう言えばさ、慎太郎、2年の女子に告られたんだって?」
 甘酒が気管に入ってむせる。なんでそんなことをあかりが知っているんだ。
「うん。まあそうなんだけどさ。断ったよ」
「えーっ?なんでそんなもったいないことするのよ」
「いや、一応受験生だしさ」
 それにもし他のコと付き合ったりしたらあかりとこうやって馬鹿話なんか出来なくなる。
「だったらさ、受験が済んだら付き合っちゃえば?」
「そうだな。考えとくわ」
「ねえねえ。初デートはどこにする?」
 曖昧な返事で話題を切り上げようと思ったのに、女というのはこの手の話が大好きなので困る。デートコースなんて考えたこともない。
「えーと、調布のパルコにある本屋で待ち合わせして、パルコで映画見て、パルコでお茶して、パルコでウィンドウショッピングでもするかな」
「あんた、パルコから一歩も出ないつもり?」
 どうやらあかりのお気には召さなかったらしい。調布のパルコがダメなら、吉祥寺パルコっていう手もあるぞ。ちょっと遠いけれど。
 ひとつ大きくため息をつくとあかりは恩着せがましくこう言った。
「しょうがないわね、慎太郎は。受験が終わったら私がデートの練習台になってあげる」
 一体、どんな三段論法を使うとそんな結論が出るのやらわからないが、兎に角受験が終わったら僕はあかりとデートをすることになったらしい。
「それまでお年玉使わずにとっておいてね」
 こいつ思い切りたかる魂胆か。それでも何故かウキウキとして拒めない自分がいた。
 いい加減甘酒も無くなったので、僕らは茶屋を後にした。いつの間にか参拝客はその数を減らしお参りの列は短くなっていた。
「見て見て、慎太郎。雪だよ」
「本当だ。寒いはずだよ」
 僕は空を見上げて雪模様を眺めた。ちらちらと天から雪がひとひら、またひとひらと舞い降りて来る。そうしていると僕の背中に回ったあかりが後ろから抱きつくようにして僕のコートのポケットに手を突っ込んできた。
「慎太郎のポケット、温かーい」
「ちょっ、あかり、おまえ何やっ」
「お願い」
 僕の抗議はあかりの真剣な言葉で遮られた。
「お願い、ちょっとだけこのままいさせて」
「あかり」
 背中にもたれかかるあかりの重さを感じる。
「私ね」
 あかりがためらいがちに言葉を紡いだ。
「私、慎太郎と同じ高校に行きたかったんだ。中学までずっと同じだったんだもん」
 胸の奥で何かがキュッと絞めつけられた。僕は答える代わりにポケットに手を突っ込んで、あかりの冷たい手を握った。あかりの手がほんのりと温かくなる頃、僕はひとり言のように言った。
「受験、早く終わるといいな」
 うんと言ったのが背中から聞こえた。
「そしたらデートだよ」
「ああ」
「練習だけどね」
 あかりがいたずらっぽく笑った。
 今は冬。手がかじかむぐらい寒い冬。でも、冬の後には必ず温かい春が来る。きっと今年の春はいつもより温かいに違いない。
 僕らはしばらくの間、そのまま雪模様の空を見上げた。

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<著者紹介>
前山 尚士 (東京都調布市/男性/会社員)

 ダイエットにはバナナが良いと聞けば空腹をバナナで満たし続け、どこそこの料理が美味いと耳にすれば直ぐ様その店へ駆け付ける。とにかく彼女はメディアに多大な影響を受けている。
「ねぇねぇ。今度のゴールデンウィークさ、深大寺に行かない?」
そんな彼女だから、唐突なこの言葉にも俺が驚くことはなかった。それどころか、またか、と、呆れさえしてしまう。
「今度はなに?占い?飯?」
 溜め息混じりに尋ねながら、ソファに横たえていた身を起こし彼女を見る。そうすると子供のように爛々と輝く丸い瞳に、それとは対照的なうんざり顔の俺が映った。
「そんなのじゃないよ。良いところみたいだから!それに縁結びのお寺なんだって」
 今更誰との縁を結びたいと言うのか。半眼で彼女を見ながら「ああ、そうなの」と一言。億劫さを隠すことなく答えた俺を、彼女は気に留める様子もなく、ドラマで見たんだとか、そばが美味しいらしいとか。聞いてもいないことを楽しげに喋り続けている。
そうする彼女を見ていれば、面倒を感じていた俺の心も次第に揺らぎ、まあ良いか、なんて思い始めてしまうのはいつものこと。結局どんな無茶な頼みも「しょうがないなあ」と、聞き入れてしまうのは、付き合い始めた五年前から今も変わらない。
 彼女とは六年前、大学二回生のときに共通の友人を介して知り合った。今時にしては珍しく、髪を染めたことは一度もなく、服装もどこか野暮ったくぱっとしない子だったけれど、瞳は思わず息を詰めるほど、美しく、清らかだった。その瞳が真っ直ぐに俺を捉えた瞬間、心臓が早鐘を打ち始めたことは今も忘れてはいない。一目惚れだった。それから頻繁に映画だ、買い物だ、と、彼女を誘い出し、ようやく、付き合うことになったのは一年後の大学三回生のころ。新緑が目に鮮やかな五月晴れの日のことだった。
俺たちの付き合いは順調に続き、互いに社会人となったのを機に始めた同棲生活も三年が経つ。最近では新鮮味などありもせず、どこかに連立つことも稀になっていた。
そんな生活の中だから、きっと、彼女が言い出さなければ、ゴールデンウィークも普段の休日に毛が生えた程度だと、家で過ごし、どこかへ出掛けることもなかっただろう。そう考えながら、深大寺の本堂へ続く階段を、彼女と肩を並べ登る。
「意外と混んでるな」
 深大寺が調布市にあると知り、勝手に閑散としているか、老人ばかりだろうと思っていたが、大間違い。大型連休も合間って、吉祥寺駅で乗車したバスから既に込み合っていたし、参拝客は老夫婦はもちろん、小さな子供を連れた若い夫婦や俺たちと同年代と思われる二十代半ばのカップルという具合に老若男女問わない。
「ドラマに出たからね!」
俺の言葉を受け、彼女は得意気に参道からあちらこちらに立っているドラマタイトルの刻まれたノボリを指し、言う。決して、混み合うのも深大寺がドラマに出たのも彼女の功労ではない。それでも得意気に言うのは、大好きなドラマだからだろう。
 ドラマというのは日本放送が何十年も前から朝のその時間に放送している番組のことだ。今までだって、その時間のドラマを見ていた彼女だったけれど、ここまで真剣になったものを俺は知らない。漫画家・水木しげる夫妻を主人公にしたドラマが余程に面白いのだろうかと、俺も興味があるものの、放送は出勤前の忙しい時間。出勤時間が俺よりも一時間遅い彼女と違って俺には悠々と番組を視聴する暇などなく、今日まで一度も見られないままでいる。彼女曰く、夜に衛星放送で再放送をしているそうだが、その時間に帰宅していることも稀ならば、したとしても毎回忘れてしまっている。
「なんでそんなにそのドラマ好きなの?」
だからこそ、尚更。その執着が気になって尋ねてみる。けれど、彼女はいつも「見たら分かるよ」と、クスクス笑うばかりで、教えてくれるつもりはないらしい。
 一体なんだと言うのか。
今日も釈然としないまま、階段を登り終え、砂利の敷き詰められた境内を散策する。春と夏の狭間を迷う日差しが眩しい。思わず目を細めた俺の手を、それよりも一回り小さな手が突然掴んだ。
「あれ!あれ見て!」
次いで響く彼女の弾む声。同時に俺の手を捕らえたのとは逆の手が、本堂脇にある休憩処を差した。そうかと思えば、繋がれた手がグイと俺をその店へと引く。
「ちょっと、布美江!急になに?」
「これ!ドラマで出てたの」
 その店に着くなり、彼女が声高に叫び、軒先に並ぶ藁で作られた馬の人形を指差した。
「あ。これ知ってる」
それを見、思わず呟いた俺を、彼女が仰ぎ見る。
「そうなの?なんで?」
「昔、ばあちゃんの家にあったんだよ」
 確か赤駒と言うのだ。家族や愛する人の幸せや無事を願う土産物で、祖父が出兵する折に祖母が購入したらしい。戦地から祖父が大きな怪我もなく帰って来られたのも、この赤駒のおかげだと言って、ずっと大切にしていたから、祖母が他界したときに花と一緒に棺桶に入れてやった。無事に先立った祖父に会えるように。そう願いを込めて。
「すげぇ、懐かしい!まだ売ってるんだ」
 意図せず彼女のように声を弾ませて言えば、奥から現れた店員が、丁寧に商品の説明をしてくれた。その話によると、赤駒は古くから深大寺にある土産物で、今も全て手作業で作られているとのことだった。
「じゃあ、ばあちゃんも昔ここで買ったんだ」
「茂君のおばあちゃんも?」
 おうむ返しに尋ねる彼女に、祖父の無事を願った祖母と赤駒のことを話せば、彼女は瞳を輝かせて「買う」と、言い始めた。牛乳パックひとつにしてもあっちの店の方が安いと、購入を躊躇する彼女にしては妙に財布の紐が緩い。それを不思議に思っていれば「茂君が事故もなく毎日帰って来られるようにお祈りしないといけないから」なんて、大真面目に続けるから、俺の頬も自然と緩んだ。
「そうしたら俺もひとつ買わないとな」
「なんで?一個あったら良いよ」
「要るだろ、もうひとつ」
 そして彼女は一番大きな赤駒を、俺は中くらいの赤駒を。それぞれ購入した。
もちろん、俺が買ったそれは彼女の無事を願っての物だけれども、そうと考え着かないらしい彼女は、その後もどうして俺まで買ったのかとしきりに訝しんだ。
「もう良いだろ、その話。それより、そば食おう。腹減った」
 有名だと言っていた深大寺そばの暖簾が揺れる店を指す。すると、彼女はすっかり赤駒のことなど忘れたように華やいだ表情を浮かべ、どの店にしようか、と早速選別を始めた。あっさりしているというか、移り気というか。どちらにせよ、彼女はこういう性格だからこそ、メディアに左右されやすいのだろうと、納得してしまう。
「よし!あの店にしよう!」
 彼女が選んだのは一番行列の長い店。列の最後尾に並び、三十分後にようやくそばをすすったなら、別の店で同じそば粉から作られたクレープを食べ、今度はそばパンを、と思ったけれども、彼女が「これ以上はお腹に入らない」と言うから、それは持ち帰り用に包んでもらった。
 そうしていれば来た頃には頭上にあった太陽もいつの間にか大きく西に傾き、木々の隙間より差し込む夕日が深大寺を鮮やかに照らし出していた。
「良いところだね」
 しみじみと呟いた彼女に頷いて、「また二人で来よう」と言えば、彼女も小さく頷いた。そして手を繋ぎ、帰路に着く。そうする俺たちの影はどこまでも長く、この先も変わらず二人肩を並べ、歩んで行く未来を暗示しているように思われた。
ところで、彼女がどうしてあのドラマを気に入っているのか。それは翌日の昼。意外なほど早くに判明した。
「へー。こんな偶然ってあるんだな」
 深大寺で買ったそばパンをかじりながら、正午代のドラマの再放送を見て呟く。
「村井茂に布美江か......まんま一緒だな」
 ドラマの主人公夫婦の名前。それが俺たち二人と同姓同名だったのだ。
「なあ、布美江ー?このヒロインの旧姓もお前と同じ飯田だったりするの?」
 キッチンで珈琲を淹れている彼女に問えば、少し苛立っている声が「それより」と返事をした。
「早くパジャマ脱いで」
 声と共に湯気の立つマグカップが、テーブルにドンと置かれる。唇を尖らせ「洗濯ができないじゃない」と嘆く彼女を「はいはい」といなす。
「本当に分かってる?」
そんな俺を彼女がねめつけるから、俺は浮かべていた笑みに苦味を混ぜた。
「分かってるよ。直ぐ脱ぐって」
「そう言って、何で二個目のパンを取るの?」
「だってこれ美味いから、つい......」
「全然分かってないじゃない!」
いつまでも騒がしい俺たちを、寄り添う二体の赤駒が静かに見守っていた。

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<著者紹介>
邑 和樹  (大阪府松原市/24歳/女性/会社員)

 どこからわき出てきたのだろう。
 深く青い空に浮かぶ、はちきれそうな乳白色の入道雲は僕を圧倒した。
 そうだ、小学六年生の夏休み前のある日。
 親の転勤が決まった明くる日の午後、教室の窓から眺めた風景。もうすぐ夏休みだということをまるで祝うかのようにみごとに空は青々していた。
 「残念ですが、これからコウジ君に挨拶してもらいます」という先生の一言に僕は驚いて立ち上がり、みんなの前でおどけた。
 「おとうさんの転勤で九州にいくことになりました。どうも、スミマセン!」
 ふざけた言い回しの後にぺこりと頭をさげると、みんなが笑った。みんなの笑い声が僕の胸をしんしんとさせた。涙をこらえるのに必死だった。突然鳴き出した蝉の声が僕の耳を塞いだ。
当分、コヨリの顔を見ることはできないのだなと生意気にも思っていた。
         *
 あれから二十年の時を経て、僕は東京に戻ってきた。調布駅は相も変わらず、人の往来は若干増えたような気はするが、大型店に遠慮するように商いをする小さな店も健在だった。賑やかな駅前を背に穏やかな商店街を抜け大きな国道を渡った。何もかもあの頃のまんまだ。
 小学四年生の春の席がえでコヨリが隣にきた。やせっぽちのコヨリは首を少し傾斜させ大きな瞳で見つめ返すのが常だった。いつもお喋りなのに先生に当てられると、恥ずかしそうに俯いて蚊の鳴くような声で答える。どうしてもダメなときは、僕の小声の暗唱をそのまま先生にむかって答えていた。当時流行のアイドルを真似、卓球台の上で仲良しとデュエット歌いでポーズを決めながら踊っていた。
 しんと静まりかえった授業中、僕がたまにいう冗談に笑い転げ、二人揃って廊下に立たされたこともあった。
 ―コウジくんって目の色が茶色いよね。
 長くて暇な夏休みが明けたその日、少し小麦色になったコヨリからそういわれた。
 ―そうさぁ、僕はおじいちゃんがフランス人だからさぁ。
 当然笑うと思っていたコヨリはもう一回り大きくした瞳で驚いていた。
 僕は学校でコヨリと会うことが楽しくて仕方なかった。あのキラキラ輝く表情がたまらなく僕に勇気を与えてくれた。
 体育の時間、ドッジボールで最後の一人になるまでコート内に残っていられたのも。美術の時間、天才芸術家といわれた坂本くんに対抗して水彩画を居残りしてまで描いて珍しく先生からほめられたのも。臨海学校で溺れそうになりながらなんとか遠泳を泳ぎきったのも。
 僕の勇気も元気も実はすべてコヨリの存在があったからなのだ。
 目の色が茶色いよね・・・・・・・なんて親にもいわれたことはなかった。
        *
 五年生の秋の運動会が終わったその日の帰り道、僕は調子にのって深大寺に行った。徒競走で一等になった僕は少し有頂天になっていたのかもしれない。両手をついて石灰で引いた地べたの白線を間近に見ながら百メートル先のコヨリを思った。僕の走りをきっと見ていてくれるに違いないと。
 ―ドン!
 スタートの号砲のあと、僕は夢中で走っていた。
 無心で。
 そしてある願をかけて。
 口が裂けても誰にもいえない大胆な願をかけて。
 生意気にも・・・・・・・・。
 一等賞になったらコヨリを嫁さんにできるって。
 僕は勝負した。
 はちきれそうな願いを胸に。
 僕は目の前に迫るゴールだけを見つめ、ただ走りぬいた。
 ゴールした後、コヨリを探した。彼女はいつもの大きな瞳で嬉しそうに僕を見ていてくれた。

 寄り道はいけません。
 いつも担任からそう釘を刺されていた。

 深大寺には不思議な魔力がある。町では味わえない静寂と、深い緑と、気持ちのいい空気が漂う。
 それに平凡じゃない何かがある。  
 僕は前々から一人で深大寺に来てみたかった。今日の徒競走の結果を深大寺にいる神様に報告すれば、僕の願いが本当に叶うと子ども心に信じていたから。
 夕方の境内には人影はない。秋風が木々の葉をゆらす音がざわざわと鼓膜を振動させる。そして時折、鳥のさえずりが聞こえる。
 境内に近づき、用意しておいた五円玉を慎重に賽銭箱に投げた。かしわ手を何回打ったらよいのかも知らず、おずおずと数回手をあわせ、神様に願いを唱えてみた。

 ―俺は、いや、僕は約束どおりに一等になりました。コヨリを嫁さんにしたいです。

 どうしたら大人になれるのだろう。大人にならないと彼女には告げてはいけないんだ。小学生の僕にも男の意地があった。でも少しだけ早く大人になりたかった。
 手をあわせたまま暫く祈っていた。遠くに低い振動がした。
 ようやく顔をあげると空は暮れかけていた。どのくらいのあいだ境内にいたのだろう。
 神様からの返事だ。
 紫色の西の彼方にぴかりと輝く一筋の黄色い閃光が目に入った。
 腹の底に振動を感じた。
 数秒後、思ってもいなかった大粒の雨が降ってきた。前が見えぬほどのドシャ降りで立ち往生した。
 その晩、帰りの遅くなった僕は母親からひどく叱られた。
         *
 《二十年ぶりの再会、楽しみにしています》

 そんな思いがけない同窓会の案内がポストに入っていた。日頃の仕事に追われ、上司との関係にも殺伐としていた自分には朗報だった。
 気晴らしに同級生に会ってこよう。少し気後れしたが、早速東京へ行く手配をした。

 同窓会の会場へ行く前に深大寺へ赴こうと決めていた。想い出にひたりながらの深大寺までの歩みは快いものだった。住宅街を抜け細い坂道を登りそして降ると土の匂いが鼻腔をくすぐる。都会にはない深い緑と日々の喧騒からほど遠い静寂。訪れるものを凛とさせる空気が深大寺にはある。
 お盆の深大寺は人影こそちらほらしているが、やはりしゃんとした清涼感で包まれている。
 ―深大寺の神様にお礼参りしなければ
 変わらぬ姿でいてくれた深大寺が嬉しかった。境内の前で手をあわせ、自分の変わらぬ気持ちと素直に向き合えたことが新鮮で心の中になにか大切なものが芽生えた気がした。
 しかしあの徒競走の日の誓いは気恥ずかしさと切なさがブレンドされた当時の宝物だなと一人笑んだ。
          *
 同窓会の二次会で、ようやくコヨリと話ができた。やせっぽちな彼女はちょっとだけ綺麗になっていた。相変わらず首を傾げ大きな瞳で俺を見つめ返してきた。
 眩しさに顔を背けたくなった。
 どうやら彼女はばつ一らしかった。
 三十路も過ぎれば男も女も何もないほうが不思議だ。去年別れた彼女のことが頭を過ぎった。
 あれやこれやと酔いにまかせ話が弾んだ。時は瞬く間に遡り小学生のコヨリと僕がそこには座っていた。

 三次会へ向かう途中で気が変わり友人たちの誘いもやんわりと断り駅へと走った。
 路地を抜け大通りへ出ると駅まで直線になった。
 ―よーい、スタート! 
 誰かがそういって背中を押してくれた。
 酔っ払いの俺は夢中で走った。頼むから間に合ってくれよ。シャツがべったりと纏わりつくほど汗ばんでいた。
 駅前にある横断歩道でコヨリに追いついた。
 コヨリ! 
 振り向いた彼女は驚いて、それから気をとりなおしたようにこういった。
「さっき言い忘れた。コウジくんの目ってやっぱり茶色いよね」 
 ―はっ?
 とぼけた反応に笑い出したくなった。
 きゃ、雷、と小さく叫んだコヨリは俺の腕にすがってきた。
 腹の底に振動を感じた。
 琥珀色の夜空に、細長い閃光がびりびりと煌いた。
 深大寺の神様の粋な計らいに感謝した。
 涙腺がゆるみ思わず上を向いた。
 間もなく空からは大粒の雨がシャワーのように降ってきた。

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<著者紹介>
黒米 譲二 ( 東京都東大和市/47歳/男性/歯科医師)

「これまでの我が家の歴史は、深大寺のスノーホワイトとともにあった。これからもずっと......」
それが父の口癖だった......。

 昭和三十九年、東京ではじめてのオリンピックが開催されるまで、あと数ヶ月と迫っていた早春のこと。父と母は出逢った。
 建設ラッシュに沸く東京へ三年前から現場監督として出稼ぎに来ていた父は、当時、調布の深大寺近くの下宿で生活していた。信心深い父は建設現場へ出掛ける前に、必ず深大寺へお参りするのが日課だった。あるとき、いつものように作業着姿で本堂に向かい、そっと手を合わせていると、若い女性が声をかけてきた。それが母だった。
「毎朝、ごくろうさまです」
 その言葉の訛(なま)りで、その女性が沖縄出身だとわかった父は、「沖縄のかたですか?」と訊(たず)ねた。「三月に来たばかりです」母はそう答えた。
「わたしたちの仕事は〝ケガと弁当手前持ち〟と言われていまして......。それで神頼みです」父がそう言うと、母は「このお寺さんは縁結びで有名なんです。お寺さんで縁結びっていうのも何かおかしな気がするんですけどね」と優しく微笑みながら言った。父は頭を掻きむしり、恥ずかしそうに「わたしも沖縄出身の田舎者で、そういうことに疎いものですから」と言い、「それでもありがたい神仏であることには代わりはないですから」と付け加えた。
 あまり良い出逢いではなかったかもしれないが、とにかく父と母は出逢った。
 母は深大寺境内にあるお守りなどを売る店で働いていた。二人が出逢ってしばらく経ったある日、父がその売店に現れた。
「先日はどうも。実は同僚が身体(からだ)を壊して休んでいまして。お見舞い代わりにお守りを持っていこうと思いまして......」そう言って母にお守りを選んでくれるように頼んだ。このとき母は父のことを〝優しい人だ〟と思ったそうだが、きっと母に逢うための口実だったに違いない。
 それから二人は境内で顔を合わせると、よく話をするようになった。父は早朝だけでなく、仕事が終わったあとにも、何かと理由をつけて深大寺を訪れた。「蕎麦を食いに」、「饅頭を買いに」と。そのたびに売店で働く母に話しかけて、そのうちに二人は自然と惹かれ合うようになった。いつしか早朝に本堂を参拝する父のとなりには母がいるようになった。
「何をお願いしたの?」と母が訊ねると、「チサエちゃんとこのまま仲良くいられますようにってね」と父が恥ずかしそうに答え、父が同じことを訊ねると、「ミツノブさんが現場でケガしませんようにって」と母が答えた。それを聞いた父は、「このお寺は縁結びで有名だったはずでしょう?」と言うと、母は「いいんです。それでもありがたい神仏であることに代わりはないですから」と言って微笑んだ。そして、「それともうひとつ。早く雪を見てみたいとお願いしたの。ご存知の通り沖縄には雪が降りませんから」と言った。すると父は境内の隅の大きな樹を見上げた。
「その願いならもうすぐ叶いますよ。この樹の英名は〝スノーフラワー〟。通称ナンジャモンジャと言ってね。学名のチオナンサスはギリシャ語の〝雪〟と〝花〟がその語源だそうです。四月の終わりからほんの短いあいだだけ、プロペラ状の真っ白な花を枝一杯に咲かせます。わたしはもう二回見ましたが、それはもう、本当に雪が積もっているようで、とても不思議な光景です。わたしはこの花が大好きでして......」
 そんな出逢いから二ヶ月も経たない五月のはじめ、スノーフラワーは父の言う通りに、まるで雪が積もっているかのような真っ白な花を、その枝にびっしりと隙間なく咲かせていた。背景の新緑とのコントラストが異次元のようで、母は「あれはまさに幻のようだった」といつも言っていた。そして父は咲き誇るスノーフラワーの花びらが見守る境内で、母にプロポーズをした。
「これからは毎年このスノーフラワーを一緒に見に来よう」それがプロポーズの言葉だった。そして「深大寺さんがくれたこの縁を、ずっと大切にしていこう」と続けた。
二人は、深大寺近くの小さな借家で結婚生活を始めた。深大寺ではスノーフラワー以外にも、四季折々の草花を愛でることができるからだ。都会では忘れてしまいがちな季節を肌で感じることができる深大寺。
それが慣れない都会で暮らす二人にとっては癒しとなった。また東京に来てはじめて食べた日本蕎麦の魅力に取り憑かれた二人にとっては、門前街に数々の蕎麦の名店が立ち並ぶ深大寺周辺は、食の道楽を満たす美味しい街でもあった。そしていつか子供が生まれたときには、子育てに最適な環境も整っている。
昭和四十九年春、両親の結婚から十年経ってようやくぼくは生まれた。そのときもちょうどスノーホワイトが咲いていた。そして両親の思惑通り、深大寺はぼくの大切な遊び場になった。
小学生のころには境内を走りまわり、かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ。中学生や高校生のころにはクラスメイトたちと初詣や節分の豆まきやだるま市へ出掛けた。ぼくにとっても深大寺は思い出の詰まった大切な場所になった。
そしてぼくは運良く市内の国立大学に進学することができた。そのころには好きになった女の子との初デートは、決まって深大寺と神代植物公園だった。
さらに社会人になってからも、ぼくはこの街を離れなかった。いくつかの恋も経験し、いつか父のように、このスノーホワイトの樹の下で、好きな女性に想いを告げることができたらいいと思うようになった。
 そのころには父は定年を迎えていたが、趣味が高じて、母と二人で深大寺の近くで小さな蕎麦屋をはじめていた。もともと凝り性だった父の打つ蕎麦は評判が良く、遠くからもお客さんが来てくれるようになっていたが、父は母と過ごす時間を大切にしていたため、営業時間は昼の数時間だけで、それ以外の時間は母と深大寺へ散歩に出掛けたり、庭いじりをして過ごしていた。二人はぼくの理想の夫婦だった。
 平成十六年秋、母はすい臓がんになった。
 余命は六ヶ月と診断され、父は店を閉めて献身的に母の看病をした。朝早く病院へ行き、夜も遅くまで母のそばにいた。母は痛みに耐えて、父のまえではいつも笑顔を絶やさないようにしていたが、激しい痛みが続くときには、ずっと父の手を握って離さなかった。残された時間が二人の愛をより一層に燃え上がらせているようだった。
そのころのぼくは仕事の都合で都心に住んでいたが、週末には調布の実家へ戻っていた。父が母の看病に専念していたために、家の中を片付けるのが、ぼくの役目だった。実家へ戻ると、居間のテーブルにはいつも古いアルバムが開かれたまま置かれていた。昭和三十九年から、毎年同じアングルで撮られてきたスノーホワイトと家族の写真。その前で年齢を重ねていく父、母、そしてぼく。涙が止まらなかった。
半年ほどすると、母は衰弱しきって寝たきりになり、痛みを抑えるために使われたモルヒネの影響で、いつも朦朧として父の話を理解することも、話すことも、ほとんどできなくなってきているようだった。それでも父はいつも優しい口調で母に話しかけていた。
「深大寺の境内の桜が散り始めたよ」その声が母に届いているのかさえ、もうぼくには分からなかった。
 平成十七年四月の終わり。主治医から許可をもらい、母を深大寺へ連れて行った。その日は穏やかな陽気だったので、父はわざと遠回りして、東側の参道から、車椅子に乗せた母をゆっくりと押して歩いた。ぼくはそのうしろを少し離れて歩いた。
石畳の凹凸が車椅子を揺らしていた。小川のせせらぎは優しく、きらめきを散りばめて流れていた。父は茅葺(かやぶき)の山門の前で足を止めると、石段を見上げた。そして少し戻ってスロープになっている道を、車椅子を押し続けた......。
 境内の一番広いところへ出ると、目の前にスノーホワイトの樹が見えた。枝の上には真っ白な花が降りつもった雪のように咲いている。毎年変わることのない純潔の花。
「チサエちゃん、スノーホワイトの花が今年も咲いたぞ。あれからずっと変わらない雪のような白い花だ......」
 母はゆっくりとスノーホワイトを見上げた。
「ゆ......雪......」
母がそう言ったような気がした。そのとき、強い風が吹いてスノーホワイトの枝を大きく揺らした。何千という花びらが散り、父と母の上に降りそそいだ。そして母がかぶっていた麦わら帽子が飛ばされて、くるくるとまわりながら大きなムクロジの樹の下に落ちた。ぼくがその帽子を拾いに行って戻ると、父は母のそばに立ちつくして泣きじゃくっていた......。
 その半年後、父は母のあとを追うようにして亡くなった。くも膜下出血だった。そのときのぼくの心に残ったものは、相次いで両親を失った悲しさよりも、父と母の切ないほどの愛の証だった。ぼくも誰かのことをこれほどまでに真摯に愛し続けることができるだろうか。

あれから数年が経った、今、ぼくは深大寺の境内にいる。今日こそ彼女に愛を伝えるつもりだ......。父が母に永遠の愛を誓った、このスノーホワイトの白い花の下で......。

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<著者紹介>
青木 太郎 (東京都府中市/40歳/男性/自営業)

「え?また行ってきたの?」
「だって恋愛運アップにいいってテレビでやっていたもん」
と2杯目のジョッキを空けた。手当たり次第にパワースポットと呼ばれるところに行く友人のアヤは、今のところまだ効果は出てないようだった。
「そう言えば、深大寺って聞いたことある?縁結びのお寺だって、行ってみない?この間もあんたの彼氏、浮気していたよね!あんな男やめやめ!ホント見てられないよ!」
アヤが乱暴にジョッキを置いた。私のことを「あんた」呼ばわりする時は酔っぱらっている証拠だけれど、言っていることは正論だった。
付き合っていた私の彼は、半ば当たり前のように浮気をしていて、それを許している私の感覚も麻痺をしていた。アヤの言うとおり気分転換も必要だなと深大寺へ行くことにした。

深大寺に降りると東京とは思えないほど緑の青々した匂いと涼やかな風が吹いていた。参道を歩いていくと茅葺き造りの山門が見えてきた。山門をくぐり、まず本堂へと足を運び、さっそく縁結びの神様にお参りをすませた。境内には今でも撞いている鐘楼や、さすがそば処と思えるそば守観音があり、とても落ち着く空間だった。デジカメを鞄から取り出し、シャッターを切っていたら、
「私も写真撮って」
とアヤがちゃっかりポーズを決め、こちらを見ていた。レンズを向けると
「撮りましょうか?」
背後から突然声がした。振り返ると一眼レフのカメラを持った若い男性が手を差し出していた。その笑顔に懐かしさを覚えながらも
「じゃあすいません、お願いします」
デジカメを渡し、アヤの方へと駆け寄った。
「じゃ撮りますよ、はい、オッケー」
「ありがとうございます」
「可愛く撮れましたよ」
カメラマンの彼はデジカメを返すと、
「僕のカメラでも一枚撮らせてくれないかな」
突然のカメラマンの彼からの申し出に、戸惑いながらも私とアヤはそのままカメラ前に立った。
「ありがとう、じゃまた」
右手で持ったカメラを軽く上げ、会釈をして去って行った。じゃまたの言葉に一瞬ドキリとしたが、それをかき消すようにアヤが、
「ちょっぴり照れちゃうよね、私達モデルみたいだったね。でも見た?笑うと目がなくなっちゃって、かわいいー。もしかして縁結びの効果が出たって感じ?」
冗談交じりに私の肩を強く叩き、隣の元三大師堂の方へと歩いて行った。
「おみくじやろうよ、ここの元三大師って、おみくじを最初に作ったって、ほら書いてある」
アヤが手招きをして、説明の書いてある看板を指差した。私たちは元三大師堂の階段を上がり、手を合わせ、まず、私からおみくじを振った。渡されたくじをみると「凶」だった。せっかく新しい出会いがあったかと思ったが一気に目が覚め、おみくじを結びに階段を下りた。おみくじを結んでいるとアヤが満面の笑みで駆け寄ってきた。小声で大吉だったよと報告してきた。よほど嬉しかったのかそれからずっとおみくじやパワースポットの話をしていた。
 お腹の空いた私達は参道沿いにある蕎麦屋の暖簾をくぐった。そこは、赤い布の敷かれた縁側の席や、ちょっとした竹やぶがあったりして雰囲気がとてもよく居心地のいいお店だった。お蕎麦の啜る音とアヤの話をBGMに、さっきの懐かしさを感じた笑顔と「じゃまた」の言葉の意味をずっと探していた。

彼の携帯が鳴り着信を見ると、また女の名前だった。タバコを買いに出た彼は五分もすると帰ってきた。タバコに火を点け、着信を知らせる光に気づいた彼は携帯を持ってベランダへ出た。ガラス越しに見る彼は、付き合い始めの頃の活き活きとした笑顔をしていた。私は黙って灰皿を渡し、そっと家を出た。
ちょうど深大寺行きのバスが目の前に来たので思わず乗った。バスを降りると、前と変わらず緑の匂いが私を迎えてくれた。きっと青々した新鮮な緑と澄んだ空気が、汚れて見えた彼の姿を浄化してくれるような気がした。  
深大寺で手を合わせると心の重みがスッと取れ、軽くなったような気がした。急にのどが渇いた私は蕎麦屋に入り、ビールを一気に流し込んだ。
「いい飲みっぷりだね、おねえさん。やっぱり、君だったね」
不意に肩をポンっと叩かれた。振り向くとあの時のカメラマンの彼がいた。
「また会ったね、今日はひとりなの?ここいい?」
私の目の前の席を指差し、同じテーブルに座った。本当にまた会ったという偶然にドキドキした。
「あの、この間はありがとうございました。とってもよく撮れていました。今日も深大寺へ?」
「深大寺の雰囲気が田舎育ちの僕には落ち着くし、近くの植物園も色々な花や草花があって、たまに来ては写真撮っているのさ。」
初めてふたりで乾杯をした。
「今日は何か撮りました?」
「まだ、今日はちょっとしか撮ってないけど」
少し照れながら一眼レフの大きなカメラを手渡した。液晶モニターに映し出されている画を1枚一枚見ていくと、花や木々の中に交じって1枚だけ私とアヤの写真があった。
「あの時の写真、きれいに撮れているでしょ?普段、人物って撮らないけど、楽しそうな君たちを見ていたら、つい、ね」
照れながら両肩を小さく上げ笑った。
「そういえば、あのあとどこか行ったの?」
「お蕎麦屋さんへ行ったくらいで。植物園は時間がなくて行けませんでした」
それから友人のアヤのことをネタに、いつも聞き役の私が、飲み進んだアルコールと再会したカメラマンの彼の存在とで、完全にテンションが上がり饒舌に話をしていた。
「じゃあ、植物園にこれから行くところだったから一緒にどう?」
残ったビールを一気に飲み干して店を出た。それから歩いて五分ほどで神代植物公園に着いた。入園券を手にすると、初めて見るパンパスグラスの写真に、生まれ育った田舎の秋の風景を思い出していた。
「あっそれ、パンパスグラスって言ってね。ススキの大きいバージョンみたいなもので、秋は夕焼けに映えてきれいだよ。まだ今は六月だからヤマアラシみたいだけどね」
カメラを持った彼は、先へと歩いて行った。木漏れ日が射す園内とシャッター音が心地よく、酔い冷ましには気持ちがよかった。背の高い木々に囲まれた先に、広い芝生広場が見えてきた。芝生広場の真ん中にヤマアラシのような塊があった。もしかしてあれがパンパスグラスなのかなと思わず駆けだしたら、酔いのせいで足がもつれ、おもいっきり転んだ。一瞬の出来事に茫然としていたら、
「大丈夫?」
カメラマンの彼は駆け寄って、私の顔を覗き込んでいた。
「あっ、だ、大丈夫です、久住先輩...」
転んだ衝撃で思わず口から出た名前は、一瞬にして過去の思い出の扉が開いた。憧れの久住先輩の背中を友達と追っていたこと、放課後、毎日教室からグランドにいる久住先輩を見つめていたこと、学校の廊下で、突然目の前に現れた久住先輩におもいっきりぶつかって教科書をぶちまけたこと。
「やっぱり君だったね、何となく見たことがあるような気がしていて。改めまして久住です」
急にかしこまって握手をするように手を出し、私の手を引っ張り上げた。
「今の転び方で僕も思い出したよ、こちらこそあの時はごめんね」
「先輩、覚えていたのですか?」
「あの時、しばらく青タンが消えなかったからね」
と笑いながら、ひっくり返った私の鞄の中身を拾ってくれていた。目の前にいる憧れの先輩と酔っ払いの自分が急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして謝った。それからは距離が一気に縮まり、お互い話がつきなかった。彼の懐かしい笑顔とともに。

 旦那は、相変わらず一眼レフのカメラで花や草木を撮っている。パンパスグラスの前に来ると、あわてて私の手を取る。
「ここで転んだらお腹の子がびっくりしちゃうだろ」
繋いだ手を強く握り笑った。
「今度、アヤの結婚式、何を着て行こうかな」

次はアヤと深大寺にまた来よう、縁結びの神様にお礼を言いに。

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<著者紹介>
桜井 あや(神奈川県川崎市/37歳/女性)

 あと一月程で咲き始めるだろう桜の木の下で、私は涙を流している。時折り微笑みながら。
 私が実家を出てからもう二十年になる。とにかく早く家を出たかった私は、高校卒業と同時に一人暮らしを始めた。私が家を出ると打ち明けたとき、父はしぶしぶ認め、数年前に父が再婚した義理の母は「寂しくなるわね」と言いながらも嬉しそうだった。同居していた祖母はとても悲しんでいた。
 父が再婚したい人がいると家にまりこという人を連れてきた時、私と祖母の安穏な生活は終わった。記憶の中でかすかに残っている優しい母の雰囲気と全くかけ離れていたまりこという人は、派手な化粧に派手な服装でいきなり台所に入ってお茶を入れだした。私も祖母もよその家にお邪魔したような居心地の悪さだった。それから数日したある日、家の居間は原色で圧迫感のある家具に占領され、今まで馴染んだ、地味だけれど使い勝手の良い家具達は処分されてしまっていた。それを知った時、私は、家を出ることを心に決めた。
 家を出た当初は、心細いのと、肩身の狭い想いをしている祖母が心配なのとで、週に一度は実家に足を運んだ。私が帰る日を祖母はとても楽しみにしていたようで、いつもお菓子を作って待っていてくれた。 
しかし、社会に出てからは、実家に行くのが月に一回になり、半年に一回になり、電車で5駅しか離れていないのに、いつしか実家が遠い場所になってしまっていた。私を待っている祖母の顔が心に浮かぶ度に、それを心の奥へ押し込んで過ごしていた。
元日の朝に父から電話があり、いつ帰って来るのか聞かれ、祖母の症状がまた少し進行したことを知った。
祖母は数年前から認知症の症状が出だした。昨年の正月に帰った時は、杖をつきながらも嬉しそうな顔で玄関まで出迎えてくれた。
「待ってたのよ、えっと......」
と私の名前がすぐには出てこなかった。
 かなり遅い冬休みを取って、私は一年振りに実家に来た。インターホンを押すと父が出迎えてくれた。少し奥を覗いてみるが、父の他に誰も出ては来なかった。代わりに聞こえてきたのは
「はい、右足上げて。ほら、こっちの足。ちゃんと上げないとおしめはけないでしょ」
という甲高い声と、つぶやくように
「すいませんね、こんなことしていただいて」
と言う懐かしい祖母の声だった。私が奥の祖母の部屋へ行くと
「あら、ようこそ。お母さん、紀子ちゃんよ」と祖母のズボンを上げながらまりこさんが祖母に教えた。
「紀子さんですか、よくいらしてくれました。ゆっくりしていってくださいね」
とお辞儀をして、祖母はベッドに横になってしまった。
「お休み取れたの?お母さん、少し前から風邪引いちゃってね。最近ずっと寝てるのよ」
まりこさんは以前より少し地味になっていた。
「お母さん、おしっこしたい時は横についてるボタンを押すのよ、いい?」
と祖母の下着をかかえてまりこさんは部屋を出て行った。こうなった祖母の世話をしてくれるのはありがたいとは思った。けれど、私はあらゆることが悔しかった。
 私は祖母の部屋を見渡した。去年来た時よりも箪笥の上の祖父の写真が増えていた。祖母はこの部屋で寂しい毎日を送っていたのかと思うと自分が不甲斐なかった。私は写真に近づき祖父の顔をじっと見つめた。
「おじいちゃん、会いたかったな。どんな人だったのかな」
私が生まれる前に死んでしまった祖父のことを考えていると
「紀子ちゃん」
と祖母がこちらを見て言った。
「おばあちゃん、わかる?紀子よ。ただいま」
やはり、祖母は嬉しそうな顔になった。記憶が戻ったり無くなったりしているのだろう。
祖母は震える人差指で空間を指した。祖母の指先を辿ると、箪笥の上の一枚の写真を指していた。それは若き日の祖母と祖父が満開の桜の下で寄り添って映っている写真だった。
「この写真が見たいの?」
祖母は笑ったまま写真を見つめている。
「ここに行きたいの?」
私が聞くと、祖母は深くこくりとうなずいた。写真の裏には[昭和二三年四月二日 深大寺]と書いてあった。深大寺。ここからはバスで数駅の距離だが、果たして歩くのもやっとの祖母が行けるだろうか?
「今日はもう遅いから明日車椅子で行こうね」
私が言うと祖母は少女のような笑顔になった。
 翌朝、祖母の風邪は悪化していてとても連れ出せる状態ではなかった。祖母は
「桜を見てきて」
と深大寺の写真を私に渡して言った。こんな時期に桜なんて咲いている訳がない。けれど
「わかった。見てくるね」
と言って私は深大寺へ一人で向かった。バスを降りて、木々に誘われるように奥へ奥へ歩いて行く。さすがに今日みたいな寒い日は誰もいないだろうと思っていたが、少し先に男性が一人木にもたれて本を読んでいた。私が少しじろじろ見てしまったからか
「こんにちは」
と男性が挨拶してきた。私は慌てて
「あ、こんにちは」
と言った。目が会った時にドキッとした。その男性はとても優しい目をしていた。
「お参りですか?」
木から離れて男性が聞いてきた。
「いえ、祖母と一緒に来る予定だったんですけど、一人で散歩です」
「散歩ですか。僕は人を待っているのですが、まだ来そうにないのでご一緒していいですか?」
突然の誘いにびっくりしたはずなのに
「はい」
と口が勝手に言っていた。男性と並んで歩いていると不思議と安心した気分になった。
「ここはね、春になると道いっぱいに桜が咲いてそれは見事ですよ。僕の恋人はね、桜の散る頃が一番好きなんです。風が吹くと空全部が桜色になって自分に降り注いでくるって、それはもう楽しそうに笑うんですよ」
「待っているのはその恋人ですか?」
「はい。僕がいつも待ちぼうけです」
と男性は穏やかに笑った。
「桜色の空か。散っていく桜ってなんだか悲しいなと思っていたけど、次からは明るい気持ちになれそう」
「ええ。僕達の子供も、そのまた子供もこの桜を見て明るい気持ちになって欲しいな」
私達は赤い門の下の石段に腰を下ろした。真冬なのに、私達のいる場所だけは春のように暖かい気がした。何だろうこの懐かしさは。 
 その後私達は透き通ってきらきらした水の流れる川沿いを歩いて元の場所に戻ってきた。
「じゃあ、僕はもう少しここで待っています。とても楽しい散歩でした、ありがとう」
と男性は手を差し出した。私はその手を握り
「近々祖母とまた来ようと思います。ありがとうございました」
と言って別れた。
 家に帰ると家中がバタバタしていた。祖母は肺炎を起こして予断を許さない状態だということだった。私は何が何だかわからないまま祖母に話しかけた。
「おばあちゃん、深大寺行こうよ。春になると桜が降って来るんだって。行きたいんでしょ?元気になってよ、おばあちゃん」
祖母は目を閉じたまま苦しそうに息をしているだけだった。私は泣きながら写真を見た。祖母のきらきらした笑顔。そして、横にいる優しそうな目をした祖父。そういえば今日出会った男性はこんな目をしていた。私は男性の手の温もりを思い出していた。
 朝になっていた。祖母のベッドの脇で目を覚ました。祖母は昨日とはうって変わって安らかな顔になっていた。容体が良くなったのかと思ったが、しばらくして私は急いで父とまりこさんを呼びに行った。私には、祖母の最期だとはっきりとわかった。祖母の息は先ほどよりも深いものになっていった。
「行ってくる!」
そう言って私は慌てて家を飛び出し、昨日の場所に向かった。やっぱりいた!昨日散歩した男性が、写真で見た若き日の祖父が木の下に。そして私の後ろから
「ごめんなさい、遅くなって」
と走って来る女性に向かって笑顔で手を振った。その女性はあの写真の祖母だった。祖父が私に気づき
「やあ、僕の待ち人がやっときたよ」
と笑いながら言った。いつの間にか私達の周りは満開の桜で、風が吹く度にひらひらと花びらが降ってきた。桜吹雪の中で両手を広げた祖母が嬉しそうにくるくると回っている。
「さあ、そろそろ行こうか」
祖父が祖母に言った。祖母は祖父の手を取り桜色の中を歩いて行く。私は言いたいことが沢山あるのに言葉が出なかった。体が動かなかった。すると、遠くから祖母が走ってきて
「何故だかわからないけれど、あなたにどうしても言わなきゃいけない気がしたの。人は出会って別れるものよ。あなたはこれからあなたの人生を笑顔で送ってちょうだい。私はそれを心から願うわ」
と私を軽く抱きしめて祖父の元へ走って行った。祖父としっかり手をつないだ祖母はこちらを振り返り
「もう泣かないで。私は今とても幸せなのよ。ありがとう」
と言ってきらきらした笑顔で手を振り、祖父と並んで歩いて行った。

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<著者紹介>
藤原 尚(東京都三鷹市/34歳/女性/自由業)

 気晴らしがてらに植物園を散歩したあと、深大寺の前まで足を運ぶ私は、いつもそこで立ち止まり躊躇う。なぜ躊躇うか? 答えは簡単、私が不純な女だからだ。神仏を目の前にして、こんな不純な心を曝け出していいものだろうかという思いが、どうしても私の足を留まらせるのだ。
 私は現在、大学四回生。そして、まだ学生であるにも関わらず、結婚願望が非常に強い。本来の私の人生設計では、三回生になるまでに素敵な人を見つけて、卒業までの期間愛を育み、卒業後夢の結婚を果たすはずだったのだが、人生そんなに甘くはないと痛感した。
 三回生になるまでは勉強で手一杯で、残念ながら、私には恋人ができなかったのだ。ただ、四回生になった今も恋人がいないかと訊かれると、答えはノーである。そう、めでたいことに現在私には恋人がいる。しかも、更にめでたいことだと言えるのだろうか、その数は「一」ではなく「三」なのだ。つまり私は、両手にも余る三股をかけてしまっているということになる。
 これは言い訳になるのかもしれないが、そんなことになってしまっているのには、きちんと理由がある。
 まず一人目の彼は、趣味が同じで楽しい彼なのだが、プライドが高いせいか毎日喧嘩になり精神的に疲れてしまう男。別の一人は穏やかで優しい彼なのだが、浪費家な上にひどく頼りなく先行きが心配だ。残る一人は尊敬できるしっかり者の彼なのだが、自分の時間ばかりを大切にするので疎遠気味になり、私は寂しく感じてしまう。
 何が言いたいのかというと、要はみんな同じ程度に一長一短なのだ。だから私の気持も中途半端で煮え切らない。その結果、気づけば恋人が増えてしまっている事態に......。
 勿論、私自身がしっかりしていれば、三股なんて結果になっていないことは承知しているし、人のことを評価できるほど、自分ができた女ではないこともわかっている。そんな足が宙に浮いたようなことをしている場合ではないことも理解している。私はさっさと一人に絞って将来に向けてきちんと交際を続けていかねばならないはずなのだ。それなのに私は一体誰を選べば良いのかわからず、途方に暮れている次第なのだ。
 そこで、縁結びで有名な深大寺にお参りしようと思ったのだが、よくよく考えると、こんな不純なことをしている女の、「一番良い人と結ばれますように」という願いなんて聞き入れてもらえるはずがない。だからこそ、私の足は止まる。深大寺の入り口で動けぬまま、私はじっと立ち尽くしてしまうのだ。
 そうこう考えていた時。少し離れたところから、見たことのある男がこちらに向かって歩いて来るのに気づいた。私はすぐにそれが誰かわかった。同じ大学に通う石田という男で、私が苦手とする物静かで堅物なイメージの男だ。私は鉢合わせになるのが嫌で、慌てて寺の中に入り、木の陰に身を隠した。
 石田は私に気づかず寺の中に入り、まっすぐに本堂へと向かった。私は見つからなかったことに、ほっと胸を撫で下ろしたが、いつの間にか深大寺に入ってしまっている自分に気づき苦笑した。だが、せっかく入ったのだから、もう割り切ってお参りをして帰ろうと決めた。聞き入れられないならそれでもいい、なるようになるだろうと。それに、なぜ石田がここに来たのか気になるのもあったのだ。私は、興味津々に後をつけてみることにした。
 本堂で手を合わせた石田をじっと観察していた私は、次の石田の行動に驚かされてしまった。なんと石田は、思いつめたような真剣な表情で、縁結びのお守りを購入し始めたのだ。
それを見て私は内心笑った。あの堅物で薬品の研究ばかりしている石田も、恋愛に強い憧れや想いを抱いているのだとわかると、何だか可愛らしく感じられたのだ。
確か石田には恋人はいなかったはずだ。大学内で女性と会話を交わしているところを見ることも殆どないくらいだ。きっと「恋人ができますように」とでも願を掛けに来たのだろう。石田はそのまま、澄ました顔で深大寺から出ていってしまった。
 今度大学で会えば、このことを思い出して私は笑ってしまうのではないかと心配になるくらい、石田の一連の行動が意外で面白かった。あの購入したお守りを、澄ました顔で、一体どこに隠し持つのだろうと想像すると、余計に愉快になってくる。
私も石田の真似をして、同じお守りを購入することに決めた。今度大学で会った時に、さり気なく石田の前でお守りを見せたら、どんな反応をするのだろうかと考えると何だかワクワクしてしまった。
「一番私にふさわしい人と結ばれますように」ときちんとお祈りを済ませて、私は深大寺を後にした。
 小腹がすいてきたので、帰りに蕎麦でも食べようと、適当な蕎麦屋を見つけて入った。この辺りの蕎麦は美味しいので、来るとついつい食べたくなってしまうのだ。
だが、店に入り注文を終えた瞬間、私は「しまった!」と後悔した。前方の席に石田が座っていることに気づいたのだ。よりによって同じ店を選んでいたとは......。
 しかも運の悪いことに、石田が私に気づいてしまった。気まずそうに私は愛想笑いを浮かべる。それに対して石田はくすりとも笑わず、自分の座っていた席から私の席の方に移動してきた。私は慌てる。
「奇遇ですね」
硬い口調で石田が話かけてくる。
「いやぁ......ほんと偶然だね」
私は動揺を隠せないまま答える。すると、石田はじっと私の瞳を見つめてから、躊躇いがちに尋ねてきた。
「そう言えば、さっき深大寺で何をしていたんですか? 僕より先に入っていきましたよね?」
私は自分の耳を疑った。聞き間違いであって欲しいと思うほど動揺した。石田は知っていたのだ。もしかすると、私が石田の後をつけていたことまで知っているのかもしれない......。私は赤面しながら口をもごもごとさせた。
「いやあ......あの......その......お参りに......」
だが、石田は私の様子なんて気にせずに、続け様、衝撃の言葉を漏らしたのだった。
「縁結びの願掛けですか? だけど一体、何を願うのです? 三人も恋人がいるはずなのに」
途端に私は激しくむせて、慌てて茶を啜った。なぜ石田がそんなことを知っているのか。私の恋人ですら、自分が三股をかけられていることに気づいていないのに、垢の他人の石田が知る術がない。私は恐る恐る尋ねる。
「何でそのことを......?」
すると石田は初めて微笑を浮かべた。
「きちんと見ていればすぐにわかりますよ。貴方は意外と素直でわかりやすい人なんですから」
「もう......勘が良すぎだよ。どうせ、違う男といるところでも目撃したんでしょ?」
「いやまあ、それだけではないですけどね」
石田ははぐらかすように茶を啜り、
「それより、三人も恋人がいて何も不足はないでしょう。それとも、他にも恋人が欲しいのですか?」
私は首を左右に振った。
「不足だから迷ってるんだよ。誰がいいのかわからないんだ」
すると、石田は教師のように厳しい表情をした。
「わからないなら誰も選ばなければいいだけの話ですよ。迷っているようでは所詮それまでの恋愛です。貴方の課題は、誰を選ぶかではなく、きちんと三人にケジメをつけてから、自分に本当に適した人を探し出すことですよ。同時交際なんてしているのは良くありません。三人の男性にも失礼です」
私は痛いところを突かれて胃がきゅっと締め付けられた。石田の言っていることは当たっている。確かに、迷うような三人の中から一人を選び出す必要はどこにもない。私に与えられている選択肢はもっと他にもあるのだ。
「そうだね、考え直してみるよ......」
私は素直にそう答えた。私は誰かにはっきりと、そう指摘されたかったのかもしれない。私は石田に「ありがとう」とお礼を言った。
 殆ど話をしたことがなかった石田を単なる偏屈だと思っていたが、話してみれば案外まともな人間なのだと知り、少し安心した。私は叱られた子供にように、しゅんとしながら蕎麦が運ばれてくるのを待った。
「おまたせしました」
店員が持ってきた蕎麦を、私と石田は音を立てて啜った。
「美味しいですね」
「うん、美味しい」
食べながら私は、石田に質問してみる。
「ねえ、石田君は深大寺で何を願ったの?」 
間髪入れず石田は「それは内緒です」と答えた。
「えー、私には答えさせたくせに、それはズルイ! 石田君ってズルイ人だったんだね」
私は悪戯っぽく頬を膨らませて見せた。
石田は少し考えた後、
「まあ、思った以上にご利益があったということだけは確かですよ」とだけ言った。
「え?」
私はその意味を考えるのに、少々時間がかかった。いや、私の考えが合っていたのかは定かではない。だが、何となく石田が素敵に見え始めた気がしたのは確かなのだった。

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<著者紹介>
黒咲 典(大阪府岸和田市/30歳/女性/無職)

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