いつものとおり、散歩に行こうと言い出したのは隆だった。
静謐な深大寺と、緑が目に優しい神代植物公園。それから美味しい蕎麦屋に魅せられて、休日はよく深大寺付近を一緒に散歩する。
少なくとも、あの辺の蕎麦屋を全制覇するくらいは行っていて、二人のお気に入りの店もできた。植物公園の入り口付近の店だ。
散歩の途中に、毎回そこで蕎麦を食べる。
それから植物公園を散策する。お給料日前や、お財布が厳しいときは、入園料のかからない水生植物園や林間散策路を二人でゆっくりと辿る。季節を彩る様々な花に見とれているうち、花の名前にすっかり詳しくなった。
この習慣はずっと続いていて、殆んど破られたことはない。雨が降っても風が強くても、今日みたいに喧嘩していても、一緒に行く。
 そういえば喧嘩の原因はなんだったっけ?
 ああそうだ。隆がトイレットペーパーを使い終わったのに、新しいのを出しておかなかったからだ。用を足す前に気付いたのがせめてもの救いだったけど。
 いつもの散歩道を一緒にたどる男を、ちらりと見る。
新島隆。私と同い年だから二十五歳。背は私より十センチ大きいのに、細身なので体重はあんまり変わらない。会社員だから普段はぱりっとしたスーツを着ているけど、私服はだいたいジーンズだ。日曜日だから、今日もジーンズとダッフルコートのラフな格好だ。
深大寺のそばにあるアパートで一緒に暮らし始めたのは、お互い大学を卒業するときだ。早いもので、もう三年になる。
どういう人なのかもっと知りたかったし、一緒に住むのが当たり前な気がした。彼がいてくれたらそれだけでいいって思ってた。
そのはずだったんだけどな。

一緒に暮らして、良かったことももちろんあった。だけど、それと同じくらいイラつくこともあった。原因はどれも下らないことだ。
例えば、隆が脱いだら脱ぎっぱなしにすることとか、酔っ払って帰ってきて服のままで寝るとか、トイレに入って便座をあげたままにするとか。
どれも些細なことだけど、塵も積もれば山となるように、下らないことも積もり積もって喧嘩になる。私も働いているので、疲れて帰ってきて部屋が荒れ放題だとがっくりするし、イライラする。人間だもの。
「まだ怒ってるのかよ。悪かったってば。怒ると可愛くねえぞ、恭子」
 黙りこんでいた隆が、ふいにそう言った。
私はそっぽを向いた。可愛くなくて悪かったわね。
「蕎麦おごってやるからさあ。機嫌直せよ」
 それでも譲歩する隆に、不本意ながら少しほっとする。
「......天ざる、大盛りだからね。デザートにあんみつも食べたい」
「おう、わかった。思う存分食え。なんならそば粉クレープとかそば饅頭も食っちまえ」
 そう言って笑う隆の指先をぎゅっとにぎる。
くやしいけど、こうやって笑うとき細くなる目元が好き。意外にきれいな歯並びも好き。ちょっと掠れた声も好き。私の手を握り返してくれる指先も好き。
 幾つかある欠点を全部を並べてみても、好きな気持ちのほうがそれを上回る。
 だけど、もしかしたら隆は、もう私のことをそれほど好きじゃないのかな。
 だって、一緒に暮らし始めて決して短くはない時間が過ぎたのに、隆は『結婚』という単語を一切口にしない。
隆との生活に私が不満を抱くように、彼にだってきっと私に対する不満があるのだろう。
彼からしてみれば、私は口うるさくて可愛くない女なのかもしれない。
世の中には、私よりもっと優しくて可愛い女の子なんて、掃いて捨てるほどいる。
そういう子に、隆が恋をしちゃうことだってじゅうぶんあり得る。
その場合、私は捨てられちゃうのかな。
自分でも嫌になるくらい悲観的だけど、ついついそんなふうに思ってしまう。
 私たちはこのままいつか、道を違えてしまうのだろうか。そう思うと胸が詰まった。

 天ざる大盛りとあんみつを食べたら、違う意味で胸が詰まった。
おいしかったけど、さすがに食べ過ぎた。
「なに黙りこんでるの」
 はちきれそうなおなかを抱えてぐったりしていると、隆に訊かれた。
「お腹がいっぱいでちょっと気だるいだけ。隆だって今日は無口じゃん」
 そう指摘すると、隆はそうかあ? と首をかしげた。自分で気づいてなかったのか。
普段なら会社であったこととか、ちょっとしたことを面白おかしく喋るのに、今日はなんだかいつもと違う。さっきから、どことなくぼんやりしている。根に持つタイプじゃないから、喧嘩のせいじゃないとは思うけど。
「そうだよ。なんか悩みでもあるの? もしかしたら恋煩いだったりして」
 冗談めかして訊いたら、隆が目を丸くした。
「恋煩い? 誰が誰に?」
「さあね。そろそろ行く? ごちそうさま」
 隆がお会計を済ませていたので、私は席を立った。
「どういたしまして。あ、植物公園に行く前に、深大寺をお参りしようぜ」
 そう言って隆は私の手を取った。
薄暗い石段を下りて、山門の並びにある小さなお店を眺めながら歩いていたら、不意に隆が手を離した。
「ごめん、ちょっと先にお参りしてて。すぐ行くから」
「わかった」
 どうしたんだろ。トイレかな。
そう思いつつ一人で境内に入った。見るともなしに、なんじゃもんじゃの木を見上げる。
 あてもなく境内を散策していると、社務所の脇にあるおみくじの箱が目に入った。
ひとつ引いてみようかな。でも、あんまり良くないのがでたら嫌だな。そう思いながら箱をじっと見た。ここのおみくじには、ひとつひとつに押し花が入っていて、お守りになる、と書いてある。
 そういえば、私たちが付き合い始めたきっかけも花だった。私の誕生日に、隆が小さな薔薇の花束をくれた。そして告白してくれた。
薔薇を見ると、あの日のことを思い出す。
私が神代植物公園を好きな理由の一つは、見事な薔薇園があるからだ。
今は二月なので、艶やかな椿や可憐な梅が冷たく澄んだ空気を甘い香りで包んでいる。
薔薇が咲くのは、もう少し先のことだ。
その頃の私たちは、どうなっているのかな。

それにしても隆が来ない。
寒いし、早く来ないかな。そう思って山門を振り返ったとき、ちょうど姿を現した。
「おまたせ。なに、おみくじ引くの?」
「ううん、ちょっと見てただけ」
「ふうん。俺、引いてみようかなあ」
「へえ、珍しいね。今までそんなの引いたとこ、見たことない。どうかしたの?」
「べつに」
 そう言って、鞄からお財布を出して二百円払う。それからおみくじを引いて、難しい顔で開く。読み終わると、表情がゆるんだ。
「良かった、まあまあだ」
 覗き込むと、なんと凶だった。
「全然まあまあじゃないじゃん。初めて見たよ、凶なんて」
「いいの。勇気が出た」
 おみくじを木に結びながら、隆は微笑んだ。
「勇気? なんの?」
「これを渡すための」
 そう言うと鞄をごそごそして、箱を出した。片手に乗るくらいの小さな段ボール箱だ。
「恭子にやる。あけてみて」
 いったいなんだろう。落とさないように慎重に箱を開ける。そこにはマグカップのようなものがあった。山門の入り口付近にある、らくやきのお店で買ったものみたいだ。
あのお店では、焼き物のお買い物のほか、陶芸や絵付けも楽しめる。絵付けは二十分でできるそうなので、いつか一緒にやろうねって隆と話したことがある。
「箱から出して、よく見て」
 訳がわからないながらも箱から出す。
中身は思った通りマグカップだったけど、そこに描かれていたのは、思いがけない言葉だった。
『いつもありがとう。だらしない俺だけど、良かったら結婚してもらえますか?』
 それから、マグカップの箱の底に、むきだしのままで転がっているものがひとつ。
綺麗な石のついた華奢な指輪。
「......ねえ。まさかこれってプロポーズ?」
「もちろん。一緒に住み始めてそろそろ三年たつし、恭子が嫌じゃなかったら...」
 私はひとまずマグカップを隆に渡した。
それから指輪を箱から出して、左手の薬指にはめてみた。ぴったりだった。涙が出そうになったけど、ぐっとこらえて微笑む。
「ありがとう、嬉しい。私も隆と結婚したい」
 隆もほっとしたように笑みを浮かべた。
「良かった。こっそりこれを用意してたけど、今日喧嘩しちゃったし、断られるかと思った。さっき恭子が言った通り、確かにお前に恋煩いでもしてたみたいだな。だけどおみくじの恋愛運も縁談も悪くなかったからさ」
「それでまあまあだったんだ」
 私は吹き出した。
 どうやら私たちの散歩は、この先もずっと続いていくようだ。

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<著者紹介>
綾稲 ふじこ(埼玉県/31歳/女性/会社員)

 やはり自転車で来て正解だった。神代植物公園北の交差点を曲がり、公園内を横断する並木道に入った瞬間、舞子はそう確信した。雨に濡れた植物のむせ返るような匂い。アスファルトの上に木漏れ陽が描く複雑なまだら模様。頭上を通り過ぎていく木々放つ圧倒的な生命力。それら全てが渾然となった官能を胸いっぱいに吸い込むと、今までの惨めな気分が何処かへ飛んで行き、躰が軽くなるのを感じた。
 ペダルを漕ぐ脚に力を入れる。七月の風が全身を通り過ぎる。木々の葉から落ちてくる水滴が頬の上で弾けるのが心地良い。いつもなら学生鞄が収まっている、ハンドルの前の買い物かごには、愛用のバッグがひとつ。その中には、初めて書いたラブレターが大切に収められていた。
 その手紙を、舞子は徹夜で書き上げた。書き終わったのは朝の七時。夜半過ぎから降りだした雨は、その頃には土砂降りになっていた。やっとの思いで書き上げたというのに気分は最悪だった。どっちみち、この雨じゃ、手紙を出しに行くことすら出来ない。いっそ全てを無かった事にして、眠ってしまおうか。しかし、枕を抱えてリビングのソファに転がってみても、眠気は一向に訪れなかった。九時を過ぎた頃、雨足が弱くなってきたのに気づいた。あれよあれよいう間に雨が止み、雲の切れ目から強烈な夏の日差しがこぼれてきた。
 舞子は自分の部屋に戻ると、便箋を三つ折りにして封筒に入れ、表にブルーブラックのインクで丁寧に宛名を書いた。内容をもう一度読み返す勇気はなかった。スティック糊で封をした時、果たしてこれで良かったのだろうかと、少し不安になった。
 初めて書いたラブレター。しかし、その内容には、はなはだ自信がない。そもそも、ラブレターとはどんな物なのか、舞子にはよく分からない。夜通し書いた手紙も、こうして夏の日の下で見ると、あまりに現実感が薄く、儚いものに思える。本当に、これを投函する勇気が、自分にあるのだろうか。

 舞子は、自分が感情よりも、理性の勝った人間だということを承知していた。言葉で明確に表現出来ないことや定義できないこと、あるいは客観的な評価基準がないことが、彼女はとても苦手なのだ。友人たちが、服のセンスの良し悪しや、音楽や食べ物の良し悪しについて、何の苦も無く論評しているのを聞いて、いつも羨ましく思っていた。しかし、その評価基準を問い詰めて、友人たちを呆れさせるような事はしない。それくらいの分別は彼女にもあった。成績が良いという事で、ただでさえ特別扱い......というかほとんど変人扱いされているというのに、これ以上、揶揄いのネタを自分から提供する事はない。
 こんな性格は、こと恋愛に於いては、かなりやっかいだ。理性が発達し、情緒が未発達な人間にも、恋愛という物は容赦なく襲ってくる。そして恋愛感情に支配されたとき、舞子はいつも、極度の混乱状態に陥るのだ。何事にも白黒つけなければ気が済まない彼女の性格は、微妙な駆け引きや非言語コミュニケーションが重要な恋愛に、まったくもって向いていない。
 そんな舞子がラブレターを書くということ自体、無謀な挑戦だったのかもしれない。昨夜、真っ白な便箋を前にした時の絶望的な気分が、再び蘇ってきた。いったい、ここに何を書けというのだろう?
 自分の素直な気持ちを便箋に移せばいい。
 おそらく、それが正解なのだろう。しかし、それは舞子には通用しない。なぜなら、その素直な気持ちこそ、彼女の最も理解し難いものなのだから。強いて言葉にすれば、ただ「好き」としか言いようがない。真っ白な便箋の真ん中に、黒い大きな文字で「好き」。それが舞子の素直な気持ちだった。
 だが、それではラブレターにならない。「好き」は、ただの出発点。問題は、それをどう展開させるかだ。いろいろ苦心して、彼女が考え出したのは二つ。ハウマッチとホワイだ。あなたのことを、どれだけ好きなのか。なぜ好きなのか。その時は、いいアイデアだと思った。これなら私でも書けるかもしれない。
 ところがやってみると、これが簡単にはいかない。舞子は万年筆を手に取り、まずハウマッチの方から取り組んだ。「10を最高としたら7.5くらい」それが彼女にできるせいぜいだった。便箋を破り捨て、気を取りなおしてから、ホワイに取り掛かる。一時間後、なぜあなたを好きなのかについて、便箋五枚にわたって延々と論証している自分に気づいた。ラブレターで相手を言い負かしてどうするつもり?舞子は、自分がほとほと嫌になってきた。
 学習机に頭を乗せてぼおっとしていると、表で雨の音がするのに気づいた。もう、深夜の四時半を廻っている。やはり自分にラブレターなんて無理だ。いや、そもそも恋愛そのものが無理なんだ。優等生の舞子に恋愛なんて似合わない。
 すると、胸の奥に小さな怒りの火が点るのを感じた。恋愛なんて、私がしたくてしている訳じゃない。いつも、こちらの意思など無視して、突然降り掛かってくるではないか。今度だって、一ヶ月前には何とも思ってなかったクラスメートが、いつの間にか私の中で世界の中心みたいになってしまった。何でこんなふうになったのか、こっちが知りたいくらいだ。そう思った瞬間、ついさっきまで自分がホワイについて、便箋のうえでさんざん論証を重ねていた事に思い当たった。その全てが、何もない想定の上に、論理を積み重ねただけの、空虚な詭弁だと突然気づいたのだ。そうだ、なぜ彼を好きなのかなんて、私自信、全く分かっていないのだ。
「私には分かりません。どうしてあなたを好きになったのか」
 気が付くと、便箋にそう書いていた。すると、この一ヶ月間、心の上にのしかかっていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
 そういう事だったのか。自分の心に素直になるってこういう事なのか。分からない事を、分からないと素直に認め、そのまま受け入れる。無理に理由を追求しようなどとはせず、むしろ分からない事、それ自体を大切にする。なぜならそれが、自分というものだからだ。不思議なことに、舞子は自分の何かが、初めて分かったような気がした。舞子は、心を空っぽにし、ただペンを走らせた。心がどんどん軽くなるような気分だった。
 書き上がったのが、朝の六時。そして、清書にさらに一時間。雨は日の出と共に激しさを増し、その頃には土砂降りになっていた。
 
 自転車のスピードを上げると、樹木の葉を通して落ちてくる光の粒が躰を駆け抜け、まるで光のシャワーを浴びているようだ。なんて美しいんだろう。もし私に絵が描けたなら、この景色を素敵な水彩画にして彼に贈りたい。もし私に音楽の才能があったら、現在の気分をピアノの小品にまとめて、彼にそっと聴かせたい。そう考えると、自然に笑みが浮かんできた。
 自分は、これからどうするつもりなんだろう。ペダルを漕ぎながら、舞子は不思議に思った。どうやら自分は、あの手紙を出すつもりはないらしい。神代植物公園北の交差点を左に曲がった時点で、それは分かっていた。少しばかり、勇気が足りなかったのだろう。真っ直ぐ行けば目の前は郵便局。なのに、自分は交差点を曲がってしまった。
 この道の先は、五叉路になっている。そして、そこを右に折れて少し行けば、深大寺へ降りる参道だ。深大寺は、縁結びの寺として有名な古刹だ。こんなに近所に住んでいるというのに、舞子は一度も深大寺を訪ねたことがなかった。
 縁結びの寺で願を掛ける。いつもだったら、そんな発想をしたとたんに、彼女の中の理性が騒ぎ出し、現実世界での効用と、宗教施設での儀式的行為の間に因果関係を見出すことの無意味さを論証し、ただちに馬鹿な考えを退けていたはずだ。しかし、今回はそうではなかった。夏の空気があまりに気持ちよかったせいか、一晩、眠っていなかったせいか、彼女の中の理性は、今日は妙に大人しかった。ひとつだけ確実なのは、深大寺の森へと続く参道を、このまま自転車で降りて行ったとしたら、それは素晴らしくいい気分に違いないという事だ。

 山門の近くに自転車を駐めた。ラブレターの入ったバッグを手に取り、参道を少し歩いた。雨に濡れた深大寺の森が美しかった。さっきまで雨が降っていたせいか、人通りは少なかった。蕎麦屋や土産物屋が、参道脇に席を整えたり、商品を並べたりしていた。
 境内に入り、両手を清め、深沙大王堂の前に立った。木に囲まれた、思ったより小さなお堂だった。雨上がりの静謐な空気が喉の奥に流れ込み、自転車を漕いでいたときとは、また違った心地良さを覚えた。バッグから封筒を取り出し、手にとった。私の気持ち。それをどこまでこの手紙に託すことが出来たのだろうか。私は、もう一度、この手紙を投函する勇気を持つことができるだろうか。
 両手を合わせ、その間に手紙を挟み、しずかに眼を瞑った。風が頬を優しく撫でた。
 どうか、わたしの気持ちを、伝えることができますように。

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<著者紹介>
榊 貴之 (東京都稲城市/49歳/男性/会社員)

―あ、また。
瀬里葉は、唇を噛み締めている自分に気が付いた。
どうも最近、こうすることが癖になってしまっている。この間も先輩に、「お客様をお迎えする窓口で、ムスッとした顔しないの!」と注意されてしまったところだ。
耐えているのだ、と瀬里葉は思う。彼がいなくなった淋しさを、唇を噛む痛みでごまかし、紛らわせようとしているー。
バスの窓に映る、どう贔屓目に見たところで平凡な、二十四歳の女(それが現実だ)と目を合わせ、瀬里葉は心に言い訳した。


 今まで、単なる部下の一人でしかなかった瀬里葉からの突然の告白に、彼はさぞかし戸惑ったことだろう。でも、せめて最後に、気持ちだけでも伝えておきたかったのだ。
 彼は、
「自分には、君はもったいない」
と言った。その前の十数秒の沈黙が、まるで罰ゲームを受けているみたいに感じられた。
「友達が入院したとか、親の介護が、とか......飲みに行くと、必ずそういう話題になるんだ。君にはまだ、想像もできないだろうけど。......僕はもう、そういう年なんだよ。......だから、」
こちらが気の毒になるほど、彼は頭を下げた。
―僕なんか、止めたほうがいい。

 その答えを、どう受け止めていいのか悩んだ。
(......私じゃ、駄目ですか? そんな言い方をされると、諦めきれない)
思い出して、瀬里葉は再び、唇を噛んでいた。
(あの時は、怖くて聞けなかった。)
だからこそ、はっきりした答えをもらうために、何よりも、彼に会いたくて、瀬里葉は、深大寺行きのバスに乗ったのだった。

深大寺のある調布市は、人の多いことを除けば、瀬里葉の田舎とよく似ていた。カラフルだけれどどこか無機質な、大手チェーンの店が立ち並ぶ中に、昔からの古い家や商店、そして深大寺を中心として大事に守られてきた自然が、仲良く、新たな時を刻んでいた。
 深大寺入口のバス停で降りると、繁った木々の影響だろうか、いっそう空気がひんやりとした。桜が、枝先まで残らず花を咲かせているというのに、今日はあいにくの曇り空。せっかく新調したシフォンブラウスも、上着の下に隠さなければならないくらいの肌寒さだった。
瀬里葉の目指す蕎麦屋は、観光案内所の近くだった。参拝を終え、名物の蕎麦を食べて帰ろうかと、楽しそうに思案している家族連れの間を、瀬里葉は一人、肩をすぼめて通り抜けた。
いつかこんな風に、ベビーカーを押して、愛する旦那様と出掛ける休日が、瀬里葉のささやかな夢だ。けれど今の彼女にとっては、持て余すほどの夢でもあった。
 山門へ向かう道を地図通りに進むとほどなく、目的の蕎麦屋は見つかった。見つかったけれど、心に準備をさせたくて、瀬里葉は少し離れたところで立ち止まった。
店は繁盛しているようだ。入り口でたむろする客たちの隙間から見えた懐かしい姿に、瀬里葉は思わず泣きそうになった。店の入り口で蕎麦を打っていたのは、彼―菰田周吾その人だった。

 入社以来、瀬里葉の真面目さを誰よりも認め、どんな失敗でもフォローし、励まし、時には叱咤してくれた菰田は、先月末で銀行を辞め、蕎麦の手打ち職人へと転身した。
 菰田から退職の話を聞いた時、瀬里葉は、心を半分えぐられたような衝撃を受けた。自分が勤めている間に、上司である菰田がいなくなるなんて、考えたこともなかった。それだけ瀬里葉は菰田に頼っていたし、彼は銀行にとって、もとより瀬里葉にとって、必要な人だと思っていた。
「平日は銀行マン、休日は蕎麦打ち。実はここしばらく、二束の草鞋の生活をしていたんだ」
秘密基地の場所を打ち明ける子どものような瞳で、菰田は無邪気に言った。
「四十の手習いだよ」
と。大したことではないよ、と照れた。
けれど今、すぐそこで蕎麦を打っている彼の目は真剣だった。

ガラス越しに、珍しげに見守る参拝客には目もくれず、ひたすらに蕎麦を打つ。手の動きに合わせて、上半身も力強く、リズミカルに上下した。細身の菰田は、全身の力を振り絞って蕎麦を打っているようだった。
(すごい......)
何かに引き寄せられるように、瀬里葉の足が、一歩、二歩と進んだ。
蕎麦を打ち始めて、まだ数年とは思えなかった。途切れのない動き。ぶれない目線。あまりの集中力に、瀬里葉ははっとさせられる思いだった。
「どんなに忙しくても、お客様に、決して雑な対応をしてはいけない。笑顔で丁寧に、かつ、迅速な仕事をすること。それがプロの仕事だ」
よく注意された。瀬里葉は真面目で一生懸命だけれど、自分のことに一途になりすぎて、周りが見えていないことがある―。

(......あの頃に比べて、私は、少しは成長しましたか?)
 湧き上がった思いは、上司であった菰田に対しての問いかけではなく、自分自身への、遠回しの戒めだった。
 菰田がいなくなってしまってからは、心にぽっかりと穴が開いたようだった。仕事中も、菰田のことを思い出しては、ぼんやりとしていた。
「窓口で、ムスッとした顔して座ってないの!」
そこには、いつか菰田に言われたようなことを、いまだに注意されている自分がいた。
 気難しい客の対応に手こずったり、苦手な業務に尻込みしたり。いつまでたっても、仕事は「やらされるもの」で、給料は「がまん料」であって、胸を張って窓口に座っていられる瞬間なんてなかった。
上を目指そうなんて思わない。自分はこの程度、この程度がいいのだと、大した努力もしないで、限界を作ってしまっている自分。
 菰田との間に、大きな溝を感じた。

 そうすれば菰田が気付いてくれるかのように、瀬里葉はしばらくじっと、菰田だけを見つめていた。
いつまでも一人前になれない瀬里葉のことなど知らずに、菰田はきっと、明日も真摯に蕎麦を打ち、また一歩、ベテランの蕎麦職人へと近付いていくのだろう。菰田にとって瀬里葉は、告白の前も後も、単なる部下の一人に過ぎなかったのだ。それを証拠に、彼はすでに新たな道を歩み始めている。それも、ずっと、ずうっと先を。
 瀬里葉は、唇を噛んでいることに気付いたが、構わず、余計にぎゅっと噛み締めた。バスの中でもそうだった。菰田に会いに行くというのに、不思議と、楽しみな気持ちばかりではなかった。
―そう。きっと本当は、初めからわかっていたの。......ただ、会いに行く口実を作っていただけ。仕事も手につかない自分の弱さを、菰田さんのせいにしようとしていたんだ......。
 明日からの現実が、「いい気味だ」と笑って待っている気がした。

 思い出に浸る瀬里葉の前を、桜吹雪が横切った。
「ワー」
五歳くらいの女の子が、力いっぱい手を広げ、桜のシャワーを全身で受け止めようとしている。その目の前に広がる無限の未来を、できるものなら分けて欲しい、と強く思った。
風に吹かれ、次々と散っていく花びら。その最後の姿を慈しむかのように、瀬里葉も、空に向かって手を伸ばした。
躊躇いもなく枝から離れる花びらは、もう「きれいね」と見上げられなくなることを、惜しくはないのだろうか。はかない重さしかない花びらは、風に煽られると、簡単にその身を投げ落としてしまう。
(......ううん。躊躇いがないわけではない。惜しくないはずもない。......ただ今は、踏ん張れるだけの力がないの。)
瀬里葉は、手のひらに乗った花びらに語りかけていた。
(―私も、同じね。)
 
 瀬里葉は、店の前を逃げるように離れると、山門をくぐり、本堂へと向かった。
 深大寺は、縁結びのお寺であるらしい。予定では、菰田の打った蕎麦を味わい、久し振りの会話を楽しみ、その後で、思いを確かめるため、お参りに誘うつもりだった。
 瀬里葉は、羽織っていた上着を脱ぐと、本堂の前へと進んだ。
ずっと好きだったのに、ずっと会いたかったのに、でも今は、まだ会えない、と思っていた。
(なくしたものを嘆いて、欲しがるばかりで、そのくせ、流されるまま。......たとえこの先、自分が何者にもならないまま、桜の花びらのように散ってしまう日が来たとしても、それも仕方がない、と諦めてしまうの?)
 指先までぴたりと揃えた両手が、熱くなっていくのを感じた。
(会いたかった。今でも会いたい。すごく会いたい。本当は。)
 桜は、すっかり花びらを落とすと、緑の葉っぱを伸ばし、また、新たな花を咲かせる準備を始める。落ちた花びらは、けれど、さっき出会ったあの女の子のように、眩しい未来の中にいる。花びらが散っていくことは、生まれ変わるために、必要なことなのだ。
 くるり、とまわれ右をした瀬里葉の顔は、さっきまでとは違っていた。
―いつか。また、いつか会いましょう。
 今日ここへ来たことには、ちゃんと意味があったのだ。
 瀬里葉の言葉を繰り返すように、木々が揺れた。
 いつか、いつか。

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<著者紹介>
城東 真由美 (大阪府大阪市/27歳/女性/会社員)

  約束の時間だ。
亨は携帯電話をポケットにしまうと、自転車のスピードを落として彼女の姿を探した。いや、探すフリをした。顔も年齢も思い出せず、亨にはわかっているのは性別と名前だけ。待ち合わせをするのに十分な情報とは言えないだろう。
昨夜、知らない女からメールが届いた。首をひねったのは、覚えのないその名前がケータイに表示されたからだ。アドレス帳に登録されている・・? いぶかしく思いながらもメールを開くと、こんな内容だった。
「先日は楽しかったですね。とても素敵な式、披露宴でした。五島さんはだいぶお酒が入っていましたけど、明日の約束は覚えてるでしょうか・・? 私は今週ずっと楽しみにしていました。十一時に神代植物公園の正門前で待っています」
亨はしばし呆然とし、それからフルスピードで頭を働かせた。まっさきに思い浮かんだのは悪友たちの顔だ。先週参列した同期の結婚式には、こういういたずらを仕掛けそうなやつが何人かいた。しかし探りの電話を入れてみると、どうも違う。
胸のあたりに、いやーな感覚がわきあがる。確かにあの日は飲み過ぎた。新郎は亨の親友で、彼の結婚は自分のことのように誇らしかった。両親への感謝の言葉には思わず涙が出たくらいだ。酒のまわりもいつになく速く、二次会の途中から記憶がない。おそるおそる記憶をたぐると、なんだかやけに盛り上がって熱く語った気がする。誰かの肩をばんばんたたいていたような気もする。そのへんまで思い出すと心臓がぎゅっとなって、亨は考えるのをやめた。酔った勢いで女をデートに誘ったらしい格好悪い事実は、いまさらどうしようもない。肝心なのは明日だ。
To go or not to go.
文面からすると亨が誘ったような雰囲気だ。それを前日になって断るのはいかにもひどい。一方で、この南沢あずさなる女性がどんな人なのかまるでわからない。どんな話をしたのかも覚えていないのだ。美人かもしれないし、十人並みかもしれない。すごく楽しいかもしれないし、退屈な時間になるかもしれない。うーん、と亨はうなった。
そして今日、お気に入りのマウンテンバイクにまたがり、定刻に亨はここにいる。心理学を専攻していた友人によると、なぜか人は確率が低い方に賭けたがるという。太古の人々が信じたように、希望とは魔物だ。
自嘲した亨は、人待ち顔で辺りを見まわす。こうして向こうから声をかけてくれるのを待つしかないのだ。果たして、女性の声が亨を呼んだ。
「あの、五島さんですよね」
少し離れたところに立つショートヘアの女が、のぞきこむようにして亨を見ている。
「こんにちは。南沢です」
「あ、どうも」
 白いパンツとサンダルが涼しげなあずさも、ほっとしたように笑う。
「近くにいるのに、五島さんたら全然気づかないんだもん」
 あずさがちょっととがめるような目をして、いたずらっぽく笑う。目をひく美人ではないが、優しげな笑顔が素敵だ。
「ごめんね。なんだかこないだとはずいぶん印象が違って見えて」
 適当にごまかすと、あずさが目を見開く。
「すごい、よくわかりましたね! 私、髪切ったんですよ。男の人は気づかないって言うけど、五島さん鋭いですね」
 げ、そうだったんだ。
「短いのも似合うよ」
あずさは亨を見つめて瞳をきらめかせ、小さな声でありがとうと言う。想像していたより素直で可愛らしいあずさに、亨は嬉しくも意外な気がした。酔っ払いとデートの約束をしたり、前夜に確認メールを入れてくるあたり、したたかな大人の女性だろうと想像していたのだ。
「これからどうする?」
「とりあえず植物園!」
子どものように入り口を指さすあずさの表情に、亨もなんだか楽しくなってくる。
他愛のない話をしながら、並んで青葉の中をのんびり歩く。あずさは亨の話をにこにこと聞き、ときには草花についておもしろい話をしてくれる。誘ったのは亨だが、場所を決めたのはあずさのようだ。すっぽかさなくてよかったと亨はしみじみ思った。
お昼は蕎麦を食べることにして、雑木林を抜けて深大寺門から外に出る。あずさがよく行くという店に入り、まずは深大寺ビールで喉を潤した。甘くてフルーティな黒ビールだ。五月の風がオープンエアの店内を吹き抜けていく。さわさわという音に目線を上げると、青空が見え隠れする緑の天井。
「いいねえ」
思わずつぶやくと、向かいのあずさがにっこりする。
「生き返るでしょう」
「うん」
「植物園はどうですか」
「楽しい。気に入った」
「ほんと? よかったあ」
「午後も楽しみだよ」
「五島さん、あたしのこと覚えてなかったでしょ」
「え」
あまりの不意打ちに亨はかたまる。
「似合うって言ってくれたけど、本当はショートヘアは好みじゃないし、パンツよりスカートが好き。でしょ」
 亨がよっぽど狼狽した顔をしたのだろう。あずさがはじけるように笑った。
「ごめんなさい。こないだのこと全然覚えてないみたいだから、ちょっと仕返し」
そう言うと、空になった亨のコップに丁寧にビールを注ぐ。その間になんとか冷静さを取り戻した亨は、ようやく思い至る。
「そうか。こないだ話したんだね」
 あずさが微笑む。
「記憶、少しはあるんですか。それともまったく・・?」
「ごめん」
亨は手を膝に置き、テーブルに頭がつきそうなくらいに頭を下げる。あずさが許してくれるまでそうしているつもりだったが、蕎麦が運ばれてきたので仕方なく亨は顔を上げる。あずさはきゅっと口を結んで亨をにらんでいたが、瞳の奥には楽しげな光が踊っている。亨が視線をそらさずにいると、あずさがこらえきれずに表情を崩す。どうやら怒るよりおもしろがる方に転んだようだ。
 しばらくの間、二人の間には蕎麦をすする音だけが響いた。手打ちの十割蕎麦はのどごしがよく、亨は一気にたいらげてしまう。
「その髪、本当に似合ってるよ。ショートも悪くないって、今日はじめて思った」
 あずさは数秒間またたきもせずに亨を見返していたが、首をひねるとビール瓶を手にとって疑うような目つきを亨に向ける。亨は思わず声をあげて笑った。
「ただのビールだよ。酔っぱらってないって」
茶目っけのある笑みを残しながら、あずさは亨をじっと見て言う。
「髪を切ったっていうのは嘘なの。もともとショートなんです。五島さんね、こないだ、ショートヘアは好みじゃないって何度も何度もあたしに言ったんですよ。正直泣きそうになっちゃったくらい」
 うわ、最悪だ。
亨はテーブルに目を落とす。
「でも、時間がたったら今度は怒りがメラメラ燃えてきて。好みじゃないならなんで誘うのよってね。喜んで行くって返事した自分にも腹が立ったし」
 不意にあずさの言葉が途切れ、亨がそっと目を上げると、顔を傾けて亨の顔をのぞいているあずさと目が合った。思いがけず愛おしげなまなざしに、亨は心をからめとられる。亨を見つめたまま、あずさが手を伸ばして亨の頭をさわった。悔しいけれど、春風になぶられているような心地よさだ。思わず自分の手を重ねようとすると、あずさはするりと手を引いて、何事もなかったように残りの蕎麦を食べはじめる。行き場のなくなった手を握りしめた亨は、もうあずさから目が離せない。
植物園に戻る前に周辺を散歩することにした二人は、風景画や似顔絵が並ぶ坂道を抜け、乾門と書かれた小さな入り口をくぐった。深大寺のお堂は華美でもなく質素でもなく、境内には明るく清新な空気がみなぎっている。ムクロジやヤマモモなど野趣あふれる樹木が寺院らしい。茅葺の山門から外に出るまで亨とあずさはほとんど口をきかなかったが、気まずかったわけではなく、しゃべらなくても通じ合うものが二人の間に流れていた。参道には饅頭屋や土産物屋が軒を並べ、緑を映す水路からは青々とした風が立ちのぼるようだ。
流れを見やったあずさが、思い出したように亨を振り返る。
「深大寺の水神様にはどんなご利益があるか知ってる?」
誘うように試すように、いたずらっぽい瞳が亨を見上げている。主導権は完全にあずさのものだ。だから亨は、できるだけさらりと言う。
「縁結びの神様には、もう用ないでしょ」
あずさが目を見開く。
アドバンテージをひっくり返すのも、恋愛の楽しみのひとつだ。くるりと景色が変わる。亨は笑顔で手を差し出してあずさの反応をうかがう。あずさは嬉しそうに亨を見つめ返し、手をとった。

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<著者紹介>
遊亀 紫野 (埼玉県蕨市/34歳/女性/会社員)

「ポストにこんなもんが入いっていた」父がポンと白い封筒を投げてよこした。「何よ、これ。宛先も名前も書いていないじゃない。気味悪い。お父さんのじゃないの?」「こんな秘密めいたものが俺にくるか。早く開けてみろ」 
父に急かされて仕方なく封を切ると、中から一枚の紙が出てきた。「深大寺で待つ」と一行だけ、下手な字で書いてある。「もーう。これじゃ何にもわからないじゃない。悪質ないたずらよ。それにこの下手な字。頭空っぽの人ね」「そうかぁ? どれ」父は、梢が持っている手紙を取り上げて眺めていたが、「なるほど、へたくそな字だ」と頷いた。
父は冷蔵庫から缶ビールを持ってくると、プルトップを倒し一口飲んで、「うまい」と言ってから、「あれは男の字だな」と呟いた。「うん? あの手紙のこと?」父はそれには答えず、缶を傾け、喉をならしてビールを飲んだ。
「今も深大寺でスケッチやっとるんか」「うん、行ってるよ」「絵の素質があるのに、美大にやってやれんで、すまんな」「何度謝ったら気が済むの。リストラされたの、お父さんのせいじゃないもん。仕方がないわよ。それより警備員の仕事、きつくない?」「仕事があるだけ有り難いと思わんとな」そう言って、残りのビールを飲み干した。交通誘導の仕事で真っ黒に日焼けした顔が、一缶のビールで満足げにほころぶ。そんな父を、切ない思いで見遣った。
 父は娘に対して、母との離婚、リストラ、美大にやれなかった等々、数多くの負い目を感じているらしい。話していると、ふと、これらが頭を擡げるらしく、頑固な父が気弱な声で、「すまん」と謝る。もう一つ、父の口癖に、「結婚はまだ早い」がある。三十二歳になる娘にいう言葉か、と思うが口を挟まない。二つの口癖は、自分の不甲斐なさと相手が見つからない娘への労りかもしれないが、この言葉が出ると、父の心の奥にあるやりきれなさを垣間見るようで、胸が痛くなるのだった。
梢の楽しみは、土曜日ごとの深大寺でのスケッチである。春の柔らかい陽が差す寺の境内に座り、スケッチブックを開いたが、落着かない。深大寺のどこかで、内気な男性が、私が気付くのを待っている......。そう思うと甘美な気分になり、ストーカーかも、と思うと恐怖で顔が引きつる。あんな手紙で動揺している自分が情けなくて、頬を両手で叩いた。 
鉛筆を動かし始めたが、すぐに手が止まり、
ポストに直接入れるということは、知り合いだろうか。深大寺のどこで待つというのだ、と考えている。
寺の前では若い男女が手を合わせている。そうだ、ここは縁結びの寺だった。梢は画材を置くと寺に駆けた。賽銭を箱に投げ入れ、「あの手紙の主に会わせてください」と祈り、「その人は優しい人でありますように」と付け加えた。元の場所に戻りスケッチに取り掛かったが、憑き物が落ちたように気分は軽い。
それからも土曜日は深大寺にやってくるが、
もう手紙のことは頭の片隅に追いやられ、思い出すことはなくなっていた。
寺の絵はほぼ完成し、仕上げの絵筆を動かしていた。ふと折り目がしっかりと付いたズボンの裾が目に入った。見上げると、梢と同じくらいの年齢の男性が絵を見ている。目が合うと、彼は人懐っこい笑みを浮かべた。
「君、絵がうまいね。他の絵もちょっと見せて貰ってもいい?」「いいけど」梢がスケッチブックを差し出すと、彼はしゃがんで一枚一枚めくりだした。「君の絵には、表情があるね。蕎麦屋の絵はいい匂いがしてくるようだし、水車の絵には詩情がある。どの絵も五感をくすぐる」梢は照れながら聞いていたが、ふっと、あの手紙が頭に浮かんできた。「深大寺によく来るんですか?」「いや、今日が初めて。吉祥寺で春に叙勲した恩師の祝賀会があったんだ。みんなと別れて、一度行ってみたいと思っていた深大寺に、足を伸ばしたというわけ」初めてということは、手紙の差出人ではないということか......。「パリッと決めてるから、婚活かと思っちゃった」「深大寺で婚活? 君っておもしろいこと言うね。そりゃ、君のようなハートのある絵を描く女性には心は動くけど。ハハハ。冗談」なーんだ冗談か、つまらない。梢は小さく咳払いした。
「ちょっと訊いていい? なぜこんなに深大寺や、この界隈の絵を描いているの?」「ここが好きだから。一つ残らず、全部描きたいと思ってる」「やっぱりね。絵に愛情を感じるよ。あのさ、今思ったんだけれど、この絵を葉書とかに印刷してみない?」彼の言っている意味がわからない。首を傾げていると、「僕ね、印刷とか得意なんだ。こんないい絵を、みんなに届けられたらいいな、と思ってさ。どーう? あまり気乗りしない?」「私の絵を知らない人に?」「そう。外に出られないホームの人とかに配る、ってのは、いや?」彼は大きな目を輝かせながら熱っぽく語る。聞いていると、梢の中で眠っているものが揺り起こされるようだ。「はい。これ僕の名刺。君のことも教えてくれる?」彼に促されて、手帳を破り、梢の個人情報を書いて渡した。
「今度、いつ来るの?」「いつも土曜日の午後に来て描いているけど」「そう。では今度の土曜日に僕も来るよ。雨の日とか、来られない時は携帯にメールくれる?」「うん。そうする」「じゃ、これから次の約束があるから。土曜日ね」手を振って駆けていく後ろ姿を見送りながら、竜巻のような人だったなあ、と思う。 
渡された名刺をみると、名前は桂木学、N設計事務所に勤務とある。どこまで信用出来る人かわからないが、まず、今度の土曜日に来るかどうかだ。
土曜日、約束通り彼は来た。今日の彼はジーンズにポロと若々しい。彼は梢の横にしゃがみ、これからの計画を説明し始めた。話し終えた柏木に梢は大きく頷いた。こうして二人のボランティア活動が開始したのだった。
手始めに、梢の絵を印刷した葉書に一言を添えて、近くのホームの人に配った。思ったより反応がよい。意を強くして、日曜をホームの訪問日に当てることにした。ホームからの帰り道、このアイディアを思いついた理由を尋ねてみた。「人との接触も外出も儘ならず、生活空間はホームだけ。これって寂しくない?」突然、彼の祖母はホームに居たと話していたのを思い出した。祖母を思い浮かべているのか、遠くを見ている彼の目は優しい。
季節は秋になり、二人は吉祥寺の駅に向かっていた。道路工事が行われているのか、車両止めのカラーコーンが三個置いてある。その向こうで白いヘルメットをかぶり、旗を振っている男性を見て、梢の足が止まった。父だ。その父がこっちを見たような気がする。反射的に踵を返そうとした。「どうしたの?」「あ、ごめん。買う物があるのを忘れてた。そこに寄ってから帰るわ」桂木は怪訝な顔をしたが、「そう、じゃまたな」と軽く手を挙げて駅に歩いて行った。梢は、暗い気持ちで、来た道を引き返していた。彼が父のあの姿を見たら......。最近、桂木との結婚を意識するようになっている。その時初めて、父の負い目としているものを実感したのだった。
 いつもの土曜日のように心が弾まない。怯む気持ちに鞭打って深大寺にやってきた。スケッチブックを開こうとしていると、桂木が側に座った。「何かあった? 浮かない顔して」と顔を覗き込む。「ううん、なんでもない」と顔を背けた。「ね、僕と結婚しない?」結婚?無理よ。黙って俯いていると、「お父さんには承諾を得ているんだけど。順序が逆になってごめん」梢は弾かれたように彼を見た。「今、父の承諾をどうとか、言った?」頭が混乱している。「ああ。先週、君と別れたあと、君のお父さんが僕の後を追ってきて、娘をよろしくって頼まれたんだ。腰を深く折って、何度もお辞儀されてね。その姿に胸が熱くなった。あ、もちろん、こちらこそと言っておいたけど、よかったのかな」桂木を見つめる瞼が重くなる。少しでも父を負い目だと感じたことが恥ずかしい。それにしても父は一言も言わなかった。それが父なのかもしれない。
久しぶりに警備員仲間の津田さんがやって来た。父はビールを買いに出掛けて行った。
「梢ちゃん、きれいになったね。恋をすると違うな」「どうしてそんなこと知っているの」「お父さんにしょっちゅう聞かされとるがな。それにしても深大寺のご利益はすごい」「なに、それ」「前に深大寺付近で交通誘導の仕事をしていた時にな、深大寺は縁結びの寺だと言うと、お父さんはえらい興味をもって、寺に寄っては、梢ちゃんの縁が来るように祈っとった。けど梢ちゃんになかなか相手がみつかる様子がない。やっぱり本人が祈らんとあかんのかなあ、と考え込んどったが、何を思ったのか書くものを持ってきて、深大寺で待つ、と書いてくれって頼むんや」「じゃあ、あの手紙」「そうや。あれは俺が書いた。字が下手だから厭だと言うのに、父親の字ではまずいだろ、言うてな。そんなことしてどうなるんか、と訊くと、こんな手紙が来ると深大寺に行く心構えが違ってくるだろ。あいつ、のんびりしてるから、刺激してやらんとな、と」
津田さんがそこまで言った時、ドアが開いて、父がビールの入った袋を下げて入ってきた。「梢ちゃんもそろそろ結婚だな」津田さんが目を細めて言った。父は缶を袋から出して机に並べながら、「まだ早い」とぶっきらぼうに答えた。津田さんは一瞬キョトンとしたが、膝を打って、「そや、まだ早い」と大きく頷いた。もーう、全部ばれているのに。
二人はビールを飲み始めた。「乾杯」と、次々に缶を開けている。きっと父は嬉しいのだ。見ると皺に埋もれた父の小さな目が潤んでいる。鼻の奥がツンとして、慌てて傍にあったスケッチブックを開いた。気がつくと、父の顔を描いている。完成した絵の中で、父が深い笑みを湛えている。柏木が言う「表情」がある。絵の父に「ありがとう」と囁いた。        

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<著者紹介>
野末 ひな子 (東京都杉並区 /女性/主婦)

 まっさらな夜だ。都内だというのにここ、調布市の深大寺は武蔵野の面影を色濃く残していて、都心の夜の喧噪からは程遠い。けれどその素朴さが、乾ききって荒んだ感情の渦を鎮めてくれる。だから今日も、本来ならば自宅に帰る筈が、足はついふらりと実家のあるここに向かっている。
 昼間は賑わいを見せる深大寺は夜ともなるとさすがに人の気配は薄くなる。人通りがまばらになった通りでは、惜しげもなく涼しげな景色と自然の香りを味わえる。けれど折角の景観を味わいつくそうにも、私の足先は擦れるような痛みを訴えて足取りを鈍らせる。小道のガードレールに寄りかかり、右足の靴を脱いで足先を包む。靴擦れだった。痛みを堪えるように俯くと、風の音に混じって耳の奥に声が響く。
―...やっぱ俺、お前とは無理だわ。
何度思い出しても、窮屈に胸を締め上げる。「もう終わりにしたい」電話越しの元恋人は、私にそう言い捨てた。一方的な別れの言葉は、感情の振れ幅を乱す。心は知らぬうちに慰めを求めて、この場所に辿りついた。
痛むのは果たしてどちらだろう。足先の抗えない痛みは悲痛な叫びをあげることの叶わない心が代わりにそうさせているようで、堪えるようにただ呻いた。
「山名さん?」
「え?」
ほとんど反射的に、顔を上げると見知らぬ男性がこちらを伺っている。呼びかけられた名前は間違いなく私のものだったが、彼の姿に覚えのない私は返答に窮した。
「え、あの...はい。山名ですけど」
名前すら思い出せない相手を前に、私はあからさまに狼狽した。
「あぁ、やっぱり! でもその様子じゃ、僕の事を覚えてないでしょう」
無理もないか。と彼は苦笑した。彼は私の困惑を機敏に察知して、落胆するそぶりを見せるどころか遠慮がちに私の足許に視線を滑らせる。
「足痛いの? 立てる?」
私はしきりに頷いた。我慢できない痛さではない。
「じゃあ、行こう。ここは車も来るし少し危ない」
優しく手を伸べて、彼はしゃがみこんだ私の腕をとって軽々と引き上げる。なすがままに甘えてしまったが、礼を述べながら私は躊躇いがちに尋ねた。
「ありがとう。あの...私たち、どこかで会ってますか?」
あまりにも的外れだったのか、彼は目をみはり、しばしの沈黙の後に弾かれたように笑い出した。その反応に、却ってこちらが困惑してしまう。気まずさを覚えて居心地を悪くしていると彼はひとしきり笑って満足したのか口元を軽く押さえて息をつく。
「あの、私、変な事言いました?」
「いや、山名さんらしいなって思ってね。そういうところは変わってないんだね」
「はぁ...」
私の気の抜けた返答に気にする素振りもなく少し背の高い彼が手元の時計を見、思い立ったように問いかけてくる。
「ね、山名さん。夕飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ、一緒に食べない? 僕を忘れてるお詫びにちょっと付き合ってよ」
 おどけた口調で、彼は微笑む。その気安さにほだされるように、私は頷いていた。
「あ、うん」
「よし、じゃあ行こう。まだやってる店、一軒しか知らないんだ」
彼は荷物を肩に掛け直して当たり前のように私の手を引いた。朗らかに笑うその横顔を盗み見て、微かに記憶の端を掴めそうになる。だが結局、記憶は霞んで指先をすり抜け、答えを見失う。気付けば彼に導かれるまま、通りの外れにある素朴な佇まいのそば屋に腰を落ち着けていた。
「何がいい?」
「じゃあこれ」
思えば私は街並みこそ見には来るものの、ここでそばを食べた記憶が殆どない。目に映る何もかもが物珍しく、素朴な店内を窺うように見渡す。そんな私の前に、注文を済ませてくれた彼が水を差しだしてくれる。
「もしかして、ここ来るのは初めて?」
「実はね。近くに住んでるとなかなか来ないもの」
「あぁ。なんとなく、わかるよ。東京都民が東京タワーに行かないのとどことなく似てる」
絶妙な喩えに笑い声をこぼして頷けば、なぜだか彼はどこか安堵したような温かい表情を浮かべる。いつくしむような視線に晒されて、不思議と胸の奥が疼いた。
「どうしたの」
「いや、初めて笑ってくれたなってね。なんか山名さん、ずっと顰め面だったからさ」
彼は人の表情の機微を悟ることがとても上手い。驚くのと同時にまた、ほんの少しの罪悪感に囚われる。彼は私の事を覚えてくれているというのに、私は彼の名前すらも思い出せないなんて...。運ばれてきたそばを啜りながら、さりげなく訊ねた。
「そういえば私、最初の質問の答え、聞いてない」
「最初の質問? ああ、《どこかで会っているか》って?」
「...うん」
「わからない?」
「ごめんなさい、本当。覚えてなくて」
彼を伺えば、そばを咀嚼しながらどこか楽しげに微笑む。
「うーん...僕のこと、気になる?」
「それは勿論、気になるよ。知ってくれてるのに私が知らないのは申し訳ない」
「でも僕の口から言うのはなんだか面白くないな」
暫く、そばを啜りながら互いに口を閉ざした。返答に窮してばかりの私に、彼は気を悪くするどころか、それすら受け入れるように穏やかな沈黙が続いた。そばを食べ終えると、見計らったように、私たちは席を立つ。
勘定を済ませて、武蔵境に繋がる通りを歩きはじめた。
「名前は教えてくれないんだね」
「単に僕が言うだけじゃ、つまらないでしょ」
街路樹が規則正しく並ぶ深大寺の通りを歩きながら私は傍らの青年を一瞥した。
「意地悪だね」
「そうかもね、好きな子には意地悪したくなる性質なんだよ」
君は小学生か。心の中の言葉に遅れをとって私の頭は、漸く彼の台詞の真意を呑みこみはじめた。
「えっ、ちょっと待って、なに今の」
「こんなこと、二度も言わないよ」
どうして。なんで、今なの。あらゆる問いかけが喉に引っかかった。今日最大の困惑に、私は棒を呑んだように立ち尽くした。だが彼はあくまでも真摯に語りかけてくる。
「考えておいてよ、山名さん。少しでも気になったら、卒業アルバムで僕を見つけて欲しいな」
僕からは教えてあげないよ。笑いながら彼は踵を返す。私は、その後ろ姿を目に焼きつけながら今度こそ、彼という存在がはっきりと私の中に刻みつけられていくのを感じていた。心のどこかに息づきはじめた名残惜しさに、救いを請うように天を仰いだ。
木々の隙間から濃密な色を散りばめて、空が覗いていた。そこかしこに煌びやかな光を帯びて輝いている。答えはなかった。答えを出すのは、私自身だ。靴擦れを起こした足はまだ少しだけ痛むけれど、もうこの胸に行き場をなくして込み上げていく鬱屈とした不安も、虚しさも、寂莫も、もう何処にもない。さぁ、家に帰ろう。今度こそ、私は実家に足を向けて歩き出した。
***
突然の娘の帰宅に、母と父はやはり驚いたようすだったけれども、いつものように優しく迎え入れてくれた。夕食を済ませたかと気を遣ってくれる母にもう済んだのだと告げて様子を見に来たとか忘れ物をとりに来たなど、適当な言い訳で突然の帰宅の理由を繕う。私は自分の部屋に荷物を放って、暫く放置していたアルバムを本棚から探し求め、山のような写真の中から彼の姿を探した。高校のアルバムをめくりながら懐かしい思い出に浸っていると、ふと彼の面影を持った一人の少年の姿が目に飛び込んでくる。食い入るように写真の下の名前を追った。
「...《本多くん》っていうんだ」
思えば同年代の男の子たちとは、疎遠だった。何より私は高校時代、一年ほど海外留学をしていたため卒業は一個下の学年と共に迎えたということも拍車をかける要因だった。
アルバムを眺めながら、妙に凪いだ心持ちで私は写真の彼を見つめる。なぜだろう、まるでまた何処かで会えるのだと確信を抱いているかのように、何一つとして不安がない。不意に部屋をノックする音が聞こえ、私は立ち上がった。扉を叩いたのは間違いなく母だ。扉から顔を出せば、昨日か一昨日の消印の往復はがきを手渡してくれる。
「あなたのところに送りなおそうかと思ったんだけど、いいタイミングだったみたいね」
そう言って母は笑い、父の呼ぶ声に応じてすぐに背を向けて階段を駆け下りて行く。手元に残されたはがきに視線を落とす。同窓会の報せだった。答えあわせをする時間はあるみたい。不思議と弾む心の中で呟くと手近にあったボールペンで参加の欄に丸をした。

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<著者紹介>
河合 ふくみ (東京都小平市/21歳/女性/学生)

「ボーンボーンボーンボーン、仏説魔訶般若波羅蜜多心経・・・」
 少し遅れた朝の境内。白髪まじりの男女が太鼓のリズムに合わせて経を読んでいる。重たいトーンの声の重なりに若い女の透きとおった声音がかすかに交じっている。アキコはお経を読み間違えないよう、詠んでいるところを見失わぬよう経典から目を離さず姿勢を正している。長い観音経のあとの般若心経に何かから解放されていくような軽さを感じる。
 もう少し詠んでいたい、そう思うところで御務めは終わり。顔見知りと話しながらおのおの靴を履いて散らばってゆく。アキコもゆっくりと靴を履いて外へでた。
「めずらしいですね。若いのに」
「えっ」
 アキコより少し年上に見える背のすらりとした男が穏やかな声で話しかけた。
「そうですか、一度来てみたかったんだけど、よかったです。すっきりしますね。」
「そう、これいいんだよね、皆で声合わせてさちょっと音楽みたいだし。普段は目ばっか使う仕事してるからなんかいんだよ。あ、僕コウイチです。そちらは?」
「あ、アキコです。よく来るんですか?目使う仕事?」
「ここ地元でね、気分転換にくるんだ。仕事ね、写真撮ってる。フリーなんだけど、最近は結婚式が多いから平日はけっこう時間あってね」
 参道に出るまで何気ない会話をして別れた。一人になったアキコは身体も軽く暖かな光を浴びたような気になる。まさかね。やっぱりお経をあげるって気持ちいいわ、そう確認してバスに乗った。
 アキコは普段、吉祥寺にあるカフェのキッチンで働いている。白い壁に木で作られたテーブルと椅子、温か味のある間接照明、何時間もかけて仕込んだ料理が小さな子を連れたお母さん達の、おしゃべりの止まらない女の子達の口に運ばれてゆく。穏やかな空間、悪くない。だけど仕事のない時、どうすればよいのか、思い出せない。奴に未練はみじんもない。だけどもう一か月経つのに、まだ空いたままの心の空白を埋める方法がわからない。仕事の量を増やしてもらい、店の定休日の火曜日をどうにかしようと思っていた。
 次の休みの朝もアキコは深大寺へと向かった。バスに揺られる間、こないだの彼と話した場面を思いだす。今日またそこに現れる男の姿がぼんやり浮かぶ。どちらにせよアキコはお経をあげるために行動している、男に会うために出かける訳ではない。
 元三大大師堂の中に座り、辺りを見回すと端にコウイチが静かに座っていることを確認するとすぐに御勤めが始まった。
 ここで自分の倍ほど生きた人たちと一緒にお経をあげると安心する。深く呼吸ができる。新しくて物ばかりの世界が全てではない、このお経がお寺が昔からあり続けるように過去から積み上げたものの上に私がいる。手を合わせてお辞儀しながらそんな大きな存在をアキコは感じていた。
 読誦が終わって立ち上がるとコウイチがアキコに気付いて合図するように頬を上げた。
「どうも」 
外にでて自然と一緒に歩きだす。雲がうっすら浮かんでいるが太陽の日差しはどこまでも届いている。人も参道のそば屋も少しづつ活気づき始めている。
「深大寺好きなの?」
「なんか落ち着くんです。全然違うとこに来たみたいだし。特に最近は、ね」
「僕も最近都会の中いてもあんまり面白いとこなくてね。けっこう植物とか緑好きなんだ、恥ずかしいからあんまり言わないけど」
「恥ずかしいなんて植物に失礼です。それじゃ、あっちの水生公園寄ってきません?」
 アキコは気分がよかった。もう少しこの穏やかな時間を延ばしたい、そう思っていた。
 森の中の湿原地帯のように板で作られた木道の下には池や田園やまだ花を咲かせる前のハナショウブやハス達が調和している。花々しくはないそこでは何より豊かな水がアキコを潤わせている。二人はひと回り歩くと休憩小屋の中に座った。
「なんで落ち着くのかって思ったんだけど、ここらへんて下品な音が少ないんですね。この鳥の声。お寺も太鼓とか鐘の音とかだし。」
「そっか、そういえば車の音もあまりしないね。ここはカメラ持った人が多いなあ。あ、カモ」
 田園の端にカモが三羽来ては口ばしをつついて餌か何かをつまんでいる。しばらくたつと満足したのか三羽そろって飛んで行った。

「今日、昼から吉祥寺で仕事の打ち合わせなんだ。バイクだけど駅前でよかったら送りましょうか?」
 帰り際にコウイチが言った。いつもバスで帰るアキコはじゃあ、と乗せてもらうことにした。
 バイクにまたがるとアキコは腰のあたりを両手で押さえる。吉祥寺までの大通りを走っている途中、腕がコウイチの身体を包みそうになる。アキコの身体に染みついた記憶。目の前の背中と自分との隙間に身体が火照るのを感じつつ、アキコは風とスピードから体を支えるため腰に手をあてたまま姿勢を正した。
「じゃあまたね」
「うん、また。ありがとう」
 吉祥寺の北口のロータリーに着いて、コウイチはアキコを下ろして仕事先へとエンジンを切った。アキコは帰り道、サンロードの中を歩き花屋の前を通ると立ち止まり、店の前に並んでいる小さな紫色の花を咲かせたワスレナ草を手に取り、うんと頷いてレジへ持っていった。またね。また、朝の深大寺でね。その意味をかみしめて花を持ち帰った。
 次の休日の朝。アキコは家の鏡の前に立っては服を脱ぎ捨てている。コウイチの姿を想像すると洋服がなかなか決まらない。だんだんイライラしては別にデートに行くんじゃないんだから、と自分をなだめてやっと外へでた。
 その日、コウイチの姿は見当たらなかった。読誦が終わってお参りをしたり、参道を歩いたりしたけど結局現れなかった。彼だっていつもひまなわけじゃないのよね、そう思いつつ、夢から覚めてしまうような、天気がいいと思ったら急に雨雲が押し寄せてきたような、そんな予感がした。
 翌週の深大寺もやはりコウイチは現れなかった。あぁやっぱり。諦めとふて腐れたアキコはそれでもお経を読むと気持ちが晴れるのを覚えて語呂の好きな般若心経の経典を買って帰った。
 その日の晩、家で何もせずコーヒーを飲んでいた。カーテンを閉めた窓際にはアキコの手入れがよくワスナ草の可憐な花がまだわずかに咲いている。ぼんやりしていると、心の窓から闇がじわじわと侵食し、アキコを蝕んでいく。結局男って都合が悪いと逃げていくのよ、そうゆう小さい生き物なのよ。あのコウイチ君にしたってただの気まぐれで話しかけてきたのよ、ほんっとに勝手。その気がないならあんなやさしい顔しないでよ。あれはきっと詐欺師ね、カメラマンなんて嘘ついてきっと失業保険もらってプラプラしていたのよ。もういいわ、もう男はいい。これからは一人で生きていくの、自分の足で立つのよ。ふと思い出し、アキコは鞄の中から経典を取り出し、力を込めてお経をあげた。やり場のない想いを意味もよくわからない、だけど力のある言葉に変えていると、しばし自分のことを忘れていられた。
 もうコウイチに会えるかどうかはよかった。だんだんとアキコは落ち着いていった。翌週も相変わらず深大寺へと向かい、皺を刻んだいつもの顔ぶれ達と一緒に不協和音の真言ハーモニーを奏でていた。短い御勤めを終えさっぱりとした顔で立ち上がるとコウイチの姿がある。どう接していいのかわからないアキコはこんにちはと言って靴を履いた。
「久しぶり、もういないかと思った」
 そういつもの穏やかなトーンの声でコウイチが言うと
「それ、こっちのセリフじゃないですかっ」
 アキコは怒りと嬉しさが混ざって顔をしかめた。
「いや、実は雑誌の撮影の仕事が入って、少しカナダに行ってきたんだ。とにかく広かった、自然の大きさもスケールが違かった、打たれたよ」
「そう・・・よかったですね」
「あ、いや、それで一面可愛らしい花が咲いているところがあって、なんていったか確か近くにいた人がそれはアラスカの州花だって言っていたんだけど。その花を眺めていたら、君が急に現れた、気がしたんだ」
「え?どういうこと?」
「いやだからうまくは言えないけど、その花に見とれていたら君のことをね・・。だから、とゆうかこれ、はい」
 コウイチは写真を一枚渡した。鮮明に写し出された先の尖った葉に可憐な薄紫の花が一面アップで切り取られている。アキコはドキリとした。この花、うちにいるわ。そう説明しようと思ったけどやめた。少しの間写真を眺めてから、コウイチに笑みを向けた。
「他の写真も見せて」
「うん、じゃ後で見せるからさ、その前に僕お腹がペコペコで・・・」
「まだこんな時間だけど、まあいいわ。じゃここで決まり」
 アキコがそう言うと、目の前のそば屋ののれんをくぐった。
「いらっしゃいませーっ、あら?コウちゃんじゃない!久しぶりねぇ元気にしてたの?あらま、かわいい子連れちゃって」
 コウイチはいつになく子供のような照れた顔をしてはにかんだ。

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<著者紹介>
池田 裕美  (調布市国領町/25歳/女性/ フリーター)

 四十分ほど乗っていたバスを降りると、吹きぬけた風に髪を弄ばれた。周囲は木々に囲まれ、冷たい風が火照った頬に心地良い。
先輩から電話が来たのは、一昨日の晩だった。深大寺を舞台にして小説を書けという課題が出たから明後日にでも行くつもりなのだが、近くに住んでいるのならば案内してほしい。電話でそう告げられ、授業があるにも関わらず、僕はすぐに承知した。先輩と二人で何処かに行くなんて、この機会を逃したら次はいつ来るかわからない。少し罪悪感があったけれど、目を瞑ることにした。
時刻表を見ていると、あれ見て、と先輩に肩を叩かれた。振り向くと、先輩が土産物屋を指さしていた。ようかんの試食があるみたい、と先輩は足早に店に向かった。小走りに後を追う。煎餅や飴が並ぶ棚を眺めていると、店員の女性が中から出てきた。お参りですかと聞かれ、そんなところです、と先輩がサングラスを取った。よろしければお一つどうぞ、と試食用のようかんを勧められた先輩は、ありがとうございます、と爪楊枝を手に取った。お兄さんもどうぞ、と笑顔で勧められ、僕の顔からも自然と笑みがこぼれた。
毎朝手作りしているというようかんは、甘過ぎず食べやすかった。僕には丁度いいけれど、甘い物が好きな先輩には物足りないのではないか。そんなことを考えていると、他の客が店に入っていくのが見えた。また帰りにでも寄って下さい、と一礼して、女性は中に戻っていった。ご馳走様でしたと礼を言い、僕達も店から離れた。甘さが足りなかったんじゃないですか、と先輩に話しかけると、まあね、でもすごく美味しかったよ、と言われた。自分の予想が当たっていたのが、嬉しかった。帰りに寄るんですかと聞くと、土産を買う金は持っていないと肩を竦められた。最初から試食だけが目当てだったようだ。抜け目の無い人だ、と呆れつつも感心した。
 沿道には、蕎麦屋や茶屋が軒を連ねていた。大抵の店は壁が黒ずみ、木製の屋根はささくれ立っていたが、茶菓子や蕎麦を食べている人は多かった。蕎麦が有名みたいだね、とカメラを構えた先輩が呟いた。今日のような暑い日に冷たい蕎麦をすすれば、さぞ美味かろう。後で寄りたいね、と言いながら先輩は本堂に足を向けた。二人で昼飯を食べているところを想像し、胸が熱くなった。これくらいのことでいちいち反応する自分が鬱陶しい。はい、と短く返事をして先輩の背中を追った。
 山門をくぐると、玉砂利の敷き詰められた広い空間に出た。鐘楼や石灯籠が建てられており、寺に来た実感がようやくわいた。ふと左を向くと、黄色い袈裟を着たお坊さんがこちらに歩いて来ていた。すれ違いざまに頭を下げると、柔らかな笑顔で一礼を返してくれた。先輩は気付かなかったようで、こちらに背を向け立派な石灯籠を写真に収めていた。
「涼しいね、ここ。木陰だと特に風が気持ちいい。人もそんなにいないし、いいところ」
 先輩が深呼吸をした。服の裾が捲れ、白い肌がのぞく。罪悪感を覚え目を逸らした。
 不意に背後から鐘の音が聞こえた。振り返ると、先ほどのお坊さんが鐘をついていた。
「鐘をついているお坊さん、さっきすれ違った方ですよ。気が付きましたか」
「そうなんだ。全然気付かなかった」
 間近でお坊さんの写真が撮れたのか、勿体無い、と言うので、気にするのはそこですか、と溜息混じりに言ってしまった。黙って首を竦められ、何を言えばいいのかわからなくなる。お参りしようか、と先輩がまた背を向けた。少し居心地が悪い。
「しまった、五円玉を持っていないや」
 財布をのぞいた先輩が、小さく舌打ちをした。自分の財布を見ると五円玉が二枚入っていたので、どうぞ、と一枚を差し出す。もらっていいの、と目を見詰めながら問われ、五円くらい別にいいです、と顔を逸らしながら答えた。手渡そうとすると、地面に置くように言われた。不思議に思いながら従うと、すぐに先輩は置かれた五円玉を拾った。
「今の、何だったんですか」
「お賽銭を手渡ししたらいけないんだって。一度地面に置いて、それを拾って受け取るらしいよ。おばあちゃんが言ってた」
 物知りだな、と尊敬しかけたが、二礼二拍手一礼だっけ、と言われ溜息が出た。
 先輩が何を祈っているのかはわからない。僕は、先輩との距離がもっと縮まるようにと祈った。叶うかどうかはわからないが、祈って損をするわけでもない。先輩にあげた五円玉で、自分と先輩との間にも特別な縁が生まれるといい、と強く思った。
 お参りを終えた僕達は、もっと奥まで敷地が広がっていることに気が付いた。足を踏み入れると、五月なのに葉が紅い木があり、気温と風景が合っていないと感じた。木の近くには池があり、大きな鯉が泳いでいる脇で亀が甲羅干しをしていた。先輩は亀を気に入り、何枚も写真を撮った。いいな、私もここの亀になりたい。カメラから目を離した先輩が、羨ましそうに呟いた。呑気そうですもんね、と相槌をうつ。先輩はしゃがんでしばらく亀を見詰めていたが、行こうか、と急に立ち上がった。見慣れた背中を追ったが、亀を見詰めていた先輩の横顔がいつもと違って見えて、ほんの少し、嬉しさと戸惑いを覚えた。
 本堂の裏手にまわると小さな建物があり、数体の観音像が祀られていた。これは撮ったら駄目そうだね、と先輩が頬をかいた。手や足の角度は生きている人間のもののようで、今にも動き出しそうだ。服の皺は、木彫りとは思えないほど滑らかである。大したものですね、と言葉が漏れた。どうすれば、こんな像を作ることが出来るのだろう。宗教的な意味合いよりも、素晴らしい芸術性を持つ製作者に対して手を合わせたくなった。
 僕達が見入っていると、後ろから子供の声が聞こえた。振り向くと、祖父母と孫と思われる三人が階段の下からこちらを見詰めていた。慌てて場所を空けると、すみません、と女性に頭を下げられた。こちらこそ、と僕も頭を下げる。今日はよく頭を下げる日だ。
 階段を昇る三人を見上げながら、僕にもあんな時間が来るのだろうか、と考えた。あまりに先のことで、うまく想像出来ない。僕の隣にいるのは、どんな人なのだろう。その人が先輩だといいと、どうしても思ってしまう。
置いて行くよ、と声をかけられ辺りを見回すと、先輩が表に戻りかけていた。すみません、と急いで駆け寄る。ぼうっとしているね、起きているの、と軽く頭を叩かれ、起きてます、と乗せられた手を払いのけた。自分が幼くなったような気になる。こういうことをされる時、先輩との距離が近付く嬉しさを覚える一方で、後輩としてしか見てもらえていないと感じ苦しくもなる。あと一年早く生まれていれば、と最近よく思う。そして、どうしようもないことを考えている自分に腹が立つ。
 不意に先輩が声をあげた。どうしたんですかと問うと、あそこ見て、と一点を指差した。そこには竹筒が伸びており、水が一滴ずつ下の池に垂れていた。池には波紋が広がり、枯山水のような模様が浮かび上がっていた。夢中で写真を撮っていた先輩が、すごいな、と呟きカメラを顔から離した。綺麗ですね、と僕も水面を見詰める。波紋が生まれ、消える直前に水が垂れ、また新しい波紋が生まれる。今の僕の心みたいだ。喜んだり悲しんだり、苛立ったりときめいたり。落ち着く暇なんて無い。いつでもさざ波が立っている。前はもっと静かだった。変わったのは、隣に立つこの人と出会ってからだ。それが悪いことだとは思わない。ただ、何もせず、自分だけが一喜一憂している今の状況は好きではない。想いを伝えたい。鼓動が高鳴るのが聞こえたその時、池に大きな波紋が広がった。亀が水に飛び込んだのだ。本当に僕の心と同調している。思わず笑ってしまった。
 シャッターを切る音が聞こえた。横を見ると、先輩が僕の顔にカメラを向けていた。また頬が熱くなる。今日、何回目だろう。撮ったんですかと聞くと、黙って画面を見せてくれた。普段、写真に出てしまうぎこちなさが無い、笑顔の僕が写っていた。恥ずかしいです、と俯くと、いい顔だよと言われた。素顔を撮られたことも、先輩のカメラに自分が残ることも、恥ずかしかった。
 しまった、と突然先輩が叫んだ。首を傾げる僕に、そろそろ時間が危ない、と腕時計を見せてくれた。もう行かないと授業に間に合わない、と慌てる先輩に、蕎麦を食べる時間は無さそうですねと普通を装いながら言った。残念だが、仕方ない。また機会が来ることを祈ろう。いや、今度は自分で機会をつくろう。
 早足でバス停に向かっていた先輩の足が、一軒の土産物屋の前で急に止まった。声をかける暇も無く、先輩は店に入って行った。突然のことに戸惑い店の前で待っていると、先輩はすぐに出てきた。ごめん、お待たせ、と言い、また歩き出した。黙ってついて行く。
 人でごった返すバス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった、と僕は息をついた。先輩は笑うだけで何も言わない。
バスを乗り継ぎ電車に乗ると、ようやく落ち着いた。不意に先輩が鞄から紙袋を取り出し、付き合ってくれたお礼、と差し出した。中にはお猪口が入っており、お酒飲む時にはそれを使って、と言われた。言葉が出てこない。胸が痺れるような感じがする。泣きたくなった時と同じだ。ゆっくりと頷きながら、ありがとうございます、と搾り出すように言うと、いえいえ、と優しい声が返ってきた。
「今度、先輩とまた何処かに行きたいです。今日みたいに」
 唐突に言葉が口を突いて出た。自分の言葉に驚いていると、いいよ、ちゃんと行き先を決めておいてね、と言われ放心してしまった。駅名を告げる車掌の声が遠くに聞こえた。

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<著者紹介>
柴田 暁人  (埼玉県所沢市/20歳/男性/学生)

深大寺恋物語第六集

 

本日より、オンラインショップで深大寺恋物語第六集を販売開始いたしました。
鮮やかな青竹色の表紙が目印です。
この機会に是非お手に取ってください。

 →深大寺恋物語オンラインショップ

 雨降りの深大寺通りは、いつもに増していよいよ鬱蒼として、降る雨が地面を掘りかえす匂いがむっとするぐらいだった。
 蕎麦屋が軒を並べる道沿いの歩道を歩く真希の傘は白い花柄で、通り過ぎる人がみな一瞬はっとするほどの鮮やかさであった。
真希はこの傘がとても気に入っていた。
吉祥寺の専門店で買ったものだったが、値段は真希の予算を大幅に越えていた。いつどこに忘れてきてしまうかも知れない傘に支払う金額にしては多すぎると、少し躊躇した。そのぐらい、迷いに迷って手に入れたた傘であったから、使ったあとは店員のアドバイス通りに日陰に干して、購入したときにつけてもらったプラスティックの透明カバーをつけてしまっている。
 そんな真希のお気に入りの傘が、その日深大寺通りの歩道上で、見知らぬ誰かの傘とすれ違いざまに触れ合いそうになったとしたら、それは真希にとってはちょっとした事件なのだった。
 その人は何の変哲もない、濃紺の傘をさして、すれ違いざまに
「おっと失礼」と言った。
、そして、真希の傘の華やかさに少し心を奪われたのか、花柄の傘の中の真希の顔をちらりと見やった。
 真希がその顔を覗き返した時、その人がこころ奪われていたのが傘ではなく、真希本人であることに気付いた。
 濃紺の傘のなかには、真希の忘れられない懐かしい顔があった。

「真希ちゃん、俺のこと覚えていた?」

 傘の中のひとは、みるみるうちに真希の知っていた幼いころのあっちゃんの顔になり、大口を開けて破顔した。そして、ちょっと真面目な顔にもどって、思案げに
「うーん、そうだね。あれは確かに駆け落ちと言っていいものだった。」
と、濃紺の傘から滴り落ちる雨粒をみながら言った。
 あの当時、二人は中学3年生だった。
 駆け落ちといっても、当時二人の恋愛が親に反対されていたとか、赤ん坊がができてしまったとか、そういったややこしいものではなく、今思い出してもほんとうに笑いだしてしまうような、ささいなきっかけで思いついたことで、その顛末もおおげさなことにはならなかった。
 そうでなければ、こんなところで出会って、にこにことあいさつなどできようはずもない。
 でもしかし、その駆け落ち事件は、真希にとって、その後何年間もの間、真希の心を支え続けた温かいできごとであったことに間違いないのだった。
 事件の発端は、真希の両親の離婚であった。
 ある日唐突に母親は真希に、父と離婚することを宣言し、夏休みの間に母の実家のある長崎へ引っ越すことになったと告げた。
 「ごめんね真希ちゃん。お母さんはもう、お父さんと一緒に暮らすことはできないの。」
  
 その一言で真希は、子どものころからこの町を離れることになった。
 真希は、同級生で幼馴染の敦士とつきあっていたから、敦士に泣きついて一緒にどこかへ行っちゃいたいと頼んだのだった。

 二人は、深大寺の門前で落ち合うことにして、その日の授業が終わるやいなや、部活もぶっちぎりで待ち合わせ場所に駆け付けた。
 真希が、門前に着くと敦士はすでに門前で所在無げに立っていた。
 二人はしばらく、池の前のベンチの鯉をながめながらぼんやりしていたが、岩の上に乗っていたカメが、池の中にぽちゃん、とび込んだ拍子に敦士が言った。
 「おれはさ、思うんだけど。真希の幸せは真希が決めるんだろう。どこにいたって、誰といたって、ひとに決められるんじゃなくって自分で決めることだろ。」
 あっちゃんとこのまま逃げてもいつかはそんな生活に嫌気がさすことがあるのかもしれない。それは、自分が何かから逃げているからだ。
 「好きな人といるために、どうして何かから逃げないといけないんだ。俺はそんなのはほんとじゃないと思う。逃げなくたって、いつかほんとだったら俺たちはまた会って、それで自分たちで決めて幸せになることができるんだよ。」
 池のそばのアジサイの濡れた花がひときわ奇麗に見えるように、あるべき時に、あるべきところにあるから、一番輝いてみえるんだ。
 どこに行ったって、何があったってそこで自分が頑張っていればいいんだ。
 わたしとあっちゃんが、このままこの町にいても、いつかは別れるときが来るかもしれない。でも、今離れ離れになってしまっても、いつかまた会えるかもしれない。
 別れることは、終わりじゃない。なにがあったって、終わりってきめられることじゃない。
 わたしは、まだ中学生でいろんなことを自分だけの意志で決められるわけじゃないけど幸せかどうかは自分で決めることができるんだ。
 あっちゃんと、手をつないで雨にぬれた石畳の道を歩きながら、こころの中はだんだんとあったかくなって、つないだ手にギュッとちからを入れたら、あっちゃんがギュッと握り返してくれた。涙がでそうなぐらい幸せな気持ちになって、なんだってがんばれそうな気がした。
 あっちゃんは、、目はちょぴり赤くなっていたけど、唇をきっと噛みしめてわたしの顔をまっすぐに見た。
 「だから真希、俺たちここでお別れだ。ここで思ったことを忘れないでいよう。」

 寂しい時いつも思いだした。
 深大寺小学校の角をまがるその道であっちゃんと別れた時のこと。
 幸せは自分が決めるんだって、そんなふうに教えてくれたあっちゃんのことを。

 「おれさ、来月子どもがうまれるんだよ。よかったら真希、見に来てくれよな。」

 何もかもが永遠に続くわけじゃない。
 幸せも、幸せじゃないことも。

 ただ、それが永遠じゃないからってほんとじゃなかったって言うことにはならないんだよ。
 むしろ、永遠のほうが嘘っぽいことなのかもしれないよ。
 大切なのはそのとき。
 何年たっても、雨上がりの深大寺の石畳の道をわたしは忘れない。それがたったひとつのあっちゃんとわたしの間の真実だから。

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<著者紹介>
長崎 美然子  (東京都武蔵野市/44歳/女性/事務職)

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