怖い。私は両手で車椅子をぎゅっと握りしめる。利き足である右脚のギプスが取れたばかりでは、バランスを取ることもままならない。
 後ろで押す夫の肩には力が入っているのだろう。車輪の動きは、まるで星座を結ぶような直線的なラインを描きながら進んでいる。
「もう少しゆっくり」
 山のような言葉から選んだ、最も押さえた要望がそれだった。
「あ、ごめんな」
 夫は何処を見ているのか、どんな顔をしているのか、私からは伺い知れない。ただ、車椅子を押すという初めてのことに戸惑っている様子は、漂う気配からよくわかった。
 タイヤが拾う振動は、細かく身体を震わせる。私は咄嗟に対処出来るよう身を硬くし、飛び出しそうになる体を支える見えないシートベルトを、何度となく求めてしまう。
 外で車椅子に乗るのは初めてだった。
「まさに薫風とはこのことだな」
 林を吹き抜ける爽やかな風に励まされ、夫は落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
 一方私はというと、小学校の遠足以来二十年振りに訪れた神代植物公園を楽しむには、まだ時間がかかりそうだった。
 足置きの下で、アスファルトの小路が勢い良く流れていく。どうやら夫は車椅子を押すコツを掴んできたようだ。それにつられ、私も顔をようやくあげることが出来るようになった。
「葉が擦れる音って、何かに似ていないか」
「わからない」
 素っ気なく答える。恐怖心のかわりにすぐさま別の感情が芽生える。
「六月なのに無患子が落ちているよ」
「......」ムクロジなんて知らない。尋ねる気も起きない。我ながらこの意地の張りかたを持て余すが、今はどうしようもない。
「あとで、深大寺へ行こう。確かあそこに大きなムクロジの木があったはずだ」
 独り言のように、夫は当たり障りのない言葉を次々と繰り出してくる。まるで決して開かない箱をくすぐるかのように。
 車椅子は道の中央から、次第に左に寄ってきた。舗装路の両端は、切り落とされたように落ち込んでいて、アスファルトとの境目には何もない。私は転げ落ちそうな感覚にとらわれながらも、弱みを見せることが夫に隙を与えてしまうようで「怖い」のひとことを言えずにいた。

 あれは五ヶ月前の一月半ば。夫の三十五歳の誕生日のことだった。会社から帰宅する時間に合わせ、予約しておいた赤飯を近所の割烹に取りに行った。
 その店は評判が良く、夕どきの忙しさも重なり、十分ばかり待たされた。私は出来立ての赤飯の折を受け取り、心持ち急ぎながら自転車を自宅まで走らせた。暖かい赤飯を冷めぬよう、マントの内側に忍ばせ、坂道を片手運転で登っていた。
 それは出会い頭だった。
 自宅からほんの五十メートルのところにある十字路は、片側が急な登り坂、交差するもう一方の路は曲がりくねり、非常に見通しが悪い。小さな事故は頻繁に起きていた。
 大通りから侵入してきた白いセダンは、十字路に設置されたカーブミラーに映らず、車側もまた、私の姿が見えなかったという。運悪くミラーの付け根が劣化し、あさっての方向を向いていたのだった。
 スピードを緩めたものの、一時停止しなかった車は、走り抜ける自転車を軽々と飛ばし、私は人形のように電柱に叩き付けられてしまっていた。
 それらは一瞬の出来事で、何故、自分が横たわっているのか、冷たい道路に顔を付けているのか、全くわからなかった。痛さも感じなかった。目の前に散らばった赤飯の折を、ああ、どうしようと案じたことだけが記憶の隅にあった。
 誰かが叫ぶ声や、バタバタと近くなってくる幾つもの足音、そしてサイレンが聞こえたような気がしたが、それもすぐに聞こえなくなっていた。
 慌ただしく看護師が出入りする処置室の前で、駆けつけた私の両親に、まさに平身低頭して謝り続けた車の運転手は、夫だった。私はそれを後に父から聞かされた。
 軽い脳しんとうで、命に別状はない。しかし粉砕骨折した右脚の踵は、完全に元に戻らないかもしれない。
 それが医師の診断だった。
「娘の過失もあると警察の方から聞きました。命に別状はないのだし、今はどちらがということより、お互いにあの子の回復を祈りましょう」
 夫は毎日欠かさず見舞いに来た。
 最初の頃こそ、私たちは互いにかばいあった。また、別々の生活が新鮮でもあった。しかし、約一ヶ月の入院を終え、病院に近い実家から通院するようになってからは、少しずつ夫の態度に変化が生じてきた。
 梅が終わり、桜も散り始める頃になると、夫が実家へ顔を出す機会は、めっきり少なくなっていた。リハビリが一番厳しい時期であっただけに、私は脚だけでなく、精神的にも不安定になりがちな日々を送っていた。
 瞬発力はあるが持続力が無く、一旦面倒だと感じると、いきなり放り出してしまう、夫にはそんな傾向があった。前職も趣味もしかり。もう少し頑張ってみたらと、奮起させるようあの手この手を使い励ますのだが、行動パターンは容易く変わるものではなかった。
 まさか今回の場合も......と考えると、眠剤の世話にならずにはいられなかった。
 一方で脚の状態は回復へ向かっていた。
 ケロイド状の傷跡が何本も残っていることと、少し右脚が短くなったことを除いては。理学療法士に支えられ松葉杖なしで歩くと、以前とは明らかに違う歩行をする自分が鏡に映っていた。
 夫は、仕事が忙しくなったことを、言い訳と共に携帯メールで報告してくるようになった。平日ばかりか休日までも、接待ゴルフや休日出勤と、ありきたりな理由で実家へ足を向けなくなっていた。私は返事をしないことで、かろうじて自分を保っていた。小さな画面に並んだ文字では伝えきれないやり切れなさを、無言で訴え続けていた。
「メールじゃなくて、電話くらいくれてもいいのにね」
 心中を察するように母親は言うが、私はさらに心が苦しくなっていくだけだった。
 思いあまって一度だけ、実家の固定電話から非通知設定で自宅へかけてみた。ゴルフに出かけているはずの夫は......電話に出た。彼以外の人間が、複数で騒いでいる声が聞こえ、私は受話器を取り落しそうになりながら、かろうじて静かにおろした。
 新緑が芽吹く頃、私は杖を使い一人で病院まで行けるようになっていた。夫の言動は相変わらずで、私はそのことに慣れつつあった。
 ちょうどその頃、日帰りバス旅行のチラシが実家町内の回覧板で回ってきた。
『深大寺蕎麦ランチツアー&神代植物公園の薔薇ガイド付き』
 しばらく私につきっきりだった母に勧めると、嬉々として出かけて行った。
 その日は快晴。母も久しぶりに羽根を伸ばしてきたようだった。新調したリュックから、みやげ袋を次々と取り出し「日帰りなのに、一泊旅行くらいの充実感だったわ」と、気負い込んだ様子で一気に報告を始める。
「薔薇はね、午前中の香りが強いんですって。朝一番に行けてラッキーだったわ」
 買ってきたローズウオーターを手首に吹きかける。促されるまま私も手首を差し出す。薔薇の香りがふわりと広がった。
「深大寺の参道は、両側に雰囲気のあるお店が軒を連ねていてね、水の流れる音がどこに居ても聞こえてくるのよ。あぁ、外で聞く水の音って本当に気持ちいいわ」
「蕎麦はどうだったんだ?」父が口を挟む。
「もちろん美味しかったわよ。はい、お父さんには蕎麦ボーロ」
「蕎麦じゃないのか」
「お蕎麦は現地で食べた方が、断然、風情があっていいわよ」
 そこで思い立ったように私の方を振り向く。「そうよ、あなたも行ってらっしゃいな。お父さんに車に乗せてもらって、植物園で待ち合わせすればいいのよ」
「迎えに来てもらえばいいじゃないか」
「免停中だもの無理よ。だからそこはドラマチックに盛り上げるの。最近この子たちあまり会えていないでしょう。そういう時こそ、初心に帰るつもりでデート、でえと!」
 そんなもんかね。父は母の多少強引な思い込みを熟知しているのか、とぼけた表情だ。
「調べたら、帰りはバスが駅まで出ていたわ。園内は車椅子を借りれば大丈夫だし。参道散策は......えーっと、あちこちに椅子があるから杖でも平気ね。階段は......うーん、彼におぶってもらいなさいよ」
 おぶう? 絶対無理! 夫の運動神経の無さはよく知っている。それに恥ずかしい。しかし母は私の言い分など聞く隙を与えず、計画はあっけなく実行に移されることになった。
「それからこれは一番大切なおみやげ」
 手渡されたのは、夫婦円満お守り『赤駒』だった。

 緩やかだが登りの坂道が続いている。夫の息づかいが苦しそうだ。ねえ、大丈夫?
「ん? ああ。......。平気だ......」
 夫の言葉が途切れると、一瞬止まった車椅子が、ゆるゆると後ろへ下がりだした。私は慌てて両脇のブレーキレバーを引いた。
「危ないじゃない!」
 溜めていた想いが必要以上に声を荒げさせる。挑むように振り返った私の目に映ったのは、首を垂れ、肩で息をする彼の姿だった。
 小刻みに震えた細い腕でハンドルを受け止めている。
「ごめん、ちょっと立ちくらみ」
 膨らんで、膨らんで、もうこれ以上耐えられなくなったシャボン玉がパチンとはじけた。
「もう、私の面倒なんてみきれなくなった?」
「......」
「正直に言っていいから」
 無数の楓の葉が波打ち、擦れ合い、川の流れのようにざあざあと音をたてている。二人の張りつめた緊張感は保たれたままだ。
「見舞いに行かなくなったことは謝る。ごめん。ゴルフと嘘をついたのも悪かったと思っている。電話、くれただろう? あの時は、後輩たちとDVDでサッカー鑑賞していた」
 私は彼の次の言葉を辛抱強く待つ。
「俺、駄目なんだよ。自分でもわかってる。お前に何か言われると攻められているようで、どうしていいのかわからなくなるんだ」
 そのつもりがなくとも、言葉の端々にそう思わせる何かが出てしまっていたのだろうか。
「そんなつもりないのに」
「どんなに謝ろうが、見舞おうが、怪我をさせたのは俺だろう。お前の実家に小さくなって行くことは辛かったんだよ」
「うちの両親だってあなたにいろいろと気を使って......」
「でも居心地がいいわけじゃない」
「勝手だよ!」
「その通りだ。お前の言い分は間違ってはいない。俺がいくじなしなんだろう。ただ、誰もがお前の思っているように理想的に動けるわけじゃない」
 私はこみ上げて来るものを喉に感じる。四角四面。昔からそう言われていたことを思い出した。でも、今のこれはそうじゃない。
「俺を長い目でみてくれないか。俺たち、縁あってこうして一緒にいるわけだから」
「その縁から逃げ出そうとしたのはそっちじゃない」
「......」
「永く看て欲しいのは私の方なのよ!」
 私は言い出せなかった言葉を、精一杯の小声に力を込めて返した。夫は「そうだよな」と一言だけ言い、車椅子を押しだした。
「これからどうする?」
「深大寺に連れていって」
 夫のペースでうやむやにしない為に、私には考えていることがあった。
 車椅子を返却してから杖を使い、夫の肩を借りながら歩く。なんとか参道まで出ると、深大寺近くの休憩所に座り一息ついた。水路を流れる水音に混ざり、涼やかな風が盛んに風鈴を鳴らしている。
 そこで私は演技めかして口を開いた。
「神聖な場所へ立ち入るには、着古した自分を脱ぎ捨てることも大切です。あなたは私をおぶって、あそこの階段を昇ること!」
 深大寺の境内へ続く石段を指差す。奥には茅葺きのどっしりとした山門が構え、石段は参拝客が行き来している。
「ええーっ。なんでおんぶなんだよ」
「私だって、恥ずかしいよ。でもこれは、私が自分を壊す儀式でもあるの。だからあなたは、あなたの決意を見せて欲しい!」
 夫はしばらくあたりを見渡していたが、どうにもならないと理解したらしく、私の前に背を見せてかがんだ。
 階段は数えたら十三段あった。その年齢にしては痩せている夫は、杖を持った私を背負っただけで、足元がよろめいている。「もういいよ」という言葉が喉まで上がってくる。
 想像もしなかった軽やかな足取り。うっすらとにじむ首の汗と柔らかい髪がこそばゆく、懐かしい香りすらする。
 信じられないことに、夫は途中で休むことなく一気に昇り切り、一礼までして山門をくぐった。そして境内の玉砂利を踏みしめたとたんに、へなへなとしゃがみ込んだ。と、同時にパラパラと周囲から拍手が聞こえてきた。
 気が付かないうちに、二人は周りの人々に励まされていたのだった。私たちは照れながら、同じように幾度となく頭を下げた。
 これだけやったのだから、きっと大丈夫。深大寺の神様は、私たちの縁をぎゅっと結び直してくれたに違いない。

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<著者紹介>
落合 真奈美(東京都新宿区/女性/自由業)

や、やべえ。
 吉祥寺の駅前で、僕は途方に暮れていた。きっと真っ青な顔を浮かべているだろう。なのに、行き交う人も前を走る車も、僕のことなんか気にも留めてくれない。交差点をせわしく歩いて行く人々はツンケンとしていたし、車はご陽気にクラクションを鳴らしていた。
 思わず僕は時計を見つめた。亜紀が買ってくれた時計は、十時十分前を指していた。
 ああ、これは間に合わないなー、ちくしょう。
 時計を見て絶望するなんて、高校の時の期末試験のとき、全然問題が解けていないのに残り時間が十分しかなかった時以来のことだ。けれど、そんな昔の話をぶり返している暇もない。
 今日、亜紀との約束があるのだ。
 付き合って五年になる亜紀が、この前こんな提案をしてきたのだった。「今度、深大寺に行かない?」
 亜紀の実家は東京・調布の深大寺にある。とはいっても、今まで一度も行ったことがなかった。現在彼女は仕事の都合で二十三区に住んでいるし、そもそも学生時代から一人暮らしをしている。それは学生時代からの付き合いのある僕も知っている。
 さて、付き合って五年にもなる彼女が、自分の故郷でデートなどと提案してくるということはどういうことか。そんなこと、僕がいくら抜けたヤローでも即座に分かる。きっと、自分の親に僕のことを紹介するつもりに違いない。きっと、付き合って五年にもなってプロポーズの一つもない僕にやきもきしているのだ。......言い訳をすれば、プロポーズしてもいいのだけれど、踏ん切りがつかないままにここまで来ているだけのことだ。
 ところが、壊滅的に頭のネジが抜け切っている僕は、大いなる失敗をやらかしてしまったのだった。目覚まし時計のかけ忘れ。目覚めたときにはもう手遅れの時間。慌てて寝癖を整えながら服を着て、取るものとりあえず電車に飛び乗ってもこの遅れは挽回できなかった。そして気づけば待ち合わせの時間の十分前。待ち合わせ場所の深大寺入口まで、バスで二十分はかかるらしい。けれど、約束の時間は十時きっかり。あと十分しかない。
 が、彼女は時間に厳しい。時間に遅れると烈火のごとく怒り、僕のことをタコ殴りにしてくる。いつもならタコ殴りになってしまえばそれで済むけれど、今日はそうもいかない。大事な日なのだ。
 ああもう、どうしたらいいんだぁ!
 吉祥寺の真ん中で叫びそうになった。
 と――。
「おやおや、お困りのご様子だね」
 突然、後ろから声がかけられた。藁にもすがる気持ちで振り返ると、後ろにはお婆さんが立っていた。七十歳くらいだろうか、腰がひどく曲がっていた。
 なんだ、この人。
 そんな僕の心の問いに答えるかのように、上目使いをしてくるお婆さんは口を開いた。
「ああ、私は仏様の使いさね」
 曰く、深紗大王の眷族にして目代なのだという。そんなバカげたことを、座った目で喋っている。
 あ、やべえ。
 思わず僕は一歩のけぞった。関わり合いになっちゃまずい人だ。
 けれど、お構いなくお婆さんは続けた。
「あんた、あと十分で深大寺に行きたいんだろう?」
「へ?」
 何で知ってるの、このお婆さん。
 ははは、とお婆さんは声を上げて笑った。
「私ァこれでも仏様の使いだよ? 人の心くらい軽く読めるってもんさね。......お困りだろう? なら、何とかしてやってもいいよ」
 え、なんとか、って?
「決まっておろう」お婆さんはニカリと笑った。「神通力でお前を運んでやろう」
 するとお婆さんは僕の後ろ袖をつかみ、裏路地まで引っ張った。大の大人であるはずの僕は、お婆さんに襟を掴まれて引っ張られる羽目に。
 誰もいない裏路地で、お婆さんは懐をまさぐり、それを僕の前にかざした。
 それは馬の人形だった。
 藁で体を作ってあって、稲穂の尻尾がふさふさとしていた。藁人形の馬版と表現すると当たる。雄叫びをあげるように、空に鼻先を向けている。シワシワのお婆さんの手の上に立つそれは、ひどく華奢だった。
 お婆さんは言った。
「これで、お前さんを運ぶ」
「ごめんなさい」
 逃げようとする僕の後ろ襟を取ってお婆さんは続ける。
「無論、この馬に人は乗れん。が、ワシが神通力を使えば。はっ!」
 気合い一閃と共にその馬からぼわっと煙が立ち上り、しばらくその馬の姿が見えなくなってしまった。その煙は一瞬にして辺り一帯に広がり、僕の視界を奪う。そうしてしばらくして煙が晴れると、目の前には僕の背とあまり変わらない馬......の藁人形が立っていた。
「騙されたと思ってまたがってみい」
 言われるがまままたがった。もしこれで何も起こらなかったら、裁判沙汰に出来るだろうかと薄ぼんやり考えながら。ちょっと馬の脚が短かったせいで、またがっている僕の足はしっかり地面についていた。
 けれど、お婆さんはそんな僕にはお構いなしのようだった。その馬の前で何度も印を組み換え、何か呪文を唱えていた。けれど。
「喝!」
 またもや気合い一閃。その瞬間、予想だにしないことが起こった。
 ふわり。
 足が地面から離れた。
「え? え? え?」
 とにかく戸惑う。けれど、そんな僕の戸惑いはさらに混迷の度を極める。
 どんどん地面との距離が広がってゆく。お婆さんもどんどん小さくなっていく。いや、それだけじゃない。吉祥寺を行く人々の姿も車たちも、そびえたつビル群もどんどん小さくなってゆく。そう、僕は今浮いているのだ。
 どんどん上昇を続ける藁の馬、そして僕。けれど不意にその上昇が止まった。
 と。
「ヒヒーン!」
 藁の馬がいなないた。そして、手足を空中でばたつかせ始めた。地面でもしこれをやっていたら、走る動作だったのだろう。けれど空の上でのこと、前に行くこともなく......。と高をくくっていた僕が馬鹿だった。僕を乗せた藁馬はぐいぐいと速度を上げてゆく。もう速すぎて息が出来ない。次々に景色が後ろに流れて行ってしまう。不思議と怖さはない。うっすらと目を開けて、僕は先を急いだ。

 深大寺入口に、亜紀は立っていた。
「おーい、亜紀!」
 手を振って駆け寄る。そして彼女の前に立った瞬間、僕に浴びせられたのは思いっきりのグーだった。へぶう! そのパンチをモロに食らう僕の耳に、罵声まで届く。
「遅い! 二分遅刻! 私は十分前から待ってたのに!」
 結局、仏様の眷族の神通力をもってしても、十分で吉祥寺―深大寺間の移動には無理があったらしい。僕は辺りを見渡す。
「あれ? お義父さんとお義母さんは?」
 すると、亜紀は怪訝な顔を浮かべた。
「はぁ? 何言ってんの。今日は父さんも母さんも来ないわよ。そもそも、来るなんて言ったっけ?」
 そうだ。言っていない。ただ彼女の実家のある深大寺でデートしようと話があったから、紹介されるものと勝手に思い込んでいたのだ。深紗大王の眷族の神通力も、とんだ骨折り損なのだった。
 けれど、彼女は何かに気づいたらしい、急に笑顔を浮かべた。
「ねえ! その手にあるやつ」
「へ?」
 僕は右手を彼女の前で広げた。
 それは、僕の乗ってきた藁の馬だった。深大寺につくや、役目を終えた藁馬は元の大きさに戻り地面に転がった。そのままにしておくわけにもいかず、拾い上げていたのだった。
「これ、赤駒じゃん」
「赤駒?」
「うん、深大寺名物の玩具。......もしかして、私にこれを?」
「え......あー、うん」
「うわあ、ありがとう!」
いい方に誤解してくれたらしい。彼女は僕の手から藁馬もとい赤駒をひったくると、ニコニコと微笑みながら指先でつついていた。亜紀は本当に眩しく笑う。
 亜紀を見つめながら、僕は心の中で呟いた。
 この笑顔をずっと見ていたいんだよなァ、僕は。
 その瞬間僕の口から、胸から溢れてしまった言葉が飛び出した。
「結婚してください」
 すると彼女、顔を真っ赤にしてまたグーを飛ばしてきた。
「遅い! 待たせ過ぎ!」
 彼女のグーが僕の鼻を粉砕した瞬間、僕の心の中でお婆さんの声が響いた。
"がんばりなさいな"
 その声に向かって、心の中で僕は返事をした。
"うん、がんばります"
 鼻血をダラダラ流しながらも、僕はなんとなく幸せを噛みしめていた。

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<著者紹介>
谷津 矢車(東京都)

「ですから、もう話し合うことなんてないんです。自分たちでは堂々巡りになるばかりで。そりゃ、娘のことは考えましたよ。でももうきりがないというか。」
キッチンの香苗の声が少しいらだちを含んでいる。狭いアパートの部屋で会話はこちらの部屋へ筒抜けである。私はそっと向かいのソファに座る男を盗み見た。何を考えているやら書棚に目をやっている。やけに潔く切った堅そうな髪、新しそうなのに折り目のないスーツ。編集者にしてもなにかちぐはぐな感じである。電話の会話は聞こえているだろうにしれっとしている。私は焦った。こんな男に香苗の電話を聞かせたくない。
 香苗は育児雑誌に時々のったりするエッセイストで4歳の娘を抱えて離婚調停中だ。大学の同級生で在学中は顔を知っている程度だったのに、たまたま私の近くに引っ越してきてうちのピアノ教室の看板を見かけたそうだ。子ども相手の仕事だから昼は時間が自由な私は、親切で雑用を引き受けている間になんとなくアシスタントのようになっている。彼女は果断でエネルギーに満ちた猛進タイプだけれど、よく気がつく人でさりげなくお礼をしてくれたりするので、私はこの立場が気にならない。お給料を払うと言われたら縛られるようで引きそうだし、ピンチにある彼女を助けたいような気もあって続いている。だから仮にもアシスタントもどきの私としては、この無神経そうな男に香苗の電話を聞かせたくなかった。
今日はちょっとした打ち合わせを始めたところにこの男がやってきた。来るということは知らせてあったようだ。しぶしぶと言った風で家にあげたところで電話がかかり、こうして時間が止まっている。男はいかにも「待つのは気にしていませんから。」風を装っているけれど、一方で「話すまで帰りません。」というオーラもちゃんと出している。電話は長引きそうだ。香苗がこっちに気を遣っていない様子から、この男の仕事を受ける気がないらしいことが分かる。だからってプライベートの電話を聞かせることもないのだが、構わないことで「あなたのことは気にしていませんから」と主張しているのだ。
どうしよう、どうしよう。だんだん密度が濃くなってきた。こんな女所帯の狭い空間にでかい男は空気を吸いつくす気がする。出てくれないかな。どっかへ。「出直してもらえませんか」と言いかけるが、そのくらいではてこでも動かなそうなオーラがある。そりゃ都心の出版社からこんな調布の果てまで出かけてきたのだ。手ぶらでは帰れないか...近くに喫茶店でもあればそこでお待ちくださいといえるし、そもそも自宅に押しかけられずに喫茶店を使えばいいのだ。だが住宅街のここではそんな気のきいた場所はない。ええと、ええと・・・
「あの。深大寺、ご存知ですか?この辺では有名で、あの、ほらゲゲゲの女房っていう朝のドラマに最近出たりするんですよ。」
「ほう」気のなさそうな返事。絶対知らないな。こいつ。
「ちょっと行ってみませんか。私、ご案内しますから」
有無を言わさず立ちあがる。反応が無いので空振りか、と思ってから3秒たって、のっそりと立ちあがる。一応私の意図は察したようだ。いくら独身男だからって(いかにも構ってません、といったなりである。これで奥さんがいたらよっぽど大事にされていないんだわ)人の離婚話に退席するくらいのデリカシーは持つべきだ。
さてと。どうやっていくんだっけ。歩いて10分くらいの近さではある。近すぎて近所の人間はそうそう行ったりはしない。ゲゲゲで人気っていうのも、どこかに書いてあったのの受け売りだ。案内するなんていったけど私だって小学校の遠足以来である。当時は国立に住んでいて小学校2年の遠足が神代植物公園だった。5月のバラの季節、うっとりするような香りの中で絵を描いた気もする。絵を描くのはいまいちだったなあ、なんて思う。今日は梅雨空らしい垂れこめた雲で雨の降りそうな湿った風が吹いている。ご案内するような陽気じゃない無いなあ、と一人で思いながら黙々と歩いてしまっているのに気がつく。相手も黙々とついてくるようだ。あたりはバス通りでさえうっそうとした茂みや張り出した木々が目立つ。夏の木々は暑苦しいくらいに、どこまでも、どこまでも貪欲に四方に触手を伸ばす。
バス通りから参道へ降りていく。並んで歩くにはちょっと狭いから自然と先に立って歩く。「妙なお天気ですね。」
場つなぎにしたってもう少し気のきいたことが言えないものか。我ながら舌打ちするが、狭い歩道をたったと降りながら相手の顔も見ていないのだから、もはやなんだって良く、天気の話題はどんな時でも万能なはずだ。
「・・・」え?無視?という間の後
「いや、梅雨には梅雨の楽しみがありますから」
「・・・・」
ぬれる足もと、畳んでも張りつくぬれた傘。雨が降ると、もうどこにも行きたくない私だ。どんないいことがあるんだ!と心のなかでつっこむくらいなら「あら、どんな楽しみですか?」なんてさわやかに聞ければいいものを、不器用な沈黙で流してしまった。なんでうまく話せないんだろう。参道には名物の深大寺蕎麦屋をはじめ、漬物や、まんじゅうや、干物やの屋台なんかもある。人通りも結構あってゲゲゲの鬼太郎の店には人がたかっている。どこの観光地もそうであるようにガイドブックを持った年配の人が多く帽子にウォーキングシューズ、リュックが標準装備である。眺めている間にこちらも遠足気分になってきた。深大寺は小さなお堂が点在して一帯をなし、そこここに小さな蕎麦屋があってこれまた人気を呼んでいる。そっと隣を盗み見るとまんざらでもない表情をしている。無理やり連れ出されてこんなところに連れてこられて怒ってやしないかと心配したけど、なんだかのんびりした表情だった。隣に立つと意外に背が高い。急に自分の普段着のなりが気になったりする。坂道の途中に花屋もある。植木屋さんといった方が近いような、山野草の小さな鉢や涼しげな桔梗、まだ緑色のほおずき、朝顔なんかを所狭しと並べている。アジサイの大鉢もあった。小さい花がぎっしり固まったまあるい手毬のような水色のアジサイ、はやりのガクアジサイ。思わず見とれた。なかでも薄い水色のとがって重なったガクを持つアジサイが目を引いた。華やかで洋風、モダンな感じだ。
「花火っていう品種です。アジサイはほら、梅雨の楽しみですね。」
彼は楽しそうに言う。
「よくご存じですね。」
私はびっくりして言った。気のきかない冴えない男だと思ったのに、違う人格が現れたようだった。
それから彼はポツリポツリと話し始めた。この4月に突然スポーツ雑誌から育児雑誌に異動になったこと、子どもどころか独身なのにどうしていいかわからず途方に暮れていたこと。とにかく何かアウトドア系の企画をせよと言われて香苗の「春の草で遊ぶ」というエッセイを読んで、この「落ち葉で遊ぼう」バージョンを頼みに来たのだと話した。秋だからもう目前で今日にもOKしてもらわなければと、とにかく自宅に押しかけたのだという。はあ、それでてこでも動かないオーラを出していたのね。でも今の彼は緑に洗われてくつろいだ雰囲気になっている。私はふっと植物園に菖蒲を見に行ってもいいなあ、なんて考えていやいやと否定する。
「申し訳ないことをしました。ああいう場面に居座りたかったわけじゃないんですが。」「こちらこそすみませんでした。お急ぎのお仕事だったのに、こんなところへお連れして」そろそろ戻りましょうと言いかけた時、携帯が鳴った。彼はメールを確認すると急に名刺を取り出して言った。
「いいところへご案内いただいてありがとうございました。いい空気を吸って生き返りましたよ。今日はもう失礼します。先生にはまたご連絡してから伺います。念のためにそちらのアドレスをいただけませんか。」
なんで私はためらいなく自分のアドレスをやったのだろう??そりゃあ、空振りで帰る彼が気の毒だったから・・・?

部屋へ戻ると香苗が言った。「ごめん、ごめん。」そしてニヤリと笑ってこう付け加えた。「でも彼、美雪の好みのタイプじゃなかった?」

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<著者紹介>
花月 彩(東京都府中市/49歳/女性/主婦)

 緑色の楓の葉が木漏れ日でキラキラ輝き、そよ風も心地よく襟元を通り去るそんな一時。そんな中今日もまたあの視線を感じた。錦織悟は自分をじっと見つめるあの熱烈な視線を感じずにはいられなかった・・・。

 あれはある日の午後の出来事だった、悟は山門前でスケッチをしていると、誰かが自分をじっと見つめているような気がした。ここ深大寺の山門前では、時々白髪頭の方々が折畳み椅子に腰掛けて、スケッチをする姿を見かける。だが、悟のような美大生は確かに稀な存在ではある。珍しいのかな?悟はそう思い、気にせず鉛筆を動かし続けた。しかし、何分たっても、その視線の主は一向に移動する気配はなく、悟も段々と気になり始めた。
 あまり露骨に振り返ると、視線の主を驚かす羽目になるので、悟は肩が凝ったかのように首を左右に動かしつつ、肩を揉む仕草をしつつ、横を見る振りをしつつ後ろをチラ見した。とりあえずボブカットの女の子だということだけは認識できた。一旦それで顔を元の方向に戻してから、次に悟は両手の指を組んで大きく伸びをし、頭を後ろに反らせた。そうしながら後ろに立っている女の子の特徴を再確認した。大きく無邪気な瞳、筋の通った鼻、艶のある豊かな唇、そして透き通った肌。魅力的の女の子ではあるが、どこかまだ幼さが残っている。高校生?まさか中学生?
 あの日以来、悟が深大寺界隈でスケッチをしていると、視線の彼女が必ず現れて、悟の事を黙って見つめるのだった。

 今日も変わらずご苦労様と思いつつ、可愛いファンの事について知りたいという気持ちは正直ないとは言えない。そんな雑念を追い払うように、悟は消しゴムで気に入らない部分を力いっぱい消し始めたその瞬間、消しゴムが手からこぼれ落ちていった。
「あっ!」悟が拾いそびれたら、消しゴムは地面で一度バウンドしてから、まるでスーパーボールのように勢いよく跳ね上がり、丁度彼女の足元で落ち着いた。
折畳み椅子に座ったまま、悟は彼女の細い脚とその足元にある消しゴムを見つめた。しばらくすると彼女はしゃがみ込んで、白く華奢な手で消しゴムを拾い、口元に消しゴムを運び、「フーフー」と息で消しゴムについた砂を吹き払った。その間悟は彼女のふっくらした唇から目が離せなかった。
「落ちましたよ。」ニッコリしながら、消しゴムを差し出す彼女の歯は、空で呑気に浮かんでいる雲より白かった。
「あぁ、ありがとう。」消しゴムを受け取りながら、悟は思い切って言ってみた。「あれ?きみ、前にも見かけたけど、深大寺にはよく来るの?」消しゴムはまさに話すきっかけを作ってくれた。
彼女の顔は一瞬にしてトマトのように赤くなり、そして彼女はもじもじしながら答えた。   「たまに・・・来るだけですよ。家・・・ここから近いから、たまに散歩にくるだけ・・・。」答えながらどんどん声が小さくなっていった。
「ふ~ん、なるほど・・・。きみって中学生?」悟は一番気になっていた事をわざと関心なさそうに聞いてみた。
彼女は首を横に強く振りながら、「違います、高校二年生です。」と答えた。さっきトマト色に染まった顔は大分落ち着いたが、今度は唇が不服そうにとんがっていた。
「そうか、これは失礼。」悟は笑いながら彼女に向かってペコリと一礼をした。そうしながら彼女の顔をチラッと覗いたら、彼女は手で口を押さえて笑っていた。悟は内心ホッとした。ふざけた態度で彼女を余計怒らせたのではないかと不安だったからだ。
 「俺はニシキオリサトル、故郷に錦の錦、織物の織、悟りを開くの悟、美大の二年生だ。時々ここら辺でスケッチしている。よろしく。」なぜか自己紹介し始めている自分に驚きを感じる悟は不自然な笑みを浮かべた。
「私はオサナイアヤネ、小さい山に内側の内で小山内、色彩の彩に音楽の音で彩音です。17歳の高校二年生です。中学生ではありませんよ。」と小山内彩音はいたずらっぽく笑いながら自己紹介をした。
 悟も一緒に笑った。そんなお互いの自己紹介で一瞬にして空気は和み、会話も自然と弾んだ。可愛いだけではなく、一緒に居るとホッとできて、しかも人をひきつける魅力を持つ彩音に、悟はトキメキを感じた。
 「あの、実は私・・・、高校の美術部に入っていて、大学はやっぱり美大に進学したいと思っているんですよ。」しばらく会話した後、彩音は恥ずかしそうに語った。
「へえ、そうなんだ・・・。だからいつも俺の絵を見てたのか・・・?」悟は納得したと同時にがっかりもした。悟が勝手に自分のファンだと思い込んでいた子が、結局絵が好きで、美大を目指していただけだったから。
 二人が立ち話をしていると、門前そば屋の店員が店先を掃除しながら、ちらちら二人の方を伺っているのが悟の目に入ってきた。
 「さてと、そろそろスケッチに戻るか。」悟は人目が気になり、仕方なくそう言った。「消しゴム、ありがとう。」そう言いながら、再度折畳み椅子に座ろうとした。
 「あっ、あの・・・、もし良かったら今度私の絵を見てくれませんか?」座ろうとしている悟の方に向かって、彩音は勇気を振り絞って言った。「スケッチブック持ってきてもいいですか?」そう言いながら彩音の顔はまた段々と鮮やかな赤色に変化していった。
 「俺なんか役に立たないと思うけど・・・、でもこんな俺でよければ喜んで。」悟は微笑みながらうなずいた。
 彩音は本当に嬉しそうに笑い、両手を合わせて拝むようなポーズをした。「本当にいいんですか?どうもありがとうございます。うれしい!」そんな彩音を見て、悟までウキウキした気分が感染したようで、彩音が次回会う約束をして帰ってからも、鉛筆を持った手はなかなか動かなかった。

 鬼太郎茶屋の中の喫茶コーナーで、彩音に手渡されたスケッチブックを開き、悟は自分の作品を描く時以上に真剣な眼差しで彩音のスケッチのタッチを見た。まだまだ光と影の表現は幼稚だが、視点がなかなかユニークで、他の人が描かないアングルや、普段主役になれない物体が描かれている。客観的に見ると自分より才能があるかもしれないと思うと、悟はほんのちょっぴりライバル意識を抱いた。だがすぐにそんな心の狭い男でありたくないと思い直し、悟は素直に自分の感想を述べた。
 「うん、なかなかいいんじゃないかな?発想が面白いよ。普段人が描かない物を描いているし、人が描かない角度から描いているし、俺は結構イケてると思うよ。技術面はまだまだだけど、それだって沢山描いていればそのうち上手くなるしね。俺なんかより全然上手くなるよ。」一気に評論家的意見を述べて、悟は彩音にスケッチブックを返した。
 彩音はびっくりした様子で、しばらく下を向いて黙り込んでいた。数十秒間同じ姿勢を崩さなかったが、いきなり顔を上げて悟の方を向き、眩しい笑顔を見せた。
 「初めて褒められました!美術部の先輩達はみんな首を振るか、肩をすくめるかで、どこがどう悪いか全然言ってくれないんですよ。顧問の先生もとにかく基本が大事とか言って、アドバイスもしてくれないので、困っていたんです。錦織さんって本当に優しい。だってちゃんと批評してくれるんだもん。」言いながら、彩音は目をキラキラ輝かせた。
 そんな彩音を見て、悟も嬉しくなった。自分が彩音の唯一の理解者になった気分だったし、彩音と自分の距離がグッと縮まった気もした。浮かれた気分の悟は彩音の手元を何気なく見たら、彩音はスケッチブックとは別に何枚もの画用紙を持っていたが、悟に見えないようにスケッチブックにそっと挟み込んだ。
 「あれ?それもきみの作品?さっきは見せてくれなかった分?」と悟は聞いた。
「あっ、これはいいんです、この何枚かは失敗作で、今度描き直そうと思って取ってあるだけなので、気にしないでください。」彩音は慌てて言い訳をしながら、スケッチブックを背後に隠した。

 「今日は本当にありがとうございました。これからの道が開けたような気がします。」鬼太郎茶屋を出てから、悟に向かって彩音は極上の笑顔で語った。
 「そんな大げさな・・・、ただこれからも俺でよければ相談に乗るよ。それと・・・、よかったら一緒にスケッチでもしないか?」悟はチャンスを逃さず、自分の気持ちを素直に言葉で表した。
 「えっ?本当に?いいの?邪魔じゃないですか?」彩音は驚きを隠さず、同時に嬉しくて仕方ない様子で悟を見つめた。それに応えるように悟はニコリ笑い、コクリと頷いた。
 丁度その時、参道の方で突風が吹き荒れた。ものすごい勢いで、彩音のスケッチブックも突風にあおられて、中に挟まっていた画用紙が宙に舞い上がった。「きゃっ!」彩音は思わず声を上げ、慌てて画用紙を追った。悟も近くに舞い降りた画用紙を数枚集めて、他のも拾おうと思った瞬間、画用紙に描かれた男の肖像画に釘付けになった。それは悟が良く知っている男だった。そう、全て悟の肖像画ばかりだった。横顔だったり、正面だったりするが、紛れもなく錦織悟の顔だった。
 悟はゆっくりと彩音の方を振り向くと、彩音も丁度悟の方を振り向いた。二人の目線が合った瞬間、悟ははっきり分かった気がした。
 そう、この恋はもうすでに始まっていたのだ。

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<著者紹介>
平井 ハヅキ(東京都調布市/女性/派遣社員)

ふかふかふか。
靴底を押し返してくるようなこの弾力、何だか心地よい気分になる。
今、僕は、近くに流れるせせらぎを見ながら落ち葉で敷き詰められてできた自然の絨毯の上を一人歩いている。神代植物公園の中にそれはある。
絨毯の両側には、あずきなし、しらかし、アベマキ、シナノキ。そんな聞いたことがない木の名前が書かれた茶色のプレートがそれぞれの木に付けられている。
春とはいえ強い日差しが、見上げるほど高い位置に生い茂る高木の緑葉に遮られて涼しげな空間を作っている。僕はかぶっていたグレーの野球帽を取った。さわやかな風が汗で少し濡れた髪を通り抜けひんやりとして気持ちよかった。
この公園も使えるな。僕は、歩きながらそう思った。
三日後に約束している彼女とのデートのために僕は、下見をしているのだ。彼女は、成瀬彩夏さんという。彼女とは言ったのもの友達の域を出るか出ないかのあいまいな関係だ。今度の三度目のデートで僕は、一気に彼氏への昇格を狙っている。
彼女とは、男友達に数合わせで誘われた合コンで初めて出会ったのだが席が隣だったことが幸いしお互い映画の話で盛り上がり翌週の映画デートにつなげることが出来た。そのデートは、彼女がリクエストしたアクション映画を観たので終始いい雰囲気で進んだ。その後、また次の約束が出来たのだからこのデートは成功したということだ。
彼女は、色白でショートカット、スキニージーンズがよく似合う僕好みの女の子だった。僕は、彼女の無邪気な笑顔に一瞬にして心をつかまれた。
今回、蕎麦をデートコースにからめようと思ったのは、前回の映画デートの帰りに彼女が蕎麦好きだと知ったからだ。新蕎麦の時期に長野へ蕎麦を食べに行くというのがここ数年の定番行事となっているそうだ。よほどの蕎麦好きなのだろう。そんな彼女の舌を満足させる蕎麦を食べさせることが出来たなら昇格がぐっと近づくであろう。しかしそれには問題があった。僕には、蕎麦屋にわざわざ行って蕎麦を食べるという文化がない。せいぜい駅の立ち食い蕎麦をかき込むぐらいなのだ。
そんな僕が、無謀にも蕎麦をからめたデートを計画しよう決めたのだ。彼女に喜んでもらいたくて。
そう決めてから僕は、本屋でガイドブックを見たりネットで検索したり友人に聞いたりと出来る限り情報収集に努めた。
そして僕は、深大寺の蕎麦が歴史があり有名であることを知った。さらに周辺の様子を調べると神代植物公園があることを知った。これなら蕎麦だけでなく自然の中でリラックスしたデートが出来ると思った。
そんな流れで今日の下見を迎えた。
公園の下見を終えるとお目当ての蕎麦屋である喜楽庵に立ち寄りもり蕎麦を食した。程よい腰の強さで噛みごたえがあり蕎麦とはこういうものなのかと思った。日曜日と言うこともありかなりの行列ができていて待たされたがこの味なら許せる。そして最後に蕎麦粉を使ったまんじゅうを頼んだ。このまんじゅうは、ネットからクーポン券を印刷し持って行くと無料で食べることができる。これもまた甘さ控えめで一口大なので量的にもちょうどよくとってもおいしかった。きっと甘党の彼女も気に入ってくれるだろう。
思い通りの下見ができた。あとは、本番を迎えるのみだ。
 三日後、いよいよその日が来た。降水確率五十パーセントと言う微妙な天気予報が出ていたが朝起きた時点ではまだ雨は持ちこたえていた。
 僕たちは、新宿駅近くのコンビニで待ち合わせた。店内で立ち読みをしていた僕の背中越しに「おはよう」という彼女の声が聞こえてきた。振り向くと彼女は、ニコッとほほ笑み僕を見ていた。
「おはよう」
僕も思わず笑みがこぼれた。
彼女は、白い帽子をかぶり細身のジーンズをはきTシャツにカーディガンを羽織りストローバックを右手に持っていた。バックから折り畳み傘の柄の部分が少しのぞいていた。
「天気何とか持つといいね」
そんなことをお互い話しながら新宿駅に向かった。
「達也君は、深大寺行ったことあるの?」
「あっあるよ」
「最後に行ったのはいつ頃?」
「うーん。去年かな」
 とっさに僕は、嘘をついた。デートの下見をしたなんて恥ずかしくて言えなかったし深大寺を最近知ったことも何となく隠したかったから。
「そっかー。私、深大寺、久しぶりだから楽しみだよ。今日は、どのお蕎麦屋さんに行くの?」
「喜楽庵」
「えっほんと?あそこおいしいよね。私好きだよ。あっクーポン券持ってきた?」
「うん。まんじゅうのでしょ?」
「そう。あれクーポン券持って行けばただだもんね」
彼女は、とっても嬉しそうな表情をした。
彼女は、どうやら僕より詳しいようだ。
京王線に乗り調布駅で降りた。そこから深大寺行きの路線バスに乗ってもよいのだがあえて歩いた。三十分弱。僕たちは、たわいもない話で盛り上がった。いい雰囲気のまま住宅街や畑を抜けると緑豊かな深大寺の入り口に着いた。
 まずは、計画通りあの絨毯へと向かった。
「ふかふかするねーおもしろーい」
彼女は、そう言って子供のようにスキップをした。とっても楽しそうだった。
次に公園内にあるバラ園を散策した。彩り豊かなたくさんのバラの花に彼女は引き込まれていた。一通り公園内を回った後、喜楽庵へ向かった。
さすがに平日と言うこともありすぐに店内へ入ることができた。
そして僕が席を座った時だった。
「すみません。もしかして日曜日にいらっしゃった方かしら?」
 声の先には、お店のおばちゃんが立って僕を見ていた。
「はい?」
「クーポン券を出しておまんじゅうを食べたお客さんじゃないですか?その帽子この前もかぶってたでしょ?帽子だけ印象に残ってたもので」
 僕は、まずいと思った。彼女に嘘をついたことがばれてしまう。確かに僕のことだがこのタイミングで何が言いたいんだ。僕は、少しいらだちを感じていた。
「いやねークーポン券をいただいたのにおまんじゅうの代金をいただいてしまったものですから。もしあなただったらお金をお返ししようと思って」
「あれ達也君今年は初でしょ?」
 彼女が、聞いてきた。僕は正直に言うことにした。
「おばさんそれ僕です」
「やっぱりね。よかったわ会えて。今、お金持って来るわね」
 彼女が、不思議そうに僕を見ていた。
「ごめん。実は、日曜日に下見に来たんだ。本当は、今日初深大寺なんだー」
 気まずかった。
「そうなんだー。ありがとう」
 彼女は、笑顔でそう言った。予想外の言葉だった。
「嘘ついてごめんね」
「気にしなくていいよ。私、うれしいし」
「そう言ってもらえると少し気持ちが楽になるよ」
「ねえ深大寺をデートコースに選んだ理由はなに?」
「それは、蕎麦を食べさせたかったのと公園があるからいいかなーと思って」
「なんだーそれだけかー。二人でお参りしたいのかと思った」
「お参り?」
「うん。深大寺は、縁結びのお寺でしょ。お蕎麦食べたら一緒にお参りしようね」
僕は、どうやら昇格できそうだ。にんまりしながらそう確信した。

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<著者紹介>
渡邉 博之(静岡県沼津市/37歳/男性/会社員)

 ミツオは本が好きな青年だった。
天気の良い日は必ずと言っていいほど深大寺のなんじゃもんじゃの木が見えるベンチに座り、読書をしていた。
彼はこの木々の深い、森のなかにいるような気持ちになれる場所が好きだった。確かに参拝客や時期によっては音楽会なども催される――必ずしも深とした静けさのある場所ではない。だが本の世界に漂っている心地よさは、ミツオの視界から他人を消し去っていた。本の中の彼はヒーローで名探偵。時には人ですらない。何にでもなれ、現実の彼にはできないことを何でもできるのが心地よかった。
 そんなある日、事件が歩いてやってきた。サク、サク、サクと、近づきつつある音。そして不意にどっかと隣に女が座ったのだ。
(なんだ――この女、失礼な奴)
 三人掛けのベンチだが、一つ空けて二人が座ればそこはすでに満席の体だ。中央に座らなかったことを悔やんだが、別段いつものように物語に入ってしまえばいいだけのことだ。
 隣に座った、読書を好むミツオとは明らかに趣味の異なる彼女は、綺麗に染め上げられた茶よりも明るい長髪。両肩から前に流した髪はテレビタレントのような流行の巻き髪にしている。肩も露わなブラウスにショートパンツ。まぶしい裸脚の先に編み上げのサンダルが映える。いわゆる今時の女性であった。
 そんな彼女はじゃらじゃらとストラップをたらした携帯電話を取り出すと、拡声器を思わせるような声ではなし始めたのだ。
「ちょっと、ジュン! なんでこないのよ! アイコと一緒? あっそ、勝手にすれば!」
 舌打ちも軽やかに、すぐに電話をかけ直す。
「あ、ダイちゃん? 今ヒマ? え? バイト? いいじゃん、一回休んだって――」
(オイオイ。何だよコイツは――)
 ミツオにとっては頭の痛い、静かな時間の邪魔者以外の何者でもなかった。だが、この代わる代わる男性に電話をかけ続ける彼女の話が気にならないといえば嘘であった。
 程なく彼女は席を立ち、サクサクと砂を跳ね飛ばしながらその場を後にした。
「なんなんだ、あの女――」
 今度は思いがけず声に出していた。だが、それに気づくとムニャムニャと語尾をすぼめ、本に目を落としたのだった。
 再び彼の前に静かな時間が帰ってきた――かに思えた。そう、これは始まりでしかなく、なんじゃもんじゃの木が見えるベンチは、彼一人のものではなくなっていたのだ。
 毎日違うタイミングなのだが、彼のいうあの女が同じベンチに座るようになったのだ。
 彼女は毎日、かわるがわる電話を続けていた。ときに楽しげに、ときに怒りのおもむくままに。その大半が後者であることを知るのは彼女自身と、この数日隣で話が聞こえていたミツオの二人だけだったかもしれない。
(まったく。毎日飽きもせず似たような話ばかり。おかげでこの本を読み切れなかった)
 このところ、ミツオは全く本に集中できなかった。彼にとっては初めてのことで、まさかどこにでもいそうな、ファッション雑誌そのままの格好の女一人のせいで静かな時間が侵されていると思いたくもなかった。
 しかし、事件はここからはじまる。とうとう彼女が先にベンチに座っていたのだ。
 しかも、いつもと様子が違う。
 いつもの快活さが鳴りを潜め、肩を落とし、背中を丸めてベンチの端に座っていたのだ。
 ミツオは一瞬怯んでしまった。だが、彼にしてもベンチに座ってのひと時を譲りたくはない。いつも以上に彼女が気になっているのを悟られないように腰を下ろしたのだった。
(なにを考えているんだ、俺は――)
 彼女を気遣った自分自身に納得いかないと、無理矢理に本を開き、文字に目を走らせる。
 だが、全くと言っていいほど、本は彼の頭の中に物語を生み出してはくれなかった。
(俺はただ静かにしていたいだけなのに)
 思った刹那、隣から声がしたのだ。
「アナタ、いっつもそこにいるのね」
 今まで聞いたことがないくらいに、静かで穏やか。少し寂しさが入り交じった声だった。
「――あぁ、まぁ――」
「バカなウルサイ女だと思ってるんでしょ」
 ミツオは思わず本を落とした。気づかれていたんだ、そう思った。
「全部聞いてたんでしょ、電話。軽い奴らのドコがいいんだ――とか思ってたでしょ」
 全部見透かされている。ミツオは彼女にそこまで見られていたとは思ってもいなかった。
「べ――別にそんなこと――」
 ミツオはこのときほど物語のヒーローのようになりたいと思ったことはなかった。
 彼女はそれすらも見透かしていたのだろう。慌てているのを必死に隠そうとするミツオにやわらかくくびを傾げると、和らいだ目元を見せたのだった。
 それを見たとき、ミツオはゴメンとつぶやき、その場から逃げ出した。
 反射的に走り出していたミツオが我に返ったのは深大寺の入り口が見えてきてからだった。同時に、あることに気づいた。
(本がない――)
(この後図書館に返すつもりだったのに。さっき落としたんだ――)
場所はわかっていた。彼女のいたベンチだ。
 まったく、いったい何でこんなことになったのか。俺はただ静かに過ごしたいだけだったのに。そう思わずにはいられなかった。そんな思いが、ベンチに戻る足どりを十二分に遅くさせていた。
(でも、あの女と本は関係ない。それに本は見つけて、図書館に返さなきゃ)
 彼はいつものベンチに向かって走り出した。
 しかし、ベンチに戻ったときには彼女もそうだが、本がどこにも見あたらなかった。
 悪態をつきたくなったが逃げ出したのは彼自身だ。飲み込んで、彼女をさがした。
(きっとあの女が持っていったんだ)
思いがけず、奇妙な鬼ごっこがこの深大寺のなかで始まっていた。
 ミツオは汗だくになりながら、走り回った。いつからか訳も分からず闇雲に走っていた気がする。少しずつ薄闇が広がっているのに気づいたのはそんな頃であった。
(そうだ。図書館に行ってみよう――)
 彼女が持っていったなら、もしかしたら図書館に返してくれているかもしれない。ミツオは図書館に向かって再び走り出した。
 だが、根拠はなかった。電話の内容だけならどこかその辺のゴミ箱に捨てかねない。百歩譲っても持って帰ったのかもしれない。
 司書さんに謝るつもりになっていたのも半分。彼女に期待するのも半分。とにかく図書館に向かってみることにしたのだった。
 図書館はまだ開いていた。だが、そのみちすがらも彼女の姿はなく、図書館の返却窓口にも本は返ってきていないようだった。
 ミツオは、自分の静かな時間が侵されただけではなく、何か大きなものが心の穴になっていくのを感じていた。
 呆然と図書館から出てきたとき、本を胸に抱いて彼女が立っていたのだ。
「――はい。もっと本を大事にしなさいよね。シシドミツオさん」
「なんで――(俺の名前を知ってる?)」
 全てを言い終わる前に彼女は言葉を重ねる。
「さぁ? 何ででしょう?」
 言うと少しだけあごをしゃくる。ミツオは本を受け取ると、ありがとうとだけつぶやいて図書館にきびすをかえしたのだった。
 無事返却し、再度借りて図書館から出てくると彼女はいなくなっていた。
 狐につままれたような気持ちのまま、何とはなしに彼は歩きだしていた。なぜ、なぜ、と思うままに歩いていたら、いつの間にかいつものベンチに来てしまっていた。
 もうすでに辺りは薄暗い。人が次第に少なくなっていくなか、呆然と座っていると、不意に声が降ってきた。
「隣、座っていい?」
「アンタは――いや、どうぞ」
 ミツオがベンチの端に腰を浮かそうとすると、彼女はすぐ隣に座ってきたのだ。
「さっきはよくも逃げたわね――」
 いきなりの恨み言で不意打ちをされ、ミツオは言葉に詰まってしまった。しかも彼女の目が笑っている。気づくと余計に混乱した。
「――ゴメン。その、わざと、じゃなくて、驚いてしまって。だから、あ、いや、そうじゃなくて。本を拾ってくれてありがとう」
「あはははは――おっかしい。オモシロイね」
「――そう?」
「うん、オモシロイ」
 いつの間にか、ミツオは彼女と話していることに心穏やかになっていった。はじめは彼の静かな時間を壊しにきた異邦人であったのに、今ではなぜか彼女との会話自体が静かな時間になっている気がしていた。
 このとき、ミツオははじめて気づいたのかもしれない。物語という空想で作られた世界のなかにいるよりもずっと穏やかな気持ちになれる時間があるということに。
 思い通りにならないことで感情がゆり動かされ、はじめて気づける穏やかな時間があるということに。
「あ――その、そういえば、なんで俺の名前を知ってるんだ――ですか?」
 くすりと彼女は笑顔をみせる。
「むかし観たアニメのマネをしてみただけ」
 どうやら、彼女の方が数枚上手らしい――彼女の本名を聞いてはじめて気がついた。彼女がいつもミツオが借りる本を先に読んでいたクドウリカその人であったことに。
 イタズラっぽい笑顔に心が踊るのを素直に受け止めるミツオであった。それは、これから巻き起こる波乱と静寂の間で揺れ動く二人の物語の始まりを告げる合図でもあった。

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<著者紹介>
雨宮 瞬壱(東京都多摩市/33歳/男性/会社員)

 大学に入って三度目の春、学生生活を惰性で過ごしていた自分に電流が走った。俺が所属しているサークルにマネージャーとして入ってきた一年生の志保(しほ)に、俺は一目惚れしてしまったのである。しかし女性に対してあまり積極的になれない性格が災いし、三か月経った今でも先輩後輩同士の事務的な会話しかできていなかった。そんな情けない俺に、サークルを通じて知り合った悪友の勝一が、得意のニヤニヤ顔で、
「縁結びに効果テキメンなとこが調布にあるんだけど、知っているか?」
と言ってきたのはつい数十分前のことだった。二限の授業を終えたばかりの俺は、なにかに背中を思い切り叩かれたような衝動に駆られ、学食のラーメンに手をつけないまま跳ねるように学校を飛び出していた。学校の最寄り駅の桜上水駅から電車、バスを乗り継いで、勝一に教えられた深大寺に辿り着いた。
今日(こんにち)この大都会と呼ばれる東京において、これだけの自然を有する場所も多くはないだろう。深大寺のバス停に降り立ったときの、俺の第一印象だった。真夏だというのに、生い茂る草木の生み出す日蔭はこの上なく快適で、俺は自然と目をつぶり、深呼吸していた。
ここに至るまでの電車やバスの中で、突発的に行動してしまった自分をどうかしていると嘲ったものだが、まあ、これだけ気持ちのいい場所が東京にあることを知れただけでもよしとしよう。バス停のある門から本尊らしき所まで続く道には、茶屋や蕎麦屋や土産物屋などの店が軒を連ね、なかなかに趣深い。石畳の道をゆっくり歩きながら、縁結びを抜きにしてもこんな場所に大切な人を連れてこられたら素敵だと、柄にもないことを考えていた。
 本尊の賽銭箱の前で財布とにらめっこする俺の姿はどれだけ滑稽であっただろうか。「十分なご縁」にかけて十五円入れようとするも、財布の中には十円玉一枚と一円玉が五枚。一円玉五枚でも御利益はあるのだろうかと思考はしばらく往来していた。結局六枚の硬貨をばらばらと賽銭箱に入れたが、一円玉が一枚賽銭箱に弾かれてしまった。縁起の悪い事この上ない。すぐに拾って再び投げこんだが、十四円と一円で認識されていたらどうしようなんてどうでもいい事が脳裏をよぎった。どうやら自分の恋患いは重症であると感じた。自分の情けなさに深いため息をついてから手を合わせ、願いを込める。頭の中では俺にこの重病を患わせた張本人の顔が浮かんできた。 
いまどき珍しい、というのは偏見であるかもしれないが、おとなしい感じの女の子で、マネージャーになったのも半ば強引な女友達の付き添いといった感じだった。しかしそんな日蔭的な彼女に俺は一瞬で心を奪われた。「キレイ」よりは「可愛い」という形容詞の似合うような容姿はもちろんだが、なにか本能的に心奪われるものがあった。しかしそんなおとなしい彼女とこんな俺だから進展も何もないわけで・・・
結局自己嫌悪の思考ループに帰結してしまったので、閉じた目を開いて祈りをやめた。
「あの、先輩・・・?」
 あまりの不意打ちに言葉を返すどころか声のするほうに目を向けることすらままならなかった。やっと振り返った視線の先には、首を傾げた志保が立っていた。志保は俺が自分を認識したのを確認し、少しはにかんで口を開いた。
「やっぱり先輩だ。どうしたんですか、こんな時間にこんな場所で?」
 当然の疑問だ。本来ならば俺はまだ学校にいて然るべき時間なのだから。
「いや、その、なんていうか・・・」
言葉が見つからない。本当の理由なんて言えるわけないが、ぱっとそれらしい誤魔化しのきく理由なんて出てこない。数秒まごまごしていた後、苦し紛れに答えた。
「こ、ここって蕎麦が有名らしいんだ。ほらその辺にたくさん蕎麦屋があるだろ。俺実は蕎麦に目がなくてさ、急に食べたくなったから・・・」
我ながらあまりに苦しかった。志保はきっと俺が手を合わせ祈っている姿を見ているはずだし、そもそも蕎麦が目当てなら本尊までくる必要はないのだ。俺が心中で猛省を繰り広げていると、志保はどうやら合点がいったようで、
「そうですよね、先輩が縁結びのお寺にお参りなんて、変だなって思ってたんです。」
と満面の笑みを浮かべて言った。この場をなんとか乗り切った安堵感と、恋愛と無関係と思われているという事実で、俺の心は複雑だった。そのおかげかオーバーヒート気味だった脳内は急速に落ち着きを取り戻し、『先輩と後輩』という間柄を強く意識させられた。
「わざわざ昼飯食わないで学校から飛んできたんだ。今から食べに行くけど、志保も一緒にどう?」
落胆を隠すようにすらすらとまくしたてた。社交辞令的に誘ってはみたものの、いまどきの女の子が蕎麦屋に誘われてついてくるなんてありえないだろう。断られて、この場で解散となるのが関の山だ。
「私もお蕎麦好きなんです。喜んでご一緒します。」
解散までの会話のシミュレーションをたてていた俺はまたしても志保に不意打ちを入れられまごまごしてしまった。恥ずかしい。
本尊から蕎麦屋まで歩く最中、志保の思いがけない承諾について考えていた。思えば先輩が後輩と飯を食べるなんて日常的にあることだ。逆にこの場で断ってしまうのも、後輩としては気が引けるところだろう。つまりは普通なのだ、なにか他意を、ほんの少しだけでも期待してしまった自分がまた恥ずかしくなり、隣を歩く志保に気づかれないように溜息をついた。
「お蕎麦屋さん、いっぱいありますね。どこにしましょうか。」
志保に聞かれてはっとなる。蕎麦を食べに来たなんてでまかせなのだから、当然何も考えていない。あたりをきょろきょろ見回して、最初に目に入った蕎麦屋を指差して、
「あっ、あそこにしよう。」
若干声を上ずらせながら志保を促した。
俺が苦し紛れに選んだお店は深大寺に並ぶ他の店の例に漏れず、純和風なたたずまいだった。周りを囲む緑と見事に調和し、清らかで優しい雰囲気を漂わせている。
「なんだかいいですね。ファミレスとかじゃ絶対味わえないような、すごく落ち着く感じ。」
とっさに決めたわりに志保も気に入ってくれたようである。中に入ると優しそうなおばちゃんが出迎え、空いている好きなところに座るように促してくれた。俺たちが木で作られた端っこの席に向かい合って座ると、さっきのおばさんが冷たいお茶を出しながら何にしますかとたずねた。正直蕎麦の善し悪しはわからないので、無難にざる蕎麦を二つ頼んでおく。おばちゃんはありがとうございますと一言告げ、奥に戻っていった。
 蕎麦を待つ間がもたなかった。なにしろ二人きりで飯を食べるなんて初めてだし、元々が女性とうまく話せない性格なのだから当たり前だ。しばらくの沈黙の後、そういえば、志保はどうしてここに来たの、と尋ねてみたが。志保は少しはっとしてから、後で教えますとだけ言って目線を外に逸らしてしまった。なにか気に障る事でも言ってしまっただろうかと不安になり、再度話しかけようとしたところで注文していた蕎麦が運ばれてきたので会話は終わってしまった。
「お蕎麦ごちそうになってしまってすいません。ありがとうございます。」
店を出たときに志保はぺこっと頭を下げると、律義に感謝を述べた。本当に、いまどき珍しいよくできた子である。まぁ、後輩に蕎麦くらい奢ってあげられる先輩でありたいものだし、美味い蕎麦を志保と食べることができたのだから、こちらこそお礼を言いたいくらいだった。
しばらくぶらぶらしてから、木陰の竹製のベンチに並んで腰かけて休憩していたが、どうしても志保とうまく話すことはできなかった。今さらだが、好きな女の子と二人きりなのだ。俺の脆弱な心臓は、さっきから早鐘をついている。なんとか話しかけようとしても言葉は俺の口から出ていくことは無く、
「先輩、さっきの話なんですけど。」
と志保から話しかけてくれなければ会話はできなかっただろう。
「ここに来た理由の話です。」
珍しく、なにか怯えたような、それでいて決意のこもったような眼差しがそこにあった。
「一週間前くらい前、勝一さんにここのこと教えていただいたんです。縁結びのお寺だって。それで今日ここに来ると良いことがあるって。」
 なにか、不思議な感覚が心の中で渦を巻いていた。複雑な数式を、公式にあてはめて少しずつ解いていくような高揚感と、それの真偽がわからない不安と、はやく答えを知りたい焦燥感。すべてが混ざりあって、俺は息を呑んで次の言葉を待った。永遠とさえ思えるような瞬間。刹那であったかもしれないその瞬間に、浮かんだのは馴染みのあるニヤニヤ顔だった。あぁ、そうか。全部お前の差し金か。いや、これがこの深大寺の力なのか。目の前の志保は今にも泣き出しそうになりながら必死で言葉を紡いでいた。言葉はもういらないと思った。根拠のない自信が俺を奮い立たせた。
真夏にも関わらず爽やかな木陰の中 
少しだけ震える二つの体躯(からだ) 
背中には涼しい風を 
胸には心地よい温もりを感じていた

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<著者紹介>
夜人(千葉県市川市/20歳/男性/学生)

 一ヶ月程度、祖母と二人で暮した。
 年齢を深く重ねると、子供に戻ると云う。遠く幼い過去を取り戻すには、一度大きく息を吸う必要がある。地中海で素潜りをするダイバーの様に、胸いっぱいに青く綺麗な酸素をぎゅっと詰め込め、それからゆっくり、曖昧でぼやけた世界に沈み込んでいく。
 たぶん、祖母はそんな身支度を始めた頃だったのではないだろうか。
 それまで僕は祖母と長い時間を共にした事がなく、かといって疎遠でもなかったけれど、祖母が、どういう考え方をして、どんな風に生きてきた人なのか、まったくと云っていいほど知らなかった。(祖母が左利きだった事を今回初めて知ったくらいだ)ただ、祖父が他界してからめっきり元気が無くなったと、母が話していたのを何となく聞いていた。
 僕の仕事がそれほど忙しくない時期だったけど、通勤時間が長くなり、基本は寝に帰るだけになっていた。平日の祖母の世話はホームヘルパーに任せきりになっていた。

 一緒に住み始めて二週目の土曜日に祖母が、僕にお茶を煎れてくれながら、ポツリポツリと自分の事を、たわい無い噂話の様に語り始めた。
 祖母の若い頃や、祖父との出会い、共に住み始めたこの街の事。近所の悪ガキ(僕の父だ)を好きになっちまった娘(僕の母だ)のために、ちょっと外れにあるお寺にかけた願い。その結果生まれた兄や僕の事。
 祖母は時々、眠り込む様に目をつぶり、指を組んだ。大切に言葉を選んでいるのだろう。その言葉たちは、僕にも大切な意味を持つと思う。
「そのお寺って、どこにあるんだい?」
 引っ越してくる際にネットで確認した航空写真では北側に公園らしきものを見た覚えある。
「あんた、忘れちまったのかい? 小さい頃はよく行っただろ」
 首を振る僕に、祖母は皺を寄せて少し残念そうに微笑んだ。
「十分も歩けば、すぐさ。行ってみるかい?」
 祖母はちらりと茶の間から見える玄関に顔を向けた。その先には折りたたまれた真新しい車椅子がある。窓の外は梅雨の隙間で、カラリと晴れている。ちょっとした散歩には気持ちがよさそうだ。それにそのお寺にはかなり興味が出てきた。祖母がとにこやかに笑って頷いた。僕もつられて頷いた。
「いいよ。行こうか」
 さっそく財布をジーンズのポケットに入れ、車椅子を広げ玄関前に配置した。祖母はお茶をすすり、手鏡で髪などを直した。ゆっくりと左手で杖を支えに立ち上がって、ぎこちなく車椅子に乗り込んだ。
「うしっ」
 杖を車椅子のハンドルに引っ掛け、勢い良く玄関を抜けると、初夏の風と共に祖母の髪の匂いが鼻先をかすめた。当たり前だが、僕と同じシャンプーの香りだ。僕たちは家族なんだと、変な実感がした。
 太陽はすでに夏の光をふりかざしていたけれど、街路樹の影に入ると涼しい。新品のタイヤが軋ませながら小さな石を蹴飛ばして、なんだか面白い。偶然に二度三度と同じ石を跳ねると祖母が後ろを振り返った。
「橘さんの具合はそんなに悪いのかい?」
 橘さんというのは父方の祖父だ。その連れ合いは割と早くに他界したと聞く。僕はその女性を写真でしか知らない。大きく横にずれた小石を諦めた。祖母もそれに気づいていたらしく、微かに声を上げた。
「うーん。もう歳だからね。八十二歳っていったらまあ、あれだ。がんばってるよ」
 祖母は、にくにくしげに鼻皺を寄せて歯を出した。
「あたしは、もう八十五だよ」
 ちょっとだけハンドルを持ち上げた。
「ばあちゃんはまだ大丈夫だ」
 祖母はよろけた振りをした。母はその橘さん(僕はあまり好きじゃない)の面倒をみるために、札幌の施設に泊り込んでいる。橘さんの故郷の近所らしい。(北の出身を体現する肌の白さは、僕にも遺伝している)父は仕事があるため、東京にいるが、金曜の夜から土日にかけて、そこに通っている。
「今回は、あんたが来てくれて、本当に助かった。嬉しいよ」
 祖母が小さく頭を下げながら前を向いた。橘さんの容態が悪化した事と、気丈な祖母が入院から戻ってきたのが重なったのだ。本当は両親と住むはずだった。 
「んにゃ」
 もごもごと答えに戸惑いつつ、川橋を渡るため、小さな段を慎重に乗り越えた。すると祖母が綺麗に整備された川辺の奥の方を指差して、母と父が始めて口づけしたのがその場所だと教えてくれた。
 何でばあちゃんが知ってるんだよと聞くと、見ちまったんだ。と照れくさそうに応えた。
「あたしと同じ場所。なんでこんな所だけ似ちゃっのかって、なんだかね、むしょうに親子だなって感じたもんだよ」
 この秘密は、あたしとあんただけのものだ。と唇に人差し指をあてた。あんたが誰かに言ったらあたしは恥ずかしくて三途の川が渡れないよ。僕は照れくさく、かゆくなった頭を掻き毟った。
「ばあちゃん、それうまくないよ」
 祖母がくくっと小さく声を上げた。ハンドルを強く握って、歩を早めた。
「ああ、そこを右に曲がってな」
 言われたままに曲がると、急に視界の緑が多くなった。神社へ至る道なのだろう。温度が少し下がって空気が澄んだ気がする。
「そば屋がいっぱいあるんだな」
 ぐるりと辺り見渡した。道沿いには水車が飾ってある。
「深大寺のそばって云ったら有名さ。あんた、本当にものを知らないね」わざとらしくため息をついた。「なら帰りに食べていくかい?」
「いいね」僕は喉をならした。
「だけど、お会計はあんたが持つんだよ」
「えっ」
「デートでは女性に払わせるんじゃないよ。みっともない」
 祖母がくしゃくしゃに笑った。だけれども目は真剣だった。僕は少し混乱したけれども、一応苦笑いした。
「デートですかい」
「そうだよ」
 祖母はぎゅっと、胸の前で指を組んだ。

 境内に入る階段で、車椅子を横から持ち上げる為、ハンドルから手を離すと、祖母がここからは歩かせてと手を払った。杖を左手にゆっくりと立ち上がった。その歩みは何かを確かめる様にも、ただ弱っている老人にも見えた。
 階段を二段ほど上がった時に、不意に「あんた、お爺さんに似てるね」とつぶやいた。そういわれるのは初めてだった。
 首をかしげると、僕の腕を細い指でつかんだ。爪が弱々しく皮膚を引っ掻いた。気が付かなかったがマニキュアがうっすら塗られている。
「この間だけ、あたしゃ、あんたをお爺さんの若い頃だと思う事にするよ」
 境内の奥の木々から風が流れてきた。祖母の髪が揺れて、僕と同じシャンプーの匂いがする。
 ああ、そういう事か。と思った。何が『そういう事』なのか良く分からなかったけど、祖母が言った事がどこか分かった気がした。
 祖母ははにかみつつ、真剣な瞳で僕を見つめて、階段を一歩一歩踏みしめた。
 急いで車椅子を境内の入り口まで担ぎ上げ、戻って手を差し出した。祖母は指先でつつくようにして、ためらってから、それに応じた。手が冷たく細い。力を入れたら、冗談抜きに折れてしまうだろう。生きる力は弱まりつつあるのが嫌でも分かる。それは仕方の無い事だ。
「さあ、本殿へお賽銭を入れに行きましょう」
 車椅子は境内の端に置かせてもらい、祖母の手を引いて本殿に向かった。祖母は小さく息をすった。
「あたしはここで、あんたに良く似た人と結婚をしたいと願ったんだ。それから、あたしの娘が悪ガキと幸せになれるように、願った」僕は財布から五円玉を二枚取り出して、一枚を祖母に握らせた。
 祖母は大切そうにそれを賽銭箱に滑り込ませ、静かに手を合わせて一礼した。僕もそれにならった。祖母は長い間、頭を下げていた。

「さて。帰りましょう」
 境内の階段を下りたところで、車椅子に祖母を乗せた。祖母はふうと息をついた。僕は少しためらってから聞いてみた。
「今回は何を願ったんだい?」
 祖母は上目づかいにあごに手をあてた。
「さあね。自分の胸に聞いてみな」
「ん?」すこし考えてから、ドキリとした。
「夜中の電話は響くんだ。今度連れてきな」
 祖母の横顔を見た。肌が少し赤く艶めいている。まだまだ元気だなと振り払う様にかるく頭を振った。
「さて、そばを食べて帰ろうか」
 ハンドルに力を込めた。
「家に帰るまでがデートだよ」
 祖母がぴしゃりと言って、前を向き、指を組んだ。自然とほほ笑んだ。この時間だけは祖母の事だけを考えよう。あなたがいたから、僕がいる。ありがとうと。
「承知しております。お嬢さん」
 僕は財布の中身をちょっとだけ気にしながら、慎重に、とてもゆっくりと車輪を押した。

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<著者紹介>
佐藤 浩介(東京都町田市/29歳/男性/会社員)

 「情人節(ちんれんじえ)と言います」
周さんが穏やかな声で、ちょっと不思議な音律を奏でるように、彼の母国語を口にする。私は彼の、この落ち着いた優しい声が大好きだ。
「昔は七夕のことですが、今は西洋の習慣が入ってきて、バレンタインデーのこともそういいます」
丁寧な日本語でゆっくりと話す周さん。
最初は、異国の言葉だからゆっくり喋るのだと思っていたのだけれど、実は母国語でもゆっくり話すのだ。彼の穏やかな性格をよく表している。
「今年、中国のお正月は、2月14日、情人節です」
日本でバレンタインデーの宣伝を繰り返している中、日本では旧正月にあたるその日を中国の両親の元で過ごすために、周さんは一時帰国をする。
「来年の情人節、一緒に過ごしたい。ずっと、一緒に過ごしたい。それはダメでしょうか」

周さんは中国からの研修生だ。地域のコミュニティーサークルに参加したとき、知人に引き合わされた。
紹介された時、留学生だと聞いたので、若いのに落ち着いた感じの人だなぁ、と思ったのだが、後で本人に聞いたら、日本の大学院に研修留学してきている企業研修生だそうで、一つ年上だった。
「古刹名刹が好きだそうだから、ぜひ深大寺を案内してあげて頂戴」
どうせ家の近くだし、社交辞令のつもりで、簡単に、いいですよ、と言ったら、周さんがすごく嬉しそうに、
「いつ行きましょう、私はいつでもいいです。土曜日、日曜日、とてもヒマなので、」
その思いっきりの笑顔に、今さら、ダメと言えなくなってしまった。

「あぁ、大きい木ですねぇ。きれいですねぇ。」
周さんは大木を見上げて笑った。
「なんじゃもんじゃの木ですよ」
私が言うと、周さんが目をパシパシッ瞬く。
「なんじゃ?」
「なんじゃもんじゃ。これはなんというものだ、という意味なんだそうです」
「なんという・・・ヒトツ、バタゴではないのですか」
「昔の人は、木の名前、学名が良くわからなかったのでしょう。」
ふんふん、と興味深げに頷いて、周さんは再び大木を見上げる。
「ほら、あれ、」
周さんがふいに空間に向かって指を差した。
私は彼が、あれ、と指差したものを見ようとしたが、その、あれ、が何かを見つけられなかった。周さんが指差す先にあるのは、美しく濃い緑色の深大寺の森だけだったからだ。
「ほら、あそこです。葉っぱが一枝だけ、揺れています」
目を細めて見る。確かに、固まった緑色の束の中で、ただ一枝だけが、光を跳ね返して、サワサワと動いている。
「きっとあそこに風の道があるのです。不思議ですね。ほんとうに、あそこだけに風が通っているなんて、」
風の道。なんて美しい不思議を、この人は見つけることができるのだろう、と思った
誰も気にとめないような、小さな、けれど確かにそこにある美しさ。
私が周さんに関心と好意を持ったのはその時だったと思う。風は私たち二人の間にも、道を通したらしい。

私たちはそれから度々、会うようになり、お互いを特別な相手だと思うようになるのに、そんなに長い時間はかからなかった。
どちらもテーマパークなどにあまり興味がないことがわかって、二人のデートはもっぱら寺社巡りや自然観察ばかり。
何気ないご近所散歩や商店街のそぞろ歩きも、二人なら楽しい。
そして、二人のお気に入りは、もちろん、思い出の場所、深大寺。
「深沙大王は、もともとインドの神様ですね。悪い神様だった。三蔵法師、7回も食べちゃったです。服の飾りに7個、頭の骨つけているのは、あれ三蔵法師の骨」
周さんがいたずらっぽく笑いながら言う。
「縁結びの神様なのに、悪口言っちゃダメよ」
「悪口、違いますよ。物語です」
周さんは日本蕎麦が大好き。深大寺に行く度に、いつも違うお店を選んで入る。
「中国にはお蕎麦はないの?」
「ありますよ。でも、作り方、違います。味も全然違います。日本のお蕎麦おいしいです」
暖かい蕎麦の方が良いけれど、冷たい蕎麦もおいしい、と言って、ざる蕎麦も喜んで食べる。嬉しそうに、楽しそうに。
周さんの目はいつもきらきらと輝いている。生きていることを楽しんでいる。こんな人の側にいたら、きっと、一生、楽しい日々を送れるだろう。
そう思って、私は周さんを両親に紹介した。
「今時になく、真面目でしっかりした青年だ」
「優しい人だねぇ」
周さんは父にも母にも大好評だった。だから安心していた。それなのに。

「ちょっと、困りました」
周さんが寂しそうな苦笑いを見せた。
「ひどいわ、お父さん、周さんのことあんなに褒めてたのに、」
周さんの研修期間があと二ヶ月余りで終了することになった初夏のある日、周さんは私の家に、二人の結婚を認めて貰えるようにと挨拶に来た。
ところが、父が猛烈に反対したのだ。一人娘を異国に嫁に出すわけにはいかない、と。
周さんは、あきらめない、と言い、何度でも心からお願いする、と言ってくれた。でも、寂しい、悲しい。周さんと引き離されてしまうかもしれないなんて、思ってもみなかった。
私たちはいつものように深大寺の境内をゆっくり歩いた。でも、二人の気持ちは、足元にしっとりと落ちる影のように暗い。
「縁結びの伝説になった男の人も、大陸から来た人だったそうです」
深沙堂の池のほとりで周さんがポツンと言った。
「娘さんのお父さん、やっぱり他所の国から来た男のお嫁さんにするの、嫌だったのかもしれません」
愛する二人を引き裂き、池の小島に娘を閉じ込めてしまったという伝説。
こんなに悲しそうな、暗い目をした周さんを初めてみる。
「私は閉じ込められたりなんかしないもの。周さんと一緒に行くわ」
「でも、お父さん、お母さん、悲しいのは良くないです」
どうしたらいいのだろう。このままでは、二人の間は、池よりずっとずっと大きい海で隔てられてしまう。
周さんは、ふぅっと一つ、大きく息を吐き出した。
「深沙大王にお願いしてみましょうか」
ふんわりと優しく笑って、周さんが私の顔を見る。
「伝説みたいに、亀が助けてくれるかもしれませんから、」
私達は両手を合わせて、深沙大王をお祈りした。悪い神様、なんて言ってごめんなさい。お願いします。私たちを一緒にいさせて。

「亀、出ました! 亀!」
周さんがいつになく興奮した声で電話を掛けてきたのは、深沙大王をお参りした数日後。
「日本の会社に出向、OKだって言いました。私、しばらく中国、帰りません!」
いつかは中国に帰るかもしれない。でも、直ぐにじゃない。だから、お父さんも許してくれるかもしれない、と。
「お父さん、きっと、わかってくれます」
私は携帯電話を握り締めた。
本当だった。深沙大王にお祈りしたら、亀が現れて周さんを私のところに連れてきてくれた。深沙大王さま、有難うございます!
「亀、来ましたね。お祈りして良かった」
周さんが電話口で笑った。嬉しそうに笑った。きっと、電話の向こうで、周さんの目はきらきら輝いているに違いない。
それから直ぐ、私達はもう一度、父に話をした。父は苦虫を噛み潰したような顔をして、うむむっ、と唸っていたけれど、ダメとは言わなかった。母はただ、うふふっ、と笑っていた。
両親と話をした帰り道、私たちは深大寺に立ち寄った。
深沙大王と亀にお礼を言って、境内を戻りかけたところで、
「ほら、あれ、」
周さんがなんじゃもんじゃの木を指差した。
「風の道?」
周さんがにっこり笑って首を振る。
「花嫁さんの帽子みたい」
 なんじゃもんじゃの木は、初夏の真っ白な花をいっぱいに咲かせていた。

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<著者紹介>
山田ノ案山子(東京都中野区)

「今日、どこかに行ってみようか?」そう母が切り出したのは、ようやく家の片付けも一段落ついた日曜の朝だった。
ここ東京の調布市へ引っ越してきたのはちょうど一週間前だ。ひとりっ子の光治は現在小学四年生。転校の手続きはなんなく終わり、すでに新しい学校へ通っている。まだ新しい友達はいないが、特に慌ててはいない。それは転校というごく一部の人間にしかできない希少な経験が初めてではないからだろう。
「行く!」
朝食のパンをかじりながら光治は目を輝かせた。待ち焦がれていた初めての東京散策。行きたいところは山ほどある。原宿、秋葉原、それからそれから......
「深大寺に行ってみない?」
 じんだいじ?
「なにそれ?」
「知らないの? 近くにある大きなお寺よ」
「お寺~?」
「有名らしいのよ。お蕎麦屋さんがたくさんあるんですって」
 やだよ、お寺なんて。じじくさい。
「参道がとても素敵なんですって。良いお店紹介してもらっちゃった。お昼はそこで食べましょう」
 母さん、もう友達できたんだ?人見知りしない性格は相変わらずだと、光治は心の中で呟いた。
「原宿行きたかった」
「もっと大きくなったらね」
 そして昼の一時過ぎ。二人は深大寺へとやってきた。参道はすごい人混みでバスからは更にたくさんの人が降りてくる。お寺がこんなに混んでいるなんて。
「今日、お祭り?」光治は素直に尋ねた。
「違うわよ。迷子にならないでよ」
 本堂でのお参りを済ませた二人は、参道に並ぶお店を見物していた。蕎麦屋がたくさん、団子屋、煎餅屋。屋台じゃないのが不思議な感じだ。
「食べたいものある?」
「うーん、かき氷」
 暑かったから。
「何それ? 売ってないでしょ」
「あるよ、ほら」
 道行く人の頭を避け、軽く飛び跳ねながら光治の指差すその先には確かに氷の旗が見える。母は光治に千円札を手渡した。
「じゃあ買ってらっしゃい。お母さん、そこのお煎餅屋さんに並んでるから」
 人混みをすり抜け、光治は何軒か先に見える氷の旗を目指した。そこは団子屋さんだった。おいしそうな焼きたての団子と、蕎麦饅頭が売っている。そして隅にあるかき氷のコーナー。団子と饅頭はすごい人だかりなのに、かき氷機の前は閑散としていた。
そこに光治と同い年くらいの少女が静かに立っていることに気が付いた。光治と目が合う。一瞬の沈黙の後、少女は目を逸らした。焦った光治もかき氷に意識を戻す。しかし店員さんは団子や饅頭で手一杯。仕方なく誰かの手が空くのを待つことにした。再び目の前の少女が視界に入る。やっぱり東京の子もかき氷は好きなんだ。そう安心した矢先、饅頭売りのおばさんの手が空いた。すかさず光治が話しかける。
「すいません、かき氷ください!」
「はいよ! 美沙」
 美沙と呼ばれた目の前の少女は、ゆっくりとかき氷を作り始めた。その光景を呆然と眺める光治をよそに、氷は立体的な造形を描いていく。
「何味ですか?」
「え......じゃあ、いちご」
 おぼつかない手つきでシロップをかける。よく見るとエプロンも着けている。かき氷が完成すると、無愛想に光治へ手渡した。
「三百円です」
 ......店員さん???
 あまりに異質だった存在の少女のことで、しばらく光治の頭はいっぱいだった。あの子、何で働いてるんだろ?数多くある東京への好奇心より、そのことが気になって仕方がなかった。来週。そうだ、来週もう一度行ってみよう。たまたま今日だけ手伝っていただけだと思うし。日曜日、ひとりで行ってみよう。光治は一週間が待ち遠しくて仕方がなかった。
 一週間後、光治は再び深大寺へと向かった。「そんなに気に入ったの?」と、母親に茶化されたが、少女のことを知られたくなかったので、「まあね」とだけ答えた。
 先週より少し早い時間に家を飛び出し、うる憶えの道を辿っていく。相変わらずの賑わいを見せている参道へと入り、緊張しながらあの団子屋を覗くと、やはり例の少女美沙はいた。
 相変わらずの無愛想。かき氷の人気も全くない。光治は来る前に母から受け取った三百円を握りしめ、美沙の前に立った。
 美沙の目が丸くなる。どうやら光治のことを覚えていたようだ。
「一つください。いちご味」
「......はい」
 美沙はゆっくりとした動きで、四角い氷を機械にセットする。どうやら光治が今日初めての客だったようだ。
「いつも働いてるの?」
 突然光治が話しかけたので、美沙の動きが止まる。美沙は少しだけ光治の顔を覗き見ると、すぐにまた目線をかき氷機に戻し、ゆっくりと頷いた。続けて光治が尋ねる。
「何年生?」
「......四年」
「四年? 同い年じゃん」
 興奮気味でつい声が大きくなる。周りの大人がこっちを見た。
「すごいな、働いてるなんて......え、でも四年って、どこ小?」
「深大寺小」
「俺も深大寺小だよ!」
 光治は引っ越してきたばかりで、まだ知り合いも少ない。四年は三クラスあるから、残りの二クラスのどちらかなのだろう。
「知ってる。私も四年一組だから」
 光治は大きな声を出しそうになったのを必死で抑えた。代わりに目がまん丸になって痛くなるほど見開いていた。そんな顔を見て、美沙が少し笑った。
「俺も、四年一組!」
 同じクラス!でもこんな子いたっけ?やばい、クラスの子に気付かないなんて。実は毎日顔を合わせていたなんて......
 美沙は再び氷作りに取り掛かっていた。光治は氷どころではなかったのだが。
「三百円です」変わらぬ調子で美沙は言った。
 次の日、学校で注意深くクラスメイトの顔を眺めていると、確かにいた。高野美沙。一番窓側の席の後ろから二番目。昨日よりずっと子供っぽく見える。休み時間も特に誰とも遊ぼうとせず、机に伏して眠っていた。
 何度か話しかけようとしたが、勇気が出なかった。男子と女子の垣根は高い。実際、話しかけたら多分在らぬ噂が広まるに違いない。それも学年中に。もやもやした時間が続き、その日授業は終わってしまった。
「かき氷ください。いちご味」
 ようやく話すことができたのは、二週間後の日曜日。学校ではなくやはり例の場所だった。美沙はいつもの驚いた表情。これが見たくて光治は話しかけているのかもしれない。
「どうして?」いつも来てくれるの?美沙は尋ねた。
「カッコイイと思ってさ」
「......学校のみんなにはバカにされてる」
「そうなの?」光治は素直に不思議だった。
 俺はカッコイイと思う。まっすぐな光治の言葉に、美沙は少し赤くなった。そして同時に会話の終わりを告げる合図、「三百円です」
 それからというものの、日曜日が来る度に光治は美沙の元を訪れた。学校では相変わらず一言も喋っていない。ただかき氷を作る間、その一分やそこらが心地良くて。美沙も徐々に笑顔を見せるようになった。
そんな小さな幸せがしばらく続いた八月。光治は、母から信じられない言葉を聞いた。
「来週、引っ越しだって」
 父の仕事の影響で、全国の地方を転々としてはいるが、こんなに早く引っ越すのは初めてだ。東京は場繋ぎだったと聞かされる。
 夏休み真っ最中。学校はない。このまま誰にお別れを言うわけでなく引っ越すことになるという。「嫌だ!」こんなに強く思ったのは初めての引っ越し以来だ。もちろん光治が反対しても仕方ないのは分かっている。でも......それでも、もう一度、もう一度だけ話したい。引っ越しは来週。次の日曜日が最後!
 当日、光治は信じられないほど早く目が覚めた。昨日あれだけ眠れなかったのに。言えるだろうか。いや、言ったところでどうにかなるわけでもない。ただ覚えていてほしかった。もう一度、大きくなって一人でも暮らせるようになって、もう一度戻ってきたいと思ったから、だから。
「引っ越すことになった」
 光治は勇気を出して伝えた。美沙は氷を作ることも忘れ、光治の真剣な目を見つめた。そのまま時を止めてしまうわけにはいかない。美沙は無言で完成したかき氷を手渡した。三百円、光治も何も言わずに手渡した――
 二人の恋の話はここでおしまい。十年も昔の小学校の出来事なんて覚えている人の方が少ないかもしれない、それでも。変わらず店の手伝いを続ける美沙はその日。だいぶ低くなったけれども心地良い、とても懐かしい声を聞くことになる。
「すみません、いちご味ください」
 そしてあの日言えなかった言葉を、今度は笑顔で言えるに違いない。
「三百円です」

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<著者紹介>
渡邊 農夫也(神奈川県川崎市/32歳/男性)

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