8月の夜遅く、僕の携帯に電話が掛って来た。
「...はい、もしもし?」
「夜遅くにごめんなさい。私だけど...起こしちゃったかな?」
 病院に入院している君からだった。受付前の公衆電話からだろうか。声が少しかすれているようだ。
「いや、まだ起きてたよ。」
「よかったぁ。」嬉しそうに言う。
「あのね、お願いがあるんだけど、その...今から会えないかな?」
「えっ今から?明日じゃ駄目なの?」
「今日じゃないとだめなの。お願いっ!」
両手を合わせて頼み込む姿が目に浮かぶようだった。僕は諦めて言った。
「...わかった。いいよ。どうせ何もする事ないし。でも、明日は手術の予定じゃなかった?寝なくていいの?」
 君の喉にできたポリープという腫れ物を除去する手術が明日あるはずだ。それで前日の今日から入院していた。
「ありがとう。手術は夕方からだから大丈夫だよ。じゃあ待ってるねっ。」
 どこか切羽詰まった物言いだったが、さほど気にせず寝巻から着替え、父親の車のカギを拝借して、君の待つ病院まで車を走らせた。
 車の中で君と初めて出合った時のことをふと思い出していた。10年ほど前の春、深大寺小学校の5年生の時に同じクラスに君が転校してきた時だ。少しウェーブ掛ったロングヘアーで比較的小柄な子だった。とりわけ可愛く、目立つ容姿ではなかったけど、自己紹介の時の声を、涼しげで澱み無く、人を惹き付けるようなその声を今でも覚えている。桜の季節の筈なのにどこか夏を感じさせた。性格も夏の風のように爽やかだった。歌が好きでいつも歌っていて、将来はプロの声楽家になるといつも話していた。
そんな君もいつの頃からか背が伸び、体つきも女らしくなり美しく成長していった。友人の一人だと思っていたのに、いつから僕は、君の事を「女の子」として見るようになったのだろうか。
 そんな事を考えながら、病院の前に到着し、路上駐車した。すると、1分も経たない内に君は車の前に現われた。助手席のドアを開けてやると、
「部屋の窓から抜け出して来ちゃった。」
少し照れてそう言い、助手席に乗り込んでシートベルトを締める。僕はこれからどこに行くか訊いてみた。
「もう行き先は決めてるんだ。深大寺小学校に行こう。」
小学校に行ってどうするつもりなのかは訊かずに、君の望むままに車を発進させた。
 深夜近くで他の車は少なかった。さほど時間も掛らず深大寺小学校の正門付近に着き、適当な所で駐車した。卒業して以来の小学校である。車から降りると、冷房の「作った」涼しさとは違った、爽やかさを含んだ風が通り抜け、君の長い髪を悪戯になびかせた。
「プールの方に行こうよ。」髪を直しながら君が言った。プールは正門の裏の方にあった。
 交番の前の深大寺へと続く坂道を下った。街路樹の桜の木々が、葉を鬱蒼と茂らせていて真夏の太陽を物ともせずに生き抜いていると思わせた。
 石畳の坂を下り、小学校裏へのわき道に入って、石造りの階段を上った。階段を途中まで上がったところに電燈があり、そこから二重のフェンスに囲まれているプールが見えた。プールには水が張られていた。
 君はそこに着くとすぐに、フェンスの扉のノブに足を掛け乗り越えようとした。
「ちょっと!不法侵入だよ?」あわてて止めようとしたが、君は無視して一つ目を乗り越え、二つ目まで軽く乗り越えてしまった。
 君は、自分のしたい物事に集中しすぎて周りが見えなくなることが時々あって、それが玉にキズだった。こうなると誰にも手が付けられないので、小さくため息をつき、僕も仕方無くフェンスを乗り越えてプールサイドに入った。
 プール内の水は静かにそこに佇み、月の光を映す鏡だった。今日は丁度満月だったようだ。
 水面を眺めていると不意に波が立ったので辺りを見回した。すると、君が素足を水に浸しプールサイドに腰掛けていた。その背後には、履いていたミュールが乱れて脱ぎ捨ててあった。君はプールサイドに手をつき、腰の後ろ辺りで体を支え、静かに両脚で水を波立たせながら月を眺めていた。
 僕はその光景に息を飲んだ。思いもよらない行動だったためではなく、ただ美しかったからだ。月光に照らされて淡く輝く水面、それに浸かる髪の長い若い女。人魚を思わせた。君にそんな妖艶な魅力を今まで感じて来なかったが、その時の君は妖しく美しかった。
 僕は君をもっと近くで眺めようと思い、ゆっくりと歩み寄った。すると微かに何か聞こえた。囁くような声で、君が歌っているようだった。どこかで聞いたことがある気がする歌だ。その歌声を聴いて、初めて君がいつもの君じゃないと気付いた。
「ねぇ、どうしたの?」僕は訝しんで訊いた。
「何か...あった?」
突然歌が途切れ、驚いた顔ですぐそばまで来ていた僕を見上げる。
「......どうして、わかるの?」
「君はいつも、そんな悲しげな声で歌わないから。」確信を持って言った。
「...そう、......そっか。」納得したような嘘を見破られたような曖昧な顔をして君が呟いた。一瞬、俯いたと思ったらすぐに夜空を仰いで言った。
「あーあ。やっぱり、あなたに隠し事はできないなぁ。」
 隠し事がいったい何なのか気になったが、それよりも、君がそれ自体を受け入れているのかを訊きたかった。
「私が明日、手術を受けるのは知っているよね?」普段と変わらない口調で話しているようだが声が震えていた。
「知ってるよ。歌の練習のしすぎでできた、声帯のポリープを除去する簡単な手術だって聞いた。」
「そう。簡単な手術で命の危険はまずない。...だけどね、...声がね...変わっちゃうかもしれないんだって。」最後の方はもう涙声で聞き取れなかった。
 僕は、その時初めて君の涙を見た。いつも明るくて爽やかだった君が初めて見せた弱さだったのかもしれない。僕は膝を折り君と同じ目線になってなだめるように言った。
「でも、それは可能性があるというだけで必ずではないんでしょ?それに声が変わっても君は君だよ。」
「...でも...声が...変わっちゃったら...もうプロになれないっ。...この声が...『私』自身なのっ」俯いて涙をこぼしながら言う。
 僕はそれ以上声を掛けられず、ただ無意識の内に君を抱きしめていた。君は一瞬驚いた声を上げたが、拒む様子は無かった。そして、君の涙で濡れた頬に口付けた。そこにあったのは君への穢れない想いだけだった。
 涙の味がした。それは、昔聞いた話を思い出させた。人魚の涙は一粒一粒、それぞれ眩く輝く真珠になる。だけど真珠になれない小さな雫は、塩の結晶になる。だから海はしょっぱいのだという話だ。どれだけたくさんの人魚が現実の運命に嘆き悲しんだのだろうか。
 しばらくして君の細い肩が小刻みに震えだした。僕は君を腕からほどいて顔を覗き込むと、唇が青ざめ体が冷えているとわかった。
「もう、もどろう。」そう提案し、君を両腕に抱えプールサイドに降ろした。濡れた脚を僕の着ていたシャツで拭いてやりミュールを履かせた。
「...うん。...戻ろう。」そういうと少しよろけながらも一人で立ち上がりゆっくりとフェンスまで向かった。
 僕たちは車まで戻り、シートベルトを締めた。冷房は消したままで辺りは音も無い。夜の静けさを全身で感じていた。きっと君もそうだろう。僕たちはどちらからでもなく、さも当たり前のように静かに唇を重ねた。


 翌朝、君は病院のベットの中で息絶えていた。自殺だった。隠し持っていたカミソリで手首を切ったらしい。
 僕はその知らせを聞いてもさほど悲しいとは思わなかった。もしかしたら、こうなる事をどこかで感じていたのかもしれない。君が、自分自身が「変わる」前に、自ら「壊す」事を。
 君の葬儀に参列し、君との最後の別れを交わした。それでも、君がこの世を去った悲壮感にも、自殺を止められなかった罪悪感にも苛まれることはなかった。僕を苛むのは唯一、君の声を二度と聴くことができないことだ。それを死よりも辛く感じる。
 どうやら、僕は君に魅せられていたのかもしれない。プールサイドでの君の歌声が、ずっと頭から離れずにいる。
あの夜、僕は君を人魚のようだと思ったが本当にそうなのかもしれない。海に住み、その美しい歌声で船乗りを魅了し、船を沈めてしまうと言う人魚の魔物、セイレーン。君はその血を引いていたのだろうか。その妖しげで流麗な調べで僕を虜にしたのだろうか。
 もう一度あの歌声が聴きたい。そう願っても君はいない。もう二度と戻らない。
 夏の終わりの風が優しく吹き抜けた。

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<著者紹介>
野口 貴裕  (東京都調布市/21歳/男性/学生)

 僕はちょっと困ったことになった。
 四月一日におじいちゃんを深大寺に連れて行かなければならなくなったからだ。
 先日の電話での母とのやり取りはこうだ。
「達也。あなた今、春休みでしょ?」
「え、そうだけど。そのうち帰るよ」
 大学生の僕に単に早く帰省しろという電話だと思った。帰省と言っても実家は埼玉なので、住んでいる東京からは二時間ほどの距離だ。だけど正月以来帰ってはいなかった。
「何かアルバイトはしてるの?」
「いや。今のところは」
「どうせデートする相手もいないんでしょ?」
「うるさいなあ」
「じゃあ、ちょうどいいわ。月末に帰ってそっちに戻る時に、おじいちゃんを東京に連れて行って欲しいのよ」
「ええっ! 何でまた」
「どうしても調布にある深大寺に行きたいんだって。わかるでしょ。一度言い出したら聞かないんだから。お父さんは仕事だし、私もパートを休めないのよ。交通費とか食費とか出すからお願いね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「大丈夫よ。おじいちゃん、達也の言うことならおとなしく聞くから」
「でもさあ」
「ほら。昔、おじいちゃん若い頃、調布に住んでいたでしょ。何だか急に思い出したみたいで、ひとりでも行くって言い出してるから。さすがにひとりじゃ心配だもの。ねえ」
 断る隙もなく話を決められてしまった。おじいちゃんが調布に住んでいたというのも初耳だった。いっしょに行くのが嫌というのではなく、何だか面倒と言うか、少し大変かもしれないと思っていた。
 なぜならおじいちゃんはいわゆる認知症で、それほど症状は重くはないが、やはり物忘れや言動、行動など時々おかしなところはある。数年前におばあちゃんが病気で亡くなった頃から進み出したようだ。今は実家で僕の両親と同居している。
 母も働きながらの介護で大変だが、デイサービスやショートステイの利用などで何とかやりくりしている。その母の頼みだから仕方がないと僕は諦めた。でもちょっと心配だ。
 実家から出発する日の朝、おじいちゃんは久しぶりにスーツを着てネクタイを締め気合が入っている。ほがらかでご機嫌な様子。とても認知症には見えなかった。
「ねえ、おじいちゃん。何で今日じゃないと駄目なの?」
 僕は東京に向かう電車の中で聞いてみた。
「四月一日か。何でかなあ。誕生日か」
「えっ。おじいちゃんの誕生日は確か十二月でしょ」
「そうかあ。まあ行ってみよう」
 おじいちゃんは胸ポケットから、茶色でよれよれの古い封筒を取り出して、中のお守りのような物とメモをじっと見ている。
 どうもごまかしてるはっきりしない。必ずこの日に行くって言い張っていたらしいが、大丈夫だろうか。でも、移動中のおじいちゃんは至って普通だった。
 家ではたまに散歩に出たまま三時間位帰って来ず母を心配させたり、探し物を始めていつまでも落ち着かなかったりするが、暴れたりすることはないので、まだ母は助かると言っていた。
 無事深大寺に着き、おじいちゃんが境内は後でと言うので、とりあえず新緑にあふれ心地よく湿った周辺を散策する。僕は久しぶりに緑の空気と土の匂いを吸って行き返ったような気がした。
 開店したばかりのそば屋に入る。少し早目の昼食だ。早々にお客で埋まった。
「うまいなあ」
 おじいちゃんは目を細めながらそばをたぐる。昔を思い出しているようだ。確かにそばの香りが口の中に広がり、僕が普段食べている立ち食いのそばとは全くの別物だ。
「おじいちゃん。昔、調布に住んでたんでしょ?」
 食べ終わり満足そうにそば湯をすすっているところで聞いた。
「ああ。田舎から出て来て工場で働いた。忙しくて大変だったが、たまの休みに映画を見るのが楽しみでな。はしごして一日中見ていたなあ」
「へえ。映画が好きだったんだ」
 僕は意外だった。おじいちゃんが映画を好きだったなんて。実家で見ているテレビも水戸黄門位のものだった。
「まあ、ここに居たのは若い時の数年で、その後知り合いの紹介で埼玉に行って、そのままずっとあっちだ」
「もっとこの辺りに居たかったんじゃない? いいところのようだから」
「まあな」
「深大寺へはしょっちゅう来てたの?」
「時々、か」
 おじいちゃんは何か考えるような表情をして黙ってしまった。
「おっ、そろそろ行こう!」
 急におじいちゃんが大きな声を出した。もうすぐ正午になるところだった。
 いかにも歴史がありそうな門をくぐった深大寺の境内は、桜の季節でもあるし平日でもそれなりに人がいる。中高年のグループや若い女性が目立つようだ。
「おじいちゃん。拝まないの?」
 境内をきょろきょろしているおじいちゃんに声をかける。
「あ、ああ。拝もうか」
 あんなに深大寺に来たがっていた割にはあまり関心のない様子。自然の散策とそばで満足したのだろうか。
 おじいちゃんは参拝するとすたすたと境内を横切って行く。そこにはこんもりとした木があった。数人の人が案内板を見ている。おじいちゃんはじっと木を見て、そして周囲を見回していた。
「なんじゃもんじゃの木だって。変な名前だね。これが見たかったの?」
「いや」
「もうちょっとしたら、白い花で満開になるらしいけど残念だね。でも、今日は桜が見れたからいいじゃない」
「うん」
 おじいちゃんはその場から動かない。やがてぱらぱらと人が減り、僕とおじいちゃんだけになった。
「あの~。すみませんが」
 急に後ろから声をかけられた。僕とおじいちゃんが振り向く。
「あっ! 里子さん!」
 大声を出すおじいちゃん。そこには若いきれいな女の人が立っていた。
「えっ! おじいちゃん。知ってる人?」
 おじいちゃんは目を丸くし口を開いたままその女性を見つめている。
「い、いえ。わたしは里子の孫で美咲です。そちらのおじいさんは清さんですか」
「はあ、そうですけど。どうゆうこと?」
「わたしも詳しくは知らないんですけど、おじいさんと里子おばあちゃんが、このなんじゃもんじゃの木のところで再会する約束をしていたそうなんです」
「再会?」
「ええ。別れた日からちょうど五十年後に」
「五十年!」
「そ、それで。里子さんは?」
 やっとおじいちゃんが声を出した。
「おばあちゃんは二年前に病気で亡くなりました」
「ええっ!」

 参道の甘味処に美咲さんとおじいちゃんと僕が座っている。おじいちゃんは気が抜けたような、でも納得したような顔をしていた。
「恥ずかしいんだけど、わざわざ美咲さんが来てくれたので話すよ」
 おじいちゃんは遠くを見るようにして話し出した。
「若い頃、映画館で里子さんと知り合ってね。里子さんは大きな屋敷のお嬢さんだった。こっちはしがない工員で。でも、楽しくつきあってくれたんだ。真面目に結婚も考えたけど、里子さんにはいいなずけがいてね」
「おばあちゃんから聞きました」
「そうですか。いろいろあって結局別れることに決めて、まあ私の意気地がなかったんだけど、最後のデートがここだった。その日が四月一日でね。いっしょにお守りを買って、もし忘れなかったら五十年後に会おうと」
「永いなあ」
「要するに里子さんは結婚する身だったから、中途半端には出来ないし、でも、永遠に忘れたくはないという気持ちだった。情けないけど、その後私は逃げるように引越ししてね」
「おばあちゃんも忘れていませんでした。だから病院でわたしに託したんです」
 美咲さんはバッグから薄汚れたお守りを取り出した。そこには紙が付けられ消えそうな字で「千九百六十一年四月一日、五十年後に」と書かれていた。
「ありがとう。本当に」
 おじいちゃんは涙ぐんでいるようだ。僕も美咲さんもしんみりしていた。
 帰りの電車でおじいちゃんは口数が少なかった。そしてポツリと言った。
「これで安心してボケられるなあ」
「変なこと言わないでよ、おじいちゃん」
 僕は穏やかなおじいちゃんの顔を見ながら感謝していた。少しだけ深い人生に触れることが出来たから。そして不謹慎だけど都内の大学に通う美咲さんと連絡先の交換が出来たから。もちろん五十年後という条件はない。

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<著者紹介>
叶 昌彦  (千葉県松戸市/52歳/男性/会社員)

 昨日まで雛祭りの飾り付けで賑わっていたであろう街中をバスですり抜け、涼子は深大寺前で下車した。ほんの数日前まで寒さで指が凍っていたのに、今朝は春を迎えた陽光だ。この周辺に不慣れな涼子は、辺りを見渡し、通行人の後へついて行った。
 涼子が深大寺へ来るのは7回目だ。ただ、存在を知ったのは3年前である。海や緑が豊富な和歌山で育った涼子にとって、東京は無機質で巨大なコンクリートが並ぶ街という印象だった。希望の大学に合格したのをきっかけに上京し、卒業後は関西で就職する予定だったが、当時は就職超氷河期で仕事が見つからず、涼子は仕方なく東京に留まった。2時間程電車に揺られれば、青梅や秩父に行けるのだから、まあ良しとしようと納得させた。
 派遣社員として働き、数年後に大学のプチ同窓会に誘われ参加した。俊介と初めてしゃべったのもこの日だった。お互い共通の友人を交えて挨拶を交わし、ぎこちなく会話をすすめていたが、涼子の出身地を聞いてから、俊介の心は少しずつ開いていった。
 都会に疲れきっていた涼子を見抜いていたのか深大寺を教えてくれたのは俊介である。
 ボンヤリしながら歩いていたら、目の前に幾つも並ぶ蕎麦屋が並び多くの人で賑わっていた。普段の光景と違うのは、達磨を抱えている人が多い点だ。涼子はまず蕎麦を食べるか、達磨を観に行くか迷ったが、この行列が引くのを待ちたいので、参道へ向った。
 縁日の様に、達磨は道の脇で華やかに飾られていた。こうして達磨を眺めるのも2年ぶりだ。その時は俊介の青い車に乗せてもらって来ていた。広大な駐車場には朝からたくさんの車で埋まり、驚いてしまたのを思い出す。俊介は毎年、ダルマ市に参加するのが恒例になっていた。そこへ一緒にどう?と誘われた事に、涼子は心が弾んだ。
 更に5ヶ月前に、俊介と一緒に初めて深大寺へ訪れていた。「ここが東京?」と思わず呟いた涼子に、俊介は優しく頷いてくれた。こんな近くにオアシスがある。俊介の横顔を覗くと、普段の無表情とは違い、未来を語る少年の顔をしていた。もしかしたら、感性が似てるかもしれない。その時からすでに恋は深い奥で始まっていたのかもしれない。涼子は俊介と一緒に、銀杏や花が舞い降りた道を歩くのも好きになっていった。
 いけない、また想い出を探ってしまった。涼子は人の波をゆっくり歩き、圧倒される数の達磨達を見やった。涼子は一つの達磨に気づいた。手のひらに乗るサイズで、赤ではなく黄色であった。2年前であったら、俊介を呼び止めて二人ではしゃいだのに。
 愛想がいい店主に声をかけられ、涼子も笑顔を返しその達磨を手にした。値段も手ごろで、涼子の狭いマンションの部屋に馴染むだろうと思い、バックから財布を出した。
 椅子に座って筆を握っていた男性から、文字を入れますよと言われ、涼子は困ってしまった。この子の背中にどんな言葉が合うのだろう。四字熟語がしっくりいくのだろうが、あせっているとなかなか浮かび上がらない。頑張るでは曖昧すぎるし。時間を取らせるのも悪いので、涼子は咄嗟に思いついた言葉を口にし、金粉で書いてもらった。
 開眼所に向かって方目を入れてもらい、この達磨が愛おしく思え、涼子はバックに忍ばせた若草色の風呂敷にそれを包み、両端を結んで即席のサブバックを作った。達磨も居心地の良さに喜んでくれるだろう。
 食欲に動かされ、涼子は一軒の蕎麦屋に入った。店の造りは木のぬくもりを感じ、お婆ちゃんの家に遊びに来たようで懐かしさがある。冬にはストーブを焚いてくれる。このお店を教えてくれたのも俊介だ。蕎麦揚げを一心不乱でポリポリ食し、私が唖然としていると俊介は照れ笑いをしていた。
 いつも、俊介の頭は仕事でグルグルしていた。集中力がすごく、思考をしてる時は誰の言葉も入らない。だからか電話やメールの回数も極端に少なかった。付き合おうと誘ったのも私。2年近く付き合うと、不安で胸が押し潰されそうになった。私の存在って何なの。
 またやってしまった。涼子は過去を悔やんだり懐かしむクセを止めたかった。以前の涼子なら、失恋しても3日で立ち直り、未練の意味が分らなかった。だが、俊介と別れてから、涼子の心に後悔の波が浸水していた。
 この思いを断ち切るには、俊介が他の女性と一緒にいる現場を目撃するしかない。今日、ここへ来ている可能性は高かったが、人の多さで見つける自信がなく、昨日に来ている可能性も高い。駐車場に行って俊介の車を探し出せば手っ取り早いのかもしれないが、そこまでしたくなかった。今日会えなかったら、またずっと苦しむのかな。でもどこかで俊介に逢わずに安堵している自分もいる。困ったねと、涼子は風呂敷の中の達磨に呟いた。
 店員が涼子のテーブルにかけ蕎麦と蕎麦揚げが置いたので、涼子の沈思は途切れた。俊介の真似をして綺麗に蕎麦をすすってみたがなかなか難しい。涼子の地元では蕎麦を食べる頻度が少なかったからだ。
 ピークを過ぎたお陰で、店内はゆったりした時間が流れていた。慌しい職場とは丸っきり違う。涼子もゆっくり蕎麦を堪能した。
 その時、奥のテーブルで白いシャツを着た細身の青年が目に入った。いつのまに座ったんだろう。顔を伏せ、本を読みながら蕎麦を食べていた。それも綺麗に。涼子と対角線上の位置で、前髪が長いせいか顔がはっきり見えなかった。青年が蕎麦湯が入った器を持ち上げようと少し顔を上げた時、涼子の首から背筋にかけて戦慄が起こった。
(俊介!)まさかこんな近くにいたなんて。また顔を伏せたが、顎のライン、鼻、何より食べ方がそっくりだった。涼子がじっと見ていたにも関わらず、青年は気づかなかった。何か、おかしい。俊介は2年で若返っている。別れの最後には、俊介の肌がくすみ、目の下にクマを作っていた。髪形も短かかった。それなのに、奥にいる青年は肌や髪に艶があり、全体的に若さがにじみ出ている。
 俊介じゃなかった。しかしあまりにも似すぎている。そう、大学時代の俊介だ。涼子は大学の食堂で、仲間とランチを食べているのに、一人だけ情報処理の雑誌を読んでいる俊介を見かけた事がある。涼子の友達は俊介を知ってるので、「全く、食欲より勉強だね」と苦笑していた。そうあの頃の俊介。
 まさかね。涼子はとうとう自分の思考が妄想に変わったのかと思ったが、店員は何事も無くその青年にお茶を湯飲みに注いでいた。これは現実だ。世の中、瓜二つの人間がいるもんだな。お茶を飲み終えた青年は立ち上がり、レジに向った。最後まで涼子には気づかなかった。不思議なのはジャケットを着ておらず、シャツのまま店を出ていった。それだけではまだ凍える気温だ。青年が出て行ってからも、涼子は呆然としていた。
 消したかった想い出が沸き起こった。二人が別れた原因。俊介が仕事に燃えていたから、涼子とのデートの時間が削られていった。話す時間も減ってきて、最後には二人でいても、お互い黙って別の事をしていた。もっと私にかまって欲しい。涼子は俊介を責めた。俊介のヒョロッとした背中は小さく見え、今まで見たこともない悲しい表情だった。私は普通を望んでいるだけなのに、恋人を追い込んでしまった。涼子は自分も責め、俊介から離れようと決めた。
 俊介の電話番号、住所はもとより、手紙や保存したメールも削除した。未練なんて残すはずなかったのに。あの頃の私はおばかさんだったなと、今の涼子は笑って言えた。正社員の仕事に転職し、自由な時間はわずかしかなく、デートする時間は皆無になり、俊介の気持ちや立場が痛いほど分ってきたからだ。俊介は先ほどの青年のように夢中になって取り組んでいる時が一番素敵だったな。昔の私も、もうすこし思いやりがあれば、今も俊介と歩いていたかもしれない。
 涼子は俊介にあやまりたい気持ちでいっぱいだった。ただお詫びしたい。どうやって?どうにかしてでも。涼子は唇を噛み締め、幾つももらしていた溜息を飲んだ。涼子はもう一度、境内を回ろうと決めた。じっとしている時間に耐えられなかった。

 臨時駐車場には、すでに帰る車が多く、一台の青い車はすんなりと停車できた。背が高く、色の白い男は大きな達磨を抱き上げ、本堂の方へ向った。いつもここは変わらないな。今と昔が混合してるようだ。男は赤い達磨にご苦労様と小声で話しかけた。もうすぐ、空の稜線に橙色が染まるだろう。男はふと後ろを振り向いた。かつて、並んでお参りした彼女が笑って手を振ってくれている気がした。男は照れ笑いし、指輪のはまっていない両手で達磨を強く抱いた。僕がもっと器用だったら、今頃彼女も一緒だったかもな。供養してもらったら、蕎麦屋へ行こうと男は決めた。

 甘味処で休憩してた涼子は時計を見ていた。バスの時間は何時だっけ。あれから涼子は深大寺を探索したが、俊介を見つけることができなかった。青年にも。涼子は風呂敷を解き、達磨の背中を見た。「幸福」そう、私は幸福を自分で得よう。いつまでも悩んでいる場合じゃない。俊介に逢えなくても、これから前進していける。達磨が「大丈夫?」と訊ねてきたので、涼子も「もう大丈夫だよ」と笑った。きっと、うまくやっていける。
 涼子はお店を出て、道沿いのバス停へ向った。バスが来る迄時間が余るようなら、最後にお店を見て回ろうと思った。空には、青と橙色が交じり合っていた。

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<著者紹介>
三木 千明  (東京都練馬区/30歳/女性/派遣社員)

 なるほど、生き物の左右対称性というのは、まさに片方を失ったときに、もう片方が一方を補うためにあるのですね。そう父さん言うのよ。
 脳梗塞を起こし、左半身に軽い麻痺が残った父は、医師から説明を受けながら、呂律のまわらない口でそう言ったという。まったくどういう神経をしているのだろう。それを母は娘である私に楽しそうに紅茶をすすりながら話すのである。
 父は油絵を専門とする画家であった。さまざまな機械、それはつくりかけのトランジスタラジオだったり、噛み合った歯車だったり、をモチーフとした作家であり、何度か海外でも個展を開き、「日本を代表する」とまでは言えないにしても、そこそこに名の知れた画家だった。でも、父の生活はどちらかというと芸術家というよりは、工員という方が近かったと思う。毎朝、五時に起き出して、朝の散歩に出かけ、古い木造平屋建ての我が家にあるアトリエに籠り、キャンバスの中で機械を組み立てる。夕方になると美術大学を目指す学生たちのための予備校に出かけ、デッサンを教える。私が物心ついたときから、父はずっとそんな暮らしを繰り返してきた。
 どちらかというと芸術家は母の方だったと思う。母には一日として同じ日がないように見えた。家計を支えるために、母は漢方薬のお店を経営した。一体どこでどうやって漢方薬の勉強をしたのかはいまだに謎だが、最初、一店舗だけだったお店は、私が中学に上がる年に二店舗、高校に上がる年に四店舗、大学を卒業する年に七店舗になっていた。いつも日本中を飛び回っていた母だが、泊まりがけの出張のとき以外はかならず朝食をつくった。白いご飯にみそ汁、焼き魚にネギがたっぷり入った納豆。そんな古典的な日本の朝食だった。そして母は朝食をつくり終えると、鏡台の前で化粧を始め、左から右、右から左と口紅をひいた。小さな頃、私はそんな母の化粧をする姿を眺めながら、お母さんの方がお父さんより、ずっと絵描きなのではないかと思ったものだ。今になって思えば、すべての女は画家である。
 不思議なことに父と母が話している姿を思い出すことができない。もちろん二人がひとことも言葉を交わさず夫婦を続けてきたわけはないので、思い出すことができないだけなのだが、しかし、やはりどう考えても極端に会話の少ない夫婦だった。というか、父の口数が極端に少なかった。
 「お父さんのどこが好きなの?」思春期に入るちょっと前の、微妙に胸が大きくなりはじめた頃に母に訊いたことがあった。体も心もなんとなく、初潮を迎えることに薄々気付きつつあるあの頃。
 「無口なところ」母ははっきりとそう答えた。「無口なひとっていいじゃない。エネルギーがうちに籠ってるかんじがして。お父さんの絵を見ると、あ、無口な分、言葉になっていない思いがこんな形や色になっているんだと思わない?」
 「えー!」とかなんとか、そのとき、私は言ったのだろうか。でも、無口な人が好きでなければ耐えられないぐらい、たしかに父は無口だった。
 ポーランドで個展を開くことになり、父が二ヶ月程、ヨーロッパに滞在していたことがある。個展の後、どこかの大学の研究室に一ヶ月ほどお世話になるとのことだった。その間、週に一回、我が家に父から絵はがきが届いた。自分で画用紙かなにかを切り取って、水彩絵の具でその土地の景色を描いたものだったが、その絵はがきには驚くことになんの言葉も添えられていなかった。ただ、絵が描かれた四角い紙だけが私たちに届くのである。絵はがきまで無口なのだ。それを嬉しそうに見る母を見て、確かに私も無口な人がいいかも、と思ってしまった。
 会話をしているのを覚えていないぐらいだから、もちろん父と母が手をつないでいる姿なんて見たことある訳がない。そのせいなのか、私は街で大人が手をつないで歩いている姿を見ると、ひどくどきりとしてしまう。なんだかえらく猥褻なものを見てしまった気になるのである。

 「父さん、絵を描くの、諦めてないんだって。右手で絵を描こうとしてるらしいわよ」
 姉は電話でそう言った。電話の向こうでテレビの音が聞こえる。父は左利きの画家だった。右手でいろんな色の絵の具が盛られた、1969年の美術大学入学から使っている木製のパレットを持ち、左手で絵筆を握った。でも、倒れて左手に軽い麻痺が残り、父は右手で絵筆を握ろうとしているらしい。
 「仕事辞めたのよ、母さん。父さんのリハビリのために」
 私は父が絵を諦めていないことよりも、あの母が仕事を辞めたことに言葉を失ってしまった。娘たちに何一つ相談せずに、父のリハビリに専念することにした母さん。
 左半身の自由を失ってから、父の描こうとする絵は左右対称性にこだわったものになっているらしい。機械ばかり描いていた画家が、人の顔、いびつに伸びた木、街の雑踏、そうしたものの中に左右対称と左右対称になりきれない形と色を見つけては、キャンバスに不慣れな右手で描いているという。
 
 ぶらぶらと深大寺を歩いていると、大人が手をつないで歩いているのを見つけ、どきりとした。よく見るとそれが自分の父と母なので、なおさらどきりとして、つい知らない人たちの後ろに隠れて逃げてきてしまった。初めて二人が手をつないでいるのを見た。いや、本当は手をつないでいるというよりも、母が父の手をひいて歩いているだけなのだった。
 久しぶりに実家に戻ると誰もいなく、最近は、リハビリも兼ねて深大寺まで出かけて父が絵を描いていると聞いていたので散歩がてらに深大寺に来てみたのである。朝早く母に付き添ってもらい、画材道具を広げ、夕方になる前に母に迎えに来てもらい家まで帰る。それを毎日繰り返しているという。
 前日、「お父さんが引退します」母は電話でそうはっきりと宣言した。画家に引退なんてあるんだ。そう一瞬思ったけど、工員のような父の生活スタイルからすれば、なんだかそれも当然のような気がした。母が仕事を辞めてもう二年が経とうとしていた。父は少しずつ左半身が動くようになる、というより左半身の麻痺にようやく慣れてきているというかんじだった。
 最後にある有名な画廊で個展をやるのだという。父の名前が大々的に冠についた最後の個展である。そこで最新作を発表して、職業画家としての人生を締めくくるという。
 
 「ちょっと無謀だと思わない?」おちょこの日本酒を旨そうにすすりながら姉は言った。美味しい日本酒が手に入ったと、姉は私のワンルームマンションに来ていた。夫は出張で帰ってこないから、今日はいいのだ、と誰にも訊かれていないのに、姉は言い訳をしてから晩酌を始めた。
 「父さんの絵、見たことある?さすがにあれじゃ、個展は無理よ?」
 「姉さん、塩辛いる?」
 「あくまでリハビリの絵」
 「塩辛どう?北海道から送られてきたやつ。でも最後の挑戦とか言って、美術誌に特集されてたよ」
 「父さん、内心すごい焦っていると思うわ。塩辛いる」
 
 父は慣れない手つきでそれでも絵を描いていた。毎日のように深大寺に出かけ、家に帰るとアトリエに籠る。私が遊びに行っても顔を見せない。母はキッチンで鼻歌まじりに紅茶をいれてくれる。
 「お父さん、大丈夫なの?」
 「何が?」
 「何って、お父さん、個展までに仕事を仕上げられるの?」
 「どうかしらねえ。でも、いいじゃない。あの人、こないだはじめて深大寺に行くのさぼったのよ」
 「それがなんだって言うのよ」
「昔の父さんからは想像もつかないでしょ。機械みたいに規則正しい人だったんだから」
 「なによ、それ」
 「あなたは自分の心配をなさい」
 
 父の最後の個展のオープニングパーティーで父は母と手をつなぎ現れた。いや、手をひかれて。こじんまりとしたあたたかなパーティーだった。父は挨拶もほとんどせずに、最後の作品にかぶせてあった布をひいた。
 タイトル「1969~2011」。真っ白いキャンバスの上にあるのは、1枚の汚い木の板だった。不格好で汚れた木製のパレット。美術大学入学の時から使い始め、今日まで使い続けた木製のパレットには今まで父が見ようとしてきた色、描こうとしてきた色の欠片がちらばっている。父は何度もパレットの上にこびりついた油絵の具を削りながら、この木片のパレットを使い続けてきたのだった。
 これこそ父の最後の作品であった。私は父と母を見つめた。母はにやりと意地悪な笑みを私に向けてきた。
 父の右手で描かれた下手な絵たちはアトリエに置かれたままになっている。父が最後に描いた絵は深大寺で手をつないでいる父と母の姿である。キャンバスの中で父と母が立っている。その姿はまったく見事な左右対称に見えもするが、まったくの非左右対称にも見えるのであった。それは、父の画家としての人生の中で最も下手で美しい絵であることに間違いない。

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<著者紹介>
廣瀬 大  (東京都豊島区/32歳/男性/会社員)

   なんじゃもんじゃの木に、
   あの白い花が、
   見ごろの季節となりました。

 差出人のないこんな葉書に誘われて、美緒が深大寺に訪れたのは五月半ばの土曜の昼下がりのことだった。心がほっと寛ぐような佇まい。休日にわざわざ一時間以上もかけて来た甲斐があるというものだ。まあ、わざわざといっても、他に休日を過ごす当てが見当たらなかったことも事実である。
 もうすぐ四十五歳を迎えようという美緒は気ままな一人暮らし。休日を約束するような相手は、今はいない。勿論これまで付き合った男性は数人いたし、結婚を約束し合ったこともあった。しかし話しが進まなかったのは結婚に縁がなかったのだろうか。三十代終盤の頃には、あやうく結婚サギにも引っ掛かりそうになった。決して焦っていたわけではない。ただ、その男に出会ってしまっただけのことだ。女の意地に賭けても、男運が悪いとは認めたくないのだ。

 今日だって、何も期待などしていない。

 深大寺の門前には蕎麦屋が二十数軒も軒を連ねている。まずは腹ごしらえだ。美緒は、緋毛氈の敷かれた茶店風のこじゃれた店で盛りをすすりながら、あの頃の会話を思い出すともなく思い出していた。
「わたしは大阪の出身やから、やっぱりうどんの方がええわ」
「いや、それは蕎麦の本当の旨さをしらないからだよ」
「違うわ。鰹と昆布のきいた関西風のおダシがおいしいねん」
「いやいや、手打ち蕎麦を盛りで食べる粋さを知れば、蕎麦派になるよ」
 関西生まれの美緒と関東男の恵一は、うどん×蕎麦合戦をいつも繰り広げていたものだ。
その頃、三十九歳の美緒と四十歳の恵一。行き付けのカジュアルなバーで顔を合わせるようになってから、いい歳をした大人が、他愛もなく、そんな話しでバトルを繰り返していた。
 ある日、恵一は真剣な顔で、
「どうしてもキミに蕎麦の旨さを認めさせるために、オレは蕎麦打ちを習い始めたよ」
 と子供のような眼差しで言ったのだ。
「アホやな」
 美緒は笑いながらも、心の底が熱くなるのを感じていた。
「手打ちするには、蕎麦の粉が自然にまとまるまで水を加えるんだ。その分量はその日の湿度によっても違ってくる。繊細な感覚が必要なんだ」
「へ~え、繊細ね。恵一さんからそんな言葉を聞くとは思わんかったわ」
 美緒が茶化しても、恵一は尚も真剣だ。
「捏ね・延しの時に、いい具合に空気が混じりふっくらとした仕上がりとなる。こうして口当たりの柔らかな、しなやかな茹で上がりになるんだよ」
「へえ~」
「機械打ちだとね、捏ね・延しの過程で強力な圧力をかけてまとめるものだから、水分が少ない出来になり、そば本来の旨さが損なわれてしまうんだよ」
「ホンマに、真剣やね」
「そうさ。関西人のキミにはこう説明すればわかるかな。つまり・・・、お好み焼きを焼く時みたいなものだよ」
「何それ?今度はお好み焼き?(笑)」
「ハハハ。お好み焼を鉄板で焼く時に、ギューギューとテコで押しすぎると硬くなるばかりで、ふっくらと仕上がらないだろう。お好みの中にいい具合に空気が入っている方が旨いだろう」
「なるほど。それやったら、ようわかるわ」
「わかりまっか?」
「ヘタな大阪弁やなあ。それに、テコやなくてコテや。」
「そうでっか」
 こうして恵一がヘタな大阪弁を使うようになり、二人の会話はますます親密になった。
会話以上に、美緒の心を開かせたのは、恵一が蕎麦打ちを始めた動機だ。美緒に旨さを認めさせるためにとまで言われたら、女心にズキッとくる。
「それで、いつ、そのおいしい手打ち蕎麦を食べさせてくれるの?」
「まだ、ちょっとかかるな」
「なんや、ウンチクだけやん」
「よし、じゃ今度の休日に深大寺に行こう」
「え?深大寺」
「ああ、うまい手打ち蕎麦の店がある」
 約束通り、次の休日、深大寺の山門の前で落ち合って、連れて来られたのがこの店であった。確かにおいしくて、うれしくて、美緒は蕎麦派に転向しても良いと思えるようになった。ますます会話は弾む、心も弾む。
「休日に、こうして時間を作ってもらってうれしかった。わたしはシングルだからええけれど、恵一さんの家族には迷惑をかけてしもうたね」
「大丈夫さ。僕もシングルみたいなもの。今、離婚の調停中なんだ」
「嘘ちゃうの?」
と探りを入れると、
「嘘ちゃう。こんな門前の敬虔な場所でウソはつけません」
と恵一はあくまで真面目な面持ちだ。
二人の間で、好意が愛情に変わるのに時間はかからなかった。毎週デートをするたびに、軒を連ねる蕎麦屋を一軒ずつまわることが、二人の楽しいイベントになっていた。夜が更けても別れづらい日は泊まって行くことも増え、美緒の部屋には男物のパジャマも歯ブラシも用意され、ペアのカップやお皿も揃い始めていた。
自然で穏やかな心ときめく日々であった。出会うべくして出会った男だと、美緒は確信していたのだ。
しかし・・・。二十数軒並ぶ蕎麦屋をほぼまわり終えた頃、真っ白に咲き誇る花の下で、
恵一に頭を下げられた。
「ごめん。本当にごめん。離婚できなかった」

 もり蕎麦を食べ終えた美緒は、久々のおいしさに満足しながらも、複雑な思いを抱えて山門に向かった。
 あの別れから五年─。
 辛くて辛くて、あれ以来深大寺を訪れることは一度もなかった。結婚詐欺師の男にうまくあしらわれただけのことだと、ずっと自分を納得させてきた。純愛だったと思うと、辛すぎた。
 こぼれ落ちそうになる涙を拭った時、美緒の目の前には、それはそれは見事な風景が広がっていた。なんじゃもんじゃの木が白い花を一面に咲かせていたのだ。この木はモクセイ科で、英名はスノーフラワー。風薫る五月の、悲しいまでに白い雪。
 と、突然に、
「ありがとう。来てくれて」
美緒の背後から懐かしい声がした。しかし、振り返らなくても声の主はわかっていた。
「わたしは花を見に来ただけや」
 美緒は振り返らずそっけなく答えた。
「突然にあんな葉書を送ってごめん。まだ住所も名前も変わっていなかったんだね」
「悪かったね。別に意味なんかないわ」
「いや、良かったんだ。また、この木の下でこうして会えたんだから」
「勝手にそんな感激せんといて」
「どうしても会いたかったんだ。あの時、キミに嘘をついたような形で終わってしまったからね」
「離婚調停中なんて嘘をついたやないの」
「いや、本当に調停中だったんだ。しかし離婚に反対していた一人娘がリストカットまでして・・・。あの時、そんな娘を、それ以上悲しませることはできなかった」
 美緒はゆっくり振り返りながら、
「そうやったん、恵一さん。一言もそんなこと言わへんかったから」と久しぶりの男の名を呼びかけた。
「何を言っても、弁解になると思ってた」
 白髪は増えたが、瞳にはあの頃の光を宿したままの恵一がそこにいた。そして今日こそはと、伝えたかった言葉を口にした。
「この春、その娘もやっと大学生になって自立した。われわれ夫婦の離婚を認めてくれた。だから、キミとの縁を結びに来た」
 一気に想いがこみ上げて、美緒は涙声で、
「ホンマに?」
とだけ一言。洒落た言葉など出ない。
「ホンマにホンマでんがな」
と恵一が照れたような笑顔で答える。
「相変わらず、ヘタな大阪弁や」
「大阪弁はヘタだけど、手打ち蕎麦は上手にできるようになったよ」
「まだ、習ってたん?」
「ああ、いつかきっとキミに旨い蕎麦を食べさせると、約束したからな」
「アホやな。アホな男やな」
 美緒の頬を涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
 五月の雪は、美緒の心のわだかまりも長かった月日も、全て真っ白に塗り替えたのだった。

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<著者紹介>
樋熊広美 (大阪府羽曳野市/55歳/女性/パート)

 人生を振り返り、雪子は幸せだったのだろうか、ふと和男は考えた。
 彼は頑固な男だった。しかし、地方銀行の支店長になるほどの仕事熱心な男でもあった。
 春に銀行を退職した彼に残された財産は、平屋建ての古びた自宅と、車検前に廃車を考えている銀色のセダンが一台あるだけだった。  
 妻の雪子は半年前に他界した。息子の達也も独立して今は一緒に住んではいない。特別な趣味もない彼には毎日をどう過ごせばいいかわからず、考えごとをする機会が多くなっていった。

 彼は雪子が亡くなってから、世話をする者がいなくなった庭を、全てコンクリで覆ってしまった。灰色で覆われた場所には物置が置かれている。物置には十センチあまり通風用の隙間が設けられ、そこから物音が聞こえてくることにある日彼は気が付いた。
 つっかけを履き、音のする方に腰を落とし覗いてみると、そこには真っ白な子猫がいた。生後二週間ぐらいの子猫は、小さい声で鳴き、彼が手に取り抱き上げてみると、子猫の鳴き声がいっそう大きくなった。親猫がそばにいるかもしれないと彼は物置の下や、あたりを見渡してみたが親猫の姿はどこにもなかった。動物好きではなかったが、ほっとくわけにもいかず、彼はミルクを与えて様子を見ることにした。梅雨も明けない六月の出来事だった。

 物置の下で見つけた白い子猫は、彼に何度も甘い声ですり寄ってきた。初めのうち彼は、子猫が親猫に見捨てられ可哀想だと思っていた。前足と背中を伸ばし、あくびをする姿を日に何度となく見ていくうちに、彼もしだいに子猫に愛情を感じるようになり、子猫は天からの贈物と考えるようになった。
 彼は子猫の名を「ユキ」に決めた。真白な色と妻雪子の名前にちなんで彼はそう呼ぶことにした。ユキはとてもやんちゃで、家の中をとびまわっては、彼の愛用してきた木製の机や栗色のソファーを何度も噛んだり、ひっかいたりしてすぐにボロボロにした。増えていく傷を見ると、彼は逆に日常に変化や発見をもたらしてくれるユキの行動に楽しみを感じるようになった。

 彼がユキを飼いはじめてから数週間が過ぎた。いつものようにユキは、お気に入りのタンスの上で丸く小さくなっていた。彼は買い物袋を下げて帰ってきた。
「ただいま」
 ユキは嬉しそうに声をあげ彼のもとに飛びついてきた。ユキがタンスから離れた時、一枚の写真が彼の前に落ちてきた。畳の上に落ちた色あせた写真を拾って見ると、それは昔彼が撮ったものだった。彼の妻雪子と息子の達也が並んで立っている。達也は合格祈願の絵馬を指さしいていた。深大寺に達也の高校合格を祈願して、家族ででかけた時のものだった。懐かしく彼が写真を見ているとユキが小さく鳴いた。
「ごめん、お前を忘れたわけではないよ」
 彼が話かけてもユキは怒っているように繰り返し鳴くばかりだった。
「なんだ、写真を撮ってほしいのか? それなら今から深大寺に撮りにいくか?」
 ユキはようやく彼が理解してくれたといわんばかりに彼の左足にすり寄った。
 彼は押入れの中から使っていなかった一眼レフカメラを取だし、地図を広げ深大寺までの道筋を確認すると、買物袋もそのままにポケットに例の写真を大事に入れ、ユキに声を掛けた。
「ユキ、日が沈まないうちにでかけるよ」
 愛車のセダンの助手席にユキをのせると彼はユキに優しく話しかけた。
「シートベルトはしなくていいからね」
 
 深大寺に向かう間、彼は雪子のことを考えていた。雪子は亡くなるまで、彼に文句一つ言ったことのない女だった。風呂に何時に入るといえばその通り沸かしていた。急に会社の同僚がくればもてなす。いろいろわがままを言ってきたが、すべて彼の言う通りにしてき女だった。旅行に連れて行ったこともなければ、物をほしいとねだったこともない。趣味といえば庭の土いじりだけ、その庭も今は冷たいコンクリに覆われている。
 雪子が生きていれば、退職後に熟年離婚も彼にはあったかもしれない。雪子はしたいことをどれだけ我慢して彼につくしてきたのだろうか、彼は考えてはみたものの、もう知る由もなかった。ただすまないという思いだけが何度も彼の心を支配するだけだった。
「妻は私のことを愛していたのだろうか?」

 古い蕎麦屋の並ぶ道をぬけ、バスが止められる広い駐車場の先に古刹深大寺はあった。
平日にもかかわらず多くの人が訪れていた。彼はユキをあらかじめ車に積んでおいたバスケットの中にいれ、緑色のハンカチをそっとユキの体にかけた。
 彼は過去の記憶を思い出しながら、石畳の続く本堂までの道を歩き始めた。歩く間、バスケットの中から、ちょこんと首を出すユキの姿にすれ違う人たちは皆うれしそうに微笑んだ。実際ユキは、彼がびっくりするほどおとなしく、鳴き声ひとつたてなかった。この所の雨で外にでなかったユキにとって、久しぶりの外出だったが、よほどバスケットの中が気持いいのか、本堂に着く頃にはユキは眠りについていた。
 彼は写真の場所をすぐに見つけることができた。本堂の横に沢山の絵馬が並べられている場所が写真に写された場所だった。だるまの絵がかかれた絵馬に、たくさんの人達が願いごとを書いていた。彼は写真を撮りにきたはずだったが、肝心の被写体が眠ったままで、起こすこともかわいそうになりバスケットを抱えたまま本堂に向かった。
 本堂の古い柱や壁に彼は歴史を感じた。軒の先端から光が差し込むのを見て、彼は本堂の屋根を見上げた。夕日に照らしだされて輝く本堂は美しく、彼は心を奪われた。
 やっと目が覚めたユキと一緒にしばらく本堂を眺めることにした。
 彼はカメラを撮るのをやめてしまっていた。この風景は心に留めておくべきものだと彼は感じていた。
「ユキ、写真は今度撮ろうな」
 彼がユキに話しかけるとユキは体を起こし、バスケットから出ようと前足をカゴの端にかけた。彼はユキをバスケットからだしてやると、ユキは夕日の差し込む方向にまっすぐ走り出した。
「ユキだめだ、もどっておいで」
 彼の言葉も届かないのか、ユキは絵馬のある場所に走っていった。彼は慌ててバスケットを地面に置きユキを追いかけた。
 ユキは絵馬の並べられている場所に座っていた。昔、彼が妻と息子を撮った思い出の場所に座って彼を待っていた
「なにしている、写真を撮ってほしいのか?」
 彼は少し呆れ気味にカメラを取り出すと、ファインダー越しにユキを見た。彼は被写体が子猫ということを忘れて、あの写真と同じアングルで写真を撮ろうとしていた。
「ユキは小さいから屈まないといけないな}
 カメラから目線を外すと彼は呟いた。今度は腰を屈めて彼はもう一度カメラを覗き込む。ファインダーの真ん中にユキがいて、たくさんの絵馬がユキの後ろにまるで幾何学模様のように並んでいる。絵馬の言葉が写真に写りこまないように焦点をユキに合わせようとした瞬間、ユキが大きく鳴いて、彼の視線の中から突然いなくなった。オートフォーカスは、ユキから絵馬に機械的に焦点を変えた。消えたユキの替りに絵馬の文字がはっきりと彼の目に飛び込んできた。
『定年後も和男さんと一緒に楽しく暮らせますように 雪子』
 絵馬の文字は四十年間見てきた妻雪子のものだった。彼は絵馬に近づき手に取った。文字の一文字一文字から暖かさが伝わってきた。雪子がどうしてここに来て、この絵馬を残したのかは彼にとってどうでもいいことだった。退職してから今日まで、常に頭の中にあり悩み続けたその答えが絵馬に書かれていた。
「雪子、お前は本当にできた妻だった。ありがとう......。何もしてやれなかった私を許しておくれ」
 こみあげる涙を抑えることができず、人前も気にせず、彼は絵馬を握りしめたままむせび泣いた。
 やわらかいぬくもりが座り込んでいた彼の膝を優しくなでた。彼がかすんだ目で見るとユキが心配そうに彼を見つめていた。
「ユキ、ありがとう」
 彼はユキに感謝の言葉を伝え、ユキを抱きかかえゆっくりと立ち上がった。ユキは体をよせ彼の心臓の鼓動を聞いているかのように目を閉じた。
「ユキ、庭に木を植えてみようか」
 彼はユキに話かけると、これからの人生をどう楽しんでいくかを考え始めた。

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<著者紹介>
T-99 (東京都多摩市)

 八王子で開催された学会に出席した後、調布行き、京王相模原線の電車に乗ったのは、七月の真夏日、無性に冷たくてうまい深大寺の蕎麦が食べたくなったからだ。それはもう、どうしても蕎麦でなくてはダメで、蕎麦以外は絶対に考えられないという強烈な衝動(ビックウエーブ)だった。この病的な衝動の誘因は、失敗に終わった学会発表のストレスだ。...間違いない。 
 昔から、ストレスが溜まるとそんな風に『今、どうしてもこれが食べたい!これ以外は絶対無理!』という自己制御不能なほどの我が儘な衝動が襲ってくる。そういう時は、我慢して他の物を食べても、結局は満足感も満腹感も得られず、返って空虚な空腹感だけが纏わり付き、一日中苛立ちを引きずるだけだ。だから、この衝動が襲ってきた時は、もうさっさと観念して、時間や労力やお金を遣っても、それを食べるために予定変更して進んでいく。
 そもそも食欲は原始的な第一欲求だ。それに抗う術(すべ)などない。素直に従った方が賢明だ。
 ...と、まあそういう訳で、今日の食欲魔神様が生け贄として求めているのは蕎麦だ。僕自身は、都内で一番うまい蕎麦は深大寺だと確信している。だから、わざわざ自宅とは逆方向の深大寺まで足を伸ばしたのだ。
 電車に揺られながら読書をしているうちに、程なく深大寺に着いた。平日のせいか、深大寺通りに面した有名な蕎麦屋の前にも客は並んでおらず、人気もまばらで落ち着いた佇まいだった。悠々と涼しげに回る水車を横目で見遣りながら、真夏の太陽の下、汗ばみながら目当ての蕎麦屋を目指して足早に歩く。
 せっかく深大寺に来たのだから、じっくりと情緒ある街並みを眺めたいと思いつつも、この暑さではとてもそんな余裕はない。...というよりも、食欲魔神様が早く蕎麦を食わせろとうるさく急き立てるので仕方がない。
 目的の蕎麦屋の前に辿り着いた時、店の脇の街路樹にカメラを向けて、一心不乱にシャッターを切り続ける若い女性が視界に飛び込んできた。華奢な腕で持つには不釣り合いな重そうな本格的な一眼レフ。
 一瞬で、目が釘付けになった。猛暑を吹き飛ばす凛とした涼やかな目元に強い意志を漲らせながらファインダーを覗き、リズミカルな連射音を放ち続ける。どこか神々しささえも感じられるその端整な横顔に、目が離せない。蕎麦屋を目前にしつつも、長年飼い慣らせずにいるこの凶暴な食欲魔神さえ瞬殺で封印できるほど劇的なインパクトだった。
 なんてキレイなんだろう...。まっすぐな一筋の強い芯が通ったブレない軸を持った美しさというか...。きっと同様に、ターゲットを定めたら、ブレない写真を撮る人なのだろう。
 我を忘れ、見惚れていると、彼女の瞳がレンズから離れ、ふっとこちらに向けられた。ドキっと鼓動が一際高く跳ね上がる。くっきりとした二重瞼の黒目がちな瞳に、理論も物理を越えた引力で惹き付けられた。『何ですか?』そう言いたげな彼女の不審な視線に、
「あの...そんなに夢中で、何を撮っているんですか?」
 咄嗟に尋ねていた。すると、彼女は警戒心を解いたようにふっと表情を緩ませた。
「モミジを撮っているんです」
 彼女は片手をカメラから離すと、蕎麦屋の脇に植えられた青々と生い茂る木々を指し示した。その指先の向こうに生えるモミジよりも、スカイブルーの半袖のニットから伸びる小麦色に焼けた細い腕に、自ずと視線が吸い寄せられてしまうのは仕方がない、男の性(さが)だ。
「この時季にモミジ...ですか?」
 僕は違和感を覚えながら問い返した。今は7月下旬、真夏だ。秋でもないのに、赤や黄色に紅葉もしていない真夏のモミジを撮るなんて...。変わった人だ、率直にそう思った。
「夏の、緑のモミジが好きなの」
 彼女は重たげなカメラを細い首にかけたまま、気さくにサラリと言った。
「緑のモミジ?」
 異国の言葉を聞いたような耳慣れない響きに、思わず訝しげに鸚鵡返ししてしまった。
「そう。私はね、秋に色づく赤や黄色のモミジよりも夏の緑のモミジの方が好き。青々と生い茂った緑のモミジって瑞々しくて、躍動感があって、葉から今にも滲み出そうな強い生命力を感じるから。眺めていて、元気になれるの。パワーが充填できる気がする」
 彼女は片手をかざし、眩しげに眼を細めながらモミジを見上げた。真夏の傲慢な陽差しを余すことなく存分に享受し、葉の上で光を気ままに奔放に乱反射させ、碧(みどり)の輝きを辺りに放射するモミジ。...まばゆいほどに、なんて衝撃的な自己顕示欲なんだろう。生きるってことに、貪欲なまでの渇望を感じ、思わず呟きが零れ墜ちる。
「確かに、綺麗だな。僕は、秋の紅葉狩りすら殆どしたことなかったから、ましてや夏のモミジなんて、まともに見たのも初めてだけど、でも、なんかいいね。うまく言えないけど、こう...精一杯生きてるって感じがする」
 そのまっすぐな健全さは、正直、今の僕には正視するには眩しすぎた。教授(ボス)とも折り合いが悪くなり、准教授への昇格の話も流れてしまい、研究もはかどらず失敗の連続の日々。そんな状況だから、今日の学会でもたいした発表もできずに惨敗。すっかり研究への情熱も意欲も失いかけていた。最近では仕事へのやり甲斐も生き甲斐も見出せず、適当に生きているというより、むしろ中途半端に生かされているという感覚を否めない。そんな退廃的な僕には、生命力の強さを鮮烈に訴えるモミジのこの青すぎる青は余りにも遠く映った。
「そう、これが生きているってことなのよね」
 彼女は手を伸ばして、1枚のモミジの葉にそっと触れた。人差し指と親指を使い、葉の感触を楽しむようにゆっくりと丁寧になぞる。
「新緑のモミジの葉ってね、見た目のイメージよりもずっと柔らかいの。都内の色んな場所でモミジを触ったけど、この深大寺のモミジは特にスベスベして柔らかい感じがする」
 その言葉に釣られ、思わずモミジに手を伸ばした。人差し指と親指で葉を掴み、指を滑らせる。確かに想像以上に柔らかくて、肌触りも良く、食べられそうなくらいだった。
「深大寺は湧水の名所だし、きっとこのモミジも澄んだ水をいっぱい吸って育ってるから、こんなに優しく滑らかなんじゃないかな?」
 僕はモミジの質感をこの手のひらに刷り込ませるように撫で続けながら言った。これが『自然』の質感か。植物に触れたのって、一体どれくらいぶりだろう?日頃から、自然とは最も対極にある実験装置だとか電子機械ばかりに囲まれた研究室で過ごしていると、こんな身近で些細な自然の営みにも気づけない。いつの間にか鈍化していた自分の感性に歯痒さを覚える同時に、でも一方で、ささやかな何気ない幸せに出逢えたことが嬉しくて、無意識のうちに顔が綻んでいくのを感じた。
パシャっ!...と、その時、突然響いたシャッター音に、反射的にハッと弾かれるように振り返った。彼女はカメラを僕に向けていた。
「な、なんで僕なんかを...」
 羞恥の余り咄嗟にカメラから目線を外す。
「今、すごくイイ顔してたから。まるで緑のモミジみたいにとっても新鮮な笑顔。今日のベストショットだね」
 彼女はおどけたように笑って言った。今まで言われたこともないような照れ臭い言葉を面と向かって言われて動揺していると、彼女は僕の顔の前に自分の手のひらを差し出した。
「ねえ、よく、モミジの手って、赤ちゃんの手にたとえられるでしょ?あれって私は、赤や黄色に紅葉したモミジじゃなくて、緑のモミジの方だって思うんだ。柔らかくて、しなやかで、ピチピチと弾けるような赤ちゃんの手のひらが、緑のモミジのイメージそのものだから。真っ青な空をバックにして、緑の葉っぱが陽に透けてキラキラ輝いて、そのどこまでも透明な純度が、生まれたての赤ちゃんの純真さと同じだなって思うんだよね」
 そんな風にキラキラと語る彼女の瞳こそ、生まれたての赤ちゃんのように、どんな色にも染まっていない透明な濃度を湛えていた。 
僕は手にしていたモミジを1枚ちぎると、電車の中で読んでいた本を鞄から取り出し、読みかけのページに挟んだ。
「しおりがなかったから、ちょうどいい。今日の記念にもらっていこう」
「いいんじゃない?昔から、花泥棒は罪にならないっていうし、モミジも同類ってことで」
 彼女は悪戯めいた微笑を浮かべてカメラを構えると、本に挿したモミジに焦点を合わせ、パシャっと軽やかにシャッターを切った。
 季節が巡り、モミジの緑が色褪せてしまっても、きっと今日の想い出は色褪せない。
 僕は意を決すると大きく深呼吸をし、Yシャツの胸ポケットからケータイを取り出した。
「あの...せっかくだから、君が撮ってくれた僕の写真、これに送ってもらえないかな...?」
 草食系代表みたいな僕が今世紀最初で最後の勇気を振り絞り、背水の陣の覚悟で伝えた。
「じゃあ、赤外線でアドレス交換しましょう」
 にこやかに彼女がジーンズのポケットからケータイを取り出した瞬間、僕は思いっきり飛び跳ねたい衝動に駆られた。それは蕎麦を食べたい衝動よりもはるかに凌駕していた。     
 ...ああ、なるほど。深大寺には恋の神様がいるって本当なんだ。しかも、あの狂暴な食欲魔神さえもねじ伏せ、退散させてしまう深大寺の恋の神様の威力って、まさに無敵だ。
 ...動き始めたばかりのまだ形なきこの淡い想いが、いつかちゃんとした輪郭を持った『恋』という美しい流線型へと変貌を遂げていったら、失いかけていた研究への情熱も再燃し始め、活路を見出せるような気がした。
 だから...だから、深大寺の恋の神様。願わくば、緑のモミジのようにエネジーが漲るその手のひらで、この恋に進みゆく僕の背中を、どうか力強く後押しして下さい。

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<著者紹介>
星野 有加里  (静岡県島田市/女性/教員)

 私はお祖父ちゃんなんてだいっきらい。
 すぐ怒るし、タバコもすうからだいきらい。
 注文していた天ざるソバがきた。
「そうやっていつまでもムクレてちゃだめだめ。遅くなっちゃったけど昼ごはんにしましょう」
 お祖母ちゃんがそう言ってくれたけど、私はおソバも好きじゃない。お箸でおソバをつついてるばっかり。
「おソバって細長いでしょ?。ずっとずっとながーく好きな人の側にいるっていうことで、昔の人は結婚の約束におソバを食べたんだってよ。知ってた?」
 もちろん知らない。私はかぶりを振った。結局私のおソバは残ったままで、お祖母ちゃんは半分だけ私のおソバを食べてお店の人にごめんなさいを言った。深大寺さんへの方へブラブラ歩きながら、お祖母ちゃんは今日の私がいちばん言われたくないことを言った。
 「ねえねえ、あなた、ちょっと翔太くんが気になるんじゃないの?それであんな意地悪なことを言ったんでしょ」
 そんなことないもん。私はそっぽを向く。
 「そんなことあるわよ!ちょっと恥ずかしくなっちゃったんでしょ?女の子は好きな人の前じゃ恥ずかしくなるのよ、ふつうのコトよ」
 お賽銭を入れてお祖母ちゃんは何事か、深大寺さんにお祈りをした。私はしないもん、神様なんていないんだよ、ってパパが言ってた。
 「お祖母ちゃんね、高校生の頃に初めて人を好きになったの。初恋。調布の駅前で、ほんとに偶然会っただけだったんだけど、好きになっちゃったのよ」
 どんな人?どうやって会ったの?私も思わずお祖母ちゃんの顔をのぞき込む。
 「バスから降りるはずみでね、持っていたミカンの紙袋を落としちゃった。黄色いミカンがバス停にゴロゴロ転がっちゃったの」
 それでそれで?
 「親切な男の人が拾ってくれたんだけど、お祖母ちゃんたら恥ずかしくって、顔も上げられなくて、ろくろくお礼も言えなくてね。それでそれから深大寺さんにお願いするようになったの。もう一度あの人に会わせてくださいって」
 その人が親切だから好きになったのかな、お祖母ちゃんは。
 「違うのよ。どうしてかしら。その人がミカンを渡してくれた手がね、とっても大きくて温かかったの。それで好きになっちゃった」
 それならその人と結婚すれば良かったんだよ。あんな怒りん坊のお祖父ちゃんじゃなくってさ。
 「え?あらあら、そうじゃないのよ。それに、お祖父ちゃんのことをそんなふうに言うのはやめなさい。おうちに帰ったら、ごめんなさいってあやまろうね。お祖母ちゃんも弥生ちゃんが悪かったと思うよ。ね?あとで翔太くんにもちゃんと謝ろうね」
 私は返事をしなかった。だって、だって。私は恥ずかしかっただけなんだもん。
 夏休みも終わりの二十日頃になると、私はいつもお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのおうちに一人でお泊りに行く。一年生のときからだから、もう三回目だ。行くと、いっつもお祖母ちゃんは優しいし、いっしょに映画を見に行ったり、マンションのお部屋でみんなでスイカを食べたりして、とっても楽しい。みんなで、っていうのは、私とお祖父ちゃんとお祖母ちゃんと、もう一人、お祖母ちゃんの隣の部屋に住んでる翔太って男の子が一緒のことが多いからだ。翔太は私のいっこ上なんだって、パパとママが教えてくれた。翔太はお祖父ちゃんと一緒で、あんまり話さない。お祖父ちゃんはベランダでタバコをすうけど、翔太はテレビで高校野球を見てばっかりで、はっきり言って邪魔っけだ。翔太にはパパがいなくって、翔太のママは私のパパと同じくらいバリバリ働いてるんだって、これは私のパパが教えてくれた。翔太はうちのお祖父ちゃんと仲良しで、しょっちゅう遊びに来る。来るといっつも何か言いたそうにするんだけど、翔太と私と二人になっても、結局黙って二人でテレビを観るくらいしかしない。お祖母ちゃんがいなかったりしたら、翔太と同じくらい無口なお祖父ちゃんと三人で黙ってテレビを観る。野球の応援をしている翔太の顔はいっつも本気で、目がキラキラしてる。
 今年の夏休みもそんなふうに始まるはずだったんだけど、あんまりうまく行かなくて、私はさっきお祖父ちゃんにとっても叱られた。私が、翔太にへんなことを言っちゃったから。
思い出すと、昨日の晩は楽しかった。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと三人ですき焼きを食べた。ステキな夏休みのはじまりはじまり。 
 それなのにそれなのに。今日のお昼ごはんの前に、翔太が遊びにやってきた。一年ぶりね、って挨拶したのに、翔太に軽くシカトされて、私だって結構むかついた。いつものようにまたテレビを見ながら、背が伸びた?って聞いてみたら、翔太はそれには答えなくって、急に、
「今日の着てるその服は、とってもキレイだね」
 と的はずれなことを言ってきた。私は顔がなぜだか真っ赤になって、それでへんなことを言っちゃった。
 翔太はいっつも同じような服だね。母子家庭だから?
 そのとたん、なんだか変な空気になって、翔太もお祖父ちゃんも何も言わなかったんだけど、洗濯物干しが終わったお祖母ちゃんが、
「お昼ごはんはお素麺かねぇ?」
 と居間をのぞいたら、翔太はちょっとへんんな感じのまんま部屋を出て、自分のおうちに帰ってしまった。お祖父ちゃんはベランダでタバコをすってたけれど、戻ってくるなり
「弥生はいつからあんなことを言う子になった?お祖父ちゃんは怒ってるぞ!」
 なんて大きな声を出して、畳をたたいたかから私はびっくりして、口もきけなくなっちゃった。私だって分かってるよ。なんであんなへんなこと言っちゃったんだろう。
「ね?弥生ちゃん、帰ったらお祖父ちゃんと、それと翔太くんにも謝ろうね」
 入場料を払ってお祖母ちゃんの好きな植物園に入ってから、お祖母ちゃんはもう一度くりかえした。やだなぁ。どうしてお祖母ちゃんはあんなタバコをすう、しかも怖い人と結婚なんてしたんだろう。初恋のミカンの人とすれば良かったのに。大温室の前で、お祖母ちゃんの知り合いの人に出会った。白いヒゲの制服を来た人だ。植物園の人みたいな格好だ。さきに温室に入るよ、と言って私は一人で先に進んだ。もう帰りたくなくなったんだもん。大きな水仙を見てからそっと入り口の方をのぞくとお祖母ちゃんもこっちへやって来る。私はお祖母ちゃんに気付かれないようにそっと逆に回って、そのままバラ園のところへ出てきた。ダブルなんとかって、キレイな花が咲いている。
 お祖父ちゃんも、それに、初恋の人とじゃなくてそんなお祖父ちゃんと結婚したお祖母ちゃんも大嫌い。翔太もだいっきらい。
 竹・笹園って書いてある方にスキップして向かう。夏だし、もう夕方だけど、涼しいに違いない。でも一人で来てる子は少なくって、私のスキップの足もだんだん重くなる。意外に広いし、一人じゃつまんない。ひっかえして、芝生の公園のところまでやって来た。もうお祖母ちゃんだけは許してあげよう。だいたいおソバも食べなかったから、お腹がすいてきた。アイスも食べたいけど、カレーの匂いがどこからか漂ってきた。お祖母ちゃんがいた温室に戻って一周したけど、お祖母ちゃんはやっぱりいない。
 だんだん心細くなってきて、雑木林の方に、今度は走って行ってみた。やっぱりお祖母ちゃんはいない。蝉がカナカナと鳴いて、なんだかたまらない気持になってきた。
 私が泣いちゃったのは、閉園のお知らせが聞こえてきて、それでもお祖母ちゃんに会えなかったからじゃないんだもん。お腹が減って少し悲しくなって来ただけなんだもん。めそめそしていたら、キレイなお姉さんの二人連れが声をかけてくれた。お祖母ちゃんと会えないのって言ったら、二人はあらあらと顔を見合わせて、私を公園の事務所まで連れていってくれた。
 事務所ではとっても心配そうな顔をしたお祖母ちゃんが
 「弥生ちゃん、ごめんね」
と言ってくれたので、私はかえって悲しくなって、涙が止まらなくなった。
 ちがうもん、私だって、私だって、お祖父ちゃんと翔太に謝ろうと思ってんだもの。
 でもどうしてもそうは言えずに私は涙が止まらなくなった。
「お祖父ちゃんが車で迎えに来てくれてるよ。お祖父ちゃんと帰ろうね」
 みんなにお礼を言ってから正門の方へ歩いていったら、ニコニコしたお祖父ちゃんが立っていた。お祖父ちゃんを見たら、私の涙は、ひっこみかけだったのに、また止まらなくなった。
「お腹へったか?今日はカレーライスをお祖父ちゃんが作ったから、翔太くんと、みんなで食べような」
 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが、手をつなごうと言い出した。お祖母ちゃんの手はとってもすべすべしていて、お祖父ちゃんの手はとっても大きくて温かかった。
 私はポロポロ泣きながら、帰ったら翔太とぜったい仲直りしようと、そう思って、心の中で深大寺さんにも約束した。

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<著者紹介>
田中 範  (東京都新宿区/42歳/男性/会社員)

「おれはよ、手の届きそうな星の海が好きなんだ」
 その人は、突然そんなことを言う人だった。
孤高の女戦士みたいな、女盗賊みたいなたくましさを持っていて、「星の海」なんて言葉は、ワイルドな見た目には似合わなかった。
「真由子さんって時々ロマンチストになりますよね、まあ、あたしはそういうとこ好きですけど」
 そう云ったら、隣のベットで寝ている真由子さんは「まあ、おれにもそういう時があんだ」と言って、白い歯を見せて笑った。
 あたしは今年30歳になる。真由子さんはあたしより20は上で、もちろん性別は女性だ。

 調布駅北口で深大寺行きのバスを待っていると、寒さで身体が凍えそうになる。冬ってこんなに寒かったっけ?と思いながら、到着したバスに乗り込む。車内の暖房がむわっと顔にかかって気持ち悪い。
 車内は空いていた。あたしは窓際に座り、冬の曇天を眺めながら、真由子さんと見た小さな窓枠の夜空を思い出していた。ロマンチストな真由子さんは自然といつもより饒舌だった。
「おれはよ、好きなやつがいたんだよ」
「へー、結婚されてたんですか?」
「結婚なんてしねーよ。でも、あたしは奴が好きで、奴はその二百倍くらいあたしを好きだった」
「うわー、それむっちゃノロケですね」
「いや、お前よぉ。そいつは、あっ、孝之って言うんだけどな。とにかく待ち合わせをすると何時間でも待ってんだよ。真夏の炎天下で二時間、冬の寒空の下で三時間。そんなのが当たり前」
「すごい」
「なっ? 今なら考えられないだろ? おれの若いときなんて携帯なかったからよお、待ち合わせなんかも今よりずいぶん不便だったんだけど、でもそれにしたってそんな何時間も待てねえよなあ」
 真由子さんはケラケラ笑っていた。過去のことは聞かないようにしていたし、あたしも自分の過去のことは話さないようにしていた。けど、真由子さんがジャズシンガーで、その孝之さんって人が、熱心なファンだったということだけは話してくれた。
 「昔、元旦に初詣行ったんだ、孝之と。あいつとにかく車が大好きでよ。呼び出せばいつでも迎えに来てくれたんだけど、大晦日のステージを終えたときに、あいつを呼び出したんだ」
 真由子さんはやっぱり白い歯を見せながら、無邪気な子供のように笑っていた。こういうときの真由子さんは時々、天使みたいだと思った。あたしは30年生きてきて、こんな天使みたいな人に、なかなか出会わなかったなと思った。出会っていれば、もっと別の人生があったかもしれない。
 真由子さんは優しすぎたんだ。優しすぎることは罪になることもある。「なぜ、真由子さんはここにいるんですか?」その質問を、何度も何度も呑み込んで、あたしは真由子さんを置いてあそこを出てきた。
 真由子さんの刑期が終わるまでは、あと三年と少しかかるからだ。

バスを降りたあたしは深大寺の本堂に向かった。真由子さんに頼まれた絵馬を探すために。
「絵馬なんてよお、なんかここに来た証明を残すみたいで恥ずかしいだろ? あんなもん書くだけでも恥ずかしいのに、孝之のやつがまたそれに変なこと書くんだ」
 あの日、真由子さんは楽しそうにそう云って、それからすぐ自嘲気味な調子になって、
「わかってんだ。絵馬なんて、何年も置いてないに決まっている。おれも期待してるわけじゃない。だけどよぉ、もしまだ深大寺にあったら、それをお前が拝むのも悪くねえ。見つかれば、きっとお前にいいことがある。ただの直感なんだけどな。だから、おれのためじゃなくて、お前のために、探してきてくれ。おれはお前に、ここを出た後、幸せになって欲しいんだ。お前はまだ若いしな...」
 あの夜、あたしが横を見ると真由子さんは静かに目を閉じて喋っていた。孝之さんとの記憶のピースを一つ一つ確かめるように。

 ...でな。おれが寝ぼけた目をこすりながら、深大寺を歩いていると、孝之はおれの手を取って、ぐんぐん先に歩いて行く。なんだよ、なんでそんなに元気なんだよって言ったら、元旦にここに来ると妙にソワソワして、でも楽しいんだ、なんて、子どもみたいなことを言いやがる。孝之は昔からずっと調布市民で、幼い時から、元旦は家族で深大寺に来ていたらしい。
 立ち並ぶ屋台であんす飴と甘酒を買い、無理やりそれを持たされたおれは、こんなに甘いもんばっか買いやがってと悪態つきながら、孝之の後についていった。
孝之は、何も云わずに突然絵馬を買って、おれに見せず何かを書き込んでやがる。
「お前さあ、なんなの?」
「なんなのって?」
「だから、そんなの書いてどうすんだ?」
「真由子ちゃんと結ばれるようにって」
「いや、結ばれないよ、一生」
「ええっ! 一生?」
「うん。だって、おれ結婚する気ねえし」
「うそっ! ウエディングドレスとか着たくないの?」
「ないね。あんなヒラヒラしたもん、絶対着たくもないね」
 孝之は相当ショックだったんだな。あいつ眉毛をゴシゴシ擦ってた。あいつの癖でな、困ったことがあると、いつも眉毛を擦るんだよ。毛が抜けるなら止めろって、おれが笑って注意したら、何を思いついたか後ろを向いて、また急に絵馬を書き始めるんだよ。
 おれが孝之の絵馬を後ろから覗き込むと絵馬にはこう書いてあったんだ......
 って、おいお前、起きてる? おれの話、聞いてる?

 あたしはしっかり聞いていた。
(真由子ちゃんがいつまでも俺を忘れないように)
 だからこそ、そう書いてある絵馬を探した。何度も、何度も探した。手袋を持っていないことを後悔する暇もなく、一つ一つの絵馬を上から下に、下から上に三往復した。無駄だとわかっていながら神主さんにも聞いてみたが、首を振るだけだった。
―あるはずがない。同じ絵馬が何年も置いてあるはずがない。そう自分に言い聞かせても、あたしは自分が思っていたより何倍も落胆していた。
肩を落として調布行きのバスを待ちながら、真由子さんのことを思い出していた。
「...ねえ、真由子さん」
「ん?」
「その孝之さんって人、今頃何してるかな?」
「そうだな、あんときはリーマンだっけど、今はタクシーの運ちゃんでもやってんじゃねえかな。ほんとに、車好きだったからな」
「そのあと、星の海を見に行ったんでしょ?」
「ああ。三時間くらいかかってな、長野の山奥まで連れてかれた」
「きれいだった?」
「...ここよりは、うんとな」
 赤い車体のバスがあたしの前に停まる。
(...ここよりは、うんとな)
 バスに乗ろうとしたら真由子さんの声を思い出して、あたしは泣いてしまった。
生きる、生きていく目標が欲しかった。
希望といっても大げさじゃない。三年間も刑務所にいた三十路の女が、この先、社会で生きて行ってもくじけない希望が。もし絵馬があったなら...絵馬があったなら、あたしは。
バスの車掌さんが不思議そうな顔をしてあたしを見ている。あたしはそれに気がついて、あわてて涙をぬぐった。でも財布を取り出して乗車賃を払おうとしたのに、一万円札しか出てこない。
「大きいのしかないのかい?」
あたしは首を縦に振る。車掌さんは車内を振り返ったが乗客は誰もいなかった。
「こういうとき、他のお客さんがいると助かるんだけどねえ。ちょうど、こっちも札が切れててね」
車掌さんは、困った顔をして眉毛をゴシゴシと擦る。...その瞬間、あたしの目に飛び込んできたのは、車掌さんのネームプレートだった。
「田中孝之」と書いてあるそれを見て、あたしは声を上げそうになる。あたしの知っている「たかゆき」は「孝之」なのだろうか。
車掌さんの顔を正面から見据える。帽子の脇から白髪が見えたが、優しそうな、それでいて温かそうな顔だった。
直感が自信に、自信が確信に変わっていく。
「あっ、...あ、あ、あの!」
 あたしの声は思いっきり裏返る。
「はい?」
「ま、待つの! 待つの得意ですよね!?」
「えっ? それはどういう...」
「あたし、近くのお店でお金崩してきますから、それまで待っててください! 絶対、出発しないでください!」
 あたしはバスを飛び出した。走りながら、思わずスキップをしそうになる。
 真由子さん。絵馬はなかったけど、あたしはここで、絵馬よりもうんと、いいものを見つけたよ。
 だからあの人とあたしで、迎えに行くまではそこで元気に待っててね。   

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<著者紹介>
山本 洋介 (東京都調布市/29歳/男性/非常勤講師)

昨日から降り続いた雨がやんで、久しぶりの梅雨晴れとなった土曜日。いつもより一時間も早く目が覚めた。まさかこんなに晴れるとは思わなかった。これは幸先が良い。天が俺に味方してくれているんだ。
普段はしない朝シャンなんかしちゃって、髪をセットするのに三十分も費やした。途中、姉きが早く洗面所を開けろと騒いだけど、余裕で無視してやった。今日は一世一代の大イベントなのだ。誰にも邪魔されたくない。
朝飯を食べずに家を出た。何だって今日はめぐたんとの初デートなのだ。めぐたんとはクラス、いや学校一可愛い女の子、高橋めぐみ。俺はこっそりと彼女をめぐたんと呼んでいる。これは誰にも内緒だ。そんなめぐたんとの夢のデートを申し込んだのが一週間前。
「めぐちゃんの作ったお弁当、食べたいかも」
ちゃっかりとお弁当までねだった。今日始めて食べるのはめぐたんの御飯がいい。
 待ち合わせの神代植物公園には、一時間も早く着いた。デートのマナーは遅れないこと。
二人分の入場券を買って、ベンチに座ってデートの段取りを考える。まずはツツジを見て、それから温室に行く。その後で今が見頃なバラを見て、その頃にはもう割といい感じでさり気無く手を繋いでいるんだ。そして木陰のベンチに腰かけてお弁当タイム。最高。
ふと空を見上げれば、抜けるような青空に白い雲がぽっかり浮いている。もう少しで夏だ。これからの事を考えて幸せを噛みしめた。
「お待たせ」
 おお、その声は。その声は、麗しの、めぐたん! じゃねーぞ。何か声が低い。
「何ニヤニヤしているの? 気持ち悪い」
俺は唖然とした。そこにいるのはめぐたんとは似ても似つかない香苗。ただでかいだけの宮崎香苗。だけど何故か色っぽいという事で男に人気がある。俺にはさっぱり分らない。
「早いね。いつも遅刻ギリギリなのに」
 驚きすぎて声が出ない俺には構わず、香苗は一人で話してくる。
「私も早く着いちゃった。めぐみはまだだね」
「おま、お前、何でいるの?」
「何でって。めぐみから聞いてない? みんなで遊ぼうって誘われたよ」
「みんな、ってさ」
俺の言い方がまずかったのか。二人でデート、ということが通じてなかったのか。どっと力が抜けた。
「お弁当も作ってきたよ」
お前のはいらねえよ。......とは怖くて言えねえよ。香苗には殺されそうで言えない。
「そりゃどうも」
「めぐみ、遅いなぁ」
「遅いっすね」
「今日暑いかな」
「暑いんじゃないっすか」
テンションが下がって、オウム返しにしか言葉が出てこない。しかも、どうも梅雨の蒸し暑さが体にまとわりついて気になり出した。日差しが憎い。
「ねぇ、そうだ。あのさ」
急に香苗が改まった声を出した。俯いて言いにくそうにしている。何だよ。
「あのね、実はね......」
暑いから早く話してくれよ。
「遅くなってごめんなさい!」
 その声は!
小走りに駆けてきたのは、今度こそ本物の麗しのめぐたん!
思わずベンチから立ち上がってしまった。
「全っぜん待ってないよ。ノープロブレム」
「陽平君も香苗も早いね。お待たせしました」
 そう言いながら、俺らに向かって律儀にお辞儀をした。やばい、可愛い。やっぱり可愛い。生きてて良かった。幸せ。
「よし、早速中に入ろうぜ」
 今までのテンションはどこへやら。俄然やる気になった。入場券を一枚追加で買って、二人に渡す。一人邪魔者がいるけど、めぐたんと一緒にいられる事で今は良しとしよう。
 植物園に入ってまず目についたのは、たくさんの咲き乱れたツツジだった。
「わぁ、きれい」
「たくさん咲いてる」
二人の嬉しそうな声を聞いて、俺も満更ではない。ツツジを眺めながらフワフワと歩くめぐたんは、気がついたら先へ駈け出して池を覗き込んでいた。そう、彼女はいつでもどこでもマイペースで自由なんだ。そこがまたいいんだけど。だけど、どうして俺の横には香苗がいるんだ。
「めぐみは元気だよね。好奇心旺盛。天真爛漫。そこがいいところ。可愛いもん」
 そうそう。よく分かってるじゃん。
「ねえ。さっきの続きだけどね」
「なに?」
「うん。あのね、携帯持って来た?」
 うつむき加減で話す香苗はいつもと違ってしおらしい。何だよ、さっきから。
「持ってきたけど?」
ちょ、待てよ、もしや。もしや、実は俺のこと好き系? そう思うと辻褄が合う。デートにわざわざ着いてくるところとか。俺の横を歩くところとか。そうだったのか。驚いた。
「あのさ、香苗。俺はさ」
 変に気を持たせたら逆に可哀そうだ。
「お前は知らなかったかもしれないけど」
その時、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話のバイブが揺れた。誰だよ。こんな時に。ディスプレイを見るとミカミの文字が見えた。げ、あいつだ。小中高と一緒で腐れ縁の三上崇。取敢えずシカトは出来ない。
「三上?」
「おー、陽平? 俺、おれ。ごめん。遅くなって」
「はっ?」
凄い勢いで携帯を奪って、香苗が話し始めた。
「三上君? うん、うん。本当に来てくれたんだ。今ね、ツツジのところにいるの。入って直ぐだよ。うん、待っているね」
やけに大きな声で興奮して話して、一方的に電話を切った。何だ、これ。
「三上君、来るって? 良かったね」
いつの間にか、笑顔でめぐたんが傍に来ていた。全然良くないよ。
「めぐちゃん。三上も誘ったの?」
「うん。来られる事になったら、陽平君に電話してもらうように言っておいたの」
涼しい顔をして、三上が大股で歩いて来た。
「おう、お待たせ。悪い、遅くなった」
待ってねーよ。
「三上君」
香苗は三上を見止めて、みるみるうちに顔が赤くなり、はにかんだ笑顔になった。
 俺のデートの計画がどんどん壊れていく。本気でやるせない。朝から何も食べてないし、腹が減ってきた。こうなったらやけ食いだ。
めぐたんのお弁当を思い出してまたテンションが上がる。
「腹減ったから、まずはお昼食べようぜ」
お昼までには早いけど、食べないとやっていられない。
 バラ園の先にある木陰のベンチに腰かける。
「めぐちゃん、いただきます」
ついに、ついに、めぐたんのお弁当。蓋を開ける手が震える。開けてまず目についたのは、い、いか。やけに茶色いお弁当の真ん中にはイカの甘辛煮が入っていた。後は白米。
「お~、すげえ美味しそう」
香苗のお弁当を開けた崇が歓声を上げた。中を覗くと卵焼き、サラダにミニトマト、ピーマンの肉詰め等色とりどりだ。
「めぐみちゃんのは? イカ美味しそうじゃん。俺、イカ好き」
そう言って崇は俺のお弁当からイカを一つ取って食べ......た!
「お前、食べるなよ」
本気で殺意が湧いた。
「私、今日寝坊しちゃって。ごめんね」
「全然いいよ。旨いもん」
これ以上、誰にも食べられないように一気にかっこんだ。
 バラを見て、温室に入って、一通り見て周ってそれなりに楽しかった。植物園を出た時にはまだ明るかった。このまま帰るのはもったいない。今日は不完全燃焼だ。そして俺はいい事を思いついた。
 みんなと別れてから深大寺に行った。そこには見慣れた先客がいた。
「香苗、何やってるんだよ」
「別に。邪魔しないでね」
それはこっちのセリフだ。俺は神経を集中させた。
「神様、どうかどうか、めぐたんと結婚させてください」

「ねえねえ、聞いてる?」
ハッと我に返った。目の前には大盛り二人前の蕎麦を食べ終えた嫁が訝しげにこちらを見ていた。久し振りに深大寺に来て、十年前のデートを思い出していた。マジマジと嫁の顔を見る。めぐたんとは似ても似つかない。
「この前の結婚式良かったね。ほら背の高い」
「崇と香苗だろ」
「そうそう」
そうだ。あの日、一緒にお参りした香苗の願いは聞き入れられたのだ。しかし俺は......。
「あ~、美味しかった~。お腹いっぱい」
「おい、その腹はなんだよ。今度からカエルって呼ぶぞ」
待てよ。ちょ、待てよ。
「なあ、お前学生時代、何て呼ばれてた?」
「どうして? 恵子の恵の字からとって、めぐたん。私、恵って名前に憧れてたから」
 ちょっと恥ずかしそうにバツの悪そうな顔をして言った嫁が、なんだか可愛く見えたから不思議だ。そうか。そうだったのか。深大寺の縁結びの神様は、俺の願いも叶えてくれていたんだ。ありがとう、神様。


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<著者紹介>
だりん(神奈川県秦野市/32歳/女性/会社員)

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