夏目良介は毎週日曜日になると、とある大きな公園に似顔絵を描きに出かけるのが習慣となっていた。その日はまだ5月だというのに初夏の暑さ。夏目は太陽の日差しを避けるようにして、樹木の木陰に折りたたみ椅子を置いて陣取った。夏目が持参しているのは小さなスケッチブックとデッサン用の3Bの鉛筆と色鉛筆のセット。そして最後に「似顔絵、書きます」と立て札を立て、その隣に似顔絵のサンプルを並べる。通常は午前中の客足は少ないが、その日は立て札を立てると直ぐに「書いてもらえますか」と髪の長い女性が声をかけてきた。年の頃は三十前半と言ったところだろうか。瞳が綺麗な美しい女性だった。首元にはクロスのネックレスが控えめに光っていた。
 「どうぞ、こちらにお座りください」と夏目は目の前の折りたたみ椅子に座るよう女性に促した。
 「何かご希望はありますか。実際よりも美しく書くことも出来ますよ。でもお客様はお綺麗だから、ありのままで問題ないですね」と夏目は笑って言った。女性もつられて笑った。
 夏目はこうして似顔絵を書くようになってから三年になる。人間の顔は不思議なものだ。生まれ持った顔だけでなく、その人の心の動きを表情に表れてくるのだ。彼女は笑ってはいるが、表情に憂いがある。
 「お客様はご結婚されているんですか」
 「ええ、結婚して5年になります」
 「お客様はお綺麗だから、旦那さんが羨ましいですね。私も昔、結婚していたのですが、別れてしまいましてね。だから今は週末になると、一人は寂しくて似顔絵を描きに来るんですけどね」と夏目は笑って言った。
 「絵はどちらで勉強されたんですか」と女性が尋ねてきた。夏目はデッサンを続けながら答える。
 「私は昔、中学校で美術の教師をしていたのですが、いろいろありまして。今は辞めて、絵画教室をやっているんです」
 「そうなんですか」
女性は夏目の言葉を聞くと、何かを思い出したような表情をしたが、何も答えなかった。
 雑談をしているうちに、似顔絵は出来上がった。女性は「ありがとうございます」と言い、足早に去っていった。
 夏目は三年前に教師を辞めた。その頃、夏目は学級の担任を持っていたが、生徒の中でいじめがあった。夏目がどんなに手を尽くしてみてもいじめはなくならなかった。とうとういじめられていた生徒は不登校になり、自殺未遂をしたのだ。夏目は教師失格だと思った。それから夜も眠れず、慢性的な疲れの中、何をするにも意欲もわかず、授業でも進路指導でも、失敗をすることが多くなった。保護者からもクレームも来るようになった。病院に行くとうつ病と診断され、休職を奨められた。もう教師は続けられないと、学校を去ったのだった。同じ時期に妻も去っていった。あまり考えたくないが、屍のような目をした自分に失望して、去って行ったのかもしれない。
 次の週も夏目は公園の同じ場所に陣取った。すると立て札を出す前に先週やってきた女性が、目の前に現れた。先週と同様に「書いて貰えますか」と尋ねるので「勿論」と夏目は答えた。夏目が彼女を書き始めると彼女は「あの夏目先生ですよね」と尋ねてきた。もしや、この女性は自分の生徒だったのかもしれない。夏目は頭の中の記憶をたどった。今、彼女が三十歳前半としたら、自分が新任教師の頃の生徒であるはず。ふと頭の中に美術室の映像を思い出した。二年生の夏休み明けに転校してきて、次の冬休みに入る前に両親の転勤で転校をしていった美術部員。おとなしくて、髪の毛を二つに束ねていた。思い出したのは中学生の幼い顔であるが、印象的な瞳は、目の前の彼女と一緒だった。
 「もしかして野口裕子さん?」
 「ええ、夏目先生もお元気そうで」
 「女の子は変わるものだね。あどけない表情をしたお嬢さんが今や、こんな美しい女性になっているとはね、びっくりしたよ」
 「私、そんなに変わりましたか」
 「変わったよ、いい女になった、あはは」
夏目は照れくさそうに笑った。裕子も笑った。
「夏目先生はさほど変わっていませんよ」
「そんなことないさ、もう四十を過ぎたんだ、もう立派なおじさんだよ」
そう言うと裕子も頬に笑みを浮かべた。スケッチブックには、はにかんだ笑顔をした裕子が現れた。夏目は裕子に作品を渡した。
「なんか、先週書いてもらったのより、元気そうに見える」と裕子は呟いた。
「うん、今日の君の笑顔は最高だったからね、それを書いたんだよ」
「ありがとうございます、大切にしますね」と裕子は言ってから、暫く絵を眺めていた。
「ところで旦那さんはどんな人なんだい?」と夏目は美しい女性に成長した裕子の相手が気になった。もし裕子が独身であったなら、不覚にも交際を申し込みたいと、ふと頭によぎったからだ。でも裕子は幸せな結婚をしていて、こんなおじさんには用はないだろう。
「言いにくいんですけど、今、離婚調停中なんです」
「ごめん、変なことを聞いてしまったね」
「いいんです、本当のことなんですから」と裕子は言ってから、俯いて唇を噛みしめていた。
「あの、私、また美術部みたいに写生したいんです。ほら課外活動で神代植物公園に行ったじゃないですか。来週末も晴れそうですから、お花でも写生してみたいんです。でも一人じゃなくて、先生も一緒に」
突然の裕子の誘いに夏目は面食らったが、「神代植物公園か。いいね」と答えた。昔の教え子と昔話をするのも、たまには良いではないか。そう自分に言い聞かせて。
「じゃあ来週の十時に神代植物公園の正門で待ち合わせしましょう」と裕子は言い、絶対来てくださいね、と念押しをして、また来週に、と告げるとまた足早に去っていった。
約束の日までの一週間、夏目は裕子のことを思い出していた。裕子はすごく絵が上手い訳ではないけれども、大胆で味のある作品を描く生徒だった。夏目が書き方のアドバイスをすると、はにかんだ顔をして、目をそらしたりした。その瞳はあの頃から綺麗だったように思える。
夏目は約束の時間の十分前に正門に着くと、既に裕子はたたずんでいた。「待たせたかな」と夏目は謝ると「私、少し早く来すぎちゃいましたね」と裕子は笑った。
5月はバラの花が盛りで、多くのお客さんで混雑していた。二人はお客さんの邪魔をしないような場所に陣取って、バラの写生を始めた。二人は色とりどりのバラに圧倒されながら、小さなスケッチブックに、この壮大な視界を収めようと、無心でデッサンを始めた。
少し時間が経過したあと、夏目は裕子のスケッチブックを気づかれないよう覗いてみた。おおらかに書かれたバラがカラフルな色鉛筆で色づけられ、スケッチブックから溢れそうになっている。とても良い作品に思えた。少し視線を上げてみると裕子の美しい横顔が見えた。夏目は、自分のスケッチブックのバラに裕子の横顔を添えて書き始めた。
「先生、描けましたか」
裕子はもう描き終えたようだった。夏目が時計を見ると、もう14時近くになっていた。
「もう少し。もうちょっと待ってね」と夏目は裕子の瞳をもう少しで書き終えるところだった。「終わった」と夏目が言うと、裕子は自分のスケッチブックの絵を夏目に見せた。さっき盗み見した通り、大胆でカラフルなバラ畑がスケッチブックに広がっていた。
「先生のも見せてくださいよ」と裕子が言うが、夏目は「後でな」と言ってから「それよりお腹が空いただろ。深大寺そばを食べに行こう」と続けた。
神代植物公園の隣には深大寺という由緒正しいお寺がある。二人は深大寺に向かった。樹木の緑が鮮やかで、用水路には美しい水が流れている。何処かしらから聞こえてくる小鳥のさえずりも気分を爽やかにしてくれる。
また、ちょっとした観光地のようになっており、お土産屋さんや露天の団子屋や饅頭屋もあり、多くのお客さんで賑わっている。ゲゲゲの鬼太郎を書いた水木しげるが調布在住ということで「鬼太郎茶屋」もある。
それらの店が立ち並ぶその中でも有名なのは深大寺そばだ。確か美術部の課外活動の後も、そばを食べた記憶がある。夏目はその頃の記憶を頼りにして、ある一軒のそば屋に入った。「お腹が空いただろ」「ええ、もうペコペコです」と二人は店内に入るなり、ざるそばを注文した。「おいしい!」と二人は目を見合わせながら、運ばれてきたそばをすすった。
「ところで先程の先生の絵見せてくださいよ」と裕子が催促をしたので夏目はスケッチブックを裕子に渡した。裕子がスケッチブックを開くとバラに囲まれた裕子の横顔があった。夏目は自分の顔が赤くなるのを感じた。
「あの...」裕子の目に涙が浮かんでいるように見えた。「私、昨日、正式に離婚できたんです。それで、とりあえず広島の実家に帰ろうかと思うのですが」
「そうなんだ」と夏目は寂しくなった。裕子に会えるのは、これが最後なんだろうか。
「でも、先生。私、先生のことが好きでした。また戻ってきます。だから、またこうやって一緒におそばを食べてください」
裕子の美しい瞳から涙が零れ落ちていた。
「勿論。いつまでも君を待っているから」と夏目は裕子をしっかり見つめて答えていた。

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<著者紹介>
花村 かおり(東京都日野市/36歳/女性/会社員)

「お豆腐買ってきてって言ったら絹豆腐買ってきたのよ。」
紗奈恵が言った。「麻婆豆腐作るって言ったのに、絹買ってくるなんて。」
頭を撫でられながら、又吉は大きく欠伸をした。紗奈恵の膝でまどろみながら、例のごとく〝たかしくん〟の話を聞かされている。
猫は五十年生きると尾が二股に分かれ、化け猫となる。これを猫又という。何年生きたか定かではないが、御多分に洩れず又吉は猫又である。特定の名を持つ訳ではないが、深大寺周辺の猫たちから畏敬の念を込めて、又吉と呼ばれていた。紗奈恵だけは又吉のことをねこまと呼んだ。猫又といっても、見た目はそこらの猫となんら変わりない。二つに分かれた尾は、ある姫君に憑りついた際佐々木の何某とかいうお侍に切って落とされた。それ以来又吉には尾っぽがない。雉色の引き締まった顔に同じく淡褐色の胴体、臀部についた尾の名残。これが又吉の特徴である。
紗奈恵と又吉が出会ったのは、花もすっかり落ちた長雨の季節である。又吉は住処としている元三大師堂の縁の下の蒸すような暑さに耐えかね、堂の縁側に寝そべって降り続く雨を眺めていた。時折大きな雨粒が新緑に跳ね返り、又吉の雉色の毛を湿らせた。
長雨は人々の信心をも洗い流してしまうらしい。この時期参拝客はめっきりとその数を減らす。可愛らしい紺色の傘をさした紗奈恵が本堂の方から歩いてきた時、又吉は坊主以外の人間は久しぶりだな、と思った。傘ではっきりとは見えなかったが、すらりとした細目の美人である。紗奈恵は堂の前で暫くうろうろしてから傘をたたみ、縁側へと上る階段の脇に寄り掛かった。雨の日に物好きな。そう考えながら又吉は大欠伸をした。
しばし二人は無言で雨を眺めていた。紗奈恵は何やら物憂げに見えたが、又吉にとってそんなことはどうでも良かった。
「おい。ねこ。」ふいに紗奈恵が言った。けれど、又吉はいきなり絡まれるのには慣れっこである。煩くなる前に縁の下に退散してしまおうと、さっさと腰を上げた。ひょ、と地面に飛び降り縁側の下に潜り込む。
この時どうして自分が振り返ってしまったのか、未だに又吉には分からない。しかし、首を後ろに捻って見遣ると、女は本当に悲しそうで、そんなものは散々見てきたはずの又吉も、話くらい聞いてやってもいいかな、と思ってしまった。
トット、と階段を上がり、再び縁側に寝そべると、紗奈恵は嬉しそうな顔をした。
「ねこまって呼んでいいかな。」
 猫はどうでもいいよ、というふうに目を細めた。紗奈恵は勝手に納得して、おもむろに〝たかしくん〟の話を始めた。その日は紗奈恵の二十六歳の誕生日であるらしかった。
〝たかしくん〟は、一昨年国分寺にある美術大学の油絵科を卒業したが、卒業後しばらくしても職が見付からなかった。その年の暮れにとうとう家賃が払えなくなり、アパートを追い出された。その時から、紗奈恵のマンションで居候をしている。 最近では絵を描くのに集中すると言って、職を捜すのをやめてしまった。だからと云って本当に絵を描くわけでもなく、一日中家でぼんやりとしている。
  紗奈恵は日中働いているから、せめて家事だけでもとたかしくんにお願いした事もあったが、洗濯機一つまともに使えない。もちろん収入がないわけだから、生活費は全て紗奈恵もちである。これだけでも、黙って話を聞いていた又吉にとっては十分問題があるように思われた。しかし、どうやら紗奈恵はたかしくんの生活ぶりについてはなんの不満も抱いていないようだった。「たかしくんはね、すっごく才能があるんだよ。」途中途中で紗奈恵は何度も嬉しそうに語った。「たかしくんは、家事なんて出来ない方がいいんだ」「お金もらえてもたかしくんの才能が発揮できないなら意味ないよ」
  紗奈恵が怒っているのはそんな事に対してではなかった。問題はたかしくんが紗奈恵の誕生日をきれいさっぱり忘れていたことだった。いつものたかしくんは、何かの役に立つわけではないにしろ、紗奈恵にとってはよく気のつく優しい彼氏であった。けれど、その日は唯一の取り柄たる気遣いを忘れてしまったらしい。忘れたふりをしているのだろうと、何か言ってくれるのを朝から楽しみに待っていた紗奈恵に対し、たかしくんは事もあろうか「今日は十九日だっけ」と尋ねた。六月二十三日だよ、と紗奈恵は小さく答えた。たかしくんはしまったという顔をしたが、よっぽど慌てたらしく、あたふたするばかりで何も言えなかった。紗奈恵はそんなたかしくんと食べかけの冷やし中華を置いて、無言で散歩に出た。
  そこまで話して、紗奈恵は又吉に「ねこまはどう思う」と尋ねた。又吉は取り敢えず、にゃあと応えた。紗奈恵は又吉の「にゃあ」について何やら考えを巡らしていたが、ねこまの言う通りだね、と残して去っていった。
  妙な人間だったな。又吉はそう思ったが、それ以上何も考える事なく丸くなり眠った。
  長雨の季節はとうに終わり又吉が雨を恋しく思い始めた頃、紗奈恵は再び現れた。煮豆の入ったタッパーをトートバッグから取り出し、常香楼の横でうとうとしていた又吉に向かって、「この前のお礼です」と言って差し出した。又吉はタッパーから煮豆を食べた。夏も盛りだというのに、参拝客がひっきりなしにやって来ては、二人の頭上でもくもくとやっていた。
  「ねこまが早く帰らないと冷やし中華がのびちゃうよ、って言ってくれたお陰で、たかしくんと仲直りできたんだよ。」
  紗奈恵はことことと笑ったが、でもねと続けた。たかしくんの見事なまでのひもっぷりを許容しつつも、こぼしたくなる愚痴は多々あるらしい。又吉はその日もたかしくんが煮豆を残した話やら、黙ってバルサンを焚いた挙げ句消防車を出動させた話やらを聞かされた。
  二人の関係はすぐ切れてしまいそうでありながら一向に切れることなく、秋が来て、冬が来た。又吉は大抵二つ有る堂のどちらかでまどろんでいたから、紗奈恵にとっては見付けるのが容易だったのかもしれない。地面が冷たくなってくると、又吉は自然と紗奈恵の膝で話を聞くようになった。
  聞くにつけ、たかしくんは紗奈恵に釣り合わないように又吉には思われた。紗奈恵は多少間の抜けた女ではあるが、たかしくんへの献身は本物で、自分の面倒すらみられない相手とずうっといるなんざ、人間てのは可笑しなものだなと又吉は思った。
  そうして一年弱の年月が過ぎたころ、又吉は紗奈恵のためにたかしくんを遠ざけようという気持ちを起こした。もとより猫であるが故の気紛れかもしれないが、煮豆やふろふき大根の恩もある。それに当方些かひまである。本堂の裏で紗奈恵の姿に化けると、臭いをたどって紗奈恵の家へと向かった。
  たかしくんを部屋から追い出し、二度と近付かぬようきつく言っておこう。幸いその日は月曜日で、紗奈恵は会社へ行く前に又吉のところへ煮干しを届けていた。服装も含めて変化は完璧である。
紗奈恵のマンションまでは、又吉の住む深大寺から十五分程かかった。ドアノブを回して扉を押す。紗奈恵が言っていた通り、今日もたかしくんは鍵をかけていないようだった。いきなり扉が開いて驚いたたかしくんが、奥の部屋から飛び出してきた。絵の具にまみれ伸びきった服を着て現れたたかしくんを見て、予想通りにへらとした優男だな、又吉は思った。あごで外に出てくるよう促すと、たかしくんは戸惑いながらもスニーカーを突っ掛けて又吉の後を追ってきた。階段を一階まで降りたところで、又吉は今すぐ家から出ていって欲しいと伝えた。たかしくんは数回目をぱちくりさせたが、ふいに
「もしかして紗奈恵さんのお姉さんですか。」
と尋ねた。驚いたのは又吉である。たかしくんの言葉の意味も分からず、どうして、とつぶやいた。それを聞いて、たかしくんはどうしての後ろに「気付いたの」を補ったらしい。
「いやあ、だって御姉さん紗奈恵にそっくりですもん。最初は知らない人が入ってきてびっくりしましたけど。」と言って、ぱあっと嬉しそうな顔になった。
  変化に自信のあった又吉は言葉も出ない。「本当にそっくりですね」とか「双子ですか」とか「紗奈恵さんにどっきりを頼まれたんですか」とかいうたかしくんに、ああとかすんとか適当な相づちを打って、早々と逃げ帰ってきた。神代公園の池に自分の姿を映してみたがどう見ても紗奈恵そのものである。それに永らく人に化けていなかったとはいえ、又吉の変化を見破ったものは未だ嘗ていない。それをあんな直ぐに見破られるとは。
  次の日の夕刻、紗奈恵が境内にやって来た。元三大師堂の階段に腰掛け、ふわふわと笑いながら又吉の方を眺めている。
  「昨日たかしくんが私のお姉さんに会ったんだって。私にそっくりだったんだって。私に御姉さんなんていないのにね、ねこま。」
  そう言って、またことことと、それはそれは愉しそうに笑った。それを見て、又吉はあの日自分が何故振り返ったのかが、少し解ったような気がした。
  もう一年がたって、たかしくんは小さな絵の賞をとった。にやにやが抑えきれない紗奈恵が写真を見せてくれた。写真越しに見るたかしくんの絵には、背の高い一面のすすき野原でことことと笑う紗奈恵が描かれていた。紗奈恵には最初から分かっていたのかもしれないな。そう考えてから、又吉は自分も焼きが回ったものだと考え直した。それから伸びをして、大きな欠伸をした。

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<著者紹介>
松井 美樹(東京都世田谷区/22歳/男性/学生)

 迎えに行こうか、という俊介に、由里は意外にも拒否の言葉を返してきた。
「ひとりでそこへ行ってみたいの。まだ、全部が壊れているわけじゃないのを、知って貰いたいから・・」
「分かった。じゃ、待ってる」
 言ったものの、正直心配だった。ホントに来られるのかな?と。既に約束の時間を一時間過ぎていた。それで、由里の携帯に連絡を取ったのだった。九時九分甲府発の「あずさ」に乗ったから、順調に行けば立川着一〇時一五分、そこから中央線で三鷹、そしてバス。二〇分ほどで深大寺バス停に着く筈だ。約束の時間はゆとりを持って十二時半とした。だが、一時半過ぎても由里は現れなかった。
「いま、どこにいるの?」と聞いたが、「分かんない」とだけ答えて電話は切られた。

 甲府に住む由里から突然電話があったのは、五か月ほど前だった。
「あ、あ、ええと、あの・・、オジちゃん?」
 まるで幼児のような、たどたどしい声が受話器から聞こえた。
「お、おばちゃんじゃなくて・・、よ、よかった。ポンポン言われるの・・、苦手だから」
 随分長い時間をかけ、由里はそう言った。以前とは別人のように、呂律が回らない。
「どうしたの・・?」
 俊介は戸惑いながらも優しく言った。
「あ、あたし、う、鬱になっちゃって・・」
 投薬治療を続けている、と言った。
「ウツ・・?鬱病・・?そうだったのか・・」
「は、話すの、にが、苦手になっちゃって。お、オジちゃん、メル・・、メルアド教えて・・」
 薬の副作用なのか、由里の言葉は著しく明瞭度に欠けていた。俊介が改めて自分の携帯のアドレスを告げると電話は一方的に切れた。
そう言えば、ここ二年ほど由里から年賀状が届いていなかった。母親似でマイペースなところがあるからしようがない、と思っていた。今は博多にいる由里の母(妻の妹)曜子に聞いても、「あの子気紛れだから」と素っ気ない返事だった。実の母娘ながら二人は上手く行っていない。大半の原因が曜子にあるのは間違いなかった。
 曜子は奔放な性格で、三度夫を変えている。最初は高校の同級生。卒業してまもなく同棲、生れたのが由里だった。しかし長続きせず、由里を義父母に預け、俊介夫婦を頼り長崎から単身上京。近所のスーパーに勤めた。が、その出入り業者の男と忽ち懇ろになり、一緒に暮らし始め、次女香里が生まれた。これで収まるかと思いきや、スーパーの社員旅行先の割烹料理店の板長と意気投合。香里を連れ、三人で博多へ駆け落ち。俊介夫婦は、後始末に大変な苦労をした。一番の被害者は由里だった。この間、義父母の依頼で俊介夫婦が育てた。曜子は母の役割を放棄。見かねた俊介が曜子に連絡、由里を引き取らせた。だが、彼女は新しい父に懐かず、高校を出ると家を出、再び俊介の許に来た。短大に通わせ、都内の中堅の食品専門商社に就職させた。
 由里のたっての希望もあり、彼女の結婚式の両親の役割は俊介夫妻が勤めた。曜子と香里も式には出たが、曜子の現夫は来なかった。その後の披露宴で、実母の曜子が親戚の席に座るという、不思議な光景が現出した。
 嫁ぎ先は、勤め先の会社と取引のあった果樹園。後取り息子が由里を見染めたのである。
 由里も新しい環境に慣れ、一所懸命頑張っていた。男の子も生まれ、その写真と共に小まめに近況報告を寄越した。が、三年ほど前から、途切れ始め、今日の電話である。
「おばちゃんには、絶対言わないで!」
 由里は最後にそう言った。そのときだけ、かつての由里の声音に変わっていた。
《死にたい、死にたい、死にたい・・》
《くやしい、くやしい、くやしい・・》
《ゆるさん、ゆるさん、ゆるさん・・》
 それからはメールの洪水だった。
 外聞が悪いと舅に言われ、家からバスで一時間以上の別の町の病院に掛かっていること。食べると吐くので、モノが食べられない事。精神の病というので、近所の噂になり後ろ指さされていること。働かせるだけ働かせて、病になった途端、舅姑が冷たい目でみること。夫が頼りないこと。息子が唯一の味方であること。その合間に、俊介と二人東京ドームに野球を見に行った事、取引先へ出向いた帰りの俊介に、偶然、地下鉄の乗り場で遭遇、青山一丁目で降り、イタリア料理を食べて帰った事、初給料後の休日に花や樹木が好きな俊介に連れられ、神代植物公園を散策、桜の下で持参した由里の手作り弁当を分け合って食べた事など速射砲のように、メールに吐き出してきた。吐き出すことで自分の感情を宥めているようなところがあり、俊介は一つ一つ丁寧に返事を出した。励ますのは、鬱病の事態を悪くすると聞いたので、出来るだけ、ゆったりリラックスするような言葉を選んで送った。由里からのメールの結びには、必ず「最愛のオジちゃんへ」という、幼い頃から呼びなれた呼称が添えられていた。

 約束より二時間遅れ。久しぶりに会う由里。特徴のクルっとした眼は昔のままだったが、拒食の所為か窶れが目立っていた。
「オジちゃんに会いたい。そうすれば病気が良くなる気がする。街中は駄目だけど、花や樹のある植物園なら大丈夫」と言ったので、そうしたのだが、バスの中で気持ち悪くなり、何度も下車し、乗り直したので遅くなったのだ、と由里は言い訳した。
 武蔵野の面影を残す植物園の雑木林。フィトンチッドに囲まれ、二人は歩いた。
「眩しかったなあ」
 俊介は、どう話しかけていいか分からずそう言った。
「な・・、何が・・?」
「由里が・・、だよ。あのときの・・」
 スポーツ万能、すっかり女らしくなった由里のすらっとした姿形。眩しかった。就職して、初給料の月末の休日。満開の桜を見に、弁当持参でここに足を運んだ。共働きだった妻は、所用で来られなかった。
「あ、あ、あんときは二十歳よ。い、今、三十九。もう、オバアチャン、だもの」
 二十歳と五十歳だったのが、今は不惑と古希間近になっていた。
「あ、あんとき、みたく、せ、背中、押しながら、あ、歩いてくれる?オジちゃん・・」
 そう言えば、新社会人になった由里の背中に、おずおずと触れながら、励ますように歩いた。今日もそうして欲しいというのか。
 そっと由里の背中に触れてみた。大分骨ばっているように感じ、ハッとした。二十年近くの歳月は由里の身体を確実に変えていた。
「少し・・、痩せた?」
「うん・・。で、でも、オジちゃん、が、がっかりさせないよう、い、一所懸命食べてる」
「そ、そうか・・。食べられるか?」
「い、一所懸命・・。あの、オジちゃん、す、すぐ、し、心配するし・・」
「まあね・・、でも嬉しいな」
「母さんのこと言われ、それ、それで落ち込んで、こ、こんなになっちゃって」
 由里は、姑に母の所業を足ざまに言われたのが、病になった原因だ、と言った。
「お母さんはお母さん、由里は由里だよ。関係ない。由里は変わらずいい女だ」
「お、お世辞じゃなく、そう思う?」
「思ってるさ。由里が嫁に行ったとき、ホント落ち込んだ。まるで恋人、誰かに取られたときみたいにね・・」
「ほ、ほんと・・?し、信じていい?」
 並んで歩く、青白かった由里の横顔に、少しだけ赤みがさしたように思えた。
「ホントさ。こんな可愛い娘、取ってく男なんて、泥棒って・・」
「あたし、ホントはオジちゃんのお嫁さんになりたかったのよ。と、歳関係なく。でも、おばちゃんがいるから・・。無理だし・・」
「・・・・」
 虚を突かれたというより、自分の本心を見透かされたような動揺があった。
「お、怒った・・?変なこと言って・・」
「い、いや、そう言って貰えると、こんな歳でも嬉しいものだけど・・」
「これ、ホント。で、でも、おばちゃんがいなけりゃ、あたし、オジちゃんの家に、来れなかったんだし・・、ふ、複雑だよね」
「まあ、そうだね・・。ただ、ここんとこ、由里の事心配してたのは、事実だ・・」
「オジちゃん・・、そ、それって、ホントに信じていいのよね?」
「当たり前じゃないか・・。由里は生きる希望。ウチには子供いなかっただろ、由里は娘と同時に、恋人みたいなものだった・・」
「じ、実を言えば、オジちゃんに会った後、し、死のうと思ってたの。それで、でも、い、今の言葉聞いたら、し、死ねなくなりそう・・」
 由里の眼から、大粒の涙が滴り落ちた。その涙をハンケチで拭いながら、他人ばかりの中で、辛い思いしてるんだな、と胸が痛んだ。
「由里が死んだら、何を頼りに生きて行ったらいいのか、分からなくなってしまう」
「そ、そんな・・」
「自分で自分の始末、つける積りだったかもしれないけど、大きな間違い。(息子の)俊太郎君だって、僕だって、由里を心から思っている事に変わりはないんだから・・」
「オジちゃん、ハ、ハグしてくれる?」
「いいよ。こんな爺さんでよければ」
「そ、そんな・・。あ、あたしにとっては、え、永遠の、ボーイフレンドだもの」
 二人は、柔らかく抱擁を交わした。俊介は由里の額に軽く唇をふれた。瞬間、由里の鼓動を感じた。『生きる』と言う意思の鼓動を。ホッとした。俊介はあのときと同じように、由里の背に手を添え、おずおずと歩き続けた。

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<著者紹介>
相原 文生(神奈川県相模原市/72歳/男性/無職)

 家族旅行にしたらもっと楽しそうな場所あったでしょ。娘は朝から不機嫌だった。三年ぶりの家族旅行。家族旅行と言っても、娘と私と、二人きりの旅行だった。娘は今年、中学二年になった。いわゆる思春期の、一番難しい年頃だ。それも承知で、娘を無理矢理旅行に誘った。私はもっと娘の反抗を予想していた。もちろん反抗されては困るのだが、案外簡単に、といっても、ごく素っ気ない態度で「べつにいいんじゃない」と、娘は私との旅行を承諾した。
 娘も、娘なりに気を使ってくれたのだ。私の妻であり、娘の母親である町子が死んで、ちょうど一年が過ぎた。長い闘病生活の末、町子はあっけなくこの世を去った。モルヒネのおかげで、ほとんど苦しまずに最期を迎えたが、闘病していたころは、さぞ痛みもあっただろう。最期の最期は、もう意識も混濁して、私や娘の言葉を聞かずに天国に行ってしまった。想像していたよりも、ずっと静かな旅立ちだった。闘病はすでに始まっていたが、まだ少しは薬で進行を抑えられていたころ、三人で旅行に出かけたことがあった。それがちょうど三年前のことだ。あまり遠出は体に悪いので、車で、二時間ほどの茅ヶ崎の海に行った。日帰りで充分だったけど、妻がどうしても旅行気分を味わいたいというので、少し奮発して、高いホテルで一泊した。あれが、家族三人での最後の旅行になった。
 妻が死んで、一年がたった。正直、この一年が早かったのか遅かったのか、自分でもよくわからない。時間が止まってしまったような気もするし、日々が濁流のように自分の体を押し流していった気もする。時々、自分たちの日常が、どんなものだったのかわからなくなる事がある。娘も、一見、これまでの日常を取り戻したように見えるが、その心の中は私にもわからない。狼狽しきった私よりも、よほどしっかりしているように見えるのだが。
 何か区切りをつけようとしたわけではない。ただ、ふらっと出かけてみたくなったのだ。昔は、家族三人でよく出かけた。ただのドライブだったり、有給をふんだんにとって、何泊もする大旅行だったり。彼女、妻は旅行が大好きだった。娘が産まれる前も、まだ二人が恋人同士だったころも、いろいろな場所に行った。
 娘を連れて、妻との思い出の場所に旅行に出かけることも考えた。だけど、私はあえてそれをしなかった。まだ思い出にかえたくなかったから。まだ、自分も行ったことが無い場所。娘の機嫌を損ねたらどうしていいかわからなくなるので、なるべく近場で、良い場所。のんびりできそうな場所。
 そんな場所がどこかにないかなと、インターネットで調べていて、偶然、深大寺周辺を発見した。ここなら家から車で二時間ちょっとだ。蕎麦も美味そうだ。ぼくは蕎麦が大好きで、かならず行き先に、蕎麦屋のある場所を選ぶことにしていた。深大寺周辺には、植物園もある。そろそろ花菖蒲が咲き始める季節だった。妻は花菖蒲が好きだった。おっ、この深大寺は縁結びで有名なのか。娘に、良い彼氏が出来たらいいな。いや、まだ娘には早いか。でも、いつかは娘も結婚するんだな。そんなことを考えていたら、私はどうしても、この深大寺に行ってみたくなったのだ。
 娘には行き先は内緒にしていた。娘は、娘なりに気を使って、一緒に出かけることを承諾してくれたが、父も父なりに気を使ってくれて、きっと遊園地か、どこか買い物でもできる場所に連れて行ってくれるものだと、娘は思っていたらしい。それで、着いてからずっと不機嫌なのであった。
「お父さんがお蕎麦食べたいだけじゃん」
 そう言って、娘も蕎麦をすすった。蕎麦の味は気にいったらしく、いつもはなにかと好き嫌いの多い娘であったが、残さず、蕎麦をたいらげた。やっぱり子どもにはちょっと退屈すぎたかな?そう私が言うと、娘はキッとこちらを睨んで「もう子どもじゃないんだから。私だってお寺とか好きなんだよ。知らなかったの?」と声を荒げた。私は怒鳴られたにも関わらず、少し嬉しくなった。妻も、こういう静かな場所が好きだったのだ。人の多い都会でのショッピングや、列にずっと並ばなくてはならない遊園地とかよりも、自然の、緑の匂いのする場所が大好きだった。闘病に入る以前から体のあまり丈夫でなかった妻は、旅先でもよく体調を崩したが、花の香りを嗅ぐと不思議と回復したものだった。
 いろいろな場面を思い出しながら、私と娘は、深大寺周辺を散策して回った。
 木々を風が撫でるたびに、緑の良い香りが鼻からすっと登ってきた。私と娘は、さして会話するでもなく、少しだけ娘が斜め前を歩き、私があとを追うように歩いた。ふと、娘の後ろ姿が、生前の町子の姿と重なった。
 もっといろんなところに行きたかった。町子が逝ってから、決して考えないようにしていた想いが頭をよぎった。ああダメだと思った。思った瞬間に、もう堪えることができなかった。場違いだと自分でも分かっていたが、涙がこぼれて、止まらなくなった。
 前を歩いている娘に気づかれないようにしないといけない。私はわざと歩む速度を緩めて、お土産などを見るふりをした。
 娘はずんずん先に行ってしまう。声が詰まりそうになるのを誤魔化して、私は「おーい」と、娘を呼びとめた。私の声に気づかないのか、娘はさらにずんずん先に行ってしまう。初めての場所なのに、道など知らないはずなのに、娘は知った道のように、ずんずんずんずんと、深大寺のある方へと進んで行く。
 まるで私の前から消えてしまうかのように。
いけない。それはいけない。私にはもうおまえしかいないのだ。私は冷静な気持ちでいられなくなった。涙はもう止まったが、また新しい涙が溢れそうになった。それをなんとか堪えて、私は走りだしていた。
 娘を一瞬見失いそうになったが、もうその先は深大寺だった。きっとここを上ったに違いない。私はそう確信して、境内に入った。
 娘はなんじゃもんじゃの木の下にいた。私も初めて見る木だったが、事前にネットで調べていたので、名前だけは知っていた。
「急に先に行くからお父さん心配したぞ」
 そう言おうと思って、娘に近づいたら、ふいに振り向いて、娘が先に「お父さん泣いてたでしょ?」と言った。
「え...。いや、そんなことは...」
 私は言葉に詰まった。
「いいんだよ別に。お母さんが死んじゃってから、お父さん一度もわたしの前で泣いてないじゃない」
「そうだったっけ?」
「うん。わたしはいっぱい泣いたけど、お父さんはずっと我慢してた」
 まさか娘にそんなことを言われるとは思ってなかった。私はどう答えていいのか分からなくなって「大きな木だね」なんて、間のぬけた返事をしてしまった。娘も「変わった花の形してるね」と答えたきり、もうそれ以上はなにも言わなくて、しばらくふたりでなんじゃもんじゃの木を見上げていた。
「お父さん、ここ、縁結びのお寺なんでしょ?お父さんに良い人が見つかるように拝んであげようか」
 娘が言った。
「ばか!オレはまだ母さんを忘れてないんだぞ。それよりおまえの方も彼氏できるように神様に頼んだらいいじゃないか」
 私は冗談まじりで答えたつもりだったが、娘は哀しそうな表情になって「ごめん。まだ早いよね。お母さんももう少し一緒にいたいよね...」と、うつむいた。
「いや...。そんなつもりで言ったんじゃないよ。それにほら、父さんももう大丈夫だよ。さっきはちょっとだけ昔を思い出して、思わず込み上げただけだから。いやぁー歳をとると、すぐ感傷的になっちゃうから。老化現象かなぁ?」私は、哀しそうにうつむいた娘を取り繕うように、明るい声で言った。
「きっと、お母さんも、こういうところ来たかったと思うよ」うつむいていた娘が顔を上げ言った。
「そうだね。母さんはこういう静かで自然がいっぱいある場所好きだったからな」
「でも、きっとお母さんもどこかで見てると思うよ」そう娘が言った時、境内を風が吹き抜けて、なんじゃもんじゃの木の花が、プロペラのように何枚も空中を舞った。
「ほらね。家族の縁は切れてないんだよ」
「なんだかおまえのほうがオレよりもずっと大人だなぁ。町子そっくりになってきた」
「嬉しい。わたしお母さん似って言われる方が好き。お母さん美人だったから」
「なんだよ。口は父さん似だぞ」
「まじで?お父さんに似てるなんてありえない」
「父親にむかって(ありえない)はないだろ」
 私は、町子が亡くなってからこの一年、喪失感とともに、大事な事を忘れていたような気がする。私にはまだかけがえのない家族がいて、町子との時間もまだ続いていたのだ。きっと、打ちひしがれていた私の姿をみかねて、天国の町子がここに連れてきてくれたのだ。今日のこの日を縁結びの神様が引き合わせてくれたのかもしれない。
 私は深大寺に来てそう確信した。新しい縁もあれば、続いていく縁もあると思った。
「あのね。お父さん」
「ん?どうした」
「さっき、先に歩いて行った時ね。ホントはわたしもお母さんのこと思い出して、ちょっとだけ泣いちゃってたんだ」
 娘はそう言うと、子どものころに戻ったように、照れ笑いを浮かべて、境内をくるくると回りながら走りだした。私は、その姿を町子に重ねて、優しく微笑み返した。

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<著者紹介>
垂季 時尾 (京都府京丹後市/34歳/男性/自営業)

「この度の緊急集会にお集まり頂き、有難う御座います」ちっとも有難いと思っていない怒りの表情を見せながら大国主大神《おおくにぬしのおおかみ》が礼を言った。八百万の神々が雁首を揃えて項垂《うなだれ》れている様は壮観だが、呼ばれた理由を考えると感心ばかりしていられない。「内閣府の調査によると、男性の二割、女性の一割は生涯結婚をしないらしい。内閣はこの調査結果を少子化と重ね合わせ、国力の低下への警鐘を鳴らしているが、我々にとってはどうでもいいことだ。人間のことは人間に任せておけばいい。しかし」大国主大神が床をドンと拳で叩いた。「なぜ、我々の縁結びの効果が人間に効かないのか! それが問題なのだ。毎年十月には皆で集まって誰と誰を結ぶか決めている。人間の数が増え、事務方の仕事が増え、縁を結ぶものたちも苦労を重ねているのだろう。しかし、それで怠慢をみせる者がいるのなら、私は断固として糾弾しなければならない! 君達は何をやっているのか。永久《とこしえ》の昔から縁を結び続けてきたはずだ! なぜ、これほどまで婚姻を結ばせる量が少なくなっているのだ! 怠慢だ! 怠慢だ! 仕事ができないならやめちまえ! こっ、この給料泥棒、阿呆、無能の集まりめ! 俺への批判なのか、批判なんだろう! 俺を無能にしたてあげたいんだろう! この地位を狙っているんだろう! これは陰謀だ、陰謀に決まっている!」ここまで言葉を続けて血管が切れたらしく大国主大神は口から泡を吐いて倒れた。ヒステリックなのはいつものことなのだが、この態度では誰も助けようとはせず、その場はお流れとなった。大国主大神の妻である沼河比売《ぬなかわひめ》が気絶した彼の襟首を掴んでずるずると引きずっていく様を見ながら、深沙大王《じんじゃだいおう》はその恐ろしい姿からは想像できないほど弱弱しい表情を浮かべながら溜息をついた。象革の袴を払い、思い思いに話し合っている神々の脇をすり抜けて帰る様子はリストラされかけているサラリーマンのような哀愁を漂わせていた。人一倍真面目に職務を行っている深沙大王にとって、叱責は心外だったが、その真面目さゆえに引け目も感じているのである。縁結びの成果が上がらないのである。昔ならば何もしなくても男女は結びつき、子を生した。それらを少しづつ修正するだけで済んでいた頃が懐かしい。人の心がもっと大らかだったのだ。
 深沙大王は家に戻り、近場の界隈を覗いてみた。若い男女が溢れんばかりに集まってきている。そのなかの幾人かは深沙大王の担当である。早速いつものように仕事を始めた。
 蕎麦屋で盛り蕎麦を啜っている男がいた。上手そうに食事をとっている姿をみるのは気持ちのいいものだ。昔からこの界隈の新鮮な水を利用した蕎麦は人々に好まれていた。深沙大王は蕎麦屋での男女の出会いを得意としていた。狭い店内では男女を結びつけるきっかけを作りやすいのである。
「おおっと御免よ。ぶつかっちまって。大丈夫かい、お嬢さん」「はい、大丈夫です」「いや、謝るだけじゃ気が引ける、親父、この娘さんに蕎麦を一枚頼むよ」「そんな、悪いです」「なあに、気にするなって、オイラはこの近くに住んでる大工の仁吉ってもんだ、お宅はどちらから」「向島です。たまには上手いものを喰って来いとおっかさんに言われて......これも手習いのうちだって」「そいつは偉いねえ。ここいらを案内してやろうか、地理に疎いとなにかと難儀するだろう」「本当ですか? それじゃあ、厚かましいけど御願いします」「なあに、いいってことよ」このように少しのきっかけだけで男女の出会いを演出したものであった。それが今ではすっかりと様変わりしてしまった。
「ちっ、ぶつかってんじゃねえよ。デブ」「すいませんでした」「謝ってすむんなら警察いらないっしょ、どうしてくれるワケ」ケバケバしいなりをした女性を選んだのがまずかったのかと深沙大王は慌てた。古の民でもしないようなカラフルな化粧の肌が黒い女に責めたてられ、男は平謝りをして財布から千円札を取り出して女に押し付けて逃げるように出て行った。女はその金で蕎麦を頼み、携帯電話で誰かと話し始めた。「ああ、アケミ。今さあ、汗臭いデブがぶつかってきたから、金、巻き上げてやったんだわ。そう、馬鹿みたいに謝ってさあ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、とか言っちゃって、まあ、貧乏そうだったから千円で許してやったけどね、ハハハ」
 逃げ出した男のことを諦め、深沙大王は境内を歩く女性に目をつけた。先程のむさ苦しい女と違って品がある。この女性ならば引く手数多の筈だと、彼女が履いているヒールのかかと部分を折らせた。女性はよろけ、石畳に尻餅をついてしまった。これならば、誰か助けるだろう。深沙大王は固唾を呑んで女性を見守った。
 道行く人は彼女の事など目に入らないかのように避けて歩いていく。昔ならば、鼻緒を切ったのと同じようなものである。そのような時には男がさっとやって来て布ですぐに補強してやったものである。それが出来なくとも肩を貸すくらいのことは可能なはずだ。しかし、誰も助けようとしない。見てみぬ振りだ。男達の替わりに近くにいた老女が助けをだした。情けないことであった。
 深沙大王は深沙大王堂の天井に引きこもった。そろそろ日が暮れそうな時間帯なのだが外に出る気がしなかった。何をしても駄目なのではないか。そんな思いが頭を過ぎる。この辺りは昔と違って様変わりしてしまった。森は縮小され、田園も消えていった。近くの大きな道路はひっきりなしに騒音を上げる車が流れ、高い建物で埋めつくされそうになっている。そんな中、深沙大王堂の周りだけはかろうじて昔の様相を維持していた。それだけが唯一の慰めであった。人も変わり、土地も変わる。変化を押し止めることは神ですら不可能なのである。しかし、変わらないものもある。深沙大王は目蓋を閉じて、流れていく風の音を感じながら微睡んだ。
 夜、月が天頂にかかるころ、深沙大王は物音で目を覚ました。ぎしりぎしりと階段を登る足音が二つ、深沙大王は外を窺った。男女のカップルがゆっくりと堂の階段を登っていた。
ようやく自分の価値が認められたのだ。深沙大王は喜び、外に出てその威光を晒そうとまで考えた。彼らの会話を聞くまでのことだったが。
「ねえ、ホントにやるの」不安そうな女が男に話しかけた。きょろきょろと辺りを窺っている。
「しょうがないだろ。金が無いんだよ。お前だって携帯代も払えないからついてきたんだろ」男が女を睨みつけた。振り向くときに、金色のネックレスがじゃらりと音を立てた。「今更、びびってんじゃねえよ」
 ゆっくりと堂に近づき、カップルは扉を開けようとペンチを取り出した。がちゃりがちゃりと扉の鍵をいじくっている。
「なかにあるものを買い取ってくれる人はいるんだよね」
「ああ、百万は出すって言ってるんだ。それだけあれば少しの間は凌げるさ」
「祟りとか、ないかなあ」
「あるわけないだろ。馬鹿馬鹿しい」男が鼻で笑う。「そんな非科学的なことがあるもんか」
 面倒になったのか、男は道具を投げ出して力ずくで抉じ開けようとした。
 見回りをしていた坊主が音を聞きつけて走ってやってきた。カップルは懐中電灯の光に気付き、死に物狂いで逃げ出していった。
「まったく、修理に幾らかかるとおもってるんだ」坊主がぶつぶつと独り言を呟きながら、扉を撫でた。深沙大王は溜息をついてまた奥に戻っていった。
  翌日、朝早くに老夫婦がやってきた。腰の悪い老人の横で寄り添うように支える老婆が優しげな目で夫を見ている。
「あなた。着きましたよ」老婆が声をかけても、夫は反応しなかった。ぼんやりとした眼を虚空に彷徨わせている。
「この人と結びつけて下さって有難う御座いました。おかげ様で、今まで仲良く暮らしてこれました。それもこれもこちらで祈ったからだと思っております」老婆が深々と頭を下げた。「昔は元気だった夫も、今では老いに負けてしまいましたが、それでもこの人と一秒でも長く一緒にいられればいいのです。私達を結びつけてくださいました神様。どうかこの人と一緒に逝けますように、御願いいたします」老婆はそう言って手を合わせた。
「あなた、終わりましたよ」老婆は老人の手を取って去っていった。
 今まで行ってきたことが報われる瞬間は、自分の価値が認められたときだ。それは神であろうと人間であろうと変わるものではない。晴れやかな気持ちで朝日を眺める。たとえ変わってしまったとしても、人はまだ人なのだ。変わったように見えるだけで、きっと心の奥底には昔の大らかさが残っているはずである。そう結論付けられるような強さを老夫婦から貰えた気がした深沙大王は、大きく伸びをして青空に昇っていった。

 

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<著者紹介>
シマザキ シオリ (東京都荒川区/23歳/男性/フリーター)

 山門を通って常香櫻を横目にかけていく。息を切らしながら急いで本堂までかけていく。
 私は山本萌。調布高校に通う17歳の女子高生。私の学校で今話題になっているのがこの深大寺にまつわる縁結びの神様だ。調布駅から本堂まで全速力で走り好きな人の名前を言ってお祈りする...すると好きな人と仲良くなって付き合えるという噂。でも走っているときにその人はもちろん、知り合いに会ってはいけないというルールがある。話しかけられてもいけない。
私は愛しの高橋君と仲良くなりたい一身で走っていた。高橋君はサッカー部のエースでキャプテン、ユーモアがありクラスで人気者で勉強もできる。
本堂にやっとの思いでたどり着こうかという瞬間、お土産店の前に見覚えのある制服の集団が見えた。噂ばかりで実際に走った人がいると聞いたこともなかったのに、先客がいたなんて、ツイてない。ともかく今回のチャレンジは断念せざるを得なくなり、慌てて近くの木に身を隠した。
「でさー、うちのクラスの子なんだけど。」
萌は出るに出られなくなり、隠れたまま話を聞くはめになってしまった。
「...って可愛いよな。」
「わかる!めっちゃ可愛いと思う!」
残念ながら誰が可愛いのか聞き取れない。でも同じ学校の男子生徒の噂話には興味があった。耳に全神経を集中させる。
「彼氏とかいるのかな?」
「高橋、お前知ってる?」
萌は隠れていたことも忘れて、思わず身をのり出してその男子生徒の集団をもう一度よく見た。そこにいたのは愛しの高橋君とサッカー部の連中だった。汗びっしょりのこの姿を見られたら全力疾走したことがばれてしまう。そうなったら最悪だ。こうなったら、隠れたままでいるしかない。
「ん、あぁ、そうだね。」
高橋君のそっけない返事で、膨らみかけていた萌のささやかな期待は穴の開いた風船のようにしぼんでしまった。
 誰かの
「腹減ったから蕎麦でも食べに行かない?」
という一言を合図に高橋君の集団が動き出した。幸い誰も萌の存在には気付いていないようだったが、しばらく隠れたまま様子を伺ってから帰ることにした。
 萌は学校の中ではイケてるグループというか、地味なグループに属しているわけではない。男友達も何人かいるし、男子と話すのが苦手でもない。でも好きな人を前にすると気持ちが顔に出てしまう。昨日聞いた深大寺での恋愛話も気になるが、話して気持ちを共有できる人は見当たらず、もやもやした気持ちのまま昼休みを迎えた。
「ねぇ、萌ちゃん。」
光一が声をかけてきた。こいつは俗に言う幼馴染みたいな奴だ。馴れ馴れしい関西弁で、外で会うと必ず声をかけてくる。少しは空気を読めばいいのに...とさえ思う。
「昨日さ...」
といいかけた光一を制して、萌はすばやく席を立つと手を引っ張って皇室を出ると、足早に非常階段へ向かった。光一は、思った通り萌がおまじないのために走っているところを目撃していたらしい。わき目もふらずに走っていた理由を知りたがっていたが、まさか本当のことを言うわけにはいかない。最近運動不足だからジョギングをしていたと言い張ってごまかした。そんな萌の気持ちを知らずに光一は
「そっかー。何や、てっきりあの深大寺の縁結びのやつやってるのかと思ったわ。」
ちニヤニヤした。その無神経さに腹が立ったのと、焦りと照れ隠しで、萌は思わず光一を思い切りたたいてしまった。黙って立ち去ろうとした萌の背中に向かって
「いやー俺はな、てっきり萌がおまじないで走っとるから声かけへんかってんで。」
という光一の言葉が追いかけてきた。意外にも光一が空気を読んでいた...ということに驚いた。今まで女の子同士のおしゃべりの中で、アイツのことを"空気が読めない最低な奴"と言ってしまったのを思い出して反省した。これからは"いい奴"と薦めてやることにしよう。
「話はそれだけでしょ?じゃあね。」
黙って行くのは悪い気がして、そう一言だけ言って教室に戻ろうとしたが、光一は萌を見ずに大声で喋っていた。
「でな、萌ちゃんに言いたい事が...あれ?何で黙って帰った?おっかしいなぁ...」
 学校も終わり、萌はいつも通り家に向かって歩いていた。神代植物公園を通り抜ける途中で休憩して家に帰るのが習慣みたいなものになっている。公園のベンチに座っていると
「斉藤さん?」
と声をかけられた。声の主は高橋君だった。。
平静を装って返事をしたものの、緊張の余り直視できない。
「昨日さ...君、深大寺に居なかった?」
しまった、上手く隠れたはずがバレていた。
斉藤君は、可愛いと話題に上っていた女の子は萌の事だということ、萌が近くに隠れていたことはサッカー部の連中には話してないことなどを、隣に座って笑顔で話し始めたが、
萌はドキドキして相槌すらうてず、話を理解するのがやっとだった。
「モテモテだよなー、彼氏とか居るの?」
という高橋君の一言で、私にもチャンス到来か...?と思ったが言葉が出てこない。すると高橋君は次の瞬間、萌に相談を持ちかけた。
「それより相談したい事があるんだけど...」
萌はさらに戸惑った。
「俺最近彼女とうまくいってないんだよね。」
一瞬何のことだか分からなかった。彼女?そう、高橋君には彼女が居たのだ。その後は何を喋っていたかどう帰ったか覚えていない。
 とぼとぼ帰っていると公園に置いてあったバイクにぶつかってしまった。ガシャガシャとバイクたちが倒れていく。
「あ、ごめんなさい。」
萌が謝りながらバイクを直していると持ち主と仲間たちがそばに寄ってきた。
「おい、ねーちゃん何してくれんの?」
私生活では絡みたくない部類の人間だ。なんでバイクにぶつかったのか後悔しても遅い。
「あー、これ修理費高いよーどうすんの?」そんな傷など、どこから見ても分からない。
「あの、本当にすいませんでした。」
「謝って済むなら世の中楽だよねー?」
「とりあえず、ちょっと俺の家に行こっか。」その男たちは萌を家に連れてこうとする。
「あ、あの、本当にごめんなさい。」
必死で手を振り払っているその時、見覚えのある学生服の少年が一人やってきた。
「兄ちゃん、勘弁してもらえへんかな?」
特徴のある関西弁。
「あぁ?」
男たちはその高校生を囲み始めた。
「んだ?お前が責任取ってくれんのか?」
「学生だからって容赦しないよ?」
「逃げろ!早く行かへんか!」
その声を聞いて萌は走り出した。何が起こったのかもわからずただ走った。公園を出て家へ向かう途中で萌は重大な事に気付く。
「あ、鞄が無い...」
そう、萌は公園に鞄を置いてきてしまったのだ。しかし戻る勇気が無い。でも鞄の中には財布も学生証も入っている。取りに帰らないわけにはいかない。恐る恐る公園に行く事にした。
「あの制服はうちの学校だった。誰?」
あのときに聞いたのは関西弁...。あれ?関西弁?萌の知り合いに関西弁を喋るのは一人しかいない。あの幼馴染みたいな奴だ。気付くと萌は公園へ向かって走り出していた。もし助けてくれたのが光一だったら、彼が危険な目に合っていたらどうしよう。息を切らして公園へ着くと、そこには嫌な感じの男の姿は見当たらない。どこかに連れて行かれてしまったのだろうか...と、心配で辺りを見回した。すると木の近くに鞄が置いてあり、その鞄の近くにうずくまっている男子高校生を発見した。
「あの...大丈夫ですか?」
「お、おう。大丈夫やで。」
どう見ても大丈夫ではない。萌はその高校生を抱き起こした。やはり光一だった。
「光一!大丈夫?なんで助けてくれたの?」「え、たまたま通りかかったらなんか大変な事になってたからな。助けるしかないだろ。」
ぼろぼろの光一が言った。
「もう、バカっ!」
思わず目からは涙が溢れ出した。すると何故か光一は萌にキスをした。萌は驚いた。
「俺さ、お前の事好きなんだよ。高橋から公園で萌が大変な事になってるって電話もらって駆けつけたんだよ。」
おい高橋!と突っ込みたかったが、そんな事はどうでもよくなるぐらい光一がすごくかっこよく見えた。今度は萌が光一をギュッと抱きしめた。
 その後、萌は光一と付き合う事になった。あの一件があってからどうも光一がかっこよく見えるようになった...というかどうやら好きになってしまったみたいだ。
光一があのおまじないを信じて萌の為に調布から深大寺まで走っていた事が分かったのは付き合ってずっと後の事だった。

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<著者紹介>
山岸 晋吾 (神奈川県横浜市/19歳/男性/専門学生)

 寝間着の襟が汗で冷たくねばりついていて、時刻は午前十時をまわったところだった。傍らの妻はまだ寝息を立てていた。寝顔は見えない。妻には右を向いて眠る癖がある。そのようにしないと寝いることができないらしく、寝返りもほとんど打たない。タオルケットは脇腹の上でしなびて、穏やかに膨らんだりしぼんだりした。鼻から長い息を吹いてみた。
 昨晩の帰宅は十一時近くで、家の照明の一切が点いていなかった。妻からのメールもなく、ソファにわざと音を立てるよう倒れかかって、その反発に身体を委せた。弾んだあとの静けさが頭に鈍く響いた。十分ほどしてからようやく洗面所に立ってネクタイを外し、顔を洗った。一応、念のため確かめてみようと、拭いながら炊飯器に目をやると電源コードはつながれておらず釜はやはり空だった。冷蔵庫の中にはとにかくレタスが丸々と鎮座していた。何かの醤油だれらしき小袋が卵の下敷きになっているのを見つけた。湿ったタオルを首にかけ、またソファに戻った。背もたれに頼りきってテレビを点けることもなくぼんやりと天井を眺めた。病的な白さに見えた。このマンションに越してきて一年ほどだが、改めて天井の模様を見ると影の数々が細毛のようだった。三和土に投げやりで重たそうな足音が入ってきたのはそのときだった。
「もう無理」
「わかってるよ」
「どうしようか」
「レストラン行こう」

 薄明るい天井で前日のやりとりを思いかえして描いた。振動に気を払いながら起床し、ゆっくりと戸を引いた。居間のテーブルでは妻の鞄がひしゃげてそのたわみが小籠包を想起させた。無造作に置かれたまま具に手をつけられていないのは明白だった。
 ほんの悪戯心も手伝って、水を口にすることだにせず外へ出かけた。もともとは都心の百貨店に行くつもりだったが、止した。

 日射しはまぶしく、仲夏の湿気は微かな向かい風によって尚更体に染みこむようだった。動かない家々の連なりに休日を感じた。誰かの家の庭から道にせりだした枇杷の木の下で果実が黒く死んでいた。遠くの空に甲高い歓声が聞こえた気がした。土曜の午前――自発的に道路に湧きだすにはまだ早く、自動車の走る音が空気を織って耳をならした。
 南から調布駅を昇ると、乗客が改札を競うように出てきた。彼らは今日どうするつもりなのだろうかなどと自分を棚に上げて空想したものだ。疾行する個々の形相が雑誌やテレビで目にするそれの典型の一つ一つに思えた。今日はしかしながら平日でない。そんな余所見をして歩いていたせいで老婆の背に気づかず足先でこむらの辺りを小突いてしまい、驚いて右肩をつかんだ。
「すいません。申し訳ありません」
「いゃいゃ、こちらこそごめんなさいねえ、全く」
 追いこしながらもう一度会釈をした。くしゃくしゃな両目だった。大股で歩いて紅潮の気恥ずかしさを紛らわせながら、いつかは脚の長さを失うことを強いて自認させようとした。老婆へのざんげも入りまじったそれは、母性へのそれにも近いものだった。

 甲州街道に出て、大正寺の角を左折したところで携帯電話が鳴った。
「どこに行くの」
 字面から妻の不機嫌が窺われた。それを促すためにあえて書き置きをしなかったのだから、解釈させたというと公平でない。ただそのように読みたかっただけで。
 然るに「深大寺」という三文字の返信は初志の理想に違いなかった。送信完了の表示を待つことなく畳んで尻ポケットにしまった。ぬくい風が髪を乱して目に刺さりそうだった。
 自分の足音の一拍一拍で砂利の装飾音が鳴るのに浸りながらゆっくりと住宅街を進んだ。時折大きな自動二輪が図々しい姿勢で追いこしたりするのを見るにつけ、ベルトも締めない身の細さがより不定になった。腋の汗が着ふるした紺のポロシャツににじんだ。電話は鳴らなかった。
 無人野菜直売所の左手に背丈ほど伸びた紫陽花のしなびた様に若干の到達感を覚えた。派手な色彩の看板や庇を通りすごして、日陰の野川を渡った。

 ――満開の染井吉野を楽しみにこの春は野川公園を訪れた。妻は、久々のスニーカーを歓んだ。
「おむすびはこれで足りるかな」
「一応、虫除け」
 仕事のせわしさや気遣いをそのまま流用するように一層張りきった。濃密な仕事には濃密な遊びが釣りあうのだと大きな瞳が得意気だった。
「手を抜いてもいいのは、冷蔵庫の整理」といった詞の節々が女性だった。
 職場環境での妻の人格を見たことはない。年に数度かワインを持って遊びに来る同僚の緑さんによると、
「たぶん旦那さんが目にしてるのと大差ないと思いますよ」
 緑さんは、「男女兼用」という妻の評どおりの容姿であるのに未婚のままでずっと恋人がないらしい。
 ダイニングテーブルで熱中して会話しているときに、ソファでテレビを観ているふりをして彼女の深層のほんの一掻だけでも掬おうと耳をそばだてていたのだが、開けっぴろげとなっているところに遠近感がなく、現実的であること以外に何も感じとらせなかったことが稀薄なそれに思われて、一度だけ妻にどうしてだろうかと訊いてみたところ、
「バラだからね」と視線を合わさなかった。

 満開の公園に到着し、頃合の場所は占められ賑わっていたので、気楽なところを見つけて紅白の格子柄のレジャーシートを拡げた。
「玉子焼は」と急かすと、目尻でほほえみかえした。
 頭上の花弁をよそに燥ぐ児童らが水鉄砲で撃ちあっていた。腕の肉に凝縮された幼さが水しぶきをあげて弾んでいるようだった。口を開いて駆ける女児がつたなく結ばれた髪の根元に操られていた。陽光の下、危うく幸福な情景が今にも揮発しそうな突発的な怖れから空を仰いで瞼を閉じると、青いほむらが闇に平たくうっすらと灯った――。

 それが憑いたかのような白い肌が、日射しの行きとどかない深大寺山門前の仄暗い葉々の陰に浮かんだ。広い首許には現世を避けるような手入れがされているようだった。それが開放された、かぼそい鎖骨の交わりは女性の錠門だった。手前に被さった半袖は何を恥じらい、まとうためのものだったろうか。飲料を氷水で冷やす売り娘。後頭で結ばれた髪は鮮やかに黒く、俊敏に動いた。成熟しきらない面長の丸みを描く頬が女児とは異なる色に染まった。
「お茶をください」
「はい。ありがとうございます」
 槽の中から取りだすのに屈んだ際、襟がたるんで峡の羽二重肌まで露になって、水面に浮かぶわずかな光の反射が開いた錠門をゆらゆら出入りした。反発的に首のみ振って辺りを見た。私の後ろに客はないようだった。俄に空気がひんやりとした。凝った顔から悟られるのではないかと殊更になった。小銭を支払ってその場を立ちさると、声が耳の中に残って響いた。聞きのがした一言があるような、続けて何かを付けくわえられるような、そんな錯覚の陶酔にひたったおかげでかえることをついにしなかった。期待の妄想に耽るだけ――声と引き換えに意識のかたまりを置き去りにした。それは売り娘を一方的に見つめつづけた。開かれたものが儚く口惜しいあまりに私を追ってこない。青白い光の中で私たちはそれぞれ取りのこされて一筋の煙だに立てずに燻った。
「来なよ」と妻に送信した。すぐに返信が来た。
「もうすぐお寺を曲がるところ。中を通っていこうかな」

 蓋を回して冷茶を飲んだ。風に枝々が揺れ、断片的な肉体が葉とともにちらちらはためいた。午を目前にしてだんだん人の声が満ちつつあるらしかった。
「そば、そば」と訴える男児が傍らを走りさった。坊ちゃん刈の髪をなびかせながら右へ左へ懸命だった。親の許へ急いでいるのか、それとも親が追わされることになるのか、そもそも孤独に蕎麦屋へ向かっているのか、とにかく誰も彼を呼びとめない。後姿には男児なりの邪念の烙印があった。齢を追うにつれてそれが剥がれて味薄となっていくことを思えば――すっかり中年になって黒じみのようなものしか持ちあわせない私がその彗星の尾を浴びるのもまた一つの慰撫にもなるだろうかと、遠ざかる後ろ髪を眺めるばかりだった。
 水曜に誕生日を迎える妻の不足が表参道を往きつ戻りつさせ、福満橋に足をかけた折、蜜の香が漂ってきたはずなのだが再度嗅ぐことはなかった。

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<著者紹介>
川島 淑彦 (東京都板橋区/33歳/男性/自営業)

 三鷹駅南口の三番乗り場からバスに乗る。大学に受かって上京し、通学の便の良さから下連雀に住み始め、もう十年になる。
 駅周辺の雑多な一画を抜けると住宅街になり、やがて風景はいきなり平たくなった。空が広く緑が多い。会社との往復と駅周辺を飲み歩くくらいで、元々出不精なこともあり、住んでいるところの近くでこんな風景が見られるとは思わなかった。しばらく経つと前方に巨大な緑の塊のような森が見え始める。あの一画がそうなのか。平たい周囲から取り残されたような鎮守の杜の風景は、それだけで威容を誇っているようだった。どうもアイツには似つかわしくない場所ではないのかな、と思う。待ち合わせは深大寺に午後二時。丁度良い時間のはずだった。
 昨日の夜のこと、いつもの「わに屋」へ飲みに行くと「はい、これ」とマスターからメモを渡された。「明日、深大寺、2時」と書かれている。「理子ちゃんから」とマスターは付け加えた。「さっきまでいたんだけどね。『友達に誘われた』とか言って、吉祥寺に飲みに行っちゃったよ」
 理子とはお互いこの店の常連で、以前から顔は見知っていたけれど、会話を交わすようになったのは、この二ヶ月ほどの間である。実家から送られて来たという「だだ茶豆」を理子がマスターに差し入れていた時に、たまたま客として居合わせた僕に、お裾分けが回って来て、それ以来だった。
 小柄で、黒目がちな小さな目をくるくる回し、人懐こく良くしゃべる様子を見て「カモノハシみたいだ」と思ったので、その通りのことを口にしたのだけれど、これでは褒めてないかもしれないと思い直し、慌てて「愛嬌があってかわいいよ」と言い足した。それをどう受け取ったのか分からないが、カモノハシという形容をいたく気に入ったらしく、次に会った時「ほら」と言って、カモノハシをデフォルメしたキャラクターの携帯ストラップを見せられた。そんなふうに会話を交わすようになったのだが、時々「たまにはおごれよお」などと、間延びした口調で言うものだから、そういう時は「大人は自分の責任で酒を飲むものだ」と応えることにしていた。それでも一人暮らしで、吉祥寺のチェーンラーメン店でアルバイトをしているという理子に「武士の情け」と言って、たまにはおごることもあった。一度「就職浪人?」と尋ねたことがある。理子は澄ました顔で「モラトリアム中」などと答えたのであった。モラトリアム中? そういえば年はいくつなのだろう?
「この前、理子ちゃんとやりあってたでしょう?」とマスターが言う。
 そうなのだ。そんな理子が不倫の恋をしているなどと言うものだから、たまげてしまい年上なのをいいことに、つい説教じみたことを口にしてしまったのだ。「不倫の恋なんて成就した試しはない」とか「そもそも理子はそういうことを楽しめるタイプではない」とか、そういった論旨だったと思う。合間に理子は「結果がすべてじゃない」とか「私のことなんか知らないでしょう」とか反論していたはずだ。
「参ったなあ」と僕は言って生ビールのお代わりを頼んだ。
「それで、この伝言でしょう。ちょっと意味深じゃない?」生ビールを注ぎながらマスターは言う。「はは」と笑ったような顔を見せ、気の利いたことを言おうとしたけれど、なかなか思いつかなかったので「彼女はプラクティカルジョークが好きなんですよ」と言った。予想通りマスターは困ったような顔で笑った。
 終点の深大寺でバスを降りると、午後二時に五分前だった。梅雨の合間の良く晴れた蒸し暑い日で、濃い緑の木陰にいると時折り吹く風が心地良い。
 唐突に携帯電話が鳴った。理子からのメールだ。「飲み過ぎ、寝坊、遅れる」。それだけが書かれていた。「まったく」と思いながらも不思議と腹は立たず、むしろ微笑ましいような気分になって「何時頃来られそうかということも書いておけ」と返信しようとしたけれど、そんな文面では今のこの微笑ましいような気分は伝わらないので、返信するのは止めて「アイツらしいや」と思う。
「どのくらい遅れるのかな」と思いながら深大寺の参道を歩く。深大寺蕎麦というのは聞いたことがあったけれど、なるほど蕎麦屋がたくさんある。絶えず聞こえる水の音が涼しげで、どこかで風鈴が鳴っていた。とりあえず生ビールを買い込み、池のほとりのベンチに腰を下ろす。池の中ほどには岩があり、たくさんの亀が甲羅干しをしていた。よく見ると亀はうまい具合に重なりあっているものもいる。時々、バランスを崩した亀が池に転がり落ちる。しばらく見ていると結構頻繁に亀は転がり落ちていた。そんな光景をのんびりと眺めていた。
 生ビールを飲み干した頃「あの」と声をかけられた。振り向くと小さなおばあさんが、照れたように笑っていた。一人で参拝に来て串団子を三本買ったのだけど、食べ切れないので残った二本をあげる、と言う。餡子と胡麻の二本の団子が載った皿を受け取ると僕はますます微笑ましい気分になるのだった。
「甘いもの好きだったっけ?」という声に振り向くと、理子が立っていた。
「生ビールを飲みながら団子を食べて君を待っていたのだ」と鷹揚に芝居がかったもの言いをすると「ごめん、ごめん。反省してる」と拝む格好をして「化粧する間も惜しんで急いだので今日はすっぴんです」と悪びれる様子もなく言うのだが、いやこれはきっと悪びれているのだ、と思い直した。
「とりあえず、この団子を食べてくれ」と並んでベンチに腰掛ける。
「亀ってさ」と、池の亀を眺めながら理子が言う。「甲羅干しをきちんとしないと死んじゃうんだよ」
「え、本当?」
「そう。だからのんびり甲羅干しをしているように見えるけど、あれは過酷なサバイバルの真っ最中というわけなの」
 僕はしばらく考えた。時々もっともらしい嘘を言って人をかつぐようなところがあるのだ、この人は。「のどかな風景だなあ、なんて思っていたでしょう?」
 僕はもう少し考える振りをしてからとりあえず気にかかっていたことを言った。「この前はすまん。言い過ぎた」
「ん、いいよ。気にしてない。そんなことより遅れたお詫びに蕎麦をおごるよ。その前に1ステージ見物してから」
「1ステージ?」
 その疑問には答えてくれず理子は僕を引っ張って行った。
 涼しげな風鈴の音が聞こえる店の向かいにその蕎麦屋はあり、前には人だかりができていた。「もう始まってる」と言う理子の視線の先は道路に面したショウウインドウで、中では職人が蕎麦を打っていた。「なるほど『ステージ』ね」その店で出す蕎麦を打つ様子を、道行く人に見せる趣向のようだ。生地がみるみるうちに薄く大きく延びていく。「ああいうふうにね」理子は職人の手元を一心に見つめている。「ひとつひとつの工程を丁寧にこなしていく職人の仕事って素敵だと思わない?」
 その意見に僕はまったく同意見だったので「同意」と短く答えた。
「川路さんって言うんだよ。あの人」
「えっ、何。知り合い?」と言いかけて改めてショウウインドウを窺う。その職人は、年は四十前後に見えた。妻も子供もいる年だろう。仕事には誠実な職人の厳しい顔つきをしていた。
 工程は薄く延ばした生地を折り畳み、見事な手さばきで蕎麦に切っていく段になっていた。一把分を切り終えると、その度に前に置かれた箱に並べていく。
 何と言ったものやら......。会話の継穂をなくした気分になってしばらく黙っていた僕に頓着せず、理子は「お蕎麦食べに行こう」と言うと池の方へ歩き出した。振り向くと「健康のため、一日一食蕎麦を食べましょう」とバスガイドのような口調で宣言した。
 茂った木々に覆われた小暗い階段を上がった所にその蕎麦屋はあった。何かを燃やした後の匂いがしていて滝の落ちる音が聞こえる。「あの蕎麦屋で食べるんじゃないのかい」と僕は訊いた。「私ね、食べるとぽきぽきするような十割蕎麦が好きなの」そう言って店に入る。午後も遅いこの時間、店は空いており屋外に設えられたテーブルに木漏れ日が差していて、長椅子の上には猫が寝そべっていた。「あのさ」向かい合って席に着くと少し照れたように理子が切り出す。寝そべっていた猫が出て行った。「私もうね、川路さんのことはどうでもいいの。この前はちょっと意地になって」
「いやいや......」こういう会話になると、どうも男は劣勢である。「それでね」と言いかけたところで注文したもり蕎麦がテーブルに置かれた。しばらくお互い無言で蕎麦をたぐる。こういうところが二人とも律儀である。
 理子は「それでね」とか「あのね」とか言いながら蕎麦をたぐる。その度に僕は「うん」とか「ああ」とか、ちゃんと聞いているよ、という意思表示をするのだが、ちっとも話が進まない。次に「だからね!」と言った時の声の調子がおかしかったので蕎麦から顔を上げると、大粒の涙をこぼす理子と目が合った。「これはその......」と慌てて言い訳をしようとする理子の声は完全に泣き声で、その反動でしゃくり上げると、蕎麦がのどにつまったのか、激しく咳き込んだ。
 その瞬間だった。僕はもうほとんど反射的に「付き合ってみないか?」と理子に言っていた。顔を上げた理子は泣き笑いの表情で、左の鼻から蕎麦を一本出していた。

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<著者紹介>
坂本 文朗 (東京都中野区/45歳/男性/自営業)

 雨が、静かに降り続いている。
 よく冷えたビールをかわいた喉に流し込み、蕎麦味噌を舐める。ぷちぷちとした食感。蕎麦の香りと味噌のコクが、口いっぱいに広がる。旨い。
 空になったグラスにビールを注ぎながら、僕は脇の通りに目をやった。
 境内に続く夕方の参道は、人もまばらだった。今年の梅雨はなかなかにしつこい。深緑からつたい落ちる雨のしずくをぼんやり眺めていると、うしろで声がした。
「蒸すでしょう、中に入られたらいかがですか」
 振り向くと、年配のおかみさんがおしぼりを手に持って立っていた。
「ありがとう。どうぞ、おかまいなく」
 そうですか、ではごゆっくり。彼女はにっこり微笑むと、おしぼりを置いて店内に戻っていく。そのちいさな背中に、お元気そうで何よりですと、心の中で会釈する。あの人はきっと、僕のことなど覚えてはいないだろうけど。
 ネクタイを緩め、グラスを一息に空けた。雨の深大寺。少し酔ったかもしれない。雨音が心地良かった。そのリズムに合わせて、遠い記憶がゆっくりと浮かびあがってきた。

 もう二十年以上前、僕がまだ大学生だったころ。
 同じ文芸サークルのひとつ上の先輩に、トワコさんという女性がいた。それはまあ、変わった人だった。いわゆる電話魔である。
 当時はまだ携帯電話が一般に普及しておらず、電話といえば家に備え付けられたものしかない時代。逃げも隠れもできないそんな状況下、彼女は早朝だろうが深夜だろうがおかまいなしに僕の部屋に電話をかけてきては、延々と自分の彼氏のことを話すのだった。その男性は幼馴染で、都内の別の大学に通っているという。恋愛の馴れ初め、付き合うまでの経緯、彼氏の容姿、服装、癖、喧嘩の内容、果ては好きなお酒の銘柄まで。会ったこともないその彼氏さんを、僕は四十を越えた今でもありありとイメージすることができる。
 内心うんざりしながらも、先輩なので邪険に対応するわけにもいかず、懸命に話を合わせていた。一度聞いたことがある。トワコさん、どうして僕にばかり電話してくるんですか、と。だってあんた、聞き上手なんだもん。褒められているのか利用されているのかわからない返事が返ってきた。言葉を挟む余地がないだけですとは、もちろん言えなかった。
 大学が夏季休暇に入ったその日、僕はクーラーもない蒸し暑い下宿で遅めの昼食を作っていた。地方から出てきた貧乏学生にとって、毎日の自炊は欠かせなかった。
 電話が鳴った。無視してやろうかと思ったが、僕はコンロを切って素直に受話器を取る。
 案の定、トワコさんだった。
「雨だね」
「雨ですか」
 窓に目をやる。よく晴れていた。梅雨の晴れ間だ。雨が降りそうな気配はない。
「そっちは降ってるんですか」
「降ってるよ」
 どういうことだろう。トワコさんもひとり暮らしで、アパートはここからふた駅先の高田馬場だったはずだ。不審に思う僕をよそに、つっけんどんな声が響く。
「あんた今何してんの?」
「メシ作ってました」
「何?」
「肉なしチャーハンですけど」
 あんたねえ、というあきれ声。彼女はそこから、チャーハン作成における肉類ないし魚介類の味覚・栄養的観点からの重要性と、未発達な味覚を形成する環境要因についてひとしきり講釈を垂れた。まったくもって余計なお世話である。
 いい加減お腹も空いてきた僕は、早めに切り上げようと自ら話を振ってみる。
「で、彼氏さんとはどうなんですか」
 すべての話は前振りに過ぎない。トワコさんは、要はこれを話したいのだ。
「それよりさ」
 ...それより?拍子抜けする僕。いつもならここから機関銃のような彼氏語りが始まるはずなのに。
「それよりそっち、まだ降ってないの?」
 僕はもう一度、律儀に窓の外を確認した。さっきより少し雲がある程度で、晴天に変わりはない。降ってはいないと答えると、トワコさんはこう言った。
「じゃあ、たまにはあんたが話してよ、何でもいいからさ。そっちに、雨が着くまで」
「雨が...着く?どういう意味です?ていうかトワコさん、どこにいるんですか今」
「深大寺」
 行ったことはなかったが、なぜか知っていた。何度となく聞かされた、トワコさんと彼氏さんの最初のデートの場所だったからだ。
「...確か調布ですよね。なんでまた...」
「いいから。ほれ、何か喋りなって」
「いや、いきなり話せって言われても...。それにどう見ても降らないですよ、この空」
「降るわよ。この雨雲はそっちに行く。つきあってよ、雨宿りに」
「傘、ないんですか」
「うん」
 この電話賃で、傘を買えばいいのに。そう言おうとしたが、止した。トワコさんの性格だ。言い出したら聞かないのは明白だった。     
 僕は静かにあきらめて、終わりの知れないひとり語りを始めた。好きな本のこと。最近見た映画のこと。音楽。行きたい国。気に留めなければ流れていってしまいそうな、とりとめもない話ばかりだった。僕が一方的に話をしたのは、後にも先にもその間だけだったように思う。そのときのトワコさんは、ほんとうにほんとうに、無いこと聞き上手だった。半時間後、トワコさんの予言通りに雨がこちらに着いたのを、ちょっと残念に思うくらいに。
 張り出したねずみ色の雲から落ちてきたその雨のことを告げると、彼女は「そっか。長々ありがとね」とつぶやいた。
 電話が切れたあと、僕はすっかり冷めてしまった肉なしのチャーハンを食べた。
 外で、雨脚が強くなっていた。食器を片づけ、少し迷ってから、僕は部屋を飛び出した。

 バスを降りると、滝の中だった。深大寺の参道が雨に白く煙っている。
 傘がまったく意味を成さない豪雨。小脇にもう一本のビニル傘を抱え、僕は駆けだした。
 さすがに誰ひとりすれ違わなかった。電話ボックス、軒を連ねる土産物屋、蕎麦屋。トワコさんの影を探すが、見当たらない。やっぱり、もう帰ってしまったのか。水を吸ったTシャツが体にへばりつく。何をやってるんだろう、僕は。ものすごい勢いで水が流れる石畳を蹴り、境内にさしかかった。見上げるばかりの大きさの、本堂の伽藍。その前に、傘もささずに女が立っていた。靴がじゃぶじゃぶと音をたてる。近づいて、呼びかけた。
「トワコさんっ」
 どしゃ降りの中、彼女がゆっくり振り向いた。
「なんだ。来たんだ」
「...何やってるんですか。いったい」
 僕が傘をさしかけると、トワコさんは、泣き笑いの表情を浮かべた。
「文句を言ってたの。縁結びの嘘つきって」
 そして、こう続けた。
「お蕎麦、食べてこうか」

 ずぶ濡れのまま、僕たちはいちばん近くにある蕎麦屋に入った。七月だというのに、体が冷え切っていた。店のおかみさんが貸してくれたタオルがありがたかった。互いに言葉を交わさず、出てきた蕎麦を黙々とすすった。帰りのバスの中でも、会話はなかった。
 夏休みに入って、電話はぱたりと鳴らなくなった。それから少し経ち、涼しい風が吹き始めたころ、トワコさんが彼氏さんと別れたとサークルの友人から聞いた。

 携帯電話が鳴った。電話の着信音はいつだって強引だ。無視してやろうかと思ったが、僕は素直に通話ボタンを押す。
「ごめんごめん、もしかしてかなり待たせてる?」
「いや、全然大丈夫」
「いつもの店でいいんだよね?」
「うん、そうだよ」
「了解。急ぎまっす」
 一方的に電話が切れた。すでにビールが二本空いたことは言わなかった。
 見れば、雨はもうあがっていた。うっすらと夕陽がさしはじめている。
 あの日、トワコさんはどんな思いで僕に電話をかけてきたのだろうか。
 幸せないつもどおりの日常を、雨が着くまでの間、少しでもとどめたかったのだろうか。
 けれどそれは、もう知らなくていいことのようにも思えた。少なくとも、今の僕には。
 もうすぐ、妻がこの店に駆け込んでくるだろう。そしてその姉さん女房はきっと、今日あったことを機関銃のように僕に話すのだ。
 雨あがりの風が、頬を撫でていく。軒先の風鈴が、ちりんと鳴った。もう、夏が来るんだな。
 僕は大きな声で、ビールをもう一本と頼んだ。

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<著者紹介>
orie (大阪府大阪市)

 深大寺界隈は、まだ枯れ木立の3月であったが、山門周辺はまるで東南アジアの市場のように、朱色の果実が通りを埋め尽くしている。
 朱色の果実の正体は、大小様々なだるまであった。今日は、年に1度のだるま市。門前を歩く参拝客に対して、威勢の良い声が投げかけられる。
 天音は高校のテニス部の女友達、弥生と一緒にだるまを求める人の流れに身を任せていた。毎年、天音は両親とともにだるま市に来ていたが、高校に入学して1年生最後の春、初めて友人と深大寺を訪れていた。
 いつもだるまを買うのは天音の母、歌絵であったため、いざ自分でだるまを買おうとすると、どこで買ったら良いのか迷ってしまう。
「すごい人だよね。私、ちっちゃいから人混みに溺れてしまいそうで、いやなんだよね...智則君達は、この後、来るんでしょ?」
 身長150センチ台の弥生は、人の多さにうんざりしている。
「うん、大河君と行くってメールが来てた。早くだるま買わないとなぁ。うちの親、毎年だるま市に来てるからさ。ばったり会っちゃうのいやだし...ここのお店でいいかな」
「天音が決めたところでいいよ。でも、気合い入れて選びなよ」
 天音は歩みを止める。弥生とは対照的に身長は175センチあり、ヒールの少し高い靴を履くと人混みの中でもかなり目立った。
目の前の露店で、朱色のこぶし大のだるまを見つめる。同じサイズのだるまでも、よく見ると表情が皆異なる。初めてのデートに着る服を選ぶかのようにじっくり見定め、考え抜いて一体のだるまを手にした。
「これください」

 天音の通う高校のテニス部では、代々先輩達から口伝される一つのジンクスがあった。
付き合い始めて間もない恋人達は、深大寺のだるま市でだるまを買い、恋愛祈願をすれば、その愛は永遠に続くというものであった。ただ、だるまを買えば済むというわけではない。願いを叶えるには、いくつかのルールが存在するという。
 それは、恋人達は一緒にだるま市に訪れてはいけない。別々の時刻に同性の友人と訪れ、それぞれこぶし大のだるまを買うこと。朱色の絵の具を用い、自ら右眼を描き入れること。そして、結婚に辿り着いた恋人達は、朱色の絵の具で左眼を描き入れるというものであった。
 いつから始まったジンクスなのかは、天音達は知らなかった。きっと、深大寺が縁結びの寺であることにかけた、高校生の淡い恋愛祈願に過ぎないのだろうと感じていた。それでもテニス部の先輩からこのジンクスを聞いた時、いつかは自分達も大切な人とだるまを買いに行きたいと盛り上がったのである。
 高校卒業とともに別れてしまう恋人達は多いものの、これまでに左眼を描き入れるに至った恋人達も確かにいるらしい。
 冬休みに入って間もないクリスマスに、天音はテニス部の智則から告白された。テニス部に入部した当初から、智則のことはなんとなく気になっていた。言葉を交わす、交わさないにかかわらず、一緒にいると何故か気持ちが穏やかになるのだった。智則の告白を受けて、天音は素直に喜び、この恋がいつまでも続けばよいのにと本心で願ったのである。

天音は角刈りにした威勢のよい露店の店主からだるまを受け取り、自分のリュックにしまった。近くにいるはずの弥生を探そうと振り返ると、山門の方から歩いてくる母親の歌絵と父親の駿司の姿に気付き、ぎょっとした。
「やだ、信じられない...」
 天音のつぶやきに気付いた弥生が声をかける。
「どうしたの?」
「うちの親がいるよ...まったく」
 恋愛祈願のだるまを購入したところに、親が偶然通りかかるという、天音にとっては微妙なタイミングであったが、平静を取り繕うことに決めた。
「あら、天音、だるま買ったの?」
 歌絵が声をかける。
「こんにちはー。天音のお母さんは、だるま買ったのですか?」
 天音の気まずさを察して、弥生がフォローに入る。
「ええ」
 右手に持った白いポリエチレンの袋を少し持ち上げる。だるまが朱色の西瓜に見える。
「お母さん達、帰るの?私は弥生と調布で買い物してから帰るつもり」
「すごい混んでるからね、お母さん達は家でお昼食べるわ」
「気をつけろよ」
 最後に駿司が言い残し、歌絵と並んで通りに向かって歩いていった。
 二人は天音の両親を見送り、十分な距離が出たところで弥生が口を開いた。
「ねぇねぇ、天音のお父さん、初めて見た。すごいイケメンじゃん!」
 駿司の姿は参道から通りに出るところにあった。黒のダウンジャケットとダークブラウンに染めた髪がなんとか確認できるぐらいだった。
 駿司は、現在40代半ばであるが、無駄のない体つきと小麦色の肌、ダークブラウンの髪から30代と言われてもおかしくない風貌であった。
「普通だよ」
「そんなことないよ、うちのオヤジとは全然違う!あたしのオヤジも天音のお父さんみたいに格好良かったらなぁ。でもさ、雰囲気が智則君と似てる気がするんだけど。もしかして天音ってファザコンなの?」
 弥生から父を誉められ、天音は悪い気はしなかった。智則と父が似ていると指摘されたことは驚きであったが、意外に納得もできた。智則と一緒にいて感じる安心感は、父とどこか似ているところを感じ取っていたからかもしれないと、天音はひとりごちた。

 駿司と歌絵は自宅マンションのダイニングテーブルに向かい合って座っていた。深大寺で買った蕎麦を湯がき、天ぷら蕎麦にして食べるところであった。
「天音もとうとう友達とだるま市に行くようになったわね」
「まぁ、もう高校生だからな」
 駿司はテレビに写ったゴルフ番組を見ながら、蕎麦をすする。
「お父さんも見てたでしょ。こぶし大のだるま買うところ」
「まぁな...」
 駿司は歌絵の問いかけにあまり気乗りのしない相槌で返した。衣に汁が染み込んだエビの天ぷらを頬張る。
歌絵は箸を置くと立ち上がり、寝室に向かった。ほどなくして、少しほこりの被った化粧箱を手にしていた。
「まさか、あのジンクスが今でも続いているとはね。深大寺の縁結びにかけて、ノリで始めたのに」
「俺達の頃は、単に彼女と一緒にいるところをばったり親に見られるのが気恥ずかしいから、男女分かれて買っただけなのにな」
「今では、それもルールになっているみたい。男女分かれて、友達同士とだるまを買うって。あのまま、深大寺に残っていたら彼氏の顔を拝見できたかもよ」
「俺は見たくないよ。第一、天音に彼氏ができたとは言えないだろ。だるまを買いたかっただけかもしれない」
 ふふ、と歌絵は笑う。
「往生際が悪いわね。明日になったら、天音の部屋を覗いてみればいいじゃない。朱色の瞳のだるまがいるわよ、きっと」
 少し古びた化粧箱の蓋を歌絵は開ける。そこには、二体のこぶし大のだるまが収まっている。いずれのだるまも両眼が朱色である。
「天音の恋愛が叶うといいわね。成就したあかつきには、このだるまを見せてあげようかしら」
「まだ、早いよ」
「何言ってるの。私達がテニス部で付き合い始めたのは、今の天音と同じ歳じゃない」
 そうだったかな、と30年前を思い起こす。いつか、自分の前に現れるかもしれないボーイフレンドの姿を想像する。会いたくないような、自分達夫婦のように永遠に結ばれて欲しいような、相反する気持ちが入り交じる。
駿司が少しのびた蕎麦をすすっていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
 天音が帰ってきた。天音はどんな恋愛をするのだろうか。駿司は幸せな未来を祈りつつ、愛娘に「おかえり」と応えた。

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<著者紹介>
坂井 むさし (東京都西東京市/38歳/男性/会社員)

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