妻が、浮気をしている。
 私の定年退職と同時に、耳に飛び込んできた話だった。本人から聞いたわけではない。妻と同じパート先で働く、親切なご婦人が教えてくれたのだ。甘過ぎる蜜でも味わったかのように、口元を醜く歪めながら。
いつからなのか、相手が誰なのかもわからない。聞けば最近の妻は、職場での休憩時間にも恋愛小説などを読み、どこか浮かれた様子を見せているのだという。
 妻は私より十五歳下だ。見た目はそれ以上に若く美しいと、今でも素直にそう思う。二十年前、私が不惑の歳に差し掛かろうという時に、互いの家族の反対を押し切り、駆け落ち同然で一緒になった。私は当時すでに両親も亡くしており、口やかましい妹たちがいるだけだったが、妻の方はそれ以来、実家とも疎遠になってしまった。子宝にも恵まれず、お互いだけを頼りに生きてきた。
やがて私は、出世と引き換えに増えていく責任に埋もれるように仕事にのめりこんだ。それでも妻のことは、私なりに思い遣ってきたつもりだ。理解してくれていると思っていた。共に在ることが当たり前だと。何も言う必要はないものだと。
 昨日、買い物から帰宅すると妻が電話をしている声が聞こえた。
 「―じゃあ、明日、深大寺で」
 帰宅した私に気づいた妻は、何食わぬ顔で「おかえり」といった。私は「ただいま」と答えた。その日の会話はそれがすべてだった。

 そして私は今、深大寺の参道にいる。近所に住んでいるので妻と何度か来たことはあったが、土曜日の午後となれば相変わらずの賑わいだ。若葉の薫る五月の風が心地よい。しかし今は、素直にその心地よさに浸っていることはできない。
 妻は正午前に出かけて行った。おそらく今頃は、境内にいるのだろう。私は帽子を目深に被り、妻の姿を探した。探し出して何がしたいというわけではない。ただ、じっとしていることはできなかった。山門をくぐり、本堂を眺める。見頃を迎えたなんじゃもんじゃの木の前で足を止め、見上げたその先―元三大師堂の前に、見覚えのある後ろ姿があった。私はハッとして身を屈めた。
 おみくじや絵馬などが並べられた台の前に、妻と、その隣に背の高い若い男が立っていた。妻は並べてられている冊子のようなものを手に取り、男に何やら熱っぽく語っている。男はそれを聞きながら笑みを浮かべている。仲睦まじい二人の様子は、妻の若々しさも手伝って、しっかりと恋人同士のそれに見えた。
 男は絵馬を購入したようだった。そこに何かを書き入れると、二人で絵馬掛に奉納し、歩き出した。私は二人が立ち去るのを待って絵馬掛の前に歩み寄り、今しがた二人が掛けたばかりの絵馬を見つけた。
 ―二人がずっと一緒にいられますように。 修・由里子
 妻の名と、知らぬ男の名が記されたそれは良縁成就の絵馬だった。
 「由里子・・・」
 私はほぞを噛む思いで、二人が立ち去った方向に目をやった。ふらふらとそのあとを追って歩き出す。妻と男は、今度は延命観音の前で手を合わせていた。さらに深沙大王堂の方へと動き出したのを見て、私はもうそれ以上追いかける気力がなくなってしまった。
 ここまでか―。私は二十年間の夫婦生活を思い返しながら、とぼとぼと参道へと引き返した。二人と鉢合わせしないうちに帰ろう。
やがて、有名な妖怪マンガの関連商品を並べる店先まで来た。テレビドラマでこの漫画家役を演じた若い俳優に、妻が熱を上げていたことを思い出す。そういえばさっきの若い男も似たような雰囲気だったか。
 そんなことを考えていた私の腹の底に、突如として怒りが込み上げてきた。私は何をすごすごと逃げ帰ろうとしているのだ。なぜ私が隠れなければいけない。そして無性に、あの若い男の顔を殴りつけてやりたくなった。
帽子を脱ぎ、右の拳にぐっと力を入れると、踵を返して深沙大王堂へと足早に向かう。地面を踏みしめながら進むと、男がそこにいた。妻の姿はない。私は首を振って辺りを見回したが、手洗いにでも行ったのか見当たらない。
それならばかえって好都合だと思い、私は男に向かってさらに歩を進める。その足音に異様さを感じ取ったのか、若い男は振り返ると、「わっ」と叫んで目を見開いた。私は男に詰め寄り、その襟元に手を伸ばした。
男は後ずさりして首をすくめ、「ちょっと、おじさん」と叫ぶ。
―おまえのような奴に「おじさん」呼ばわりされる筋合いはない。
私は構わず男を追い詰める。しかし男は、そこで予想外の言葉を口にした。
「待って下さい、博徳叔父さん」
「え?」
振り上げた右腕が空中で止まる。私は、じっと男の顔を見た。この男は・・・。
「宮田修です。覚えておられませんか?」
「宮田・・・」
ふと記憶が蘇った。妻には姉が一人おり、その姉が嫁いだ先が宮田家というのではなかったか。そして、かつて受験の為に上京してきたという姉の息子に、妻と三人で会ったことが一度だけ―。
「修・・・あの、修くんか?」
「はい。ご無沙汰しております」宮田修が深々と頭を下げる。
 これは一体どういうわけだ。狼狽を隠せずに立ち尽くす私の真意を汲み取ったのかどうか、宮田は私の反応を待たずに先を続けた。
「僕、今年結婚するんです。叔母さんにそのことを報告したら、良縁成就にご利益のあるお寺があるからって」
 結婚?良縁?ではさっきの絵馬は・・・?
「実は相手の名前が、叔母さんと同じ『由里子』なんですよ。奇遇でしょう」
「あ」と私は声を洩らした。あの名前は、妻のものではなかったのか。
 「本当は、叔父さん叔母さんにも式に来ていただければとは思っているんですが・・・」
 そこで宮田は伺うような表情で私を見た。
 「いや・・・」私は口ごもってしまう。私が嫌がると思って、由里子はこんな密会を選んだのか。
 「・・・お二人は僕の憧れなんです」
 宮田が突然そういった。発言の意味がわからず、私はあからさまに怪訝な表情を浮かべたのだろう。それを見た宮田が少し笑う。
「お二人は周りの反対を振り切って一緒になられたんですよね?その絆の深さというか、覚悟というか、本当にすごいなと思って」
 そんなに格好良いもんじゃない、と思う。周囲を説得するのが面倒くさくて、ただ逃げ出しただけだ。
「由里子叔母さん、さっきから叔父さんの話しかしないんですよ。やっと退職してくれたからこれからはずっと一緒にいられるなんて、見るからにウキウキしてて」
ウキウキ?最近浮かれていたという由里子の様子はもしかして・・・。
「さっき延命観音に参ったんですけど、それも叔母さんが二人で長生きできるようにって」
あれは、そんな。
「それに―。あ、いや、これは言っちゃまずいかな・・・」宮田の歯切れが悪くなる。
「なんだ。言いなさい」私は焦れて先を促す。
内緒ですよ、と前置きして宮田がいう。
「ここって、恋物語を募集するイベントをやってるそうですね。受賞作をまとめた文集がさっき売られてて―」
由里子が手にとって熱く語っていたあの冊子か。もしかして職場で読んでいた恋愛小説というのも・・・?
「叔母さん、あの文集をわざと叔父さんの目に付くところに置いておく作戦らしいですよ」
「・・・どういうことだ」
「叔父さんて、むかし小説家を目指したことがあったんでしょう?退職後の趣味に、また小説書いて欲しいって、叔母さん言ってました」
由里子がそんなことを―。宮田の話のショックから立ち直る暇もなく、遠目に由里子の姿が見えた。私は慌てて帽子を被り直す。
「急用を思い出した。私はこれで失礼するよ。修君、結婚おめでとう。それから・・・ありがとう」
「え、叔父さん。ちょっと」
私はそれだけを言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。

その夜、由里子が作る夕食を待つ間、件の恋物語集がリビングのテーブルの隅に置かれているのを見つけた。通読すると、最後の頁には次回の募集要項が載っていた。
いいだろう、と私は心の中でつぶやく。妻からのこの無言の誘いに乗ってみようじゃないか。私たちは二十年前と何も変わっていない。恋を始めた、あの頃と同じままだ。
「なぁ」妻の後ろ姿に声を掛ける。「修君の結婚式、行ってあげないか」
「え?」由里子は心底驚いたように声を上げて振り返る。
 私は手に掲げた文集を振りながらも、恥ずかしくて妻から視線を逸らした。妻が微笑んでいる気配を、久しぶりに背中に感じた。

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<著者紹介>
寶生 貴三(埼玉県川口市/30歳/男性/会社員)

夕暮れ近く、時を告げる鐘の音が、澄みきった空に響き渡る。
音色を背に、深大寺境内にある大木に隠れて、若者と娘が互いの名を呼び合った。
「麻衣殿」「早治郎様」
澄んだ大きい瞳の小柄な娘は、身だしなみから武家の娘らしい。長身で整った顔立ちをした男の方は、黒い袴を着て、髪の形からして浪人のようだ。
「き、今日を一日千秋の想いで、待ち焦がれておりました」
 麻衣は、はやる想いを口にする。早治郎はやや顔を背けていたが、はっきりと応えた。
「それは、拙者も同じこと」
心地よい微風が吹き、二人の顔や服をなでていく。
「ですが、会うのは、もう終わりに」
「えっ?」
「拙者は一介の浪人で、麻衣殿は千石取りの旗本の家、身分が違います。何より拙者の家と麻衣殿の家は、仇同士でしょう」
麻衣は悲しそうな顔を浮かべ、首を振った。
「何をおっしゃいます。早治郎様の家が取り潰されたのは、我が父の策謀によるもの。恨まれるのは当然なのに、こうして好いてくれて、私は覚悟しております」
 早治郎は、苦しそうに言った。
「我々は、結ばれることが許されぬ身です」
「ああ早治郎様 なぜあなた様は早治郎様なのですか?」
 麻衣は恋しくたまらないとばかり。
「夜盗に襲われた時、早治郎様にお救いいただいた。何という出会いでしょう」
 麻衣は、なおも己の愛おしさを語るのを止めなかった。
「家が仇同士であると知り、悩みましたが、ですが麻衣は、やはり早治郎様無しでは、生きていけませぬ」
「し、しかし見つかれば......」
 麻衣は、早治郎の胸に頭を寄せた。
「この寺の近くにある深沙堂。ずっと昔、親の反対で裂かれた若き男女が、水神深沙大王のお導きで結ばれたと、言い伝えがあります。私たちも、そのお力におすがりしましょう」
 再び風が吹き、木々の葉や枝を揺さぶる。
沈黙を経て、早治郎は沈黙を破った。
「麻衣殿の言う通りに。共に深沙堂に詣で、御加護にすがりましょう」
 と、数人の武士たちが山門から境内に乱入すると、二人を目ざとく見つけた。
 先頭の武士は、麻衣の父である戸田笹ノ蒸、腰の太刀を今にも抜かんばかり。供の者たちも身構えていた。
「もしやと後を追ったが、やはりそうか」
 早治郎は太刀を差していないが、うろたえず、正面から仇を睨み返してみせた。
「戸田笹ノ蒸、家を潰された無念は、今も忘れてはおらん」
「何を言う! わしの父こそ、貴様の父にだまし討ちにされた。その恨みに比べれば」
「お、お止めください、父上様も早治郎様も」
 麻衣は両手を広げ、間に割って入った。
「仇の息子と通じるとは、何たる恥ぞ麻衣!」
「私は早治郎様と、結ばれることを約束し合った身、決して離れませぬ」
「おっ! おのれえっ!」
 笹ノ蒸はその言葉に、太刀を引き抜き、自分の娘に斬りかかった。
 とっさに、早治郎は麻衣をかばう。鈍い音が響き、赤いものが地面にほとばしった。
 早治郎は苦悶の表情を浮かべ、ひざを突く。麻衣は慌てて寄り添った
 笹ノ蒸は、飛び散る血と、仇を気遣う娘の姿とに、感情高ぶらせて言い放った。
「父の情けだ。一太刀であの世に送ってやる」
 そこへ、別の寺の入口から新たな一団が現れた。それぞれ棒きれや包丁を持った十人ほどの町人たち。
「早治郎の旦那が大変だ」「加勢しろ!」
 日頃、何かと面倒を見ている、長屋の住人たちが異変を聞いて、駆けつけてきた。
 笹ノ蒸ら武士たちは刀を抜き、にらみすえたが、町人たちはひるむ様子がない。

 レンズがにらみ合う武士と町人たちを捕らえている。撮影用のビデオカメラである。
小さい音を立てて、テープが回り、撮影は進んでいく。
「さあ、どんどん盛り上がってきました」
 嬉しそうに言ったのは、企画兼脚本兼監督を担当する祥子。握った脚本の表紙には、題名で「深大寺恋心中」と記されている。
出演者も撮影しているスタッフも、調布市内の公立高校二年B組の生徒たちと映画部の部員たち、学園祭で発表する映画の撮影中だ。
映画部部長の祥子は、親友の麻衣をヒロインにした悲恋ものを企画したところ、とんとん拍子に話が決まり、二年B組と映画部の共同制作と言うことで採用された。
「麻衣ってすごく可愛いから、絶対に受ける」
祥子が脚本も書いた「深大寺恋心中」の内容は、シェークスピアの名作「ロミオとジュリエット」のアレンジである。
麻衣を説き伏せ、深大寺と辺りに並んだ土産物店を江戸時代の町に見立てて、撮影は続けられた。
 ちなみに笹ノ蒸役は、担任の早川先生。必要以上に大げさな動作で演じている。
撮影スタッフは、先ほども笑いを堪えて撮った。祥子の横でカメラを回す映画部の部員も、肩が震えていた。
「でも一番笑うのは、委員長だな」
 祥子の横にいる別のスタッフが、早治郎を示した。手に、先ほど飛び散った血の材料、トマトケチャップのチューブが握られている。
緊張したせいで棒読みやぎこちない動きで、何度もやり直している。
嫌な噂もトラブルも何一つ無い真面目な委員長こと早治郎が、麻衣の相手役として、祥子の目に止まった。最初、早治郎は慌てて「塾があるから」と断ったが、「これもクラスのため」と押し切られた。
撮影は、二人が共に命を絶つクライマックスを迎えようとしていた。

互いに武器を持った町人たちと武士たちは、今にも乱闘になろうとしていた。不意に悲痛な叫び声が、境内に響き渡った。
「ああ、私たちは愛し合う契りを貫きたいだけなのに、この境内で、人が争い、血が流されるとは、む、無残な!」
麻衣は懐から懐剣を取ると、傷を堪え自分を守っている早治郎に告げた。
「あなた、あの世で私どもの契りを貫きましょう。先に参ります」
脚本は、麻衣が懐剣を己の胸に突き立て命を絶ち、早治郎も同じ懐剣で後を追う。
「......ざけるな。......んなの」
麻衣が短刀を抜いた時、早治郎が呟きながら、身体を大きく動かした。
「えっ?」
 早治郎は、声の限りに叫んでいた。
「俺はこんなの認めないぞーっ!」
 続いて麻衣をお姫様抱っこすると、境内から森の方へ走り出した。
 あっという間の出来事に、早川先生も、町人や武士姿の同級生や、撮影スタッフの映画部部員たちも呆然と見守るばかり。
祥子は、思わず叫んでいた。
「こんなの脚本に書いてないっ~!」

早治郎は、しばらく走ってから、森の中で止まった。麻衣を降ろし、大木に寄りかかる。
そばに小さい池が水をたたえ、周りに広がる草の中に、紫や黄の小花が点々と続く。
まだ誰も追ってこない。
「みんな、騒いでいるでしょうね」
麻衣はいつの間にかかつらが取れ、着物姿の上に、長い黒髪があらわになっていた。
「早治郎君、なぜ芝居を放り出したの?」
「結末が気に入らなかったから。二人が死んじゃうなんて、やっぱり駄目だ」
 麻衣はくすりと笑った。
「実は私も。祥子はバッドエンドの方が受けるって言っているけど、可哀想だと思った」
 麻衣は小さく背伸びして、話題を変えた。
「早治郎君とは、普段しゃべったことがなかったわね」
「そ、そうかい」
 なおも麻衣は、浪人姿でかつらをかぶったままの早治郎に尋ねた。
「ずっと気になっていたんだけど。どうして、私をまっすぐ見ないの?」
 麻衣が回りこんで尋ねると、早治郎は慌てて顔を背けた。
「いいじゃないかよ」
「ちゃんと私を見て、訳を話してください」
 早治郎は言われた通り、おそるおそる向き直ると、恥ずかしそうに言った。
「かっ、可愛い......から」
「かわいいって?」
「同じクラスになってから、気になっていたんだ。可愛いなって、だ、だから近くで見ると、恥ずかしくて。実は、脚本が駄目なのは、何より麻衣さんが死んじゃうからで......」
 告白に、麻衣は両手の細く白い指を組んで、嬉しそうに応えた。
「私、早治郎君は、真面目にいつも皆のことを考えている、素敵だなって思ってた。だから一緒に芝居をやれて嬉しかったわ」
「それじゃ僕たち、お互い......」
 二人は向かい合った。風が吹き、互いの顔や髪を優しく撫でていく。
と、人の気配を感じ、振り返るとー。
 後ろの木々の間から、いつ見つけたのか、祥子や早川先生、他のキャストや撮影スタッフの面々が注目していた。
 うち一人はカメラを握っており、そのレンズは二人を捕らえたまま。
ハイ、オッケー! 撮影終了っ!

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<著者紹介>
中村 達彦(東京都三鷹市/46歳/男性)

「はい! こんにちは! 今週もやって参りました、FM調布のお時間です。DJテツヤと」
「アヤコがお届けします。今週もいっぱいお便り届いてますよ。みんなありがとね。気合い入れていくわよ」
「今日は特に元気だね、アヤちゃん。何かいいことでもあったの?」
「んー......ちょっとね。ええと、ラジオネーム『焼き林檎』さん、一四歳女性の方からのお便りです」
 ――アヤさんテツさん、こんにちば。いつも番組楽しみにしています。お二人に質問(というか相談)があります。同じクラスのS君が、最近私に冷たい態度をとるようになったんです。S君とは幼馴染で、今までずっと仲良しだったのに、最近はあまり話さなくなって、一緒に帰ることもなくなりました。何か嫌われるようなことをしたっていう心当たりもなくて、どうしたらいいのかわかりません。どうしたらいいですか?――
「一四歳かぁ。いいよね、青春って感じ」
「急に老けこまないでください。焼き林檎さん、お便りありがとう。テツさんじゃないけど、ちょっと私も遠い目をしちゃいました。結論から言うと、あなたとS君は、もう昔みたいには戻れないかもね」
「え? ちょっとアヤちゃん。それはないんじゃないの?」
「ああ、ごめんね。そういう意味じゃないのよ。私、思うんだけど、S君はあなたのことを嫌ってなんかいないと思うな」
「うんうん、僕もそう思うよ」
「上手くは言えないけど、一四歳って、自分も周りもすごく変化していく時期よね」
「そうそう、体も心もね。学校で『思春期』って言葉習わなかった?」
「そうね、だからあえて原因をあげるなら、『戸惑い』ってことかしら。S君が、あなたに対して抱いていた感情が、今までとは違ったものに変わっていくことへの戸惑いね」
「そうそう、本当は好きなのに、照れ隠しでわざと素っ気ない態度とったり、ちょっかい出してみたりね」
「やっぱりテツさんも経験あります?」
「当たり前だよ。男なんてみんな単純なもんさ」
「女の子にしてみれば、くだらないことにこだわってるなって思っちゃうんですけどね」
「そうなんだよな。本当に当時のことが悔やまれるよ。大好きだったトモコちゃん......あ、名前を出すのはまずいかな? そうだ、Tちゃんだ。Tちゃん」
「遅いですよ、テツさん」
「あはは、けど笑いごとじゃないぞ。S君、もしも君が今このラジオを聴いていたら、明日にでも焼き林檎さんにスライディング土下座しなきゃな」
「スライディングって......女の子はそれやられたら逆に引きますって」
「まあ何にしても、後悔はするなってことさ」
「はい。ちょっとためになるテツヤお兄さんのお話でした。あ、そろそろお別れのお時間ですね。それではリスナーのみなさん、ごきげんよう、さようなら」
 ―一週間後―
「はい! こんにちは! 今週もやって参りました、FM調布のお時間です。DJテツヤと」
「アヤコがお届けします。聞いてくださいよ、テツさん。今週もね、焼き林檎さんからお便りがきてるんです。それじゃ、ご紹介しますね。ラジオネーム『焼き林檎』さん一四歳女性の方からのお便りです」
 ――アヤさんテツさん、こんにちは。先週は私なんかのために真剣に相談に乗っていただいてありがとうございました。ほんの少し、S君がスライディング土下座してくれるかもって期待して学校であいさつしたんですけど、S君はいつもと変わらない態度でした。それで今回も相談があります。私が嫌われていないってことはわかったのですが、今のぎくしゃくした関係をどうにかする方法を教えてほしいです。できればテツさんとアヤさんみたいに気さくに冗談を言い合えるような関係が理想です。前回と同じような相談なのですが、よろしくお願いします――
「はい、焼き林檎さん。ありがとう」
「そしてごめんなさい」
「そうね、テツさんのスライディング土下座はコケちゃったし、前回は結局うやむやで終わっちゃったわね」
「いや、きっとS君はラジオ聴かない子なんだよ」
「はいはい。それで、具体的な方法ってことだけど、テツさんは何か良いアイデアないですか?」
「理想が僕たちかぁ。なかなか難しいよね。この年頃の男女って、つい周りの目とか気にしちゃうし」
「それは男の子だけじゃないですか? 私はそんなことなかったけど」
「え? そうなの? う~ん」
「けど、周りの目が気になるんだったら、二人っきりになればいいんじゃないかしら」
「あ、それはいいね。いっそデートにでも誘ったらどうかな?」
「S君は恥ずかしがるかもしれないけど、うまくいくかもしれないですね」
「問題は場所だな。中学生ってお金ないし、年齢制限っていう絶対の壁があるからね」
「どこへ行かせるつもりですか! 真面目に考えてください」
「ははは、ごめんごめん。ええと、ちょっとハガキ見せてくれる? 焼き林檎さんのお住まいは......東京都三鷹市か。それならこの調布とも近いから、このテツヤお兄さんが調布のオススメのスポットを教えちゃおう」
「スポットって、そんなにたくさんありましたっけ?」
「いやいや、何言ってんのアヤちゃん。あるじゃない、調布には深大寺が」
「ああ、なるほど。縁結びのお寺ですね。でも中学生のデートにお寺ってどうかしら? たしかにお金はかからないかもしれないけど、それよりは今度の多摩川の花火大会とかの方がいいんじゃないですか? 一万発も打ち上げるそうですよ」
「あそこは人込みで逆にデートどころじゃないと思うよ。それに、アヤちゃん深大寺行ったことないでしょ? けっこう広いんだよ。蕎麦も美味いし」
「ふぅん。じゃあ今度行ってみます」
「たしかにお寺だから地味な印象もあるかもしれないけどね。のどかに散歩しながらだからこそ話せることだってあると思うよ。例えば遊園地だって、アトラクションに乗ることよりも並んで待ってる間のお喋りの方が楽しかったりするしさ」
「なんだか珍しくいいこと言ってますね」
「珍しいって何だよ」
「あはは、それじゃ焼き林檎さん、頑張ってくださいね。またお便りお待ちしています。そろそろお別れのお時間ですね。それではリスナーのみなさん、ごきげんよう、さようなら」
 ―さらに一週間後―
「はい! こんにちは! 今週もやって参りました、FM調布のお時間です。DJテツヤと」
「アヤコがお届けします。リスナーのみなさんも待ちわびていたのではないでしょうか。私もです」
「あれ? もしかして今週も?」
「そのまさかなんですね。それじゃ、ご紹介しましょう。ラジオネーム『焼き林檎』さん一四歳女性の方からのお便りです」
 ――アヤさんテツさんこんにちは。このハガキが採用されたら三週連続ですね。なんだか私用で電波を使ってるみたいでごめんなさい。でも送らずにはいられない。わかってくださいこの気持ち。先週も真剣に相談に乗っていただいて本当にありがとうございました。そういうお二人の姿勢に共感するファンはきっと多いと思います。ところでテツさん。例の深大寺ですが、今週S君と一緒に行くことになりました。S君は照れていたみたいですが、実は私もちょっとドキドキしています。今から楽しみです――
「うんうん、やっぱりファンあってこその番組だよね。とっても嬉しく思います」
「焼き林檎さん。頑張ってね! 応援してるよ! そしてこれからもFM調布をよろしくね」
「二人の恋が実るといいねぇ」
「本当にそうですね。焼き林檎さん、来週もお便りお待ちしてます。電波ジャックなんて気にしないでね」
「そうそう、みんなには僕がスライディング土下座しておくからさ」
「そのネタはもういいですって」
「言ったなー。じゃあ残りの時間は僕のとっておきのネタを......」
「あ、もうそろそろお別れの時間ですね。それではリスナーのみなさん、ごきげんよう、さようなら」

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<著者紹介>
TONY(神奈川県大和市/21歳/男性/大学生)

「それはない。それはないよ、おばあちゃん!」
 可奈はバスを追い、ひたすら自転車のペダルを漕いでいた。途中赤信号があったり停留所があったりするので、自転車でもなんとか追いついて行ける。でも、野イチゴ模様のワンピースの背中は、にじみ出た汗がベッタリとはりついていた。
「ああ、お気に入りのワンピに汗じみが......」
 この春から大学一年生の可奈。今日は午後が休講になったので、お昼代を浮かそうと学食に寄らず家に帰る途中だった。おこづかいとは別に一日五百円のお昼代をもらっているのだけど、思わぬ買い物をしてしまったのでお財布がピンチなのだ。
 調布駅の駐輪場から自転車を出して家に向かおうとしたら、バス停に並ぶ人々の中で白い日傘が目に入った。
「あ、私のと......」
 先週の日曜、代官山のお店で見つけた日傘。象牙色の大きなフリルに白い小さなレースの縁取りがある。さしてみると、白バラの蕾がフワリと花開くようだった。ただ、値札の七千八百円は、可奈にとってドキドキするような金額だった。
 高校の制服は、どんよりとした紺色でとことんダサかった。あこがれは乙女チック。ピンク、フリル、花柄、フワフワ。高校を卒業したら毎日カワイイお洋服を着ようと心に誓ってきた。ねらい目はもっぱらレトロな古着屋さん。気絶するほどかわいいブラウスが二千円ぐらいで手に入るのだ。
 代官山の古着屋さんを目指す途中のお店で出会ったバラの日傘。買わなければ一生後悔する! と手に入れた。だから、見間違うはずがなかったのである。
 バスに乗り込むためにスイッと日傘がたたまれ、持ち主の顔があらわれた。
「マジ!?」
 日傘の持ち主は意外にも若い子じゃなくて年寄り、それも見慣れた――あろうことか、可奈のおばあちゃんだった。
「......あれ、私の!?」
 おばあちゃんは可奈のママのお母さん。おじいちゃん亡き後、可奈の家族と一つ屋根の下に住んでいる。
 おばあちゃんはハデでも若作りでもない。世間一般の「おばあちゃん」というカテゴリーにぴったり当てはまるタイプだ。「着やすいのが一番」と、ユニクロなんかで買ったのびのびジーンズやカットソーを愛用している。そんなおばあちゃんが最近可奈のファッションにやたら注目するようになった。可奈のフワフワなパフスリーブのワンピをまぶしそうに眺めて「かわいいちょうちん袖! なつかしいねえ」なんて言うのだ。
 バスの行き先は「深大寺」となっていた。おばあちゃんは終点まで行かず、手前の「神代植物公園」で下りた。おばあちゃんはふたたびバラの日傘を広げ、吸い込まれるように園内に入っていった。可奈も駐輪場に自転車を入れ後を追った。
「入場料五百円......うう」
 イタイ出費だけどこの際しょうがない。園内に入りキョロキョロ見渡すと、うっそうとした森の中にバラの日傘がゆらゆらと小さくなっていくのが見えた。可奈は小走りに追った。空はどんよりとした曇り空で今にも雨粒が落ちてきそう......。深緑の木立がつくる深い影がいっそう可奈の疑問をかきたてる。
「なんで雨が降りそうなこんな日に日傘なわけ!? それも、私の!」
 パッと視界が開けると、広い園庭にバラの花が咲き乱れていた。大輪のバラ、小さく可憐なバラ、深紅のバラ、ピンクのバラ......。バラが咲き乱れる向こうに、バラの日傘をさしたおばあちゃんがたたずんでいた。隣には知らないおじいさんが立っている。おじいさんはスッと背筋が伸びて、チノパンに薄いブルーグレイのシャツが似合っていた。
 今まで焦って気がつかなかったけれど、おばあちゃんはいつものユニクロファッションじゃなかった。たまにお芝居に行くときに「一張羅よ」といって着る浅黄色のワンピース姿。、ぺたんこ靴じゃなくて、ヒールがあるベージュのパンプスを履いていた。
「おばあちゃん、おしゃれしている......」
 バラの日傘にさえぎられて、おばあちゃんの顔が見えない。どんな表情をしているか、可奈はとても知りたいと思った。
 ふたりはゆっくりとバラ園を歩き回ってから、園内のカフェに入っていった。ガラス窓越しに、おじいさんがセルフサービスのアイスコーヒーと水をふたり分トレイに載せて運んでいるのが見えた。おばあちゃんは一番奥の席に座り入り口を背にした。可奈は入り口近くの席にこっそり陣取った。
「自販機なら百五十円ですむのに......」
 四百円のメロンソーダをストローでちびちび吸いながら、上目づかいでふたりの様子をうかがった。
 おじいさんは始終笑顔で、おばあちゃんに話しかけている。
「確定。あの人はおばあちゃんのカレシだ」
 可奈が納得したとたん、おばあちゃんがおもむろにコップの水をおじいさんの顔にバシャッと浴びせた。
「ぶっひゃあ!」
 可奈はストローを吹き出して素っ頓狂な叫び声をあげてしまった。まわりのお客さんが驚きの目でおばあちゃんと可奈を交互に見た。おばあちゃんが振り返った。可奈を見つけ目を見張ると、スッと立ち上がり早足で出ていってしまった。あたふたと席を立とうとした可奈に向かって、おじいさん近づいてきた。
「もしかして、君は頼子さんのお孫さん?」
 頼子さんとはおばあちゃんの名前だ。可奈が小さくとうなずくと、おじいさんはきれいに折りたたまれたハンカチで濡れた顔をぬぐいさわやかに笑った。
「若いころの頼子さんによく似ているなあ」
 水をかけられた申し開きはなし。
「水もしたたるいい男になってしまったね」
「はあ(ベタだ)......」
「さてと、僕も失礼するかな。おばあさんによろしく」
 おじいさんも出て行ってしまった。一人残された可奈はしばらく呆然としていたけれど、気を取り直してお店の人とお客さんに「どうも、お騒がせしました」とペコッと頭をさげ(一応身内なので)カフェを出た。すると、隣の売店からおばあちゃんが出てきた。どうやら、隠れて可奈を待っていたようだ。
「可奈ちゃん......ごめんね」 
 おばあちゃんは可奈を伴ってもう一度バラ園へ向かった。途中、ポツポツと話し始めた。
「......あの人はね、むかぁし、おつきあいしていた人」
「むかぁしって、どのくらい前?」
「えっと......かれこれ四十五年になるわね」
「よ、よんじゅう......ごって、すごいね」
「ふふふ。でもね、時間がたってしまえば、そんな昔にも思えないものなの。四十五年前に私はあの人と別れ......いえ、あの人に私が捨てられたの。別に好きな人ができたって言われてね」
 可奈は思わず首をすくめた。おばあちゃんから昔の恋バナ(それも失恋!)を聞くなんて思いもしなかった。
「あらら、孫にこんな話しちゃっていいのかしら。......いいわよね」
 可奈は曖昧にうなずきつつ、恋愛事情って昔も今もあまり変わらないかも......と思う。
「お別れしてしばらくしてから、私はおじいちゃんとお見合いして一緒になったの。あの人も結婚したけど、しばらくして離婚したって風の便りで聞いたわ」
「今になってどうして再会したの?」
「今年の冬、お葬式でバッタリ。亡くなったのが共通の古い友だちだったのね」
 そういえば、とても寒い日におばあちゃんが喪服で出かけたっけ。
「あの人三度結婚して三度離婚して、今は独りだって。要は浮気性ってことかしら。それで今度ふたりで会いましょうって言われてね。私が調布であの人は三鷹に住んでいるから、お互いバスに乗って中間地点のここがいい。あの人、バラの花が盛りのころに会いましょうって。それが今日。昔からロマンチストだったけど、変わっていなかった」
「どうして、私の日傘を持って行ったの?」
 可奈が一番聞きたいことだ。
「こっそり借りちゃってごめんなさいね。私も昔こんなふうにかわいい日傘を持っていたの。あの人と会うときにもよくさしていったわ......。今日、どうしても実行したいことがあってね。でも、いざあの人を目の前にしたらたぶん気持ちが萎えてしまう。でも、それじゃ会う意味がない。あれこれ悩んでいたら可奈ちゃんがこの日傘を買ってきたの。これがあれば、勇気を後押ししてもらえる」
「勇気って、コップの水をかける勇気?」
「そう。喫茶店で別れ話をしたときに、やろうとしてできなかったこと」
「じゃ、じゃあ、復讐できたんだね」
 おばあちゃんは、曇り空を見上げて苦っぽくほほえんだ。
「でもね、これは終わりじゃなくて始まり。やっと昔の決着をつけたから、ここからがスタート」
「え、......あの人とつきあうの?」
「わからない。のっけからあんなことしちゃったもの......許してくれるかしらね。あの人浮気性だし......これからどうなるかしら」
 おばあちゃんが可奈にバラの日傘をさしかけた。
「でもね、この年になってこういう気持ちを味わえたのは、可奈ちゃんの日傘のおかげ」                
 おばあちゃんのほっぺはほんのりバラ色。可奈はきれいだなと思った。

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<著者紹介>
くらお ことえ(東京都)

 ひんやりとした静謐な空気。深い緑に溶け込む平屋建ての建物と、天を突くような供養塔の前で立ち尽くす、黒いワンピースの後ろ姿を、勝哉は黙って見ていた。
 時折鼻を啜る由美は、石のようにその場を動こうとせず、勝哉は溜息を吐いてその背に声をかけた。
「...お焼きが終わるまでまだ時間がある。待合室で待っていよう」
 由美が見つめる絡み合う銀色の太いパイプが生えた平屋の中で、彼女の愛猫が、今、灰に還ろうとしていた。
深大寺動物霊園―調布にある深大寺の緑深い敷地の奧に、ひっそりとある。
調布に住んで五年。都心に務めに出ているせいもあってか、家の近くにこんなに緑豊かな場所があるとは、勝哉は今日まで知らなかった。
待合室は火葬場の裏手、先ほどの供養塔をぐるりと迂回した場所にある。
由美を促して湿った緑の匂いの中を歩くと、無数に立てられた紫の幟が風にはためいていた。南無十二観音菩薩と白く染め抜かれた幟は、一本1本よく見ると、『愛猫ミケ』『愛犬太郎』などの名前が書かれている。
飼い主の愛情の現われか―どちらかというと動物が苦手な勝哉は、冷めた目でそれらを眺める。
振り返ると、由美が赤い目で1本の幟を凝視している。『愛猫チョビ』の名に、勝哉は思わず眉間を寄せずにはいられない。

由美から電話があったのは、昨夜遅くの事だった。
付き合って一年になるが、キスはおろか、手を繋ぐ事もままならない。
二十代後半にもなってもお互いの指先が触れただけで手を引っ込めてしまうのは、勝哉が女性に奥手なのと、由美が人見知りをする性格のせいだと思う。
ふたりの仲を進展させたくて、勝哉は連休前のデートで由美に旅行を切り出した。彼女は曇り顔でアイスティーの氷をストローで掻き回し、歯切れ悪く呟いた。
「あの...勝哉さんのお誘いは嬉しいんだけど...チョビの具合が良くなくて...」
 由美の返事は、はち切れんばかりに膨らんだ風船のような心を、音を立てて空気が抜けていくようにしぼませた。
自分との旅行より飼い猫を優先した由美とカフェで別れた後、持っていった旅行のパンフレットを道ばたのくずかごに放り込んだ時の苦みは、いまだ胸の奧にこびり付いている。
 最悪な状況でスタートした連休。部屋でテレビを観ながらゴロゴロするしかない勝哉は、由美から電話に顔を顰めた。
 普段はメールでしかやりとりをしない。鳴り響く着信音に、勝哉は訝しんで電話に出る。
「ひっく...勝哉...さん...」
「由美ちゃん...!?泣いて...いるのか!?」
 耳に聞えた由美の涙声に驚いてケータイを握り締めると、掠れた声が耳をついた。 
「助けて...勝哉さん...」
「だからどうしたんだよ!?もしもし!?」
「チョビが...死んじゃった...」
 電話の向こうで号泣する由美に、これから行くとだけ告げて、勝哉は財布とケータイだけを持って家を飛び出した。
 一度だけ訪ねた事のある、同じ調布市の彼女のマンションまでタクシーで飛ばし、インターフォンを鳴らす。
ほどなくして出て来た由美は、青い顔に目だけが真っ赤に充血し、見た事もないほどに憔悴仕切っていて、勝哉は声もなかった。
「勝哉...さ...ん」
「こ...こんな所じゃなんだから中に...」
 絞り出すようにやっとそう言って、由美を部屋の中に促し、リビングに足を踏み入れると、テーブルに敷かれたバスタオルの上に、彼女の飼い猫が静かに横たわっていた。
 チョビと名付けられた白黒の猫。以前、勝哉が来た時に、散々匂いを嗅ぎ回った挙げ句、歯をむき出して威嚇してきた憎たらしい猫。五月連休の由美との旅行を台無しにした元凶だ。
 猫の具合が悪かったのは本当だったのか。そんな事を頭の片隅でぼんやりと考えていた勝哉の前で、由美はテーブルの前に膝から崩れ落ち、猫を掻き抱く。
「あたし...もうどうしたらいいか...わかんない...」
 猫の毛に顔を埋めて震える由美に、勝哉こそ、どう言ってやればいいかわからなかった。
深大寺動物霊園を知ったのは、由美のパソコンで霊園を検索していた時だった。
 交通手段を考えていたら、車で迎えに来てくれると書いてあった。勝哉は猫を抱いたまま床に座り込んでいる由美の前に立った。
「近くに動物霊園がある。そこでチョビを見送ってやろう」
 由美はノロノロと顔を上げ、勝哉を見る。まるで由美こそが死人のようだったが、勝哉は構わず由美の前にしゃがみ込んだ。
「どこかに埋めるにも、ここら辺はそういう場所は無いし、由美ちゃんにとってチョビは家族なんだろ?俺も一緒にいくから...ね?」
 言い聞かせるように顔を覗き込むと、由美は腕の中の猫を見下ろす。
新たな涙を滲ませた彼女は、微かに頷いた。

 賑やかな笑い声が背後から響き、勝哉は回想から引き戻された。
ふたりの横を観光客らしいオバサマ方が、冊子を手にゾロゾロと歩きながら話していた。
「あら、そこにもお蕎麦屋さんがあるわね。深大寺って本当にお蕎麦が名物なのね」
「バス通りの水車小屋の側にも何軒かあったわね。これだけあるとどこに入るか迷うわぁ」
 その声に目を巡らせると、民芸調の店の前で、店員が声を張り上げ客引きをしている。
「由美ちゃん、昨夜からなにも食べてないだろ?蕎麦なら喉通るんじゃないか?」
 気を使って尋ねると、由美は小さく頷き、ホッとして勝哉は蕎麦屋に向かって歩き出した。
 木々の間に五月晴れの空が覗く屋外の席に案内され、毛氈を敷いた椅子にテーブルを挟んで腰を下ろし、ざるそばを注文する。
 店員を見送ると、店のガラス張りの窓の向こうで、手ぬぐいに作務衣姿の若い職人が麺棒を使ってリズミカルに蕎麦を打っていた。
「本格的な手打ち蕎麦だな。まさか調布にこんな場所があったなんて知らなかったよ」
「ごめんなさい...」
 小さな声に驚いて顔を上げると、由美は俯いたまま肩を窄めていた。
「えっと...なにが?」
「...色々...せっかくの連休なのにこんな事に付き合わせちゃって...」
「別にいいよ。どうせ予定はなかったんだし」
「...旅行も...せっかく誘ってくれたのに、どうしてもチョビを放っておけなくて...」  
「...本当に病気だったんだから、仕方ないと思ってるよ」
 正直言えば、猫は断る口実だと思っていた。猫が死んで窶れた由美を見るまでは。
「ありがと...」
 顔を上げると、由美は俯いたまま肩を窄めていた。
「別にいいよ。礼なんて」
「ううん...チョビのためにここまでしてくれて感謝してるの。勝哉さん...チョビが苦手だったのに...」
「ん~...苦手といえばそうだけど、俺を嫌っていたのはチョビの方だと思うけど」
「そうね...だからあたし...いまいちあなたに踏み込み込めなくて...」
 言葉途中で口を濁す由美に、勝哉は眉間に皺を寄せた。
「...そこは自分の目じゃなく、猫が判断するのか?」
「だって...動物は正直よ。良い人か悪い人か、猫にはわかるのよ」
「じゃあさ、俺、今まで君に悪い事した?」
「それは...そんな事は...」
 不穏な空気がふたりの間を流れた時だった。
ニャオウと猫の鳴き声が高く響き、由美はびくりと顎を上げ、勝哉も反射的に顔を向ける。
ふたりの視線の先、背の高い草の間から、白黒の猫が長い尻尾をゆったりと振っていた。
「チョビ...!」
 由美が声を上げたと同時に猫は身を翻し、神代植物公園の方向に駆けて行ってしまった。
「ざる蕎麦二丁お待たせしました~」
 店員の明るい声がかかり、蕎麦ちょこと薬味が蕎麦と共にふたりの前に置かれる。
 一足先に我に返った勝哉は、まだ猫が消えた方を呆然と眺める由美に声をかけた。
「...チョビとよく似た猫だったな。驚いたよ」
 由美はハンカチで顔を押さえ、掠れた声で呟いた。
「...喧嘩するなって...チョビが...」
「え?」
「そう言われた気がしたの...」
「...そう思うならいいんじゃないか?」
 あくまでも猫に判断を委ねようとする由美に、勝哉は呆れと諦めの溜息を吐く。
「それより蕎麦、伸びる前に食べよう」
 勝哉は箸を取り上げ、由美に差し出すと、彼女は箸ごと勝哉の手をそっと握りしめる。
 驚く勝哉に、由美は睫毛を伏せた。
「勝哉さんって...いつも自分の事よりあたしの言う事を優先してくれるよね...」
「そ...そうだっけ...そ...そんな事は...」
 口籠もる勝哉に、由美は顔を上げた。
「ありがと...側にいてくれて...」
向けられた由美の微笑みと温かな手のぬくもりに、勝哉は動揺に目を彷徨わせ、その手をぎこちなく握り返した。

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<著者紹介>
まひる 悠(神奈川県厚木市/女性/自由業)

「美優(みう)さ。幸太のこと好きならさ。お寺さまでお参りすればいいんだよ」
 クラスメートのナナは、コップの底についている水滴を、ペーパーで拭き取りながら、さも当たり前のように言った。
 ナナはクリームあんみつを、美優は冷じるこを食べている。ナナは、あんみつに入っているさくらんぼを、美優の冷じるこの中に、ポイッと入れた。缶詰のさくらんぼが嫌いだからというのはわかるが、別に私もいらないんだけど......。美優はそう思いながらも、口の中に放りこむ。
 深大寺にほど近いこの甘味屋に、ナナと立ち寄るのはお小遣いがもらえる毎月一日。高校三年になって、お小遣いがアップしてから始めた。今日は7月1日だから、これで四回目だ。二人の間で言う「お寺さま」とは、深大寺のこと。クラスメートであり、幼なじみでもあるナナと美優は、この寺の近くで生まれ育った。
「深大寺っていうのは、縁結びで有名なお寺で、その歴史は古く......。って何を今さら、言うかなぁ? ナナ知ってるよね。私が、小学生の時は、あっくん、中学生の時は、壮(そう)希(き)、それから、えっと。とにかくいつも両想いになりたいってお祈りしてるじゃん!」
 ナナのなんとなく上から目線の言い方が鼻につく。最近彼氏ができたからって。
「美優違うんだってば。両想いになれますようにってお祈りしてたんでしょ。それじゃ、ダメなんだってば。いい? あのね......」
 ナナは、美優のほっぺに触れるくらい顔を近づけて話し始めた。

 美優はその夜、湯船に浸かりながら、昼間ナナが教えてくれたことを思い出していた。
 好きな人と両想いになる方法。それは、ちょっと意外なものであった。まず願い事を書道用紙に筆で書く。(どうしても苦手な場合は、筆ペンもあり、だそうだ)書いたら、深大寺のお守りの中に入れ、それを持って一か月間毎日かかさずお参りに行く。そして、その願い事のことだけを、ひたすら祈る。
 ただし「両想いになれますように」ではいけない。好きな人の願い事、つまり「幸太の願い事」は何かを自分で考え祈れというのだ。
 にわかには信じがたかった。幸太の願いが叶えば、幸太と両想いになれるなんて、どう考えてもつじつまが合わない。もし幸太の願いが、クラスで一番人気の綾香とつきあいたいだったら? 美優は今ひとつ納得できなかったが、ナナはそれで彼氏ができたと喜んでいたし、やるだけやってみようと思い直した。
 幸太が今、望んでること。やっぱり志望大学に合格? でもそれは大丈夫か、前回の模試でも合格ラインだったし。綾香のこと? 可愛いとは言っていたけど、つきあいたいって意味ではない......と思いたい。
幸太の姿を思い浮かべ、美優は一生懸命、考えた。風呂から上がった美優は、おばあちゃんの部屋から、書道用紙と筆ペン、そして広告の裏紙を拝借した。裏紙に「幸太が願っているであろう事」を何度も何度も練習する。右手の小指側が真っ黒になっている。まぶたが重くなってきた頃、姿勢を正して、ようやく書道用紙に向かった。
「七月三〇日土曜日、高校生活最後の交流試合。神尾幸太君がレギュラー出場して、ホームラン打ちますように。」
 書き終えた後、最近好きなキャラクター「ソラカラちゃん」のシール、中でも一番大事にしていたものを、用紙のすみにそっと貼った。

 早速次の日から、美優は「お寺さま参り」を始めた。いつも立ち寄っているから、毎日のお参りなど訳ないことだと思っていたが、一日も欠かさずとなると意外に大変だ。平日はともかく、友達と遊びに行く土日は、早起きしてお寺さまに向かう。帰りでは、塾のない日の門限八時を過ぎてしまうし、門限を破っては、願いも叶えられそうにないからだ。
 しかしそれ以上に難しいのが、「幸太が願っているであろう事」だけを祈るということ。つい自分の願いも頭をよぎる。成績上がりますようにとか、痩せますようにとか。自分より相手のことを優先して考えたことって今まであったかな? 美優は、ふとそう思う。

 お参りを始めて十日が過ぎた頃、美優の心にある変化が起こり始めた。「幸太の願い」を祈っていたつもりが、「幸太の願いが叶うことが私の願い」になっていたのだ。
高校生活最後の試合で、本当にホームランを打ってほしい。幸太はいつも「俺は万年ベンチ暖め係応援隊だ」と笑っている。二年生の終わりまでは、ほとんど試合に出させてもらえなかった。たまにレギュラーに選ばれてもスタメンではないし、今ひとつ結果を残すこともできなかった。でも、とにかく野球が好きで、仲間が好きで、だから試合に出られなくても満足している、幸太はそう言っていた。しかし、心の中はどうだろう? 当然、応援ではなく自分が試合に出て、勝利に貢献したいに決まっている。だったらこの試合が最後のチャンスだ!美優は心の底から、幸太が活躍してほしいと願った。
 
あの甘味屋でナナに「両想いになれる方法」を聞いた次の日から、お参りを始めて28日。いよいよ明日が運命の7月30日だ。一か月にはちょっと足りないのが心配だったが、始めたのが2日からだから仕方ない。
 もちろん美優は、応援行くつもりだった。でも行けなかった。お母さんが、熱を出してしまったのだ。美優の家は、蕎麦屋を営んでいる。かき入れ時の週末に、お母さんなしでは、とてもじゃないが店は回らない。お父さんも、それとなく美優の恋に気づいているパートの典枝さんも、応援に行けと言ってくれる。しかし幼い頃から、店を見てきた美優にとって、それはかなり無理があることだとわかっていた。膝を痛めているおばあちゃんまでもが手伝いを買って出ようとしている。今日は自分が店を手伝うべきだ! 美優は、髪を一つに束ね、赤いエプロンをつけた。
 
 二時半頃、ようやく店が落ち着いた。お父さんが作ったお粥を、お母さんが寝ている部屋に運ぶ。お母さんは、食欲がないと言いながらも、7割くらいは食べた。回復に向かっている様子で安心する。美優は、ふと聞いてみたくなった。
「お母さんはさぁ、深大寺にお参りする時、何をお祈りするの?」
「何をって、そりゃぁ、美優や、お父さんたちが健康で幸せでありますように、だよ」
 お母さんは、ぬるめの、いつもより薄くいれたお茶をすすりながら答えた。
「じゃあ、自分の願い事はしないの?」
 お母さんは、即答した。
「家族が幸せなら、お母さんも幸せに決まってるじゃない。他に何を祈ることがある?」
 
美優は、この一か月近く、自分がしてきたことの意味がわかったような気がする。相手の願いや幸せを祈った時間。それは自分にとってもまた幸せな時間だったのだ。もちろん両想いになりたいが、なれなかったとしても幸太を大切に思う気持ちに変わりはない。
ほどなくナナからメールが届いた。「試合負け、ホームラン打てず、でも頑張った!」と。
美優は、店が終わるとすぐにお寺さまに向かった。結局、幸太はホームランを打てなかったが、試合には出られたし、なんだかお寺さまに、お礼を言いたい気分だったから。
 
石段を駆け上り、門をくぐると、見覚えのある後ろ姿が。なんと幸太だ! 美優の心臓の音が聞こえたのか? 幸太が振り返る。幸太は、美優がいることに、ひどく驚いていた。
「応援行けなくてごめん。試合、残念だったね。でも幸太頑張ってたってナナに聞いた。」
 幸太に落ち込んでいる様子はなく、むしろ活き活きとして見えた。
「俺、試合で初めてスリーベースヒットを打ったんだ。満塁だったから、3点取って。まぁ、次が三振で、結局俺はホームベース踏めなかったんだけど。それも俺らしくね?」
 幸太は興奮しながら、今日の試合の様子を話した。美優は嬉しかった。負けても幸太は満足している。ホームランではなかったが願いは叶ったも同然だ。急に幸太がだまった。
そして意を決したように口を開く。
「勢いついでに言わせてください! 深沙大王様、力をお貸しください! えっと、美優さん、僕とつきあってもらえませんか?」
 普段は「俺」って言う幸太が、なんで急に「僕」? 美優は吹き出してしまった。一瞬幸太が不安そうな顔をしたので、慌てて美優も真面目な表情を作る。
「私で......、あの私でいいの?」
 幸太は、大きくうなずき、美優をみつめる。
「深大寺スゲぇ。ほんとに叶っちまった。なぁ、美優知ってる? 深大寺の魔法」
「えっ? 魔法? ああ、好きな人の願い事を祈るってやつ?」
「俺さぁ、それやってみたのよ。でも、美優の願い事、全然わかんなくってさ。で、仕方ないから、美優の願い事が叶いますように、って書いたんだ。でも、そんな漠然なの、なんかずるいだろ。だから俺、朝晩2回お参りしたんだ。倍祈れば、大王様も許してくれるかなって。ところで美優の願い事って何だろ? きっと叶うよ。俺も叶ったから」
 美優は、泣いた。嬉しくて泣いた。幸太も目を潤ませながら、微笑んでいる。
その日は二人でお参りをした。ちょっとだけ、散歩して帰ろうと、神代植物公園を歩いているとき、幸太がそっと美優の手に触れた。美優は、その手をキュッと握りかえした。

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<著者紹介>
十和 ゆき乃(東京都品川区/40歳/女性/主婦)

 彩夏はまだらに陰の落ちる深大寺のバス通りを歩いていた。引っ越してすぐの新居にはまだクーラーがついておらず、室内にいるだけで蒸し焼きにされるような熱さに襲われたからだ。梅雨も明けていないというのに気の早いセミがどこかで鳴いている。
 夏が、くる。もうすぐそこまで迫っている。
「あーつーいー」
 彩夏は呻きながら日陰の道を選び、参道へ入った。境内を抜けて石階段を登れば避暑地は目の前だ。仲見世に軒を連ねるお蕎麦屋さんから次から次へと呼び声がかかるが、会釈を返しながら店先を通過した。平日の昼前という時間帯からか人影はまばらで、明らかに彩夏に声をかけていたが、お昼を食べたばかりなんですと心の中で言い訳した。
 竜頭の滝の前を歩くとひんやりと冷気が漂った。湧水だ。湧き水は冷たい、とひらめいた途端に彩夏はしゃがみ込んでいた。指先を水面につける。気温は三十度近くあるだろうに、流れる水はとても冷たかった。上流からやって来た木の葉がくるくる回りながら彩夏の指先近くを過ぎていく。
 ほぅ、と息をついたときだった。
「おまんじゅう、いかがですか?」
 不意に声をかけられた。
 彩夏が視線を上げると自分と同世代くらいの青年が、お盆におまんじゅうを乗せて腰を屈めていた。なにやら緊張した面持ちである。
「いえ、結構です」
 おまんじゅうは美味しそうではあったが、お腹がいっぱいの彩夏はすげなく断った。逃げるように山門をくぐる。正面に鎮座する本堂に一礼して、日陰を求めて目についた階段を登った。元三大師堂の階段である。
 求めていたものがそこにあった。木陰だ。おみくじや護摩木を涼を堪能しながら見て回り、彩夏は運試しとお財布を取り出した。
 開運招福お守の方へ二百円を落とし、おみくじの中へ手を入れる。一番に指先に吸い付いたものを引き上げた。
「吉、かぁ」
 声に落胆が混じる。じっくり目を通すと恋愛運だけは良かったのでまあよしとする。一緒について来たお守りは亀だった。金運があがりますようにと、お財布に入れた。
「お、大吉」
 横から羨ましい声がしたので、顔をそちらへ向けた。
 さきほどの青年だった。
「待ち人すぐ来る、かぁ」
 やたらと嬉しそうである。彩夏はじわりと距離を取った。
「あれ、また会いましたね」
「奇遇、ですね?」
 無視するのも失礼だろうと彩夏が恐る恐る声をかけると、青年は営業スマイルを浮かべた。
「休憩になったので、涼しい所へ行きたくて」
 別に追いかけて来た訳じゃないですよ、と青年は続けたが、すこぶる胡散臭い。
「今日は何をしに深大寺へ? 縁結び、とか」
「と、言うわけじゃないんですけど」
 言葉を濁して矛先を交わそうと思うが、青年は理由をいうまで彩夏を解放してくれそうになかった。さっきおまんじゅうを買っておけば良かったか、と後悔がよぎる。
「家が暑くて、ちょっと涼みに」
「へぇー。お近くですか?」
 えぇまあと目を逸らしながら答える。
「もっと上行った方が涼しいですよ。木立と剥き出しの土で、ひんやりしてて」
「知ってます。昔住んでましたから」
 冷たく返してから、しまった、と気付く。青年はその答えを聞いて驚き、ついで嬉しそうに笑った。
「じゃあ帰って来た、ってことですか?」
「そぉですねー」
 小学校の二年生くらいまでこの近所で暮らしていたが、父の仕事の都合でその先は地方都市で過ごした。大学は東京を選び、土地勘のある深大寺界隈に彩夏だけが戻ったという訳だ。
 青年は彩夏の返事に機嫌を損ねるでもなく、一人楽しそうに続けた。
「僕も子供の頃から近所に住んでるんですよ。もしかしたら、どこかで会ったことがあるかもしれませんね」
「そうかもしれないですねー」
 彩夏の気のない返事にもへこたれる様子がない。むしろ嬉々として、上へ行きませんかと誘って来た。断りたかった彩夏だが、あの蒸し暑い家に戻る気にはなれず、渋々距離を取ってついていった。
 本堂の裏手に回ると保護林が待ち構えていた。
「あ、涼しい」
「自然は偉大だー」
 青年も感心したように梢を見上げている。この事態をどうしたものかと彩夏は内心頭を抱えたが、それよりも興味を引くものを見つけて、そちらへと駆け寄った。
 クマザサだ。一葉だけ摘み取る。
「ササか、懐かしいな。小さいころ笹舟とか作りませんでした?」
 そう問われ、彩夏は作りましたね、と小さく応じた。
 子供の頃はよく作っていた。自分でいうのもなんだがとても上手で、友達みんなに教えていた。
「なんだかすごく懐かしいなぁ。子供のころ笹舟作るのが得意な女の子がいて、その子によく教えてもらってました。僕、結構ぶきっちょで、なかなか作れなくて」
 ちく、と彩夏の記憶のどこかがうずいた。
 ぶきっちょ。
「女の子はどんどん作っちゃうのに、僕は全然作れなくて。下の川に流しに行こうって一緒に遊んでたみんなに急かされて、余計焦って大変だったなー」
 記憶が微かに呼び覚まされる。そう、彩夏も、この場所で遊んでいた。笹舟を作っては下の湧水まで駆けていき、誰の舟が一番早いかよく競争した。その中には確かに、笹舟が作れなくていつも苦戦していた男の子が、いた。
「でもその子と遊びたくて、いつもここに来てました。その女の子、帰る時間になると『また明日ね!』って元気よく言って、帰っちゃうんです。次の日になると、知らない子がいてもあっという間に仲良くなっちゃって。すごかったなぁ、引っ込み思案だった僕からすると、憧れでした」
 まぶしそうに青年が目を細める。
「でもね、その女の子が急に来なくなっちゃったんですよ。何日も何日も待ったんですけど、全然来なくって」
 青年は彩夏を見つめた。満足げな表情が浮かんでいるように思えるのは気のせいだろうか。
「それからずっと、ここで待ってるんです」
「なんでその子はいなくなっちゃたんですか?」
「さぁ、それは今でもわかりません。中学校に上がっても高校へ行っても見つからなかったから、どこか遠くに引っ越してしまったのかも」
 引っ越してしまった、笹舟を作るのが上手な、女の子。
 話を聞けば聞くほど、心当たりが増えていく。
「でも、もしかしたら、見つかったかも」
 目をまっすぐに見て、微笑まれる。その笑顔にどこか、見覚えがある気すらしてくる。なぜだろう、ずっと、忘れていたのに。
 深大寺に帰りたいと、心のどこかで思っていた。あのぶきっちょに、また明日って約束したんだから、帰らなきゃと、ずっと思って。
 やっと、帰って来た。
「もうひやひやしてたんですよー。僕の知らぬ間に帰って来たらどうしようって、バイト先も深大寺にして。ここんところ観光客多かったし、見逃してたらどうしよーって思ってましたけど、そんな事はなかったみたいですね」
 青年は心底、嬉しそうだ。
「あなたの名前を当ててみましょうか?」
 さら、と風が流れる。梢が揺れる。
「彩りの夏と書いて、彩夏。違います?」

 季節外れのうぐいすが、林のどこかで鳴いていた。

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<著者紹介>
鈴村 創(東京都)

下りの京王線は空いている。理由は良く分からないし、どうでもいい。とにかく、今私は疲れている。電車の窓の奥、遠い空を何も考えないで見ていたく て、こんなところまで乗ってきてしまった。曇り空だ。それでも直接目を向けると、空は曇り空と言っても、だいたいまぶしい。想像以上にまぶしくて、視界が ちかちかする。自分勝手に出来ると確信したり、物事をなめてかかったりするとだいたいの事は、上手くはいかない。各駅停車の中から、見るでもなく見るのが 空なんてものはいいのだ。自分に言い聞かせてやろう。独りよがりに上手く行くと思うな。何にも気付いていないようなお前は痛い目にあう事になる。昨日まで 気付かなかった事だが、独りよがりであるという性質は、社会に生きる者として、実は相当に最低な性質なのだんだから。
 付き合って四年だった。お 互いにいい年だし、私の仕事は経済的にも社会的にも落ち着いてきていた。そのうち結婚するんだろうと思っていたし、彼女もそう思っていると思っていた。 思っていただけで詰めた話をしたわけでないし、もちろんプロポーズもしていない。ただ、そうなるんだろうと、高をくくっていただけだ。全て私の事情、私だ けの準備が整っていただけに過ぎない。とにかく私は独りよがりだったのだ。
「別れようか。」
 こういったセリフを自分の恋人の口から聞く時、人はだいたい一度では聞き取れないものだ。もう一回言ってと聞きなおした。
「別れようか。」
  聞き取る事は出来たが、今度は意味を理解できない。正しくは、日本語として読解はできるが、この状況を理解出来ないという事だった。その後二度ほど聞きな おし、自分の置かれている状況をやっと飲み込んだ。その時私は、四年付き合った恋人に振られていた。ついさっきまで自分のものだと思っていたものは、勝手 に自分のものだと思い込んでいただけで、私のものではなかった。気持ちが冷めたという人にすがっても、状況がどうにもならない事くらいは知っている。知っ ているだけで実践出来る訳でなく、私は年甲斐も無く「いやだいやだ」と、彼女にすがって繰り返し、嗚咽し泣いた。そして、昨日から彼女は居なくなり、今私 は、京王線に乗っている。アクティブな現実逃避だ。この沿線の景観は美しい。地下鉄から地上に出ると、ビル群で狭くなっていた空が、郊外に進むにつれどん どん広くなり遠くまで見渡せるようになる。ちっぽけなくらいに家々がどこまでも果てまで続く様は、都会で暮らすちっぽけな自分を俯瞰で見ているような気分 になる。ぽつぽつとしか無かった緑色が家々の間を埋めるように増えていく。
 昔、彼女と京王線を乗り継いで高尾山に登りに行った事がある。ロープ ウェイもリフトも使わず、全て歩いた。私にとって中学の遠足ぶりの登山は、なかなか楽しく刺激的だった。思っていたより、彼女は体力があり、私には無かっ た。私は疲れ果て、ふもとの土産物屋を回るといって聞かない彼女に少しうんざりした。彼女には各地のキーホルダーを集めるという趣味があり、高尾山では 「高尾山」と大きく書かれた金メッキのキーホルダーを買い、大阪城に行った時は嬉々として大阪城ミニチュアキーホルダーを買っていた。彼女が日光に行った 時の私へのお土産は、とてもリアルな三猿のキーホルダーだった。趣味のいいものは絶対に選ばない。華奢な体躯に清楚な雰囲気の彼女の鞄に、全国各地のキー ホルダーが付けられた様子は、いつ見ても背徳感すら漂うものだった。
「観光地になるくらいのパワーがあるんだからありがたいんだよ。すごいんだって。」
 そういう彼女を、私はただ漫然と見ていた。何も考えないで、ただ近くにいただけだった。
  つつじヶ丘駅で、制服姿の女子高生三人組みが乗ってきた。同じような背格好、同じような髪型、同じような子達だ。見たことのある制服だった。派手でもな く、目立つわけでもない彼女達が大人になり、派手でも無く目立たない私のような男を、振ったりするんだと思うと、無性に悲しくなった。どうして、男と女は 出会ってしまうのだろうか。窓の奥の曇り空を彼女達越しに見ることになり、見る気はなくとも彼女達は目に入った。同じような三人の中、一人鞄に変てこなも のを付けている子が居る。気まぐれに動く為、よく見えないが、それが女子高生の鞄につけるものとしては、妙である事は遠目でも分かる。それが深大寺の赤駒 だと気付くまでに、その後何分かかかった。深大寺土産の赤駒。藁で出来ているそれの首の付け根にグルグルと紐がくくられ、その紐は直接鞄に結ばれていた。 どうしても鞄に付けたかったという気持ちを推測できる仕上がりだった。その赤駒は貧相ながら強烈なインパクトで、外国の変わったお土産のように見えなくも 無い。ただ、何かに似合うものでもなければ、それをつけるに至った経緯を想像せざるを得ないものだった。変てこなものを付けている以外に、特徴の無い子で ある。当たり前のようにスカートを短くし、地味なりに化粧をし、多分当たり前に大学に行く。周りと自分の境が分からなくなるくらいに平凡なのに、そのこと を恐れてもいないし、悲観もしていない。ただ、途方も無く周りと違う部分があることもまた、漫然と受け容れているかのようなその女子高生が清く正しい者に 見えた。その女子高生は何か、私にとって象徴的なものに見えた。気持ちが揺さぶられた。四年前、昨日去った彼女と出会った時の感覚が肌の内側に鮮明に蘇っ た。
 深大寺の赤駒は、深大寺の山門の横にある「あめや」で売っている民芸品だ。万葉集にある歌が発祥というこの赤駒は、その歌の詠まれた背景よ り、愛する人に贈り無事を祈るというお守りとして、正月などに買う人があると言う。そういった謂われは知っているが、昨今朝ドラによる深大寺のブームやら なんやらで盛り上がるのを尻目に、私は深大寺に近付いた事が無かった。お守りも、信仰も、これまで必要だった事はなかった。でも、行ってみようと思った。 どうしても、あの赤駒が欲しかった。どうしても、渡したい人がいるのだ。
 調布で降り、バスに乗った。バスは混んでいたが、男一人は私だけだっ た。だいたい、女二人かカップル。あとは、ポシェットをさげ帽子を被ったお婆さんの集団。妙な居心地で10分ほどバスに揺られ到着した深大寺は想像してよ りもずっと質素なお寺だった。砂の乾いた匂いと木々や草の匂いが鼻をざらっと抜ける。風の音が聞こえてくるような素朴な場所だ。さくっと、本堂に手を合わ せた。本堂の中は意外と派手だった。金色の飾りのようなものが、お堂の真ん中にぶら下がっている。床は濃い赤の絨毯が敷かれ、外側の抑圧の分か、内側はと てもきらびやかに見える。正門を出て右に目当ての「あめや」はある。本末転倒の極みだが、深大寺にある「あめや」のはずが、私の中では「あめや」の横の深 大寺という風に置き換えがされていた。朝ドラ写真の張り紙と共に、赤駒はひっそりひとつひとつ袋の入れられて並んでいた。手にとってみると、意外に首の付 け根に紐をぐるぐると巻きつけても壊れそうにはない。紐を巻きつけて鞄にくくりたくなる気持ちが少し理解できた。一番小さいのをひとつ買った。鞄に括り付 けるなら、この大きさがいい。「あめや」で売っている甘いそばクレープを食べて、参道をだらだらと引き返しながら、こういうのも全部、独りよがりだと、 思った。独りよがりで、とても愚かだ。でも、やっと私は自分以外の事に気付いたのだ。振られてやっと、振られたからやっと、目を向けられた。忘れていた事 を思い出せたのだ。彼女から見れば、まだ何にも分かっていないのだろうと思う。だけど、こんなにはっきりとした気持ちを久しぶりに感じていた。彼女のどん なところが好きだったのか、どうして彼女が離れていこうとしたのか、いろいろな事が頭を巡って、行き着いた思いは、たったひとつ。
上りの京王線も、空いている。どんどん緑が少なくなって、空が狭くなる。私の住む町に戻っていく。赤駒ひとつ持って、赤駒の勢いに乗じて、彼女を迎えに行ってみようと思う。空は見ようとしなければ見られない。そんな気分になっていた。

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<著者紹介>
四本松 千尋(東京都港区/26歳/女性/事務)

白い花弁が真っ暗な空から降ってくる。羽毛のように舞う雪は、境内を白く染め上げ、眩しいくらいに輝きを放った。時折、重たげに撓んだ木々の梢から、はらりと崩れ落ちて、その下を行く参拝客に悲鳴を上げさせていた。 
凍える寒さの中で吐く息は、雲のようにもくもくと白く立ち上っては消える。悴んだブーツの中の足の指が痛い。
長くここに留まることはできない、そう思うと目に映る世界は精彩を放ち、さら美しく見えるから不思議である。
「さぁ、お参りをして、早く帰ろう」誠司はさおりの背中を押すように促した。
さおりの家はこの深大寺から程近い場所にある。子どもの頃はこの寺を遊び場にして過ごしたものだった。木々が芽生える春、天を割らんばかりに蝉が鳴く夏、紅葉の美しい秋、雪化粧を纏う冬。季節を感じる感性は、この寺が育ててくれた。毎年、初詣に深大寺に来るのも恒例のことである。
今日は、今年は辞めてほしいという誠司をねだり倒して、彼とは三度目となる初詣に連れて来てもらっていた。
「三年前の初詣を憶えてる? あなたは私に縁結びのお守りをくれた」
すでに交際していたから、そろいのかわいらしい人形の縁結びのお守りを手渡された時は困惑した。それが顔に出たらしく、誠司は慌てたように首を振り、縁結びの本当の意味を教えてくれた。
「縁結びは、意中の相手と結ばれますように、というお守りだよ」
つまり、君と僕だよ、と言われ、さおりは思わず赤面してしまった。プロポーズなのかしら、そう思ってお守りを大切に仕舞い込み、会えない日はお守りを見て過ごすことが多くなった。何度も何度も触ったせいか、次第に角はほつれ、全体的に手垢で黒ずんでしまうほど、それを誠司の心と思って大切にした。
そのお守りも、十月前に古札納所にお納めした。成就叶ったからだ。
「今年は別のお守りを受けなくちゃ」
さおりがねだると、誠司はわかったわかったと大きく頷いて、境内へと促す。夜風は身体に障るから早く済ませたい、という気持ちがありありと伝わってきた。

縁結びのお守りをもらってから程なくして、さおりは妊娠した。腹の中に宿った小さな命は、二人を結婚に踏み切らせた。偶然とはいえ、二人の望んだ子どもに変わりない。両親も喜んでくれ、とても幸福な毎日を送っていた。
お腹が目立つ前に挙式を、と二人は結婚式場を見て回った。気分は高揚し、どこで挙げても満足できると、そう思った。
誠司からかしこまったプロポーズを受けることはなかった。子どもを授かったことで、すぐに具体的な結婚式の話に移ってしまったためだと、さおりは自分に言い聞かせた。元より装飾品に執着する性格ではない。誕生日もクリスマスも、プレゼントにねだったのは実用的なものばかりである。誠司もそのさおりの性格を理解した上での行動だとわかったものの、少しばかり寂しく感じたのも事実である。
新居を決める直前になって、さおりは下腹部に嫌な痛みを覚えた。胸騒ぎがして憚りに行くと、下着が赤く染まっていた。痛みは治まらない。さおりは泣きながらお腹の子どもに話しかけた。
がんばって。私もがんばるから。
誠司に電話して迎えに来てもらい、産科に急いだ。出血は流産の兆候であり、腹の子どもにすでに心音はないと告げられた。
そのまま手術となり、子どもの亡骸は腹から引きずり出された。術後、異常な流産でないか調べるために病理に回すと言われ、子どもを一目見ることさえ適わなかった。その日からさおりは家に閉じこもり、一週間布団の中で過ごした。
いつでもすぐ見ることのできる場所にと、机の隣に掛けられた縁結びのお守りは、手術を終えて言葉なく涙を流すさおりに誠司が掛けた言葉を思い起こさせ、さおりを苦しめた。
「大丈夫。きっとまた授かるよ」誠司の慰めの言葉を、さおりは受け入れることができなかった。
さおりはお守りを鷲掴み、着替えて外に出た。身体はまだ本調子ではなく、足元がふらついたが歩行に支障はない。
もう、見たくない。そうつぶやいて、さおりは深大寺を目指した。
秋口の深大寺は、立ち込める金木犀の香りに包まれる。そうか、もうそんな季節なのかと、さおりは無数に咲き乱れる橙の花弁を見つめて足を止めた。結婚に、子どもに夢中だった。季節を忘れる程に。
「さおり」
背後から声を掛けられ、振り向くと、そこには誠司の姿があった。動揺するさおりに、誠司は「お義母さんから連絡があって」と言う。
「よくここだってわかったね」
「それも、お義母さんが。まさか首を吊ってるんじゃないか、って心配していたよ」
あの人は、とさおりは思わず苦笑する。
「ごめんね。同じ痛みを感じることができなくて。でも、見守っていることしかできなかった僕もすごく辛かった。ねぇ、さおり。結婚はゴールじゃないよ。子どもを産むこともゴールじゃない。僕たちは家族になるんだよ。その通過点なんだって、どうか受け入れてもらえないか。死ぬまで僕たち二人の痛みとして、子どものことは忘れないでいよう」
風が吹いて、橙の花が歌うように揺れた。芳香が強く放たれ、空に舞い上がる。
ほこりが、と言って、さおりはお守りを強く握り締めた右手で目頭を押さえた。
「迎えに来てくれてありがとう。お蕎麦でも食べて、帰ろう」さおりは自分から誠司の右手を取り、来た道を戻った。泣きながら食べた蕎麦の味。薬味のねぎが辛いのだと、意味のない言い訳をした。

今でも思い出すと、あの時のことは胸に痛い。しかし誠司を生涯の伴侶と心に決めた暖かい気持ちも同時に思い出す。
「そうか」今さらながら、ふと気が付いてさおりは言葉を漏らした。「あれは、プロポーズでもあったんだ」
どうしたの、と顔を覗く誠司に首を振り、さおりはようやくたどり着いた賽銭箱に小銭を投げ入れた。神社ではないので手だけ合わせて頭をわずかに垂れる。息を吸い込むと冷たい空気と一緒に過去の残り香を嗅いだ気がした。

去年の初詣は結婚して初めてのお参りだった。「来年は三人かもね」と優しく微笑んで言った誠司の言葉が忘れられない。さおりも同じように感じていたことを、ついに言うことはできなかった。変わりに参拝の際に仏様にそう願った。どうか幸せな家庭を築けますように、と。
願いが叶ったのか、その三ヵ月後に再びさおりは身ごもった。
その子どもは今、さおりが寒い境内に佇むのもかまわず、お腹の中でゆったりと泳いでいる。
「いい子。もう帰るからね」
はち切れんばかりに膨らんだお腹を撫でて、子どもに話しかける。生まれたら子どもの初参りにまた深大寺に来ることだろう。幼い頃、さおり自身が両親に抱かれながら来たように。
「安産祈願のお守りだけ受けてくるよ。ここで待ってて」誠司がさおりの肩を撫でて、急ぎ授与所に向かう。
その背中を見送って、しんしんと空から漂いながら降りてくる雪の花弁に目をやった。
一つ捕まえようと、手を伸ばす。
「あ」
ぴり、とした痛みが腹に走る。それは新しい命の誕生を知らせる合図だった。
生まれる。そう思うと堪えきれない喜びが湧き上がり、今までのことが寄せては返す波のように浮かんでは消えた。
子どもを身ごもったと知ってからの十ヶ月は短いようであっという間であった。三年前に受け取ったお守りも、それを機に古札納所にお納めした。きっと、あのお守りのようにかわいらしい赤ん坊が生まれることだろう。
子どもの出産予定日は明日である。それでも、絶対にお参りに行くのだといって聞かないさおりを、誠司は仕方なく受け入れ、今日ここに連れてきてくれた。去年願った通り、三人で来ることができたのだ。
――生まれる。
さおりは愛おしくてならないわが子を、腹の上からそっと撫でた。再び鈍痛が走る。
――生まれておいで。
さおりは優しく語りかけた。
ふと顔を上げると、向こうから安産守りを手に小走りで戻ってくる誠司の姿がある。嬉しくなって、自然に笑みがこぼれた。
――大丈夫よ。
――さぁ、生まれておいで。

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<著者紹介>
池田 千晶(愛知県刈谷市/27歳/女性/会社員)

 早朝、バスを降りると鴨が居た。
 鴨はつがいで、道路脇の水路に身を浮かべ、清流のままに、付いたり離れたりしている。
(確か、植物公園の深大寺口までは、少し距離があったはず。急がなきゃ)
 デコボコの石畳を五センチのミュールで蹴る。湿気と汗で、薄手の白いボレロが肌にまとわりつく。
 久しぶりの桜並木には、梅雨の曇がどんより垂れて、人もまばらなモノトーンの門前町は、まだ半分夢の中だ。
 途中、湯気の上がりはじめた茶屋に『そばパン』の文字が見えた。
(ああ、愛するそばパン、また今度ね)
 今日、遅れるわけにはいかない。
 老人ホーム勤めの温(すなお)と、七つ上でOLの私は、付き合って半年程だ。約束は何もなかったから、二人きりで飲んだ日からの計算だ。
 お互い忙しく、時間も合わない。私が新設部署の課長になってからは、一層距離が開いた気がする。私達はデートの約束もしない。直前に連絡を入れ、都合が付いた時だけ会うのだ。既に綱渡りの恋だった。
自然消滅、最近、そんな言葉がよぎる。
 会いたい衝動も危機感も、山積みの仕事や付き合いに紛れ、正体すら判らなくなりかけていた。だが、突然何かを求めるのは卑しいような気がしていたし、温も無理を言うことは一度もなかった。
 ところが、今日初めて、時間と場所指定のもと、温に呼び出されたのだ。
(まさかこんな朝に、別れ話じゃないよね)
 私は期待半分、しかし最悪な事態も想定し、控えめなおしゃれを心がけた。
 植物公園入口につくと、ペールグリーンの爽やかな制服姿の温が笑顔で立っていた。ドラマで見る素敵な歯医者さんのようだ。
「お、おはよう......制服なの?」
 私は、上り坂で乱れた息を整え、なんとか声を出した。
「おはよう、この後仕事なんだ。それより、休みなのに早起きさせちゃったね。実は」
 温が何か言いかけた時だった。
「お早うございます」
 すぐ横にいた二人の老婦人が挨拶をした。八十は越えているだろうか、共に杖をついている。
「あ、おはようございます」
 少し面食らったが、これくらいの歳の人はこういうものかな、と思い挨拶を返した。二人は私の返事の終わらないうちに、とっととゲートをくぐり、公園内に備わっている車イスに手をかけると、こう言った。
「温(オン)サマ、早く!」
(温サマ?どっかで聞いたような......)
「ほれ、娘さんもボーとしてないで早く」
「え......私?」
「絢(あや)さん、ごめん。説明は後で必ず。とりあえず時間がない、急ごう」
 温は、困惑する私の背中を優しく押した。
訳もわからずゲートをくぐると、二台のうち一台の車イスの取手を握らされた。
「チヨさん、あ、こちらチヨさんって言うんだけど、彼女の車イスお願いできるかな?」
「え?あ、うん」
 とは言ったが、まだ事態が飲み込めない。  
「よし、みんな行くよ!」
 温は、もう一人の、布袋様のようにでっぷりした熟女を乗せ、勢い良くスタートした。布袋様は『頑張って温サマ~、オホホ』と大層楽しげだ。
 慌てて私も『チヨさん』の車イスを押してみたが、小石につんのめったり蛇行したり、どうにも上手く操れない。無理もない、車イスなど今日初めて触ったのだ。
 さぞ乗り心地が悪かろう、と、こっそり顔色を伺ってみたが、チヨさんは眉ひとつ動かさない。線が細く、まるで千年の巨木のように、静かで荘厳な佇まいの人である。そして無言だ。
(おかしい、もしかして、デートの約束じゃなかったんだろうか?)
 誰かに何かを問いたい気持ちで一杯だが、近くには蝋人形のような、お婆だけである。とにかく、懸命に温の後を追う。
 森を抜けると視界が大きく開いた。春薔薇が見事に咲き乱れる大庭園だ。なのに、温達は薔薇に目もくれず、庭園を小走りに突っ切ると、その奥に聳える大温室へと吸い込まれた。仕方なく私もそれに続いた。

 温室内はムンとして、珍しい熱帯植物や、南国フルーツがひしめいている。無口な老女と不安を抱え、しばらく進むと、自販機のある一時休憩所で温が待っていた。
「ご苦労様、着いたよ」
 温はそう言ってチヨさんの車を受け取り、慣れた手つきで、先に到着していた布袋様の車の脇にピタリとつけた。
 なぜか皆、目の前の池を食い入るように見つめている。
「温、あの......」
 温がシーっ、と唇に指を当てながら、手招いた。私は戸惑いながらも、傍に歩み寄り、まるで、植物の留守宅に忍びこんだ泥棒のように息を潜めた。
 途端、辺りに音の無い世界が広がった。
 静かだ。
(こんな静かな時間、いつ以来だろう......)
 かすかに聞こえる水音が、密室の静けさを一層際立たせている。いつしか、意識が現実から遠のいていく。
 ミシッ......。
 その時、何かとても小さな音が聞こえた。
 思わず温の方を振り向くと、いたずらな瞳で私を見つめ返した。
 ミシッ、パリリッ。
(あ!睡蓮の華が開く音なんだわ)
 池にたゆたう睡蓮の華が、ひとつ、またひとつ開いた。その神秘の営みを邪魔しないよう、誰もが口を閉ざしたまま、じっと動かずに見守っている。そうして、睡蓮に魅入るうち、哲学とは無縁の私の胸に、自分でも驚くほどの想いが去来した。
(可憐なのに逞しい華、いいえ、本当は儚くて孤独かも、それとも......無心)
 波打つ想いは徐々に収まり、代わりに、今このかけがえのない瞬間(とき)を、私達は共有しているのだ、という奇跡に似た感覚に包まれ、なぜか泣きそうになった。
 皆、この風景に溶けてしまったようだった。

 私達は車イスを返し、共に門前町へ下った。
 朝の様相とは一変、観光バスなども乗り入れて、多くの老若男女で一面賑わっていた。
 ふと、温の姿が見えないことに気づき、探しにいこうか思案していると、寡黙をつらぬいていたチヨさんから唐突に声をかけられた。
「娘さん、一緒に来てもらえませんか?」
 チヨさんは、通りはずれに、ひっそりと佇むお堂を指差した。断る理由もないので、私は連れ添って参拝することにした。
 彼女は、とても丁寧にお参りを済ませ、こう呟いた。
「素敵な日。私の願いが叶いました」
「まぁ、それは、おめでとうございます」
 縁結びで有名な神様だった気がするが、一体どんな願いだろう。少なからず興味がわいた。
「貴女が叶えてくれたんですよ」
「え?」
 私は目を丸くした。
「さぁ、お礼もしたし、もう行きましょう」
 杖をつき、しっかりと歩くチヨさんを見て、なぜ自分を誘ったのか首を傾げた。
 その時、鈴なりの絵馬の中にある『大好きな温さんが幸せになれますように』という小さな文字に目が留った。
「チヨさん、これ、もしかして?」
 ふふ、とチヨさんは意味深げに微笑んだ後、遠くを見るように、瞳を潤ませて言った。
「人生はあっと言う間、ぼーっとしてたら、人も時間も通り過ぎるだけ。後悔するような人生を送ってはダメよ、私のように......」

 私達が戻ると、温はホッとした表情を見せた。
「よかった、迷子になったかと思った」
 子供じゃありませんよ、とチヨさんは言い残し、布袋様と土産物屋へ入ってしまった。
 その後姿を見ながら、温が言った。
「チヨさんの初恋の人は、俺に似てるんだって。のんきな所が特に」
「そう......」
「前回の夜勤の日だったかな。いつか、あの華を絢さんに見せたいなって、あの二人に話したら、スグじゃなきゃダメだ、絶対立ち会うって聞かなくて」
 温は困ったように笑った。
「ね、チヨさんの初恋は叶わなかったの?」
「さぁ......。でも最近は、初恋の人よりも、俺に惚れてるみたいだったけどね。自惚れかな?」
 きっと、両方なのだろう、と私は思った。
「温、あのさ、その、これからも宜しくネ」
 突然の言葉に、温は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、熱を帯びたような真剣な眼差しで私を見つめた。
「こちらこそ、末永く宜しくお願いします」
 温は、それだけ言うと、一度小さく頷き、急に思い出したように、ぶら下げていた袋を私に手渡した。
蒸かしたての、そばパンだった。
「絢さん好きでしょ、それ」
「うん、超嬉しい」
 満足げな温の背中越しに、土産を買い込んだ二人が、ゆっくりゆっくりやって来るのが見えた。

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<著者紹介>
ゆず華(神奈川県横浜市/女性)

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