桜子さんは二十歳。初めて会った時も二十歳だったし、去年も二十歳だった。たぶん今年も二十歳だろう。

 日々過ぎ去っていく時の速さに息切れを感じる程だったのに、ふと振り返ってみれば、消費してきた人生の呆れる位の長さに眩暈を感じ、与えられたあと僅かの時間を指折り数えながら生きていく歳に、私も成った。
 昔は軽々と登っていたこの坂も今では結構きつい。確かにそんなに緩やかな勾配ではないが、それでもこれ程までに動悸を覚えるようになったのは、さていつの頃からだったか。
 バス通りに出た。桜は七部咲き。今日こそは出て来てくれそうだな、と私は年甲斐もなく胸を躍らせる。まるで青年だったあの頃の様に。
 桜子さんは桜が今くらいの開花状況にならないと現れない。それから完全に葉桜になってしまうまで会ってくれる。
 だから仕事をしていた頃は大変だった。幸い自営業だったので、勤め人よりは融通が利いたのだろうが、私はこの春の二週間くらいの間を休暇にする為に、一年間の全ての都合を合わせてきた。二週間、桜子さんとの逢瀬を重ねる為に生きてきたのだ。
 山門に向かう道は結構な人混みになっていた。真っ直ぐ歩くのが難しいくらいだ。しばらく歩いて、ああ今日は土曜日だったなと気が付く。仕事を止めてからは曜日感覚が失われていた。
「今年も来てくれたのですね。」
 いつの間にか桜子さんが私の隣に並んでいた。ずっと変わらぬ笑顔。本当に嬉しそうに微笑んでくれる。
「いくつに成りました。」
 私は再会の挨拶の代わりに必ずこの言葉を口にする。返事もいつも同じだ。
「今年で二十歳です。」
 桜子さんが現れると何故だか今まで周りに居た人達が消えてしまう。会う時はいつも桜の中で二人きりなのだ。
「志郎さんはいくつに成りましたの。」
「さて、いくつに成りましたかな。もう歳を数えるのは止めてしまいましたから。」
 私はとぼけてみせる。何十年も二十歳の女性には、もう想像もつかない月日を私は重ねてしまった。
「まだ生きる事が後ろめたいですか。」
 心配そうに桜子さんが私の顔を覗き込む。
「まあ、後ろめたいです。でも、もう残りも少ないですからね。」
 私がそう言うと、桜子さんは少し寂しい表情をつくり、左手で着物の袂を押さえながら、そっと私の頬に右手を添える。
「あなたは誠実ですからね。だから御辛いのでしょう。」
 傷病兵として内地に戻った私はそのまま終戦を迎えた。私の居た連隊は全滅をした。
「昔の事です。それにこの歳まで生きていると、そうそう誠実でばかりもいられません。」
 うふふ、と今度はちょっと明るく笑って桜子さんは私から離れた。
 春の日はうららかに、ようやく色づき始めた桜の木々に降り注ぎ、日に照らされた花はあるかなきかの紅の色を浮き上がらせ、白い花弁にほんのり紅がのったその様は、桜子さんの透き通る様な肌の色そのもので、陽光の中に融けてしまうのではないかという程の淡い輪郭が、私の目の前で舞うかのように軽やかに動き、その動きに私は少し目を細めた。
「初めてお会いした時は・・・。」
 いつだったかしら、と桜子さんは空を見上げる。
「終戦の翌年でした。」
 ああ、と桜子さんは頷いて見せるが、彼女にとっては終戦の翌年も今現在も同じ場所に存在しているかのように思える。
 安穏と生きるのは許されない気がした。かといって真摯に生を歩んで行く気力もなく、拾った命を自ら絶つのは天命に背く罰当たりな行為に思えた。
 美しい桜子さんとの恋は生きる為に与えられた糧だと思った。その恋が春の桜の季節にしか謳歌出来ないのは、自分に課せられた枷だと思った。その釣り合いの中で生きてきた。
「そんな事はありませんよ。」
 桜子さんがついと私の傍らに寄り添い、左手に自分の腕を絡ませてくる。
「生きられなかった人達も、生きなければならなかった人達も、生の有り様は一緒。」
 私の胸の奥底から何か苦い塊が喉元までせりあがって来る。年経る毎に苦味は増していき、塊は硬く大きくなっていく。
「志郎さんは泣き虫ね。」
 桜子さんはハンカチで、いつの間にか流れ出していた私の涙を拭っていた。
「歳をとるとね、涙腺がゆるくなってね。」
 私の言い訳を聞く桜子さんの目は「嘘ですよ。昔から志郎さんは泣き虫でした。」と語っている。
 中天から射してくる日光は、春先といえどもじりじりと私のシミの浮き出たうなじに焼き付き、そのまま光に押し潰されるかのような圧力が両足に伝わった。
「腰掛けましょうか。」
 桜子さんが口にすると境内には赤い毛氈の敷いてある腰掛が用意され、ご丁寧に日除けの傘まで立て掛けてある。
 二人並んで座ると桜子さんがお茶を出してくれた。
 桜子さんの淹れてくれるお茶はいつも少し甘い。舌先で軽く味わい、ゆっくり流し込む。五臓六腑に染み渡った甘さは、ともすれば眠ってしまいそうな私の中の生の悦びを揺り起こしてくれる。
「志郎さん。口づけを。」
 桜子さんが唐突にねだる。桜子さんは私に向き直り、唇を差し出すと目をつぶった。
この歳で口づけなどとは面映いが、桜子さんの唇は白い肌に映える真っ赤な色をして、官能的に私の本能を刺激した。
 私と桜子さんは、しばらくお互いの口を吸い合い、抱き合い、忘我の時を彷徨っていた。

「この歳になっても欲望が残っているなんて恥ずかしい気がします。」
 参道をバス通りに向かって歩きながら、私は桜子さんに言った。桜子さんは少し乱れた後ろ髪を両手で直しながら聞いていた。
「生きて求める事は罪。」
 桜子さんは立ち止まり、私の方に向き直る。
「志郎さんはそうお考えなのではありませんか。」
 沈みかけの太陽の、残滓のごとき光を浴びて、桜の花はその色を幾分深くし、風も吹かぬ静寂の中で、闇はその気配を徐々に濃くしていっている。
桜子さんの真白な面にも、くっきりとした陰影が刻まれていたが、両の目の奥には揺れる様な光が湛えられ、例えるならば月明かりの下の漣にも似て、見詰めていると、さざめく波にそのまま連れて行かれそうになる。
「昔はそのようにも。」
 あまりに心地良い感覚に引かれていくのを恐れて、私は桜子さんの瞳から目を逸らした。
「今は多少図々しくなりました。」
 鈍くなっていったと言ってもいいかもしれない。
 桜子さんは私が逸らした目を追い掛けるように、ちょいと腰を屈めながら、愛らしい仕草で私の目を再び覗き込む。
「私は・・・。」
 少し言い澱む。
「志郎さんと伴に在りたいと思います。志郎さんの罪とも伴に在りたいと思います。」
 言い終わると俯いて、下唇をちょっと噛み、目の端に薄っすらと涙が溜まっているのがいじらしい。
 それ程の愛を得られるのなら、他に何を望むだろうか。子を成す事も、家庭を作る事も叶わぬ恋愛だけれども、想いは永遠にこの地に残る。
 バス通りに出た。
日はとっくに落ち、桜の花の白い色が藍色の闇に映え、風に吹かれて翻ると、薄紅の色が妖しくうねり、満開の桜が驕慢なまでにこの世の全てを埋め尽くしていくだろう予感に、ありとあらゆる色彩が怯えているのではないかと思われた。
「明日もいらっしゃいますか。」
 桜子さんはこのバス通りまでしか来られない。対岸の歩道には渡れない。
「桜が咲いている限りは参りますよ。」
 私達は名残を惜しみ、互いの手を取り、指を絡ませ合う。
「もしかして私はもう死んでいるのではないですか。」
 私の質問に桜子さんは寂しく微笑み、それでも凛とした趣で私に答える。
「そうであれば此処に留まれますけれど、志郎さんはまだ暫く・・・。」
 ほうっ、と我知らず溜息が出る。
「まだありますか。」
「ございますよ。」
 大事になさいな、と桜子さんは笑う。
 手を振る桜子さんに見送られて、私は坂道を下った。もう見えないけれど、桜子さんは手を振り続けてくれているだろう。
 生きて在る限り。
 呪文のように唱えつつ、私は坂道を下って行った。

(了)

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<著者紹介>
山本 茂生(千葉県市川市/38歳/男性/会社員)

セミがないてる。
見慣れない道だけど、セミの声も空の色もなんらいつもと変わらない。
リョウタはおばあちゃんの家が東京にあるのが不満だった。夏休みはみんな東京の「外」にあるおじいちゃんおばあちゃんの家に行って海や川を満喫して帰ってくる。リョウタの家からおばあちゃんちまではせいぜい車で一時間程度。あるのはリョウタの家の近くにもある小さなスーパーぐらいだった。
だからというわけではないけれど、買い物を頼まれたリョウタはまっすぐおばあちゃんちには帰らずに、わざと通ったことの無い道を選んで一人でちょっとした探検にきていた。セミがないてる。
リョウタは「東京に無いもの」を探してひたすら歩いていた。さっき買った豆腐が汗をかいてきて、袋から水が滴り落ちる。まるで買い物袋の中で「無駄なことはやめて早く帰ろう」とリョウタをせかしているようだった。30分ほど歩いて、リョウタの顔も汗でぐちゃぐちゃになったころ、そこにはリョウタの探していた海や川はないのだということに体がようやく気が付いた。
やっぱりだめか。小さな抵抗をあきらめて、リョウタはもと来た道を帰ろうと、中年のサラリーマンのようにため息をついて額の汗をぬぐった。汗でぬれた手の甲を額から離して顔をあげると、リョウタの目に突然あるものが飛び込んできた。
「・・・フカダイデラ?」
そこはどうやらお寺のようだった。海や川を探していたので気付かなかったが、よく見たらいつのまにか周りは先ほどまでの風景とは違い、たくさんの緑に囲まれている。なんとなく厳かな雰囲気。ここならもしや、とリョウタは思った。リョウタのしらない「東京に無いもの」がここにはあるかもしれない。なんのためらいもなくリョウタはフカダイデラへと入っていた。
何の花かはわからないが、そこにはいい香りのする花が咲いていた。リョウタは何故か、小さな頃母親におぶられて見たちいさな紫色の花のことを思い出していた。そこには何年か前にマンションが建ってしまったので、もうあの花はいないだろう。
木が森のように茂っていて本当に東京ではないみたいだ。
リョウタの胸の高鳴りは最高潮に達していた。若干早足でずんずん森を進んでいく。するとやがて境内らしきものがリョウタの視界に現れた。木々に囲まれ、不思議な空気をまとったその境内らしきものは、明らかにリョウタの求めていたそれだった。リョウタが今まで見たことのない、リョウタの知る「東京」には無かったもの。が、しかしリョウタが釘付けになったのは境内ではなく、その前にちょこんとのっている水色の物体だった。
リョウタには小学校6年生の姉がいた。水色のワンピースをまとったその「物体」は大体姉と同じくらいのように思われた。足をぶらぶら揺らしながら彼女は鼻歌を歌っていた。なぜだか理由はわからなかったが、リョウタは彼女から視線をそらすことができなくなった。
次の瞬間いきなりぴたりと鼻歌がやみ、彼女の視線がいきおいよくリョウタのほうへと向けられた。リョウタはやばい!と思ったが、逃げようにも足がぴくりとも動かない。彼女のくりっとした目からそそがれる視線が痛いような気もしたし、心地よいような感じもした。
「おいで。こっち。お隣どうぞ。」水色の人はにっこり笑って、大人びた口調で手招きをした。リョウタは何も言わずに水色の隣に自分の小麦色の肌を並べた。
「ここらへんに住んでる子?いい所ね、ここ。東京じゃないみたい。」リョウタはただ黙って彼女の隣に座っていた。彼女の声はとても澄んでいて、まるで鈴の音のようにリョウタの心を震わせた。
「縁結び、しにきたの?」またくりっとした視線がリョウタに注がれた。
「え、えんむすび?」
「うん、ここの神様、縁結びの神様なんでしょ?」
「ああ・・・ま、まあね。」リョウタには「えんむすび」の意味はわからなかったが、
ついつい勢いでこたえてしまった。
彼女はリョウタが今まであったことのないタイプの女の子だった。くりっとした目であどけない顔に、それに反した大人びた口調。ひじの辺りまで伸びたきれいな黒髪が、彼女の大人への憧れを感じさせた。
彼女はリョウタの隣で鼻歌を歌いながら、時折ポツリポツリと自分のことを話した。この寺の近くにおじいちゃんちがあること、おとうさんがいないこと、水色が好きなこと、海に行きたいと思っていること、他にも話してくれたような気もしたが、リョウタは彼女から時折そそがれる視線に耐えるのに必死で、ちゃんときいていなかった。
一時間ほどたっただろうか。
「あの、いつおうちに帰るんですか」
勇気を振り絞って今度はリョウタから彼女に視線を送ってみた。
「うん、本当のおうちに帰るのは、今日の夜。」少し寂しそうに彼女はこたえた。リョウタはなぜかちくりと、針で刺されたような痛みを感じた。
「きみは明日も来るの?
」リョウタはこたえることができなかった。「ねえ、また私にあいたいって思ってくれる?」
リョウタは頭が真っ白だった。もっといろんなことを訊いておけば良かった、もっと自分のことを話しておけばよかった。
「もし会いたいと思ってくれるなら、君、私と縁結び、してくれる?」彼女は少しからかうように、小さな八重歯を見せて笑った。
と彼女は突然すっくと立ち上がると、また鼻歌の続きを歌いながら、すたすたと森の中へと歩いていってしまった。リョウタは身動きをとれずに水色の後姿が小さくなるのをただただ黙って見つめていた。

十分ほどボーーっとした後に、リョウタははっとわれに返った。
しまった。名前をきくのを忘れてしまった。正気に戻ったリョウタの心に、じわじわと後悔の念がわきあがってきた。いや、名前なんてこの際どうでもよかった。「えんむすび」とは何のことだろう?彼女は、また会いたいのならえんむすびをしろと言っていたが、えんむすびとは何をどうすればいいのだろう?「円結び」というくらいだから、なにかを丸く結ぶのだろうか。それともお金の単位をあらわす円・・・?一瞬のうちに様々な考えがリョウタの頭の中を走り回った。

あいたいと思った。
もう一度あの水色と、くりっとした眼差しにあいたいとリョウタは心のそこから思った。

その時リョウタは彼女の言葉を思い出した。そうだ。ここにはえんむすびの神様がいる。リョウタは振り返って境内をじっと見つめた。この中にきっと神様がいる。
リョウタはさっき買った買い物袋を勢いよく開いた。
豆腐はもうぐちゃぐちゃになってしまっていた。
袋からねぎを取り出すと、リョウタはそのねぎを一本ずつ結んで大きな円をつくって境内の前に置いた。ねぎは全部で三本だったので、円というよりはゆがんだ三角形のような形になった。
「これ、あんたにあげるから」
リョウタは境内の前で手を合わせ、目を瞑った。なにをどのように祈ればいいのかはわからなかったが、あの水色の後姿が瞼の裏側にこびりついていつまでもいつまでも消えなかった。

セミがないてる。
8月の風が木々の香りと少年のちいさな願いをのせて
いつもとかわらない水色の空へと吸い込まれていった。

(了)

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<著者紹介>
(東京都八王子市/19歳/女性/学生)

 何から先に話をしたらいいのか?俄かに思いつかないけれど、あなたが今ここにいる事だけは確かだし、こういう形で会えたのも、やはり運命なのだろうね。だからこそ、人生って面白いし、奥が深いのかもしれない。
 あなたからのメールだ、と気づいたとき、我が目を疑い、胸が高鳴った。最初は、また悪戯かな、と思っていたから。
 こういう類の『迷惑メール』。結構多いでしょう。メールアドレスには年齢が記載してないから、年寄りとも知らず、寄越しているのだろうけど、誰が書くのか?女名前の誘いのメール。ウッカリ開こうものなら、後で身に覚えのない、高額な請求書が、債権回収機関とやらから届くという、あれ。
 てっきり最初はその類だと思った。だから、放っておいた。そして削除し、削除アイテムのフォルダに、項目が沢山溜まっていたので、クリアしようとして、「アッ」と声を上げた。その項目だけ間違って消去しようとしていたのに気づいた。明らかに、「サヤカだよーん」、「マミ、おぼえてる?」というような迷惑メールとはトーンが違う。表題が「ヒロです。お久しぶり」となっていた。この「ヒロです」という言い方に覚えがあり、ドキッとして、ジーンと来た。何十年経っても、こういう記憶だけは残っているものなのだなと。
 この書き出しで手紙をくれた女性が、過去に二人いた。最初は別のヒロからのものだと思った。しかし、開いたらあなたからだった。
 えっ、もう一人のヒロのこと?それは勘弁して・・。ただ、言える事は、最初のヒロがいたから、あなたの名前に惹かれ、付き合いが始まった、と言えないこともないので・・。
 いや、ホントは話したくなかったんだけど、ここに到るまでの心境を説明するために、やむを得ず話したまでで、他意はない。本当にどうするのがいいのか、悩みに悩んだ末、会うことを決断したのだから・・。

 石田波郷の墓?お参りしてきた。この蕎麦屋の主人に尋ねたら、「私は墓守じゃないんですから」って嫌味言われたけどね。「後で寄るから教えてよ」って。よく聞かれるらしいんだな。波郷の墓所、どこですか?って。
〈吹き起こる秋風鶴を歩ましむ〉
 寺領の開山堂横の句碑に刻まれた、波郷の代表句だけど、僕には、あなたとの苦い思い出しかない。大学の「俳句研究会」での「波郷秀句鑑賞」で、『秋風』の読み方を巡って、あなたと激しい論争になった。会も「しゅうふう」か?「あきかぜ」か?で揉めた。
 僕も、いろいろ調べた。そうしたら、俳人の間でも、意見が分かれていたんだね。ある人は、波郷のモダニズムの観点からみて「しゅうふう」でなければならないと言うし、別の大家は、当時、俳誌「鶴」を創刊するなど、波郷の晴れ晴れとした気概が漲っていた頃だから、開かれた明解な韻を持つ、「あきかぜ」が相応しいのだと。ところが、この読みについて、肝心の波郷は何も言っていない。どちらでもお好きにどうぞ、と。
 俳句は十七文字の文芸。句の感慨や解釈を読み手に委ねるところがあるからね。
 委ねられた結果、一組の男女が別れる破目になってしまった。その意味では波郷さんの罪は重い。僕が「あきかぜ」、あなたが「しゅうふう」で真っ二つに割れたわけだから。
 何故、意見が分かれたか?今にして思えば、あのとき、二人の気持ちは完全にすれ違っていたような気がする。いや、気がするのではなく、はっきり違っていた。僕にはあなたとの間に吹く、何とはなしの『秋風』(あきかぜ)を感じ取っていたのは事実だから。
 あなたが僕の親友だった梶川と、僕に内緒で会っていた。その事実だけで赦せなかった。後に、あなたは、僕の本当の気持ちを知りたくて、梶川に確かめるために会った、と言い訳をした。あなたは不安だったのかもしれない。本当に自分を愛してくれているのか。一方、僕は未だ学生の身分だったし、君の愛を受け入れる自信がなかった。しかし、それを、僕に確かめずに、梶川に聞いた。あなたのその行為に何か不自然なものを感じた。
 別れとなった日、新宿の音楽喫茶でエセル中田のハワイアンを聴いたよね。「小さな竹の橋の下で」が歌われ、あなたは「この曲を聞いたら、きっと私を思い出して」と言った。その後、何故か、梶川の住む調布駅に降り立った。二人は何を確かめようとしたのだろう?ふと気がつくと、波郷がよく吟行に訪れたという、深大寺に来ていた。当時、波郷も存命で、墓所は勿論、あの句碑もなかった。

 あれから長い月日が経過した。僕たちも変わったけど、この周辺も随分変わった。
 お互い違う人生を歩いて、こうして、一本のメールがまた二人を引き合わせることになった。しかし、これも『時と背景』がうまく噛み合わなければ、実現しなかったに違いない。僕は、長年連れ添った妻を喪い、あなたは、夫と別れるという。僕は、妻への追憶と共に、不思議にも、何十年も前に別れたあなたとの日々を思い起こす心境になっていた。
 あなたは、重篤な病に罹り、余命を見据え、僕に会うために離婚を決意した、と言った。その言葉に嘘はないだろう。多分、その裏には、あなたのことだ。夫の精神的、肉体的負担の軽減という意味もあったかもしれない。ともかくも、人生の恐らく最終章に掛かる時期に、僕に会おうと決めた。それを聞いたとき、素直に嬉しかった。その連絡の手段が、何故メールだったか?という理由を聞いて、いかにも、あなたらしい、と思った。
 メールというのは、あなたが言うように、感情の起伏を表現できない欠点があるが、それ故に羞恥心を払拭できる利点がある。現実には躊躇するような行動も、メールでなら案外素直に、大胆に表現出来る。含羞の似合うあなたには強い味方だ。本当にそう思う。もし、この手段がなかったら、こうして再び会うことはなかったかもしれないから。

 病のことを聞くのは憚られるけれど、重篤と言う割には、元気そうに見える。僕に会えるという希望があったから?お世辞でもそう言って貰えると嬉しい。
 もう、昔のように、活きのいい論争は出来ないかもしれないが、若干の優しさと・・、何より僕の本当の想いを、伝える機会を得たことを喜んでいる。お互い残り少ない人生。心残りは出来るだけ少ない方がいい。
 あのとき、僕は「秋風」を、あなたが僕に抱いた「飽き」、つまり、倦怠感を比喩的に表現しようとしたのだと思っていた。だから、鶴は別の方に向かわざるを得ないのだ、と。
 僕の頭には、梶川のことがあった。案の定、あなたと梶川は、卒業後結ばれたわけだから。
 ところが、あなたは、僕との未来を後押しする風と解釈していた。鶴を、僕の胸に喜んで飛込む、自分の姿に擬えていた。だから、天高き秋に吹く、爽やかな風、「しゅうふう」でなければならなかった。
 でも、何故あのとき、二人は素直に、互いの本心をぶつけ合えなかったのだろう?若さとは、自分を繕う麻薬みたいなものだね。
 とすると、あの新宿の音楽喫茶での別れは、あなたにとって予想外の出来事だったことになる。あなたの滂沱の涙の意味が今漸く理解できた。「小さな竹の橋の下で」という曲は、波郷の句と共に、あの日から僕の胸の奥で、ズキズキと疼き続ける『宿痾』となった。
 あなたもそうだったとは・・!
 親友と恋人を同時に失った僕は、失意の中に、卒業、就職、結婚し、子供も出来、人並みに会社人生を全うし、引退した。小さな山谷は沢山あったけど、妻の死以外、深刻な事態は起こっていない。ただ、その間片時も、梶川とあなたの存在を忘れたことはない。
 最初のヒロの話?やっぱり話すべきかな?
 僕の義理の従姉でね。憧れの人、初恋の人。あなたにも紹介したことがあるよね。
 初めて知った?そう、あの人は、僕にとってそういう存在の女性だったんだ。
 さっぱりした、明るい性格で、賢い。勿論僕じゃなく、別に好きな人がいたらしいけど、家業の料亭の暖簾を守るために、その人との結婚を諦め、家格に相応しい婿を迎えた。家の為に自分を捨てる。それが出来る強い人。
 筆圧強く、手紙の書き出しが、いつも躍るような字で、「ヒロです」となっていた。そう、S・hiroko。桜井に、博士の博子が本名。あなたは、芹澤に「アラ寛」の寛子。同じヒロコ同士、思い通りにならない運命なんじゃないか、と。その通りだったね。
 それにしても、梶川は、よく承知したね。メールには、彼が、僕の動静を気にかけていて、しばしば博子さんの経営する料亭に行く機会があり、聞いていた、と書かれていた。彼のことだ。本当はわざわざ出掛けていたに違いない。そうでしょ?そういう男だよ。
 そこで、僕が妻を亡くしたことを知り、今なら、心も動いて、会う気になるかもしれない、と考えた。あなたの病のこともあり、この際悔いの残らないようにしたら、と。
 あなたは、自分の想いだけを叶え、梶川の心を犠牲にするのは耐えられない、お互いフリーハンドになりましょう、と言った。
 メールアドレスは博子さんに聞いたのか。一つの謎は解けたけど、梶川は心底それでいいと思っているのかな?何故あなたの行為を許したのか?もっと深く考えるべきかもしれない。彼の配慮で、あなたとこうして会えた。それで充分。いや、充分すぎる。これ以上望むのは罰当たりと言うものだろう。
 あなたはやはり、梶川と生きるべきじゃないのかな?僕はこれまで、あなた無しに生きて来られたけど、彼は違うと思うから・・。

(了)

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<著者紹介>
仲馬 達司(神奈川県相模原市/男性)

 幸せだなと、感じることが少ない年齢に私は達していた。
 毎日の日々が単調に感じたのは、いつ頃からだとうか。随分前のような気がする。
 嫁の、アサミと結婚したのは二十七年前。彼女と初めて出会ったのは、二十八年前の私が二十三歳のときだった。
 思えば、アサミとの出会いは偶然なのか必然だったのかわからない。運命といってしまえば、簡単に片付いてしまうのかもしれないが、当時はなにも考えることが出来ず、ただ舞い上がっていただけだった。
 田舎から東京に上京して、一年が経過した頃だ。私は、まだ都会にはなれておらず、都会の喧騒に嫌気がさしていた時だった。
 私が乗る電車を間違えたのが、きっかけだった。すぐ気付けるほど、東京には染まってはいなかった。
 そのときの間違いに、今の私は感謝しているのだろうか......。
 
私は都会生活を続ける気力が、なくなりかけていた。そんなときにテレビを何気なくつけたときだった。映っていたのは井の頭公園だった。私は一瞬で虜になった。どこか、田舎の公園に似ていたからだ。私はそれから、消えかけていた気力が、みるみる回復していくのが実感できた。
 さっそく私は、外に出て、井の頭公園について調べることした。雑誌で調べていくうちに、吉祥寺に行くことを一瞬で決めたのだった。三鷹市、武蔵野市に私は故郷を感じた。もちろん違うのはわかっていた。だが、なにかに頼りたかったのも事実だった。
 私はその週の休日に吉祥寺へと出かけようと心に誓った。
 休日になり、私は意気揚々と最寄りの駅から新宿へと足を運んだ。田舎者から抜けきれてなかった私は、とりあえず新宿に行けばなんとかなるだろうと思っていた。そんな浅はかな考えが小さいミスを引き起こしたのだ。
 私は中央線に乗るつもりが、京王線に乗ってしまったのだ。落ち着いて対処すれば、簡単に済む問題だったのだが、私はパニックに陥ってしまった。新幹線じゃないんだ、すぐ停車するんだ。そんな考えすら思い浮かばなかった。田舎出身を恨むことすら忘れていた。
 私はキョロキョロと周囲を見回した。そんな私が滑稽に映ったのか、一人の女性が声をかけてきた。
「どうしたんですか」
 その女性は私を、年配者を扱うように話しかけてきた。ムッとしたが、冷静に対処しようと心がけた。それが効を奏したのか、私はしだいに自分を取り戻してきた。
「ちょっと電車間違ったみたいで」
「行き先はどこですか?」
 彼女は心の底から心配しているかのように、私に尋ねてきた。彼女を見て、私は冷静さを取り戻しそこなった。彼女がとても美しかったからだ。親身になって私の声に、耳をかたむける彼女は、とても眩しかった。
「いえ、大丈夫ですから」
 言って私は、ますます舞い上がってくるのがわかった。このままだと緊張のあまり、相手に気まずい思いをさせるかもしれない。パニックと緊張が、混和し私は気分が悪くなってきた。
でも彼女と話したい。
 その思いだけが今の私を、支えていた。
「吉祥寺に行きたいんですけど」
 私は勇気を振り絞って声を出した。
「吉祥寺ですか、だったら大丈夫ですよ」
 だが、彼女の顔色は「大丈夫ですよ」と安心させるような顔色でも、声音でもなかった。病人に話しかけるような口調だった。想像は出来た。私が青ざめていたからだろう。
「明大前で降りて、京王井の頭線に乗りかえてください」
 彼女は優しく、私に対処法を教えてくれた。
「ありがとうございます」
 今の私が、唯一声に出せる言葉だった。
「じゃあ気をつけてください」
 と、言ってから彼女は私の側から離れていった。
私を気味悪く感じたのだろうか。私は小さく深呼吸をした。気分が落ち着いてくるのに、電車の停車、発進を数回要した。
私が安堵したとき、彼女が目の前に立っていた。正確にいうとホームから私を見つめていた。私と彼女の間には、開いたドアがあった。彼女は私になにかを、訴えかけるような表情をしていた。彼女は地面を指差していた。彼女の動作の意味に気付いたのは、彼女が慌てて電車に飛び乗ったの同時だった。
私は「明大前」のアナウンスに気付かなかったのだ。そんな私に彼女は笑顔で言った。
「降りないから驚きました」
 彼女は心配で、ずっと私のことを観察していたのだろう。彼女の笑顔は一瞬で私を虜にした。三鷹、武蔵野に見とれたのと同じように。彼女は微笑したまま私に続けて言った。
「もしよかったら、ついでに寄り道でもしません?」
彼女の誘いに私は戸惑った。
「と、言うと?」
 私は素直に問うた。
「変な女だって思ってますか?。そうですよね。誰だって変に思いますよね」
 私が田舎者と気付いたのだろうか。私は騙されているのだろうか。
 だが、私は思いとは逆の台詞を口にだした。
「はい、寄り道しましょう」
 彼女はクスリと微笑んだ。
 騙されてもいい。私は素直に思った。
 彼女と電車を降り、バスに乗った。都会での初バスに高揚したのか、それとも彼女とのデート気分に高揚しているのか、私は上京してきて初めて楽しい気持ちになった気がした。
 彼女に連れてこられた場所は、深大寺という場所だった。私は不思議な気分に包まれた。
「ここって色んな顔を見せてくれるんです。来るたびに様々な色を見せてくれるんです。だから飽きないんですよ」
 言う彼女の顔色は寂しそうに見えた。
「いいとこですね。寄り道してよかった」
 彼女は小さく笑った。
 私達は散策してまわった。除夜の鐘、釈迦堂や歩いてまわった。そのつど彼女は詳しく説明してくれた。
 たしかに色んな顔を見せてくれた。
「春夏秋冬この場所に来てみたい。四季の変わり目は深大寺に訪れてみたい」
 私は独り言のように呟いた。それを聞いて彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
 できればあなたと。
私は心の中で呟いた。
「今日はありがとうございました」
 彼女は私に頭を下げた。お礼を言いたいのは私のほうだ。そう返答しようと思ったが彼女が遮った。
「今日、一人じゃなくてよかった。実は一人で来たくなかったんです」
 彼女は切ない顔で私に話し出した。私は黙って話を聞いた。
 彼女は最近、好きな人と別れたらしく、ふっきれるために、彼氏との思い出の地の深大寺に訪れたのだった。
 彼女には申し訳ないが、私は今日という小さな偶然に幸せを感じ感謝した。
 深大寺に訪れる四季は様々な顔を見せてくれる。彼女も深大寺の四季のように、色を変化させ気持ちを切りかえるのだろう。彼女はこれから新しい一歩を踏み出すのだ。できれば私も彼女の一歩に貢献したい。
「あの、名前、名前を教えてください。聞くの忘れてました。なんか順番違いますね。初めに聞かなければならないのに。でも寄り道から始まったし、合ってるかな」
 私の照れながらの必死の問いに彼女は、笑顔で頷いた。
 私は貢献出来るのだろうか。
 彼女の名前を聞いて、私はふとそんな疑問に頭をめぐらした。

「あなた」
 私は嫁の声に、昔から現実へと舞い戻った。
「早く食べてください」
 テーブルには朝食が並べられている。一口も手をつけていない。
「ああ」
 私は気のない返事をした。箸を握らずに外を眺めた。
 この街に一目ぼれしたのが始まりだったな。
 季節が変ろうとしている。
「なあ、アサミ、昼食は蕎麦を食べよう」
 久しぶりに嫁の名を呼んだ気がした。
「久しぶりに、深大寺にでも行こうか」
 アサミは満面の笑みを浮かべた。
 そうだ、私はこの笑みに幸せを感じるのだ。
 深大寺の四季は様々な顔を見せる。だが、アサミの笑みは変らない。初めて出会ったころと変らない。あれからずっと私の側で笑ってくれる。彼女が笑ってくれる。それだけで幸せを感じるのだ。
 私は簡単なことを、随分忘れていたような気がした。
 私は貢献出来たのだろうか。
 答えは未だに出ていない。だが、あれからずっと彼女は私の側にいてくれる。
 それが答えなのかもしれない。
 四季の変わり目を、深大寺に感じに行こう。そして、変らない幸せを、アサミと感じに行こう。寄り道せずに真っ直ぐ、深大寺に向かおう。
 私は箸に手を伸ばし、急いで食べ始めた。
 寄り道してもいいかな。アサミと一緒なら楽しい筈だ。
 久しぶりにこみ上げる高揚に私は、幸せを感じた。

(了)

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<著者紹介>
宮埼 由多可(埼玉県川口市/28歳/男性/フリーター)

第2回公募において、残念ながら選外とはなったものの、素晴らしい作品だったものを今週末よりご紹介致します。
尚、誠に勝手ながら、ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
何卒ご了承ください。

更新は多少前後することもありますが、主に金曜日です。
是非、ご期待ください!

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