小金井街道を真っ直ぐに三鷹方面に向けて車を走らせていると、道が急に右手に大きくカーブする。その手前、緑のこんもりと覆い茂った参道を抜けると深大寺だ。
ここは私の子供時分の遊び場で、春は花見で賑わう時期を避け、少し葉っぱの混じった桜を家族でのんびりと眺め、夏はひんやりとした空気の中、子供の足には広大過ぎる敷地内でクラスメイトと缶ケリをした場所。
ある時を境にピッタリと、私は此処に来るのをやめてしまった。それは小学校6年の秋。今でもハッキリと覚えている。

小学校の高学年にもなれば、男子と女子は以前のように一緒に鬼ごっこをしたりはしない。当時の私達女子の遊びと云えば、誰かの家に集まり、アイドルやTVについてのお喋りをするというもの。そして、その最も盛り上がる話題と言えば、誰それは誰が好きだといった噂話だった。
仲良しグループは十人程の大所帯で、子供ながら其処は社会であり、互いの性質に合った役柄を演じるという図式は存在していた。
絵里ちゃんは、その中で一番体格も大きく、勉強も出来た少女だった。高校生の姉のいる彼女が口にする言葉は少し大人びていて、私達は彼女に一目置き、彼女もリーダー格の自認しているようだった。
ある日絵里ちゃんは、池野君が好きだと皆の前で言い放った。彼はクラスで一番足の速い男の子で、女子にも人気のある男の子だった。他人の噂話なら際限なく盛り上がるくせに、自分にも好きな男子がいるという事は気恥ずかしく、そういう気持ちを何となく誤魔化していた私達は、絵里ちゃんの言葉に潔さと大人っぽさを感じた。絵里ちゃんは、卒業式までに池野君に告白をすると言う。私達にはそれは大事件であり、我が事の様に絵里ちゃんの恋を応援しようと盛り上がった。

私は誰にも言えずにモヤモヤとした。
本当は私も池野君が好きだったのだ。だけど、自分は絵里ちゃんの様な大人に近い感情で池野君を好きなのではなく、仲の良い友達として例えば私が絵里ちゃんや智子ちゃんを好きな様に、彼の事も好きなのではないかと、自分の感情には大人になるにはきっとまだ、何かが足りないのだろうと感じていた。
そして何より、自分の見かけにコンプレックスを感じていた。身体も貧弱で、分厚い眼鏡をかけていた私はお世辞にも可愛い子供ではなく、姉の服を黙って拝借してくる様なマセた絵里ちゃんに比べて、いや、他の少女達の中でも一番見劣りしていた。そして、それを子供ながらに自覚していた。
結局私は、自分の中に芽生えた小さな感情をそのまましまいこみ、他の友達と同じように絵里ちゃんの恋を応援する事にした。小さな頭で考えた、それが精一杯の結論だった。

 池野君の家は深大寺名物である蕎麦屋を営んでいた。
どちらかといえば観光客向けでなく、地元住民向けの街の蕎麦屋の雰囲気で、近所だったこともあり、我が家では私が彼と同じクラスになるずっと前から彼のうちの蕎麦を食べていた。その蕎麦屋の息子が池野君だと知ったのは、3年生で初めてクラスが一緒になった時で、実は私はその時点から彼を少し意識しており、なんとなく彼の店に行くのは恥ずかしかったりした。
蕎麦を食べに行ったところで、彼が店先にいる事など有り得ないのもわかっていたのだが、学区境の蕎麦屋には他の同級生達の家族は訪れなかった様で、それが唯一私と彼を繋ぐ接点のようにも思っていた。

 絵里ちゃんの恋を応援する事にした私は、それ以降、家族で池野君の店を訪れる事を拒否するようになった。母はそれを、私の反抗期と受け取っていたようだったが、自分の気持ちを親に知られる事を、なにより恥ずかしいと感じていた私には都合のよい事だった。

 冬の始まりの頃だった。
 
池野君が風邪を引き、数日学校を休んだ。
私立の中学を受験するという絵里ちゃんは、
その頃はそんなに池野君の話をしなくなっていたが、気を利かせた周りの子たちは彼のお見舞いに行こうと言い出した。
 彼女は勿論大喜びし、私達は十人近くの大人数で彼の家にお見舞いに行く事になった。と言ってもそれは、彼の店に蕎麦を食べに行くという内容で、私達はお小遣いを出し合って花を持って行った。
子供だけの十人もの来店に彼の両親はかなり面食らった様子だったが、息子の人気に気をよくした母親は、ジュースやお菓子を私達に振る舞い、初めてのお見舞いという行為に興奮していた私達は食事を済ませてもなかなか店を出ず、何人かのお客さんが引き戸を開け、中を見てはそのまま帰って行くのを見てもおかまいなしだった。
当たり前だが、熱を出して寝込んでいる池野君本人には会えずじまいで、そろそろ帰りたいなあと感じていた私は何だか居心地が悪くなり、店内をぼーっと見回していた。

すると、店から住居部分に続いていると思われる廊下の暗がりの中に一枚の絵が飾ってあるのが見えた。
絵は額に入ってはおらず、子供が描いた様な人物画で、よくみると見覚えのあるセーターを着ていた。私は、そのセーターをどこで見たのかとぼんやりと考えていた。
濃い目の紫に黒いVネックの縁取り―。
あっと思った瞬間、私は居たたまれなくなった。そのセーターは、私が3年生の頃によく着ていたものだったのだ。
それが、3年生の授業で描かされた「友達の顔」なのだという事に気付いた私は、何故だか恥ずかしさで一杯になり、どうしてそんなものを貼っているのだと腹が立ってきた。
きっと、二重丸を貰ったので両親が喜んで貼ったに違いないと納得した後に、あの絵が私である事に、誰かが気付いたらどうしようと思った。
―どうか絵里ちゃんが気付きませんように―
私は祈り、早くここから出たいと願った。そして池野君を恨みがましく思った。

池野君は翌日から登校してきた。
私は何にも気付かなかった様にした。本当は私があの絵に気付いた事を、池野君自身に気付かれるのが怖かったのである。だが、そんな心配は必要なかった。それより以前に私が彼と親しく話す事など昔からなかったのだ。
絵里ちゃんも誰も、絵には気付いていないようだった。私は安堵し、そのまま小学校を卒業する日を迎えた。絵里ちゃんが池野君に告白する前に、クラス中が、絵里ちゃんが彼を好きだという事を知っていた。それは男子生徒も一緒で、今更告白をする必要もなく、彼らがどうしたのかは知らない。
私は彼らと二度と会うことはなかった。私の卒業と同時に我が家が引っ越す事は、ずっと以前から決まっていたのである。

 月日が流れ、私は東京に戻ってきていた。
多摩地区にあった女子大に進学した私は、
調布からもそう遠くない距離にアパートを借りていたが、一度も深大寺を訪れる事はしなかった。なぜなら私は子供時代の仲間に会いたくなかったのである。
私はコンタクトをし、化粧をしていた。大学にもめいっぱいお洒落をして通った。学生生活はそれなりに充実していたし、男友達も沢山出来た。今更過去の苦い思い出に触れる必要はない。私は充分幸せだった。
―そして、ある日、大失恋をした。

幾日泣いても悩んでも、彼は戻ってこない。
なぜ振られたのかも、さっぱりわからない。
ただ一言、飽きたと告げられたのである。

 私は急に深大寺に行く事にした。

池野君に会いたかったからじゃない。

私は確かめたかった。今の私は、昔の私なんかじゃない。誰が見ても私と気付かないはずだ。そう、私は綺麗になったはずなのだ。眼鏡もない。痩せたすっきりした身体。垢抜けて、見違えるほどになった自分。私はそんな自分を誇りに思っている。満足している。

店の扉は、記憶していたものよりずっと小さく、店内は狭かった。

 私は少しだけ皺の増えた彼の母親に、出来るだけそっけなく注文をし、そのまま窓の外を見た。彼の母親は私に気付かなかった。私は安堵する。遠くに紫陽花が見えていた。
彼も私と同じなら、今頃はきっと何処かで一人暮らしの大学生になっているのだろう。
この店に、彼はいないのだ。
以前と同じ大きな盛の蕎麦が運ばれてくる。
運んできたのは若い男の店員だった。私は出来るだけさりげなく店員の顔を盗み見る。
 
その人は小さく笑って、久しぶりと応えた。

店の奥に人物画が貼られているのが見えた。
額には入っておらず、紫色のセーターは、すっかり色あせて見えた。

私は、急に泣きたくなった。 
 
(了)
 
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<著者紹介>
藤沢 夏生(神奈川県)

「美里ちゃん! すゑばあちゃんがいなくなったんだって?」
 町内一情報ツウの隣のオバサン、杉村さんが飛び込んできた。病院からの帰り道、ちょっと遅いので母が探しに行っただけなのに。
お天気ならたいてい祖母は病院から歩いて帰ってくる。
「ボケてなかったわよね」
 杉村さんのことばには遠慮がない。
「友だちのところに寄っているのかも」
「ケイタイ持たせた方がいいわよ。あたしだって持ってんだから、ほら」
 スイッチとボタンだけのシンプルな携帯。
「最近物騒だからさ、孫には、なんか、どこにいるか分かる携帯があるらしいのよ、それ持たせろって、息子に言ってんだけどさ。幸子さんがウンて言わないのよ」
(......結局はお嫁さんのグチか。)
「若い人のはなんかすごいんでしょ、音楽聴けたり、買い物できたり...... ちょっとそこまでお買い物いってくるから、見つかったらこっちに電話して。紙きれと鉛筆ある?」
 渡すと自分の電話番号をスラスラ書いた。
 さてはこれで情報を仕入れ、ばら撒いているのか?
 杉村さんの勢いに急かされたわけではないが、少し心配になり母にコールしてみる。
なんだ、また電源切れてる。
電車に乗るとき母は、マナーだと言っていつも電源を切る。なんのことはない、シルバーシートに座る罪悪感を少しでも和らげるためだ。「疲れてるときはいいの」と言っていつも座っている。そして電源を切ったことをそのまま忘れてしまう。相手の電源が切れていれば、自分の携帯も意味がない。
 窓から空を見上げると、夕立が来そうな雲ゆきになっていた。少し心配になってきた。急いで洗濯物を取り込み、カサを三本持って家を飛び出した。
(おばあちゃんはいつも深大寺の入り口を通ってくるから......)
はたして、祖母はそこにいた。
「おばあちゃん!」
 大きい声を出したのに、気づかない。
「おぅばぁあちぃやん!!」
 ゆっくり大声で。しかし祖母は何かを見つめたまま。もしかすると杉村のオバサンの言うとおり...... いやそんなことはない。父も母も私を呼ぶときに、まず兄の名前を言って、すぐ間違いに気づき、言い直して弟の名前、そして最後に「違った、美里!」という。しかし祖母はきちんと私だけを呼ぶ。そんな祖母に限って......。
ふざけて名前を呼んでみた。
「すゑさん!」
祖母は驚いて気づいた。
「美里かい」
「帰り遅いんで、探してたんだよ」
「そうかい、そりゃすまなかったね」
「電話くらいしてよ」
「公衆電話が見あたらなくて......」
「夕立くるよ」
「うん......」
祖母は動こうとしなかった。その視線を追うと、工事の看板があった。
「この木だけ、切り倒すんだって」
祖母が言った。
「道路に面してるだろ、だから排気ガスで、梢が枯れてきて......」
「しょうがないよ。この木、邪魔だし」
「......」
「早く帰ろうよ」
祖母は動かない。
「ばあさん、ちょっとどいてくんないかな、危ねえよ」
黄色いヘルメットの作業員だった。
「この木ほんとうに切ってしまうんですか」
「そうだよ。だからどいてって」
「ここならいいですか」
祖母はやっと少し動いた。
「まあいいけど。気をつけてよ、ケガでもされたらこっちの責任問題だからさ」
「危ないから帰ろうよ」
「......」
祖母はもうそれ以上動かなかった。
「あの木なら、ずっと立ってると思ったのに。せめてあたしが......」
「あの木がどうかしたの?」
祖母は、木を通りぬけて違う時間を見つめているようだ。
「美里よりもうちょっと大きくなったくらいだった、あのひととここで別れたのは......」
「あのひとって?」
祖母は恥ずかしそうに笑った。
「別れる前にあっちの店で一緒におそば食べて。あのひとは、自分のいのちが延びるように縁起かついで、おそばゆっくり食べて。ああ、のびちゃったって、おどけてた......」
祖母が何を言い出したのか分からなかった。
「あたしを描いてあのひとは行ってしまったんだよ」
祖母は遠い目つきをしたままだ。
「おまえは好きな人の前でなら裸になれるかい?」
「え?」
「あのひとはどうしてもあたしを描いておきたいって」
「あのひとって誰よ」
「......」
「わかった、おばあちゃんの昔のカレシ」
「今はそういうんだね。」
「昔は?」
「許婚」
「いい名づけ?」
「あとで辞書ひきなさい」
「はい」
話しながらも、まずは枝が切り落とされていく光景から、祖母は視線をそらさない。
「あのひと、画家のタマゴでね」
「いまは?」
「......」
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
「兵隊行く前にあのひとは指輪をくれた。あの木のところでね。帰ってきたら一緒になってくださいって。......あたしに指一本触れず、あのひとは......」
「その指輪、まだ持ってるの?」
「供出っていってね、うちにある金属は全部戦争のために使わなきゃならなかったから」
「じゃ、そのひとの指輪も......」
「溶かされて鉄砲の弾になんかされてなきゃいいけど......」
「......絵はウチにあるの?」
「おんなじような絵がたくさんある美術館に預けてある......」
「どこ? 見たい」
「長野のね......」
 そのとき木を切っている作業場のほうがざわついた。
「なんだこりゃ」
さっきの作業服が声をあげた。
「おい、切った枝ン中になんか入ってンぞ」
同じ作業服が何人も寄ってきた。
「虫じゃねえの」「違うよ」「光ってんな」
好奇心でほじくり出していた。
「なんか書いてあるけど、横文字おれダメ」
「どれどれ」別の作業服が替わった。
「Kousaku Masuda & Rin Gotoだってよ!」
【Rin Goto】!「後藤りん」祖母の名前だ。
気づくと祖母は駆けていた。あわててあとを追う。
「なんだよばあさん」
「それあたしの......、です」
「なんだって」
「おばあちゃんの結婚前の名前なんです」
「結婚前ってったって......何年前よ」
「もう六十年以上前です。あのひとが出征するときにここで最後の別れをしたんです。あのひとはあたしに先に帰れといいました。後姿が見えなくなるまでここにいるからって」
「誰だい、あのひとって」
「おばあちゃんのイイナズケらしいんです」
「で、ここを去るときにこの枝にこれを差したってわけかい」
「そうだと......」
「じゃ何かい、この指輪を包み込むようにして、この枝は太くなってったってわけ?」
「......まさかぁ」
「こんなの兵隊にゃ持ってけねえもんな」
「名前入りじゃ変な所に置いとけないし」
作業服たちは口々に言っている。
私は祖母の左手をとった。
「はめてみてよ」
「でもこれはあのひとのだよ」
そっとクスリ指にはめてあげた。
「ぴったりじゃない」
「むかしは白魚のような指って......」
祖母は少女のように笑った。
作業服が、ヘルメットを脱いで言った。
「りんさん...... この木、切んなくちゃなんないんだけど。ごめんな」
祖母はゆっくりうなずいた。そして木に歩み寄り、幹をそっとなでた。
手の甲の皮と木の幹の皮。同じ時間をすごしてきた分だけ、皺も色もよく似ていた。
祖母にそんな想い出があったなんて。そしてこの木がその想い出を大切に包んでいたなんて。
この木の中で、優しい時間がずっと流れていた。
携帯が鳴った。母だ。
「いたよ、おばあちゃん」
祖母が携帯をのぞきこんだ。
「それは昔の人には通じないのかい」
「あたりまえでしょ」
「......不便だね」
雲が灰色をいっそう濃くし、雨降りの前のあの匂いがしてきた。私は一本だけカサを開き、おばあちゃんと相合傘で、道を急いだ。
 
(了)
 
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<著者紹介>
岩脇 忠弘(神奈川県川崎市/38歳/男性/事務員)

〈今日は外せない用事があってさ。ほんとゴメン。また誘ってくれよ。...おう、じゃあな〉
ボタンを押して通話を切った。
朝早く夢に起こされてボーッとしてる時に携帯が鳴った。相手は大学の友達で、これから海にナンパしに行こうぜ、という誘い文句は魅力的だったけど断った。
僕は学生生活最後の夏休みを過ごしていた。奇跡的に内定をもらい、単位も問題なく、卒論もなく、金もないけど時間と気楽さだけはある日々を漂っていた。
ぼんやりしたまま目覚めの一服をした。
──またタバコなんて吸って!
昔、言われた言葉を思い出した。いつも言われてたっけ。そんなの吸ってると病気になって死んじゃうからやめろ、なんてさ。
 卓上カレンダーに目をやると曜日感覚が一時的に復活した。日曜だった。普通の人にはなんでもない休日。僕にとっては...。
 ゆらゆら立ち上る煙を目で追っていると時計の規則的に時を刻む音が気になった。
 その音は咀嚼の音に聞こえてくる。
 僕の胸には空洞があった。そこには動物が住んでいる。
普通ならその動物は時間によって痩せ細っていく。時の流れの中で存在が薄れていく。なのに僕の中にいるのは特殊なやつらしく時間を食べる。食べた分だけでかくなる。
動物はもう五年もの時間を食べた。
動物に名前はない。成分が複雑に絡み合い、溶け合い、混ざり合い、判然としないからだ。なんて呼べばいいのかわからない。
新しく名前を作って付けてあげたら、飼い馴らすことができるのかなぁ?
また今日という日を思うと、胸の奥が苦しくなった。動物がなにかをぎゅっと掴んで暴れてる。
痛い、痛いと涙を流したら、動物はちょっとでも同情してくれるのかなぁ?
もしそうだとしても、それは無理だ。僕の涙は五年前から流れることを忘れているから。
あの時、涙をこぼさなかった。僕が泣いたその瞬間に認めてしまう。そう思ったからだ。それからの僕は泣くという行為を失い、他の表情までもが中途半端になってしまうといういらないおまけが付いてきた。
たぶん《何か》が壊れたんだと思う。
 ブラインドのスラットの角度を変えるとベランダの光が反射して目を刺した。瞼をもむと顔がベタついていた。
 タバコを圧し消して部屋を出た。廊下に出ると妹の彩もちょうど部屋から出てきた。
「おはよう。奏ちゃん、今日は早いじゃん」
「ああ。なんか二度寝できなくて」
 彩はじっと見つめてから言った。
「...今日、お寺行くんでしょ?」
 僕は頷くことで答えた。言葉で返すのがなんかちょっと嫌だった。
「行く前に顔の筋肉、マッサージした方がいいよ。神様がどれだけ寛大か知らないけど、そんな顔見られたら、ご利益得られないかも」
「わかった。入念にやってから行く」
 口ではそう答えたけど、僕は思った。
神様なんて、いるのかよ?

昼下がりに僕は出かけた。
目的の場所に行く前に寄り道をした。小学校前の陸橋。僕は持ってきた花を供えて、線香をあげて、手を合わせた。
今日で五回目の、毎年やっていることだ。でもどこか形式的で、いつも現実から離れてる感じがしてしまう。
しばらくその場に佇んだ。それから来た道を戻り、角を右に折れた。
空はいつの間にか曇りだしていて雷の音が遠くに聞こえた。この時期は毎年聞く、夏のスタートラインのような雷だ。
今日、鳴らなくてもいいだろうが。僕は忌々しく雲を睨みつけた。
参道の緩い坂道を歩くたびにネックレスのヒスイの指輪がなだめるように胸を叩いた。
 右手に石段が現れて、それを上りきり、小学校の裏手の道を抜けて、突き当りの角を左に曲がった。
 僕はこの道を見上げながら歩く。背の高い木々は伸ばした枝を重ね合い、心地よい木陰を生み出し、木洩れ日がきらめいていた。
──木も手を繋いでるみたいね。
 声と仕草が蘇る。かつて僕の手を取ってくれた細く白い手がほんの一瞬だけ見えた。
 彼女は上を向くのが好きだった。
「パパの好きな野球選手は不調の時も絶好調と言ってたんだって。自己暗示よね。それと同じで上を向いてれば、沈んだ気分だって、いつの間にか上向きになると思わない?」
 という理由から、らしかった。
 倣って上を向いてみるんだけど、気分はいつもどこか沈んでいて、浮かんでこない。
僕はそのまま歩いて、ぶつかった分かれ道の一番左を進み、坂を下ってそば屋の脇に出た。左に折れて少し行くと山門の前に出た。
──水の匂いがするぅ。
 全体で呼吸するように揺れる長い黒髪と羽のように広げられたしなやかな腕が浮かんで、すぐに消えた。
 残念だけどその匂いは未だにわからない。
石段を上がり、境内を左手に進むとナンジャモンジャの木の前に立つ女の人が見えた。近づくにつれて顔がはっきりする。前にここで何度か見かけたことのある人だった。
視線を引き剥がし、左側に向けた。僕が目指すのは、その奥にある池だ。
僕は鯉が飲み込んだ指輪を思い出す。
五月の誕生日にあげた、安物だけど初めて買ったヒスイの指輪。ひと月もしないうちに池に落ちて、鯉の胃袋に消えた。
だからもう一個、買ったんだ。あんなに悲しそうに謝るからさ。
でも二つ目の指輪は今、僕の胸元で揺れている。

五年前の今日。
夕方、ここで待ち合わせていた。僕はもう一つの指輪を渡そうと考えていた。
僕は石碑を読んだり、湧き水で手を洗ったり、驚く顔を想像して待っていた。のん気にも時おり鳴る雷に雨の心配なんかしながら。
いきなり大きな雷鳴が轟いて、震動が伝わってきた。落ちた、と思った。しばらくすると近くで救急車のサイレンが聞こえた。
山門が閉められて境内にいれなくなっても、僕はなにも知らずにただ待っていた。
彼女はとうとう来なかった。来れなかった、と言った方が正しい。
そんな彼女を、僕はまだ待ち続けている。

 女性の横を通り過ぎる時、手のひらに置かれた指輪が見えた。僕はとっさに訊いていた。
「あのっ、それ、どうしたんですか?」
「もらったの。池の方から歩いてきた、長い黒髪の女の子に。大切にして下さい、って」
 頼んで見せてもらった。ヒスイの指輪だ。内側にはイニシャルで並ぶ僕と彼女。
「あの...彼女、笑ってましたか? 夢の中だとずっと泣いてて謝ってばっかりなんです」
「君さ、夢の中でもそんな表情してるの? きっと、そのせいだと思う」
 言い終わると女の人の携帯が鳴った。背中越しに来てくれたら関係を続けましょ、という言葉がはっきり聞こえた。それと対照的に会話の終わりのさよならは薄く小さかった。
指輪を返して、会話が気になって訊いた。
「失礼ですけど、待ち合わせですか?」
「ううん」
「あの〜、前にここで男の人と歩いてるの、見かけたことあったんですよ」
「見られてたか。...でも今日は来ないのよ。日曜だもの。彼ね、休日は良いパパだから会えたためしがないの」
「えっと...辛い恋愛ってこと、ですか?」
「恋のあとに愛があるから、恋愛って言うのね、たぶん。だとしたらあたし、なにしてたんだろ? だまされちゃったかなぁ...」
「よくわからないですけど、今ここにいる、ってことが愛かもしれないですよ」
「...なにクサイこと言ってんの?」
「それにだまされたってことは、信じたってことですよね。そう考えると上を向いてる気がしませんか?」
女の人は泣きだしそうな顔になった。
僕は自分の言葉の中に彼女がいた気がして嬉しくなった。遠慮して小さく笑った。
 笑いが消えると、あることを思いついて、池に走った。ほとりで首に下げたチェーンから指輪を外して、池の中に落とした。
 目を閉じて、彼女に宛てたメッセージを強く、強く思い浮かべた。
「水に祈りを捧げてるみたいね」
「彼女の名前。水に祈る、でミズキなんです」
「あたしもミズキよ。瑞々しい季節、で」
 僕らは初めて目と目を合わせて笑い合った。
「なんかお腹すいちゃったな。ねえ、おそば食べるの付き合わない?」
 少し迷ってから僕は頷いた。そういえば、今日はほとんどなにも口にしていなかった。
歩き始めて山門をくぐった時、昔嗅いだことのある柔らかな匂いが鼻をかすめ、僕は振り返った。
 ...神様ってちゃんといる。そう思えた。
 あの触れるだけで照れた長い髪が、あのまともには見つめられなかった大きな瞳が、あの鼓動が走り出してしまう眩しい笑顔が、そこにあった。左手薬指にはめたものを見せつけるように突き出して立っていた。
 僕も笑い返した。けれど見えてる世界は瞬く間に濡れていった。
合わせていた視線を深く頷いて解くと、彼女は大きく微笑んで池の方へと姿を消した。
僕は、久しぶりの温かい液体を静かに拭って、また歩き出した。
 
(了)
 
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<著者紹介>
田保 冬真(神奈川県大和市/27歳/男性/フリーター)

今からもう10年も前のおはなし
まだ携帯よりポケベルを使っている人が多かった頃のおはなし
あの頃の私の初めての恋のおはなしです

「お前さ、明日は寄り道とかしないでさ、早く帰ってこいよな?な?」
「うん。」
そういいながら電波の悪い電話を持ちながら、電波を探す・・
「きいてる?あれだぞ?ちっちゃいやつだからな?2つだからな?」
「うんうん。」
「あれ知らないと地元の人間じゃないぞ? まぁ明日よろしくたのむわ。」
「うん、「ちいさい」の「2つ」ね。」

いつもの約束の時間の約束の電話 「赤坂康彦のミリオンナイツ」を9時40分まで聴いてからお互いにポケベルで連絡を取り合う
「イマカラデンワスルネ」
※2※2 12 71 21 91 44 04 03 01 33 93 54 ♯♯
これをポケベルで確認してから、居間にある電話の子機をこっそり持ち出して、
そして自分の部屋で電話が鳴るのを待つ。
彼は公衆電話に駆け込み、私の家へ電話をしてくれる。
プルル プルルルル・・・
私達のデートはこうして始まる・・・・。

彼は中学の時の同級生で遠くの高校へ進学し、規則の厳しい寮に入っていた。
少ししかない自由時間を使って、毎日のようにテレホンカードを持って9時40分に私の元へ電話をくれた。毎日の様に電話をくれた。
そして、話すことはさっきまでお互いで聴きあっていたラジオの話や今日あったお互いの話や着きたての手紙の話、そして今度会える日について・・・等など。

「ダルマね!」
最後にまた念を押してきた。
「はいはい・・わかったから。」
なんで神代の人はこんなにダルマにこだわるのだろう・・・とちょっと飽きれた声で言ってみた。
引っ越してきて2年しかたたない私は首を傾げてしまうのだが、とにかくとっても重要らしい。
「友達にも言っちゃったんだからさぁ、宜しく頼むよ?じゃあな、切るね・・・切るよ?」
「うん。」
少し切るのを惜しみつつ、彼のいる場所から聞こえてくる風の音を聞いたりしながら
しばらく沈黙し目を閉じてみる。
電話からは、カチャン、カチャン とテレフォンカードのカウントが聞こえてくる。
「おやすみ・・・3秒後に切るね・・・・・。」
電話を手で出来るだけ遠くに離し、電話の切れる音を出来るだけ聞かないようにしていた。
プープープー・・・・
切れてしまった電話の音はとても無機質で嫌いだった。
さっきまでの会話が遠くからのものだと感じてしまうからだ。

翌日、春休み前の最期の期末テストも終ってやっと遊ぶことが許された放課後、友人達との会話もそぞろに『ダルマ市』は、夕方には店じまいをしてしまうので、自転車を漕ぎ、深大寺まで急いだ。お寺の前の坂道を勢いよく下る。
辺りはそろそろ祭りも終わりといった感じでお客さんも減って薄暗くなっていた。
少し息を切らせながら、自転車をとめる。
「小さいダルマ 小さいダルマ・・・。」
と呪文のように言いながらいくつもの出店を廻った。
もう店の半分は店じまいしている。
開いている店には、これでもかというほどの大きなダルマが何百個と重なって並んでいた。
小さいダルマ・・・と目でダルマをおっていると、それらしきものを発見した。
「・・すいません。一番小さいダルマ貰えますか?」
「えぇ〜?小さいダルマかい?」
「縁起ものだし、デッカイの買ってきなよぉ〜。」
と景気よく言われるが
「いえ、約束なので、一番ちっさいの2つください。」
と、よく分からない言い訳をしながら、小さいダルマが出てくるのを待った。
「はい2個ね!どれがいいかい?」
そういわれ はじめてダルマをまじまじと見た、髭の書き方が微妙に違い顔の表情がひとつひとつ違っていた、顔をいくつか見比べて2つ選んだ。
「はい1500円ねぇ まいどぉ!!」
「ありがとう。」
そう言って、ビニール袋に入れられたダルマを片手に彼の実家の辺りをわざと迂回し散歩がてら帰った。
「全然かわいくなぁ〜い。今日ぜったいいってやろぉ〜。」
と独り言をつぶやきながら彼へ書く手紙の内容を考えつつ家へ帰った。

家に着き、さっそく机の上にふたつのダルマを並べてみた。
「やっぱり、かわいくない・・・・。」
そういいならが指でダルマを押してみるとコロンっと転がりながらもすっくりと起きてきた。
「ホンモノじゃん。」
ちょっと感心していってみた。
母に靴箱を用意してもらい、ダルマを新聞紙でグルグルと巻きいつものように手紙を書いた。

□ 手 紙 □
DEAR:HIRO
HELLO〜!!
今日ちゃんと約束通りかったよぉ!!
しかたがないからねぇ〜。
でも、やっぱし、ぜんぜんかわいくなかったよぉ。
私がダルマを嫌いになったわけって話しなかったっけ?
小学校のとき中学受験の前に買ったダルマを弟が転がしまくって、
しかもひっくり返ったままで、すっごくムカついてって、
確か言ったよなぁ〜・・・(^^)
まぁいいやとりあえず、右がHIROの分、左が友達の分だからね。
ちなみに右はつっついて転がしてやりました。(ニヤリ)
まぁ〜、めん玉でも書いて、立派なパイロットになってくだせぇ〜。
私は立派なデザイナーになってやるぅ〜。
                                 MOMO

手紙はいつもわざとガサツに喋り言葉の様に書いていた。
封を開けたとたん喋りだすように、できるだけ近くにいるような感じで。

手紙を書いてから2日が経ち手紙とダルマが彼の元に到着した日、彼から電話が来た。
第一声から
「おい、なんでこんなデッカイんだよ!!(笑い声)」
「しょうがないから、友達にも渡したけどさぁ。」
「え〜?!」
どうやら注文された商品とは違ったようなのは分かったが、
なんだか状況が読めない私は、ちょっと脹れて
「でも、それいっちばんチッサかったよ?」
と言ってみたが彼はその後、ダルマに目を入れた話しや、そこに託した夢の話や、どんどん話題は変わり、最後には笑い話でお腹を抱えながら、
「じゃ〜ねぇ。」
といって電話をきっていた。
彼なりの優しさだったのだろう。

春休みはもうすぐだ。彼ともうすぐ会える・・・・会いたい。
そう思いながら、ダルマを思い出して「デカスギル」といっていた彼を思い出しベッドのなかでくすくすと笑った。

春休みに入って2・3日した土曜日の午後2時頃、彼からポケベルが鳴った
「イマ チョウフにツイタ 18ジ レイノバショデ アオウ。」
例の場所とは彼の家に程近い市場だった。
夏休みにはよく登って夜景を眺めながらおしゃべりしていた。
約束の時間より少し早くに市場の屋上に登り、
彼の顔や香りや声を思い出しながら、最後の電話のやりとりを思い出しながら、
彼が来るのを待った。
いつもなら週に会えて4・5時間、会えないと隔週やそれよりも会えないこともあったのだが、長期休暇は長期の外泊が許されているため、地元に戻ってくる。
束の間の『普通の高校生』みたいなデートを想像しながら、幸せになり深呼吸した。
明日から何して遊ぼう・・・。

予定の時間になり、エレベーターの音がした。
彼が来る。そわそわしている私に、
「おう。」
何事もなさそうに言って近づいてくる彼の口元だけが帽子から見えていた。
帽子を目深にかぶっている彼の顔を覗き込もうとした瞬間、
ギュっと抱きつかれた。
「おひさしぶりぃ。」
と照れながら彼の胸の中でいうと、
彼は私の手をつかみ、その手の中にコロリと何かを渡してきた。
彼は私にその手を握らせたまま、
「ただいま。」
といってきた。
「おかえり。」をいう間もなく
「手、広げてみぃ!」
という彼。
そこには、小さな 小さな 小指の第一関節よりも小さな 豆粒のダルマがいた
「・・・ダルマ!! ちっちゃい・・・かわいい・・・・。」
彼が汗まみれな訳がやっと分かった。
「だろ〜?!」
得意気な彼の笑みが逆光で口元だけ見えた。
「おかえりなさい。」
私は、小さな 小さな ダルマをギュッとにぎり 汗まみれの彼に抱きついた。

あれから10年・・・・。
彼とはお別れしてしまったが、まだにっこりとダルマが笑っている。
まだ調布に住んでいるのは、
深大寺に癒しを求めに行くようになったのは、
彼と付き合ったからだろうと思う。
地元でない友人を調布に呼び寄せては深大寺に行く始末。

ねぇ・・・
深大寺っていいね
彼にもし伝えることができるのならば・・・
言いたい
私にちいさなダルマをくれて
私に地元をつくってくれて
ほんとうにありがとうと・・・・
 
(了)
 
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<著者紹介>
MOMO(東京都調布市/27歳/女性/主婦)

鈍より曇った空の隙間から待ち遠しい夏の欠片が顔を覗かせる。そんな夏直前の梅雨空はミチヨの気持ちと重なっているようで少し不穏だった。
「ブワーン」という凄まじい音が反響しミチヨの心を揺り動かした。京王線が頭上を通り過ぎて行く。鉄臭さで辺りは包まれる。
これまで何度も聞いていて慣れいるはずなのに場違いな轟音はミチヨを驚かせる。
目の前に広がる多摩川の水面は雲の切れ間から時折顔を出す陽射しにキラキラと輝いている。その輝きに目を奪われていてもミチヨの頭の中はキミトで埋め尽くされている。
「もっと強くなりたい」雲った空に独り言を言うミチヨに多摩川から吹く風が心地よかった。ミチヨの傍らには相棒の太郎がいて円にミチヨを見つめている。「太郎、飽きちゃたよね?歩こうか?」愛犬の太郎はまるでミチヨの気持ちを気遣っているかのようにただ真っ直ぐに主人の顔を見つめ返しそれから歩んでいった。
ポニーテールについたミチヨのお気に入りの青い髪留めがゆらゆらと揺れていた。

陽の光が春めいてきたある日の午後、「ごめーん。取ってくれるぅー」
顔を上げるとミチヨの目の前にゴロゴロとサッカーボールが転がってきた。出来たてで繊細な桃色の絨毯の上に読みかけの本を置くと、ミチヨは「えいっ」と思いっきりボールを蹴り上げた。
ボールは男子の頭の上をはるかに飛び越え青く澄んだ空に吸い込まれていった。「おぉーナイスキック!」ミチヨの心は踊った。
「それにナイスパンちら!イチゴ模様!」浅黒く日焼けした男子のこぼれるような笑顔に色白のミチヨは顔を真っ赤にして校庭の隅の桜の木の下から走り去った。走り去ったあとに幾枚かの桜の花びらが舞っていた。

「ミチヨ、面会だよ。三年生みたい」
桜の木々が緑の葉ですっかり覆われる頃、同級生の声に振り向いた。
「やあ、二年生だったんだ。捜しちゃたよ」そう言いながらどかどかと教室に入って来てミチヨに本を渡した。
「これ、忘れ物。良かったよ会えて....」笑顔で本を渡すとその男子生徒は何もなかったように教室から消えて行った。
それがキミトとの再会だった。ミチヨはボールを蹴り上げたあの日から、なんだか恥ずかしくて放課後の桜の木の下での読書を止めていた。
ミチヨはその日キミトの笑顔に吸い込まれそうになった。そうついこの間味わった痺れるような感覚はやはりキミトのせいだったんだ、とその時自覚した。
そして直ぐにキミトを忘れられなくなった。

ミチヨは相棒の太郎を連れよく散歩に行った。相手が太郎なら何を言ってもうんうんと頷いてくれそうで良い。相手の顔色を窺う事の多い自分がミチヨは余り好きではなかった。
五月晴れの気持ちの良い午前中、ミチヨは太郎と深大寺へ向かい歩きだした。調布駅を背に歩き出したミチヨたちは車が行き交う大きな国道を渡り住宅街に入っていった。
閑静な住宅地はどこまでも続く。普段近所しか散歩しないミチヨは少し不安になった。
「太郎、なんだかドキドキしちゃうね」太郎は相変わらずミチヨの後を文句も言わずについていった。
「散歩行って来るね、太郎と...」朝食中に母にそう告げると母は驚いた様子だった。「ミチヨちゃん、随分と早いのね今日は」トーストを食べながらミチヨは自分の気持ちをはぐらかすように、「そうね、天気が良いからね」そんな中途半端な言い訳を残し早々に家を出てきた。
ミチヨが通う高校でキミトの噂を聞いた。噂と言っても、どうやらキミトは深大寺の近くに住んでいるらしいという程度のものだった。ミチヨはその日から機会を窺っていた。「好きです」なんて、例え地球最後の日になったって相手に告白出来ないミチヨは、ある決断をした。休みの日に深大寺を散策し、キミトの家を探しちゃおうって.....。
もしそうでもしなければ今ミチヨはキミトへの思いで頭がパンクしそうだったから。

良い季節はあっと言う間に終わる。じめじめとした梅雨は自分自身のようだ、そうミチヨは思っていた。あれから数ヶ月経つがキミトとは何の進展もない。「あたり前かぁ、わたし何にもしてないもんね」何度深大寺を訪れてもキミトの家は見つからなかった。それでもキミトに会えたりして、そんな淡いミチヨの期待もこの数十日間裏切られ続けてきた。

ポッカリと梅雨が明けた。
ミチヨたちは初夏の深大寺にいた。土の感触を楽しみながら奥に進んで行くと蕎麦屋が幾つかありその蕎麦屋に囲まれるように小さな池がある。小さな池には赤い欄干が架かっている。何ともいえないそのこじんまりとした景色がミチヨは大好きだった。
胡麻の香がした。
目の前にお揃いのモノトーンで決めたカップルがやって来た。
「これ食べる?」女性はアツアツの胡麻団子を男の口に持っていった。男は鳥の雛のように素直に口を開け美味そうに団子を食っていた。
いいなぁ、こんな風になりたい。ミチヨは微笑ましくそのカップルを眺めていた。

結局キミトの家探しは失敗に終わった。夕食後、スイカを食べながらミチヨは今日のことを耽った。実はあのカップルが去ったあと団子を買い太郎と食べた。それから取りあえず御神籤を引いてみた。きっと自分もキミトとデートしたらこんな風になるのだろうなぁ、って想像しながら行動してみた。御神籤をドキドキしながらそーっと開いてみると([末吉]待ち人来る)と書いてあった。 ミチヨは嬉しくなってスキップしながら帰った。
そんなことを思い出しスイカの前で一人ニヤけていた。でも正直キミトを思うと、胸の中が熱くなり苦しくなるからこれ以上考えたくなかった。
「恋に悩まない君はいいねぇ」つい苦しまぎれに食べかけのスイカに愚痴ってしまった。スイカは黙ってミチヨを見ている。
「いいよ、今日こそ君のタネまで全て食べちゃうからね」こんな理解し難い八つ当たりで押さえきれない気持ちを粉砕した。

スイカの怨念か、ミチヨは腹をこわして寝込んだ。悪いことは重なるものなのか、キミトのことで気持ちは塞ぐし体調は最悪だし......。
三日間ただ横になって過ごした。
窓から見える入道雲はまるでミチヨを励ましているようにもみえた。入道雲さん、私の気持ちをどうにかしてよ。
ドシャッ。
言い終えるか否や二階の窓から部屋に一握りの紙包みが舞い込んできた。
驚いたミチヨは丸められた紙包みを開いて目を見張った。驚いたら腹痛も治った。

元気になったミチヨは早速太郎を連れ深大寺に向かった。珍しくポニーテールには赤い髪留めを付けていた。はじめ足取りは軽く深大寺に近づくにつれ重くなった。最後には小さい太郎に引き連られるようにしてミチヨは深大寺に入っていった。
ドキドキ、あの赤い欄干が見えてきて...ウズウズ、周りの景色も薄いできて...ギスギス、足かまるで他人のものみたいで.....。
漸く池の前のベンチに座りホッと一息ついてみた。太郎も舌を出し肩で息をしていて、その円な黒瞳には不安そうなミチヨが写しだされていた。
不意に肩をドンッと叩かれた。
「オスッ。嬉しいなぁ、来てくれたんだぁ」
きっ、来たぁー。ついに来たー夢にまで見た瞬間が!
振返ると浅黒いキミトの顔から真っ白な歯がこぼれていた
正真正銘のキミトがそこにいた。
ミチヨのお気に入りのこじんまりとした景色の中にキミトが笑って立っていた。
気絶しそうなミチヨはキミトのクシャクシャな手紙を思い出した。
『ハロー、イチゴちゃん。元気!イチゴちゃんの凄まじいキックを見て以来、俺の心は君に夢中。君には気づかれないようにいつも君を見ていた。ポニーテールの青い髪留め、素敵だね。俺が嫌でなけりゃ、いや俺の高校最後の夏休みは君と最高の夏休みにしたいから、俺の願いが届くなら赤い髪留めを付けて深大寺に来て欲しい....』

「可愛いなぁ、こいつキミトは太郎を思いっきり撫でていた。
「そうだっ、これ食う?」キミトは恥ずかしそうに団子を差し出した。
「ありがとっ....」喜んだミチヨは団子を大事そうに受けとった。
それから池の前のベンチで二人、季節外れの団子を頬張った。
真っ白く浮かぶ入道雲は温かく二人を見守っていた。
ミチヨは空にそっとウインクした。
 
(了)
 
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<著者紹介>
黒米 譲二(東京都東大和市/43歳/男性/歯科医師)

 池上院の脇からS字の急坂を登る。登りきった左手にはイヌツゲの生け垣、後ろには修道院の高い塀が続く。長く緩い下り坂が始まる。道は雑木林に入る。木々の間を夏でも涼しい風が吹き抜ける。坂が尽きる。小さな横断歩道を渡る。そこはもう深大寺の一角である。
 大島綾子は高めのサドルからずり落ちるように自転車を降りた。前後輪それぞれにチェーンを巻きつけて立ちあがる。綾子は深大寺の山門に向かって歩を進めた。
 二軒目のそば屋を過ぎたところで、綾子は道端の池に目を遣った。右肩にかけた帆布鞄を右手で探り、古めかしい小ぶりのカメラを取り出した。
 ファインダーの中には、池の真ん中の岩の上にたたずむクサガメの一団があった。綾子はレンズをねじってピントを合わせると、そのままカメラを左右に動かした。うまい構図がなかなか決まらない。
 その時、「大島さん!」という声がした。驚いた綾子はカメラから目を離し、声の主を見やった。
 「何だ、本橋くんか」
 「何だ、って...。ま、いっか」
 本橋渉は笑顔で応じた。渉は綾子の大学の同級生である。渉のTシャツの首周りは少しよれて伸び、汗がにじんでいる。
 「本橋くん、何してんの」
 「散歩、かな。っていうか、大島さんこそ何してんの」
 渉が気づくと、綾子は口元を緩め、カメラを構えて渉に正対していた。
 「撮ってあげるよ」
 「いいよ、こんな格好だし、いいって」
 「いいから撮るよ、はい」
 綾子は人差し指の腹で静かにシャッターを押した。金属音が響いて渉のぎこちない笑顔が残った。
 「撮ったよ!」
 綾子は手元を見ながらフィルムをゆっくり巻き上げた。
 「俺、地元なんだ。大島さんも近く?」
 「あたし柴崎。自転車なら近いかな?」
 綾子は初めて渉のほうを見て答えた。渉は無防備な笑みを目元と口元に浮かべて綾子を見返した。綾子の表情もつられて緩んだ。綾子は西日を見上げるようにして言った。
 「暑いね。アイス食べよっか!」
 二人は門前の正面、甘味屋の軒先の縁台に並んで腰かけた。綾子は宇治金時アイスの黒蜜がコーンの端からこぼれないように手元を注視しながら渉に言った。
 「本橋くん、ご近所なんだ。いいね」
 「俺、朝よく来るよ。朝はいいよ」
 「朝! すごい! あたし朝は起きられないなぁ」
 「朝はいいよ。静かだし、涼しいし。いい写真も撮れるかも」
 渉は綾子との予期せぬ出会いが本当に嬉しかった。端的に言えば、渉は前から綾子が好きだった。綾子が自分にあまり関心がなく、そして自分の気持ちにも全く気づいていないことは承知していた。それだけに、渉は深大寺でのこの出会いをきっかけにできないかと考えたのだった。
 「そっかぁ、じゃあ朝に来ようかな。でも朝かぁ」
 「朝なら、猫とかいるよ。猫ポイント、案内できるよ」
 「猫っ!」
 綾子は今日初めて正面から渉の顔を見た。
 「行く行く、教えて! あたし、猫写真撮りたい!」
 正面から見つめられたこと、さらに綾子との近い再会が約束されたことで、渉はいちどきに幸福感におそわれた。
 「いつがいい? 俺、いつでもいいよ」
 「うーん、でも、あたしもいつでもいいけど、やっぱり起きられたらってことでいい? あたし、夜型だから、努力はするけど・・・」
 渉は落胆した。それは表情に出たようで、綾子はあわてて言い足した。
 「がんばる、がんばるから。でもダメだったらごめん。あ、メルアド教えて。ダメだったらメールするね」
 「了解。待つ待つ」
 渉は自分の携帯画面にアドレスを表示して綾子に見せた。綾子も自分の携帯を取り出してそれをメモした。と、綾子は現在時刻の表示に気づき、弾かれたように立ちあがった。
 「あたし、もう時間だ。バイトなの。自転車だし、先、行くね。明日、がんばるから、じゃあ、ね!」
 綾子は軽く手を振って、もと来た参道を小走りで行ってしまった。渉は立ち上がる間さえ逸してしまい、「じゃあ、また」というので精一杯だった。
 綾子の自転車はフレームもタイヤも細い。三鷹通りを渡り、中央道を橋で越え、野草園脇の坂を軽快に下っていく。急ぎながら綾子は今日の出来事を反芻していた。
 「本橋くんかぁ...。ちょっといいかも。少しダサいけど、まあイケメンだし、いばってないし...」
 今日、綾子は渉の好意に気づいた。素直に嬉しかった。ただし、綾子の理想の恋愛は、自分の片思い相手からの運命的な告白で始まらなくてはならなかった。しかし、現時点で片思いをしているのは渉のほうだった。
 「でも、優柔不断そうだし、カレシっていうにはちょっと...」
 綾子は頼りがいがあり、自分を引っ張ってくれる男性に憧れていた。しかし、渉は控えめで遠慮がちだった。綾子の理想にはほど遠かったのである。
 さて、渉は確かに朝型だった。しかし、実際に毎朝の深大寺詣でを始めたのは、綾子と会った翌日からだった。渉は毎朝、綾子の存在を期待して急な石段を駈け上がり、境内を見回す。しかし、綾子はいない。渉は気落ちしながら石段を下り、門前のベンチに腰掛ける。携帯の画面を眺めて正確に七時半まで綾子を待ち、重い足取りで帰路につく。これが一週間繰り返された。
 一方、綾子は何をしていたのか。端的に言えば、綾子は起きられなかった。渉と逢うという理由で起きることはできなかったのである。
 深大寺での約束から八日が過ぎた日、綾子は夏風邪をひいた。防犯のため、綾子は一人暮らしのアパートの窓をいつも閉め切って寝ていた。当然、夏はエアコンに頼りきりになり、寝冷えしてしまった。綾子は家でひたすら寝続けて治すことに決めた。熱はあったが、このくらいなら数日で完治しそうだった。
 昼過ぎ、綾子は着メロで目を覚ました。寝ぼけ眼で画面を見る。光一からだった。
 村野光一は綾子の写真サークルの一年先輩である。端正な顔、都会的で洗練された身なり、カメラの豊富な知識、それらが醸し出す雰囲気、全てに綾子は惹かれていた。
 綾子はひと月ほど前から光一と一対一でメールをやりとりすることに成功していた。そしてついに今週の初め、光一はとあるバンドのライヴに綾子を誘った。彼らの曲は趣味ではなかったが、綾子はもちろん承諾した。ライヴは今日の夜九時開始だった。待ち合わせの詳しい場所と時刻は電話で決めることになっていたので、おそらくその電話だろう。
 着メロはぷっつり切れた。またすぐにかかってくるだろうし、かけ直してもよい。綾子は短い時間で考えに考えた。今の体調でのライヴ同行は想像するだけで綾子に疲労感をもたらした。どうしよう。
 ふと考えが浮かんだ。先輩は自分のことをどう思っているのだろうか。風邪の自分とライヴ、先輩はどのような選択を下すのか。綾子は光一を試すことにした。
 再び着メロが鳴り、綾子は即、電話に出た。想像通りの用件だった。綾子は、熱が三八度位あること、ライヴには何とか行けそうだが正直つらいことを話し、光一の答えを待った。
 「何だ、風邪かぁ。腹でも出してたのかぁ、ハッハッ。でも、しょうがねぇなぁ。俺、今から誰か誘ってみるわ。じゃ、おだいじぃ!」
 恋する綾子は光一の声に失望感を聴きとろうとした。しかし、綾子こそ落胆していた。自分への気遣いどころか、風邪をひいたこと自体もからかわれていたように思えた。気分はいちどきに重くなり、綾子はもはや寝るしかないと思った。
 綾子はふと渉を思い出した。渉のことは忘れていたわけではない。単に起きられず、気まずくてメールを出しそびれていただけだった。だとすれば、風邪をひいたまさに今がこれまでのすっぽかしを詫びるメールを出すのに好都合だ。綾子はすぐにメールを出した。
 「カゼひいちゃった(^_^;) 明日もダメそうです いつもすっぽかしてゴメン<(_ _)> もう待たなくていいよ」
 と、思わぬ速さで渉から返事が来た。綾子は驚き、そして文面を見て、嬉しさがこみ上げてきた。
 「カゼ心配です! 大丈夫? おれ、何かできるかな?」
 「気持ちだけで十分! ありがとう(^o^)」
 綾子にしてみれば、彼氏でもない渉を使い走らせたり、家に上げる気にはなれず、こう答えるほかなかった。すると返事が来た。
 「実はうち畑があって野菜あげられます カゼにいいかわかんないけど、どう? 家には上がりこまないので安心してください ストーカーとかじゃないです(T_T) 柴崎一丁目のファミマなら10分くらいでいけますが?」
 渉の提案は押しつけがましいものの、綾子の立場をかなり尊重するものだった。やりとりそのものにおいても気遣いがあることに綾子は嬉しくなった。
 十五分後、綾子は約束のコンビニに現れた。コンビニは自宅アパートから二、三分のところにあった。やはりTシャツに短パンでサンダル履きの渉がそこにいた。心配そうな心持ちが張りついた渉の笑顔はどうにもぎこちないものだった。
 「大丈夫? よびだしてごめん。とりあえずうちのじいさんの野菜持ってきた。よかったら食べて」
 渉はトマトとキュウリでいびつにふくらんだ大きいレジ袋を手渡した。
 「ありがとう。野菜の濃いにおいがするね」
 「もしかして重い?」
 「大丈夫! 本当にありがとう」
 実は袋はなかなか重かった。それでも綾子は嬉しかった。
 「お大事にね。深大寺はまた良くなって、気分が向いたら来てみて」
 「今度こそがんばるから、すぐ治るから待っててね。ありがとう。じゃあね!」
 綾子は歩き出した。足取りは重かったが、気分は軽かった。綾子は本気で早起きを決意した。昂揚した気分が風邪の熱と相まって、綾子の頬はすっかり赤く染まっていた。それを見られるのが気恥ずかしくて、綾子は振りかえらなかった。
 三日後の午前七時、渉は深大寺の門前のベンチに腰掛けて、キキョウの花を眺めていた。もはや渉は愚直に待ち続ける自分が頼もしく思えるようになっていた。
 「本橋くーん、来たよ!」
 渉は耳を疑った。振り向いて左を見た。渉の眼に、参道の先、自転車に跨って手を振る綾子の姿が映った。
 
(了)
 
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<著者紹介>
神永 光太郎(東京都調布市/31歳/男性/教員)

 バスを降りた途端、滝のような汗が流れた。日差も肌をジワジワと焼いている。日傘をさしていてもいてつく太陽の光が痛い。もう少し涼しかったら......。横を見ると妹の葉月も憔悴した顔で歩いていた。「私は夏が大嫌い」と彼女が豪語するように、夏の日中に一緒に歩いていて、楽しいと思ったことがない。覇気がなくて、今にも倒れそうで、その姿を見ただけで暑さが倍増する。
「もっと体力つけたら?」
茂絵がハンカチで汗を拭きながら言うと、葉月はその場に立ち止まった。葉月が怒ることが分かっているのに、口から言葉が迸るのは暑さんのせい?暑さは人の理性も人の命も奪う。昨年の夏、母はその夏に命を奪われた。ほんの数日前まで、元気だった母が突然、私達の前から姿を消した。信じられなくて、暫く何もすることが出来なかった。10年前に交通事故で父を亡くし、母は女で一つで私達を育ててくれた。
「葉月」
 私は葉月の顔色を伺った。
「何?」
 葉月は一瞬、私を睨み付けたが、直ぐに笑顔になった。
「お姉ちゃん、帰りにはおそばを食べて帰ろうね」
 葉月は、バックからペットボトルを取り出し、一口スポーツドリンクを飲んだ。あの日から、暑い日に外出する時、私達はスポーツドリンクを欠かしたことがない。
私は「そうだね」と言い微笑みながら、「そんなことより私達には、しなければいけないことがあるでしょ」と言う言葉を飲み込んだ。ここへ来るまでに葉月は随分苦しんだのだから。私だって母が生きている間に、母の口からそのことが聞きたかった。
「前に友達と来た時、一反もめんのメール隠しのシール買ったじゃない。お姉ちゃんも買ってお揃いにしよ」
「いいよ」
 葉月が無理にはしゃいでいるように見てとれた。私はそう答えながら、一年前、ゲゲゲの鬼太郎グッズを集めることが好きな葉月が、大学の友達とこの深大寺へ訪れたことを知った母の言葉を思い出していた。
「深大寺のじんって、深いっていう字を書かない?」
 母は言った。
「どうして?」
 私は訝しげに母を見た。
「何となく頭に浮んだだけ」
「じんって聞くと、普通は他の字をイメージするんだけど」
 母はその一ヵ月後に深大寺へ行く途中、正確に言えば、吉祥寺駅前で深大寺行きのバスを待ちながら、熱中症になり、病院へ運ばれ、その翌日帰らぬ人となった。
 私達は、倒れたことの連絡を受けるまで、母が深大寺へ行こうとしていたことを知らなかった。母は、一人でお寺や神社を訪れたことはない。父のお墓参りを除いては。その母が深大寺へ行く途中に死んでしまったのだ。私達は連絡を受け取っても、病院で母の青ざめた顔を見るまで信じられなかった。その母がその数時間後に息を引取った。母と引き換えに私達の手元に残ったのは、10号程の油絵だった。そのモデルは若い頃の母のような気がするが、見覚えがなかった。
私達は狐に摘まれた気持ちのまま、お葬式をして49日を迎えた。
 そんなある日のこと、母宛に一本の電話が入った。その相手は男性だった。母も死に、父も10年前に亡くなっているが、快く思えなかった。母が不純に感じた。
「母は亡くなりました」
私は冷たく言った。
「茂絵(もえ)」
男は躊躇いがちに言った。
「もう母は亡くなったんですから、ご用がなければ電話を切らさせて頂きます」
 知らない人間に呼び捨てにされたのが許せず、電話を切ろうとすると男が早口になった。
「僕が茂絵の実の父親なんだ」
 私の頭は母が死んだ時のように真っ白になった。
「イタリアへ絵の勉強へ行っていたんだ。でも、お腹の中に子供がいることを知らなかった。あいつは何も話してくれなかった」
「私の父は10年前に亡くなりました」
 私はきっぱりと言ったが、手が小刻みに震えていた。
「彼と僕は大学時代の親友だった。二人が結婚したことを聞かされたのは、イタリアへ行って半年した頃だった。結婚したから、もう二度と連絡しないで欲しいと言われて......」
「なぜ今更、私達の前に現れるんですか?」
 怒りで顔が熱くなった。男が答えを返すまでに暫く、時間が掛かった。
「僕は癌なんだ。たぶんもって2ヶ月。だから、死ぬ前にお前達に一目会いたかった」
 私は何と返事していいのか分からず、そのまま電話切ったが、少しの間そこから動くことが出来なかった。
 葉月はそんな様子を見て心配そうに駆け寄って来たが複雑な感じがした。私達が姉妹であることには変わりないが、父親が違うなんて想像したこともなかった。
「葉月、私、私ね。お父さんの子供じゃなかった」
 私は声を上げて泣いた。この事実を一人で受け止めるには辛すぎた。それを聞いて、暫くの間、葉月も声を発することが出来なかった。まだ、20歳の誕生日を迎えたばかりの葉月にも、耐えがたいことだった。二人で声を上げて泣いた。母に裏切られたような感情と父に対する申し訳なさと自分に流れている血が許せなかった。
「お父さんは、それでもお母さんと結婚したかったんだ。お母さんのことを愛していたんだ。でも、お父さんが死んでからだし、その人も癌で幾ばくもないんでしょ?それに今まで考えたこともなかったけど、お姉ちゃんの本当のお父さんなんでしょ。会ってあげなよ」
 葉月の瞳の奥が再び涙で曇った。
 私は葉月の勇気を借りて、あの男、つまり私の本当の父親に会った。私と母を捨てた男。父親だと言われても実感が湧かなかったが、切なさが込みあげて来た。実の父親だと思うだけで胸が詰まった。父はとても家庭思いの人だった。あの男は自分の才能に人生を賭けるようなタイプだった。でも、母はあの男を憎んでいたのではなく、その才能を一番愛していたような気がしてならなかった。
父はそんな母を愛していたのだ。全てを受け入れるという証として、私の名前を茂絵と書いて、もえと読ませた。茂は、男の名前で、絵はあの男が一生を燃やしたもの。
 男は帰国後、名声を得て、死ぬまでの数年間は、この深大寺周辺を描いていた。ここはあの男の生まれ故郷だった。そのことを知っていたから、母はこの寺に来ようとしたのだ。
 私達は、無言で参門を潜った。あの日、母が持って来ようとした絵を奉納するためだ。私は最後の最後まで、この絵を男に渡せなかった。それを今日、ここへ納めようとしたのは、葉月の一言からだった。
「お姉ちゃん、あの絵を深大寺に持って行こうよ」
 だから、母が亡くなった今日という日を選んだ。
 私達は日傘を閉じ、絵を賽銭箱の前に置くと、手を合わせ冥福を祈った。それからその場に暫く佇み、後ろ髪を引かれるような思いで、その場を立ち去ろうとすると、一瞬、全ての時が止まったような不思議な感覚に襲われ、絵から若い頃の母が抜け出したかと思うと走り出した。母の姿を目で追うと、参門の所で男が立っていた。母はそのままあの男の胸に飛び込むと、私達の方を向いて微笑み、跡形もなく消えて行った。その後、私達は口を利くことも出来ぬまま、境内にある池の辺へ行った。そこには木々があり、回りには山から流れる水がそのまま流れ、暑さを忘れさせてくれた。
「お父さん、焼き気持ちやかないかな?」
 葉月は複雑な表情で私を見た。
「大丈夫、二人はこの世の中で充分幸せだったから」
 私はそう言いながら、微かに涙が流れた。そんな二人を静かに見詰めるかのように、おにやんまが池の周りを飛んでいた。

(了)

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<著者紹介>
渡会 瑠璃(埼玉県さいたま市/女性/会社員)

 約束の時間の五分前に、ウラシマさんはちょっと困ったような顔をして現れた。
困った顔をしているのは迷惑だからではない。そういう顔立ちなのだ。勿論、心の中が透けて見える訳ではないので、本当に迷惑なのかもしれない。疑い出せばきりはない。しかし今日の私は、彼が約束どおり来てくれた事だけで、素直に喜びたい気持ちなのであった。
男の人と初めて二人きりで出かける。
ありきたりに言えば「初めてのデート」と言うわけだが、私達はそんな呼び方をしてもいいような間柄ではなかった。
ウラシマさんは大学で心理学を勉強している大人の人で、私は中学三年生だ。そしてウラシマさんは私の家庭教師の先生なのだ。
それにしても今年の夏は雨が多い。まず梅雨明けが異常に遅く、夏休みになってからも、二、三日晴れたかと思うと、今度は台風が来て、そろそろ八月になるというのに、ちっとも夏が来た感じがしない。深大寺の森の向こうに見える小さな空も、灰色の雲に覆われている。
こんな事ならお母さんの言う通り傘を持ってくれば良かった。
私の母は心配性だ。出かける時なんか、忘れ物はないかとうるさくてしょうがない。ハンカチ、ちり紙、傘にバンドエイド、おまけにコンタクトの調子が悪くなった時のために眼鏡まで持って行けと言う。魔法のポケットがついている訳じゃあるまいし、流行のセミショルダーにそんなに入るはずがない。それでつい省略をするのだが、省略した物に限って必要になることが多く、悔しいけれど先見の明を認めざるを得ないという訳だ。
ウラシマさんが長身の体をかがめて、私の顔を覗き込みながら言った。
お土産屋さんを覗いてみますか?
彼はいま話題のメガネ男子だ。
眼鏡をかけた人というのは、角度によって顔が歪んで見えることがある。私は斜めにスライドしたウラシマさんの顔を見ながら、こんな事を思う。
眼鏡をかけた人ってキスをするとき、眼鏡を外すのかなあ。そのタイミングを計るのってとっても難しそう・・。
そして、そんなことはおくびにも出さず堅い口調で言う。
あの・・・、先にお参りをしませんか。
 亡くなった祖父は私が子供の頃、縁日の食べ物をねだるたびに、こう言っていた。
お参りを済ませてからね。
 ウラシマさんはテレビに出てくる水戸のご老公様のように深々と頷き、私たちは茅葺屋根の山門をくぐった。
 阿弥陀如来様の本堂に続いて、天台宗の座主りょうげん良源様をご本尊とするがんざんだい元三大しどう師堂へと向かう。縁側には大きな茶色の縞猫が昼寝をしており、それが微動だにしない。
あれって本物の猫なのかしら。
 そう言いながら近付いて行くと、猫は不機嫌そうに片目を開け、かすれた声で「にゃあ」と鳴いた。私は猫に「失礼しました。」と言ってお堂に入り、ウラシマさんと並んでお参りをする。
 まさか隣で手を合わせている私が合格祈願ではなくて、縁結びをお願いしているなんて、彼は想像もしてないだろうな。
 参拝が済むとウラシマさんが堂内の売店の方を見て言った。
お札はこっちみたいですよ。
もう辿りついてしまった。ちょっと残念。
 実を言うと、私が今日ウラシマさんと出かけた理由は、合格祈願のお札を買うためだったのだ。これには深い訳がある。
ウラシマさんが高校を受験した時、駅から学校へと向かう道の途中に、どういう訳か深大寺のご本尊であるがんざん元三だいし大師様のお守りが落ちていたという。心優しい彼は、お守りをとてもそのままにはしておけず、そっと拾って胸ポケットに収めた。すると胸がなんだか暖かくなった気がしたという。
言ってみれば胸にホタルでも入れた感じ。ホタルって本当は熱くないんだけどね。
そして彼は見事志望校に合格した。以来そのお守りは彼の宝物となり、あらゆる試験に携えて行くのだという。
それに、そのがんざん元三だいし大師様ってとってもかわいらしい姿をしているんだよ。
かわいらしい?どんな?
黒装束で頭に二本角が生えているの。なんでもその元三大師様が修行をしている姿を、弟子が鏡で見たら、そういう姿に見えたっていうんだよ。つのだいし角大師って言うらしい。
そんな話を聞いたら、どうしてもその姿が見たくなった。
先生、私もそのお守りが欲しいです。お守りだけに頼らずにちゃんと勉強もしますから、深大寺に連れて行ってください。
そして今日の運びとなったわけだ。
実際に見る角大師の絵姿は、想像していたものより、ずっとお茶目でかわいらしかった。たとえ喩えは悪いが、これでツルハシを持たせたら、夜中に虫歯の工事をする人みたい。
お守りを買ったら、もう帰らないといけないのかな。そんな事を思うと、私は少し悲しくなった。それなのに。
グー、キュルル・・・。
こういう場面でどうしてお腹がなるんだろ。情けないくらい正直な私の胃袋だ。ウラシマさんが笑いながら言った
みう美羽ちゃん、お腹が空きましたか?
美羽というのは私の名前だ。名前を呼ばれて唐突に考える。浦島美羽って名前は変かなあ。おとぎ話をかき集めたみたいだって人に笑われるかしら。そんな私の思いをよそにウラシマさんは言う。
お蕎麦でも食べて行きますか?深大寺蕎麦って有名なんですよ。
わあい、やったあ!
肌寒い日だったので、ウラシマさんは鴨南蕎麦を頼み、私は天ぷら蕎麦にした。明日葉の天ぷらを噛むと、香りが口一杯に広がる。蕎麦は固めで、つう通好みの茹で加減だ。亡くなったおじいちゃんがよく、ここの蕎麦がうまいんだよって言っていたっけなあ。
ウラシマさんはお蕎麦を食べる前に眼鏡を外した。湯気で眼鏡が曇るかららしい。
眼鏡を取っても見えるんですか。
見えますよ。そんなにひどい近視ではないんです。人の皿に箸を突っ込んだりはしません。
そういって彼は自分の箸で私のお蕎麦を取る仕草をした。
ねえ、ねえ、ウラシマさん、ウラシマさんには好きな人っていないんですか。
・・・。
彼は一瞬言葉に詰まった。私は悪いことを聞いてしまったようだ。
いたんですけどね。幼馴染の一つ年上の人で・・。でも、この前、僕、その人が男の人と歩いているのを見ちゃったんです。あれは悔しかったなあ。絶対僕の方が先に好きになったと思うんだけど。
それだけ言うと唐突にウラシマさんは鴨南蕎麦の続きを食べ始め、私も黙って天ぷら蕎麦をすすった。
年上の人が好きだったというのはショックだった。私みたいなお子ちゃまなんかきっと恋愛対象の範疇に入らないに違いない。
それでも勇気を出して聞いてみる。
それで、あの・・・、その人の事は吹っ切れたんでしょうか。
うーん、それは難しい質問ですね。
 そう言ってウラシマさんは鴨南蕎麦の入った器の縁に箸を置いた。
僕は、人の心って、電気のスィッチみたいに、明確に切り替わるものではないと思うんです。誰かを好きな時でも、一日中その人の事を思っている訳ではないし、逆に忘れたつもりでいても、なにかの拍子に鮮やかに甦ってくる事もある。
何年心理をやっていても人の心はわからないです。わからない事が分かっただけでも大進歩かなって思いますけど。
ウラシマさんは自分の心も分からないみたいだったが、私には分かった。そういうのを普通吹っ切れてないと言うのだ。
お蕎麦屋さんを出ると、外はもう雨になっていて、ウラシマさんは傘を差し掛けてくれた。私は肩をすぼめて身を寄せながら、たまには母の言うことを聞かなくてもいい時があるみたい、なんて事を思った。

その翌年の三月に、私はなんとか志望校に合格する事ができた。これもウラシマ先生があの日、元三大師さまに合格祈願をしてくれたお陰だ。
最後の授業の日に私は言った。
合格祝いとしてお願いしたい事があります。
お願いってなんですか。
 ウラシマさんは少し緊張している様子だ。
高いものをおねだりしたい訳ではないんです。私からのプレゼントを受け取って欲しいだけ。ちょっと目をつぶって頂けますか。
ウラシマさんは警戒心を解いて素直に目を閉じた。
私は足音もたてずにゆっくりとウラシマさんに近付いてゆき、背伸びしてその唇にキスをした。眼鏡はその直前に私が外した。
庭の白木蓮の花が、窓の向こうの闇にぼんやりと浮かぶ、早春の日の出来事だった。
 それからの事は秘密。
角大師様はあんなに可愛らしいお姿をして、縁結びの手腕にも非常に優れたお方だった。

(了)

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<著者紹介>
福田 由美子(福島県福島市/45歳/女性/飲食店勤務)

 その日はヤケに蒸し暑く寝苦しい夜で、転寝ともつかない浅い眠りから目覚めた。汗ばんだ額を手でぬぐうと顔に繊維が纏わりついた。何だろう?
 月明りにそれをかざして見ると青白い私の小指に糸が巻きついていた。
 サイドテーブルの上のデジタル時計は真夜中の三時をさしている。テーブルの脇のスイッチを押すと読書用のスポットライトがテーブルの上の束ねた糸を照らした。それは安っぽい女物のセーターみたいに見えたが私の指に絡みついた赤い繊維と同じ素材だった。不意に、昔バイトで知合った年上の女性の話を思い出した。ちょっと気味が悪いがその話を思い出さずにはいられない。内容は彼女が結婚する数日前に見えた赤い糸の話しだった。

『私は結婚式の数日前に赤い糸が見えるようになったわ。うわー本当にあるんだってちょっとビックリしたの。だって、ある日突然でしょ。その糸はすごい長くて、ああ、この糸をグルグル何かに巻き付けてひっぱったら私の運命の人が釣られてやってくるんだわと、喜んで引っ張ったわよ。もしかしたら今の彼より良いのが現れたらどうしようって複雑な気分だったけど・・でもね、引っ張ってもびくともしないの。歩いて手繰り寄せながらじゃなきゃ駄目だった。あれよトローリング?陸上でカジキマグロ釣ってる心持がしたわよ。数メートルぐらい歩いて引き寄せたのね。不思議な事にその糸って、歩いていくと10メートルくらい先からは見えないの。10メートル先に地平線があるような感じ』で、で、どうしたんですか?と私は嫉妬と失笑の混じりあった仲間の誰よりもその話しに食いついた。『・・・結婚式の前って、物凄い忙しくってさあ、そんな訳の分らない物を探ってる暇無いのよ。本当よ。ジャックと豆の木じゃあないけど、そんな訳の分らないものにしがみついちゃ駄目って話し』

ベッドに腰掛け糸を手繰った。ぴんと張った糸は部屋の薄暗い空間に飲み込まれその方角のさす先は部屋の玄関だった。 私は赤い糸を傷つけないよう注意しながら寝巻き代わりのTシャツを引き裂き、チューブトップに白いボレロを肩にかけ、髪を束ねた。糸を手繰りながら玄関で靴を履いた。糸はスチール製のドアにはさまれている。糸の束を左手に巻きつけテンションを緩めずにそっとドアを開けた。弛んだ糸を左手に巻付ける。なんだか漁師になったようで笑える。部屋を出て通路に立ち、糸の行方を確認した。それはマンションの壁に緩やかな弧を描き階段の先に消えていた。階段を下りると目の前の通りは旧甲州街道だ。彼女の言う通り10メートル先は見えない。糸は府中調布方面と書かれた青看板の辺りで見えなくなっていた。真夜中にうろついた事が彼にバレルとちょっと厄介だ。本当は今日、私を地元の友達に紹介する予定だったのだが私は辞退した。知らない土地で更に知らない人達に気を使ってアホみたいにニコニコしているのが苦痛だった。この時間だと奴はタクシーで帰還か、それとも明日の昼頃酒臭い息で帰ってくるかのどちらかだ。おそらく前者はあり得ないだろう。勝手にしろと捨て台詞を吐き彼は出て行った。見知らぬ土地に彼女を一人置き去りにしても平気なのだろう。
 そういう態度にかなり幻滅した。
 もしかしたら後、ホンの数メートル勇気を出せば白いタイツを履いた巻き髪にフリルのシャツの王子様が現れるかもしれない。
 看板の傍まで来ると更に赤い糸は十数メートル先を指した。此処にきて移動は殆ど彼の車だった。助手席の車窓から見る街の景色を一人であるいて見ると本当に知らない場所に来てしまったんだと思う。この先の道を幾ら歩いても私の故郷のあの町には辿り着けないのだ。そういう私の選択が間違っているのか正しいのか今は良く分らない。そういう不安をこの不思議な糸に託してみたくなった。
 運命の男がこの糸の先にあるのならいつでも乗り換えてやるつもりだ。
 それからしばらく歩いた。
 左手に巻きつけた糸は素人の使うボクシンググローブほどに膨らんだがそれ以上大きくも小さくもならなかった。昔の仮面ライダーにこんな左手をしたキャラがいたが何て言う名前だったかしら? 何か考え事をしないと腕や腰がギスギス痛むのが気になる。メインの大きな通りを背に、私は川沿いの道を歩いている。聞きなれない野太い声のカエルの鳴き声がした。さすがに気味が悪い。蛙じゃなくって物凄い人数のオジさんが川面から顔を出して唸って居る姿を想像し怖くなった。川面のタールみたいな密度の濃い闇は私の恐怖心にメープルシロップのようにトロリと絡みつき、川面からにゅっと出たオジサンの顔は全てケーシー高峰の顔という最悪な想像をしてしまった。戦慄した。道を引き返そうと思ったがカエルの鳴き声に臆して、結局今のお前のパパと結婚したのよ...と子供に言う自分を思い勇気を奮い立て走り出した。ただ糸だけを頼りにしばらく走ったが蛙の鳴き声は依然続いた。怖くて後ろを振り返る事は出来ない。視界に広がる空の一部が無彩色に明けているのが見える。夜明けが近いのだろうか?
 草木が茂る川沿いの道は古い黒澤映画のオープニングのような色をしていた。川面にはススキが群生し、時折鳥か何かが飛び立った。モノクロの景色の中でただ赤い糸だけが生々しく私の行く先に伸びている。糸は何本目かの橋で鋭角に右それその後の道筋を示した。ようやく川沿いの一本道から離れ気が緩んだ私は立ち止まった。此処から見える赤い光の線は。グラウンドに引かれた石灰のように太く発光していた。その先は木々に囲まれた道である。交差点に設置された信号機が赤く点滅し穏やかな赤い光りを放っている。私は懐かしい身内に合ったような思いをそれに感じた。そしてもうすぐこの奇妙な旅の終わりがくる事を予感した。
静まりかえったアスファルトの向こうに、豊かな葉をまとった木々が、空を覆い隠している。
 影絵の切り抜きのような木の葉のフレームから灰色の空が見えた。暗い所で見ると糸は余計鮮やかな色をした。いったいあと何キロ歩けばいいのだろう? 通りは水車小屋と古い作りの建物が見えた。その少し先にバス停が見える。バス亭に歩み寄り書かれている文字を立ち止まって見た。深大寺正門前と書かれていた。石畳を中心に左右に瓦葺の木造の建物が見えた。建物の窓ガラスに街灯の弱々しい光を映している。石畳を更に奥に進むと寺の山門らしき物が見えた。門は閉ざされている。他にも通りに見える建物は全てクローズされていた。キッチリ整理され、乾物屋の倉庫みたいに質素で、清潔でしかも辺りの景色が心地よく古びている。出来れば昼間の内にまた此処に訪れて見たいと思った。微かな虫の鳴き声が聞こえ、風に植物の葉が擦れ合う。耳を澄ませた。風に乗って何かの気配を感じた。一瞬、体の中心が泡立つ。炭酸飲料の気泡のような物が皮膚表の表面に上りつめ、弾け、ざわついた。
 それは何かの歌のフレーズを口ずさんだ物なのか良くは分らないが、泥酔した人間の持つ特有の音階のズレである。
 呪文みたいだ。
 位置は確認できないが静寂の中で粗暴なエネルギーの固まりを感じた。それは近づきつつある。
 こんな所で酔っ払いに出会ったら怖くてもう前に進めない。
 矛盾しているが私は心の中で助けてと、彼の名を交互に百回以上叫びながらどこか身を隠す場所を探した。口を両の手で押さえ、身を屈めた。
 スニーカーが砂を噛むと以外なほど大きな音がした。あろう事か糸が足に絡みつき私はその場で転倒してしまった。残りの赤い糸はバス停のベンチの足から山門へ向けてやや斜めの線を描き、残りは絡まったままだ。
 複雑に絡み合った糸は赤いボールペンでむちゃくちゃに書いたジオメトリックな花のようだった。
 花弁に両足が絡まり、物凄い足の短い同級生と二人三脚をやっているような事を一人でやりながら、脇の木に身を隠す。そこから正門を見渡す事ができた。人影は見えない。絡まった糸から足を取りだそうとスニーカーを脱ぐ。「あのーコンバンワ」と意外な所から声がする。近い。その時、絡まった糸がスルスルと手品みたいに解けていく。ボールペンで書いた花が高速で蕾になって行くようだった。
 恐怖で足がすくんで立てない。脱ぎ捨てたスニーカーが糸に絡め取られ、まるでひとりでに中を飛ぶように離れていく。靴は途中で振り落とされその人影の手前で乾いた音を立てた。両の手を回転させ赤い糸を巻き取ていた男はその手を止めおぼつかない足取りで私のスニーカーを拾い上げ辺りを見廻した。
「あのう、自分は酔っ払ってます。酔っ払っていますけど大体正気であります」
男は言った。赤い糸は木を間にL字状に私の居る位置を示している。男にはまだ私が見えていないのだ。
「自分は、婚約者のいる身ですが・・さくじつこのような赤い紐を自分の小指に見つけまして、察する所、これは赤い糸だと思います。大変失礼な物言いではありますがそこにいらっしゃる貴女。貴女と私はこの赤い糸で結ばれているのです。しかしながら、私はもう既に心に決めた女性がいます」
木々の間から僅かに温かみのある日の光が差し込んでくる。男の足元に細く薄い影が見えた。見覚えのある横顔。彼だ。彼がそこに居る?なんで?
「一度、お会いしたかったですが、いえ、誠に残念ですが、この糸、今日限り断ち切らせて頂きます。まだ見ぬ人よ。ゴメンなさいそして縁結びの神様にもゴメンなさい。そして有難う」
彼はどこからか鋏を持ち出し、私との間に漂う糸に鋏を開閉させた。 糸は風に漂い、ゆらゆらと鋏の開閉からかろうじて逃れているのが見えた。私はかけ出し彼の名を叫んだ。
「切っちゃ駄目―良く見ろ馬鹿。わたし。貴方の婚約者だろうが!!」

(了)

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<著者紹介>
五十嵐 文秋(東京都調布市/38歳/男性/自営業)

 深大寺の山門をくぐったとき、ぼくはここで初恋をしたことを思い出した。当時十二才だったぼくにとって、鮮烈な出来事だったはずなのに、思い出すのは久しぶりのことだった。誰もが一度は経験する、異性に対して感じる正体不明の心のときめき。
 ぼくは釈迦堂の横の、池に落ちる滝の水音を聞きながら元三大師堂へと続く橋を渡った。
 そうだ、この場所だ。橋の上から池の鯉を眺めていたとき、あの人がやってきたのだ。遠い日の記憶が目の前の風景と重なり合い、鮮明な映像となって脳裏に映し出された。あの頃はすべてがきらきらと眩しく輝いていた。
 
 公務員だった父は転勤が多く、ぼくは三つ目の小学校に通うことになった。小学校最後の夏休みが始まって間もない頃のことだ。
 夏休みの直前、ぼくの転校がクラスメイトたちに告げられ、ぼくは引越しの直前に一人の女の子から手紙をもらった。
「ずっとずっと好きでした。新しい学校へ行っても元気でね」と書かれた短い文面の手紙だった。
 ほとんど口を聞いたこともなかったし、その子のことは何とも思っていなかったので、ぼくはその手紙を持て余した。手紙を引越しの荷物の段ボール箱に入れようかと迷っていると、「大掃除だと思って、いらない物は全部捨てなさいね」との母親のひと言が、手紙を『すてるモノ』とマジックで書いた箱に放りこませた。今となっては、その女の子の名前も顔の形すらも思い出せない。
 友だちとの別れによる寂しさと、後ろめたさのようなものを感じた引越しだったが、新しい生活は過去の思い出を心の片隅へと追いやってくれた。 
 毎日のように、新しい世界への冒険に胸を踊らせ、わくわくしながら夏休みを過ごした。ぼくは、すぐに深大寺周辺の匂いが好きになった。正門前を中心に立ち並ぶ数軒のお土産物屋とそば屋の客引きの声は、団地暮らしのときにはなかった新鮮な響きがあった。
 お土産物屋を楽しそうにのぞいている人の姿を眺めたり、お店の前を流れる小川に足や手を突っ込んだりと、たあいのないことが楽しかった。ときどき自分のお小遣いの中からジュースやお団子を買って食べたりもした。

 ぼくはデジカメを構えてシャッターを押した。初恋の思い出を記念にしようとしたわけじゃない。それが仕事だからだ。こうやってあちこちと歩き回って取材して記事を書き、写真の撮影もする。大学卒業後、雑誌社に勤務して記事を書いていたが、これなら自分一人でもできると思って二十七才のときに独立した。フリーになって二年がたった。そしてきょう、ある雑誌の連載企画で、隠れた観光スポットを紹介するコーナーの記事を書くために、ぼくは十七年ぶりにここに来たのである。
 神代植物園、深大寺がこの界隈の名所であり、深大寺そばが名産品だ。深大寺周辺には、ひしめき合うようにしてそば屋が立ち並んでいる。当時はまったく知らなかったことだが、深大寺は「縁結び」の寺としても有名で、若い女性が一人で訪れることも多いということを観光所案内所の、話好きなボランティアの老人から聞いていた。
 縁結び。もしかしたら、それは本当のことかもしれないなとぼくは思った。

 あの日、ぼくはいつものように、お土産物屋でジュースを買って深大寺に行った。おなかの底まで響き渡る鐘の音を聞いたり、常香楼にお線香を差したり、なんじゃもんじゃの木を見ては、「これはなんじゃ?」と言ってみたりしては、ひとりで遊んでいた。
 それほど多くはなかったが、真夏でも参拝者は絶えることはなかった。深大寺を見学して、そばでも食べるのだろう。ごく稀に、人影がパタリと途絶えるときがあった。静寂が戻り、この空間を一人占めしたような気がして、そんなひとときもお気に入りだった。
 あの日ぼくは、橋の上から「あれを釣ってみたいな」と池の鯉を眺めながら、地面に座って瓶ジュースをラッパ飲みしていた。そんなぼくの横をあの人は通り過ぎて行った。しばらくして彼女が戻って来る気配がした。彼女の顔が真正面から見えた。綺麗な人だった。彼女から目をそらすことができずにいたぼくの視線に気がついた彼女と、目が会った。にっこり微笑んだ彼女に、ぼくはうつむいてしまった。
「こんにちは」
他には誰もいないのだから、声をかけられたのは明らかだったけど、照れくさくてわざと気がつかない振りをした。もう一度「こんにちは」という声が聞こえた。
 顔を上げると、彼女の顔がすぐそばにあった。太陽の光のせいだったのか、彼女はとてもまぶしく見えた。
「よいしょ」と言いながら、彼女はぼくの隣にしゃがみこむ。女性らしい香りが、ふわりとぼくの鼻孔をくすぐった。
「気持ちいいわね。ここ」
大学生かそれ以上だろう。たぶん二十歳前後くらいだったと思う。いずれにせよぼくよりはずっとずっと年上の大人の女の人だった。
「そのジュース、一口くれない?」
意表をついた申し出に、ぼくは戸惑ったが、彼女には不思議な、素直に従うしかない雰囲気があった。
 瓶を渡すと彼女は一口飲んで、ありがとうと言って、ぼくに片目をつぶってウインクした。
「その坊主頭、似合ってるね。触ってもいい?」
彼女は返事など待たずに、ぼくの坊主頭をなでた。体を傾けて彼女の手から逃れようとしたが、彼女は執拗に追ってきた。嫌だったけど、でも嬉しくて、そして恥ずかしくもあり、なんだか楽しかった。
「かわいいねぇ。うりうり」
「何すんだよぉ」と反抗すると、「おっ、生意気」と言って、今度はぼくの脇腹をくすぐり始めた。絶えきれず、ぼくは大声を出して笑った。笑えば笑うほど、彼女はぼくをからかうようにくすぐった。深大寺の境内に、ぼくと彼女の笑い声がこだました。
 大声を出してはしゃいだので、ぼくは喉がかわき、ジュースを飲もうとして瓶に口をつた。
「あっ、間接キス!」
 それを聞いて、ぼくは口に含んだジュースを思わず噴出してしまった。はじけるような彼女の笑い声は蝉の鳴き声よりも大きかった。
「どんな味がした?」と、彼女はでぼくの顔をのぞきこむ。ぼくは顔と耳が真っ赤になるのを感じた。そしてまた彼女は笑った。よく笑う女性だった。
「あぁ、楽しかった。じゃあね」
彼女は立ち上がり際にぼくの頬に軽くキスし、戸惑うぼくの頭をさらにひとなでしてから深大寺を後にした。
 ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで、じっとその姿を見つめていた。子ども心に、いいかたちのおしりをしているなと思ったことを覚えている。
 その夏休み、ぼくは毎日、深大寺に行っては、あの人が来ないかと心待ちにした。その後、彼女は一度も深大寺に姿を現すこともなかった。二学期が始まり彼女の印象は徐々にぼくの中から消え去った。それは、ぼくの初恋だったと思う。

 十七年ぶりにここにやって来て、同じ場所にいると、あのときの感触が蘇ってくるかのように、ぼくの頬に何かが触れたような気がして、遠い思い出から現在に引き戻された。
 観光に来ていたのだろうか、ひとりの女性がぼくのいる橋の方へと歩いて来るのが見えた。ぼくは視線を感じて彼女の方を盗み見た。彼女もぼくの方を見ていたようだが、目が合うと視線をそらして通り過ぎて行った。彼女は、ぼくのそばを通り過ぎる瞬間、ぼくが手にしているジュースの瓶に視線を向けたような気がした。
 ぼくは彼女の後ろ姿、いや、おしりを目で追っていた。あの日の光景と酷似しているように思えて仕方なかった。三十代後半か四十代前半くらいだろうか。ぼくよりも少し大人びた雰囲気の女性だった・・・。
 声をかけて、少しだけ話をしよう。それくらいのことなら別にどうってことない。仕事柄、口実なんていくらでもつくれる。今声をかけなければ、いつ再会できるかなど誰にもわからない。ぼくは深大寺の縁結びを信じて、彼女を追いかけた。
 深大寺の鐘の音が風にのって耳に届いてきた。

(了)

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<著者紹介>
Coz Kumagai(東京都練馬区)

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