大通りに出ると、せわしなく車が行き来する音が聞こえてきた。顔に当たる陽射しの強さから、今日が雲ひとつない晴天だと分かる。
気持ちの良い日だった。僕は額に汗を浮かべながら歩道橋を上り始めた。今日も逢えるかな、そんな淡い期待を胸に抱きながら僕は一歩一歩踏みしめる。右手に持つ杖の握り部分で揺れる小さな御守りが、僕の歩くリズムを作っていた。
「深大寺歩道橋っていうのよ」
幼い頃、手を引いて散歩に連れて行ってくれた母親の言葉は今でも鮮明に残っている。あの時初めて、歩道橋に名前があると僕は知った。上り三十六段、下り三十一段。最初の頃は確かめるように頭の中に数字を並べなければ怖くて歩けなかったが、今では無意識に足が進むべき方向を定めてくれる。
深大寺小学校を右手に、その角を曲がると長い下り坂が待っている。そこから高い石垣に沿って歩き元三大師堂を目指すのが、僕のお気に入りの散歩コースだ。小学校低学年の頃からだから、もう十年は歩き続けていることになる。
頭の上からセミたちの声が響いてくる。天に顔を向けると、その振動が顔にじりじりと伝わってくる。しばらくそうして歩いていると、陽射しが途切れた。心地よい水音の響きは下り坂の終点、大樹の下までやって来たことを知らせてくれる。「不動の瀧よ」と、これもまた母が教えてくれた。この世のものには何でも名前があるんだと知ってからは、母親に質問ばかりしていた。交差点や道にだって、僕の瀬田永路っていう名前と同じように名前があったのだ。
不動の瀧からしばらく歩くと、左手に店が並び建つ。「いらっしゃいませ〜」という声に、「瀬田くん今日も帰りに寄ってってね、麦茶入れとくから」という僕に向けられた言葉が聞こえてきた。岩井さんだ。毎日、そうやって声を掛けてくれるとても親切な人で、僕はいつものように「後で寄ってきまーす」と声の主の方に向かって叫び通り過ぎる。
山門の階段はとても急だけど、両隅には竹の手すりがあり、僕は毎日その感触を楽しみながら一歩一歩踏みしめる。最初の頃はザラザラしている竹肌。しばらくすると表面がツルツルしてくる。多くの人がこの手すりを使用しているからだ。ずっとそんなことに神経を向けていたからか、最近は竹の変え時が分かるようになってきた。そろそろだなと思っていると、ある日の朝からまた新しいザラザラした竹になっているのだ。今日の感じからだと、来週か再来週には新しくなるだろう――散歩コースの楽しみは、年月を重ねるたびに増えていく。
 そして、一昨日の大雨の日からまたひとつ新鮮な気持ちを抱きながら、僕は散歩するようになっていた。


 その日は朝から激しい雨が降っていた。危ないので傘はささず、フード付きの雨合羽を羽織って僕は家を出た。
 雨の日は雨音で周囲の音が聞き取りづらく、特に注意が必要だ。人の気配はもちろん、自転車の気配も見逃しがちになる。それに足元が滑りやすくなる。僕はいつもよりアンテナを敏感にさせて参道を歩いた。
 山門から先は、歩数を頼りに僕は方向を定めている。正面から線香の匂いを頼りに四十二歩進むと、香炉の前にやって来る。そこから左に進路を変えて二十五歩で井戸の前。さらに斜め左方向に石床を十二歩ほど歩くと、元三大師堂の敷地へと続く階段がある。ここは十四段と短い。山門と同じく左右に設けられている竹の手すりの感触を確かめ、僕は一歩一歩と踏みしめる。
階段を上りきって十七歩で、ようやく元三大師堂の真正面。石段を三段、木階段を五段上がると賽銭場所に到着する。
 いつものように小銭を投げ入れ手を合わせ終え、ゆっくりと階段を下り引き返し始めた時だった。濡れていた木段の角を踏み外した僕は、足を取られて二、三段ほど転げ落ちてしまった。痛みはなかったが、油断していたこともありしばらく動けなかった。
まずは両手で周囲を探り、立ち上がろうと力を込めた瞬間、その声が頭上から聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
すっと手が伸びてきた。とても細い指だった。僕の左手首をしっかりとつかみ、「立てますか?」と声を掛けてきた。
「だ、大丈夫です」僕は慌てて言うと、彼女に力を借り立ち上がった。
「雨の日は滑りやすくなるんですよ。気をつけてくださいね」
「つい油断してしまって......。もう大丈夫です」僕はそういうと、杖を握っていないことに気づいた。転んだ瞬間に手放してしまったのだ。
「毎日、ここに来られてますよね? あっ私、ここで巫女をやっている山口由美です。何か困ったことがあったら何でも言ってくださいね。だいたい毎日、ここにいますから」言い終えると、彼女は僕の右手に杖を優しく握らせてくれた。
「本当にありがとうございます」
高まる鼓動に負けないぐらいの早足で、僕は逃げるように境内を出た。それでも彼女の柔らかな手の感触と温もりは、僕の両手から消えることはなかった。
翌日は打って変わって良い天気だった。期待と不安を覚えながら、僕はいつものコースを寸分の狂いなく歩く。元三大師堂に続く階段を上ると、呼吸が早くなっている自分に気づいた。今日も由美さんは来ているのだろうか?
ポケットから小銭を取り出し参拝。周囲に何人かの気配を感じる。たぶん老夫婦と親子がひと組だ。少しいつもより時間をかけて拝んでしまったと思い、僕はやって来た方向に向き直り、階段を慎重に下りる。今度はいつ逢えるんだろう、と思った瞬間だった。背中に声が掛かった。
「あの、ちょっといいですか?」
声の主はもちろん由美さんだった。振り向くと、すぐ近くに気配を感じた。
「ちょっと貸してください」
由美さんは僕の右手から杖を取った。何をするんだろうと思いながらしばらく待っていると、また由美さんが口を開いた。
「よし、これで大丈夫かなぁ。私からのプレゼントです」
返された杖の上端に何かが結び付けられていた。僕はそっと触ってみる。お守り?
「ここのお守り、本当によく効くんです。私も同じのをいつも身に付けてるんです」
「あ、ありがとうございます。あの......」
続く言葉は結局、出てこなかった。なぜそんなに親切にしてくれるんですか、とは言えずに僕は家路に就いた。
 家の玄関で靴を脱いでいると、奥の台所から母親が近づいてきた。家の中にはカレーの匂いが充満していた。
「ずいぶん遅かったわね」
そう言ってから少し間を置いて、僕が靴箱に立てかけた杖に気づいたのか尋ねてきた。
「お守り買ってきたの?」
「ううん、もらった」
「誰に?」
「え?」僕は迷った。照れがあったので、その場は「ナイショ」と笑顔を作ってみせた。
「なにそれ」と母親も笑ったが、続けてこう言った。「大事にしなさいね。これ、交通安全のお守りなんだから」
「分かった」
 生まれた時から視力を持っていなかった僕は、これまで周囲の人からたくさんの親切を受けてきた。ずっと、ずっと、支えられ助けられ、今ではひとりで生きていけないということを自覚しているほど、多くの人たちから。でも由美さんの親切は、これまでのものとはまったく違っていた。なんだろう......顔を見ていないはずなのに僕の心の中でイメージが膨らんでいったのだ。声の響きやそこにいるという気配。ふたりの距離には無数の空気の粒があるはずなのに、まるで触れ合っているかのような気分なのだ。
翌日から僕にとっての深大寺の散歩は、明らかに変わった。散歩でなくなった。だから額の汗を気にすることなく僕は今日も、横断歩道を越え、深大寺小学校をなぞるように参道へと入り――山門からの百十歩を寸分の狂いもなく爽快と歩く。杖の先端に付いた、小さな幸せを揺らしながら。
「こんにちは。今日も良い天気ですね」
元三大師堂の前までやって来ると、セミたちの鳴き声に負けないぐらい元気な由美さんの声が響く。
この夏、またひとつ散歩の楽しみが増えた。

(了)
 
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<著者紹介>
鈴木 みつる(東京都大田区/29歳/男性/フリーライター)

深大寺の山門前の小路には小さなベンチがおかれています。ベンチのそばにはわき水の小川が流れ、朝には楓の古木がさしかける枝の間から木漏れ日が水面に映るのです。その水面に新しい蓮が顔を出しました。小さな蓮はつぼみをもたげて、枝をさしかけてくれる古木に話しかけ、参道を訪れる人を眺めておりました。

ある日、すらりと背の高い男の人がやってきました。まっすぐな鼻梁にはなめらかに眉が連り、涼しげな顔立ちですが、若さに不釣り合いなほど痩せていました。
男の人は蓮のそばのベンチに座って小川を眺めていました。
そこへ小さな男の子が駆けてきました。蓮が二人の方に首を傾けたとき、男の子は蓮を見て
「変な花。汚い色だよ。」
と言いました。蓮は驚き、恥ずかしさでつぼみをたれてしまいました。
「蓮は、それは見事な花が咲くんだよ。」
蓮ははっと顔を上げました。男の子はふうんというと、そば屋の方に駆けていってしまいました。それに気づいたそば屋の若旦那は男の人を見るなり驚いた顔でやってきました。
「おまえ、帰ってたのか。」
古木はようやく男の人が誰か思い出しました。昔、そば屋の息子と一緒に参道を通って小学校に通い、その後も時々深大寺に来ていた人でした。しかしいつからかふっつりと足が途絶えていたのです。
「元気だったか。」と笑う男の人を見たとき、友達は何か言おうと迷ったようでしたが、すぐ笑顔でいつ帰ってきたのかと尋ねました。二人で懐かしそうに言葉を交わしたあと、男の人は真剣な顔で「俺がいることを誰にも知らせないでくれ。」と言いました。友達はしばらく黙ると「わかった。」とだけ答え、店にも来てくれよと言って立ち去りました。
男の人は大きい腕時計を手で押さえて見ると立ち上がり、ゆっくり帰って行きました。
蓮はこれまで自分がどんな姿かということを考えたことがありませんでした。この日から蓮は水面をのぞき込むようになりました。蓮はどうにかして美しい自分を見ようとするのですが、くすんだつぼみを確かめてはため息をつきました。

男の人には家族がいました。お母さんは子供の頃になくなり、お父さんは新しいお母さんを迎えました。新しいお母さんは一生懸命に男の人をかわいがってくれました。まもなくお母さんに男の子が生まれました。家族はずっと幸せに暮らしていました。しかしその幸せは壊れました。
男の人は大学を出て、福岡の会社に就職を決めました。しかしお父さんは納得しませんでした。
「どうしてわざわざ福岡に行くんだ。」
「もう決めたんだ。」
「反対しているんじゃない。理由を聞いてるんだ。まさか死んだお母さんの田舎だからか。それともうちを出たいのか。」
「父さんには関係ないだろ。」
「関係ないわけないだろう!」
平穏な家庭の根っこに残っていた小さな痛みは、突然大きな陰になって現れました。
「どんな思いをして育てたと思ってる。」
「じゃあオレがどんな思いで我慢してきたと思うんだ。いつも遠慮して、居場所を分けてもらってると卑屈になってた俺の気持ちにおまえ、気づいてたか?」
「親に向かっておまえとは何だ!」
二人の怒鳴り声に気づいて部屋に入ってきたお母さんは、やりとりを聞くなり「わたしがダメだったの?」と絞り出すように言いました。
「そういうことじゃないんだよ。これ以上惨めにさせるのか?頼むから説明させないでくれ!」
「おまえ、今まで一言もそんなこと言わなかったじゃないか」
といってお父さんは泣き出してしまいました。二人はたまりにたまった悲しみや苦労をこれでもかと吐き出しあいました。そしてその言葉はお互いを深く傷つけたのでした。
二人が争いに疲れ果て、沈黙が流れた時、弟が高校から帰ってきました。いつも通り部屋に入ってきた弟は、父と兄を見るなり、家族の何かが壊れてしまったことを悟りました。弟にとってもそれは心のどこかで予期していたことだったのかも知れません。
弟の帰宅を合図のようにして兄は出て行きました。それきり、兄は家に帰っては来ませんでした。

男の人は調布に戻ってきました。そして毎日のように深大寺を訪れました。男の人は、時々誰に言うともなしに、「あまり時間はないのに」とつぶやくのでした。蓮は男の人がつぶやくたびにそっと葉の陰から男の人を見上げ、男の人が立ち去るときにはその姿を見送るのでした。
男の人が蓮を眺める時間は次第に増えていきました。いつしか男の人は蓮が自分の話を聞いてくれている気がして、蓮だけに気持ちを話すようになりました。
男の人はもうあまり生きられないことを教えてくれました。調布に帰ってきたのは、一番心残りなことを果たすためでした。「でもどうやって帰ればいいんだろう。俺が死ぬってことを、なんて言えばいいんだろう。」
蓮は男の人の話にじっと耳を傾け、涙をぽとりと落としました。蓮の涙は葉の上で弾み、水面に消えました。道行く人には蓮が風に揺れているようにしかみえなかったことでしょう。しかし、男の人は蓮が泣いているように思えてなりませんでした。
男の人はある時からふっつりとこなくなりました。時々そば屋の若旦那がベンチの方を見ては、店に戻って行きました。あの人は大丈夫だろうかと心配する蓮を古木は優しくなだめました。
数日後、別の人がベンチにやってきました。髪は真っ白ですが老人と言うにはまだ早く、背の高いそのおじさんは若旦那とベンチを指さして話しこみました。そしてベンチにくると一時も離れずに座っていました。おじさんが帰ったのは空に月が高く昇る頃でした。おじさんは来る日も来る日もベンチに座って参道の向こうを見つめていました。
そんな日が幾日続いたでしょうか。蓮のつぼみは次第にふくらみ、柔らかな色に変わっていきました。蓮は男の人を待ちこがれ、水面をのぞき込んでは日一日と変る自分の姿を悲しい顔で見つめるのでした。そしてとうとう蓮は花開きました。花の色はまだはかなげでしたが、行き交う参拝客は皆、足を止めて蓮の花に見入るのでした。蓮は咲いた姿を男の人に見て欲しくてたまりませんでした。しかしあの男の人は現れませんでした。
7日目の夜、いつものようにおじさんは帰って行きました。蓮は今日もがっかりして眠りにつきました。ひんやりした空気が降りてきた頃、蓮はベンチのきしむ音で目を覚ましました。顔を上げると、そこにはあの人が座っていました。男の人はいっそう痩せ、頬には深い陰が刻まれていました。
蓮はあれほど花を見せたいと思っていたのに、男の人を前にした途端その気持ちは消えていました。蓮は男の人の顔に刻まれた影をまっすぐにみつめたのでした。そのとき月の光が指し、蓮は昼の光には映らない突き抜けた白さに照らされました。
蓮は男の人の顔にあった迷いのひとかけらが消えたのを見ました。男の人は立ち上がるとまっすぐにおじさんが帰っていった方角に消えていきました。

「ただいま、母さん」
お母さんは小さく声を上げて息子をみつめました。そして確かめるように息子の肩や腕に手を当てると声を殺して泣きだしました。
「ごめんね、父さん」
お父さんは顔を真っ赤にして背中を丸め、息子の頭をぐしゃぐしゃになで、腕をしっかりつかんだまま放しませんでした。
弟は両親に内緒で福岡に兄を訪ねたことがありました。そのときからさらに背が伸び、髪を明るい色にしていましたが、鼻をつまんで泣くのをこらえる幼時のクセはそのままでした。そして一人笑いながら「兄ちゃん、お帰り。部屋そのまんまだぜ」と言いました。
男の人の部屋は、10年前のままでした。出て行った直後、お父さんはこの部屋を閉め切りました。しかし弟が両親に嘘をついて兄を訪ねたころから、お父さんは男の人が残していった荷物を、家族の記憶を頼りに戻していきました。この部屋だけはお父さんが掃除をしました。男の人はお父さんと二人で夜が更けるまでこの部屋で話をしました。

それから7日目の朝、男の人がやってきました。白髪のおじさんと、小柄で優しそうなおばさんと一緒でした。三人は友達のそば屋から出ると蓮のベンチに腰を下ろしました。男の人は座るのさえ大変そうで、腕を上げると時計は肘まで下がりました。おばさんは蓮を見て言いました。
「あなたは小さい頃、蓮の花をとろうとして、あそこの水生植物園の池に落ちかけたのよ。」
「え?」
「おまえ覚えてないのか。」
「お父さんがあわててあなたをつかんで、びっくりした弾みですごく怒ったのよね。」
「ああ、あのとき。」
「あなたそのとき、お花が欲しかったんだって言って泣いたの。わたしとおなかの赤ちゃんにあげようと思ったんだって言ってね。」
「あれ、蓮だったのか。綺麗な花だとしか覚えてなかった。」
「わたしあのとき、一生かけてあなたのお母さんになるぞと思ったのよ。」
お母さんは「ダメだったけどね。」といって涙ぐみ、ごめんね、かわいそうだったねと震える声で繰り返しながら目をぬぐいました。
「俺は子供になろうと思ってなかったんだな。」男の人は蓮の花を見つめて「今は思うよ」と言いました。
男の人は一人ベンチに残りました。男の人は蓮に触らないように気をつけながら、手を花びらのすぐそばにかざしました。蓮はこの人に会うのはたぶんこれが最後だと悟りました。蓮は花びらの水滴を男の人の手の上にそっと落としました。水滴は手の上で輝いて、すうっと消えました。
それが最後の別れになりました。

蓮の季節が過ぎ、8月も末の頃、黒い車と続く数台の車が参道から境内に入っていきました。明るい髪の、喪服に身を包んだ若者が蓮のいたベンチにきました。蓮の鉢には大きな葉だけが残り、小川には相変わらず澄んだ水が流れておりました。古木はこの若者にそっと枝をさしかけてやりました。若者は後から来た両親とベンチをみつめ、一緒に石段を登って境内に去っていきました。

(了)
 
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<著者紹介>
大野 春子(東京都調布市/30歳/女性/教員)

深大寺の桜咲く3月、桜散りゆく3月、俺の愛すべき人がイッた。
彼女はいつも笑っていた。どんな時も、どんなことがあっても。
「ねぇ、りょう」彼女の声がまだ俺の耳元でこだまする。
「ねぇ、りょう」
いつも彼女が言っていた「ねぇ、りょう、ねぇ」

彼女は小柄で少しぽっちゃり目の女の子だった。俺と同じ年で二十五。でも、彼女は幼かった。幼なく見えた。少なくとも、俺には。同業者ではなったが彼女も一応、エンジニアとしてメーカーに勤めていた。

そんな彼女から突然の連絡。うちの母親に。
「りょう、元気? 今どこにいるの?」
「会いたいの。ここに連絡くれるように伝えて。」

約10年ぶりの再会。正直驚いた。
かえでは大学、就職とともに関西に行っていたと聞いていた。そんなかえでが何故俺に・・
怖さ半分、嬉しさ半分で待ち合わせ場所に向かった。
待ち合わせは俺達の地元、調布。

調布駅につくと、かえでが待っていた。
かえでは変わってなかった。一目でわかった。まぁ、幼馴染だっていうのもあるけど。
かえでは俺に気づいて真っ白い手を振った。夏だというのに。
「りょう! 変わってないね!」
オマエもだろーが!!と内心思ったけど、口にはしない。
「元気?」
「うん、りょうは?」
「元気」

普通の会話。
ホントにフツー。
でも、入社3年目の俺には妙に新鮮で、妙に暖かかった。


久々の地元、調布。
一応、デートコースは調べてある。

「おそば食べに行かない?」

彼女はとても素直だった。思ったことをすぐ発するし、悪いと思ったらすぐに謝り、喜び悲しみなどの喜怒哀楽がすぐ表情にでるとても、わかりやすい子だった。まだ子供だったころ、よく感情が表情に出すぎて、喧嘩したことさえある。でも、とても良い子だった。

「別にいいよ。」
折角考えたデートコースも台無しだ。と心の中でつぶやいたが、かえでが行きたいのなら別にいいやと思った。こいつの意見にはよく振り回されてきたし・・・違うな。こいつの行きたいとこなら、俺も行きたいから。


おそばは、昔からある玉乃屋。俺の考えたデートコースの神代植物公園の裏手だし。でも、小さい頃から調布にいるけど、ここには一度も入ったことなかったな。地元なだけに、家が近いからそばは帰って食べるから。

俺達はちょっとお昼には早かったのか、店の中の席へ通された。
かえでとこんな風に外食するなんて、想像もできなかった。

「ねぇ、りょう、何にする?」
「俺、山掛けそば。」
「じゃぁ、あたしも。」

相変わらず、自分で決められない性格だな。かえでは変わらない。俺は、笑った。

腹も満足したし、散歩がてら、深大寺をぐるり一周、そして神代植物公園にきた。ちょうどバラが見ごろを終えていた。もう夏だしな。
そのおかげか人も少なく、ゆっくりと散歩できた。見ごろを終えたといっても、まだバラの香が漂っている。残り香とでもいうのか。

かえでは、基本的に家にいるのが好きな方だ。俺は、そんな彼女をよく連れ出していた。あの頃は彼氏彼女に敏感な時期だったはずなのに、俺達はそんなの関係なしによく二人で遊びに行っていた。親同士が仲が良いというのもあるけど。特にこの深大寺周辺にはよくきた。彼女は自然が大好きだった。植物園もお寺も、そばも彼女は大好きだった。彼女はここにくるととても元気になる。彼女は体が弱いので、遠出は無理だからという理由もあるが、ここで二人とも大満足だった。

日も暮れ、別れの時間が近づいた。
今日一日でかえでに魅せられていた。
また、かえでとこうしてぶらぶら出来るだろうか。

会っている間、俺は彼女に今どこで、何をしているのか聞けなかった。というよりも、聞きたくなかった。せめて、この時間だけは昔のように居たいと思って。でも、別れが近づくとやはり聞きたい。今、どこにいて、何をして、そして、また会えるか。

「それじゃ、りょう、今日はありがと。」
「りょう・・・?どうかした?」

あの頃のかえでが俺を見ていた。

「オマエ、今どこに住んでんの?働いてんの?」

かえでが呆然と立ち尽くす。俺、なんか変なこと言っちまった?

「あれ?おばちゃんから、聞いてないの?私、今川崎にいるの。ちゃんと働いてるよ。」

「そう。。」
絶句してしまった。母親め。そんなこと一言も言ってなかったぞ。
落ち着きを取り戻して、俺は言った。

「なぁ、また会わねぇ?」


かえでが笑みを浮かべた。どういうこと?
かえではかばんをゴソゴソとしだして、携帯を取り出した。
「じゃぁ、番号教えて。」

それから、俺達は何度か会い、付き合いだした。会うところは調布、彼女の家など、様々だ。
かえでは仕事が忙しいらしく、家にはほとんどいない。彼女が働く土日があれば、ふたりで一緒に過ごす土日もある。


彼女はよく泣く女性だった。寂しいといっては泣き、テレビのドラマ、映画、漫画、小説、ありとあらゆるものに感動し、よく涙を流してた。俺は、そんな彼女の涙を拭いてやる男でいたいと思っていた。彼女が泣くときにそばにいるのは、この俺だと思っていた。

そんな彼女にはもう逢えない。今、こんなに逢いたいのに逢えない。


年が明けて、俺は一級建築士の資格を取るために勉強を始めた。
今の仕事は、建築家の補佐的な仕事。正直、給料も今の生活には問題ない。だが、かえでとの将来を考えて資格を取ろうと思いたった。

「俺、資格取ろうと思って。」
「え?なんのために?」

「お前との将来のため。」

「そんなことしなくていいよ」
子供をなだめるような、温かみのあるしゃべり方で言った。
「だって、会える時間少なくなっちゃう」

正直、何でかわからなかった。会える時間が多少少なくなろうと、かえでなら快諾し、応援してくれると思っていた。

長い沈黙のあと、最後の言葉を発した。
「俺の好きなことをやらせてくれよ。」

「わかったよ。頑張ってね。」
彼女は笑顔で理解を示した。
彼女はどんな気持ちだったのだろう。


その後、彼女とは、最近は1ヶ月に1回会えばいいほうだった。俺は、資格試験の勉強に加え、フットサルのチームに入っていたり、バイクに夢中になっていたため、平日の夜も予定があることが多く、更に、彼女と逢う回数が激減した。

俺が、色々なことに夢中になっている間、彼女は何を考えていたのだろう?
大切にしていると思っていた自分がバカだったのかも知れない。
大切なものは、いつもなくなってから気づく。

そんな生活を続けていた3月24日。突然、母親から電話があった。
「りょう、今すぐ家へ帰ってらっしゃい。」
「はぁ??何で?」

「かえでちゃんが、亡くなったわ。」
俺は、絶句した。なんで?その言葉が、頭の中を回りっていた。実家に帰る途中の景色も、遠くに見える深大寺も、自分がどうやって切符を買ったのかすら覚えていない。

かえでとのことを考えていた。
そういえば、会ったのは3週間前だったっけ。最近は、メールばっかりだったもんな。
電話はいつしたっけ?

大切にしていると思ってた。ずっと隣で笑って欲しいと思ってた。ずっと彼女を見ていたいと思ってた。


家に帰るともうかえではいなかった。
家に挨拶に来ていたかえでの母親が言った。
「りょうくん、ありがとう。かえで、こっちに帰ってきて毎日とても楽しそうだったわ。」

葬儀は翌日行われた。俺も参列した。
かえでの葬儀らしく、祭壇が花と緑にあふれていた。
きっと、大好きな調布の土地に帰っていくんだなと思いながら、送った。


資格を取ったら、プロポーズするつもりだった。
俺は彼女を愛している。そう、いまでも。だが、もう逢えない。
彼女は俺に愛をくれた。彼女はいつもそばにいた。よく、電話もくれるし、いつも俺を心配してた。俺は彼女に変なやきもちを焼くし、いざというとき、そばにいてやれなかった。

彼女は俺の名前を呼んだだろうか?

今、何をいっても伝わらないし、伝えられない。彼女の占めていた部分がこんなにも大きかったとは。俺はこの先どうなるだろう。


後で母親に聞いた話だが、かえでは俺達が再会した夏、もう長く生きられないことをわかっていたそうだ。だから、どうしても俺に逢いたいと母親に言ったそうだ。自分のことを一番良く知ってる俺に。小さい頃からずっと好きだった俺に。
再開の場所を決めたのはかえでだった。昔よく遊んだ調布で、縁結びの寺である深大寺。
彼女はそういえば、お寺に祈ってたな。

「何祈ってるの?」
「秘密! 叶ったら、教えてあげる」

「りょうは?」
「俺?」

「俺も叶ったら、教える」
「叶うといいね。」
最後の言葉が少し、弱弱しかったのを覚えている。

1ヶ月後、かえでから手紙が来た。
たった一行の文章なのに、きちんと封書で送られてきた。
「叶わなかったけど、教えてあげる。
"ずっと、りょうと一緒に居たいです"って祈ったの。」


手紙の消印は、3月23日だった。

俺は、こう祈ったんだよ。
「かえでと一緒に居たい」って。

これから、彼女に逢いに行こう。

(了)
 
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<著者紹介>
Lily(東京都/26歳/女性)

 しっとりと落ち着いた緑が生い茂り、土産物や楽焼工房、情緒ある店並が幾つも軒を連ねた深大寺の際。佐々木美奈が足を止めた蕎麦屋は、参道へと続くその一角にあった。
時刻は十時を回った頃。店先に立つ美奈の鼻先を、ふんわりとふくよかな香りが掠めてゆく。美奈は、その正体を知っていた。チラリと店内に目をやると、思った通り、店主らしき人物が蕎麦を打っている。それを見るなり、美奈は顔を歪め、忌々しげに舌打ちした。
大学のサークル仲間、宮本圭悟の挑戦を受けてしまったから、美奈は仕方なくここにいるのだ。そうでなければ、わざわざ蕎麦屋になど足を運ぶ訳がない。
苛々と通りに視線を投げていた美奈は、ふと耳を過ぎった声に、呆気なくその臨戦態勢を解いた。
クーン、クーン。
また聞こえる。すぐ傍だ。身体ごと振り向いてみると、茶色の小さな獣は、そこにいた。
まだ仔犬だった。紫陽花の咲くこの季節、昨夜の雨露を含んだ藍色の花房の下で、黒い宝石のような丸い目が、じっと美奈を見上げている。
どちらかと言えば、尖った雰囲気と評されることの多い美奈だが、こと犬に対してだけは例外だった。
「あんた何しとるの?」
声をかけながら、たちまち下がっていく目尻と緩んだ口元。美奈の表情は優しく崩れる。
九州出身の美奈は、東京に出てきてまだ三ヶ月だった。一人暮らしを始めて何が一番寂しいかと言えば、慣れない人間関係でも環境でもなく、犬が傍にいないことだ。実家で飼っていた茶色の柴犬、ロミは、姉妹のいない美奈の妹分とも言える存在だったから。
紫陽花の下に佇む仔犬は、毛色こそ黒いものの、目元はロミにそっくりの柴犬である。美奈が手を差しのべると、仔犬は嬉しそうに顔を突き出した。尻尾をちぎれんばかりに振りながら、小さな舌で舐めてくる。思わず抱き上げてみれば、うっすらと濡れた毛並みから、雨の匂いがした。
「ジュリっていうんですよ」
丁度表に出てきた店の人が教えてくれた。
「へえ、ジュリね。お前もなかなかいい名前じゃないか」
そう言ってジュリの顔を覗き込んだところで、美奈は当初の目的を思い出した。
圭吾との待ち合わせ場所は、この蕎麦屋の前。彼曰く、開店時間ぴったりにということだったが、この店の雰囲気からすると、どうやら未だ準備中らしい。
「こちらのお店は、何時に開くとですか?」
「すみませんねえ、十一時からなんですよ。もう少しお待ち頂くことになりますが」
はあそうですか、と無難な言葉を返しながら、美奈の機嫌は再び降下した。おおよそ、あと五十分近くある。
どうせ、あのトロそうな奴のことだ。至高の日本蕎麦を食べさせるなどと豪語しておきながら、時間を間違えたに違いない。十時に開くというから、きっちり来てやったというのに。
いっそ、このまま帰ってやろうかとも思ったが、腕の中に閉じ込めたままのジュリを見て、ふと考えた。 
「ね、お姉さん。この子、今日はお散歩すんどる? もしまだやったら、私が連れて行ってもよかですかね?」
思いついたことは、すぐに口に出す。時折そのせいで酷く後悔したりもするのだが、どうしても止められない美奈の性質だった。しかし意外にも、蕎麦屋の女性は、二つ返事で柴犬のリードを渡してくれた。

佐々木美奈とは、四月に通い始めた大学のサークルで知り合った。熊本県出身で、好きなものは犬と紫色の花。少々九州訛りを残した言葉が初々しく、素朴な土の香りがする。
宮本圭吾は、そんな彼女に初対面から好感を持っていた。更に『そば』に目がないというプロフィールまで付加されれば、興味を持たぬ訳がない。圭吾は無類の日本蕎麦好きだったからだ。
ところが先日、サークル内で大学祭の企画が持ち上がった時のことである。圭悟はその席で、日本蕎麦の模擬店を出そうと提案したのだった。
「麺作りからやるんだ。受けると思うぜ」
お前出来るのか、という仲間の言葉に、もちろん、と圭吾は胸を張った。圭吾の蕎麦打ちは、蕎麦職人の叔父直伝だ。そこそこ美味いと言わせられる自信はあった。だが、
「蕎麦店はつまらん」
横合いから水を差したのが、美奈だった。
「なんで駄目なんだよ? あんただって、蕎麦好きなんだろ?」
「私が好きなのは、中華そば。日本蕎麦は好かん」
美奈の言う『そば』とは、中華そばのことだったのだ。それには納得したが、だからと言って、日本蕎麦を一刀両断にしなくても良いだろう。圭吾は無性に腹立たしくなった。
「あんたの好みはそうかもしれねえけど、日本人なら日本蕎麦だ」
美奈は、ふんと鼻で笑った。
「日本人イコール日本蕎麦? ずいぶんと単細胞な展開だね。よか? 日本は海外の多様な文化を取り入れて吸収し、それを自らの食文化に根付かせて来たとよ。中華そばこそが、今じゃ国民人気のNO1なの」
既に話題はサークルの模擬店から、日本と中華の蕎麦対決に変わってしまっていたが、二人の言い争いを止める者はいなかった。
圭悟の脳裏を、ひたすら蕎麦に情熱を捧げた叔父の姿が過ぎった。
いつも蕎麦の温度に気を配り、蕎麦が風邪を引かないようにと工夫を凝らす。頑固なこだわりと溢れんばかりの研究心、水や蕎麦粉のみならず、道具の一つ一つにまで決して妥協はしない。蕎麦好きが高じてサラリーマンから足を洗い、とうとう蕎麦作りに専念するようになった叔父を、圭悟は密かに尊敬していた。
叔父が、蕎麦打ちの最中に急死したのは、五年前の春だった。
「最後まで情熱の中で生きられたのだから、あの人も本望だったと思います」
きっぱりとそう言った叔母の姿に、圭悟は感動を覚えた。
大事なのは命の長さではなく、その中でどう生きるのかという事。蕎麦に捧げた叔父の生き方は、圭吾に鮮烈な思いを残した。
だからこそ、美奈の言葉は許せなかった。圭悟にとっては、日本蕎麦を罵倒する者は、叔父を侮辱するにも等しい。それほどまで言うなら、美味い日本蕎麦というものを食べさせてやる。そして、前言を撤回させてやる。
宮本圭悟が佐々木美奈に挑戦状を叩き付けるに至るまでには、こんな経過があったのだ。
 しかし、その決戦当日。圭吾は必死で目的地へと走っていた。意気込みだけで最終確認を怠っていたのだ。まったく、開店時間を読み間違えるなんて、どうかしている。
 とっくに帰ってしまったと思っていた。だから、黒い柴犬を連れた美奈に蕎麦屋の前で出くわした時、圭吾は思わず言葉を失った。

美奈の実家は、熊本で小さな中華そば店を営んでいた。近くには老舗の日本蕎麦店があって、晦日ともなると店員を増員し、即売店を出す程の賑わいをみせる。それに対して、実家の経営状況はあまり芳しくなく、美奈の父親は、その店に酷く劣等感を持っていた。
「あんな偏狭な性格だから、店も流行らんかったんよ。日本蕎麦のせいじゃなかね」
美奈は小さな声でそう言って、最後の麺をすすった。
本日一番乗りのお客のための蕎麦。新蕎麦にこだわる人なら避けるかもしれない今の季節でも、その艶やかな喉越しと歯触りは、美奈の心を柔らかく解きほぐす。
今時珍しい話だが、美奈は、日本蕎麦を食べたことがなかった。機会を与えられることの無い生活環境に加え、親から叩き込まれた日本蕎麦に対するひけ目とライバル心が、更に美奈の反発心を煽った。そしていつしか、蕎麦と聞いただけで鳥肌がたつようになってしまったのだ。
「本当は、一度食べてみたかったの。けど、親を裏切るみたいじゃなか?」
箸を置いて苦笑する美奈に、圭吾は八割方の期待を持って尋ねてみた。
「んで、結果はどうよ?」
「美味しかったよ、悔しかなあ」
照れ臭そうに顔を背けた美奈の視線の先には、道端一杯に広がる紫陽花があった。その葉陰から仔犬の尻尾がぱたぱたと揺れている。
美奈が好きなものは、犬と青い花。
圭吾が好きなものは、日本蕎麦と土の香り。
心地良いものに囲まれていれば、人間誰でも素直になれるものかもしれない。
「また、散歩に連れていきたかな。ね、今度はいつ食べにくる?」
美奈はそう言って、穏やかに笑った。
「ジュリの都合次第だな」
 圭吾は答えて、仔犬の上で揺れる青い花房に目を細めた。

(了)
 
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<著者紹介>
七草 クルミ(東京都小平市/26歳/女性/グラフィックデザイナー)

 哲也が自分のアパートの近くに奇妙な名前の木があることを知ったのは、見知らぬメールの相手の書き込みからだった。「なんじゃもんじゃの木」と一度聞けば覚えてしまうおもしろい名前だった。その木がどんな木だろうと彼にとってあまり意味はない。問題はなんじゃもんじゃの木の前でメールフレンドと初対面を果たす事だけが大切なことだった。
 秋空の抜けるような鮮やかな青に細井雲の群れがうっすらと色を淡くしてきた。深大寺に隣接する神代植物公園でバラフェスタをやっているということを彼女のメールから知った。入り口を眺めると大勢の人たちでにぎわっていた。神代植物公園の入り口にはバスを待つ人たちが行列をなしている。
 哲也は一人ではバラフェスタのイベントなどに来ることなど考えたこともなかったが、週末の夕方にバラの芝生でボサノバライブを聞いてみるのもいいかと考えた。それには二人で来るのが良いに違いない。
 熱風を吐き出すバスが大勢の人を詰め込んで通り過ぎた。太った初老の男女がバスの中でひしめいているのが見えた。小さな真紅のバラを抱えている人が目立つ。優雅なバラの香りが漂っていた。
哲也はこの調布でソフト開発の会社に入って三年になるが、会社から歩いて五分のところにアパートがあるため、深大寺の周辺を気晴らしに散策することが多かった。そんな時に、気まぐれにバラの鉢を買った。だが、手入れの方法が判らずネットであちこち調べていた。そのうちに掲示板で親切な人と知り合うことができた。その相手が女性で同じ町内に住んでいることが判り、とうとう会うことになったのだ。
相手の女性は待ち合わせの場所に深大寺の「なんじゃもんじゃの木」の前を指定してきた。しかし哲也は花や植物に関して詳しくない。なんじゃもんじゃの木がどんな木なのか、どこにあるのかもしらなかった。さらに強度の近視でほとんどのものがぼやけて見えていた。なんとか約束の五時に間に合えばいいと考えていた。携帯電話番号や携帯電話のメールアドレスを遠慮して聞き出さずにいたのだった。
 どこをどう歩いているのかバス通を歩いていたが、林があったりして道がわからなくなっていた。
 どこかで道を尋ねないといけない。店らしき所を探し、暖簾をくぐると素朴なそばの匂いがした。笑顔で迎えてくれたおばさんと眼があった。
「あの、このあたりに、なんじゃもんじゃの木ってのがあるって聞いたんですが......」
 笑顔のおばさんは一瞬瞬きをしてから頭を傾げた。
「そうだねえ、なんじゃもんじゃの木ならこの店の前の坂道を登ってさ、突き当たりの嚏字路にある太い木がそれだよ」
 哲也は言われた通に歩いてみた。古いそば屋が何件も並んでいた。水車があったり、龍の形をした鉄の口から水を流していたりと歴史を感じさせた。
 言われた通に歩いていたが、それらしき道にこない。約束の時間は迫ってくるが、たどり着けそうになかった。辺りは木が多いためか夕暮れが早いようにも思えた。果たしてなんじゃもんじゃの木とはどんな木なのかを聞いておけばよかったと後悔した。
夕闇が木立を黒く染め、ムクドリの羽ばたきが木陰から聞こえた。時計を見ると約束の五時を遥かに過ぎていた。目の前にはのっぺりとした大木が立っていた。巨木は大きな枝を力強く広く伸ばしていた。巨木がなんじゃもんじゃの木だと知るのは後のことだった。すっかり暗くなった道を哲也は大きな街道まで戻った。
 彼はアパートに戻ってから、なんじゃもんじゃの木をウェブで探してみた。「その土地の道しるべとなる巨木で、6月にはヘリコプターのような形の白い花が咲く」ということが分かった。彼女はどこからでも見える巨大な木なら目印にいいと思ったのだろう。即座に哲也はメールを打ち込んだ。道に迷ってしまい、どこになんじゃもんじゃの木があるのかが分からなかったことを。さらに勇気を出してあまり眼がよく見えないことを書き添えておいた。それから明日の日曜日にこそ確実に会うことができるようにと自分の携帯電話番号を書き添えておいた。
 メールの前後から想像して、彼女は神代植物園で働いているか、深大寺のどこかの花屋で働いているのではないかと思っていた。バラのことを質問しても即座に的確な答えが帰ってきた。それが趣味からくる知識なのか、専門的な知識なのかは分からない。
 夜中に彼女からメールが届いた。約束の5時から三十分、待っていたこと。バラフェスタでいっしょにライトアップされたバラ園を見にいきたいがライブ演奏には興味がないという。仕事ガ終わった五時になんじゃもんじゃの木の前で赤いふうせんを持って行くという。最後に嫌われるかもしれないと書き添えてあった。
 哲也は不思議だった。赤いふうせんは、こちらから見やすくするためだろうが、ライブには興味がないというのはどうしてなのだ。思ったよりも年長の女性なのかもしれない。それに今回も携帯電話番号を教えてくれなかった。
 とりあえずはバラの栽培のアドバイスのお礼をする。そして神代植物公園でバラ見物といきたかった。
 翌日の日曜日、早めになんじゃもんじゃの木の前に行っていた。哲也はなんじゃもんじゃの木のそばでじっくり眺めた。あまりにも巨木で高さがどこまであるのか分からない。花が雪が降ったように咲くとはどんなものか想像できなかった。そうしている間にも緊張していた。時計を見ると五時までには十八分ある。
 彼女のメールの書き込みを思い出した。
「バラは絶えず病気との戦。害虫にも狙われる。でも心をこめると必ず大輪の花弁をつけて答えてくれる......」
 バラに感情移入する女性とは、何か秘ごとがあるに違いない。
 哲也は普段は箪笥にしまいこんである黒縁の眼がねをかけてきた。部厚い眼鏡をするのは恥ずかしかったが、彼女の姿をはっきりと見ておきたかった。
 カラスの群が騒がしく声を上げて深大寺の屋根の上を飛来した。静けさが増した。
 道路から視線を上に上げると一人の女性がこちらに向かってきた。哲也の胸は締め付けられるように呼吸が止まった。近づいてきた女性の手には赤い物が見えた。風船を持った女性がこちらを見ている。その眼は恥じらいで下を向いた。痩せた肩、乾いて薄い額の上にカールした前髪があった。彼女は顔を上げ真剣な顔をしてから、細い腕を動かした。彼女は自分の耳に手をあてて両手でクロスした。
 黒縁の目がねに張り付いた薄暗い空は動かず凸レンズに隠れた石灰石のような瞳は動かない。二人の間に重い沈黙があった。哲也は彼女の目を見つめてうなずいた。これまで携帯電話の番号を教えてくれなかったことも、ライブには興味がないとメールに書いていたこともなにもかも納得することができた。
 彼女は鞄からメモ帳を取り出してボールペンで書き始めた。
「私は神代植物公園の職員です。バラの栽培が専門です。私の育てたバラたちを見てください。それから、あのバラは元気にしてますか?」
 哲也はポケットから写真を取り出して見せた。バラの写真を覗き込んだ彼女は初めて笑った。哲也は彼女の持っていたメモ帳にボールペンを走らせてお礼の言葉を書いた。顔を見ているよりもメールのやり取りの調子が出てきて切れ目なく文字が出てきた。
 彼女は薬害で高熱から耳が聞こえなくなったという。何年も病気と闘ってきて、花に癒されてきた。そしていつしかバラを栽培する仕事についたのだと言う。
「ねえ、これってチャットしてるのと変わりないね」
 彼女は上目図解をして見つめてから
「これはチャットではありません。筆記ですから......」
「そうか筆記ですか、それならチャーント筆記します」
 哲也は「チャーント」の横線を長く引っ張った。彼女はそれを見て笑い声を上げた。無邪気な笑い声だった。彼女の持っていた赤い風船が振動した。早船哲也はそれを見て思いついた。風船に向かってハミングした。風船は細かく震えた。
「野外ライブに風船を持っていこう。こんな風にするんだ」
 風船を彼女に触らせて声を出してみた。彼女は風船をしばらく触ってからニコニコしてウナズイタ。
 哲也は彼女の前に手を出した。彼女は自然に手を握ってきた。そして二人は神代植物公園に向かって歩いた。
 二人の後ろ姿は、植物公園の大勢の人たちに紛れてしまった。

(了)
 
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<著者紹介>
大谷 重司(東京都調布市/48歳/男性/鍼灸師)

「俊彦、久しぶりに深大寺に行っておそば蕎麦でも食べようよ!」
姉の香織が僕を昼食に誘ったのは、五月のよく晴れた土曜日の昼前で、なかば強引に連れ出された。
 我が家は調布市の野川のほとりに位置し、深大寺にも徒歩で気軽に行ける距離にある。普段は感じないが、年末年始などの時期には、渋滞の車を尻目に見てかっぽ闊歩することに優越感を見出していた。
 姉はこのところ上機嫌だ。挙式が来月に迫っており、公私ともに充実しているからである。
 「俊彦、今日は恋愛がじょうじゅ成就する方法を教えてあげる。方程式と呼んでもいいかな?」
 「えっ、何それ?そんなの本当にあるの?」
僕は立ち止まり、姉の顔をまざまざと見つめてつぶやいた。
 「ふふっ、あんたも興味があるんだ!」
姉はニヤッと笑い、僕の気持ちを見透かすようにいたずら悪戯っぽい目で僕の顔を見つめ返す。
 「そりゃあ、誰だって気になるよ、そんなことを聞けば!」僕は照れながら言い返す。
 「ごめん。少しからかってみたかったの。でも、方程式は本当にあるのよ。実際に私が実践したんだから!」
 姉は真顔になり、いつになく興奮気味に話しかける。
 「深大寺が縁結びで有名なのは知っていると思うけど、ただお参りすればいいというものではないの。他にも大切なことがあるのよ!」
 ジーパンに赤いトレーナーを着た姉の歩く速度が落ち、会話に熱がこもる。
 綿のスラックスに半袖のポロシャツを着こんだ僕も、姉の熱意が伝わってきたようで次第に汗ばんできた。  
      
 姉は俗にいうみそじ三十路である。大学の同級生との失恋が尾を引き、しばらく暗い生活が続いた。その後、失恋の痛手から立ち直り、勤務先の先輩と職場恋愛を実らせ、寿退社へと着実に人生を歩んでいる。
 「これから言うことは茶化さないで、真面目に聞いてちょうだい。でも前もって話しておくけど、一番大切なことは相手への思いやりなの。忘れないでね」
 今日の姉の言葉にはいつもと違って、妙に説得力があり、素直に僕の心に響いてくる。
 いつの間にか僕たちは住宅街を通り過ぎ、深大寺の門前へと続く歩道を歩いていた。
 歩道の両側にはそばや蕎麦屋が目立ち始め、盆栽・庭石などの造園業、みやげ土産物屋、喫茶店なども視野に入ってきた。

 深大寺は浅草寺についで古い歴史を持つ寺で、厄除け、商売繁盛、縁結びのご利益がある寺として有名である。
僕たちは我が家のしきたりに従って、門前通りから山門へと向かった。門前通りの両側には店頭に各種の土産物を置いた店が立ち並び、老若男女でにぎ賑わっている。
僕たちは門前通りの賑わいを眺めながら山門をくぐった。この山門は桃山時代の建築でケヤキを使い、分厚い草葺の屋根が落ち着いた雰囲気をかも醸しだしている。
本堂を礼拝し、次に良縁じょうじゅ成就を祈願する元三大師堂にも二礼二拍手一礼で礼拝した。
毎年、三月の三日・四日には厄除け元三大師大祭が催され、同時に催されるダルマ市は日本三大ダルマ市の一つとして有名である。
深大寺周辺の土産物屋には大小のカラフルなダルマが居並び、代表的な土産のひとつとなっている。

境内を出ようとした時に姉がおもむろに話しかけてきた。
「俊彦、当たり前のことだけど、お参りはできるだけ好きな相手と一緒にした方がいいのよ。時期は正月でなくてもいいから。深大寺を案内するからと言って、立ち寄ることがポイントなのよ!植物が好きなら、神代植物公園に行った後に立ち寄ればいいの」
「なるほど、自然にふるま振舞えばいいんだね」僕は素直に納得し、次の言葉を待った。
「そして、ダルマを買うの!」
「えっ、どうしてダルマなの?受験とか選挙ならわかるけれど」
「縁起ダルマとしてちい小さなものを買うの。好きな相手と2人で来たときには、二つ買うのよ。そして、ここからがミソなの。ダルマの目にはハートのマークを入れるの。色はできれば赤がいいわねぇ。そして、相手が入れたものを一つずつ持ち合うの」
「うーん。それって、子供っぽくない?相手に馬鹿にされそうだけれど!」
僕は照れ気味に反論したが、姉は強気に言い放った。
「男性には理解できないと思うけれど、女性はかたち形があるものを持ちたがるの。女の習性かもしれないけれど、持つことで不安が解消されるの。女には形あるものが必要だし、なぜかひ惹かれるのよ」
「そう言われると、そんなものかなぁと思えてきたけれど。女って、本当に不可解だね」
「そうよ、だからおもしろ面白いのよ。女は単純に見えて、単純じゃないの。女のさが性は怖いのよ。指輪を欲しがるのも女の習性なの。愛の究極の形としては、妊娠することかもしれないわね。愛の証として子供が欲しくなるものなのよ。これは余計なことだったわ」
僕は複雑な気持ちで姉の言葉の意味を理解しようとしていた。
それを察知したように姉が話題を変える。
「さあ、お昼にしましょう」
僕たちは近くのそばや蕎麦屋に入り、それぞれ好みの蕎麦とビールを注文した。
「ねぇ、俊彦、彼女とはうまくいっているの?正直に話しなさい」
姉はおいし美味しそうにビールを飲みながら、僕の目を笑顔で見つめる。
「うん、まあまあだね」と僕は取りあえずあいまい曖昧に答え、ビールに口をつけた。
僕は二十七歳になるが、結婚についてのあせ焦りはない。姉と同じように、勤務先に恋人がいる。関係はうまくいっていると思っている。
「彼女を大事にしなさいね。さて、さっきの続きだけれど、もう一つ大切なことがあるのよ」
姉が真顔で話し始めた。
「二人で深大寺を参拝した後、名物のおまん饅じゅう頭をお土産として相手の家に持ち帰らせるの。これがとても大事なことなの」
「どういう意味があるの?」と僕は思わず聞き返した。
「現代っ子はカラッとしていて、なかなか気づかないけれど。相手の両親に対するきづか気遣いなのよ。情緒のあるところをそれとなく見せるの」
「なるほど、よく理解できるよ。お饅頭なら、嫌いな人はほとんどいないからね」
「そうなの。気のき利いたところを見せて、ご両親の歓心を得るのよ。お饅頭といえども、お饅頭の効果ははか計り知れないものがあるの!馬鹿にできないアイテムなのよ」
「姉さん、よく判るよ。もちろん、婚約者には実践したんだよね?」
「当たり前でしょ。実践して結果が良かったから教えてあげてるの。あまり知れ渡ると効果が無くなるから、気をつけなさい!」
 「姉さん、ありがとう。必要な時がきたら、試してみるよ」
「馬鹿ね!試してみるのではなく、後がないと思って真剣に行動するのよ。思いやりを持って実践しないと、相手にも気持ちが通じないし、決してうまくいかないから!」
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。今日、姉さんが話してくれたことは大切にするよ」
二人とも笑顔でビールを飲み干し、注文した蕎麦にはし箸をつけ始めた。

僕たちは蕎麦屋を後にし、再び歩道を歩き始める。
豊かな自然のなかをゆっくりと歩く。静けさが気持ちよく、一歩一歩踏みしめて歩く。なぜか歴史の重みを感じ始めていた。
僕にとっての深大寺が大きく変わろうとしていた。
姉の話を聞いたからなのだろう。深大寺へのイメージが今までと異なり、より近づきやすいものに思えてきた。
縁結びの神様をまつっている深大寺。その深大寺の周囲には豊かな自然や花と緑が満ち溢れている。
このような環境のなかで、神様は静かに恋人たちを見守ってくれるのだろう。神様にも静かな環境は必要だ、と僕は思う。そうでないと神様だってきっと、間違った判断をしてしまうのではないだろうか。
その結果として、相性の悪い相手と縁を結ばれては泣くに泣けない。
姉の言うとおり、神様にお祈りするだけでなく、思いやりのある行動をとるべきなのだろう。とるべきというよりも、必然的にとってしまうのだろう。
姉のような感性があれば、自然に生きていくすべ術が身につくのかもしれない。そこにちょっとしたエッセンスが加われば、より確かなものになっていくのだと僕には思えた。
そんな姉がいと愛しく思えてきた。何か言わなければと口を開きかけた矢先、僕は腕をつかまれていた。
「いけない。美味しいお饅頭を忘れていたわ!店を教えてあげるから戻りましょう」
僕たちは深大寺へと再び足を向けた。

(了)
 
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<著者紹介>
柳場 篤(埼玉県入間市/53歳/男性/会社員)

「また行くの?もう暗くなるのに」
「コンクール、近いから」
杏子は授業の終わりとともにあわただしくかばんを肩にかける。
「ねえ、もう水連も終わりなんじゃ・・」
背中にかかる友人の声に聞こえないふりをして、杏子は足早に教室を出た。

杏子の通う都内の美術大学から、電車とバスを乗り継いで45分。
調布市のちょっとした観光名所といえば深大寺である。
杏子はここに隣接する東京都立神代植物公園へ、水連の花を写生するために通っている。
「いつもいつも、がんばってるね」
植物園の受付のおじさんにはもう顔を覚えられたらしい。
閉館間もない時間、ばたばたと走って植物園にくる若者はそういないのだろう。
まっすぐに水連の池に向かい、スケッチブックを広げる。
9月も後半の、ようやっと秋の声の聞こえる今の時期、水連は公園内に建てられた温室にも見ることができる。しかし杏子は、池でひっそりと咲く和ものの水連の、派手でないながら凛とした美しさが好きだった。水面からそっと上に向いて開く桃色の花弁を見ると、自分も少し空を見上げたくなった。
しかし目の前の景色は、広げたスケッチブックのものとは、もう異なっていた。
水連の時期は終わりかけ、絵の中のみずみずしい花弁とは対照的に、しおれかけた花びらが水面にたれている。
もとい、杏子のキャンバスのなかの水連はもう細部まで綺麗に下書きをされ、これ以上写生として手を加える必要もないものにも思えた。
申し訳程度に鉛筆を滑らせて数十分後、閉館の案内が流れはじめた。

スケッチブックを脇に抱え、植物公園を出て深大寺の中を歩く。
ゆっくりと、自然を感じながら。
そして曲がり角の蕎麦屋に差し掛かったとき、無意識に敏感になった目がある姿をとらえ、心臓がどくんと跳ねる。
ちょうど、背の高い青年が屋外のテーブルを拭いているところだった。
深大寺のなかの、ある蕎麦屋の次男坊。名前は将義という。

杏子がはじめてここに来たのは半年前だった。
東京で花の写生なら深大寺よ、と断言した大学の先輩は、その日のうちに杏子を京王線に乗せた。
ひとしきり大きな公園を案内したあと、「深大寺といえば有名なのは蕎麦!」と連れてきたのがこの蕎麦屋だった。
正直、杏子はそのときの蕎麦の味など思い出せない。
何度思い返しても、うつむき加減にエプロンで手を拭くあの後ろ姿が浮かぶばかりだ。
 心臓の音を隠すように、ただただ味のしない蕎麦を夢中ですすっていた。

それから杏子は、時間の許す限り調布に通い続けた。
美大の忙しいスケジュールと、来るまでにかかる時間のため毎日とはいかなかったが、できる限りの時間を尽くして植物園の門をくぐった。
誰かに言い訳をするかのようにスケッチブックを小脇に抱えて。
そして帰り道にわざわざ深大寺のなかをゆっくりまわり、そっと蕎麦屋の様子を伺うのが習慣になった。
どうせここまで来たのだから、中に入って食事をすればいいのに、その勇気はどうしても出なかった。

彼の働く店は、屋外にもテーブル席が設けられている。
客にどんぶりを運ぶ彼の姿を見つけると、杏子は真っ赤な顔を隠すように向かいの土産物屋を物色した。
店頭に置かれたでんでん太鼓や、蒸篭でいい匂いをさせてふかされている草饅頭を見るふりをして、神経は杏子の背中の後ろで仕事をしているはずの将義に集中する。
そのときの杏子の体は、自分でも驚くほど五感がとぎ澄まされ、背中からでも彼の表情が見えるようだった。

事実、彼は大きくよく通る声をしていて、客ともにぎやかに会話していることが多かった。
常連らしい年配客たちとの会話から得たところ、この蕎麦屋の次男坊で、大学4年生。
将義という名前も、客たちとの会話から聞こえてきたものだ。
長男はサラリーマンをしていて、ゆくゆくは自分が店を継ぐつもりだ。
今は親に許しを貰って都内の大学の経営学部に在籍している。
「店をやってくから経営も必要かなって思ったけど、あんまり難しいこと考えるのは得意じゃないっすね。感覚で生きてるんで」   
そう言って心地よい笑い声を響かせる将義の顔を目の端に捉える瞬間、杏子は嬉しさともどかしさのない交ぜになった、言いようのない気持ちになるのだった。

今日も杏子は、スケッチブックを小脇に抱えてあの店の前を通りかかる。
いつもの場所に、彼は、いた。
今日は外テーブルに客は座っておらず、将義は空のテーブルを一つ一つ拭いている。
丁寧な動作だった。地味な作業にも手を抜かないどころか、真剣な目で店を見つめる姿からは店への愛着がにじみでていた。
思わずその姿に見入っていると、ふいに将義が顔を上げた。視線がぶつかる。杏子は条件反射のようにぱっと目をそらす。
不自然に思われないよう先を歩こうとした、そのときだった。将義がこちらを向き、ゆっくりと近づいて来た。
こちら側の店にでも何か用事があるのだろう。そう信じ込んでいる杏子のもとへ将義はまっすぐに歩いてきて、目の前でぴたっと止まると、長い指で杏子の手元を指差した。
「それ、見てもいい?」
杏子のスケッチブックのことを言っているのだと気づくのに数秒かかった。
「え、はい、どうぞ」
なにが起きたというのだろう。
言われるがままに突き出すようにしたスケッチブックをぱらぱらとめくっていた将義は、あるページで手を止めた。
「これ、きれいだな。水連」
それはつい先ほどまで杏子が取り組んでいた作品だった。
「植物園のおっちゃんが、いつも言うんだ。閉館ギリギリまで絵を描いてるコがいるってさ」
「植物園、行かれるんですか」
「ああ、なにしろこんな近くだからな。それこそガキのころは、動物園か遊園地みたいに通ったよ。」
聞けば将義は生まれたときからここに住み、深大寺と植物公園を庭のようにして過ごしてきたのだという。
「水連、今年もきれいに咲いてたな。でももう枯れてきてるだろ?」
 その彼の口調は、自分の店やそばについて話すときのそれと似ていた。
しばらく杏子の水連に目を落としていた将義は、やがて口を開いた。
「これ、ゆずってもらえないかな」
「えっ?」
「店に飾りたいんだ」
あまりの突然な申し出に、杏子は動揺した。そして次の瞬間に発した言葉には自分でも驚いた。
「コンクールに、出そうと思って」
たしかに友人にはそう言っていつも写生に来てはいたが、正直そこまでの執着はなかった。せっかくのチャンスに何を言っているのだと、自分に呆れる。
しかし将義は真剣な面持ちで続けた。
「そっか。上手いもんな、出さなきゃもったいないわ。じゃあ、コンクールに出して、この絵が戻ってきたら、くれないかな。それまで待つよ。もちろん、お礼もする」
そう言われて、断る理由など思いつかない。
「そんな、お礼なんて。この絵でよければ喜んで。まだ完成してもいませんけど」
「ほんとに?じゃあ、よろしく頼むよ」
切れ長の目がいっそう優しくなり、笑ったのだと気づく。吸い込まれそうな瞳だった。
別れ際、手を振り彼は言った。
「その絵、もらえるのだいぶ先だな。入賞作ってなかなか返ってこないんだろ」

翌日から杏子は、ますます水連にうちこんだ。コンクールまではほとんど日がなかったが、その間ひたすらキャンバスに向かった。そしてどうにか締め切りぎりぎりに、あの真っ白な水連の写生画を完成させた。
今まで理由付けでしかなかったはずのコンクールが、急に大きなものになっていた。
コンクールの入賞作なら将義の店に飾られても恥ずかしくない、などと考えたりした。

ところが、残念ながら淡い期待は見事に打ち砕かれた。
杏子の水連は何の賞にも選ばれることなく、早々に手元に返ってきた。
期待を裏切って自分のもとへ戻った絵を抱え、杏子はただ惨めな思いを噛み締めた。
入賞できなかったことよりも、将義に褒められた絵なら入賞も夢ではないのでは、などと何の根拠もなく考えていた自分がばからしかった。

あの水連がただの一枚の絵になって戻った日、杏子はまた植物園に向かっていた。
悲しみと悔しさの中でぼんやりと、「絵ができたら見せて欲しい」と笑った植物園のおじさんを思い出したのだ。
 
植物公園前でバスを降りたとき、見慣れた顔と目が合った。
「よう。あの絵、どうなった?」
なにより嬉しい存在のはずが、今はまともに顔を見ることができなかった。
「落ちました」 
ようやくそれだけ言葉を吐き出し、抱えた絵に目を落とす。
将義はなんでもないことのように言った。
「そうか。審査員も大したことねえな。じゃあさ、返ってきたならゆずってくれよ」
そう言って腕を伸ばす将義に、杏子はあわてて後ずさった。
「だめです。そんな、落選した絵なんてあげられません。飾ってもらう資格ありません」
将義は杏子の剣幕に少したじろいだが、しばし黙ってから静かに言った。
「もらえないなら、交換ならどうかな」
そして、杏子を促してずいずいと歩きはじめた。
一瞬あっけにとられたが、杏子もあわててそのあとをついて行った。

着いたのは将義の家である、あの蕎麦屋だった。
いつも前を通っていたが実際に入るのは二度目だ。
将義は奥から段ボール箱を出してくると言った。
「この中で好きなものと交換。」
何がなんだかわからないまま、杏子は言われるがままに箱を見た。でんでん太鼓や赤駒、だるまなど小さなみやげ物がたくさん入っている。
すぐには気づかなかったが、それには見覚えがあった。
それは杏子が将義の店の前を通る際、いつも背を向けて物色していた土産物屋の土産たちだった。
「いつも、見てただろ。何が欲しいのか、わかんなかったから・・」
ふと顔を上げると、照れくさそうに横を向く将義の姿があった。心なしか頬が染まっている。
「結局、どれが欲しかったの?」
将義はばつ悪そうに頭をかいている。杏子は見上げるほどの位置にあるその顔をまっすぐ見つめ、静かに言った。
「あなたです」
 高いシルエットの姿の向こうで、夏の終わりを告げる蝉の声が、力強く鳴り響いていた。

(了)

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<著者紹介>
EY(東京都調布市/23歳/女性/会社員)

何だか落ち着かぬ様子のボクはさっきから何杯もお茶を飲んでいた。頼んだあんみつには手をつけず、何度も自分の手鏡で髪型を気にし、その時間が来るのを待っていた。
 ボクよりはるか年上、もう二十歳になったであろうか、そんな女性にボクは恋をしていた。原田夏海。ボクが幼い頃によく遊んでくれた、まるでお姉ちゃんのような人だった。一人っこであまり人と接するのが得意でないボクにそっと手を差し伸べてくれた彼女、いつも優しくて元気いっぱいで、そして笑顔がきれいで。ボクは彼女が大好きだった。
 やがてボクは東京から地方へ引っ越し、彼女との連絡もとれぬまま何年か経った。離れてから気がついた、ボクは彼女を愛してるってことを。きっとそれは初恋だったんだ。そして今も、思いは変わらぬままボクの胸に燃え続けている。
 中学三年生、一番大事なこの夏の時期にボクは彼女に会うためにこの町へ帰ってきた。久々の電話での会話、ダメもとで誘った彼女とのデートがもうすぐで現実になる。いつもの待ち合わせ場所、大師茶屋に午後一時。ちょっと懐かしい集合場所だ。ボクは一時間も早く着いてあれこれと考えていた。今日、思いを伝えなければきっとボクは一生後悔したまま生きていくことになる。ボクは決心した。

 告白しよう。

 そんな勇気が自分にあるのか定かではないが、もうやるしかないんだ。好きだって、その一言が言えればボクはそれだけでいい。後はどうなったって構わない。
 店の外は多くの客で混みあっていた。浴衣を着たカップルがやけに目につく。ボクも今日は張り切って自腹で買った涼しげな色をした浴衣を着た。下駄は百円ショップ、髪の毛は朝一番で美容室でカットしてもらった。準備は万全だ。後は心次第。
 ふと、外を歩く人の中に気になる人を見つけた。色鮮やかな浴衣に、髪を上に結わき、うっすらと頬のあたりに化粧を施した若い女性。どこか見覚えのある、くりっとした瞳。まさか。ボクはその女性をよく観察した。間違えない。夏海さんだ。でもなぜ?まだ約束の時間まで一時間以上ある。ボクと同じことを考えたのか?
 あれこれと考える間もなく、一人の男が夏海さんの前に現れた。ボクは胸が急に締め付けられたような感覚に襲われた。夏海さんと同い年くらい、ボクより全然背が高く、キリリとした顔立ちに今時の男らしい格好いい浴衣を着ていた。ボクは席を立ち上がった。夏海さんと男は会話をしながら、大師茶屋の前を去っていった。ボクは泣き出しそうな思いをぐっとこらえ、店を出た。
 来た時より人が多い。二人が動きだしてすぐ店を出たはずなのに、すでに二人を見失いそうになった。こんなんじゃ目で追っても無駄だ。ボクは瞼を閉じた。人の声、靴の音、蝉の合唱、風の歌。聞きとるものはただ一つ、夏海さんの澄んだ声。聴覚を集中させ、溢れ返った音をかき分けて夏海さんの声を探った。
「・・・それでね」
 見つけた。この道の先、きっと二人は深沙大王堂のある方向へ向かっているはずだ。ボクは気持ちを抑えきれず、とうとう走りだした。
 声を追い、いつの間にか深沙大王堂を過ぎて、趣ある道、緑のアーチを進んで行くと、万霊塔の近くのベンチにちょこんと座る二人を見つけた。ボクは息を切らしながら、二人の会話が聞こえる少し離れた所で気づかれないような突っ立っていた。
「でね、四月にある花祭りなんかすっごいの」
 どうやらこの深大寺で行われる祭りの話をしているようだ。花祭りは確かにボクも好きだった。小さな時は一つの祭りも欠かすことなく、二人でよく行ったものだった。
「そっか。じゃあ来年のは行ってみようかな」
 男が言った。なんて味気ない応答なんだろう。格好はよくても意外と不器用そうな印象だ。彼のどこが好きなんだ?そもそも彼は夏海さんのいったい何なんだ?頼むから、これ以上ボクを苦しめないで。
 二人はベンチから立ち上がり、再び歩き始めた。ボクはその後を音もなく追った。
 道の左側、男が右で夏海さんが左に並び、互い違いにカランコロンと下駄を鳴らす。たまに二人のその音が重なると、ボクは息ができなくなる。道の右側、二人から数メートル離れた所を歩くボク、そのボクを必死に追いかけるボクの影はきっと脆く、隙間だらけの闇であろうとボクは見向きもせずに決めつけた。木陰と重なり、消えた影の足跡をむなしさが辿ってついてくる。
 小川に掛かる橋、夏海さんはその上から流るる水の輝きを見つめていた。ゆっくり、そして静かに川は変わることなく涼しげな音を奏で続けた。さらさらと、それは夏色に染まり、光を跳ね返して夏海さんの肌を照らし出すと、ボクはその光にさえ嫉妬した。好きだという気持ちが過剰に、何もかもを否定しようとする。そんな自分が嫌だった。もう諦めるべきなのかもしれない。初めから告白なんて無理だったんだ。二人の後をついてくること事態、おかしなことだったんだ。
「きれいだねー、水。やっぱ夏の川って見てて楽しくなってくるよね」
「そうだね。でもそれを見てる夏海こそ、楽しく見えるよ」
「それどういう意味よー?」
 いたずらっぼく笑みを浮かべながら、夏海さんは男の顔を見つめていた。男は夏海さんをチラと見、川に視線を移した。
「そのまんまの意味だよ」
 まるで恋人同士のようだ。夏海さんの、男に見せるその笑顔があまりに眩しすぎた。こんなキザな男に、何の取り柄もないボクが勝てるはずがない。しかも夏海さんにとってボクは弟のような存在でしかない。ただそれだけの感覚しかきっとないはずだ。ボクはこんなにも愛でているのに。ボクにとっての夏海さんは、もう面倒見のいいお姉さんじゃなく、一人の恋人なんだ。たった一つの、大切な宝なんだ。この気持ち、伝わって・・・

 好きだ。

 二人は山門をくぐって本堂に向かって行った。ボクは二人のいなくなった橋の上でしばらくたそがれた。今ならこの時間はいくらあっても足りない。できれば気のすむまでずっとこの流れを眺めていたい。できれば、ずっと。
 本堂はどこよりも多く、人々が集まっていた。もうボクは完全に二人を見失っていた。それでも二人がどこに向かうか、それだけは承知だった。ボクは重い足取りで人の流れに逆らってひたすら前進した。
 本堂、賽銭箱に飛び込むお金の放つ高い響き。両手を重ね、心で囁く小さな言葉たち。ボクはそんなのを目にしながら、なんじゃもんじゃの木の木陰で休んでいる二人を見つけた。ボクは自分の腕時計に目を向けた。もうまもなく一時、約束の時間だ。ボクはもうあの店に戻る意味をなくしていた。あそこに何が待っているのか、ボクには分からなかった。
「夏海さ」
 改まった声で男が言う。夏海さんも真面目な表情で男を見る。
「俺、今日短い間だったけど、デートできてめっちゃ嬉しかった・・・で、そのぉ・・・」
 ぎこちなさげに男は言葉に詰まっていた。ボクは誰かが告白しようとしている所を初めて見た。生唾をごくりと飲む。足が震えてまともに立ってなどいられない。
「俺・・・その・・・夏海と一緒にいたいんだ。これからも、ずっと。だから、その・・・ダメかな?」
 間接的に言い切った男は顔を赤らめながら答えを待った。はっきりしろよ。好きなら好きって、しっかり伝えなきゃ、お前の目の前にいる恋人が気持ちよく答えが出せないじゃないか。
 夏海さんは困った様子で視線を地面に落としていた。少し涙目の夏海さんの瞳が瞬きをする度にキラリと光る。
「私、実はね・・・すごく大切で、大好きな人がいるんだけど。それはね・・・」
 夏海さんが男の不安に満ちた顔を見た。夏海さんの唇が震えている。二人の鼓動がそのままボクの胸に届き、連動する。ボクは我慢しきれず、その場から逃げ出した。嘘だ。そんな。嫌だ・・・嫌だ!
 ボクは泣いた。泣いて、走って、石につまずきながら、それでも走って、走って・・・大師茶屋の店の前で立ち止まり、その場で泣き崩れた。愛していた。大好きだった。夏海さんが好きで好きで・・・夏海さんがいてくれたから、どんな苦境も乗り越えられたのに・・・もうボクには夏海さんが見えなくなってしまった。

いないんだ、ボクには夏海さんが。
 
通り過ぎゆく人々の中に、ポツリとしゃがみこんでいるボクはきっと邪魔という言葉以外の何ものでもないであろう。邪魔なものは除外される。それが世界の掟だ。ボクは捨てられ、どこか誰もいない所に屍となって放置される。そういう運命なんだ。
 ふと、ボクの頭の上、温かくて柔らかいものがボクを撫でていた。ゆっくりと顔を上げる。ぼやけた霧の中、確かに目に映る夏海さんの姿。なぜ?なぜここに?こんなに近くに夏海さんがいるのにその実感がなかなか沸いてこない。好きじゃないのか?わざわざ夏海さんが来てくれたんだぞ。伝えなきゃいけないことがあるんだろ?言えよ。
 必死に唇を動かしているのに、言葉が喉に詰まって出てこない。言いたい。伝えなきゃ。ボクは大げさに口を動かして、せめて夏海さんに伝わるように言葉を表した。

 す、き、だ。

 それを見た夏海さんはボクと同じようにわっと泣き出し、ボクを抱いた。しゃがんだまま、苦しいだなんて感じもせずにボクは夏海さんに身を委ねた。
「おかえりなさい・・・私の大切な人」
 ボクの瞳からまた涙の粒が溢れた。夏海さんはボクの帰りをずっと待ってくれていたんだ。こんな幸せはない。こんな素晴らしい人はいない。
 ボクは夏海さんを一生守っていこうと、夏海さんを優しく抱擁した。二人の鼓動は不思議と重なっていた。

 気のせいだろうか。すぐそこの木の影、あの男が微笑みながらこちらを見ていたのは。一つ瞬きをしてみたら、姿は一変、それは人間ではなくなった。そしてボクは、分かってしまった。
 その一言を言わせたのは、ずっとボクらを見守っていた、縁結びの神様だってことを。

(了)
 
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<著者紹介>
小田切 おすた(東京都町田市/18歳/男性/学生)

「恋に燃えたい、燃えてみたいっ!」――。
 鐘の余韻が早春の乾いた空気を揺らし、烏の鳴き声と交錯して遠くへ流れていく。池に浮いた枯葉が一つところに溜まって動かない。山門前の出店では、そばまんじゅうを蒸す湯気が幟旗を包み、まだ時の流れが遅く、温もりが恋しい季節を実感させる。出店に並んだ達磨の赤が、色の乏しい参道で賑やかだが、白目を剥いたその姿は、どれもが目玉を入れてくれるのを待ち望んでいるかのようだ。刹那、池の鯉の跳ねる音が〝動〟を感じさせた。
「おっと危ない! 踏まれちゃうところだった。こんな日に出てくるんじゃなかったかなぁ。うぅ、怖ゎ...だけどなぁ、オイラだって彼女見つけたいしよぉ」
 人混みを器用に交わしながら、独り言を呟いてみる。流されるように歩く人たちからは、誰も返事などあろうはずもない。
「オイラの初恋、どうせ手ほどきを受けるなら、ちょっぴり歳上がいぃな。熟女はダメさ。お袋みたいな女じゃ、何だか罪深くっていけない。そうだなぁ...オイラより二つ、三つ上が理想だよね。ウフッ」
 いわゆるナンパというヤツである。しかも相手を絞り込んでいるようだ。しかし世の中そんなに甘くはない。ジグソーパズルのピースが一発でピタリと合うことがないように、理想の異性が見つかるなんて確率は極めて低い。多くが妥協し、ピースを強引に押し込んでいるのだ。あるいは、その先の目的さえ達することができれば、それで良しと最初から相手を選ばない場合もあるが。
「あっ、お色気光線を飛ばしてくる女がいる。ダメダメ、あんなションベン臭い小娘なんか、オイラはゴメンだね」
 聞こえたのか、ションベン娘は睨み返している。
「バ〜カ! フンッ、なんだぁ? アッチの白粉臭い年増は。お高くとまってやがる。あの器量で気取るとは、チャンチャラ可笑しいや。こっちもバ〜カ!」
 年増も聞こえたようだが、好意ととったのか、ニコニコしている。
「おっ!? この色っぽい声は...いたーっ!! あの艶はまさしく理想の歳上だ。きっと二つ違いだぞ。さぁ、どう攻める...だけどなぁ...フラれたらどうする...やらずに後悔するより、やって後悔したほうがオイラの生き方には合っているんだ。いくぞ...だけどなぁ...さっきの小娘も年増もこっちを見てるしよぉ...無視されたらみっともねぇよなぁ...」
 意外と女々しい。
「偶然を装えばいぃんだな。さりげなくすれ違って...そう、さりげなく」
 さぁ、気持ちを高めて。
「あ、あ、あのぉ...」
「アタイに何か用?」
「い、いぇ(まさに二つ歳上。フェロモン大放出だぁ〜!)」
「用がないのなら、ちょっと失礼」
「ま、待ってくださ...」
「まだ何か?」
「うっ!」
「あらイャだボク、鼻から血が垂れてますよ」
 おっと、若さが出た。
「あ、いぇ、これはさっき生肉を食べたもんですから、そのぉ」
「まぁ、朝から豪勢ね」
「よ、よかったら一緒に食べませんか? 生肉」
「魚? それとも鳥?」
「さ、魚です」
「ふ〜ん、生魚ねぇ」
「は、はぃ」
「やめておくわ。じゃぁね、そこ、どいてくれる? ボク...というより坊やのいるところ。向こうへゆきたいの、アタイ」
 子供扱いどころか、赤ちゃん扱いだ。さてどうする?
「ぼ、坊や、ですか」
「違って? だってぇ、男の匂いがしないんですもん。ひょっとして...」
「オ、オイラは男です! だからこうしてお姉さんに...」
「アタイに?」
「そうです。お付き合いを...」
「オホホ。可愛いこと云うわね。ママゴトはもういぃわ。アタイはお腹空いてるの」
「だから、魚を」
「魚はアタイ、食べないの。あの生臭さが嫌いなの!」
 もう作戦を変えなさい。魚が餌じゃぁ釣れません。
「じゃぁ鳥だったら...」
「オラオラ! 坊やにお嬢ちゃん、そこでさっきから何乳繰りあってるンでぇ」
 ほら、もたもたしているから、横恋慕が入った。
「お嬢ちゃんって、ひょっとしてアタイのこと?」
「他に誰がいるってんだぃ!」
「失礼ね! この子を坊やと呼ぶのは分かるけど、アタイはお嬢ちゃんじゃないわよ」
「お嬢? ハハッ、確かに違った」
「違う? じゃぁ何よ」
「安っぽいズベ公だな」
「し、失礼ねっ! アタイがズベ公なら、アンタはゴロツキじゃない!」
 坊やはズベ公とゴロツキの罵り合いに加われず、オロオロするばかり。
「ゴロツキとはまた云ってくれるねぇ、ズベちゃんよぉ」
「ンまぁ〜! 憎たらしい!!」
 坊や、ここは割り込むべきよ。
「あ、あのぉ〜」
「なんだ? 坊や」
「何よ、坊や」
「その女性はオイラの...」
「女だとでも云うのかぃ?」
「ちょっとぉ、冗談やめてちょうだいよ! アンタみたいなオシッコ臭い坊やと付き合うだなんて」
 坊や、負けるな。
「オイラだって彼女探しに来てるんだぃ!」
「坊や、だったらアッチにいる、もっと小娘にしときな。お似合いだぜ。このズベちゃんはオレと付き合いたいんだとよ」
「ちょっと! いつアタシがそんなこと云ったのよ」
「分かってるって。男欲しいってぇ匂いが出まくってらぁ。別に相手してやっても、いぃんだぜ?」
「や、やめてよ! 気持ち悪い」
 坊や、ココで男を見せるの。
「よ、よせよ、嫌がってるじゃないか!」
「坊や、声が震えてるぜ」
「や、やるか?」
「相手になってやってもいぃぜ」
「(...ココじゃぁ場所が悪い)」
 坊やは走った。
「おっ! なんでぃ」
 ゴロツキは、ガムシャラに追いかける。
「そっちから喧嘩売ってきながら、いきなり逃げるのか?」
「逃げるんじゃないやぃ。かかって来〜ぃ」
「そ、そんなところをくぐりやがって!」
 坊やは垣根を抜け、続く太めのゴロツキもどうにか抜け出した。さらに人ごみを抜け、塀を駆け昇った。
「意外とすばしっこいじゃねぇか」
 坊やは塀の上を器用に走る。
「こんな細いところを逃げやがって」
 坊やが走ってきたのは駐車場だった。
「ハァハァ...坊や、ココでやろう、ってぇのかぃ。OK。そう唸ってばかりいねぇで、いつでもかかってきな」
 これが坊やの作戦だった。息の荒くなったゴロツキに対して、坊やはさすがに若い。
「いくぞ!」
 後ろに回った。
「速い! クソ坊ずめ、どこ行きやがった」
「そこだ!」
「痛てててッ! 耳に噛み付きやがったな。痛ッ! 今度は背中を引っ掻きやがった」
 坊やにとっては、若さこそ武器だった。
「堪らん!」
「坊やなんて呼ばせない!」
「分かった、分かった! 勘弁してくれ――」
 ゴロツキが逃げたのを見届けたのか、ズベ公がゆったりと、そして腰を振りながら歩いてきた。
「意外と強いのね。気に入ったワ」
「フンッ! どうってことないやぃ」
「でも足を怪我してるわよ。アタイが舐めてやる」
「やめてくれよ、自分でやるから」
「遠慮しないの」
 坊や、まんざらでもないような。
「強い男となら付き合ってもいぃのよ」
「フンッ! なんだぃ、今さら」
 ちょっと強気の坊やである。だがそこはズベ公、恋のベテランだった。
「その強がった態度が可愛いわね」
「くっついてくるなよぉ。そんなところを舐めるなって。よ、よせったらぁ」
「ウフッ、可愛いわ、坊やったら。アタイが〝女〟を教えてあげるから、さ、こっちへいらっしゃい」
 呆気なく陥落した。二匹の猫は、お尻を擦り合わせながら藪の中へと消えていった。早春は、深大寺の猫にとっても恋の季節である。その山門前で、二匹の恋の行方を追う二つの目があった。深大寺門前の出店に並んだうちの一体の達磨である。恋の成就のお礼のためか...と思いきや、どうやらそれは鯉の鱗だった。

(了)
 
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<著者紹介>
佐竹 喜信(東京都新宿区/46歳/男性/会社員)

八重はときどき熱い夢を見る。
今日のも変わった夢だった。いつの時代か分からない大昔だ。深い森の奥から突然大軍が攻め寄せる。甲冑の赤い色が鋭く光る。大振りの鉄剣をかざした敵は強く、味方は次々と倒される。敵は土地と水と女を奪いに来た。逃げろ。音は何も聞こえない。身体の芯が震える。気がつくとひとり荒涼とした高台に取り残されていた。そのときだ。小型の馬に跨った単騎の若武者が、遠くから自分を見ていた。はるか向こうだ。でも男の顔がすぐ目の前。なんて美しい顔、と思った瞬間、くらっとなって目が覚めた。・・・・
 今日のバイトは忙しかった。ネット販売の深大寺蕎麦がよく売れた。パソコンでの注文処理と、紹介ページの更新。やっと一息つく。昔からこの土地は水が豊かで、早くから開けた。今でも細い清流が木立の中に幾筋もある。あれは古代からの名残り。森はもうないが、雑木林は残っている。太く古い樹木が多い深大寺界隈を、八重は気に入っている。ことに植物園の裏手の街路樹の道。紅葉の季節はお気に入りの場所だ。深大寺までのわき道から望む八雲台の方角には、もっと大きな森の名残りがある。一度行ってみたいと思っていた。
 ・・・友達からメールが来ている。合コンの誘い。行く気になれなかった。素敵な誰かに出会える可能性はゼロ。行ったら行ったで、お酒や食べ物はそれなりにおいしいけれど、何か新鮮なことが起きる期待はない。八重なんて古風な名前だね、から始まるパターン。へぇー深大寺に住んでるの、府中の方だよね。違うよ調布だよ。そして、結局、それだけ。・・・
 熱い夢を期待するようになった。
 左右に敵と味方が向かい合っていた。周囲は深い森で、真ん中がぽっかりと空いた巨大な円形競技場。どちらの軍勢も動かない。敵は圧倒的に組織立っている。甲冑や武器が斬新で統制の取れた隊列。味方はぼろ毛皮を着て棍棒を構えただけの雑兵ばかり。必死だから迫力が熱気になって伝わる。突然、鐘が鳴り渡った。兵士の手元の銅鐸型の楽器から一斉に音が放たれたのだ。それが突撃の合図。あとは入り乱れての白兵戦。人間はこんなに簡単に殺されるのか。仲間の血の流れが細い川を作っていく。血が透明になる。最後の叫びは同じ言葉で、蹂躙される屈辱と敗者の恨みが、渦巻いて、森に吸い込まれていった。・・・
 あの銅鐸は本当に楽器だったのだろうか。
八重は祭りの準備を手伝いながら思った。金管と打楽器のミックス音。不思議なリズムで腹の底まで響いた。あの音をもっと聞きたい。
 祭りは、有志が集まり、新作の盆踊りがメインの地元密着型。テーマは「ロハスな昔を思い出そう」。屋台も出て結構賑わう。知らない男にまた声をかけられた。この平凡な田舎顔の責任ではないけれど、もっとましな奴はいないのか。・・・
船に乗っていた。大海原だ。いや大河か。船団は大船が5隻。先頭の船が一番豪華。船上の飾り物はまるで祇園祭の山車みたいだ。
 自分はかしづかれている。大勢の女官が話している言葉は日本語ではない。なのに意味が分かる。どうやら自分はどこかに嫁ぐ途中らしい。えっ、結婚願望でこんな夢を?・・と思うということは、やはりこれは夢だ。
 かすんでいた陸地が見る間に迫った。神輿のような乗り物に乗せられて、わっしょい、わっしょい、浅瀬を岸辺まで運ばれる。あ、木陰に隠れたあの影。あれは例の若い男?・・
 
 大学の同級生だった高木君からいきなり電話があった。会いたいという。何年ぶりだろう。そんなに親しくもなかった人。ま、いいか。会うくらいは。深大寺にお参りしたいという。わけが分からない。
 境内から懐かしげに東の方角を眺めて、高木君は今外国にいるのだと言った。なんとなく小汚いし陽に焼けてるし、きっと先進国じゃないなと思って聞いてみた。え、パリ?うっそー。ほんとにそんなんでフレンチかよぉ。ヴィトン、エルメス、ルーヴル・・と言葉を追って想像していたら、違っていた。インドネシアのバリ島に暮らしているのだそうな。なんだ、バリね。
 何のために?・・彼は答えなかった。第一、なんで今頃?。なんで私に?・・・
 質問が次々に浮かんであやうく聞き始めるところだった。不思議とこの人はめんどくさくない。でも聞くのはやめた。彼の方もあまり自分のことは話さない。しょうがないやつ。自分から呼んでおいて。あげくに、何食べる?だってさ。フランス料理くらいご馳走してみろよ。付き合ってあげてるんだから。
 本当にフランス料理に連れて行かれた。高木君が一生懸命話したのは、バリの3大神のこと。シヴァにブラフマにヴィシュヌ。破壊と、創造と、保存の神様。それがどうしたの?
 バリ島のバロンダンスは正義のバロンと魔女ランダの戦いだ。魔女の方が強いから大概バロンが負ける。でもたまに勝つ。2勝8敗くらい。神様同士だから、死んでも生き返り、勝ったり負けたりで、結局戦いはエンドレス。永遠なのだそうだ。で、3つの神様は、要するに破壊して創造してそれを保存して、これも繰り返しでエンドレスだって。つまり高木君によれば、これが世界の秩序と運命を表している。正義は大体が負けても2回くらい勝つから希望を持ってもいいんだって。へーぇ。
 本当に久しぶりのフランス料理はおいしかった。夢に出てくるのかしらと思ったが、しばらく夢は見なかった。・・・・・
 
国は乱立し、大国は砦と館を囲う城壁と防御の水壕を巡らせた。小国は物見櫓の周囲に集落を円環状に配置した。国は奪い、奪われ、征服し合い、大きくもなり、滅びもした。
 自分は先住民の皇女だ。はるか西域で鉄と水を支配した強国が今度の相手。負け戦になる。決戦場は森の中の高台。夥しい死体が丘を埋め尽くすだろう。鉄の鍛冶場を奪われれば武器も農具も作れない。水場を奪われれば暮らしが成り立たない。敵の使者がやってきた。すべてを差し出し国を譲れという。和睦の条件に皇女を欲しいとはっきり告げられて、側近たちは色めきたつ。私が相手の王のもとに下れば、みな殺されずにすむのだ。使者は祭儀の神官の姿で、これは国と国の結びであるという。私は、血なまぐさい鬼の姿を思い浮かべて怖気づいた。結びの神官が言う。いや、王はそれは若々しく、美しい顔立ちをされている。あなたを決して不幸にはしない。いやじゃ、いやじゃ、信じるものか。叫んだ声は声にならなかった。・・・・
 夢から醒めて汗ばんでいたのは初めてだ。
 今日、高木君を空港まで見送りに行くかどうか、迷いながら眠ったせいだ。どっちでもいいようなことを彼は言っていたが、バリ島に戻ればしばらく会えないね、と言ったのは、やっぱり最後に会いたいのだ。
彼が韓国人だったなんて、初めて知った。学生時代は誰もそんなことを言わなかったし、全然違和感はなかったし、とにかく彼は日本人だったもの。就職とかで色々あったのかも。
 最後のデートは、植物園の桜の木の下で、この森がもっと深くて大きかった時代ならよかったね。高木君はそう言った。どういう意味? それって、告白?
 今まで近寄れなかった。間にたってくれる友達もいなかった。自分から声をかける勇気はあったが、そうしたとたん、君に好きになってもらおうと、僕は必死であらゆる努力をしただろう。それで、もし君が僕を好きになってくれたら、それは最高だけれど、それは僕が君を無理やりそうさせたのだと、一生引きずるだろう。だから、何もできなかった。
 え、え、え、・・・なにそれ。ややこしすぎるよ。理屈っぽいよ。なんでもっとストレートに。・・・
八重は空港に行かなかった。
・・・・
花火があり、蕎麦祭りがあり、大晦日に初詣、だるま市・・・また年をとった。そして、やっと、久しぶりに夢を見た。
私は女帝で、大きな国を統べている。森は豊かに広がり、高台に遠い日の戦さの記念碑が建った。神々は死に、奉られ、やがてもっと大きな戦いのときが迫った。
私は寝所で、汗ばんだ肌着を肩から脱ぎ、相手の男の前に立っている。男の顔は影になって見えない。決断のとき。私がこの男を刺すか、あるいは、抱きしめるか。それでこの国の運命が決まる。新たな時代を拓くためには、いっそこの国と、私自身もろともを、この男のもとに差出そうか。・・・
不意に音が始まった。最初は鐘のような金属音。そして、低く太く、竹筒の空洞を渡ってくる地響きが腹に届く。私は落ちていく。舞いながら空中を飛ぶように、落ちていく。
・・・・
目が覚めたとき、開けたままのパソコン画面がちかちかしていた。
エンタキーを叩いた。画像が復活してくる。バリ島のどこかの村の光景。大勢の人が集まって、向かい合った演奏団の競演を聞いている写真。ジェゴグという太い竹筒のガムラン楽隊が、村の代表で競いあう演奏。その脇に写っているのは、間違いなく高木君だ。
昨夜、偶然、この画面に行き着いたのだ。

会いに行こう。八重は思った。
そうだ。会いに行こう。でも、その前に、深大寺でお守りを買わなければ。確か根付の鈴のような、小さな鐘の形をしたのがあった。あれを買おう。身体の中で音が始まりそうだ。これは森の音だ。昔からこの地にあった音。森と水が育んだもの。鉄と、戦いと、人間の血が、聞いてきた音だ。
八重は、その音を聞きに行くのだと決めた。

(了)
 
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<著者紹介>
八木澤 峻(東京都調布市/51歳/男性/会社員)

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