夏の夜は、あちらこちらで真夜中過ぎまで宴がひらかれているから、そのざわめきが空気に溶けて伝わるのか、中学生でその宴にはまだ加われない私たちもなんだか落ち着かず、夕食が済んでも遊び足りない。
 わぁきれいとカオルが華やいだ声を上げた。お寺に続く道沿いに大きな七夕飾りが並んでいて、色とりどりの短冊が、しゃらしゃら夜空に揺れている。左右から斜めに伸びた七夕竹はてっぺんが交差しトンネルのようになっている。ヒカルちゃん、カオル、私の三人は、ソーダ味のアイスをかじりながらそれを見上げている。小さな風に揺れて翻るピンク、水色、白、黄色、ところどころ金色、銀色。ときどき風鈴の音が聞こえてくる。口いっぱいに頬張っていたアイスのかけらがやっと溶けて、冷たい息をスーハーしながら、上げていた顔を元に戻すとヒカルちゃんがいない。
「ヒカルちゃんどこ!」
ヒステリックな声に、カオルがビクンと振り返る。反射的に出た声のきつさに自分でも驚いていた。ゴメンゴメンと声がして、七夕トンネルの奥の闇から、白いTシャツがそこだけ光っているみたいに近づいてきた。
  ヒカルちゃんは私のお兄ちゃんで、もうすぐ15才。カオルと私は今年13才。たった2才の差だけどヒカルちゃんは随分と大人。私とカオルはどちらかというと内気でぼんやりだけれど、ヒカルちゃんは活発な親分タイプで水泳部のエース。ヒカルちゃんは、私とカオルを両脇に抱えるように肩を組む。三人でいると私たちは無敵になる。
 
  リコの家は大家族で、居間には大きな座卓が二つ並んでいて、いつでも必ず誰かがそこにいる。それは、おじいさんの囲碁友達だったり、おばあさんの三味線仲間だったり、おばさんの書道教室の子供たちだったり。庭に面した窓と障子はいつも開け放たれていて、大きな扇風機が二台ぶぅーんと回っている。いい風がいつも吹いているのは、ドラマで見たお風呂屋さんの脱衣所のようで、みんなさっぱりと気分のいい顔をしている。
  二階に上がってすぐ右がヒカルちゃんの部屋、そこはインコのピィとチィ、亀のミントさんの部屋でもある。黄色のピィと水色のチィ、籠から出すとぱたぱたと飛んでヒカルちゃんの肩にとまる。ピィが右肩チィ左肩。ピィが僕の手にやって来た。手の中に収まる小さなものが、か細い足で僕の指をしっかり掴んでいる、うわぁ、なんだろうこのヒトは...。ピィはしばらく眠そうにしておデブみたいに羽を膨らませていたけれど、突然羽ばたくと、嘴で僕のシャツを引張るボタンを齧る髪を掻き回すの大暴れ。気が済むとヒカルちゃんの肩に戻り、お利口そうに首を傾けた。
 もう一名の住人、亀のミントさんは、ピィやチィが大騒ぎでも常にマイペースに静けさを保っている。ミントさんは昨夏この家にやってきた。庭に自生しているミントの繁みからもぞもぞと現れたのでミントさんと名付けられた。ヒカルちゃんは「ミントさんは風格がある、泳ぎが上手い、オレの師匠である」とミントさんを敬っている。僕も何となくミントさんは偉いと思う。孤独でいて満たされているというか...。内面を見つめる目をしているから。最近、僕が作るレース編みや刺繍の作品は、小鳥と亀の模様ばかり。
 
 私の将来の夢。それはカオル邸のようなお家で暮らすこと。家具はすべて白かベージュ。透けるカーテンはたっぷりドレープをとってウエディングドレスのように。門に絡まる薄ピンクの野ばら。数枝をちょきんと切って小鳥模様のティーカップに小さく生ける。白いスリッパには銀の糸で王家の紋章風の細やかな刺繍を。ららららーん。嬉しくなって、私はピィとチィみたいに両腕をぱたぱたさせ、白いお部屋を飛び回った。
「リコ、妖精になったの?」
「うん、ひーらひら」
「初めて会った時もリコ妖精みたいだった」
「えー」
「あの時、植物園のこんもりしたお化けすすきのところで僕、座って編み物してたでしょ。イヤホンで音楽を聴いていたから気配に気付かなくて。顔を上げたら女の子が目の前に立ってて。わ、お化けすすきの妖精出た!って。逆光でシルエットだったし」
お化けすすき...。まぁ、いいか...。
 ヒカルちゃんも、この小さなお城にやって来たことがある。カオルが好きな海のドキュメンタリー映像を見に来たのだった。夜の黒い海、白い鯨が波間に現れては消える。七夕トンネルの奥に一人で行っちゃったあの時のヒカルちゃんみたい。白いTシャツが暗闇に溶け残ったように浮かんでいた。鯨は、夜の海に飲み込まれるように見えなくなった。映像に見入っているヒカルちゃんは、窓辺の淡い光で髪や細かな産毛が金色を帯びて、仄かに発光しているかのようだった。その横顔をカオルはじっと見つめていた。「鯨はすごいね、鯨みたいに泳ぎたいなあ」というので「来週の水泳大会、鯨になれたら優勝だね」と返すと、ヒカルちゃんは方頬だけあげる不敵な笑顔でVサインした。

 僕とリコはプールサイドでヒカルちゃんの登場を待っていた。空を横切るちぎれ雲がプールに影を落とす。暑さと跳ね上がる水と歓声、選手たちと応援団の熱と緊張、エネルギーの充満したところにいると、視覚や聴覚の遠近感が狂う。大会最後のレース、ヒカルちゃんが第四コースに現れた。鯨になる、鯨になった、というヒカルちゃんの小さなつぶやきが聞こえた気がした。バーンというスタートの合図、選手たちが一斉に水に飛び込む。他の選手たちが水をバシャバシャ叩いているのに、ヒカルちゃんはなかなか水面に現れない。長い潜水、浮上したのは他の選手たちより身体半分進んだ位置だった。観客席から拍手が上がる。真直ぐ鮮やかに水を切っていくのが、滑らかな生地をたちまちに裂く銀色のハサミのよう。雲が流れ去り、強い日差しに水飛沫がきらめくと風景が幾重にも滲んだ。
 
 八月のある日、ヒカルちゃんは海に行き、それから戻らない。
 鯨なら戻るべきは海なのだろうけれど。
 
  夏休み最後の日曜日、私はそういえばと、開放されている学校のプールに出掛けた。夏の終わりの飴色がかった濃い日差し。スコールみたいな蝉の声に地面がぐらりとする。一緒に来てくれたカオルは水には入らず、プールサイドで日傘で読書。終わりの夏の午後、監視員の先生と私たちしかいないプール。
  息を止めて水に潜ると蝉の声は消えて水色の明るい静寂が訪れた。水中では陽光の形が見える。光の矢が太陽から届いている。あれはいつの記憶だったか、廃墟になった教会に、割れた窓から幾筋もの光が斜めに差し込んでいた。時間が止まった世界。
  どぼんと鈍い音がして、水中に大きな泡がたった。そこから誰かが近づいてくる。あれ、カオル?黄色いシャツがめくれ上がって金魚みたい。水中で向い合い、私たちは同時に水から顔をだした。
「リコ!大丈夫!」
「え」
「だって沈んでたじゃん!」
ピィーッと監視員の先生が笛を鳴らし、大丈夫かーと駆けてくる。慌てて水から上がるとまたすごい蝉の声、地面が斜めになる。風景が目の前から崩れて消えていく。カオルと先生の顔。めまいは一瞬で、元の風景が高速で再構成されていく。だけど再構成されたなら、それは元の風景とはいえないな。
 カオルは先生が体操着を貸すというのを丁重に断って、ずぶ濡れのまま帰った。そういうドラマチックなのがカオルは様になる、なんて、ごめん、ありがとう、カオル。
 
  その日はいつにもましてリコの家は賑わっていた。従兄弟のサトシさんが、東京での受験のため、しばらく二階の部屋に下宿することになったのだ。サトシさんが使うのは二階のピィとチィとミントさんがいる部屋で、昔はおばさんのお兄さん、つまりリコの叔父さんの勉強部屋だったそう。そのせいかさっぱりとしていて、男の部屋という感じ。ピィとチィ、ミントさんの三名はリコの部屋に引っ越すことになった。
 
  うわぁ、という真夜中の叫び声で一家全員、サトシお兄ちゃんのところに駆けつけた。電気をつけると、布団の上に黒っぽい塊。
「あれっ!ミントさん、私の部屋にいたのにー!水槽から自分で出てここまで来たの?」
顔面蒼白のサトシお兄ちゃんはさておき、一同はミントさんに関心しきりで、その気持ちを慮っていた。結果、ミントさん、ピィとチィの三名は、やはり元の部屋で暮らすことに決まった。
「ピィもチィも前からお兄さんが好きだからサトシお兄ちゃんにもきっとよく懐くよ」
「お兄さんってカオルちゃんのこと?」
「ううん、カオルじゃなくて、別の男っぽい優しいお兄さん。ええと、あれ、誰だっけ...」

 リコが水底で真直ぐに横たわっていたので、溺れたと思って僕は大慌てでプールに飛び込んだ。だけどあの時リコは、ただ光が水の形に揺れるの見ていただけなのだそう。水に閉じ込められて音がなくて、息を止めていると、時間が止まったみたいなのだと。
「カオル、さっきまで覚えていたし、とても大事なことだと思うのに、どうしても思い出せない夢ってない?」
リコはあの日の帰り道、そんなこともいった。

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<著者紹介>
小林こと(東京都多摩市)

 目前に伸びた坂道が陽炎に揺らめいている。蝉は鳴いていないが、左方、木陰に浸る階段からは、夏の匂いが鮮明に吹き零れている。
しかし、長閑さと引き換えに、商店の気配が霧散してしまった。きっとこの先には、何もないのだろう。
 ぬる、と振り返る。吹き出す汗を素手で拭いながら、亀のように鈍く、来た道を引き返していく。やがて、さっきわざと見過ごした石段が現れる。やはり期待は出来なかったが、色あせた紫陽花を横目に、石畳を昇ってみる。
開けた視界に予測通りの落胆。左に地蔵、右に手水舎、あとは目前の小さな寺と、周辺図。隣に受付小屋のような案内所が建っていたが、小窓は閉めきり、人気はない。
 仕方なく手水舎の屋根の下に入って、柄杓で水を掬いあげてみる。左手を流し、右手を流し、曖昧な作法をなぞる。水を口に含んで濯ぎ、不意にゴクリ、と飲んでしまう。咽喉を降下し罰当たりのような、不潔なような、歯がゆい気持ちになったが、胃に落ち込むと清涼感が手足に抜けて、ここに来て初めて、ほっ、と安堵したような気がした。
 ――一体、喫煙所は何処にあっただろうか。
「文太」
 突如声がして、反射的に振り向くと、階段を昇った所に美穂が居た。裾に花柄の刺繍が施された白いワンピースを着て、肩から小さな革のショルダーバッグを提げている。口元に薄く笑みを浮かべて、二枚の唇は淡いピンクに艶めいている。髪は頭上で団子に纏められて、斜めになった前髪に、リボンの形のヘアピンが赤、青、一つずつ刺されている。
 熱気に揺らぐ白光の中、今まで見た事のない恰好で直立している。
「何だか、随分お洒落じゃない」
 思わず、言ってしまう。
「いつも、こんな感じだったじゃない」
 美穂はワンピースの腰の辺りを摘まんだ。
「そうだったかな」
 僕は手水舎を出て、美穂の隣に歩いて行った。肩が並んで、その若干の高低差が、妙に新鮮に思える。
「......いつ振りだったかな」
 階段を下りながら、独り言のように呟く。
「四か月くらい、かな」
 美穂も、小さく返答する。何か聞こうと思って、でも、階段を下りきって忘れてしまう。手を繋ごうか悩んで、やっぱりやめておく。美穂は、何も言わない。何処に向かうか示し合わせていないのに、足取りには迷いがない。追従して、蕎麦屋、陶器屋、土産屋を抜けて十字路。右に寺社の門、反対側に黄色いソフトクリームのようなオブジェが見えて、
「あんなの、前来た時もあったっけ」
 と指差し、美穂に尋ねた。
「あったよ」
 ちら、と一瞥、美穂は当然のように答えた。
「......ここに来た事、あんまり覚えてないんだ。喫煙所が見つからない」
「まあ、一年も前の事だから。煙草は、お蕎麦屋さんで吸ってたし」
「ああ、そうか」
 どうりで見つからないわけだ。と僕は得心したが、美穂の言う過去の情景はまるきり浮かばなかった。今ここを歩いている事すら、生まれて初めてのように思える。バスに乗った時からずっと、浮足立った気分でいる。
「......じゃあ、蕎麦屋にでも入ろうか」
 僕は直ぐ横の、狸の置物が置かれた蕎麦屋を指差した。
「うん、」
 そう答えたが美穂の足は止まらず、
「でも、その前に行くとこがある」
 と付け足した。
「ふうん」
 僕は相槌だけ打って、それ以上何も聞かなかった。例えば尋ねた時の美穂の返答が一年前の行動に順じているとしたら、僕はきっと覚えていない。四か月ぶりらしいデート。忘れた、覚えていない、そんな事ばかり言うのは、美穂に申し訳ないような気がした。
 ――気がして、まだ美穂を心使う気がある事に少し驚いた。
 商店が消え、木漏れ日に斑点模様をつけた道を抜けると、奥に、駐車場に噴水が設えられた蕎麦屋が見えた。あそこか、と憶測したが、美穂はその手前に建立された古めいた寺に体を向けた。
段差はあれども、木々も、壁もない、四方が丸裸の寺。傍らに看板が立っており、寺の説明文が書かれている。例に漏れず僕は、その説明文に、名前に、風景に、覚えはなかった。美穂は真っ直ぐ石畳を跨いでいき、突然、方向転換、大きなハードルみたいな絵馬掛けの前で立ち止まった。
「......絵馬、か」
 何となく呟いて、美穂の横に立って眺めてみる。
「良縁に巡り合えますように」。「彗、愛実が永遠に仲良くいられますように」。「裕子さんと結ばれますように」。「受験に成功しますように」。「恋愛成就出来ます様に」。
赤い紐に結ばれた家形の板に、文章だけで、また、イラスト入りで、様々な思いが描かれている。
「......まあ、こういうのって面白いよ。他人の生活を覗き見てるみたいで」
 言ってみたが、返答は無かった。振り向いて美穂を見やると、両手を使って熱心に絵馬を翻していた。から、から、板のぶつかる乾いた音が鳴って、僕もまた、絵馬を眺めるのを再開する。でも、視界はぼんやり、思案がもく、もく、頭の中に拡がって、文章なんて、絵なんて目に留まらない。
美穂は、絵馬が見たかったのだろうか。絵馬を見たいがために、僕を深大寺に呼び出したのだろうか。
――僕たちがするべき事は、他に幾らでもあるはずなのに。
「あった」
 声が聞こえて、振り向くと、美穂は列になった板の最後尾辺りから、一枚の絵馬を横に抜き出していた。
太い文字で二行、文字が書かれている。
『美穂と文太が、ずっと仲良くいられますように』
「あ」
 僕は声を漏らしてしまった。湧き水のように過去の記憶が溢れ出して、その圧力に咽喉が開かれてしまった。僕は、美穂は、僕たちは、一年前、確かにここを訪れた。今とは比べ物にならない穏やかな笑みを交わしあって、蒸し暑さも無視し手を繋いで、寄り添って歩いて、本堂の売店で絵馬を買って、その薄い板に熱烈な愛情を記して、縁結びの神様だと上気して、でも、少し気恥ずかしさもあって、本堂から一寸離れの、森閑とした小寺の、この、絵馬掛けに、赤い紐を吊るした......。
「覚えてる?」
 美穂の声がして、はっ、と我に返る。振り向いて、日差しに頬が白く濡れている。
「......覚えてるよ」
 答えると、美穂は微笑を浮かべた。頬にぷつり、と笑窪ができて、それは一年前とは、いや、僕たちが毎日のように二人で居た時よりも、寂れた色を顕しているようだった。何も言えず、静止してしまっていると、ふいに美穂は絵馬から指を離し、その手を自分のバッグに下ろした。中をごそ、ごそ、弄って、何かを取り出す。まるで僕に渡そうとしているみたいに、手の平に乗せて僕に差し出す。口は紡いだまま、じっ、と僕を見詰めている。
黒色の、細長い、十徳ナイフ。
 ――僕は、美穂の意図を正確に理解した。
 小さな手の平から十徳ナイフを取り、爪でナイフを抜きだす。見やれば美穂は、さっきよりも明確に僕たちの絵馬を、トランプの手品のように、連なる絵馬の中からつまみ出していた。僕はその絵馬の赤い紐にナイフを当てて、すると、美穂はもう片方の手を、僕のナイフを持つ手に重ね合わせた。一瞬、赤い紐がナイフから離れようとしたが、鋭利な刃は執拗に紐を捉えた。僕たちは、顔を合わせず、示し合わせもせず、でも、同じタイミングで、指先に力を込めていった。
ぱつ。
と、紐が弾け飛ぶ。
切断面すら赤い紐は、まるでホースのように絵馬の上をのたうち回った。溢れ出る水の如く美穂との記憶を噴出させて、絵馬に書かれた文字を掠めて、下地の板すら朧にしていく。舞い踊る紐だけが真紅の輪郭を、その軌道を鮮明に写し、僕たちの過去を、幸福な記憶を、無情に切り捨てていく。
 かつん。
 記憶の裂け目から音が飛び出す。
かつん、かつん。
波打って、徐々に現実が拡がっていく。
かつん、かつん、かつん。
奥に潜む木々の隙間に、梅雨明けの朦々とした熱気の中に、七夕を過ぎ、盆を待つ夏の空白の時間に、
二人の夢が、消えていった。

 ぷか、ぷか、動物霊園の敷地の中で煙草を吸う。霊園も、灰皿も、まさかこんな所にあるとは思わなかった。巨大な慰霊塔が空を劈いて、涼風がたなびく。ここだけ観光地の喧騒が一掃されている。とはいえ今日は平日、その賑やかさは端から沈着している。
 見やれば美穂は受付所の横の段差に座り込んでいた。その目前には寝転がる黒猫。動物霊園の黒猫だなんて、縁起が悪いのか、逆に頼もしいのか。美穂はじっ、と猫を見詰めて、さっき買っていたペットボトルのジュースに口をつけていた。視線に気が付いたのだろうか、くる、と僕に顔を向けたが、微笑も浮かべず、直ぐ猫に視線を戻した。
 ふと、片手に持った絵馬に視線を落とす。
 ――ここで、動物たちと一緒に燃やしてくれればいいのに。
 ふん、と思わず、失笑してしまう。
 吹きこぼれた紫煙が、美穂の姿を覆い隠した。それから、僕の汗に滲んだ肌にも蓋をした。
硬質の空間が、僕と美穂の間を埋めていた。

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<著者紹介>
伊藤 瞬(東京都武蔵野市/23歳/男性/フリーター)

永い間心に鬱積し続けた澱が少しだけ取り除かれた思いがした。だからと言って、過去が未来に繋がるわけではない。齢白秋に至れば、青春も朱夏も戻ることはない。人生は取り返しのつかない旅の積み重ねである。
秀行は一人、深大寺墓域にある黒御影の石田波郷の墓前に佇んでいた。誰が供えたか好物の熟れ柿が一つ。朱色が鮮やかだ。
随分久しぶりの墓参だが、墓域も広くなり、新しい墓が増えた。皆吉爽雨の質素で小ぶりな墓石、その奥の小林康治の自然石の墓も、いかにも康治らしい趣がある。
吹きおこる秋風鶴を歩ましむ 波郷
まさに『吹きおこった風』、が二人を別離の道へと歩ませ、三十年ぶりに再会させた。
秀行にその気はなかった。逢ったから、何がどう変わるわけでもない。だが、『命果つる前に』と言われると心は動く。もともと憎しみ合って別れたわけではなかったのだから:。

「あなたの心ない言葉が、兄を死に追いやったという噂があります。本当でしょうか?」
 怒りより、哀しみと諦めの表情を浮かべ、博美は縋るような眼差しで言葉を発した。
「かもしれない:。いや、そうだと思う:」
 否定する自信はなかった。自分の言動が彼を追い詰めた事実は争えない、と思った。
 博美の兄博之は真面目を絵に描いたような男だった。二人は俳句結社『木道』に所属。三十になるかならないで、主宰の尾瀬成人から同時に同人に推挙され、名前を捩り『二ユキ』と称され、若手のホープと目されていた。
 順調に行けば、何れかが尾瀬の後継に指名されるのは確実とみられた。だが、どちらが指名されたとしても、すんなりとは行くまい、というのが大方の会員の見方だった。
二人の句風が大きく違っていたからだ。秀行が伝統的俳諧味を重んじるのに対し、博之は大胆かつ斬新な詠みぶりが特長であった。
尾瀬は二人を公平に評価する視野の広さを持っていて、個性を個性として伸ばす度量も備えていた。この懐深さゆえ、多くの会員が集った。尾瀬が健在のうちは何事もなかったが、病で倒れたことで波乱が起きた。博之が主宰の意向を無視、新たな結社作りに動いている、という噂が広まったのである。
『恩を仇で返す気か!』。秀行は激怒した。
そもそも博之を『木道』に誘ったのは秀行である。『相談もなしに勝手な行動を取るとは何事!』。秀行は博之を呼びつけ詰問した。
博之は一言も弁解せず、ただ唇を噛み締め、黙って秀行の言い分を聞いていた。
博之が奥多摩の湖に入水、死んだのはそれから一週間後だった。彼は俳句に命を賭けており、秀行との後継争いに敗れれば、この世界に居場所はない、とまで言われていた。
博美も博之と同時期に『木道』に入会、秀行と親しくなった。よく三人で吟行に出かけ、即席句会をやった。博美の句風は写実を重んじ、そこはかとない心情を託す、どちらかと言えば秀行に近い詠みぶりで、句会は常に二対一。博之の分が悪かった。
『愛の強さに如くものはない』と博之は苦笑いを浮かべ、二人の仲を認めていた。
しかし、尾瀬が倒れ、博之が反旗を翻すと噂されて以降、関係はぎくしゃくしていた。
「酷い!酷すぎます。兄は『木道』の将来を考え抜いた上で動いていた筈です:」
「非常事態だからこそ一枚岩になる努力をすべきで、彼の行動は軽率の誹りを免れない」
「それはあなたのお考えでしょ?全く違う考えの方もいます。兄は『木道』の捨て石になる覚悟で動きたいと:。それはあなたが一番ご存じの筈じゃありませんか」
 博美は溢れる涙を拭おうともせず、唇を噛み締め、秀行が博之を擁護しなかったことに激しく抗議した。だが、秀行の立場から言えば、彼の行動はどう贔屓目にみても、容認できるものではなかった。それに「所詮彼とは進む道が違う」という思いも強くあり、何れ決別すべき運命にある、という予感もあった。それはまた、博美との別れをも暗示していた。まして、自分の言動で最愛の兄が死に追い込まれた、とすれば、肉親の情からして、到底赦せるものではないだろう。秀行は博美の心中を察し、別離を決意した。
 逢ふもまた別るるも花月夜かな 康治

その博美から、およそ三十年ぶりに連絡があった。『木道』の後継誌『白兎』で名前を見たのだと。秀行は、会社勤めを定年で終え、『白兎』の副主宰兼編集長をしている。
 博美とは、度々吟行を共にした、想い出深い深大寺の水車のある蕎麦屋で待ち合わせた。
 現れた博美を見て、『オヤ?』と思った。痩せ方が尋常でないように感じた。
 『命果つる前』とはこの意味だったのか?所作の淑やかさは昔通りだが、ふっくらしたイメージは失せ、痩せて窶れが目立った。
 二人は昔通りの言葉を交わし、蕎麦をたぐった。秀行は盛蕎麦、博美は汁蕎麦。これも昔と同じ。ただ、博美は蕎麦を残した。食後、店の横手の坂を上り、植物公園に入った。
 博美が疲れた様子を見せたので、ベンチに腰を下し、蕎麦屋で求めた蕎麦茶を飲んだ。そのときカリヨンが軽やかなメロディを奏でた。それが終わるのを待っていたように「随分、綺麗になったわね」と博美が言った。
「あの頃に比べればね:」
あの頃、隣に博美がいるだけで胸がときめいたものだ。今はそれがない。この違いは何だろう?と秀行は思った。時の経過は、人と人の拘りの艶まで消し去ってしまうものか?
「今日は、どうしてもあなたにお話ししておかなければ、と思って:」
「うん:?」思わず身構えた。
「兄の事:。もう昔のことだからどうでもいい、といえばそれまでだけど:」
「尾瀬先生が亡くなれば、何れ一騒動は避けられなかった。結社の宿命だよ:」
「かもしれないけど、兄があなたに誤解されたままだと可哀想だから:」
「誤解:?」
「そう:。兄は寡黙な人だったから、私にも言わなかったんだけど、実はあのとき、『木道』を割るのではなく、纏めるために動いていた。それがこないだ初めて確かめられたの:」
「纏める:?どういう意味?」
「そのままの意味。椿山仁(つばきさんじん)という同人がいたの、知ってるでしょ?」
「うるさ型。主宰によく噛みついてた。このままじゃ『木道』はだめになるぞ、って」
 反旗を翻すとすればまずこの男だろう、とあのとき思っていた人物であった。
「その人から、死ぬ前にどうしてもあんたに詫びておきたい事があるって、電話が:」
「そう言えば:、最新号の『きすげ』に山仁さんの訃報が載ってたな:」
 『きすげ』は『木道』から分派した同人誌で隔月刊。『白兎』編集部にも送られてくる。
博美がそこに投句しているのは知っていた。
「私もそれで知って、あなたに逢う決心をしたのよ。山仁さんが言ったの、あのときの分裂騒ぎ。首謀者は、実は自分だったって:」
「首謀者が山仁さん:?じゃ、博之は:?」
「兄は、あなたに『木道』を継いで貰いたくて、批判派の山仁さん達を説得しようと動いていた。これが真実だって:」
「俺が(博之を)誤解してた、というわけ:?」
「そう。山仁さんは、自分の傀儡として、人望のあった兄を利用し、新結社を旗揚げしようとしていた。ところが兄はそれを察し、これは拙いと、山仁さん達を説得にかかった」
 山仁は、お前を主宰にしてやろうと言うのに馬鹿な奴だ、と罵倒し、俺達から見放されたら、お前はこの世界で生きて行く道はないのだぞ、と脅した。あることないこと言いふらせば、若造一人葬るくらい何でもないと。
「な、なんと:」
「兄はあなたを支持したばかりに、山仁さん達から脅され、あなたとの友情も失い、生き甲斐だった俳句までも喪う恐怖から、死を選ばざるを得なかった」
山仁は、自らの野望の為、才能ある前途有望な若者を死なせた事を終生悔やみ続け、命あるうちに、唯一の遺族である博美に詫びておきたかった、と言ったという。
「そうだったのか:」胸塞がる思いがした。
「あなたに詰られた時、反論したとしても、立場上、逆効果になると思ってたんじゃないかしら。何れ時が来れば、自分のした事は分かって貰える、という気持ちがあったんだと思う。あなたを敬慕してたもの、兄は:」
 博美は薄っすら涙を浮かべていた。
別れ際、博美は『以上がお話ししたい全て。これで心おきなく入院出来る』と言った。
秀行はこれまでの人生の拠り所が、全て崩れ去った思いがして、呆然としていた。
その所為もあり、博美の病の状態も、いつどこに入院するのかも聞きそびれた。
博美は「あのとき、一方的にあなたを責めて、何と言う女かと思われたでしょ。赦して下さい」と言い、自分の軽はずみな言動を悔やみ、謝罪した。だが陳謝すべきは、博之を反対派と決めつけ、色眼鏡で見、その行動を曲解し、突き放した自分ではなかったのか?
昔、丁度この季節。博美とこの墓前に額ずき、「秋の実りの如く、作句も熟達し、恋も成就しますように」と祈ったことがあった。
あれから三十年。この墓域と同じように、自らの境涯も変わった。ただ、博美の存在を忘れた事は一度もない。なのに、逢っても、優しい言葉一つかけられなかった。このままなら、生きて再び目見えることは叶うまい。自らの誤解で折れ曲がった二人の道を、放置したまま生きるのか?それで本当に悔いはないのか?唯一の手掛かりは『きすげ』誌。主宰は旧知の句敵。博美の病の様子や住い等、頭を低くして教えを請うべきでは?秀行の波郷墓前での煩悶は、続いていた。

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<著者紹介>
相原 文生(神奈川県相模原市/74歳/男性/無職)

「あれ、源さんじゃね?」
 つり革を握る私の隣で、幼馴染で腐れ縁の悟が欠伸を噛み殺しながら言った。
 調布駅北口行のバスは、自転車を必死に漕いで坂道を上っていく源さんとすれちがった。私の視線が右から左と源さんの姿を追う。いつものことなので心配はしないが、朝から大変だねえ、と思った。源さんは毎日、自転車で深大寺周辺を駆けている。
私の家は調布市深大寺三丁目、京王線調布駅からバス十三分だ。毎朝、高校への通学のため七時過ぎに悟とバスに乗る。源さんはご近所のおじいちゃんで、源さん風に表現すると「つれあい」のおばあちゃんと二人で暮らしている。源さんはしゃきしゃきした人で、おばあちゃんは私が小さいころにお手玉や折り紙を教えてくれた優しい人だ。
そんなことを感傷的に思い出していると、バスは調布駅に着いた。下りの京王線で高校へ向かう私は、運が良ければ座って目的地まで行ける。地下へと移された駅へ、サッカー部花形フォワード選手の悟と駆け降り、改札を抜けホームの一番前に並んだ。

「お、今帰ったのかい」
 家の手前で源さんに声をかけられた。
 部活もせず塾にも行かない私は、日が暮れる前に帰宅する。
「ただいま。今朝、自転車漕いでる源さんをバスから見たよ」
「見られちまったか。ま、すぐに見つかったから、どってことないよ」
 源さんは徘徊するおばあちゃんを自転車で探しては、おばあちゃんの手を握り自転車を押して帰ってくる。自転車じゃなくて、走って探したほうが楽なのでは、といつも思う。
「おばあちゃん、今何してるの」
「晩飯こさえてるよ。食べに来るか」
「じゃ、後で。ビール持ってくね」
「おう」と、源さんは目を細めた。
 両親は共働きで兄弟も姉妹もペットさえいない私は、幼いころから源さんの家に入り浸っていた。源さん夫婦には子どもがなく、だから孫もなく、そして金魚すらいなかった。 
 私の両親は源さん夫婦に甘え、数本の缶ビールを持っていくように私を躾けた。発泡酒ではなくビールである。父が家で飲むのは、
もっぱら発泡酒だったから、源さんに対するいわば特別待遇、感謝の気持ちは明らかだった。私は両親のぬくもりが足りなくても、グレずに、キレずにたぶんそれなりに育った。
私が源さんと一緒にビールを飲んでいることを、両親は知らない。時折、悟も参加する。
「お邪魔します。源さん、ビール」
 いつものように勝手に上り込んだが、源さんの返事がない。あれ、と訝りながらリビングのドアを開けると、おばあちゃんが台所でトントンと包丁を使っている。
「おばあちゃん、源さんは」
 話しかけても、おばあちゃんには聞こえなかったようだ。リビングの隣の和室を覗いて、私はひっと息をのんだ。源さんが苦悶の表情で倒れている。
「源さん、大丈夫」
 私は駆け寄り源さんの肩に手をかけた。源さんは苦しさで呻き声しか出ないようだ。大丈夫じゃない。どうする。救急車だ。一一九番に生まれて初めて電話をかけた。
「ごはん、できたわよ」
「おばあちゃん、大丈夫だから。私がついてるからね」と言い、震える手で、源さんの肩をさすり続けた。やっとサイレンとともに救急車が到着したとき、おばあちゃんはお茶を飲みながらテレビを観ていた。
「おばあちゃんを一人にできないんです。ごめんなさい。私、ついていけない」
 救急隊員に涙ながらに説明すると、担架の上の源さんは小さく手を振った。
「俺は大丈夫。つれあいを頼む――」、と言いたいのだとわかった。
 救急隊員は病院から連絡をすると約束してくれた。遠くなっていく救急車を見送ると、胸が痛くて涙が止まらなかった。
「ごはん食べましょう」と、おばあちゃんは、繋いでいる私の手を引いた。
「そうだね、食べようね」
 愛妻家の源さんが、おばあちゃんを置いて逝くわけがない。私は涙をぬぐった。

心臓発作を起こした源さんは、しばらく入院することになった。私は学校を休んで源さんの家に泊まりこんだ。父と母も度々様子を見に来たし、病院へも足繁く通ってくれた。悟はノートやプリントを届けるついでに、力仕事を手伝ってくれた。私は源さんが帰ってくるまでおばあちゃんに付き添うと決め、片時も離れなかった。日傘をおばあちゃんに差しかけながら、後をついて歩いた。おばあちゃんは深大寺では馴染みらしく、あちこちで「よしさん、こんにちは」と声をかけられた。
おばあちゃんは、何かを探すように深大寺を歩いた。
 おばあちゃんは時折平常に戻る。そんな時は「加奈ちゃん、源さんはどこ」と心細そうに言った。おばあちゃんは平常に戻ると、私の名前を呼ぶ。
 五月後半の日曜日、深大寺はいつもより混んでいた。おばあちゃんは、いつものように何かを探している。
「桜はまだ咲きませんか」
「おばあちゃん、桜はもう終わったよ」
「桜の木はどこですか」
「どこだろうね。私わかんないよ」
 そんな会話をしながら、のんびり歩いていると、にわかに空が掻き曇った。
「こりゃ、来るね。おばあちゃん、雨宿りしなきゃならないみたいだよ」
 ポツポツと大粒の雨が落ちてきた。晴雨兼用傘におばあちゃんを入れて休める店を探していると、「よしちゃん、寄っていきなよ」と蕎麦屋の女将が声をかけてくれた。渡りに船とばかりに、私はおばあちゃんの背中を押して店の暖簾をくぐった。
「すみません、助かります」
「止むまでいていいよ。もう客は来そうにないから」と、女将がお茶を出してくれた。
「源さん、入院したんだって。あんた、加奈ちゃんだろ。いい子だね。他人の面倒見るなんてさ」
「いいえ、私の方こそ面倒見てもらっていたもんで」と、恥ずかしくてへらへら答えた。
「よしちゃんと源さんと私は幼馴染でね。深大寺で育ったんだよ」
 源さんに聞いたことがあった。源さんはずっと深大寺で暮らしていて、おばあちゃんの実家も近くにあったと。
「源さんは悪ガキでね。饅頭を盗っては自転車で逃げてたよ」
 今と変わらないじゃん。ざるそばをご馳走になりながらハハハと笑い、昔話を聞いた。
「いつでも寄っていいからね」と女将に見送られ、夕立の上がった道を、私たちは帰った。

「加奈ちゃん、深大寺に桜を探しに行こう」
「いいよ。暑いから日傘と水筒持ってね」
 おばあちゃんは自分で傘を持ち、私は麦茶を入れた水筒を持った。
「おばあちゃんは、どうして桜の木を探してるの」
 ずっと気になっていた言葉をかけた。おばあちゃんが平常に戻ることが少なくなってきて、今聞かなければ、もう聞けずじまいになってしまうかもしれない。
亡くなった子どもを埋めたのよ――。しばらく黙っていたおばあちゃんは、苦しそうな表情で言った。返す言葉が見つからなかった。
 深大寺に着くころには、おばあちゃんは私の名前を忘れてしまっていた。
 あと三日で源さんが退院できるという日、
風呂掃除をしている間に、おばあちゃんがいなくなった。行先は深大寺とわかっていても、深大寺はそれなりに広い。空模様も怪しい。私は傘を持って急いで深大寺に向かって走った。上り坂に息が切れ、源さんが自転車を使う訳がよくわかった。
「何してるの、おばあちゃん」
 おばあちゃんは深大寺の奥の林の中でしゃがんでいた。真っ白な日傘が転がっていて、見つけることができた。
「これ、桜の木ですよね」
 黒い幹に緑の葉、黒くて小さなさくらんぼのような実がなっている。
「うん、そうだね。これは桜の木だよ」
「そうですか。よかった。やっと見つけた」
 おばあちゃんはそういうと、正座をして手を合わせた。はらはらと涙を流しながら。
「いったい、どうしたの」
 女将が驚いて駆け寄ってくれた。おばあちゃんは疲れたのかぐったりしていて、蕎麦屋の前まで連れて来たが、私一人の力ではどうにもならなかった。
「よしちゃんね、戦争で亡くなった初恋の人との思い出を桜の木の下に埋めたのよ」
 女将が教えてくれた。
「彼の思い出を桜の木の下に埋めると、子どもになって生まれ代わると信じてるの。深大寺は恋愛成就の寺だからね。結局、よしちゃんは子どもに恵まれなかったから、ずっと心を痛めていたんだよ」
「そのこと、源さんは」
「もちろん知ってるよ。幼馴染だもの。でもね、二人は本当に好きあって一緒になったんだ。きっと深大寺の神様が二人を一緒にしたんだね」

 退院した源さんに父が電動自転車を贈った。
 今日も源さんはつれあいを探しに、深大寺を駆け上っていく。
 私は今日も腐れ縁の悟と調布駅のホームへと走る。

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<著者紹介>
蓮葉 朔(東京都調布市/47歳/女性/自営業)


花が降ってきている。
薔薇園の近くの短い斜面、暖かな陽射し、まだ冷たい風。

仰向けに寝そべり、見上げる先には大きな木。桜ではない。滑らかな幹は、おそらく欅。
では、降っているのは欅の若葉なんだろうか。
いい香りがする。

今日は久しぶりに彼に会った。
さようならはきちんとした方がいいと、彼が願ったから。
久しぶりに会う彼は、色が少し白かった。
懐かしい日にともに訪れた時のように、古いカメラを肩に掛けて、大きな体でまっすぐ歩いて来た。
「待ってたよ。」
悲しそうに彼が笑うのを、美しいと思った。

せっかく彼に会えたのに、眠くて眠くて仕方がない。
うたた寝に入る直前の、もったりした甘さを体の中に感じながら、彼を見上げ、ああこの人とは
もう離れたんだと思う。
確かどちらかが死んだから、別れた。

彼が白っぽい服を着て、めったに着ない白いワイシャツなんかでここに来るからには、死んだのは彼だったか。
手を伸べて触れた指先は冷たい。
やはり彼なのか。

突然、悲しみがやってきた。
鼻の奥が塞がれたようになって、一切の妨げなく涙が溢れた。彼のいない世界、私はどうやって生きていくんだろう。
あまりの喪失感に、息ができない。

「どうして泣いているの?」
彼がかがみこんで、私の頬を手のひらで包む。
「今、どこか痛い?苦しい?」
視線を手繰ると、彼も泣いていた。
痛くないよ、苦しくない。でも、あなたはもういないんだね。
訪ね終わる前に彼が顔をそむける。
「もう、手が美希ちゃんに触れない。」
確かに、言われてみれば彼の手の感触は無い。
「俺を置いて行っちゃうんだね。」
ああ、やっぱり死んだのは私だった。

私、幽霊なの?
腕を上げたり、指を開いたりしてみる。
彼は顔を背けている。
幽霊だった記憶ないな。今までどうしてたのかな?
明るく言っても、彼は顔を見せない。
「美希ちゃん、死んだら、深大寺で妖怪になって、
神代植物公園をひとりじめしてお花見するって」
語尾が笑ったように震えた。

ひとしきり涙を流した後、彼は眼鏡をはずして涙をぬぐった。
「そうだ俺、抱きしめてあげようと思って来たんだ。死後の世界って寒いっていうから」
ははは。そうでもないんだよ。眠い私の声は乾いて軽い。
「そうなの?なんだ。カイロまで持ってきちゃった。」
春なのに。あなたらしい。
「でも寒くないなら良かった。」
カイロをしまいかけて、彼は私の目を見つめ、やはり渡そうか迷ってからポケットに入れた。

彼が、寝そべっている私の脇に横たわる。
「でも、抱きしめてあげるよ。外国人のカップルみたいに。」
汚れちゃうから、やめなよ。
「やめないよ。」
触れない彼の腕が、体の上でアーチをつくる。
「もっとこっち来てくっついて、俺に抱かれて。」

ね、わたし、どんなふう?
怖かったけれど、聞いてみた。だってホラー映画みたいだったら恥ずかしい。そんなの絶対帰る。
「ん、なんか思ったよりふつう。」
かわりない?
「ちょっとホワイトバランスが変な感じなだけ。」

 花びらのようなものは降り続いている。桜の木はここにはないのに、ひらひらと舞い、飛ばされてゆく。
 そういえば私が入院する前、最後のデートがこの神代植物公園のお花見だった。
 歩けるという私に、疲れてはいけないと備品の車椅子を借りてくれた彼は、もうずいぶん慣れた手つきで押してくれたものだった。
カリヨンを聴きながら薔薇園を見渡し、桜並木では道を譲ってくれる人々にお礼を言いつつも、
立ち止まって何枚も写真を撮った。近くの人の手を借りて、ツーショットも撮ってもらった。
あの写真、好きだな。一枚だけ取っておいてくれるなら、あれがいいな。

彼は黙って、少し私を見つめてから、笑ったように目を閉じた。
私はそっと彼の頬に触れてみた。昔、幸せな夜の最後に向かい合った時のように。私からは触れるような気がする。柔らかいような。

いつか離れるから、たくさん写真を撮りたがったの?
うっすらと切れ長の目が開く。
「何言ってるの?」
さようならする日が来るから?
離れたのに、もう重ならないのに、さようならと言う時に涙が溢れた。
思った通り、彼は何も言わない。うん、とも、違う、とも。
抱かれない彼の腕の中、私は少し震えた。彼は嘘をつかない。

「ね、もう一度一緒に暮らすには、どうしたらいい?」
彼はまっすぐに私を見ている。
「毎日同じ家に帰って一緒に眠ろうよ。飯食いに行って、映画観よう。」
白い彼の袖は、泥に汚れはじめた。
「結婚して恥ずかしい結婚式して子供も作ろう。いいベビーカー買おうぜ。貧乏くさくないやつ。」
彼は鼻を赤くして、静かに涙を流している。
私はそっと起き上がり、一度だけ彼の胸を叩いた。

「いてぇ。」
横たわる彼の悲しそうな苦笑につられて、私も同じ顔をしたと思った。
その時、私が寝ていたはずの彼の腕の中の真っ白な骨壷を見た。
私の顔はひきつったのだろう。彼は急に真顔で言った。
「ああ、ばれちゃったか。」

こんな、怖い思い、してくれなくてよかったのに。
私の声は遠くの洞窟から響いてくるようだった。
彼の手が頬に伸びる。大きな手。
彼はその素敵な手で、私をお墓から連れ出したのだった。
「ごめんね、すぐ戻すから」
私はもう、あなたの好きだった人ではなくて、こんな白く乾いた骨なのに。
「いいじゃない。一度くらい。俺と美希ちゃんの仲じゃないの。」

あ。

世界が、ぶれたように感じた。
彼の手が頬に触れ、私の流す最後の涙をぬぐう。
ありがとう、私を、悼んでくれんだね。
声に出せたのは、それだけだった。

私も悲しいとか、さみしいとか、幸せを祈るとか、ましてや愛の言葉など伝えることはできなかった。
突然視界が歪み、全ての輪郭が幾重にも重なって見えるようになった。

ああ、私、今神様にありがとうとか思っちゃったから。

神様を信じた私の召天は、始まるとあっという間に進んで行くようだった。
世界中が重なる線で描かれ、その隙間から、ほんの一瞬ずつ青い空がのぞく。
心には何の憂いもなく、体は重さを持たない。
彼は目を細めて、じっと私を見ている。
こんなになっても、あなたは見ててくれるんだね。
嬉しくて愛おしくて、胸が詰まったまま、私はとうとう彼のもとを飛び立った。----------------------------------------------------------------
<著者紹介>
泉 清明 (埼玉県さいたま市) 
 季節外れの香取線香が銀色の支柱を中心に途切れた円を描いている。押し入れで見つけ、せがまれるままに焚き、立ち上る煙と香りに興奮していた彼女は、一つ目の円が出きる前に瞼を閉じ始め、今は妻に抱かれ柔らかな夢を見ている。
 いずれはあの煙のように消えてしまう蚊取り線香のくれた彼女との一日をかみしめ、素足でベランダに降りてタバコに火をつける。十年ぶりの煙は居心地を悪くさせるばかりですぐにもみ消した。煙を追い出すように空気を吸い込んでは吐き出す。夜に目が慣れてくると、近くを走る高速道路に照らされた雑木林がこんもりと浮かび上がる。くらりとする頭で見とれていると、林はいくらか春を抱えた風に揺れ、その輪郭を曖昧にする。タバコの臭いが薄れてくると、風向きのせいだろうか、隣家から漂う線香の匂いが鼻に付いた。何気ない風と香につられるように、朧気になった昔を私は思い出していた。
 上京して二年目の五月。イメージしていた東京に住みつき、夜の世界に飛び込んだものの、家賃の高さと人の騒々しさに疲れ、静かな調布に腰を落ち着けていた。学校とバイト。新しい友人達と穏やかな日を過ごしていた。
 静かな、心地よい不便さを与えてくれるこの町で、バイト先からアパートへの帰り道、深夜の深大寺通りを歩くのが何よりも好きだった。武蔵境通りと三鷹通りに挟まれたくねくねと曲がる先の見えないその道に見えるはずのない将来への不安を重ねていたのかもしれない。舗装された鳶色の歩行者道路、小さな水路から手を伸ばす紫陽花。寝静まった蕎麦屋ので逆さまになる椅子の脚。それらが彼女と歩くまでの僕の新しい夜遊び相手だった。
 彼女と歩く特別な理由はなかった。夜のシフトが空き、昼間のシフトから移動してきたこと。家が三鷹通りから出るバスに乗った方が近いこと。そのためには深夜の深大寺を抜けなくてはならないこと。その程度だった。夕方のチームにすんなり溶け込み、仕事は僕よりもそつなくこなす。話し好きな、誰からも好かれる小さな女の子だった。
 コマ送りの花火のように紫陽花が日一日と開き、歩く度に雨の香りが濃くなっていた。そんな夜の深大寺を二人で歩いて分かった事と言っても、年齢は僕より少し上、学生、地方から出てきたこと。こうして夜の深大寺を歩くのは楽しい事。僕が少し怖かったこと。将来は教師になって、給食を毎日食べたいこと。それくらいだった。
 「カロリーすごいよ、あれ」
 「うそ!どれくらい?」
 「カレーの時は一二〇〇位あるんじゃない?」
 「給食のカレーおいしいよね!でも、普段からそれはきついか。・・・残せないよね?」
 「カレーの時はお替わりして、普段は生徒に見られなければいんじゃない?」
 「そっか!やっぱ悪い奴は違うわ~」
 彼女のバス停まで、そんなたわいのないキャッチボールをしていた。  
 そんな時間は、すぐにとても大切な時間になった。他の女の子といると注意深く避ける沈黙も、歩いている僕達が共に紡ぐ糸のように風にたなびき、か細くとも二人を繋げてくれてくれるようだった。
 けれど僕は手を取ろうとすらしなかった。彼女にはきちんとした相手がいたし、それを話す彼女はとても幸せそうだった。そして僕もまた以前のように自分を差し出し、受け取る女の子達と体を重ねていた。慣れ親しんだ楽しい夜も、眠る頃に会いたくなるのは決まって彼女だった。
 僕たちは画面を通して言葉を交わし、夜の深大寺を抜ける時だけ、言葉を通して温もりを交わしていた。雨の匂いが埋め尽くす頃、生き生きと開いた紫陽花の花びらをつまみ、指先に吸い付く柔らかさを共に感じ、雨の中、濡れそぼる手すりをゆっくりと這う蝸牛に、傘と顔を寄せ合って見つめていた。
 
 彼女と歩いて二カ月。ある夏の夜だった。店を終えた蕎麦屋からだろうか。蚊取り線香の香りが頼りない涼を運ぶ風に乗り鼻をついた。僕らはいつものように歩いていた。
 「香取線香ってなんでこれなんだろう。田舎でも同じだったなぁ」
 「本当だね・・・。カレーの香りだったらいいのに」
 「またカレー?合わなくない?蕎麦つゆとかさぁ・・・」
 振り返ると彼女は立ち止まり、参道へ続く道を指さしていた。
 「こっちへ行ってみない?」
 いやな予感がした。けれど、当たり前のように彼女から目を離せなくなる。背けていた思いは驚くほど簡単に僕を覆い尽くしていった。あまりのあっけなさに僕は少し困った顔をしたに違いない。察するように彼女は「大丈夫」と言って笑った。
 両脇の店からは古い家屋の香りが漂っていた。市が立てば吹き流しの下がるロープが左右の店を繋いでいるようだった。その下を白い街灯に照らされ、見慣れない小さな背中が山門に向かって歩いていく。「あそこは思ったより暗いんだね」彼女の声が、線香混じりの風に乗り聞こえた。曖昧に答え僕は彼女の後を追っている。小さな水路を横目に階段を上がると、彼女の香りが濃くなった。驚いて顔を上げると柔らかい体が僕と触れ合う。
 「おっと、ごめん。大丈夫?」
 「・・・いたい」
 「そんなに?」
 「すごく、とても、イタイね」
 彼女は笑いながら厳めしい顔をして階段の途中で立ち止まっていた。僕はその顔に安心して、ここに来た意味を忘れてしまっていた。いつもと少し違う。けれど言葉を通して温もりを交わせると思った。
 「この世界で貴方しか知らないヒミツってある?」
 彼女はそう言って山門に振り返った。三百年以上前から人々を見続けた古びた朱色の門。電気仕掛けの灯籠は、役目通り山門の色と形だけを浮かび上がらせ、僕らの顔は薄く夜に溶けていた。
 「誰にもじゃなくてオレ一人だけ?・・・どっちにしてもないかなぁ。そんな話、結局誰かが知ってるし」
「私はあるわ」
「言っていいの?」
「いいのよ」
「貴方がとても好きだってことだから」
 しなだれる緑と佇む山門に語りかけているようだった。隙間を埋めるように香がかすかに漂う。
 「赤ちゃんを産むの。もう少ししたらね」「でも貴方の事がとても好きなのよ。どうしようもないくらい。お母さんになっても消えないくらい」
 その時どんな顔をしていたのだろう。
僕ら山門のまえで理由のない恋と避けようの無い別れを二人で確かめていた。
 言葉が途切れ、僕は小さな背中を抱きしめた。とても熱い体だった。いさめるようなせせらぎが聞こえてくる。振り払うようにこちらを向かせ力のかぎり抱きしめる。背中に回した腕から身体の形が伝わってくる。押さえつけていたありったけの感情を交わすために、僕達は抱きあった。消えないように彼女を身体に刻みつけながら、頭の片隅で願いが蠢く。
潰れてしまえばいい。
 彼女の中にある僕の感情。彼女が育む幸せ。潰れてしまえばいい。そうすれば僕達はまた、夜の道を二人で歩いていける。潰れてしまえ。潰れてしまえ。けれど、背中に食い込む腕からは答えを見つけた彼女の、どうすることもできない感情が伝わってくる。僕は少しだけ腕を緩め薄く目を開けた。茶色い髪の向こうには閉じられたままの朱色の門が、ただ静かに僕らを見つめていた。
 翌日、彼女はバイトを無断で辞めた。いくつかの私物が入っていたはずのロッカーは、すぐに別の名札が掛けられた。僕は季節が変わる頃にバイトを辞め、また夜の世界へと戻って行った。
 夏のある日、仕事を早く片付け私はバスに乗り深大寺へ向かった。蒸し暑さはどこも変わりないが気圧の気まぐれだろうか、思いの外風が抜けていく。あの頃のように少しだけ右に寄り深大寺通りを歩く。そばつゆの香りが青臭い感傷を掘り起こし苦笑してしまう。茶店の軒先でとぼける鬼太郎とねずみ男の脇を抜け、あの日の山門に頭を垂れて境内へと入る。鐘楼の台座に腰をつけ携帯電話の画面を開く。玩具箱のようなメールフォルダから移したはずの彼女を探す。先生・こーちゃん・ミレイ・・・準備運動のようにかつての友人達のメールを開いては閉じていく。
付きん棒の鎖がキチリと音をたてた。
 やがて紫陽花の花弁のような、しっとりとした言葉が浮かび上がる。私はアルバムをめくるようにメールを読み返す。二人ともせわしなくホールと厨房を動き回り、見ることもなかっただるま市や鬼灯市が言葉の中に残っていた。
 画面をなでる度、無個性な文字が変わらぬ思いを乗せ流れていく。増えることの無い言葉の連なりには、時をおいて届いた最後のメールから滲み出る、哀しみと幸せが晴れることの無い霞のように深く広がっていた。
「消えることなくあの日のままに」
小さな手を握る写真が一枚添えられていた。
 私は携帯電話を握りしめ空を見上げた。鬼太郎とねずみ男にじゃれているのか、子供達の笑い声が小さく聞こえる。紫紺の旗のはためく音が、境内を埋める木々のざわめきと混じり、夏の空へ溶けていった。
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<著者紹介>
早川 任 (東京都三鷹市/36歳/男性/会社員) 

 京王線調布駅の改札を抜ける。駅前の大通りにはショッピングモールが連なり背の高い建物に『春の特別祭開催中』のたれ幕が見えた。ロータリーはたくさんの人でごったがえしている。タクシーの順番を待つ背広姿の若い男性、バス停留所には小さな子供を抱きかかえた女性が長い列の順番を待っていた。ぶつからないよう注意しながら深大寺行きのバスを探し飛び乗った。息をはずませ窓際の一番後ろの席に座ると待ち構えていたようにバスが発車する。このままいけば約束の時間には間に合いそうだ。ハンカチで額に溢れだしてくる汗を拭った。座席に深く腰掛け直し、俺はそのまま瞼を閉じてしまった。

 三年A組の教室で初めて藤崎玲奈の存在を知った。彼女はおとなしく口数も少なかった。どちらかと言えば目立たない地味な女子だったと思う。長い黒髪をシュシュで後に束ね、赤い縁のメガネをかけていた。休み時間はひとりぼっちで周りとの関係を遮断するため読書にひたすら没頭していた。彼女を心配していた。クラスに早く打ち解けてほしいと密かに願っていた。
 携帯やメールが高校生にとって必須アイテムになって持っていない連中を捜すのが難しくなった。だから下駄箱で偶然それを見つけたとき、俺は驚いた。白い便箋にかくばった文字で俺に対する思いが丁寧に綴られていたからだ。
『放課後、屋上で待っています』
 最後の一文を読み終えたとき、「まいったな」それが正直な感想だった。
好きな女子はいなかったけど高校で恋愛をするわけにはいかなかった。もちろん勉強で手一杯だった俺にそんな余裕もなかった。程度のいい言い訳を考えて送り主を傷つけず断ろう。そう心に決めていた。
 屋上に続く階段を一歩一歩踏みしめながら上っていく。ここにはこっそり煙草を吸いにきていた。息の詰まる高校で唯一ほっとできるスペースだった。鍵の掛っていない鉄の扉を開けるとオレンジ色に染まった町が広がっていた。グランドに響き渡る野球部のかけ声がボールを打つ鋭い金属音に混じって耳にこだます。ポケットに忍ばせていた煙草に伸びそうになる腕が静止した。視線の先にはフェンスに背を向けた彼女がいた。
藤崎玲奈。用意していたセリフを頭の中で繰り返す。
『気持ちはうれしいけど......』
いきなり彼女が胸に飛び込んできた。
「きてくれてありがとう」
 反射的に受け止めてしまった。あ、あう、言葉にならない声が漏れる。ふりほどくタイミングを完璧に逸していた。
そういえば女子と付き合った経験がなかった。こんなに柔らかいのか? 制服の上からでもはっきり伝わってくるボディライン、いい香りがした。いけないと知りつつ体がいうことをきいてくれなかった。
「煙草の匂いがする」
 彼女が囁く。金縛りにかかったみたいに、なさけない俺はしばらく動けなかった。見上げてきた彼女のレンズ越の瞳と目が合う。カールしたまつ毛、瞬きをしているのがはっきりわかった。これほど近くで女子を見たのは初めてだった。
 彼女が興奮した様子で一方的に喋りだす。よく屋上で俺を見ていたとか、クラスで孤立しないよう喋りかけてくれたのが嬉しかったとか、俺にとってはあたりまえの行動が彼女にとって特別な行動になっていた。用意していたはずのセリフが陳腐に思えてきて、気づけば自然に自分のことを話していた。
 つまらない授業に少々うんざりしていること、高校でいい人を演じるのに疲れてしまったこと、誰にも喋らなかった胸の内をさらけだしていた。
黙って彼女は俺の話に耳を傾けてくれた。辺りはすっかり暗くなっていて、あんなに聞こえていたはずの声がもうどこにもなかった。夕日がいつ沈んだのかさえ分からなかった。
 その日から俺たちはこっそり屋上で会うようになった。はっきりした返事をしないまま彼女と付き合い始めた。
教室ではお互い知らない人。挨拶と授業の話をするくらい。たぶん誰も俺たちが付きあっていたなんて知らなかったと思う。
顔見知りに出会わない。できるだけ遠くを探して夏祭りにも出かけた。祭ばやしにさそわれ浴衣姿の彼女の手を握る。まばゆい提灯が赤や黄色の明りをいくつも灯しながら俺たちの足元を照らしてくれていた。露店にあふれる雑踏にかき消されないよう耳もとでそっと彼女が訊いてきた。
「ブルーハワイって何味か知っている?」
 腕を引っ張り『氷』と赤字で書かれたのれんを指さす。屋台の狭いカウンターに、いちご味、レモン味に混じって常夏を連想させる透明な海の色が並んでいた。
「体に悪そうな味」
 思わず出た言葉に彼女が目を細める。教室では決して見せてくれない表情だった。
ひとつのかき氷をふたりで分け合いながら不思議な味を氷と一緒に噛みしめる。お互いの青くなった舌を出しあった。指で下まぶたを引っ張りあっかんべーの仕草をした彼女が駈け出した。馬鹿にされた気がしてむきになって追いかけた。
突然、花火のどーんという音が鳴り響いた。見上げた夜空には七色に輝く大輪が花を咲かせていた。波紋みたいに広がりながらやがてパラパラと儚く消えていく。すぐに別の花火が打ち上げられ再び勢いを取り戻す。空を何度も照らしだしてくれていた。
「きれい」
 呟く彼女が足を止める。うれしそうにうなずきなら夜空に舞う光の競演を眺めていた。それなのに俺ときたら花火の音より、漏れてくる太鼓の音なんかよりはるかにはずむ鼓動を押さえるのに必死だった。
振り向いた彼女の影が俺の足先で重なる。口が微かに動くのがわかった。見つからないようしまい込んでいたはずの感情が一気に流れ出してきて、そばにゆき思わず彼女の肩を抱いた。ダメだとわかっていたはずなのに唇を重ねてしまった。歯と歯があやうくぶつかりそうになるほどぎこちないキスだった。

頬が熱くなってきて効きすぎの暖房が気になりだす。暖風の吹出し口に手を伸ばすと、いつの間にか隣に座っていた年配の女性が俺の手を遮るように停車ボタンを押した。
『次とまります』
運転席のすぐ上の電光パネルに『深大寺』の文字が左右に流れていく。バスは停留所に向かうゆるやかなカーブを抜け減速を始めていた。深大寺で降りるつもりだった俺は玲奈の言葉を思い出していた。

「私のこと好き?」
 大学進学を考えていた彼女に数学を教えているときだった。数式から解を導き出すのは得意なはずなのに俺は答えに窮していた。付きあい始めてからずっと先延ばしにしていた問題だった。立ち上がり屋上のフェンスを握りしめ、大声で叫んでしまえればどんなに楽だっただろう。たったそれだけのことができなかった。俺には勇気が足りなかった。
「うそ、うそ、困った顔している」
 無意識に顔を歪めていたのだろう。俺の鼻先に指を押しあて彼女が首をかしげる。
「困ってなんか......」
 どうしても言い出せない。理性がいつも俺の邪魔をした。
「深大寺って知っている? 本で読んだんだけど恋愛の神様がいるんだって」
 思い出したかのように彼女は言った。
「そこに行けば私たち、うまくいくのかな」
「ああ」
 あいまいな返事をしていた。
「本当?」
 今度は目を輝かせ彼女が真直ぐに俺を見ていた。いつも正直に気持をぶつけてくる。いつからだろうか、俺はできなくなっていた。
「受験勉強に専念した方がいいと思うんだ」
 突き放す態度をとっていた。校舎の向こうから吹き抜けてくる風が止んでいる。何も喋らない重苦しい沈黙のあとで。
「わかった。そのかわり合格したら、一緒に深大寺に行ってね」
告げられた翌日から俺は彼女を避けるようになった。

エンジン音が徐々に静かになってゆきほどなくしてバスが停車した。乗車口のドアが開かれ乗客たちがステップを順番に降りていく。最後に料金を支払った俺がやっとバスから解放された。
外はあったかだった。春の日差しは柔らかで包み込でくれていた。案内所でパンフレットを受け取り、山門に続く石畳の両脇に並ぶ店に目をやる。鬼太郎茶屋の軒先に並ぶ人形のわきにちょこんと玲奈は立っていた。昨日渡されたばかりの手紙が脳裏を霞める。
『約束、忘れずに覚えてくれていますか?』
 相変わらず手紙だった。携帯やメールじゃなく。彼女が合格したのは知っていた。俺に気が付き軽く手を振ってくる。あのとき以来見せてくれなくなった笑顔とともに。
「遅いよ。来てくれないのかと思った」
 ふてくされ頬を膨らませた彼女が手の届く距離にいた。懐かしくて、いとおしくなって、人目も気にせず力一杯彼女を抱きしめていた。
「先生、みんなが見ている」
 胸元に彼女の息がかかった。
構わなかった。今なら気持ちを伝えられる。そんな気がした。----------------------------------------------------------------
<著者紹介>
T-99(東京都多摩市)
「三月で退職します。疲れました」、江國からの社用の年賀状に、達筆の彼にしては少々乱れた添え書きがあった。桐子はそのインクの匂いに、ふとなつかしさを覚えた。
 江國は、桐子の大学時代の同級生だった。そしてすぐ恋人になった。大学は都心だったから、日頃のデイトはキャンパス周辺だったが、休みの日には、よく彼の下宿に近い調布の深大寺を訪れた。彼は長野出身だったせいか、自然や神社仏閣などを好んだ。当時は、人影もまばらな苔むした深大寺に詣でたり、水音をたてている湧水をたどって杉林の中をあてもなく歩き周ったものだ。三鷹の天文台まで足を延ばしたこともある。 
でも桐子は学校に、江國は商社に就職し、デイトもままならなくなるうち、自然と距離ができた。そのうち互いに職場恋愛して結婚し、付き合いは途絶えていた。
 江國は商社に入社以来、順調に階段を登りつめ、定年間際には重役にはなれなかったものの、関連会社の社長に就任したと聞く。サラリーマンなら誰もが望むコースだった。
桐子は、江國の会社に、律儀に年賀状だけは書き続けていた。江國からは、たまに社用の年賀状が返ってきたので、かろうじてお互いの消息だけは知っていた。年賀欠礼で、それぞれの連れ合いの訃報も知ったが、その時はそれだけだった。
 その江國もとうとう退職するのだ。もう七十歳だった。仕事とゴルフしか興味のない彼は、妻にも先立たれ、これからの毎日をどうすごすのだろう。暇をもてあまし悶々とした日々を送っているのかもしれないと、桐子は思っていた。

四月が始まったころ、突然、江國から桐子に電話があった。「いっしょに、深大寺に花見に行かないか」と言う。大学卒業以来、クラス会で何度か顔を合わせたことがあったとはいえ、それこそ五十年振りのデイトだった。桐子はすでに教師を定年退職していた。夫は五年前亡くなっていたし、息子たちは独立して別居していたから、誰に気兼ねもいらない。彼女は、江國の申し出を、驚きながらも承諾した。
 三鷹駅のバス乗り場で、待ち合わせをした。五十年振りなんて、江國を見分けられるだろうか。彼はすっかり年をとっているだろうし、自分もまぎれもなくおばあさんになっている。でもお互いさまだと思って、桐子は桜色のツインニットに、薄炭色のロングスカート、低いパンプスを選んだ。
 桐子がバス乗り場で駅からの歩道橋ばかり見つめていたら、突然横から声をかけられた。
「桐子だろ?僕だよ」
 江國は、黒いブルゾンにグレイのポロシャツ、同じくグレイのチノパン、スニーカーという若々しい服装だった。髪はすっかり白くなっていたが、しわ深い顔には、端正な昔の面影をくっきり残していた。
「お久し振り!」
「メガネですぐきみだってわかったよ」
 桐子は、強い近視で学生時代からメガネをかけていたが、今は遠近両用だ。
「思ったより、変わってないな」
 江國は、ニッと白い歯を見せて笑った。
「腰の曲がった、しわくちゃのおばあさんが現れると思っていたんでしょ」
桐子も笑いながら、彼をにらんだ。
ふたりは、深大寺行のバスの後部座席に並んで腰かけた。車内では、元気でやっていたか、どこか悪いところはないの、などと、まずお互いの健康を気遣った。
バスは、警察、図書館、市役所を通り過ぎ、住宅街へと進んで行った。その年は桜の開花が例年より早かったせいか、葉桜に近い桜並木がずっと続く。車窓からは、若葉色のさわやかな風が入ってきた。終点の深大寺で降りると、参道を山門へと向かった。
「このへんは、見違えるように賑やかになったな」と、江國は目を見張った。桐子は、うなずきながら、当時と同じようにそっと江國と手をつないだ。枯草のようなやさしい匂いがした。彼もごく自然に手を握り返してきた。
 ふたりは石の階段を上がり、藁葺屋根の山門をくぐって境内へ進んだ。シダレザクラが、まだ美しく花をつけていたのでしばし見とれた。ムクロジやナンジャモンジャの大木が、さわさわと風に葉を揺らしている。手水で手を清め、本堂へ詣でた。昔のままのコースだ。桐子も江國も、目を閉じて手を合わせた。
 それから開山堂へと続く古びた石段をゆっくり上った。当時は競って駆け上がったなと、思い出しながら。そこは小高いせいか、鶯がまだケキョ、ケキョと鳴いている。草や土の匂いが立ち込めていた。
「静かだなあ」
「ここは昔と変わっていないわね」
 学生時代、初めて江國とキスを交わした場所だったことを思い出して、桐子はひとり頬を赤らめた。そんなことを江國は覚えているだろうか。彼はあたりを歩き回って、少年のようにトカゲを追ったり、石を蹴ったりしていた。しばらく休んでから、今度は坂道を下って、延命観音の前で、足を止めた。
「昔は通り過ぎたけれど、これからは、ここでしっかりお願いしないといけないな」
「そうね、長生きしないとね」
 桐子も同意して、しばらく手を合わせた。
それから、当時よく通った、縁結びの神の深沙大王が祭られている深沙堂で、心を込めてお祈りした。

「ここの蕎麦はうまかったな」
「私もお腹がすいたわ。食べましょう」
 当時は二、三軒しかなかった名物の蕎麦の店も、ずいぶん数が増えていた。ふたりは、池をのぞめる静かな店を選んだ。
「どう、退職の気分は?」
蕎麦を食べながら、桐子は一番気になっていることを尋ねてみた。
「五十年、馬車馬のように仕事をしてきたから、急に相談役にと言われてとまどっているよ。でも、いつまでも会社にしがみついているわけにもいかない」
「わかるわ。私も定年退職した頃は、手持無沙汰だったもの」
江國は、うん、うんとうなずいた。クラス会で見かけた、現役時代の居丈高な態度はすっかり影を潜めている。
「妻も、三年前逝ってしまったしね」
 江國は遠くを見るようなうつろな眼をした。
「そう、ご病気で?」
「末期がんだった」
「お気の毒に。でも、お子さんたちがいらっしゃるでしょ」
「もう娘たちは嫁に行っている。時々は、僕の世話を焼きに来てくれるけれど、やっぱり亭主と子供優先だ」
「うちの息子たちもそうだわ」
「仕事があるうちは気がまぎれていたけれど、今はひとりでどうしていいかわからないという心境さ」
永年連れ添った妻に逝かれた頼りなげな姿に、桐子は慰めの言葉も見つからなかった。
「ゴルフには行かないの?」
「現役の頃は、毎週のように行っていた。商談にも結び付いたしね。でもOB連中ばかりだと、ボヤキが多くて面白くもなんともない」
今度は江國が、桐子のことを訊いてきた。彼女は夫が五年前、朝起きたら隣の布団で冷たくなっていたこと、心筋梗塞だったことなど、当時は涙なくしては語れなかった話を、さばさばと伝えた。でも夫が急にいなくなったあと、心にぽっかり空いた穴は、今でも埋まってはいない。
「それはたいへんだったね」
「私も途方にくれたけれど、いまは家で学習塾を開いて、小学生にぼちぼち勉強を教え始めたの。はりがでてきたわ」
「そうか、その道の先輩だね。ご指導いただかなくては。きみに電話してよかったよ」
 江國はちょっとほっとしたように、桐子を見つめた。そして蕎麦をもう一枚追加して、おいしそうにたいらげた。
「次は、あそこで団子を食おう」と、江國は立ち上がると、手早く支払いをすませ、桐子を山門近くの茶店へと促した。あちこちの店から、団子の焼けるいい匂いが漂ってくる。彼は、みたらし団子を注文すると、縁台に腰を降ろした。彼女も隣に座った。
 桐子が団子を一串食べて、お茶を飲んでいると、江國は桐子の分まで食べてしまった。食欲旺盛だ。これなら病気になる心配はないだろうと、彼女は安心した。
 江國は、観光案内所でもらった深大寺マップや、行事案内を広げていた。今度はナンジャモンジャコンサートへ行こう、薪能も面白そうだと、老眼鏡をかけながら資料を食い入るように眺めている。
「行く、行く、全部つきあうわ」、桐子はそう答えた。江國は、笑顔で「やった!」というように、拳を作った。伴侶を失った痛みを抱えたもの同志、これからはいい話し相手になれそうな気がした。

 帰りはバスで吉祥寺へ出て、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだ。話はいつまでも尽きず、時間を忘れた。でも夜も深まったので、次回をしっかり約束して駅で別れた。
 ふたりが別々に過ごしてきた年月に比べれば、これからの時間はあまりにも短い。十年あるだろうか。でもひとりぼっちの老後より、心を寄り添わせる相手がいたほうがずっといいに決まっている。江國もそう思っているに違いない。桐子は再びの恋の予感がした。
「縁結びの神様にお祈りしてきたんだもの。今度の恋はきっと実るわ」と、桐子は久しぶりに熱いものが全身を駆け抜けるような気がした。
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<著者紹介>
牧 康子 (東京都杉並区/68歳/女性/無職)
深大寺には、パパと一緒じゃなきゃ行ってはいけない。
深大寺の本堂で、梁の木鼻に彫られた獅子を二人で見上げる。パパは本堂の破風板を指で指し、あそこに機械が埋め込められている、と言った。
「悪い宇宙人が、あの機械で宇宙と交信しているのだ。狙いは人類破滅計画。人間を不幸にしようと常に見張っている。愛し合う男女を引き裂き大切な物を奪う」
鼻にしわを寄せ、口をイーっとしながらパパが拳を振り上げる。
「友麻(ゆま)ちゃんは大丈夫だ。パパは宇宙人バリアが使えるからね。パパ以外の男と来ちゃいかん。特に深妙堂は絶対にダメ!」
その教えを破ったせいで、友麻は何度か宇宙人にやられた事がある。
中学校の卒業式が間近に迫ったある日、初めての彼氏ができた。相手はずっと憧れていた悟志くんだった。
突然、手をつながれ、恥ずかしさとドキドキで周囲が見えなくなる。そうして、うっかり山門をくぐってしまった。
ここはダメよ、と説明しながら慌てて戻ろうとする友麻を見て、彼はプッと噴き出した。
お前の親父、やっぱりイカレてるな。蕎麦を打ちながら頭も打っちゃったんじゃねーの。
ははっと笑うその姿に、胸がスッと冷えていくのを感じた。
その後の恋も、似たようなものだった。
宇宙人はどこまでしつこいのだろう。

多少の不幸を経験しながらも無事に大学を卒業し、友麻は東京の会社に就職をした。
配属先は、九州だった。
「え!友麻ちゃん、九州に行っちゃうの?」
ドレッドヘアーを振り乱し、タイダイ染めの派手な甚兵衛を着たパパが両手をあげて驚く。みるみるうちに目に涙がたまり、その場でうずくまった。そのまま、下唇を突き出して拗ねた表情でつぶやく。
「友麻ちゃんがいなきゃ、パパ死んじゃうでしょ」
その夜は、パパ特製友麻ちゃんLOVE蕎麦でお祝いをしてくれた。
ハート型に切った小さな海苔がかけられた盛り蕎麦に、大きな海老の天ぷらが二本。
つけ汁に溶き卵を入れ、そこに蕎麦をつけて食べる。つるりとした絶妙な食感の九割蕎麦を噛むと、マイルドな味わいが口に広がる。
趣味の蕎麦打ちが高じ、パパは十年前に脱サラをした。ママと一緒に食べた、深大寺蕎麦が忘れられない。その思いによって、深大寺通り沿いに蕎麦屋を開く。
ママは、産後の弛緩出血がひどく、友麻が生まれて数日のうちに亡くなった。
いつもボブ・マーリーが流れている店は蕎麦屋らしくなく、パパの容姿も相まって当初はあまり繁盛しなかったらしい。


もやぁっと、あたりを包むこの空気は、夏だけの特殊な存在に感じる。強い日差しが、空気を茹でているみたい、と友麻は思った。
歓迎するかのようにセミの鳴き声が聞こえる。
友麻は4年ぶりに深大寺通りを歩いていた。
SOBA・YAHH!と書かれた、ブルーの生地に、タイダイ染めされた暖簾が見えてくる。
変わってないなぁ。
友麻は思わずニンマリしてしまう。
店を入ろうとした瞬間、中から人が出てきた。危うく、ぶつかりそうになる。
「スミマセーン。ダイジョブ?」
片言の日本語?
ハッと顔をあげると、ブルーの瞳がこちらを見ていた。色素が薄く、長い睫毛がきれいなカーブを描いている。
「あ、はい。ダイジョブ。」つられて片言になる。
「ガッテンショーチノスケ!ワタシ、デマエ。ココ、ソバまいうー!チュウモン、タクサン」
ふと見ると、手には岡持ちが握られている。顔をくしゃっとさせて微笑み、ウェーブがかった短めの金髪をサラサラと揺らして、彼は走り去って行った。
まいうーは良いけれど、ガッテンショーチノスケの使い方が間違っている気がする。

十六坪ほどある店の入り口から、すぐ右手にカウンター席がある。そこに座り、パパ特製友麻ちゃんLOVE蕎麦を丁寧に食べる。
カウンターには、黄色地にヘナの葉をあしらったジャマイカ風の布が飾られ、棚には焼酎の瓶がずらりと並ぶ。違和感ある組み合わせだが、パパらしさを感じてほっこりする。
「太郎、うまいかー?」
パパは仕込みをしながら、テーブル席で蕎麦をすする人物に声をかけた。
四人がけのテーブルは三席ある。席にはヨーロピアン調の白い小さな花瓶に、造花のエーデルワイスがちょこんとささっていた。
壁には赤地に白い十字の布が飾られている。赤十字の旗みたいだ。これは明らかにパパの趣味ではない。
「ハイ。パパサン。デリシャスネ」
太郎と呼ばれているのは、出前をしていた外人さんだ。外資系の生命保険会社に勤めている。3か月前に駐在員として日本にやってきた。赴任してすぐこの店に訪れ、パパと意気投合したらしい。以来、休日はいつも手伝いに来ている。
本名は『り』に濁音をつけて巻き舌で発音するという、日本人が発音できそうにない音が混ざった名前だそうだ。それでパパが太郎と名付けた。もっといい名前があったろうに。

翌日、友麻は太郎を観光案内に連れて行く事になった。
店の手伝いばかりで、太郎はろくに観光もしていない。それではあんまりだと思い、友麻が自ら案内役を買って出た。英文科を卒業した友麻なら、まだ日本語が拙い太郎と英語で会話することも可能だ。
太郎はまず、深大寺に行きたいと言った。
ふとパパの教えがよぎる。
せっかく日本に来ているのだ。恋人ではないし大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、友麻は観光ルートを頭に描いた。
木々の中に佇む平屋づくりの家や、多くの蕎麦屋を眺めながら石畳を歩く。山門をくぐって本堂でお参りをすませ、境内を散策する。
おみくじに護摩祈願、鐘楼と、太郎には、すべてが新鮮に感じるようだ。大きな身振り手振りをつけて、一つ一つに感動を表す。
「ここね、宇宙人に乗っ取られているってパパに聞いた?」深妙堂の裏にある泉を見ながら友麻は言った。
「宇宙人?」怪訝そうな顔で、太郎は聞き返した。
「そう。人類破滅計画を実行する、悪い宇宙人。人を不幸にするの。だから本当は、パパがいない時に来ちゃいけないのよ」言い終わると同時に、友麻は通りに戻って歩き始めた。
太郎が止まっている。
どうしたのだろうか、と太郎を見る。
顔が真っ青だ。大きな瞳は、より一層大きく見開かれていた。
「それは大変だよ、どうしよう、どうしよう!」右に左に、せわしなく体を動かす太郎。
思わぬリアクションに、友麻はぽかんと口を開けてその様子を眺めていた。
友麻が蕎麦を茹でる際に、火傷を負ったことがあった。その時のパパの反応に似ている。頬がゆるみ、自然に笑みがこぼれる。
「友麻、早く帰ろう」そう言うなり、太郎は友麻の手を取って走り始めた。
「あ、ちょっと」友麻は、ソーリー、ソーリーと叫ぶ太郎に合わせて走ろうとした。その瞬間、サンダルが脱げそうになり、バランスを崩す。
「危ない、友麻ちゃん!」
背後で声がしたかと思うと、友麻は太郎に抱き抱えられるかたちで支えられていた。
細身に見えた太郎の、意外にもがっしりした胸板を感じ、友麻は飛び起きるように身を起こした。太郎の顔が見られず、友麻は顔をそむけるように声のした方を向いた。
たくさんの葉っぱが絡まったドレッドヘアーに、土で汚れたタイダイ柄の甚兵衛姿の人物がこちらを見ている。
「パパ!なんで?」
「あ、いや、太郎といえども、ほら、男だし」落ち着きなく、目をさまよわせていたかと思うと、すぐに何かを思いついたようにパパは顔を輝かせた。
「それにしても、友麻ちゃんはパパの話を覚えていたねぇ。嬉しいねぇ」
ふぅ、とため息をつき、友麻は地面にお尻をついたままでいる太郎に手を差し出した。
「帰ってお蕎麦、食べようか」
太郎がブルーの瞳をキラキラ輝かせ、嬉しそうに頷く。
「ユマ、ヨカッタ!パパサン、イタネ。エイリアン、ワルイコトデキナイ」立ち上がった太郎は、がばっと友麻に抱き付いた。

スイス行きの飛行機に乗り、席を見つけて友麻は体をすべりこませる。
7年間の勤務お疲れ様、お幸せに。そんな言葉でいっぱいの色紙に一通り目を通すと、友麻は大きくなったお腹をなでた。
大きな手が友麻の手に重なる。顔をあげるとブルーの瞳がこちらを優しく見つめている。 
パパが放つ宇宙人バリアの威力は絶大だ。
ゲートで大泣きするパパを思い出す。
世界のすべてが愛しく思えた。
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<著者紹介>
ゆきち(埼玉県/会社員)
 子泣き爺と砂かけ婆がテーブルに向かい合って、蕎麦を啜っている。女性の店員はそんなことお構いなしといったように、手早く食器をタオルで次々と拭いていく。彼女には妖怪は見えていないのだ。子泣き爺が天ざる、砂かけ婆がとろろ蕎麦だろうか。仮に彼女に見えたとしても驚かないかもしれない。その姿は日常的で人間らしい、妖怪といったようなおどろおどろしさがない。
「エーアールっていうんです」
 隣に座る藤井さんがタブレットから顔を私の方に上げた。
「オーグメンテッドリアリティ。日本語だと拡張現実っていうんですけど」
 藤井さんの言う横文字に追い付いていけないが、動画や文字などをスマートフォンやタブレットの画面上で現実に重ねて浮び上がらせることができるのだという。
「調布市は水木しげる先生の第二の故郷とされていて、ここ深大寺の入口に鬼太郎茶屋というお店があるんです。先程通り過ぎたところですね」
 ねずみ男と鬼太郎のオブジェがあった。鬼太郎茶屋の存在は私も知っている。ここに遊びに来れば必ず目に留まる、特別な出で立ちのお店だ。
「部長と僕で立ち上げたプロジェクトは深大寺を妖怪とエーアールを使ってより盛り上げていこうというものなんです」
 藤井さんの上司でもある私の夫、宮中義武は七週間前に亡くなった。五十八歳だった。心筋梗塞で倒れて、あれよあれよという間に。今日は四十九日の法要を終えてきた。二人で深大寺に訪れている。告別式の時に藤井さんが見せたいものがありますと言うので、今日の約束をしたのだ。
「妖怪スポットという場所を深大寺境内に設置し、そこでタブレットをかざすと妖怪たちが浮かび上がるというものです」
 私たちがいる蕎麦屋も妖怪スポットの加盟店になる予定だそうで、子泣き爺と砂かけ婆が見ることができる。子供のように嬉しそうに話をする姿は少し主人の若い頃を思わせる。主人が生前に藤井さんの話をよくしていたのは、自分に似ている所が気に入っていたのかもしれない。
「本堂は特別なスポットなんです、ぜひ見ていただきたい」
 行きましょう。そう言って藤井さんはお会計を済ませた。
 蕎麦屋が立ち並ぶ歩道を抜けて行く。軒先で掃除をしている人達と藤井さんが挨拶を交わしている。
 山門をくぐると厳めしい本堂が現れた。
金色の十二単を身にまとった大柄な男が本堂の中をゆっくりと通り過ぎる。
「深妙大王ですか」
「そうです。部長が深妙大王の衣装から何まで決めていきました」
 常香楼の前に二人で立ち、タブレットを覗いている。私は主人が言っていた、その姿を初めて目にした。頭には銀色の大きな王冠をかぶり、立派な髭を蓄えている。主人が見たという深妙大王の身姿。何とも綺麗なお方なこと。
「この姿は偽物です。本当は深妙大王の姿は見たことがないのに、奥さんに嘘をついてしまったと、部長が言っていました」
 藤井さんはおでこに噴き出す汗を拭った。
「それが引っかかっていたみたいで、これを作ったんです。お詫びと言っていましたよ」
あれは、私がまだ二十三歳の時だ。
  
「さっき本堂でとても綺麗な着物を着たおじさんを見たんです。こんな大きな冠を頭に付けて、のそのそと歩いていたんだけれど、僕と目があった時にすっと消えました」
 義武さんは夕暮れに滲むヒグラシの鳴き声と一緒に大げさに身振り手振りをしている。私が目を瞑ってお祈りしている時に神らしき姿を見たのだそうだ。
「なんですか。お坊さんでしょうか」
 私たちは本堂を離れ、元三大師堂に来ていた。夕暮れの深大寺境内。木々に囲まれており、いくらか涼しく感じるが、それでも背中、首筋にべとつく蒸し暑さが撫でつける。
「あれは深妙大王に違いない。僕らを祝福しているのかもしれません」
義武さんは恥ずかしそうに右手で後頭部をぽりぽりと掻いた。くせ毛がいっそう広がり寝起きのような髪型になる。
今日の義武さんは随分と落ち着きがない。心あたりはある。今日、義武さんは私にプロポーズをするつもりかもしれない。ポケットから浮き出ている四角い箱はきっと指輪だ。
「そうかもしれません。良いことがきっとありますよ」
 深妙大王を見たというのは嘘。義武さんがしっかり目を瞑って、真剣に何かをお願いしている姿を私は隣で見ていたもの。本堂はさっきので、本日二回目。境内にあるお寺はすべて回った。もう少しお参りしましょうと義武さんは言うけれど。そろそろ足が疲れてきました。
「ですよね」
義武さんが子供のような目で嬉しそうに私を見た。私の返事はもう決まっているの。はやくプロポーズしてくれないかしら。
「この元三大師堂で最後にします。心に決めました」
 そう言って私の右手を掴むとぐいぐいと引っ張っていく。
 お賽銭箱の前に着くと、義武さんはまた真剣な表情で、目を閉じる。ごつごつとした手を合わせながら。私もそっと両手を合わせてお祈りをする。この人をお守りください。
「僕と、結婚してください」
 目を開けると、そこには小さな箱の中に銀色の指輪が光っていた。やっぱり、本当にわかりやすいんだから。

 あれから三十二年もたったのか。それは、いろいろあった。
「実は、本当にお見せしたいのは、元三大師のほうなんです」
 藤井さんの声に我に返る。嫌だわ。年を取ると、物思いにふけることが多くなる。
 私は藤井さんについて元三大師堂への階段を上る。そこで彼が立ち止まる。
「秘密のエーアールスポット二つ目です。ここで、アプリを起動させて覗くと、ほら見てください」
 元三大師堂に向けられたタブレットを覗く。藤井さんが私の身長に合わせて、低く掲げてくれた。画面には現実と同じ元三大師堂が映っている。
「何も出てこないわね」
「もう少し待ってくだい、そろそろです」
 すると、今私たちが立っている所から歩き出したように、二人の男女が画面にフレームインしてきた。
 男はチノパンに少し着古された白いシャツ。女は小さな花が沢山入った水色のワンピースを着ている。私は胸を締め付けられる。あの時の私たちだ。
 画面の中の主人は何やらワンピースを着た私に対して話かけている。頭の上に手を添えたり、顎のあたりをさすったり。とても大きな動きで何かを伝えている。深妙大王の嘘をついているのかしら。私は腰の後ろで手を組んでゆっくりと主人と歩調を合わせていく。立ち止まった二人はお互いに顔を合わせたかと思うと。手を繋いでぐんぐんと今の私から遠ざかっていく。主人のポケットが四角くふくれているのがわかった。
 二人はお賽銭箱の前に着くと手を合わせ始める。すぐに主人はまだ目を瞑っている私の方を向き四角い箱をポケットから私に差し出した。
「もちろん、よろしくお願いいたします」
 私は藤井さんの隣で答えていた。タブレットの中の動画は再生を終え元の現実を映す。
「今のワンピース、本物をお借りしました。部長がこっそり奥さんのタンスの中から持ってきたんです」
「あの人、私があのワンピースを取っておいていること知っていたのね」
 頬に生ぬるいものが伝う。とっさに目をこする。私は泣いていた。悲しい。嬉しい。恥ずかしい。感情の名前なんてわからない。
「このエーアールは会社に内緒で作ったんです。実は部長の役、あれ僕なんですよ。それと、奥さんの役は僕の彼女がやってくれました。どうでしたか。部長は似てるって言ってましたけど」
 藤井さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「主人はもっと、びくびくしていたと思うわ、変な嘘を付いてしまうほどに」
 私たち二人は、深大寺をでてバス停に腰を下ろした。藤井さんは三鷹行を私は吉祥寺行をそれぞれ待つ。いつの間にか日が傾き人もまばらになっている。
「僕、結婚することになりました。さっきの彼女と。あの時、本当にプロポーズしているんです」
「まぁ、そうだったの。それはおめでとうございます」
「二人で話すんです。部長たちみたいな夫婦になりたいねって」
 吉祥寺行きのバスが向かってくる。
「藤井さん。今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
「私たちみたいな夫婦って言ったけれどね。たまには好きとか、愛しているとか恥ずかしい言葉もかけてあげるのよ」
 何がおかしいのか藤井さんは微笑む。
「奥さん、部長も同じことをおっしゃっていましたよ」
 バスがプシューと音を立てて止まった。
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<著者紹介>
吉田 塁 (東京都武蔵野市/26歳/男性/会社員)
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