梅雨時期の放課後。掃除当番は終わった。
 高校二年のオレ、遠藤宗一は図書室に向かう。オレは文芸部に所属しており、先日提出された課題について、資料が欲しかったのだ。

 先日の文芸部会議で三島祐輔部長は、その太い腕でがっしりとペンを握り、図書準備室のホワイトボードいっぱいに課題を書き記し発表した。
『緊急企画! "深大寺短編恋愛小説"に文芸部全員で応募!』
『今回出展する作品は文化祭で配布!』
 オレはそれをみて今回の課題に猛然と反対した。
 「は?恋愛小説?恋愛? 部長、無茶だよ!おれ恋愛小説とかあんまり読まないし。しかも学校で配るなんて恥ずかしいじゃん!女子からも何言ってやれよ!なあ、山田!」
「わたしは賛成です。」
 当てが外れた。山田ならば反対してくれると思ったのに。彼女はいつもの冷静な口調で付け足した。
「地域活動に貢献できますし、自分の作品を世間に発表できるなんて、素敵な機会だと思います。」
 部長、副部長は当然のこと、山田晴美もやる気だ。もうひとりの女子、吉本杏美は少し困った顔をしていたが、部の決定には反論しづらいと見え苦笑していた。憮然とした態度のおれ見て、三島部長はニヤッとしたあと皆に告げた。
「では、今度の土曜日に五人全員で現地調査へ行こうと思いますので、よろしく!」

 そんな訳で早速、今日の放課後から取りかかろうと思う。やるからには全力を尽くすのがオレのモットーだ。図書室の引き戸をひくと受付カウンターには、我が文芸部の吉本が座っていた。原稿用紙に何か書いているようだ。吉本とはクラスも違い、部活でも女子同士でいることが多いため、あまり話したことがなかった。小柄で整った顔立ちに白い肌。さらさらな髪、はっきりいって美人である。見渡すと図書室にはオレと吉本以外誰もいない。微妙な緊張感を覚えつつもオレはとりあえず尋ねた。
「あれ、もう一人は?」
 図書室の受付当番は二人一組のはずだ。
「‥‥。遠藤君????。」
と、吉本はちらっとこちらをみて答える。しかし、すぐに原稿用紙へ目を向け、またすぐに書き続け、黙り込んでしまった。しばらくの沈黙に耐えかねて、問いかける。
「えっと???、今日は吉本が当番なんだ。丁度よかった、例の課題に役立ちそうな資料ってない?例えば昨年の受賞作とか?参考になるといいけど。」
 すると今度はしっかりこっちを向いて、強めな語気で返答してきた。
「ない。ないよ。それにこういうのに応募する時は影響されちゃうから読まないほうがいいよ。絶対!」
「い‥、いやあ、まあ、どんなかな?と思って、ちょっと参考にね‥。」
 オレは戸惑い気味に言葉をもらすと、彼女はこちらから目をそらし、少しきまり悪そうに言った。
「ゴメン、その???、わたし、いま小説を書いていたところだったから‥。ちょっと‥。」
 そんな上の空の状態で、図書室の受付をしていていいのだろうか‥。
「いやいや、オレの方こそゴメン、気がつかなくって。吉本の創作に対する姿勢は立派だね。どんな話を書いているの?オレなんて全然思いつかないよ。深大寺っていったら、蕎麦、ビール、あと縁結び効果と神代植物園ね。昔よく家族で行ったな。」
「遠藤君は書かないの?前から不思議に思っていたけれど、あんまり文集にも載せてないよね。それに一年の今頃まで剣道部だったでしょ?」
 不意に痛いところ突かれた。
「文章書くのは好きだよ。よくノートに書き留めている。でも、毎回尻切れとんぼになっちゃって、締め切りに間に合わないんだ。」
「それは残念ね。締め切りは守らなきゃ。」
彼女らしい真っ当な答えが、微笑みと共に帰ってきた。
「オレが剣道部だったってこと、部長から聞いたの?三島部長も剣道部だったんだけど、一緒に文芸部へ移ったんだ。」
「剣道部から文芸部って、ずいぶん畑ちがいね。」
「まあね。でも、オレ結構、本読むほうだよ。それに剣道に対する情熱がそんなに強いわけじゃなかったからね。」
「そうなの?」
「そう、朝練に出ようっていう根性がなかった。」
「それは、へたれね。」
 吉本から"へたれ"という言葉が出るとは思わず、つい笑い出してしまった。つられて彼女も笑い出す。オレは少し、吉本との距離を縮めた気がした。
「吉本は2年から入ってきたよね。どうして?」
「えっ?まあ???、なんとなくね‥。あっ、そこの棚に東京名所ガイドブックがあるけど、深大寺のこと載っているわよ、きっと。」
 あからさまに話題をはぐらかされた気がするが、まあ単なる世間話だ。深くは突っ込まない。
 吉本が指差した方向にある棚をぼんやり眺め、また視線を戻すと彼女は既に原稿用紙に向かっていた。
 楽しい時間が過ぎ去り、一抹の寂しさを覚えつつも、今はすこし吉本に近づけた事に心が弾んでいた。

 そして、深大寺集合の日がやってきた。深大寺敷地内の鐘楼前十一時三十分が待ち合わせ時間だ。「もうすぐ鐘つきがはじまるぜ。」既に到着していた三島部長が教えてくれた。
 鐘の音がなり、その余韻に浸っているところで副部長が姿を現した。
「よし、全員揃ったな。みんな昼飯はまだだよな。蕎麦食べながら、今日の巡回コースを決めよう。」
 本堂が目の前にあるにも関わらず見学は後回しになった。山門を潜り、蕎麦屋へ向かう。
 石で組まれた路面。瓦の軒先をもつ店並み。時代劇の世界にはいったような空間が広がりわくわくする。
 ふと、青いテントに『深大寺恋物語』と書いてある看板が目についた。バックナンバーを販売しているらしい。吉本には止められていたが、昨年の『第二十集』を購入してみる。
 周りの風景を見ながら、はしゃぐ皆に遅れを取らないよう配慮しつつ、ぺらぺらと頁をめくってみると、名字は違っていたが、オレとおなじ名前の主人公の話があった。さらに読み進めていくと、剣道部の先輩と後輩による男子同士の恋物語が記されている。
「なんじゃこりゃ‥。この先輩って三島部長と同じ名前だ。学校から深大寺までの描写って明らかにうちの学校だし。それにしても同性愛かよ。」
 著者紹介を見た。<飛田給杏樹(東京都調布市/十六歳/女性/学生)うちの学生で小説を書いて送るやつなんて文芸部の二人以外にいるだろうか?杏樹、調布市飛田給‥。吉本は杏美。"杏"の字がだぶるな。彼女の住所は飛田給だったか?などと考えていたら皆とはぐれてしまった。そこに携帯電話が鳴った。三島部長からだ。
「おい!どこいった?もう店に入っているぞ。遠藤の分、もりそば頼んじゃうけどいいか?」
 教えられた店に到着すると、皆、席についていた。
「何やってたんだよ。天ぷら追加する?」
 おれはこの本を三島部長に見せるか迷っていた。吉本にも読むなと言われていたし、ここでは出さないようにしよう。だが、探りを入れてみることにした。
「吉本ってペンネームあるの?」
「えっ?な‥ないよ。なんで?」
「うん、今回、自分の名前どうするか決めかねてるんだよね。文化祭でも配布される訳だし、ちょっと恥ずかしいじゃん。三島部長はツイッターとかのアカウント名だよね。」
「おう、" yusucom(ゆすこん)"だ。だがなあ、どのみち文芸部って5人しかいないだろ。バレバレだよ。そんなの気にしていたら何にも書けないぞ。」
「でも、性格とか考えとか文章に出るでしょ。後々まで残るし、慎重に慎重を期したいんですよ。」
「そうか?あんまり考えすぎると、つまらない物しか出来なそうだけどな。遠藤はもっとガンガン書けよ。そんな調子だから毎回締め切りに遅れるんだよ。」
 話が嫌な方向に向かってしまった。ちらっと吉本の方を見ると、彼女はオレから目をそらして、コップの水を口にした。
 蕎麦屋を出てオレたちは早速、縁結びのパワースポット深沙堂へ向かう。ぞろぞろと歩いていると吉本がオレの隣に来てつぶやいた。
「遠藤君、去年の恋物語読んだでしょ。」
「やっぱり吉本か。」
「ごめん、勝手にモデルにしちゃって。遠藤君と三島部長って仲良さそうに見えたから。想像したら止まらなくなっちゃって‥。まさか入賞するとは思わなかったし。怒ってる?」
「う?ん‥。それより、そんな風に見られていたって事がショック。」
「遠藤君のことずっと見てたよ。」
 彼女はまっすぐにオレの目を見て言った。
 縁結びの神様は、もうご利益を与えてくれたようだ。
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<著者紹介>
飛田給麻呂(東京都三鷹市/42歳/男性/会社員) 
多摩川に続く長い下り坂を眺めながら、私は、真夏の太陽の下で立ち尽くしていた。汗が吹き出し、青いブラウスが背中に貼り付くにつれ、日本の湿気の多さを思い出す。時折吹いてくる風には、草木や土や溶けたアスファルトの匂いが含まれていたが、潮の気配は少しも無い。帰国したことに対する喪失と安堵が交錯した思いは、長いフライトの疲れと混ざり、体を鉛に変えていった。
蝉の無節操な鳴き声に急かされるように、スーツケースを引いて歩き出す。植物園を右に見ながら、深大寺の山門辺りに差し掛かった時、疑問が一つだけ浮かんだ。オーストラリアにも蝉はいたっけ?わずか半日前が、随分昔に感じられる。記憶を揺り起こすのも面倒で、家に帰ると挨拶もそこそこに、寝た。

高く登った太陽の光がカーテンの隙間から差し込み、頬を刺す。エアコンは作動していたが、その熱さで目を覚ました。時計を見れば既に九時を回っていた。六畳間にはベッドや学習机やローテーブルやチェストが所狭しと置かれ、壁には好きだった男性アイドルのポスターが貼られている。全て高校時代に使われたままだ。どれも古く、安っぽく、アイドルは幼い少年にしか見えなかった。
オーストラリアの大学に進み、現地で就職、結婚そして離婚を経験した。既に三十路近くになり、十年という長い年月を経て大きく強く成長したつもりだったが、こうして朝寝坊をしてみると、何もかもが夢のようにも思えた。

 シャワーを浴び、ジーンズとTシャツを着て一階の店舗に降りて行くと、そば打ちを終えた父がテーブルで水を飲み、休んでいた。母は厨房で天ぷらや薬味の準備をしている。
 「しばらくお世話になります」
私は深々と頭を下げ、改めて挨拶した。
「わざわざご丁寧に。自分の家なんだから好きになさい。ねえ、お父さん」
母はさつま芋の皮を剥く手を少しだけ休めて言い、父は水を飲み干すと、「おう」とだけ答え、冷蔵室の中に入っていった。
「お父さん、怒ってるの?」
「まさか。嬉しいのよ。で、恥ずかしいの」
「ふーん。......それでね、仕事なんだけどさ。次に何をしたいか、全然分からないの。悪いんだけど少し時間を掛けて考えてもいいかな。店のお手伝いはするから」
「あら。あなたが?昔はお店の手伝い、嫌がってたのにねえ」
「一時期だけよ。多感だったからね、あの頃は。......布巾はこれ?」
そう言って私は客席のテーブルを力いっぱい、丁寧に磨いていった。窓の外の金木犀の木が、映り込むくらいにピカピカに。

私の家は祖父の代より続くそば屋だ。老舗というと聞こえは良いが、実態は古いだけ。そう思っていた私は、中学生になると英語の勉強に熱中した。二年生の途中から反抗期を迎え、スーツで出勤する父親を持つ友達に対する気後れもあり、店の手伝いを全くしなくなった。高校時代は部活と勉強に集中し、卒業と同時にオーストラリアに渡らせてもらった。離婚後、そのまま住み続ける選択肢もあったのだが、両親に対して何の恩返しもしていない後ろめたさと、会いたい気持ちが強くなり、帰国を決意したのだった。

「いらっしゃいませ」
エプロンを身につけ、髪を後ろで一つにまとめた私は、元気良く挨拶をする。一人でご来店されたお客様はテーブル席に、三人以上のお客様は畳の席にご案内し、水とメニューをお渡しする。注文を聞き、料理を運び、水を注ぎ足し、そば湯を出す。会計をして、器を下げる。そんなに大きくはないと思っていた店だったが、やるべき事は山ほどあった。人の流れを読んだり、お客さんが求めるタイミングを計って動いたり、気をつけねばならない事も沢山あった。

「壁に取り付けられたランプが点灯するのを、タッチして消していくゲームがあるんだけどね、それをずっとやってるみたい」想像以上に疲れた私は、遅い昼食を食べながら感想を言った。
「今日は美香が手伝ってくれて、母さん楽だったわ」
母はそう言いながらお茶を淹れた。既に食べ終えていた父は熱そうにすすり、飲み終えると腕を組んで仰向けで寝始めた。
「いつもこんなに忙しかったの?」
「土日になるともっと忙しいわよ。慣れと、あとはお父さんとだから乗り切って来れたのかしら。ねえ?」
父は無表情のままゴロンと横を向き、それがとても微笑ましかった。そしてその時初めて父のモミアゲ辺りの髪の毛が、すっかり白くなっているのに気付いた。
「洗い物は私がするね」食卓に並ぶ食器をトレーに移し替えながら私は言った。
「大人になったわねえ」母はつぶやき、二杯目のお茶を淹れ始めた。

しばらくして父が、夕方の営業分のそば打ちで厨房にやってきた。料理は愛情がモットーの父は、作業の全てを手で行う。愛情を込めてそばを手早く手際良く打つと、味も香りも、機械では出せない程に上質になるのだそうだ。
そば粉がふるいに掛けられ、新雪のスキー場が作られる。お湯が加えられ、スキー場は生命ある無数の雨粒に変わり、雨粒は一つにまとまって、やがて滑らかな陶磁器の球体が出来上がる。それが薄く延ばされ、切られ、麺になってゆく様子は、魔法の様でもあり美しくもあった。子供の頃、飽きもせず眺めていた理由を、今更ながらに理解したのだった。

初日という事もあり、夕方の営業が終わるとすっかり疲れ切ってしまった私は、早々にベッドに潜り込んだ。頭には何の心配も浮かばず、いつ寝たのかも気づかないほどで、それは本当に久しぶりの事だった。

三週間があっという間に過ぎた。太陽は眩しく、蝉は賑やかで、夏休みという事もあり、ありがたいことに店は連日大忙しだった。潮の流れや天候の変化を見極める航海士よろしく、私は店舗という名の大海原を自在に動き回り、お客さんの細かな表情も読める様になっていた。嬉しかったり楽しかったり、悲しかったり怒っていたり。お店に入るまでの感情は様々だけど、その人達が笑顔になる瞬間が、私は何よりも好きだった。
父は最高のそばを作り出し、母と私は最高のサービスを提供する。家族三人で作品を世に送り出すという、創作活動にも似た日々は、私の乾いた心に恵みの雨を降らせ、活力を芽吹かせた。そしてその力は、私を深大寺へと向かわせた。百メートルも離れていない距離だが、縁結びの名所としても知られるお寺は、つい先日まで最も縁遠い場所だったのだ。賽銭を投じ、礼拝し、退出する。見上げた八月十五日の空は、透き通る様に青かった。

その日の夕方からのお客さんはご近所の方が多く、父も母も親しげな挨拶を交わしていた。反抗期になってから私は、近所付き合いを殆どしなくなり、中には十五年近くも顔を合わせていない人もいたのだが、昔の面影は必ずあった。相手も私に気付くと目を丸くしたりするので、その度に私は、「お久しぶりです、美香です。先日、オーストラリアから帰って来ました」とにこやかに挨拶した。
実は私は、帰国してから友達の誰にも、まだ連絡をとっていなかった。会いたいとは思っていたのだが、プライドや気恥ずかしさが邪魔をし、コンビニや駅前の本屋に行く事も避けていたのだ。だから閉店近くに来た男性二人組が同級生だと気付いた時には、思わずトレーで顔を隠してしまった。元気で騒々しかった杉本と矢口の馬鹿男子コンビは、たくましく落ち着いた大人になっていた。
「そんなにビックリする事ないじゃん」と杉本が笑って言う。
「ごめーん。それにしても、随分と大人の男って感じになったよね」
「毎日鍛えられてますから。そっちだって自立した女性って雰囲気出てるぜ。オーストラリアに住んでるんだよね。いつまで日本にいるのさ?」
「ずっと、かも」私は状況を説明した。
「本当?」甲高い声で叫ぶと、杉本はそれきり黙り、そばを勢い良くすすり始めた。店内にはズズズー、という音だけが響き、少しして矢口がくつくつと笑い、口を開いた。
「なにはともあれ、お帰り。ところで再来週に調布市の花火大会あるでしょ?俺ら毎年行ってるんだけど、一緒にどう?京子とか綾香にも声掛けてみるけど」
懐かしい名前だった。それと共に、様々な情景を思い出す。
「行こうかな。うん、行くよ。絶対」私は力強く答えた。

二人が帰るのを、店の外まで見送った。
「俺、また食べに来るよ」杉山はやっぱり高い声で言った。そこにどんな感情があるかを察せないほど、私も鈍くはなく、そんな少年っぽさを残した杉本が、なんだかとても可愛らしく感じた。
木々のこすれる音がして、一陣の風が吹いてくる。風の中には植物園やお寺の深い緑や歴史の匂いがし、花火の気配もあった。夜空には大きな月が浮かんでいて、私はそれをいつまでもいつまでも眺めていた。
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<著者紹介>
関根 淳一(埼玉県鴻巣市/38歳/男性/会社員) 
 そば屋の朝は早い。そばを打つだけではなく、サイドメニューの仕込みや店内の掃除などに追われ、開店時間のずっと前から支度をしなくてはならない。おまけに今日はいつもより早く店を開けなくてはならなかった。
「やってる?」
 現れた幼なじみは、まだ掲げてもいないのれんを押し上げる仕草をして見せた。
「やってないけど特別な」
「昨日予約しといてよかった」
 軽口を返しながら、志乃(しの)は厨房に一番近い席に座った。いつもの席だ。丈の長いTシャツを着ていて目立たないが、履いているのは基(はじめ)も通っていた高校のジャージだった。
「地元だからって気を抜きすぎだろ。お前だってもう三十......」
「もう親にさんざん言われたからいいよ。鴨せいろ一丁」
「はいはい、鴨せいろね」
 他には誰もいないため、店主自ら注文を取って基は厨房に引っ込んだ。父親からこのそば屋『時雨(しぐれ)庵(あん)』を継いで六年になる。深大寺の門前にはそば屋が軒を連ねている。他の店に負けないそばを作れと子供の頃から耳にたこが出来るくらい言われてきた。
「はい、鴨せいろ」
「おいしそう。いただきます」
 志乃は組んでいた長い足を揃え、両手を合わせた。丁寧に「いただきます」を言うところ。待っている時手持ちぶさたになって携帯をいじり回したりしないところ。何も変わらない幼なじみの仕草に基は小さく笑った。
「何? 人の顔見て」
「いや、昨日とギャップがありすぎて」
「ドレスアップした姿と高校のジャージ姿比べられてもね」
 昨日、二人の高校の同級生の結婚式があった。イタリアで暮らして長いせいなのか、志乃のドレス姿は他の誰とも違っていた。背中が大胆に開いていた紫のドレスと白い肌が一体となり、なめらかな花弁のようだった。初秋の朝から清新な雰囲気のそば屋で思い返すのもどうかと思いつつ、基は志乃の前の椅子に座った。
「指輪、あいつらも喜んでたな」
「メールとかで何度も打ち合わせしてたからね。真美好みの薔薇のモチーフも入れたし、私としても結構自信作かな」
 新郎新婦の指に輝いていた華奢なデザインの指輪が基の脳裏によぎる。志乃はイタリアのフィレンツェで金細工師をしている。正確に言うと現地ではインチゾーレと呼ばれる彫刻職人らしい。実家の小料理屋『志のや』を継いで欲しいという家族を振り切り、大学を卒業する前に日本を飛び出した。
 もとはといえば、ほんの一瞬だけ幼なじみではなく恋人になった大学生の頃、基がメディチ家をテーマにした展覧会に志乃を誘ったのだ。メディチ家に興味を持っていたのはそれを題材にしたマンガを読んでいた基だけで、志乃は「誘う前にマンガ貸すべきでしょ」と唇を尖らせていた。でも、物販コーナーでメディチ家が統治していたフィレンツェの品として金細工が並べられているのを見て志乃の目の色が変わった。繊細な透かし彫りが施された宝飾品をためつ眇めつしている彼女の瞳の輝きを基は今なお思い出せる。
 つるつると美味そうにそばを食べる志乃の頬はあの頃に比べると痩せていた。子供の頃からスレンダーだったが、若いうちはそれでもまだ肉付きが良かったのだろう。
「そういえばいつ帰るんだっけ?」
「今日の夕方」
「ずいぶん急だな。正月はもっとゆっくりしてただろ」
「盆暮れ正月でもないのに見習いの身分でそうそう休むわけにはいかないからね」
「夏と冬は大手を振って休めるのか?」
「イタリア人だからねぇ。その辺は休みたいみたいよ。だから弟子もお休みってわけ」
「それならもうちょっと帰って来てばあちゃん達に顔見せてやれよ。皆修行が厳しいから帰って来れないんだと思ってるんだぞ」
「やーだ。年に一回くらいじゃないとお互い疲れちゃうもん。店継げ結婚しろ子供はまだかって。そういえばだるま踊りなんてやってたんだね。うちに張りっぱなしのポスター見たんだけど」
 だるま踊りとは、だるまの格好をして「深大寺音頭」で踊るものだ。長年絶えていたのだが、近所の主婦がメインとなって復活させた。志乃はまだ一度も見ていないはずだ。
「私もだるまを着て踊る主婦になりたかったなぁ」
 遠い目をして呟いた志乃に基はそれこそだるまのように椅子から転がり落ちかけた。
「......ああ、本当に私がやれるとは思ってないよ」
 基の様子に気づいた志乃が笑う。
「ただ、もし私が親の望みのままに生きられる子供だったらって思うことはある」
「今更だなぁ。お前がそんな子供じゃないなんてもうずっと前から分かってただろ」
「まあね。だけど、多少の反抗期はあっても、親を失望させずに生きていける――親の望みを自分の望みに出来る私を想像しちゃう。小料理屋の女将をやって、その辺の次男坊を捕まえて婿養子になってもらって、今頃は小学生と幼稚園児の子供がいるの」
「それでだるま踊りを踊る、とね」
「そうそう。もちろん踊ってる人達にはそれぞれの人生と選択があったわけだけどさ。もしも私が親の言うようにまっすぐ育ってたらだるまのハリボテを被ってたのかなって」
「向こうで何かあったのか?」
「なーんにも。むしろ楽しくて充実してて仕方ないくらい」
 志乃は鴨肉をゆっくり味わってからため息をついた。
「でもねぇ。こっちに帰ってくるとイタリアくんだりで楽しくやってていいのかって思っちゃったりね」
「年のせいか」
「誰が年寄りだっつーの」
「お前が親だの何だのを持ち出して郷愁にふけるなんてそれ以外に理由がないだろ」
「私だって別にこの街が嫌いで出て行ったわけじゃないから。やっぱり実家がなくなるって聞くとね」
 最近調布では再開発が進んでいて、志乃の実家は立ち退くことになっていた。
「あんなに継げ継げうるさくて、私が継がないなら死ぬまで自分がやるなんて大見得切ってたのに、いい機会だからもうやめるって。驚くくらいあっさり言うわけ。いざ『志のや』がなくなるんだってなったらね......昔は店の名前と自分の名前が同じなのも気にくわなかったのにさ」
 基も、もしもあの時、自分がメディチ家の展覧会に誘わなかったら、と考えないわけではない。しかし、もし金細工に出会っていなくても、志乃はいずれ何かと運命的に出会い、どこかへ旅立っていただろう。それどころか、フィレンツェの彫刻職人の家に生まれていたら、深大寺のそば職人に憧れはるばるここまでやってきていたかも知れない。彼女がそんな風にしか生きられないのは基が一番分かっている。それなら志乃を運命へと導いたのが自分でよかったと思ってしまう。志乃がイタリアへ心置きなく行けるよう別れられる自分が恋人でよかったとすら。
 基が出したそばのゆで湯をつゆに注ぎ、一口あおってから志乃は基を見つめた。
「総合すると、基みたいに生きてみたかったのかな」
「それはこっちの台詞だよ」
「嘘。私みたいに生きたい?」
「嘘。やっぱり無理だよ」
「そりゃそうだよね。私達正反対だもん」
 基は代々受け継がれてきた老舗ののれんを進んで引き継いだ。昔ながらの安心出来る味。そばを食べる参拝客の笑顔。深大寺の木々が映える参道。この街を愛し、『時雨庵』を守りたいという気持ちは誰に教わったわけでもない。志乃とはきっと永遠に交わらない。
「でもお前のあの指輪を見たら何も言えないよ。おじさん達には見せた?」
「ううん。なんかまだ恥ずかしくて。師匠にはお前の作品を一生ものの結婚指輪にさせるのかなんて言われたし。一生大事にしてもらって、子供や孫にも伝えてもらえるようなものを作るのが目標なんだけどね。真美にもそうして欲しいけど、まだまだだよ」
「俺は昨日少し見ただけだけど、すごくよかったよ」
「ありがと。私も基のそばを食べると元気が出る」
 最後までそば湯を飲みきり、志乃はため息をもらした。基はこのあえかな息を聞くためにそばを作り続けているのかも知れないと、ふいに思う。
「ああ、おいしかった。やっぱり深大寺の水はいいね」
「腕がいいんだよ」
「ふふ、すみませんでした」
 笑い、志乃は代金をテーブルに置いた。毎年一回だけの鴨せいろ千百五十円。
「ごちそうさま。それじゃあね」
「じゃあ、また」
 次に会うのはまたずっと先になるとは思えないくらい、基と志乃は自然に別れた。ただ恋心よりも相手の夢が大切だった若い日を思い出した。
 二人の道は決して交わらないし、お互い歩み寄ろうともしない。ここを離れた志乃だから、ここを離れない基だから惹かれるのだと分かっている。
「さあ、仕込みの続きでもするか」
 基は大きな声をあげ、この日二番目の客を迎え入れる準備を始めた。

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<著者紹介>
あかり(愛媛県松山市/女性) 
 その頃の僕は一年間のアメリカ留学の資金を貯めるのに必死で、保険会社のコールセンターと小さなバーでのアルバイトに明け暮れていた。そんなに働いて肝心の講義で眠ってしまっては本末転倒だと、両親は留学資金の援助を申し出てくれたけれど、出来るだけ自力でやってみたかった。それに、どうせ既に頭の半分は異国の地での暮らしを彷徨っているような、夢見がちでハイな状態だったのだ。気が済むまで働かせておけ、と当時の自分を顧みては苦笑混じりにそう思う。
 グラスを洗う手を滑らせて右手をざっくりと切ってしまったのは、八月中旬の出発まで一月半をきった頃だった。救急で七針を縫う怪我だった。
利き手であった右手と明暗を共にする様に使い物にならなくなった僕は、予定より三週間ほど早く、二年ほど世話になった二つのアルバイトを切り上げた。急にぽっかりと空いた時間に、拍子抜けした。
久々にたっぷりと睡眠をとった頭で講義に出始めると、聞き流していた講義内容は興味深く、いつの間にか訪れていた初夏の構内の美しさに、それまで感じたことのない日本での学生生活への未練すら生まれてきた。
 七月の大学は夏休み直前の試験に備えてどの講義も軒並み出席率が高く、熱心に板書をする学生が多かった。そんな中で僕はいい年をして包帯を巻いた手が妙に気恥ずかしく、無意識に左手で右手を覆うように腕を組み講義を聴いていた。
トントンと指で机をはじく音に驚いて、音の方へ視線をやると、隣の席の女の子が僕の右手とノートを交互に指さすようにして首を傾げている。<書けないの?>そう尋ねているのかと思い頷くと、自分のノートを指さして僕の方に押し出すような動きをした。<後で見せてあげる>と言ってくれていることがわかったので、僕は<ありがとう>という感じで少し手を挙げて微笑んだ。    
講義が終了し教室が一斉に湧きたつのと、彼女が話しかけてくれたのはほぼ同時だった。
「ノート、見ますか?あんまり奇麗じゃないけど。」
彼女の髪形や化粧の垢抜けない雰囲気に一回生かと思ったけれど、彼女のイントネーションでピンときた。
「助かります。怪我しちゃって。留学生なんですか?」
「はい。今年の春から。台湾人です。」
はにかみながら彼女が答えた。
「台湾からなんですね。祖父が昔台湾に住んでいたことがあって、よく話を聞かされていたんです。とてもいいところだって。」
彼女の黒目がちの目が嬉しそうに緩んだ。困っている人に当たり前のように手を差し伸べることのできる彼女は、祖父から聞いていた台湾の人々の印象とぴったりだったので、僕はまるで懐かしい絵本の登場人物と再会したような不思議な気持ちになった。
何度目かでやっと聞き取れた彼女の名前はリウェンチェン。コピーをとる前のノートに書いてもらったその李文琴の字面の美しさに思わず息を呑んだ。
知り合ってみると幾つか同じ講義をとっていることもわかり、李が友人と一緒でない時はどちらともなく声をかけるようになった。ロータリーの隅にある、繁茂した蔦で昼でも薄暗いベンチがなぜか李のお気に入りで、僕はそこに彼女を見つけると、三回に一度くらいは彼女の隣に腰を降ろすようになった。そこではいつもイヤフォンをしている彼女を驚かせないように、僕はいつも手を振ってから、できるだけ静かに彼女に歩み寄った。
知り合いの少ない僕は、いつのまにか彼女と話すのが通学の楽しみとなっていた。母親からの手紙で飼い猫が恋しくなったこと、台湾で人気だった日本のドラマ、そしてそれらとなんら変わらない調子で、将来は観光に携わる仕事がしたいと口にする李は、進路を尋ねられる度にその場を濁してきた僕には眩しく映った。
毎日のように顔を合わせ、急速に互いを知っていきながらも、どうしてか僕は李に一月後には日本を離れることを言えずにいた。時折躓くと英単語を交えながらも、細かいニュアンスまで伝えられる李の言語能力に引け目もあったし、真剣に授業を聴く様を見る度、熱に浮かされたように先ばかり見て、視野を狭めていた自分が恥ずかしく思えたのだ。
李に住んでいるアパートに来るよう誘われたのは、二人が最後の筆記試験を終えた日のことだった。同郷のアパートの住人と、台湾の鍋料理をするとの誘いに二つ返事で李に続いた僕は、こざっぱりとした五畳ほどの一間に既に六人もの女の子がいたことに驚いた。
まだ少し右手の痛む僕をかわるがわる世話してくれる彼女たちは、親戚のおばさんのようでもあったけれど、姉妹で話すような甘えた声音のマンダリンは愛らしく、まさに女学生と言った風だった。いつもゆっくりと話す李が、通訳も忘れて早口で冗談を言い合う様も新鮮で可笑しかった。手土産の青島ビールをほんの少しで酔っ払った彼女たちが、僕に李のボーイフレンドなのかと口々に聞いてきた時には、近隣から苦情が来ないか心配になるほど部屋中が盛り上がった。
帰りに駅まで送ってくれた李を今度は僕がデートに誘った。別れが近いと知りつつも、もっと李のことを知りたかった。
翌週、駅で待ち合わせて深大寺行きのバスに乗った。その日も僕が来るまでイヤフォンをしていた李に、いつも何を聴いているのか尋ねると、彼女は悪戯そうに僕の耳にイヤフォンの片方を押し込んで再生ボタンを押した。流行歌かと思っていたそれは予想に反して、ピアノと弦楽器と打楽器の織りなす、どこか動物的な美しい音楽だった。
バスを降りるとむわっと濃い緑の匂いがした。たたみかけるように蝉が鳴いている。
「上京してから、息が詰まるとよくここに来たんだ。」
溢れる緑の中に軒の低い店を連ねる深大寺は、訪れる度に小さな集落に入り込んだような安心感をあたえてくれた。
肩を並べて歩く石畳の上に、境内の菩提樹の葉に、すれ違う人々に、門前の店から立ち上る湯気の中に、バスで聞いたばかりの旋律が溶け込んでいる様だった。それらはずっと李を待っていたとばかりに、彼女が近づくと息を吹き返し、周囲の空気を一層色めかせた。
そして、いつもよりくっきりと見える李の後ろ姿に、今この瞬間にも進行形で、彼女がこの場所に、僕に、より深く根ざしていっていることに切なく気がついた。
「ここ、私の好きな大学のベンチに似てます。なんて言うんだろう、holdされてるみたい。」
「つつまれているみたい、って言うかな。たぶん。」
澄んだせせらぎに指を伸ばしながら言葉を交わす内に、僕の心は静かに固まっていった。
「来週から一年間、アメリカに留学するんだ。なかなか言い出せなくて、ごめん。」
李は水面を眺めたまま、表情を変えることなくゆっくりと口を開いた。
「知ってた、気がする。顔に書いてある、っておもしろい日本語ね。初めてはなしたときから、はなれる人の顔だった。」
淡々とした口ぶりに、心が読めなかった。
「来年僕が帰国した時には、李はもう日本にいないんだね。」
言葉を続けようとする僕の目をしっかりと捉えて、李は小さく、マンダリンで告げた。
「再見。」
アメリカに着いて一月ほど経った頃、李にメールを書いた。推敲を重ねて送信したそれは、結局数行でこちらの様子を伝えただけのものになった。数日後に届いた李からの返事は僕のものよりも少しだけ長く、丁寧な日本語で日々の様子を綴ったものだった。そこに添付されていた写真を何気なく開いた時、思わず声が漏れた。
スクリーンいっぱいに、夕暮れ前の柔らかな木漏れ日に染まる深大寺が広がった。その写真に引きずり込まれるように、李への、美しい日本の夏への、苦しい恋心が蘇った。 
それから李が交換留学の期間を終え台湾に帰国する三月まで、僕らは写真を添えた短いメールを何通送り合っただろう。ファインダー越しに彼女に見せたい風景を臨む時だけ、李が隣にいるような幸福な錯覚ができた。僕からの写真は街並みや新しい友人の表情を写したものがほとんどで、李からの写真はいつも深大寺の一帯を被写体にしたものだった。
山のような課題のすき間に、苔むした蕎麦屋の水車や、紅葉した落ち葉に囲まれた御堂を目にするといつも心が凛としたし、ふざけた李が真冬に神代植物公園の熱帯温室の写真ばかりを送ってきた時には笑ってしまった。
充実を増すにつれ加速したかのように、あっという間の感の中で一年の生活は終了した。僕はまだ実感も湧かないまま、一月ばかり南米に足を延ばしてから帰国する旨を早速李に連絡した。ところが旅先の宿で何度確認しても、すぐに来るはずだった彼女からの返事はなく、予定が合えば台湾を経由して帰国しようという目論見は叶わなかった。
 実家に帰り荷物を整理していると改めて李がもう日本にいないことが心に迫った。釈然としない気持ちを抱え再会した同窓生と飲み回り、二日酔いでパソコンを開いたそんなある日、僕の目に李の名前が飛び込んできた。
そこには返事の遅れた侘びと、日本での就職に備えてこちらに来ていること、そして、深大寺で待ち合わせをしたいと、書かれていた。去年二人で深大寺を訪れた日付を画面に認めた僕は慌てた。待ち合わせは今日だったのだ。約束の時間まで三時間を切っている。僕は大急ぎで家を飛び出した。

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<著者紹介>
(東京都八王子市) 

 三月。仕事を辞めた。四月。朝起きてどこにも行く場所がない自分に呆然とする。誰に咎められることもないのに家を出た。平日の朝に家を出るという行為が体に染み付いていた。最初は公園でベンチに座っていた。だがリストラされた会社員の典型のようですぐに立ち上がった。クビになったわけじゃない。辞めてやったんだ。強がっても社会から脱落したという事実に変わりはなかった。
 居場所を求めて辿り着いたのが深大寺だった。まだ肌寒かったが、木漏れ日の当たる石段に座ると思いのほか居心地がよかった。仏様に守られているような気がした。何かを許されたような安堵感があった。そして自分がまだ世の中と繋がっていると思えた。気がつくとほぼ毎日通っていた。
 深大寺は平日でも賑やかだった。和菓子屋でお茶を飲む人。子連れの主婦。若い男女は暇な大学生だろうか。蕎麦目当ての観光客も多い。外国人の姿もあった。食事時はタクシーの運転手や運送トラックのドライバーも各々お気に入りの蕎麦屋に入っていく。
 昼を過ぎると小学生が楽しそうに木の枝を振り回しながら下校していった。自分の子供時代と重ねてみる。あの頃の自分は今の自分のこんな姿を想像していただろうか。
時間が過ぎるに連れ、下校していく集団が中学生、高校生となっていく。日が落ちて人の流れが途切れた。帰ろう。何をしたわけでもないが、とりあえず今日も一日が過ぎた。立ち上がって石段を降りようとすると、向かいから小走りに駆け上がってくる人影とすれ違った。背丈、服装、香りから女子高生だとわかった。上には本堂があるだけだ。あまり通り抜けに使う道ではない。単純にお参りで来たのかもしれないが、夕闇の寺と制服の少女が不釣合いに思えた。自分以外の不審者に心当たりはないが少し心配にもなった。
 少女は境内の真ん中に立ち止まって薄闇に浮かぶ本堂を眺めていた。近付いたり離れたり裏手に回ったり。時にはしゃがみこんで顔を地面すれすれにして本堂を観察していた。
 足元に何か落ちていた。小さな水色の表紙のメモ帳だった。少女が落とした物らしい。
「これ、落したんじゃないか。」
少女は「あっ」といって駆け寄ってきた。
「こんな時間に何やってるんだ。」
「建物を見てるの。学校の宿題で。」
「高校生だろう。お寺を眺める宿題って何の授業だよ。」
聞くと少女は高校3年生だった。大学の建築科に進むにあたり、歴史ある建造物のレポートを書かなければならないのだそうだ。
「エーオー入試に必要なの。」
「AO?知ってるよ。推薦入試みたいなやつだろ。一芸で合格できる試験。」
それにしても建物の感想を書けば大学に入れるとは、いい時代になった物だ。
「でもその様子じゃ苦戦しているようだな。」
メモ帳を指差した。拾った際に目に入った文字は"大きい、きれい、和風"だった。
「小学生の感想だな。」
少女は恥ずかしさと小馬鹿にされた怒りを含ませた複雑な表情をした。
「だって、よくわかんないんだもん。」
話し方は本当に小学生だ。いや最近の高校生などはこんなものなのかもしれない。
「ところで、おじさん誰?」
当然の質問だ。だが答は用意していなかった。
「いや、別に...、帰るところだったんだ。こんな時間に君が何をしているのか気になって...、とりあえずおじさんではないぞ。」
「わかった。ふろーしゃでしょ。」
一瞬の間が空く。
「バカ、違う。そもそも今はそういう言葉は使っちゃいけないんだ。ホームレス...、いやホームレスでもない。家はある。」
だが家があるだけで社会からこぼれ落ちてしまったのだから、似たような物だと思った。少女は"おじさん"のうろたえた姿が面白かったらしく、目からは警戒の色が消えていた。
「とりあえず、君の感想には具体性がない。何が大きいとか、何がどうきれいとか。」
「全部おっきいし、全部きれい。」
やっぱり小学生だ。やれやれ仕方がない。
「深大寺っていうのは厄除けで有名な...。」
とりあえず現時点で知っている深大寺の知識を簡単に説明した。
「凄い。物知りだね。」
「常識だ。お前が物を知らなさ過ぎるんだ。建物だけでなく歴史や背景も勉強するんだぞ。よし、明日の夕方、もう一度にここに来い。」
「教えてくれるの。やった。お願い、先生。」
「先生じゃない。」
語気を強めた。少女は驚いた様子だったが
「いいじゃん。またね、先生。」
と言って手を振りながら笑顔で去っていった。
 翌日少女はやってきた。誘拐を企む悪人が待ち構えていたらどうするつもりだったのだ。
「それなら昨日のうちに誘拐してるでしょ。」
それはそうだ。初めてのまともな意見。この日は二時間ほどの時間をかけて、丁寧に深大寺について説明した。
「本当に詳しいんだね。」
「まあな。」
それはそうだ。何もやることのない一日中、図書館でひたすら深大寺について調べていたのだ。さらに建築、特に同時代の神社仏閣の特徴についても教えられるよう調べておいた。ついでにレポートの書き方も教えた。
「いろいろ知ってるんだね、先生。」
「だから先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
何度もこのやり取りをした。その度に頬を膨らませる少女の顔は例えようのないほどの輝きに満ちていた。
 いつの間にか深大寺の境内での授業が日課になっていた。レポートだけでなく他の勉強も教えた。あまり出来のいい生徒ではなかったが、学ぶことを楽しんでいて、教えることを次々と吸収していった。
「今日もありがとう、先生。またね。」
「だから先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
先生...だった。三月までは。十年勤めた。そして辞めた。嫌ではなかった。好きで就いた仕事だった。だが上手くはいかなかった。学ぶ意義より進学実績、正義よりもクレーム対応、挑戦より保身。予算、効率、意味のない会議。何より未来に希望を持てず、刹那的で輝きを失っている生徒達。ここは教育の場ではない。そう思ったとき、生活のためだけに職に留まることはできなかった。そんな自分が今"先生"と呼ばれている。
「先生か...。」
授業は続いた。やる気のある"生徒"を相手に熱が入った。見込みがある分だけ厳しくもなった。学校で発したら問題になるような言葉もぶつけた。だが少女は食らいついてきた。お互い本気だった。勉強が一段落すると蕎麦屋や和菓子屋で話をしたりもした。
 七月。深大寺の木々は生徒と先生を暑さから守ってくれていた。深大寺はほおずきで賑わっている。この日は一学期の終業式だったらしい。少女は通知票を見せてくれた。通知票はA4のコピー用紙にプリンターで印刷されていて、担任からのコメントも何もなかった。忙しいのだろう。効率。
驚いたことに少女の成績は優秀だった。
「お前のようなバカが何でこの成績なんだ。」
「学校のレベルが低いからだよ。違う学校の友達は私よりずっと頭いいけど、成績は全然。うちの学校は真面目にやってれば全部5。」
こいつ真面目なのか。確かに服装は今風に多少乱れてはいるが、それを除けば黒髪で余計な装飾品も付けず、清楚な少女といえなくもなかった。通知票によると皆勤でもあった。
「じゃあ、お前も学校では鼻高々なわけだ。」
「でも学校は楽しくない。よく褒められるけど全然嬉しくない。もっと頑張らなきゃいけないの、自分で分かってるし。ダメなときは怒ってくれたほうがいい。先生みたいに。」
「だから、先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
いつものやり取りをしながら自分を恥じた。クレームが面倒で怒ることをやめ、心にもない褒め言葉を連発して生徒を懐柔しようとしていた数ヶ月前の自分を。今は職も社会的地位もないが、一人の"生徒"から必要とされている。"先生"としての本当の時間。
 十月。夏に木陰を作ってくれていた緑の葉は色を赤く変え、目を楽しませてくれた。十二月には落ち葉となり、三月には新芽がふいて出会いと別れの季節が来たことを知らせた。授業は一年間続いた。少女は成績に見合う力をつけていた。大学も志望通り建築科に決まった。そして...。
「四月からもう一度教壇に立つんだ。」
「やっぱり先生だったんじゃん。」
「今は先生じゃないし、まだ先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
少女とは卒業するまで教えるという約束だった。これが最後のやり取りだ。
「お前は建築家か。」
少女は首を横に振った。
「建築の勉強はするし、そういう仕事もするかもしれない。でも...。」
「何だ。それ以外に何かあるのか。」
「先生、深大寺って縁結びのお寺なんだよ。」
「えっ。」
「ちゃんと勉強したんだから。建物だけじゃなく、歴史や背景も勉強しろって、そう言ったの先生だよ。」
迂闊だった。深大寺=厄除けの先入観で肝心なことを見落としていた。一年で少女が少し大人になったような気がして一瞬その気になった。だが慌てて打ち消してこう言った。
「仕方ない。十年後、覚えていたらな。」
少女は首を横に振った。
「忘れないで。五年後。この場所で...ね。」

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<著者紹介>
k-oji(東京都八王子市/41歳/男性/公務員) 
 オレンジ色ののぼりが春風に揺れている。参道の脇の広場には、すでに五十以上の個人ショップの小さなテーブルがレイアウト通りに配置され、深大寺への参拝をおえた出店者たちが、各ブースの開店準備におわれていた。ハンドメイドのアクセサリーや革細工、小さなガラス瓶に入ったクッキーやジャム、真鍮のスプーン......。作家や職人たちが心をこめて作った品物が、朝の光を受けながらディスプレーされていく。
 毎月一度、土日に開かれるこの深大寺手作り市に清水碧が初めて出店したのは、三ヶ月前のことだった。最初は勝手がわからず戸惑った。それまで販売の仕事をしたこともなったから緊張もした。けれど、会社と家の往復しかなかった碧にとって、市は華々しい晴れの舞台だった。来るたびに気持ちが引きしまり、やりがいに胸が高鳴った。出店できるのは個人で物作りをしている人に限られるため、アットホームな雰囲気になることも碧は気に入っていた。今日もまたこの新緑の森に人が集い、話し、笑い声があふれるだろう。そう思うと自然に笑みがこぼれた。
 碧はもう一度、品物の並びや値札を確認し、『墨の絵』と店の名前を印刷した名刺をていねいに揃えてから、簡易式の椅子に座った。 
 碧の作品は、漢字二文字を筆でデザイン描きし、てのひらサイズの焼杉の額に入れて仕上げたものだ。今日はどのくらいの人が訪れてくれるだろう。十時を過ぎると駐車場やバス停から人の流れができ、手作り市は観光客や地元の人たちで徐々に賑わい始めた。
  
 碧が実家のある調布に戻ってきたのは、一年前に離婚したからだった。友人に紹介された会社員と結婚したのは二十八才の時だった。そのころは、いずれ子どもができ、平凡な生活を送るのだろうと思っていた。それで幸せだとも思っていた。ところが、どうしたことか夫はだんだん家に帰ってこなくなった。たまに帰ってきも、夫も碧もお互いに向き合うことができなかった。自分の結婚生活がまさかそんなことになるとは碧には信じられなかった。修羅場になるほどの憎悪がなかったのは、もともとそれほどの愛情がなかったからなのだろう。関係修復をあきらめて、一年半で離婚届に判を押した。
 実家に戻ってとりあえず派遣社員の仕事を始めたが、すぐに一人の時間をもてあますようになった。そんなとき、碧はふと子どものころから習っていた書道のことを思いだしたのだった。学生時代にやめてしまったが、師範の資格も持っていたし、もともと美術も得意だった。相田みつをを真似た作品を作り、インターネットで出品してみた。思いがけずに売れた。何より見知らぬ人から、作品がよかったと評価してもらえることが嬉しかった。離婚してバツのついてしまった自分だけれど、まだ、マルをつけてくれる人もいる――。それから、碧はオリジナルの作品を作るようになった。
 
「撮ってもいい?」
 碧の店の前で、洗いざらしの白いシャツを着た男が、手にしているカメラを見せてそう言った。神経質そうな雰囲気の男だったが、ブログにでも載せるのだろうと思い、碧は「いいですよ」と答えた。すると男は品物の並んだテーブルの上ではなく、碧にカメラを向けた。あっけにとられているうちに、シャッターが切られた。カシャリと乾いた金属音がした。その音に不快感はなかった。けれど、写真を撮られて素直に喜ぶような年でもない。市が始まるまでの高揚感に水を差されたこともあって、ついとげのある声が出た。
「あの、品物の写真かと思ったんで......。データ、削除していただけますか?」
 男はニコリともしない。
「だから、聞いたでしょ。撮ってもいいかって」
「だからそれは、品物のことだと――」
「削除できないよ。これ、フィルムカメラだから」
 男はカメラを回転させて、液晶画面のない裏蓋を碧に見せた。
「じゃあ、そのフィルム出してください。自分の写真を見ず知らずの人がもっているなんて嫌ですから」
 男はふんと鼻を鳴らした。
「ムリ。他に大事な写真が入ってるから」
 「ムリ」という小学生のような言い方も「他に大事な」を強調した言い方も不愉快だった。まるで碧の写真はどうでもいいというように聞こえる。
「焼いたら、持ってきてやるよ」
 男はそう言うと、碧の作品をひとつ手にとって見つめ、それからガラスの額面を指先でぱちっと弾いた。
「なんか浅い。これに懸けてます感、ゼロ」
 驚いて言葉が出てこなかった。いったい何を言ってるんだろう、この男は。自分の作品がけなされているらしいということはわかった。こんなことを正面切って言う人間がいるなんて......。けれど、同時に何かが引っかかった。確かに書いた言葉にこだわりはなかった。人が知らなさそうで響きの良い言葉を辞書から適当に選んで書いていた。それを見透かされたような気がした。それにしても、「浅い」だなんて......。
「本気でやってるかやってないか、作品を見ればわかる」
「いい加減になんて......。一生懸命に書いてます」
「一生懸命と真剣は違うでしょ」
 男はまた、ふんと鼻を鳴らし、くるりと背を向けると賑わいの向こうへ消えていった。

 その日、家に帰ってからも碧は男のことが頭から離れなかった。市に出店するようになってから、生活に張りができた。出店者の中で顔なじみもでき、帰りに飲みにいくことも楽しみのひとつになった。やっと見つけた大切な自分の居場所だったのに、あの男にけちをつけられた気がした。その一方で、「浅い」「本気でやってない」という言葉が心に突き刺さったままになっていた。それは、まるでお前は結婚生活からだって簡単に逃げ出したじゃないか、と言われているような気さえするのだ。思い返してみると、それまで友人にせよ恋人にせよ、人と真剣にぶつかりあってまで、つきあったことなんてなかった。みんな浅いつながりだった。だから、簡単に切れてしまった。それはとりも直さず、自分の弱さやずるさから目をそむけたまま生きているということだったのかもしれない。男がシャッターを切ったときの乾いた金属音が碧の脳裏に蘇る。あの時、レンズの向こうにあった男の視線は確かに真剣なものだった。
 それから、碧はどうしたら良い作品がつくれるか、そればかりを考えるようになった。墨汁をやめ、墨を磨った。新しい紙や筆を買ってきては書いた。書に関する本や詩や俳句を読み、書く言葉を選んだ。仕事から帰ってきて、毎日、手を動かした。いったいどれくらいの墨を磨っただろう。以前とは違う何かがあった。

 男が姿を現したのは、それから半年ほどたった秋の手作り市のことだった。開店前に行った本殿での参拝で、目を閉じたときにふと思い出してしまった顔が、今、目の前にある。男は、色づきはじめた紅葉と同じ色のジャケットを羽織り、中にはあの時と同じ洗いざらしの白いシャツを着ていた。
「ほら」
 半年前と変わらず、男は無愛想な顔で、水色の封筒を差し出した。隅に洒落た書体で「スタジオ高野」と印刷してある。
「写真だよ、この前の」
 封筒の中の写真を取り出して、碧は、はっと息をのんだ。六つ切のモノクロ写真――。つるりとした光沢のある印画紙の中に生き生きとした碧の横顔が写っていた。背景の新緑はモノクロだからこそ、よりいっそう輝いて見えた。あの春の日の、光と時間がそのまま切り取られたようにそこにあった。生まれて初めて、本物の写真を見た気がした。いつの間に撮ったのだろう。きっと、あの写真を撮る前に違いない。「他に大事な写真がある」と言った男の言葉を思い出して、男の顔を見上げた。男は碧の視線をはずすようにぷいと目をそらした。
 写真を裏返すと、「18%グレー」と書いてある。
「これは?」
「その写真のタイトル。......知らないの? 露出計の基準、光の反射率だよ」
 どうして、自分のポートレートにそんなタイトルがつけられたのか、碧にはわからなかった。ただ、確かなことは、自分がこの写真を――、この写真に写っている自分を、とても好きだと感じていることだった。
「正面から撮った写真とフィルムも入ってるから。じゃあ――」
 このまま自分が何も言わなければ、この男はまた、ふんと鼻を鳴らして、くるりと振り向き去ってしまうに違いない。神経質で、無愛想で、鼻持ちならない男......。それなのに、二度と会えないかもしれないと思うと、それは寂しいと思う自分がいた。
「あの......」
「なに?」
「他の――あなたの他の写真を今度、見せてもらえないでしょうか?」
 男は意外そうな顔をした。
「いいけど......」
 それから、碧の作品を見て言った。
「前より、ましになったな」
 男が初めて、少しだけ笑った。

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<著者紹介>

村上 あつこ(東京都/女性/主婦)

 その日はあいにくの曇り空で、肌寒い一日だった。
 詠華はちょうどひと回り年上の谷下とお花見をするために、バスでひとり、待ち合わせ場所の神代植物公園へ向かっていた。谷下とのお花見はこれで4回目となる。
 昼食用にサンドイッチを作り、持って来たはいいのだが、お手拭を忘れたことに気が付いた詠華は、谷下に会う前にコンビニに寄って調達しなければいけないと、バスに揺られながら考えていた。それと同時に、いつから自分はこんなにも谷下を思い、谷下に尽くすようになってしまったのだろうと記憶をたどっていた。3年前の1回目のお花見には、それは詠華と谷下の初めての正式なデートであったが、谷下がお弁当を作ってきてくれた。その日も今日と同様の、まだ肌寒い日で、防寒用のマフラーまで谷下は持参してくれたのだった。果たして今回、谷下はどれほど自分のことを気にかけてくれるのだろうかと、詠華は淡い期待とともに諦めの気持ちを抱いていた。
 谷下は今年の始め、厄除けのために深大寺を訪れた。その帰りに、いつものように詠華の住むマンションに寄った谷下は、
「今年のお花見は神代植物公園にしよう」
と言った。詠華は、谷下の一見身勝手とも言える、自信にあふれた態度が好きだった。詠華にはない、自分には異性の興味をそそる魅力があることを知っている、谷下のそんな態度が好きだった。
神代植物公園と聞いて、詠華はかつて付き合っていた人との恋に破れた際に、縁結びにご利益があると友人に勧められて訪れた深大寺のことを思い出した。その時のご利益とは、谷下との今の関係のことだったのだろうか。
 詠華と谷下は、マンションが近かったこともあり、お互いの部屋を週に何度も行き来するような間柄ではあったが、世間で言われているような彼氏彼女の関係ではなかった。恋人同士がすることもひと通りしており、傍から見れば、付き合っている者同士とも言えるが、詠華は谷下にとって複数人のうちの一人でしかなかった。決して周りから羨ましがられる関係ではなかったが、詠華はそれでも幸せを感じ、谷下といる時間が何よりも大切だった。
 詠華と谷下との出会いは、今から3年半前にさかのぼる。詠華が事務として勤めている会社に、他社から営業として谷下が来たことが、二人が出会ったきっかけである。詠華は谷下をひと目見て、心を奪われてしまった。しかし、辛い恋愛に破れたばかりであった詠華は、自分には恋愛が向いていないと諦めていた。それから、詠華は何度か谷下を見かけることがあったが、挨拶をかわす程度で会話をすることなどほとんどなかった。かつてよりよく会社に出入りしていた谷下のこれまでの恋愛武勇伝は、社員の中でも有名であった。噂になるほど、谷下は見栄えもよく、恋愛が派手だったこともあり、詠華は自分が谷下の目に留まる存在でないことを自覚していたことも、詠華が谷下への思いを大きくさせない要因でもあった。
 そんなある日、詠華は会社から自宅への帰り道、谷下に呼び止められた。聞くと電車の乗り換え駅が同じであることが分かり、そこまで一緒に帰ることになった。実際話をしてみると、噂で聞く谷下のイメージとは異なり、とても人懐こく、親しみの持てる雰囲気の持ち主だと詠華は感じた。乗り換え駅で別れようとした際、谷下が、
「この近くに、お花見にいい場所があるから、夜桜でもどう?」
と言ってきた。ちょうど、その日は詠華にとって年度末の大きな仕事が終わってひと段落ついた日であり、桜でも見て安らかな気分に包まれたい夜でもあった。詠華は谷下に道案内してもらいながら夜桜スポットへと歩いた。その日の夜桜は、まだ満開には早く、見ごたえのあるものでなかったため、後日、休日に再度二人でお花見をすることになった。今思えば、そのお花見が詠華と谷下の最初のデートであり、その時からお花見が二人にとって年間恒例行事となったのである。
3年前のそのお花見デートで、詠華は谷下とお互いのこれまでの恋愛の話をした。なぜそんな話になったのか、記憶は定かではないが、現在恋人がいるかどうかの話をしたことから、そんな話題になったのだと思う。一回りも年が離れており、地味な自分が谷下にとって恋愛対象にはならないであろうと決め付けていた詠華は、自分の恋愛経験を谷下に話すことに抵抗はなかった。谷下もこれまでの恋愛経験を自慢と自虐を交えながら話した。
 詠華にも谷下にも、これまでの人生において愛した人がいた。谷下は、その人のことを思いながらも、他の複数の人と付き合うことで、感情を紛らわしていた。谷下が直接そのように言ったわけではないが、複数人と付き合っていることを自慢げに話している反面、谷下の話しぶりから恋愛に対する疑心と彼女らに対する虚偽の感情を詠華は感じた。さらに谷下は、たとえ誰かを本気で愛したとしても、いつかは壊れる関係であると、恋愛に対して諦めの感情を持っていた。
一方、詠華は十年近く片思いをした相手とやっと結ばれたと思ったのだが、自分が浮気相手だったと判明して恋に破れていた。そのため詠華は、誰かに本気になって裏切られることに臆病になっていたため、本気にならなくてよい相手を探していた。信じていた人に裏切られるよりは、他の女の人と関係があることを知った上で谷下と一緒にいるほうが、楽だった。追いかけても、追いかけても、自分のものになるかどうか分からない男性といるより、結末が分かっている男性と一緒にいるほうが、自分の感情を制御することができた。たとえ相手に対して感情が大きくなったとしても、それを押し殺すことで、傷付くことから自分を守っていた。
最初のデートで過去の恋愛について話をしてから、二人はお互いの気持ちの隙間を埋め合うために、一緒にいることが多くなった。しかし、二人の関係は、進めたくとも進められない関係だった。二人とも未婚なのだから、恋人もしくは夫婦という関係になってもいいのだが、押し留める何かを互いが持っていた。どちらかの感情が大きくなったり小さくなったりしたら、一瞬で崩れてしまう関係であることを、お互いが分かっていたのである。今現在の関係こそ、自分たちにとって最もバランスがよく、傷付かない最良な関係だと信じていた。詠華にとって、谷下との関係は本気にはならないであろうと、高をくくっていたのだが、その予測は外れていたことに気付きだしていた。それは谷下にとっても、同じことだった。
 詠華は作ってきたお昼ご飯を谷下と食べながら、芝生の上でのんびりと過ごした。二人は、どちらかの家で会うことが多く、今日のように外で会うことは少なかった。外気に触れ、草花を見ていると、時間の流れを感じ、谷下とその時間を共有できている気がして、詠華は普段より少しだけ優越を感じることができた。
神代植物公園を出て、仲見世通りを歩いていると、不意に谷下が詠華の手を握った。それは久しぶりのことだった。二人が手を繋ぐのは、谷下から手を握る時のみだった。詠華には、もし知り合いに見られたらどうしようという不安があった。そしてそれ以上に、自分が谷下を欲していることを認めたくなかったし、谷下にもその感情を分かられたくもなかったため、自分から手を伸ばすことはなかった。
 春、草木はこれから成長して大きく、そして花を咲かせ、美しくなっていく季節である。そんな植物たちに囲まれながら歩いている二人はその成長とは逆行するような感情を抱いていた。
恋心は、花のようにいつかは散り、移ろいゆくものであると分かっていながらも、二人は桜を見ながら手をつないで歩いた。そして、お互いの心と自分への疑いに気付かないふりをしながら、無心に、歩いた。
深大寺が縁結びの神様であるなら、どうか谷下に本当の恋愛が出来る相手と出会わせてほしいと、詠華は願った。そうすることで、他力本願なのかもしれないが、気付かないふりをしていた、大きくなっていく谷下への感情の蕾を枯らすことができると思った。

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<著者紹介>

空山 蛙(長野県松本市/30歳/女性/団体職員)

 この冬の間中、僕たちは毎日を共に過ごした。お互いに進路も決まっていたし、学校の試験対策は一緒にした方が効率も良かった。学校の友達に見つからないように、学外で会うことに決めていた。行き場のない僕たちは、寒空の下いつも外を彷徨った。天気がいい日に大抵深大寺にいたのは、神聖な木々達が冷たい風と人の目から僕たちを庇ってくれるからだった。
 僕は毎日傍にいても、彼女の気持ちはわからなかった。ただ、日に日に彼女にもっと触れたいという気持ちが大きくなっていった。
 1月も半分が過ぎたあの日、僕たちは二人で1枚のおみくじを引いた。それが大吉で、「良縁に恵まれる」とあったことに僕たちは歓喜した。それを結ぶ枝に、人気の少ない参道の隅の松を選んだ。大事そうに結び、目を閉じて拝む顔を、僕はずっと見ていた。そして思わず唇を合わせた。
 次の瞬間、不意に強く胸を突かれ、僕はよろけて後退した。彼女は僕から顔を背け、全速力で駆け出していた。僕は予想外の展開に、追うこともできず、ただ立ち尽くした。
 翌日、学校の休憩時間に彼女の親友に呼び出されて叱責を受けた。「最低」、「無神経」といった罵声を浴びながらも、何が悪かったかはわからなかった。とにかく大切な人を傷つけて失った、喪失感と後悔と自己嫌悪で息をするのもやっとだった。


 久しぶりの深大寺の参道は、夏とはいえ冷涼で静謐な空気が漂い、かつて通い詰めた冬の一時を思い起こさせた。この参道のどこかに、淡くて苦い恋の思い出を封印した松の木があるはずだ。
まだ幼かった私は、当時大好きだった彼との「念願の瞬間」、それが不用意な形で訪れたことに対する怒りと落胆、喜びがないまぜになった強烈な興奮から、彼を突き飛ばして逃げた。すぐさま彼に嫌われたのではないかと不安になり、事の顛末を親友に打ち明けた。親友は親身になって聴いた後、彼と話してみると言ってくれた。しかしそれからも彼からの反応はなく、学校でも避けられているのを感じた。それほどまでに私は彼を傷つけたのだ。繊細で心優しく、私を大切にしてくれた彼を。
 
今日ここに来たのは水子供養のためだった。しかし、法要を頼む勇気が出ず、結局参拝だけを済ませた。
先週、7年間付き合った相手と別れた。厳密にいえば正式に付き合ったのは2年半で、あとは相手に恋人ができても結婚しても続いた求めに応じてきただけだ。
今思えば私が相手の求めを拒めないのは、あの冬の出来事があったからかもしれない。
私の中に命が宿ったことを知り、あの人は家庭のある岐阜から手術費用を持って上京した。泣きながら詫びるその人を慰め、なぜか最後にもう一度肌を重ねて別れた。悪い人ではないのだ。でも私を大切にしてくれる人ではなかった。自分を大切に思う他者と自分がいなければ、命は育んでいけない。その直感は確信に近かった。
三十を過ぎ、結婚しても望んでも子供に恵まれず悩む友人の話を聞くようになった。
何も私のところに来なくても、と小さな命を憐れに思ったが、産むという選択肢はなかった。
参道を戻りながら、あの優しかった彼はきっと、大切な誰かと小さな命を大切に育んでいるのだろうとおぼろに思った。


三鷹で母の納骨を終えて、バスで帰ってくる途中、ふと懐かしくなって深大寺で降りた。今日という節目の日を終えた安堵感と、これまでの苦労を乗り越えてきた疲労感と虚脱感で歩みは自然と遅くなった。
9年前の秋、母が倒れた。若年性脳梗塞だった。父を子供の頃に事故で亡くした僕は、母に女手一つで育てられた。母はフルタイムで働き、父の遺族年金を僕の学費に充て、僕を大学まで行かせてくれた。母が倒れたのは、就職難の中何とか仕事を得た僕が、社会人になって半年のことだった。
病院からリハビリ施設に移った母を週一度しか見舞えない自分が、薄情な息子のように思えた。しかし働かなくては入院費が払えない。それに母は僕が社会で活躍することを願っていたに違いない。その期待を裏切らないためにもと、僕は社会の歯車になって働いた。
しかし母の受け入れ施設は3ケ所目で行き詰った。その時に僕は仕事を辞めて母の介護をすることに決めた。他人に大切な人の世話を任せるために、大切な人と生きられる有限の時間を切り売りすることに虚しさが募っていた。
自分で母を看るというのは、言葉で言い表せないほど過酷なものだった。予想はしていたが生活も困窮した。幸い親身になって相談に乗ってくれる人がいたお蔭で、社会資源に頼れるだけ頼って、どうにか暮らした。
生活保護も考えたが、相談先で言われた「息子さん働けるでしょ」という一言で交渉が破綻していることを悟った。
長期化を覚悟していた母との生活は、思いがけず終幕を迎えた。飲み込みの障害からくる肺炎をこじらせたのが原因だった。

葬儀も何もかも、最低限のことしかできなかった。今日、漸くそれが一区切りついた。
母を送り出してしまうと、僕はただの貧乏な無職の男だった。同級生は皆、仕事でそれなりの実績を残したり、結婚して子供を持っていたりする。焦りがないといえば嘘になる。しかし今から僕に何ができるというのだろう。

足元ばかり見て門前の石畳を歩いていた僕は、ふと眼を上げてすれ違う女性を見た。
彼女だ。振り返って後姿を目で追った。
顔を見たのは一瞬だった。が、確信があった。
彼女だ。自分の拍動が耳まで響いていた。
随分痩せただろうか。年相応の落ち着きを帯び、その横顔はあの頃よりも美しかった。
振り向かないだろうか。もう一度顔が見たい。期待しながら見つめる自分がいる一方で、こんな自分を見られたくない、と怯える自分がいた。僕はみすぼらしく老け込んでいる。きっと見ても僕とは気づかないだろう。
僕は彼女が角を曲がるまで見送った。姿が見えなくなってからも、僕は彼女の消えた交差点をしばらく眺めていた。
一瞬ではあれど、彼女の人生ともう一度交差した事は、僕の心に何か大きな力をもたらした。
彼女にもう一度会いたい。こうして出会うことがあるなら、また出会えるかもしれない。だとしたらこのままじゃいけない。
自分でも捉えようのない希望のようなものが急速に胸を支配していった。

僕は来た道を足早に戻った。やれることからやろうと決めた。
彼女が僕を赦さなくても、すでに誰かと幸せを手にしているとしても構わない。大袈裟かもしれないが、彼女がこの世界のどこかで生きていることが、僕が生きていく理由だ。

蝉時雨に混じって鈴虫の声が聞えてきた。母もきっと僕が悲嘆に暮れていては休まらないだろう。不意に涙がこみ上げてきた。
たくさんの命を受け継いで、僕は命をつないでいる。
神聖な木々達は相変わらず、せわしなく生きる僕たちを、悠然と見守っている。---------------------------------------------------------------

<著者紹介>

外川 夜鷹(東京都調布市/32歳/女性/医療職)

 生まれたばかりの桜の葉の間から漏れる光が、地面にいくつもの光のかけらをつくった。たくさんの顔がうごめきながら、表情を変え、私を見て笑った。固まった体が、ギシギシと音を立てる中、唯一動くことを許された瞼が瞬時に強く閉じられた。
  大丈夫。大丈夫-----
高鳴る鼓動に何度言い聞かせてきただろう。

 「ほら、あの子よ。」
 「あいつ、よく平気だな。」

 学校へ行くつもりだった。乗り換えの調布駅で、吐いては飲み込む電車に押し込まれた人々の歪んだ唇の中からも、その声は漏れていた。
  大丈夫。大丈夫-----

 ざわざわと生命を得て、うごめく波と喧騒の中で、ふと頭の片隅が発車音をとらえた。
  ありがとうって伝えたくて、
聞き覚えのある音楽が、泥地を縫う一筋の清水のように繰り返し流れていた。
「やめてよ。
 私なんて生まれて来なければよかった。」
ささくれ立った私の心が吐き出す。
私には、ありがとうの言葉は余りにも遠い。


 深大寺の山門は、朝の光の中、夜の重苦しさを掃き出す竹箒の音を聞きながら、厳かに結界に立っていた。
古い境内は目を射る程明るく、玉砂利は新しい光を纏いながら、黒光りする肌を輝かせている。
ふと見上げた桜の葉から漏れた光が私を攻撃し始め、行き慣れた時が戻って来る。

 信じていたのに。あの子が皆と笑い合って  
 いるのを見ても、あの子の驚いた表情が瞬
 時に憐憫の情に変わっても、踵を返した私
 を追ってくる足音を探していた。体中の血
 が逆流しても、それでもどこかで叫んでい
 た。


「深大寺にはね、恋の神様がいらっしゃるの。」
私の制服を見て、失恋を連想したのだろう。
老婆の優しい目が問いかける。
「はあ。」
苦笑いが精一杯の私に、老婆の声が不意を打つ。
「ねえ、他人を殺したことがある?」
老婆は過去形で言い放った。
「私ね、殺したことがあるの。何度もね。
 心の中で。」
「私ね、聖母様だと思われていたの。きつい
 姑に仕えてね。終いには認知症でね。一生 
 懸命だった。」
「皆褒めてくれたのよ。こんなに良く面倒を
 みてくれる優しい嫁はいないって。
 でも、心の中では殺していたのよ。私は聖
 母なんかじゃないの。」

「そんな風に思ったら自分が辛くないの?」
「最初はそう思ったの。何て嫌な人間。他人
 によく思われたいとしか思ってないんじゃ
 ないのって。」
「でもね、殺さざるをえなかった。耐えてい
 く心がいくつも必要だったの。もう限界だ
 と思ったの。」
「他人を恋するように、他人を嫌悪する気持
 ちも湧いてくるの。それが離れられない人
 ならば猶更。積み重なっていく。介護って
 ね、きれいごとじゃないの。体も心も、も
 う自分のものじゃなかったの。」

 光の中に浮かび上がる深大寺の五色の垂れ幕に、そこここから聞こえ出す蕎麦打ちの音が小さな風を呼び絡んでいく。
追われるように老婆が辿り着いたのも、この深大寺だったのだろう。
自分をも他人をも嫌悪することしかできない出口のない心と疲れ果てた身体。抱えてしまった淋しさの殻を抱きしめながら、ここにたどり着いたのだ。
「私ね、もう何も、自分のことも姑の幸せも祈れなくなっていたの。でもね、不幸せは祈れなかったわ。
だから、私、せめて姑を好きにならせて下さいって頼んだの。恋の神様にね。」

「それでどうしたの?許したの?好きになれ
 たの?」
老婆は優しく笑った。


「ないの。ないの。」
「どうしましたか?お義母さん。」
「ないの。ないの。手紙よ。」
「どんな手紙ですか。」
「手紙よ。手紙。」
色を失くした姑の、探すというより、ひっくり返す作業が続く。いつものことだ。姑はいつも何かを探している。こうして長時間繰り返し、いつか探していることも忘れていく。、この日の探し物は長く、執拗で、怒りの矛先は容赦なく、自分にも周りにも向けられていた。

 しかし、あれほど探し、手紙などなかったのではと皆も思い始めたころ、それはひょっこり出てきた。
 その日、私は、薬を貰いに行った帰りの道端で、雨に濡れている蝸牛をみつけた。
  確か、でんでんむしのかなしみという題
  だったろうか。背負った殻の中の孤独が
  哀しくて、周りの動物にいろいろ聞いて
  回ったら、みな、同じように孤独を抱え
  ていた・・という話。
透明な、しかしくっきりと渦の痕を刻みつけたこの殻の中にどれほどの哀しみを背負っているのだろう。
そんなことを思いながら触れた手に、そぼ降る雨が筋となって流れていった。

何気なく拭おうと触れたポケットの中、ハンカチと一緒にその手紙は入っていた。
くしゃくしゃになった紙の中に、何の意味も持たない震える線が、あるかなしかの筆圧に消えかかりながら書かれていた。
篠降る雨の蝸牛の殻に当たる音が、紫陽花の葉にはねかえる力強い音を背中に、少し尾をひきながら流れていく。
混じることのできない哀しみの音を あの人は長い間ひとりぼっちで聞いていたのだろう。滑り落ちていく幾筋もの流れは、時に流れを変えながら、体に染み込んでいく。

 「お義母さん。まるで蝸牛のはった跡です
  ね。」
 不意に流れ出す涙の中、この手紙は、哀しい運命を背負った蝸牛の人生なのだ、と思った。


 境内に玉砂利を踏みしめる音がリズミカルに響きはじめる。
鈴を揺らす音。柏手の音。人々の祈り・・

「さあ、人々の願いが、一日が動き出したわ。
 あなたの人生といっしょね。
 あなたはまだ、人生の朝の時間を生きてい
 るのだから。」

 山門前に軒を連ねる土産物屋で働いている人々の声が、小学校に通う子ども達に向けられる。
「行ってらっしゃい。いい天気だね。」

 玉砂利を踏みしめて、歩き出した私の前で、深大寺の鈴の音が大きく鳴り響く。
 私は、大きく息を吸い、ゆっくり柏手を打つ。-
---------------------------------------------------------------

<著者紹介>

郡 恵子(東京都調布市/53歳/女性/主婦)

陽射しが薄墨の雲に隠れて、冷たい風が二の腕にまとわりついてきた。
一粒落ちると、数分後にはゲリラ雷雨になるのが今年の夏だ。

初めてお参りに来たのは小学校に上がる直前で、新築マンションを買った両親が厄除けと家族三人のお祓いをしてもらい、それ以来、初詣は深大寺になった。頭と、当時習っていたバレエが上手になりますように、元気に大きくなりますように、父と母が交互に煙たい掌であたしを包んでむせびそうになった。
薪能に行ったときは茶碗に絵付けをして、並べた大小のだるまの絵を店の人が褒めてくれ、今でも朝夕のテーブルに乗る。
順番に店先を覗いていると、隣にいたはずのモリオくんがいない。ずっと先の角を曲がる赤いTシャツの背中を追いかけると、振り向きもせずに顎を突き出して言った。
「お腹空いた。蕎麦、食べない?」
「降りそうだしね。雨宿りで飲もうか。」
ピークが過ぎているせいか、先客は窓際の中年主婦グループが一組と、調理場前の席で飲んでいるおじいさんだけだ。ここは、「いらっしゃいませぇぇ。」と語尾を上げて三秒ほど引っ張るよく通る声、接客はピカイチの花番さんがいる。
「ビールと枝豆、板わさをお願いします。マリコは?」
「あたしもビールと、野菜天の盛り合わせで。」
注文を調理場に通したところで雷が鳴り、大粒の雨が3Dのように迫ってきた。窓に左手を当てると、モリオくんは右手の指をぴんと伸ばして真似した。
「タイミングよかったね。これから混んでくるよ。」
間もなく、半分ほどのテーブルが埋まった。
「お待たせしましたぁぁ。」
冷えたグラスを持ち上げると、水滴が花番さんの指跡を辿って親指と人差し指の上で止まった。
「お疲れ。」
中庭の葉っぱたちは、この夏何度目かの荒行に耐えている。
「この間、ちょっと大きな仕事が取れたんだ。長かったなぁ。」
最初は企画やデザインを見てもらうだけだったが、何度目かで小さな仕事がきて、そこから一年がかりだったそうだ。
「先輩が、フット・イン・ザ・ドアだなって言ったんだけどね。」
それは、小さなお願い事から入る段階的要請法で、「買わなくていいですから、話だけでも聞いてください。」と、開けてもらったドアに足を挟むセールスマンからきているそうだ。モリオくんはそんなことを知らずに営業したのだろうが、話を聞きながら、井の頭線で再会した日を思い出した。

吉祥寺駅と家の中間にある高校には推薦で入り、制服もなく、風変りで自由な校風で有名だった。
音楽部でミュージカルをすることになり、オーディションで主役の座を射止め、相手役の王子様に決まったのが、内部生の大道具担当モリオくんだった。パーマをかけた長髪を一つ結びにしているビジュアルと、お母さんが有名な声優ということで抜擢されたと一部で噂があった。稽古が始まり、ダメ出しが二回続いた翌日、スポットライトを使ったら、舞台が揺れるほど大音量で歌い、顧問の先生は「降臨したね。」と言っていた。
本公演が終わってしばらくして、中庭で一度だけアイスをご馳走になったが、もう音楽の神様は姿を消していた。モリオくんは美大に進み、あたしは推薦で四大に入り、再会したのは、成人の日の夕方にライブハウスで開催された音楽部の同窓会だ。  
王子様は二次会のカラオケには行かず、一足先に店を出たあたしを追いかけてきた。
「今日は飲むから、バスで来たんだけどさ。一杯だけ付き合ってくれない?三十分だけ。」
モリオくんの肩からは、あたしと同じように狭い交友関係で生きている匂いがした。
焼鳥屋さんに入った。二人が真っ先にメニューを指したのがシュウマイで、「焼き鳥よりさ、ここはこれだよね。」と三個を分け合い、あとは枝豆とモツ煮と冷やしトマトで二杯ずつビールを飲んだ。
店を出て井の頭通りに出ると、どのバス停も長い列ができていた。
「あたしは五番乗り場。モリオくんは?」
信号が変わって横断歩道を渡ると、すぐに立ち止まった。
「ここ。深大寺行き。途中まで一緒に乗っていかない?このへんで降りればどう?遠回りになっちゃうかな。」
指差す路線図を見ると、知っているバス停があった。
「そこが一番近いかな。いいよ。乗ってく。」
一本見送って先頭に並び、掲示板の表示を見ながら、何分前にバスが来るか当てっこして、発車時間があと二分に変わったところでアドレスを交換した。
「次で降りるね。」
振り返ってバスを見たら、一番後ろの座席でモリオくんは大きく手を振っていた。
たぶん、その日、あたしはモリオくんを好きになった。

東京のはずれの自動車工場で二年働いては外国に行って半年間も音信不通になり、もう忘れようと思うと帰ってきて、メールが届いては会う関係が長く続いた。
契約社員で百貨店に滑り込んだあたしは正社員になれるかどうかもわからなくて、もう六年だ。リーマンショック以降、工場の仕事は当てにならず、紹介で小さなデザイン会社に就職したモリオくんは、大事なプレゼン以外でスーツを着ることはなく、相変わらず髪を束ね、リュックを背負って、徹夜したり午後出勤したりの不規則勤務で、平日に休みが取れるとメールかスカイプで誘われ、デートらしきものが月に一、二度。お天気がよければドッグランを眺め、時々バドミントンをして植物園に行き、喫茶店か蕎麦で締めくくり。深大寺付近のイベントにはほとんど出かけた。

「もり、お願いします。」
「あたしは、かけで。」
「仕事もなんとか軌道に乗り始めたしさ、家を出ようかと思って。」
モリオくんは、蕎麦をひとすくい、何もつけずにそのまま口に運んだ。次に汁にくぐらせて二口、山葵を入れて三口、最後は七味をかけて二口で、「うん。」と箸を置いた。
「一人暮らしするの?」
花番さんが摺り足で蕎麦湯を持ってきた。
「ふー。うまい。」
返事を待っていたら「お待たせしましたぁ。」の声が近づいて、器の中で小さく揺れるつゆに歪んだ顔が映った。
「結婚しようと思ってるんだけど。」
蓋を開けた七味を目の前に置くと、両腕をテーブルに乗せて覗きこんだ。
「えっ?」
誰と?と聞こうと思ったのに蕎麦をすすってしまい、喉のあたりが混乱した。顔を上げるとテレビの砂嵐の光景が広がり、やっと消えたと思ったらザーっという音がモリオくんの声を遮断して、ジェスチャーごっこか無声映画みたいだった。
沈む最後の一本をすくい、汁を飲み干した。
「うまそうに食べるね。ねえ、聞いてる?」
付き合おうと言われたわけでもないし、たった一回のキスはタイから戻ったその日に行った居酒屋の帰り道で、酔っ払いの事故みたいなものだ。自転車で家まで迎えに行ったときは、出てきたお母さんに「M校の同級生」と紹介されたじゃないか。
「そろそろ出ようか。雨、止んでるよ。」
〆に甘味を食べずに出るのは心残りだったが、このままいたら泣くかもしれなくて、決定的な敗北は避けたかった。
西日が射すアスファルトの染みは、あっという間に小さくなっていく。一番乗りのバス停で、ベンチの端っこに腰かけて足を垂直に持ち上げた。
「そこ、濡れてない?」
太ももの裏に三秒ほど手を挟み、掌を顔の正面にかざすと、指の間から洩れる逆光でモリオくんの目がきらきら光った。
モリオくんは時刻表を見てからリュックを下ろし、手を入れてごぞごそしていたが、探し物が見つからないのか、中身を一つずつ取り出した。
黒と黄色の小さなスケッチブック、あたしがクリスマスプレゼントにあげた緑色のペンケース、モバイル、紺色のタオル、ケースに入ったペットボトル、初めて見たグレイの折畳み傘、ブラシやジェルが入ったメッシュのポーチ、黒字に赤のロゴが入ったICカードケース。刑事もののドラマで見る証拠品のようにきれいに並んだ。
「あったあった。はい、鍵。住所はメールするけど、ここからすぐ。あんまりおしゃれじゃないし、二DKでちっちゃいけど、いいよね?」
顎から落ちた汗がスカートの上で二つの水玉模様を作った。
「さっきの続きだけど、ぼくはマリコの部屋をノックして、礼儀正しく段階を踏んだと思ってるよ。ドアに足を入れたりしないでね。」
セールスマンの足元は茶色のゴム草履だから、ここでドアを閉めたらアメリカのコメディドラマみたいなオチになる。
鍵には、初めて二人で初詣に来た時に買ったダルマのキーチェーンが付いていた。
----------------------------------------------------------------

<著者紹介>

みやした 侑子(東京都三鷹市/56歳/女性/主婦)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

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募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
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ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
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