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「上を向いて」著者:斉藤柚子

 今年は桜を見ていない。深大寺門から続く雑木林の新緑を見て、私は気がついた。神代植物公園に来るのはいつぶりだろう。桜が今年の務めを終えた平日の公園は、ひっそりとしていた。
「わかちゃん、ゆっくりしてたのに悪いね」
すっかり小さくなった祖母が、車椅子から私を見上げる。祖父の三回忌を終えた昨日、祖母は急にここに来たいと言い出した。働いている両親に、私は付き添いを頼まれたのだ。
 二ヶ月前、私は五年間勤めた会社を辞めた。社内不倫の末路だった。ハローワークで失業給付金の申請手続きを終えた頃、東京に開花宣言が出たが、私は上を見なかった。

 シンとした林を抜けると、目の前に広々とした芝生が広がる。夫と子どもとお弁当。がんばれば、必ず手に入ると信じていた。彼の妻に子どもができるまでは。
「光一や茜が小さい頃、ちょうどここができて、よく二人を連れてきたんだよ」
祖母の声に我に返る。光一と茜は祖母の子どもで、茜が私の母だ。貿易の仕事で東南アジアを飛び回っていた祖父は、家にほとんどいなかったと母から聞いている。
「二人の子どもを抱えて、なんで一人でこんな大変な思いをしないといけないんだろうって、何度も泣いたのよ」
若き日の祖母の姿が、見たこともない彼の妻と重なる。真っ白になった後頭部を睨みながら、祖母に言われるまま、左に進む。
「ああ、よかった。ちょうど満開ね」
祖母の声に顔をあげると、緑の葉を広げた低木に、球体型に連なった花が咲き誇っていた。
「これ、しゃくなげっていうのよ」
ピンクや白の花々は、一つひとつがまるでラウンド型のブーケのように華やかで豪華だ。
「このお庭を見に来たんだよ。ちょうど見頃だねえ。ありがとうね」
祖母は愛おしそうに花を見上げる。
「ここはおばあちゃんの秘密の場所」
祖母はうふふと笑って、思い出話を始めた。

 母が一歳になった頃、祖父はインドネシアへ単身赴任することになった。一人で子育てをすることになった祖母は、辛くなるとここに来ていた。だが、できたばかりの公園には、温かな家族の姿が溢れていた。父親と遊ぶ子どもたち、それを見てほほえむ母親。見ていると、我慢していた涙が溢れた。
「迷われましたか?」
木立に隠れるように泣いていた祖母に声を掛けてきたのが、庭師の朝井だった。
 二つ年下の朝井は、幼い父や母と追い駆けっこをし、祖母にこっそり花を持たせたりした。祖母は朝井に会うのが楽しみになっている自分に戸惑いながらも、公園に行くのを待ちわびるようになる。
「いつかカナダに行って、この花の勉強をしたいんです」
何度も見返しているのか、擦り切れたしゃくなげの写真を恥ずかしそうに見せた朝井を、祖母は愛しいと思った。
 だが、ほどなくして、祖父の帰国が決まる。それを告げた日から、朝井は姿を見せなくなった。公園の職員に聞くと、朝井は勉強のためにカナダに旅立っていた。
 
 祖母の話はそれだけだった。
「それって、恋でもなんでもないじゃない。なにもなかったんでしょ」
拍子抜けして言うと、祖母はまた、うふふと笑う。
「それでも、恋は恋だったの。あの時、おばあちゃん、すべてを捨ててこの人と一緒になりたいって思ってたんだから」
陽だまりのような祖母らしからぬ、過激な言葉に驚いて、思わず祖母の顔を見る。
「女が長年生きていれば、色々あるものよ。いつの時代も一緒。わかちゃんだけじゃない」
耳を疑った。
「……なに?」
「見てれば分かるのよ。道ならぬ恋ははじめは女を輝かせるけど、時とともに醜くする」
諭すような言い方に、頭にカッと血が上る。
「おばあちゃんになにが分かるのよ! そんな夢みたいな話と一緒にしないでよ!」
祖母を置いて、その場を離れた。とにかくどこかで泣きたかった。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、消えてしまいたかった。
 どれほど歩いたか、売店横のトイレで鏡を見ると、涙で濡れた醜い女の顔が映る。祖母の言葉が蘇る。知られたくなかった。でも、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分がどんどん嫉妬で狂っていくのは分かっていた。でも、それを人から言われるほどきついことはない。目元をハンカチで拭うと、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。急に不安が胸よぎった。慌てて、あの庭へと急ぐ。

 しゃくなげの庭に、人影はなかった。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
木々の間を行ったり来たりし、芝生や雑木林に向かって叫ぶ。心臓がバクバクし、血の気が引いていくのが分かる。
「わかさん、ですか?」
振り返ると、青いキャップをかぶった職員らしき男がいた。
「おばあさん、ご気分が優れない様子でしたので、医務室にお連れしています」
「大丈夫なんですか!?」
男は日焼けした顔で、やさしく笑った。
「はい、脈も安定していますし、ちょっと休めば大丈夫とのことです。孫がこの庭に戻ってくるからと言われて、今来たところでした」小池と名乗った男によると、祖母は車椅子から立ち上がろうとして転んだとのことだった。

 医務室のベッドで、祖母は横になっていた。
「びっくりさせてごめんね」
私の真っ赤な目には触れず、祖母は申し訳なさそうに言う。
「帰る前にもう一度だけ、しゃくなげ、見に行ってもいいかい?」
私は祖母のしわしわの手を握って、うんうんと二回うなずいた。

 夕暮れのしゃくなげの庭を、祖母と小池と眺める。小池は花の説明をしたいと言ってついてきたのだ。赤、ピンク、白、紫……。いくつかの品種の説明をした後、小池は淡いピンクの花の前で足を止める。
「これはうちにいた初代の庭師が開発した品種なんです。しゃくなげが好きでカナダまで勉強しに行った人で、好きだった人の名前をつけたそうです。奥様のお名前ではないので内緒なんですけど、”ちよ”っていうんです」
小池がいたずらっ子のように笑う。私がそっと祖母の肩に手を置くと、祖母は手を重ねた。
「……その、庭師の方、今は?」
祖母が尋ねると、小池は残念そうな顔をした。
「昨年お亡くなりになりました。退職されてからも、よくお孫さんたちを連れて見に来てくれてたんですけどね」
祖母の肩から、ふっと力が抜けた気がした。
「そうですか、お幸せだったんですね。ご説明、とても楽しかったです。ありがとう」
うるんだ目を、祖母は指でそっと拭った。

 公園を出たのは閉園時間間際だった。駅へ向かうバスを待ちながら、祖母に声を掛ける。
「大丈夫?」
「……なにが?」
「だって、あの花……」
「やわらかで愛らしい色だったわね」
「……うん。おばあちゃんにぴったりで」
うふふふ、と祖母は楽しそうに笑う。
「”しの”だと思った? 言ったでしょ。これでもおばあちゃん、あの頃はすごく色気があったんだから」
小さな背中と「色気」という言葉のギャップに、思わず笑う。
「じゃあ、真っ赤とか?」
「そうね、紫とかもいいわね。あー、でもよかった。すっきりしたよ」
「……悔しくないの?」
「……そうだね。なーんだって気が抜けたのはあるけど、どんなに辛くても、前を向いていれば必ず幸せになれる。そう信じてがんばってきたのは正解だったって、答え合わせができたんだから、こんなにいいことはないよ」
祖母は私の手をギュッと握る。カサカサだけど、そのぬくもりがジンと乾いた心に染みた。
「わかちゃんも、大丈夫。大丈夫」
涙がポツリ、ポツリと手に落ちる。その手に祖母がなにかを握らせた。
「独身だって」
「え?」
手の中の紙切れを見ると、携帯番号が書かれている。
「小池さん、わりとイケメンでしょ。二十六歳で独身だっていうから」
「ちょっとおばあちゃん! なにしてんの」
一体、いつの間にそんなことをしていたのか。祖母のおだやかな笑顔の裏には、「女」が潜んでいるのか……。
「ほら、バスが来たよ」
角を曲がり、桜並木の下をバスがやってくる。
「ねえ、おばあちゃんはおじいちゃんといて、幸せだったの?」
祖母の白い頭が、空を見上げるようにわずかに上を向く。
「もちろん、幸せだったわよ。あの頃は辛くて,苦しかったけど、今は心からおじいちゃんといて幸せだったと思ってる。そう思えるのも、きっとあの失恋があったからね。だからこそ、幸せになってやるって思ってきたから」
バスに乗り込み、窓から木々を見上げる。力強い新緑が、桜の木を覆っていた。

斉藤 柚子(東京都調布市/女性)