*

「金木犀」著者:もりかわ詩歌

超満員の車内は、乗客たちの放つ熱気で充ちていた。バックパッカーの大型リュックに遮られ、先ほどから美咲の姿は全く見えない。加えて心地よいバスの揺れは、俺の意識を徐々に奪っていった。人生初の尾行にしては、少々緊張感を欠いていたと言わざるを得ない。
不意に鳴った扉の開閉ブザーで覚醒した俺は、慌てて美咲の姿を探した。彼女は今まさに降車ステップに足を掛けようというところだ。俺は居眠りを咎められた生徒のような勢いで立ち上がり、通路の乗客を掻き分けて何とか最後尾でバスを降りた。
降り立つと同時に、金木犀の甘い香りが鼻を掠めた。バス停の表示は「深大寺」。
美咲はいったい、こんなところへ何をしに来たのだろう。
一時間程前、吉祥寺の美容室で偶然美咲を見掛けた。降って湧いたような好機にどうしてもそのまま立ち去ることができず、美容室の前をウロウロしながら三十分ほど待った。店を出たらすぐ声を掛けるつもりだったが、折悪く美咲の携帯に着信が入り、話しながら歩き始めた彼女の後を図らずも付いて行く形となった。その後も勧誘や客引きに阻まれている間に美咲が路線バスに乗り込んだものだから、勢いで俺も乗車したというわけだ。我ながら少々常軌を逸した行動だと思うが、恋の始まりとは得てしてそういうものなのだ。
深大寺の山門に着いたところで、美咲が突然立ち止まった。声を掛けるなら絶好のタイミングだったが、俺は躊躇った。美咲の様子は、山門の建造美に魅入っているという類いのものではなく、彼女自身もまた、何かを躊躇しているように見えたからだ。美咲の心を惑わす何かがここに存在するということか。そんなことを考えている間に、美咲が再び歩き始めたので慌てて後を追った。
それにしても、普段のビジネススタイルも知的でいいが、まとめ髪も色気が増していい。白いワンピースも彼女の楚々とした美しさをよく引き立てている。わざわざ美容室で髪を結ってもらうくらいだ、友達の結婚式にでも参列するのかもしれない。
そう言えば、半年程前別れた女が、
「結婚式は深大寺で挙げたい!」
と言っていた。合コンで出会ってその日のうちに、相撲取りかと見紛うほどの張り手でベッドになぎ倒され、なし崩し的に付き合うことになったのだが、詮索と束縛にそろそろ限界を感じ始めた頃、ふいに飛んできたこのセリフに恐れをなして逃げ出した。
苦い記憶を辿ったことで、はたと理性が働いた。偶然を装って話し掛けるにしては、おひとり様の三十男と深大寺はあまりに縁遠い場所ではあるまいか。そもそも美咲は、俺のことをどう思っているのだろう。
美咲と出会ったのは、オフィスビルのエレベーターの中だった。美咲はいつも昇降ボタンの一番近くに立ち、人の流れに合わせてさり気なく開閉ボタンを押していた。俺は彼女の社員証をチェックし、23階の商社に勤務する今野美咲という女性だと知った。
二週間ほど前のある日、遅めの昼飯を取った後、閉まる直前に駆け込んだエレベーターに美咲が乗っていた。同乗者はいない。
いつもの美咲なら、社員証の社名を見て階数ボタンを押すぐらいのことはさらりとしてくれる。しかしその日は違った。俺が乗り込むなり咄嗟に顔を背けたのだ。もしやと思ったが、定期的に鼻をすする音で確信に変わった。美咲は泣いていた。信じられないことに、俺はその瞬間恋に落ちた。ポケットの丸まったハンカチが恨めしかったが、同時に楽観的な打算も生まれた。泣き顔を見られた男のことは否が応でも忘れられないはずだ。同乗者Aから三雲さん、ひいては亮介くんに昇格するチャンスは十分にある。その日以来、彼女に声を掛ける機会をずっと狙っていたのだ。
しかし、山門で再び歩き始めてからというもの、美咲はまるで意を決したようにひたすら前だけを見つめて歩を進めており、一向に振り返ったり周囲を見回したりする気配がない。これではさりげなく美咲の視界に入るチャンスなどそうそう巡ってこないと思った時だった。少し速めのリズムを刻んでいたヒールの音がぴたりと止まり、くるりと踵を返したかと思うと、美咲は真っ直ぐ俺に向かって歩み寄ってきた。唐突に訪れた願ってもいない展開に、俺は生唾を飲み込んで身構えた。
「あなた、吉祥寺からずっと私のこと付けてましたよね。」
「付けていたというか、声を掛けるタイミングを窺っていただけで……。」
険のある声と血走った目にしばし圧倒されていたが、やっとの思いでそう答えた。
「そういうのをストーカーって言うんです。ついて来てください。」
そう言って歩き出した美咲に、俺は呆然としたまま付き従った。このまま警察に突き出されるのだろうか。やはり美咲にとって俺は、今までもこれからも同乗者Aでしかなかったというわけだ。想定し得る中で、いや想定の範疇を超えて最悪の展開だった。
前を歩いていた美咲の後ろ姿が木立の間で急に止まった。てっきり寺務所にでも連れて行かれると思っていたのだが。いまいち状況が飲み込めないでいる俺の目に映ったのは、さっきまでとは打って変わって、強張った表情でただ一点を見つめる美咲の横顔だった。
視線の先には、今し方結婚式を挙げたばかりの一組の新郎新婦がいる。
「あの新郎、先日まで私の婚約者だった人です。」
「はい?」
「二週間前突然、『他に好きな人ができたから別れて欲しい。彼女のお腹には俺の子がいる。』と言われました。」
あの涙の訳が、図らずも明らかになった。
「はぁ……それであなたはなぜここに?……まさか、狂気の沙汰なんてことは?」
ここに至って、白いワンピースにまとめ髪という彼女の出で立ちに合点がいった。花嫁を挑発するための討ち入り装束というわけだ。
「最初はそのつもりでした。でも、結局討ち入るどころか一人で相手の女の顔を見る勇気もなくて。そしたら、護衛にはうってつけのデカい男が都合よく後を付けてきたので。」
どうやら俺は、羊の皮を被った狼にまんまと惚れてしまったらしい。
木立の陰から覗いた新婚夫婦は、親族や友人たちから祝福を受け、まさに幸せの最中にいるように見えた。
美咲はその様子を黙って見つめている。
新郎は見るからに優柔不断な男だ。新婦の方は……ん?あれ?もしやあの女は―――。
その時だった。
「キャーーー!ストーカー!」
新婦の叫び声に、隣で美咲の肩がビクンと波打つのが分かった。無意識に俺のシャツの袖を固く握っている。
しかし、新婦が指さしたのは美咲ではなく俺だった。参列者たちが一斉に怪訝そうな視線をこちらに寄越した。
「あの人、昔ちょっと付き合ってあげただけなのに、私が結婚するってどこかで調べて私のこと奪いに来たのよ!」
半狂乱で新郎の腕にしがみついているその新婦は、半年前俺が尻尾を巻いて逃げ出したあの束縛女だった。きっと新郎のことも、千代の富士張りの突っ張りで一気に土俵際へ追い込んだのだ。
その場はにわかに騒然となったが、白いワンピース姿で傍らに立つ美咲に気付いた新郎は、事の真相を察したようだった。人違いだよとかなんとか言って新婦を宥め、その場をどうにか収めようとしている。
美咲は事の展開について行けないという感じで、ぽかんと口を開けたままだ。
俺は騒ぎが大きくならないうちに退散しようと、ダッシュに備えて美咲の手を取った。そして一度は背を向けたものの、思い直して振り返り未だ火柱の上がる火中へゆっくりと歩いていった。美咲の手を引いたまま。
参列者には心配や怪訝の表情よりも、好奇心に溢れた目の方が多いことが、新郎新婦の人となりを窺わせる。
「何か勘違いをされているようですが、僕たち今日は結婚式の打ち合わせに伺ったんです。来月こちらで式を挙げるもので。」
戦々恐々としていた新郎の表情が幾分和らいだ。それと入れ替わるように、うっすらと後悔の念が浮かんだように見えた。未だ檻の中の猿のようにキーキー言っているに新妻に比べ、捨てたはずの女の美しさに改めて気づいたのだろう。美咲は、そんな新郎の視線を振り払うように俺を見上げ、行こうと言った。
事の成り行き上、手をつないだまま参道を歩いていると美咲が言った。
「あなたって、女性の趣味悪いんですね。」
「三雲と言います。それに、女性の趣味が悪いと言うなら、あなたの元彼も同様かと。」
一瞬むっとした美咲だったが、すぐに涼しい顔で続けた。
「知ってます。エステートビル18階、D社勤務の三雲亮介さん。」
……どうやら俺は、またとんでもない女に引っ掛かってしまったらしい。
どこからともなく、金木犀の甘い香りが鼻を突いた。その時、美咲が静かに呟いた。
「『陶酔』って言うんです、金木犀の花言葉。甘い香りは一瞬にして人の心を奪うから。でも結局、数日で儚く散っちゃうんですよね。」
自分への戒めか、それとも俺への警告か。
「しばらく行ったところに植物公園があるんですが、行ってみませんか?『真実の愛』とかが花言葉の花でも探しに。」
ダメ元でそう誘ってみた。
少し驚いた表情でこちらを振り向いた美咲の首が、小さく縦に振れた。
秋の風が二人の背中をそっと押した。

もりかわ詩歌(鳥取県岩美郡/32歳/女性/公務員)