*

「ゆらゆら」著者:右城薫理

派手な赤い服を着た人がいるのかと思った。小島由香は、満員電車に吐き出されるようにして、明大前駅のホームに降り立った。その視界の隅を赤いものが動いた。朝の通勤時間には似つかわしくないが、東京には色々なファッションを好む人がいる。きっと赤い服が好きな人なのだろう。そんなことを考えながら振り返った。
すると、そこに赤い達磨が踊っていた。頭からすっぽりと被った張り子のような胴体からは、細くて白い手足が伸びている。それが、力が抜けたようにゆらゆらと揺れながら、独特なステップを踏んで踊っているのだ。
由香は、あまりの衝撃に瞬きや息をするのも忘れてその達磨を見つめた。ところが、由香以外は達磨が見えないのか、人々は達磨の横を無表情で通り過ぎていく。達磨はまるで世界から切り離されたかのように踊り続ける。
次の電車がホームに入ってきた。電車が運んできた風が由香の頬を撫でる。その瞬間、達磨が消えた。
夢でも見たのだろうか。最近、仕事が忙しく、寝不足が続いている。無性にこの体験を誰かに話したい気分になったが、誰にも信じてもらえないような気もした。結局、会社の同僚にも家族にさえも、由香は達磨の話をすることはなかった。
それからも達磨は、由香の前に何度も現れた。会社帰りにふらりと立ち寄った書店やカフェの隅で、ビルの隙間や通りの向こう側で踊っていることもあった。そして、やはりそれは由香以外の誰にも見えていないのだ。
地元の友人から見合いの話をされたのは、由香が日々の達磨の出現に疲れ始めてきた頃だった。見合いと言っても実にざっくりとしたもので、由香に紹介したい人がいるので連絡先を教えても良いかと聞かれたのだ。
由香が三十五歳を過ぎてからというもの、周囲は禁句のように結婚についての話を避けるようになっていた。由香自身、結婚どころか彼氏を作ることもすっかり諦めきっていた。近頃、達磨のことで頭がいっぱいだった由香は、深く考えることもなく承諾していた。
由香が悩む間もなく、その日の内に相手から連絡が入り、週末には深大寺に行く約束をしていた。由香は相手のことよりも、そんな時でさえも達磨が現れるのだろうかということばかり考えていた。

石原健介という名前と、ぼやけた顔写真しか分からなかったが、待ち合わせの調布駅に着いた時には相手の男性がすぐに分かった。柱に寄りかかるようにして待つひとりの男性の横で、達磨が踊っていたからだ。戸惑いながら、男性の方へ近づく由香の後ろにも、やはり達磨が一体ついてくる。
ふと顔をあげた男性は、由香を見ると、次に由香の後ろで踊っている達磨を見た。達磨が二体になってしまった。
「達磨がいますね」
「はい、踊る達磨がいます」
健介と初めて交わした言葉は、初対面の挨拶などではなく達磨についてだった。
深大寺行きのバスに乗った。バスにまで達磨はついて来るのかと思いきや、健介とバスに乗り込んだ時は、二体の達磨は煙のように消えていた。ところが、バスが動きだすと、途中の道やバス停に、二体の達磨は現れては消えた。由香と健介の困惑などお構いなしに、二体は並んでゆらゆらと踊っている。
バスに揺られながら、お互いに達磨が現れた経緯や達磨とのエピソードなどを語り合った。この奇妙な達磨の存在を分かち合える嬉しさに、由香は思わず夢中で喋っていた。

「参拝の前に少し休憩しませんか」
バスが深大寺に着き、参道を歩き始めた時、健介が言った。
山門近くの露天でおやきを買い、お茶をもらうと池が見えるベンチに二人並んで腰をかけた。いつの間にか、二人の両脇には一体ずつ達磨がいる。本来ならば、初めてのデートで緊張する場面であるはずなのに、ゆらゆらと踊り続けている達磨を見ていると緊張が溶けていくようであった。
一体この状況は何なのだろう。思わず、由香は笑っていた。すると、隣でもぐもぐとおやきを食べていた健介が、一口お茶を啜ったかと思うと、神妙な顔つきで湯呑を置いた。
「あなたは、僕の奥さんになる人なのだと思います」
唐突な言葉に、由香の笑いは引っ込んだ。顔が赤くなっていくのを感じる。健介は、まるで天気の話でもするかのように淡々と話し始めた。
「僕は小さい頃から勉強ばかりしてきました。純粋に勉強することが、楽しかったし、それこそが僕のやるべきことだと思って、わき目もふらずに」
由香は健介が何を言おうとしているのか戸惑いつつ、そして、先ほどの強烈な言葉の意味を計りかねながら、耳を傾けた。
「友人や同僚が、普通に女性と知り合って、結婚して家庭を築いているのを見ながら、僕はこれといった感想も持たず、ひたすら勉強に打ち込んできた。でもあるとき、ふと気になった」
湧水を湛えた池では、岩に上がった亀が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
「ふと、勉強以外のものを見てみたくなった」
由香は首をかしげた。
「そしたら、目の前に達磨が踊っていたのです。ゆらゆらと奇妙な動きで。僕は、初め頭がおかしくなったのかと思いました」
「勉強のしすぎで」
由香の言葉に健介が深く頷いた。
「本気で悩みました。これは、病院に行くべきではないかと。でも医者に行ったところで、信じてもらえるだろうかとも思いました」
「分かります。私も同じく悩みましたから」
「悩んでいた時に、由香さんとの話が降って湧いてきたのです」
「湧いてきた」
「そうなのです。それで、きっとこの達磨は、この見合い話の前兆なのではないかと思うように」
「分かるような、分からないような」
「人生に意味のないことはないのだと僕は思います。僕がずっと今まで勉強ばかりしてきたのも、こうやって達磨が現れて、目の前で踊っていることも。全て僕にとって意味のあることだと」
「踊る達磨に意味ですか」
「調布駅にあなたが達磨とやってきたとき、確信に変わりました。僕は悩みながらも奇妙な達磨を受け入れた。そして、あなたも戸惑いながらも達磨を受け入れている。そんな僕とあなたは、出会うべきだったのだと」
やっとここにきて、あの衝撃的な言葉の結論に辿りついたことに、由香は気がついた。
人生には意味がある。だとしたら、私が今まで生きてきたことも、男性と出会いもなく仕事ばかりして、悩んでいた日々にも、全て意味があったというのだろうか。全ては、自分と同じように踊る達磨を連れてきたこの男性に出会うためだったと。
二体の達磨は踊り続けている。
出会ったばかりにも関わらず、プロポーズのような言葉と達磨を絡めた人生論のようなものを真剣に語る目の前の男性に、由香は不思議と親しみが沸くのを感じた。確かに、達磨が現れて由香は動揺した。でもどこかで受け入れていた。それはなぜだろう。なぜかこの達磨が、不気味で嫌悪する存在に思えなかったからだ。ましてや息苦しく感じていた毎日の生活に、どこか肩の力を抜いてくれたような気もしていたのだ。
由香にはこの達磨の意味など分からない。でも、これは悩むべきことではなく、笑うべきことだということは分かる。
その考えに至った時、由香は肩を揺らしながら笑い出していた。隣では健介が不思議そうに目を丸くしている。
「おかしいですか」
「おかしいどころか、この状況にも、あなたの言葉にも嬉しくて、何だか笑いが込み上げてきます」
ハンカチで目じりを抑えながら笑っていると、健介も肩を揺らし始めた。いつの間にか二人で声を出して笑っていた。通りを歩く人々が、二人の笑い声に誘われるように振り返った。
理屈などない。直観として、目じりを垂らして笑う健介の笑顔が、とても素敵だと由香は思った。もっとこの笑顔を見ていたいとも。
二人は、深大寺境内へと向かった。二人の先を二体の達磨は石段の上を器用に回りながら踊り、登って行く。
「達磨に見とれて、私が転びそうです」
由香の言葉に、健介は静かに手を握ってきた。健介の手はとても大きくて温かだった。
二人は本堂で手を合わせた。参拝が終わると、またどちらからともなく手を繋ぎ合わせた。
「おや。どこへいったのでしょう。達磨が消えましたね」
驚いて辺りを見回すと、健介の言う通り達磨の姿はどこにもなかった。
「これでやっと落ち着いて話ができますね」
「二人きりになると、逆に落ち着かなくなってきました」
健介は由香を見下ろすと、優しく微笑んだ。
「もう少しこの辺を散策したら、深大寺蕎麦を食べましょう。蕎麦はお好きですか」
「大好きです」
由香は思わず答えていた。
「あの、お蕎麦も健介さんもという意味です」
深大寺の優しい木漏れ日が二人を包み込む。
そして、この瞬間から、二人の恋は踊り出した。

右城 薫理(東京都調布市/43歳/女性/家事従事)