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「最後の野望」著者:衛藤 潤

 四〇になったら頭を剃って出家してやろうと本気で考えていて、そのことを妻に話すと、まぁそういう生き方もいいやろね、とまんざらでもないようすだった。かといって、妻が私の坊主志願について興味があるわけではなく、単に子どもが授かれなかった夫婦生活へのなぐさめとして、これからの人生あなたの好き勝手にすればいい、とあきらめにも似た寛容な気持ちになってくれていた、ただそれだけのことだと思う。
 私と同い年の妻が、もうこれでラスト、と宣言して不妊治療を始めたのは、ちょうど三九歳の誕生日を迎える年のことで、過去に何度も治療をするもことごとく失敗し、そのたびに病院を転々として、貯金と精神力を根こそぎ使い果たし、いちいちふさぎ込んでいた経験から、今度は最初から体外受精での勝負のみに絞っての病院通いとなった。約半年に渡るあらゆる検査を終えて(妻はもう慣れっこだった)、施術日まであと数日というところで、妻がお参りに行きたいとせがんできた。それは言うまでもなく、今回の子宝祈願のことだったけれど、そんなことを言い出したのは初めてだったから、私は少々おどろいたし、正直妻の心中がわからなかった。妻は神も仏も信じない、わりとドライな性格なはずだったからだ。でも、人生最後の体外受精をやるわけで、もし失敗すれば妻が母になる可能性は消えるわけだから、使えるものは何でも使ってやろう、という気持ちになるのもわからないでもなかった。私は妻の望むようにしようと思った。じゃあ、どうせなら日本で最大級のパワースポットっぽい伊勢神宮とか出雲大社とかに行けばいいやん、と私が提案したら、うーんと唸っていた妻がひとこと、
 深大寺。
 とつぶやいた。
 なんで深大寺? あそこは寺やろ。私が笑いながら訊くと、妻は、伊勢神宮とか行かんくても身近なところでいいんよ、と言った。御利益あるのかわからんぞ、と私がたしなめるように言うと、大丈夫、あそこは縁結びのパワーがあるんやけん、と頓珍漢なことを言った。そーなんか、と訊くと、妻は、そーなんよ、とうれしそうにうなずいた。仕事の転勤にともない、九州から都内に居住し、もう一五年が経とうとしていたけれど、深大寺を訪れたことは一度もなかった。今まで行くチャンスはいくらでもあったはずなのに、見落としていたのか、無視していたのか……自分たちのことなのによくわからない。
 祈願当日の深大寺は、うるさいくらいに雨が降っていて、そのせいか参拝客の姿もほとんど見かけなかった。楽しみにしていた茶屋や土産物屋もどこかひっそりとしていて、私はさびしさを感じた。妻は雨に濡れて濃い色になった石畳を、いつもよりゆっくりと歩いていた。普段なら妻の前を歩くのが常だったけれど、今日は横並びで、妻のさす傘と自分の傘とがぶつからないように歩いてみた。すると妻が突然、
「あたしの友だちに、ヨウちゃんっておるやん。ほら、前の職場でいっしょやったバイトの子」と話しかけてきた。
「ヨウちゃん? あぁおるね」
「うん、そのヨウちゃんがね、今のダンナさんと結婚する前に深大寺に行ったんやって。そしたら、子どもができた」
妻は得意そうに言った。
「ヨウちゃんはデキちゃった結婚やろ? そもそも順番がちがうやん」
私は反論した。そういう話じゃないんよ、と妻は食い付いてきたが、ヨウちゃんはまだ若いから、と私は一笑した。言ってすぐに、何でも笑い話に昇華させてしまうのは、きっと歳をとったせいだな、と自らの発言を分析した。
「でもね、ほら、キッチンの秋山さんっておるやん? オバチャンの」
「その人がどしたん」と私は訊いた。秋山さんは妻との会話でよく出て来る人なのだけれど、実物はまだ拝んだことはない。妻がよくしてもらっている、世話焼きのオバチャンという印象があった。
「秋山さんも、むかし、ダンナさんと結婚してから、なかなか子どもができんくて、もうあきらめよっかなーと思ったときにね、深大寺に遊びに行ったら」
 子どもができたんか、そりゃめでたい、と言って私は笑った。雨が斜めから降り込んできて、頬のあたりが少しだけ濡れた。私は傘を斜めに傾けた。露先が妻の傘の生地の部分を、ぐいと押してしまい、傘の気分になったつもりなのか妻は、痛いやめてよ、とかるく叫びながら、私から離れて距離をとる。出産するときの痛みは、そんなもんやないで、と私が茶化すように言うと、妻は、そうやろうねぇ、と静かに言った。いつもなら、黙れとか、バカとか、いくぶん口汚いセリフを口にするはずなのに、今日はおとなしい返しだった。それはそれで妙に具合がわるい。
 山門前の石段を登りながら、
「縁結びってさっき言ってたけど、それって恋愛ちゅう意味やから結婚しとったら、もう効果ないって」
「いいんよ。縁って、結婚する前だけやなくて、結婚してからもずっと続くもんやから」
「にしても、子宝はさすがに関係ないと思うわ」
 という会話を交わしたけれど、最後まで笑い話をしたい私の思惑とは裏腹に、妻の表情はいつになく真剣だった。雨の音がすぐちかくで聞こえた。
一五〇万、と小さな声で妻がつぶやいたのは、本堂でのお参りを終えて引き返す途中、ふたたび石段に足をかけたところで、すべてを聞かなくても、妻が何を言おうとしているのかが私にはわかってしまった。
「次やったら、一八〇くらいになるんやろな」
「あたしね、この前、注射するお金をおろしに行ったんよ。そしてね、いつも通りに五万円をおろしてね、車に乗って財布に五万円入れようとしたらね、あぁ、これってパートの給料の半分やって思って。今まで一回もそんなこと思わなかったんに、そんとき初めて、なんかね、このお金が病院行くと無くなるんが、すごく勿体ないって思ってね」
 妻にどれだけの貯金があるかはわからなかったけれど、妻は、私の貯金には手をつけずに、自分のパートの稼ぎと蓄えだけで、不妊治療にかかわるお金を捻出していた。治療にあてられる市の助成金も、とっくに限度額いっぱいまでもらっていたので、二つほど前の治療から全額を自己負担していた。私の貯金も使えばいいと妻に言ったけれど、妻は首を縦に振らなかった。
「それでね、昨日、財布に入れといたはずの五万円が無いって思って、あたしね、部屋のなかとか車のなかとか探してさ……それでも見つからんくて、どっかに落としたんかと思って、アパートの周りとか探して……で、気づいたんよ。あ、病院で使ったんだ、ってね。もう、いつお金をおろしたとか、いつ払ったとかわからんくなって」
「だけん、昨日泣きよったんか」
 私の問いかけには答えず、妻はいきなり、おなか空いた、と言った。蕎麦でも食べればいいさ、ここ有名やろ、と私は言った。妻はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、わりかし元気な声で、いちばん高い蕎麦食べよっかなー、と言って早足で階段をおりていた。
 二人して温かい蕎麦を注文した。いちばん高い蕎麦を食べると宣言していたわりに妻の注文した蕎麦は、私とおなじ、ほどほどの値段の蕎麦だった。あらかた蕎麦を啜り終えたとき、中学生くらいだろうか、華奢な体つきの男女が店に入って来た。兄妹にしては、どこかよそよそしい感じもあったから、これは恋人同士かな、と思った。目立たないように見ていると、店の隅に設けられたテーブル席に座り、小鳥が鳴くようにクスクスと笑いながら、メニュー表を見て、あれやこれやと話し合っている。二人は髪の毛や衣服が少し濡れていた。
「あの二人見てみ。中学生くらいの子や。平日なのになぁ。学校行かんで蕎麦食べに来てるやん」と妻にささやきかける。
「ほら。やっぱり縁結びで来たんよ、あの子たち。迷信やなくて、やっぱり効果あるんよ」
 妻は満足げにうなずいた。それでも子宝は関係ない、と笑い飛ばそうとしたけれど、美味しそうに蕎麦つゆを啜っている妻の表情が崩れるのを見たくなかったので、ただ、そうやな、と私は言うだけだった。
 蕎麦屋を出たころには、雨脚が少しばかり弱くなっていた。まだまだ傘を広げる必要があった。小雨模様のなか傘をさし、ふたたび妻と並んで歩いた。すると、さっきの蕎麦屋にいた中学生カップルが、傘を持っていないのか、二人ともびちょびちょに濡れながら、それでも手を繋いだまま、こちらに向かって歩いて来る。濡れているのに二人は楽しそうに笑っていた。とても堂々とした態度だった。
「大したもんやなぁ」
 私がしみじみと言うと、妻は拗ねたように唇を尖らせた。強がりを言うときに見せる昔からの癖の一つだった。
もし男の子が産まれたら、あの二人みたいに、あたしも一緒にラブラブ手をつないで深大寺まで遊びに来よっと、と妻が言った。私が、自分の子どもとは付き合えんぞ。いつか可愛い彼女を連れて来るって、と苦笑しながら言うと、しばらく考える素振りを見せていた妻は、見せつけやがってコンチクショー、と本気で悔しそうなようすで言った。
私はそんな妻の態度がおかしくて、おかしくて、ほんとうにおかしくて、手を握ることさえ忘れて、ずっと笑い続けていた。

衛藤 潤(静岡県御殿場市/38歳/男性/公務員)

   - 第12回応募作品