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「ムクロジ」著者:谷口 絵美

 冬に近付いてゆく秋の陽射しはとても淡く、薄暗い店内に今にも消え入りそうなおぼろげな影をつくりだしていた。
 その影はむしろ夜分の月の光によるものよりも薄く、それが余計に落日の物悲しさを彷彿とさせる。
こんな時間か、と独り言を呟きながら吉野は立ち上がり、ほとんど商品の置いていない店内を見渡す。
 もう若い頃のようには動けない。リウマチの足を引き摺りながら、時代遅れの土産物屋を独りで続けていくのは限界だった。
 信州から上京し、深大寺の門前で店を開いた祖父の代から三代目。よく続いたものだと思う。

「この店、まだやってるのかな?」
「どうだろ…。閉まってそうだよねえ。あ、中に人いるよ」
 裏口の戸締りを確認していると、若い男女が西日の差し込む店内を覗きこんだ。
「あの、両替してもらえますか? 外の、自販機、使いたくて」
 急に振り返ったせいで逆光に目を細めた吉野と目が合うと、その男はためらいがちに二つ折りの財布を開き、一万円札をそっと摘んで見せた。
 二人とも肩に大学名の入った大きなテニスバッグを掛け、健康的に日焼けをしている。
「ああ、ちょっと待って」
 そう言いながら店の外に出ると、吉野は腰のチェーンに繋がった鍵を取り出して自販機の扉を開き、どれが飲みたい、と尋ねる。
「俺はコーラと、あと緑茶。えっと、これでお願いします」
 男が一万円札を渡そうとするのを遮るように、吉野は自販機から取り出したペットボトルを彼に突き出した。彼女が慌てて手を伸ばし、それを受け取る。
「今日で店じまいだから。お茶、持っていって良いよ」
 不安そうに吉野の様子を窺う彼らに理由を説明すると、若い二人の表情がようやく和らぎ、いくぶん饒舌になった。
「ありがとうございます。帰りに蕎麦を食べようと思って来てみたら、どの店もやってなくって。コンビニも無いし」
 
週末の深大寺は午前中から観光客が名物の蕎麦を目当てにやって来る。門前にあるほとんどの蕎麦店では夕方までに蕎麦が売り切れてしまうことが多かった。
 すると途端に人通りは途絶える。今日もそんな日だった。
「腹減ってるならさ、好きなの持っていきなよ」
 吉野は店の入口のダンボールに無造作に片付けたスナック菓子を指差す。それを見ると二人は子供のようにしゃがみ込んで、ダンボールを囲んだ。
 それからしばらくダンボールの中を覗きこんでいた彼が取り出したのは、ポテトチップスではなく、古ぼけた羽子板だった。
「これ、何ですか? ラケット?」
「そうか、最近の子は羽根つきを知らないんだな。これは羽子板と言って、バドミントンみたいなものだよ。これが、羽根」
 吉野はダンボールの下に手を入れ、羽根を探し出して彼に手渡した。
「私、妹と羽根つきやったことある。羽根が小さいから、テニスとかバドミントンよりも難しいんだよ」
 小柄な彼女はしなやかな背伸びをするように手を伸ばし、羽根を彼の顔の前へと持ってきた。
 黒い球に差し込まれた鳥の羽は、長い年月の経過にもかかわらず鮮やかな色彩と保っている。
「ほんとだ、小さい。こんな硬いプラスチックの玉を打つのかぁ」
「ユウタ、それ、プラスチックじゃないんだよ」

**

「この羽根の玉は、ムクロジという樹の実なのよ」
 出逢った頃の妻の姿が蘇る。
 ムクロジなんていう木は見たこともないんだから、知らなくて当然だと反論する吉野を、深大寺の境内に案内したのは妻だった。
 本堂の屋根を覆い隠すように黄金色の葉を広げる、見慣れた大きな樹の前に立つと、
「ほら、これが、ムクロジ。毎日見てるでしょう」
 と得意気に笑ったのだった。
「これが?  俺はイチョウの樹かと思ってたよ。あの実、ギンナンによく似てる」
「イチョウって、葉っぱの形が全然違うわよ。こういう形で…」
 妻は両手を扇の型にして吉野の顔の前に突き出し、嬉しそうに笑った。
「幾つか拾って帰りましょう。それで、羽根を作って、羽根つき、やってみる? 私、すごく上手いのよ」

**

「羽根つき、やってみるかい?」
 ふと、思いがけず言葉が出る。
「え、でも…」
「やろうよ、ミサ。勝負して、負けたほうが夕飯おごりな」
 そう言って二人は店の前の、ひと気のなくなった道の上で羽子板を構える。吉野は木枯らしに撫でられて痛みの増した足を引き摺りながら、二人の間に立った。
「よーい、はじめ!」
高く手を挙げた吉野の合図で、黒く艶めいたムクロジの実が、きらきらと光を反射しながら秋の空高くに勢い良く放たれる。
 重力に逆らうように垂直に昇り、やがて一定の高さに達すると緩やかな弧を描いて丁寧に落ちてゆく。こんな光景を見るのはいつぶりだったろうか。

ひとよ ふたよ
みやこし よめご
いつやの むかし
ななやの やくし
ここを とおるは
だれだ

 妻の声が聴こえる気がする。
 吉野はその声と一緒になって羽根つきの数え唄を口ずさむ。若い二人の打つ羽根の音は、どこまでも乾いて澄み渡り、秋の空に心地よく響いた。

「あーっ、ダメだ」
 ムクロジの羽根は乾いた砂利の上を転がり、吉野の靴先にこつんと当たった。その感覚で我に返る。
「よし、私の勝ち! 焼き肉おごって!」
「厳しいって。俺バイト代まだ入ってないし」
「えー、焼き肉食べたいよー」
「無理無理、ホント無理」
 楽しそうに笑いあう二人に、あの頃の自分と妻の姿を重ねながら、吉野はそっと足先の羽根を拾って両手で包んだ。

 
 ありがとうございます、と二人は深々とお辞儀をして羽子板を吉野に返してから、少し歩いて振り返りながら手を振った。
「本当に楽しかったです」
「ああ、気を付けてね」
 そしてもう会うことのない彼らと吉野は、それぞれの日常に戻っていく。
 今まですれ違った人達と同じ後ろ姿になり、その影は緩やかに濃くなって夕闇に溶け、見えなくなった。

 店に鍵をかけ、それから吉野はゆっくりと石段を登って本堂へと向かった。足を悪くしてから、随分と長いあいだ境内に入っていなかったことを思い出す。
 暮れかかった晩秋の境内には他に誰もいない。
 あの頃と同じようにムクロジの実を拾い、冷え切った手を広げてこすり合わせると爪がだいぶ伸びていることに気付いた。社務所前の石段に腰掛け、店の鍵に付いたキーホルダーの爪切りを取り出して、ぱちん、ぱちんと切ると、爪は干からびた落ち葉の間に飛び散って見えなくなった。
 ぱちん、ぱちん。
 いつの間にか、かさかさと乾いた音を立てて猫がこちらに近付いてきた。爪切りの、きらきら光るのに反応したのだろうか。普段は音を立てない猫の立てる足音を聞きながら、吉野は残照を受けて抜けるように光るムクロジの樹から目を離せずにいた。

谷口 絵美(東京都世田谷区/36歳/女性/会社員)

   - 第12回応募作品