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「夫婦蕎麦」著者:千文色夜

 トン、トン、トン、トン。
 リズムよく流れる音は蕎麦の香りと共にまだ誰もいない店内に充満する。
 イスに腰掛ける僕の視線の先には一人の女性が真剣な表情でまな板に向き合っていた。
 普通の人には馴染みのない独特な形状の包丁を使い、まな板の上に広がっている一枚の生地が彼女の手によって魔法のように幾本もの麺へと姿を変える。
「いつになっても、貴方の様には出来ないわね」
 ふっ、と笑うと、すぐにつゆの準備に取り掛かる。
 鰹節と昆布の合わせダシに醤油を入れる。俺がこの店を開いてから寸分たりとも変わることのない味だ。
 深大寺と言う寺の程近くに、ひっそりと佇むようにして建てられた『こころ』という名の蕎麦屋。この蕎麦屋は開店当初から一組の夫婦がやりくりしており、朗らかで優しい妻はミッちゃんの愛称でお客から親しまれている。
 この店はなぜか、訪れるお客はほとんど全員が開店当初から食べてくれている常連客ばかりである。立地のせいなのか、それとも店の雰囲気のせいなのか、理由は確かではないが。
 そんな妻はしばらくの間、鍋に付きっ切りで作業をしていたが、思い出したかの様に慌ただしく付け合わせの天ぷらのタネを準備する。
 その様子に、お転婆なところは昔とちっとも変わらないと、思わず笑いそうになってしまうが、そんなことをすれば不機嫌になることが目に見えているのでなんとかして?み殺す。
 二つの鍋にそれぞれ水と油を入れ火をつけ手早く机を拭く。
 そして、最後の仕上げとばかりに、入り口に暖簾を掲げる。
 朝八時ピッタリ。
 これも開店当初から一度たりとも変わらぬものの一つ。
 数分も待っていれば最初のお客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
 彼女は厨房から顔だけ出して応える。
「ミッちゃん。おはようさん、いつもの頼むわ」
「今日は一番乗りですね、タナカさん」
 ハハハ、と朗らかに笑いながら、タナカさんと呼ばれた中年男は慣れた様子でカウンターに腰掛ける。
 その間、彼女は麺を茹で、天ぷらを揚げる。厨房からはモクモクとした湯気とジュワッと軽快な油の跳ねるが漏れてくる。
 その後も、常連が続々と暖簾をくぐり、活気溢れる声が止むことはない。
 お客の待つテーブルに運ばれていく蕎麦。鮮やかに二色に分けられている。
 普通のものと、淡い紅色。この二色の蕎麦は『夫婦蕎麦』といって、看板メニューだ。とは言っても、この一品しか出さないのだから看板メニューと言っていいものか判らないのだが。
 僕は、世界で一番好きな食べ物は? と尋ねられれば、真っ先に『夫婦蕎麦』と答えてしまうくらいこの蕎麦が好きだ。確かに、有名な老舗蕎麦屋は美味しい。それでもこの蕎麦が一番になってしまうのは身贔屓だろうか?
 話が横道に逸れてしまったが、そもそもこの『夫婦蕎麦』を最初に考えたのは僕ではなく彼女だ。初めのうちは端から見ても恐る恐るといった感じだったそうだが、思いの外、好評だった時は抱き合って喜んだのを憶えている。僕と彼女の間には娘が一人いるが、この蕎麦はもう一人の子供と言っても差支えがないほどに僕たちの一部なのだ。
 ちなみに、生地に桜を練り込むことで淡い紅色を再現している。これが夏には抹茶の緑。秋には紅葉をイメージして黄色やオレンジ色。冬には真っ白な麺で雪を表現してみたりしている。四季に合わせて、その姿や表情を変える。それがこの『夫婦蕎麦』の特徴であり、こだわりなのだ。
 お昼を過ぎれば自然と客足は減っていく。
 彼女のみとなった店内は少し寂しく、それでいてとても落ち着ける。
 日が少しずつ西に傾き、窓から入ってくる光は弱く、オレンジを経て薄い藍色に変わっていく。
「そろそろ材料も尽きてきたし、閉めましょうか」
 そう呟くと、そそくさと暖簾を回収し店の奥へ片付ける。そして、掃除や調理器具を洗い、明日の準備をあらかた終える。
 店の棚にひっそりと置かれている日本酒を手に取ると、以前から俺が使ってきた二つのお猪口に日本酒を一杯だけ注ぐ。一つを俺の前に置き、もう一つは彼女がちびちびと舐めるように飲む。
 昔は、お酒の類は全くと言っていいほどダメだった彼女が、少しずつとはいえ美味しそうに飲む姿を見ると、いやが上にも時の流れを意識してしまう。
 狭いはずの店内も、一人もお客がいなければ随分と広く感じるもので、カチ、カチ、と秒針が一定のリズムで時を刻む。その音だけが、心地よく耳に残る。
「さてと」
 その声とともに彼女は腰を上げ、店の奥に向かう。置きっ放しにされた彼女の分のお猪口。その中身はきれいになくなっていた。
 ふと、何かに気がついたように止まると、彼女は僕の方へ振り向き、僕の一番好きな笑顔でにこりと笑って小さく囁いた。

「貴方が亡くなって何年も経つけど、相変わらず愛されてるわよ。」

 ふわり。
 僕もつられて微笑む。すると全て散ってしまっているはずの桜の花びらが一枚、どこからともなく舞い落ちて、僕のお猪口に飛び込んだ。

千文色夜(山梨県中巨摩郡/16歳/男性/学生)

   - 第12回応募作品