*

「お堂さん、こんにちは」著者:山田夏蜜

「えっ、ウチに泊まりたいって?」
 僕は彼女の言葉を繰り返した。
結衣が札幌から来る。
携帯電話を切った後も、石ころに蹴躓いたように、結衣の声が耳の奥で引っかかっている。
「今ごろ、なんでかな……」
 断れなかった。
 僕が東京の調布に転勤になったときに、ふたりの関係は終わってしまった。それを苦々しく思い出すことはあったが、まさか再会するなんて信じられないことが起きた。
 来週にはこの部屋にいるのか。本当に?
「ああ、部屋の掃除をしないと」
 結衣。
 僕の、一番好きだった、人。
 

 その日はあっという間に、結衣を迎えに行く時間になってしまい、僕は普段気にもしない前髪の角度をまた直してから、車を走らせた。
 待ち合わせ場所に指定された、調布パルコのスターバックスでコーヒーを飲む。消化していない有給休暇をこんなことに使うというのも気持ちが落ち着かない。
 調布駅まで迎えに行けばよかったかな、と思っていたら、僕の肩に懐かしい手が触れた。
「ごめんね、マサくん」
 結衣の声が僕をすっぽり包む。
「あ、っと、いや、いいんだ」
 言葉をちゃんと用意していたのに、久しぶりだね、元気だったかいと軽く言うはずだったのに、僕は前と同じようにマサくんと呼ばれただけで頭がなにかでいっぱいになった。
「マサくん変わらないね」
 結衣が面白がって笑う。
「え、そ、そうかな」
 三十七歳とは思えない返事の仕方で、僕は恥ずかしさを隠すこともできず照れ笑いするしかなかった。
「これからお昼でしょ、行きたいところがあるの」
 僕はここでコーヒーを一緒に飲みたかったけれど、それも言えずに結衣に引っ張られるようにして席を立った。
 パルコを後にして、僕たちの乗った車は、平日の東京を滑っていく。
「どこに行いきたいのかと思ったら、なんでまた深大寺なの?」
 僕は運転しながら、結衣の顔を横目で見た。
「小さいころ、この辺りに住んでいたの」
「へえ、知らなかった」
「明日パリに行くから、旅の無事を祈っておきたくて。引っ越しもあるし」
「えっ、パリ? そっちに住むってこと?」
 どうして結衣はこうも、突拍子もないことを口にするのだろう。
 札幌で一緒に暮らしていたときも、僕との生活が窮屈そうに、あちこち飛び回っていた。
「明日のパリ行きは準備のため。夏には向こうで暮らしが始まっていると思うけど、まだわからないの」
 結衣は晴れた空を車窓越しに眺めながら、その空の先にあるパリを思う顔をしている。
「そう、フランス人の彼氏でもできたんだ」
 僕はそっけなく呟いた。
「マサくん、私、四十歳になったのよ。色々あって当然の年齢だもの。マサくんはまだ三十代でしょ。ふふ、若いな」
「やめてくれよ。ゆ、結衣こそ、ちっとも変ってないよ」
 それは本当だった。結衣は長い髪を切ってセミロングになっている他は、時間の流れなど感じさせない、結衣そのものだった。
「マサくんは渋くなったね、仕事で昇進したかな? 部下もいるよね」
「今は主任で部下もいるけど、あぐらかいていたら、後輩に抜かされる。会社にしがみついているだけさ」
 最後の一言が嫌味に聞こえてしまってないか一瞬不安になった。結衣の身軽さを羨んで。
「じゃあ、お寺ではさらなる昇進を祈願しようね」
 結衣の返事に、僕は奇妙に安堵した。
 平日の午前中のせいか、寺の近くの駐車場も境内も混んでおらず、僕たちはゆっくりと参拝コースを歩くことができた。
「気持ちいい風ね」
 結衣はキャリーケースの持ち運びから解放された両手で、薄紅色の帽子を被り直しながら、僕のとなりを歩く。ショルダーバッグを愛用しているのも変わらずだった。
「おみくじ、引く?」
 深大寺に着いて手を合わせた後、結衣が言った。
「興味ないよ」
 僕が答えると、結衣はやっぱり、と笑って、
「札幌でもさ、神宮に行ってもおみくじ引かなかったよね。私も引かなくなったの。ねえ、深沙堂に行こう」と言った。
 調布に住んで町には慣れたが、正直なところ深大寺のことはよく知らない。逆に結衣に案内されて、僕は軽やかに歩く彼女の後ろ姿を見つめた。
「昔から好きな場所なの。縁結びで有名だけど、その意味がわかったのはずっと後になってからだった。ね、神秘的でしょう?」
 確かに深沙堂は自由に吹く風と、静寂とひんやりした空気の中に佇んでいて、優しく沈黙していた。縁結びだなんて皮肉なものだ。結衣は明日、遠いところに行ってしまうのに。
「ここでなにをお願いするの?」
 僕は目の前で巻き戻るふたりの時間に、心臓が次第に大きく波打つのを感じた。
「もちろん、縁結びよ。私とパリの。縁がなければ、きっと向こうに住めないと思うから」
 結衣はお堂の前で手を合わせる。
「私ね」
 結衣は僕の腕に触れるか触れないかの距離にいる。
「よく両親に連れられてこのお堂まで来ていた。母がね、『お堂さんに挨拶して』って言うから、お堂さんという人がこの中にいるんだと思ってた。『お堂さん、こんにちは。たまには、顔を見せてください、ひとりぼっちでさみしいでしょう?』って話しかけて、父が笑っていた。ビール飲んで機嫌がいいときは、お堂さんのおかげでお前の母さんが奥さんになってくれたと喜んでいたものよ。この中に深沙大王さまが祀られているのだから、やっぱり『お堂さん』でいいのよね」
 そう話す結衣の顔は、透明な輝きが重なって、揺れて、僕の心を撫でる。
「そろそろ、お昼ごはんにする? その前に植物公園もいいかな……」
 くるりと向きを変え、お堂を去ろうとする結衣の腕を、僕は咄嗟に掴んだ。
「行かないで」
 僕は声が上擦るのを必死に抑えながら、結衣の背中に言った。
「パリに行かないでって言ったら」
 僕は繰り返した。
 結衣は僕の手をそっとほどいて、僕に向き合うと、伏し目がちに答えた。
「言わないで」
 それ以上は無言のまま、結衣はひとりで歩き出した。
「なんでだよ」
 僕のなかで三年前の続きが始まる。
「じゃあなんで、俺に会いに来たんだよ。パリに行きたきゃ、真っすぐ行けよ。止めて欲しかったんだろ、俺に行くなって言ってもらいたかったから、そうじゃなきゃ別れた男の部屋に泊めてくれなんておかしいよ」
 結衣は再び僕を見た。
「……わからない」
 彼女は首を振る。
「なんで電話したのか、私だってわかんないのよ」
 そのとき、お堂に突風が吹いた。
「あっ」
 結衣が小さく叫ぶと同時に、帽子は煽られ、地面に落ちてどんどん転がってゆく。
「ごめん、取ってくる」
 僕があわてて帽子を追いかけようとすると、結衣が叫んだ。
「行かないで」
「だって帽子が」
 僕が結衣に駆け寄ると、結衣は僕の手を握りながら言った。
「お堂さんが今教えてくれた。自分に嘘をつくと、大切なものは遠くどこかへ、失われてしまうって。あなたの東京行きが決まったとき、『行かないで』と言えなかった。すれ違いも多くて、あなたと一緒にいるべきは私じゃないのかも知れないと、それだけの理由で。でももう遅いかな、三年も経ってしまったのに、今さらだよね」
 結衣が自分の言葉の重みに耐えているのがわかる。
 僕こそ、言えなかった。東京で一緒に暮らそうと言えなかった。僕は弱かった。
 気がつくと僕は結衣を抱きしめていた。
「パリに住んだら、札幌東京どころじゃない、とんでもない遠距離恋愛ってやつになるね」
 この三年の空白に後悔しても無意味だ。外国に行こうがどこで暮らそうが、僕の一番好きな人であることに違いない。
「決まったら、一年で戻るわ」
 結衣は小さく呟いた。
「お堂さんは縁結びが得意なの、納得するよ。お父さんに続いていいかな。奥さんになってからパリに行けばいいと思うよ」
 結衣は驚いた顔をして、それから泣いた。僕の背中を、お堂さんが押してくれたような気がする。
「結衣、帽子を拾って行こう。次はどこへ行く? どこへでも行くよ。どこへでも一緒に」
 午後を告げる太陽が、僕たちを祝福した。

山田夏蜜(北海道札幌市/37歳/女性/自営業)

   - 第12回応募作品