「ナンジャモンジャの木の下で」著者：栗太郎
境内に積もる雪は冷たくもなければ重くもない。それは白い花だから。
深大寺の境内にはナンジャモンジャの木があって、満開を迎えたその花は、故郷に降る雪に似ている。ひっそりとした早朝の境内で手をあわせて、私は神様に報告をした。
せっかくご縁を結んでくださった隆志君と別れることになりそうです。ごめんなさい。
隆志君と知り合うきっかけは、ナンジャモンジャの木だった。進学の為に上京した私は、入学して一週間も過ぎないうちにホームシックにかかり、講義にも身が入らず、学生ラウンジでぼんやりとすることが多くなった。ラウンジの一角にはディスプレイがあって、学生向けのお知らせがあれこれ映し出されるのだが、ある日そこに一枚の写真が映ったのだ。
大きな木に、こんもりと白い雪が積もっている。
私は思わず椅子から立ち上がっていた。隣でドイツ語のテキストを読み込んでいた友香がびっくりして顔をあげる。
「何？」
「雪かと思って。実家の側の公園に似ていたから……」
私は言葉を飲み込んだ。写真の下にテロップが流れて、私は知ったのだ。それはナンジャモンジャの木を写したもので、雪に見えたものは白い花なのだと。
「ああ、杉山先輩の写真だね」
「知ってるの？」
「有名だもん。三年生だけど写真コンクールで何度も入選しているし」
確かに流れる映像は、本学学生が権威ある写真コンクールで入賞し、作品が都内で展示されると告げていた。展示は明日までだと言うが、生憎と必修講義が入っていた。
「本物を見に行けばいいんじゃない？ 撮影場所は多分、調布の深大寺だよ。満開になるのは、もう少し先だと思うけど。あ、写真は去年のだね」
だったら今行っても意味ないじゃない。私が言葉を続ける前に、友香が言った。
「深大寺は、恋愛パワースポットなんだよ。今度の日曜、一緒に行こう」
「でも……」
「彩ちゃん、お休みの日に部屋でじめーっとしているの良くないよ」
入学してから最初におしゃべりをするようになった友香は、ちゃきちゃきとした東京っ子で、押し付けがましくない親切でいつも私を引っぱってくれた。
「じゃあ、行こうかな」
「杉山先輩に会えるかも」
「え……」
「今、地元の人に頼まれて、深大寺の四季を撮っているって聞いたから」
友香がどこまで仕込んだのかわからないけれど、その週末、深大寺に遊びに行った私は杉山先輩に会った。写真がきっかけで本物のナンジャモンジャを見に来たのだと言うと、杉山先輩はとても喜んで私たちに団子をご馳走してくれた。
その日は三人でぶらぶらし、あまり長く話すこともなかったけれど、別れ際に連絡先を交換しあって、翌週には杉山先輩からデートに誘われた。二人で会うようになって、そう時間がたたないうちに、私の中で杉山先輩は隆志君になった。
深大寺のご利益は大したものだったのだ。
私たちは恋人になって、上手くやっていた。一緒にいて気持ちが楽で、本や音楽、食べ物の好みもしっくりあった。でもそれは、学生時代の夢なのかもしれない。
私の夢は故郷の青森で小学校の先生になることだ。二年前に卒業していた隆志君は既にカメラマンとして独り立ちしていて、忙しく飛び回っていた。
「俺はフリーランスだからね。彩がどこで働くことになっても大丈夫だよ」
でも彼の本拠地は東京だ。仲間と小さなオフィスを構えていて、そこを拠点に全国を飛び回っているのだ。仕事は順調な様子で、三日前にはデートの約束をすっぽかして撮影旅行に行ってしまった。ペットの世話まで私におしつけて。
私はため息をついて、抱えていたショルダーバックから隆志君のペットを取り出した。ミニ亀のカメタだ。普段は水槽で暮らしているのだけど、時々は外を歩かせてやるのだ。
ちょうど境内に人影はなかったから、私はカメタをそっと、積もる白い花の上に置いてやった。もそもそと短い足を動かす様は可愛らしくて私は思わず笑った。隆志君と別れたら、カメタとも会えなくなるのかと思うと淋しい。
「もう別れよう」
衝動的にラインを送ってしまったのは一昨日だ。既読になったけれど隆志君からの返事はない。もちろん帰ってくる筈もない。
「仕事を放り出して帰ってくような人なら、もっとキッパリ別れられたのにね」
カメタに話しかけようとして、私ははっとした。ミニ亀の姿がない。
花びらに潜って遊んでいるのだろう。私は膝をつき、白い花びらを掻き分けた。でもカメタの姿はない。
「嘘でしょ……カメタ。出てきてよ」
ふわふわした白い花を掻き分け、掻き分けしているうちに、私の指先は凍えてきた。
いつか花は積もる雪へと姿を変えていたのだ。顔をあげると、そこに広がっているのは深大寺の境内ではなくて、青森にある小さな公園だった。私の家のすぐ近くにあって、いつも通り過ぎていた公園。目の前には、どっさりと雪が積もった大きな木。
いったい何が起きているのか？ それよりも、こんなに寒かったら亀は死んでしまう。
「大丈夫だよ」
ふいに、のんびりとした声をかけられて、そちらを見ると、カメタがちょこんと座っていた。でも、カメタじゃない。ミニ亀の全身からは陽炎のようなものが立ちのぼっていて、不思議な威厳があった。何と言っても、カメタはしゃべったりしない。
「僕は、深沙王の化身だよ」
それは深大寺に伝わる物語で、親に引き裂かれた男女の仲立ちをしたと言われる伝説の亀だ。神様の化身は、やれやれと首を振った。
「遠距離恋愛程度でへこんでいるの？ 新幹線に乗れば半日かからない距離で？」
「距離じゃなくて……」
仕事と私と、どちらか選んで欲しいわけじゃない。でも遠く離れて、それぞれ仕事に忙しくしているうちに、互いのことはどうでも良くなってしまうんじゃないかと不安なのだ。
「手を離しては駄目だよ。周囲に引き裂かれるわけでもないのに、自分から別れるなんて、愚か者の行いだ。出会いは奇跡。誰もが運命の相手と出会えるわけじゃない」
そんなことは、わかっている。でも私は信じることができないのだ。隆志君ではなくて、私自身の気持ちを。教師になることは小さな頃からの夢だけど、私には隆志君のように強い意思も才能もない。いつか疲れて、彼を傷つけて裏切ることになるかもしれない。
「乗り越えていけるよ」
ふいに、亀は力強く言った。何やらお告げのようで、ありがたく受け止めようとしたら、続きがあった。
「駄目だったら、その時に考えればいい。先のことを心配しても何にもならない」
いい加減なアドバイスに私が思わず笑うと、カメタの体を取り巻いていた陽炎が消えた。さやさやと、五月の風が梢を揺らす。魔法の時間は終わったのだ。
私はミニ亀を掌に乗せた。
「早く帰ってこないと、うちの子にしちゃうぞ」
この場にいない隆志君につぶやくと、驚いたことにすぐ近くから答があった。
「それは、困るな」
振り返ると、肩からカメラバックを下げた隆志君が立っていた。
「本当は一泊するつもりだったけど、夜行バスに飛び乗ってきた」
「始発の新幹線の方が楽だし、早かったんじゃない？」
「あんなライン送られて、冷静さが吹っ飛んで……」
小さな亀を手に乗せたまま、私は汗と埃の匂いがする胸に抱きついた。白い花がハラハラと、雪のように舞う風の中で。
栗太郎（東京都国分寺市／会社員）