*

「マイ・ガール」著者:錆山千草

通り雨がきて、筆を動かすのを休めていたらパッと傘が開いた。ピンクの無地の傘。突然のことに驚き、傘の持ち手をたどっていくと、夕貴よりいくつも年下そうな少女が立っていた。少女というよりは、女の子と呼ぶほうが正しいような佇まいだった。
「濡れちゃうわ」
という声も幼い。その言葉に描いていた水彩画の乾きを指先でなでて確認した。平気そうだったのでスケッチブックを閉じた。ほかの道具を片付けながら傘の主を見やる。
「きみも濡れるよ」
「その絵が濡れるほうがもったいないと思ったから」
荷物をまとめ終わったことを確認するかのように、しゃがんでいる夕貴を一瞥すると、タッタッと駆け出していった。どんよりした灰色の雲とは対照的に軽やか。薔薇の形をしたポシェットとラプンツェルのような三つ編みが跳ねて揺れるのが印象的だった。

通り雨がくる、と空を眺め思った。それからバラを見るふりをして、ベンチに座り水彩画を描く高校生を見つめた。白い紙を色とりどりの薔薇で彩っている。筆を持つ手とは逆の手には絵の具の乗ったパレットを持っていた。パレットの上は、いつ見てもぐしゃぐしゃとした色あいをしているのに、どうして彼の描く水彩画はあんなにきれいなのだろう。
あやめは図工の授業が苦手だった。体育の跳び箱も、国語の音読も、算数の文章問題も、家庭科のミシンだって上手にできたのに、図工だけは苦手だった。ライオンを描けばハリネズミと言われたし、絵の具を混ぜればどんどん嫌な色になった。ちょうど、いまの曇った空みたいに。
そのうちぽつぽつと雨が降り出した。気づいた人たちは藤棚や大温室のほうへ足早に歩いていく。緊張して指先がふるふるとした。絵描きの彼を見たのは、初めてではない。それに、あやめは傘を持っている。かわいいバラのその色に、よく似た色の折り畳み傘。

薔薇を描いた絵は、なんでか勝率がよかった。桜だとか、木の葉の揺れる緑の木々だとかを描いた絵は軒並みコンクールで落選した。画材がなんであれだ。逆に薔薇を描いた絵は、水彩画だろうが油絵だろうが周囲からの評価が高かった。理由は知らない。
ただ、そういうわけで神代植物公園に通っていた。このために、年間パスポートまで買った。土日は早朝開園をしているとのことだったから、今日は昼食を持ち込み、早くからスケッチをしていた。最初のうちはよかったが、昼食をとるころには飽きがきて、しきりに場所を移動したり、薔薇を見て回ったりしていた。そのうち、テディ・ベアという名前の薔薇を見つけて、くまのぬいぐるみと薄茶色の薔薇を並べて描いた。
「くま?」
ピンクの色をした傘の主は、あれからというものの夕貴のかたわらにフッと現れた。先週の土曜、日曜、そして今日。ちなみに傘に入れてもらったのは先々週の日曜だ。名前も年齢も知らない。ただ、薔薇型のポシェットには、いつだってかわいらしい防犯ブザーがぶら下がっていたし、小学生然としていたから、正直なところ、あまりお近づきになりたくなかった。
「この薔薇、テディ・ベアって名前らしいから」
それきり、夕貴が黙り込んでいると、傘の主は口を引き結んだ。それから、薔薇を眺めながら地面を軽く蹴った。晴れた日だったから、少しだけ土ぼこりがたった。
「お花にはくわしいの」
「いや、とくに」
「わたし、学校の宿題で、植物の名前をおぼえにきてるのよ」
ツンとした言い方だった。大人びようとして、そうはなりきれていないような言い方。普段、同じ教室にいる女子たちにはない微笑ましさに顔が緩んだのか、傘の主はフイとうつむいた。
「おれは絵を描きにきているんだよ」
なにか悪いことをしたような気持ちになって、取り繕うように言うと、知っているとつれない様子で返されてしまった。しばらく沈黙が訪れ、場所の移動をしてしまおうかと思い始めたころに傘の主がポツンと言った。
「おにいさん、市のコンクールで入賞してたでしょう」
「え」
「わたし、前に見たわ。薔薇の絵を」
それだけ言うと、この日もタッタッと駆け出していった。軽い足どり。揺れるポシェットと、三つ編み。赤、白、黄色、橙、さまざまな色に咲きほこる薔薇と人なみに紛れていった。夕貴は筆を手にしたまま、ただ見送っていた。

薔薇園を描いた絵がようやく完成した。これで来週からの休日は出かけていかなくても済むし、絵画コンクールにも提出することができる。薔薇園は、あいかわらず花を見にきている人々で溢れるようで、自分と同じように絵を描いている人や写真を撮っている人もいた。完成祝いに薔薇のソフトクリームでも食べようかと片付けを始めたところで、声をかけられた。
「完成した?」
今日は日差しが強いからか帽子をかぶっていた。傘の主の問いかけにうなずいた夕貴は完成した絵を手渡してやった。数回瞬きをしたあと、賞状を受けとるように手にとった傘の主は、出会ってはじめて笑った。薔薇が咲くように美しくはなく、ガーベラやポピーの花のように、鮮やかで愛らしいような笑みだった。
「きみは植物の名前をおぼえられた?」
そう問いかけた途端に、いつも通りのムッとしたような表情に戻ってしまったけれど。ただ、手つきだけは丁寧で、そっと薔薇園の絵を返してきた。そうしてうつむき、なにも言わない。どうしたものかと、頭を掻いた。癖なのか、水色のスニーカーを履いた小さい足が地面を蹴る。その拍子にポシェットが揺れて、そこに一輪の花が刺さっていることに気づいた。無論、花は薔薇で、澄んだ明るいピンク色をしている。
「お母さんにでも、」
あげるの、と続けるまえに薔薇の花は夕貴の目先に突きつけられた。思わず少しのけぞる。傘の主は、キッとこちらを睨みつけた。どう考えたって顔は幼いのに、なぜか凄味があるのは目鼻立ちが整っているからだと今更気づく。
「わたし、おにいさんの絵に一目惚れしたのよ」
目の下の、まあるい丸みをもった頬が薔薇色をしているような。思いもしない展開に夕貴はなにも言えない。瞬きを繰り返すのは、こちらの番だ。傘の主は、いや、少女と呼んだってよかったのかもしれない。少女は受けとれと言わんばかりに薔薇の花束を揺らす。押し負けて、受けとった。
「植物の名前なんておぼえにきたんじゃないわ、だって花屋の娘だもの」
思わず息をのんだ。姉に借りて読んだ少女漫画のヒロインの気持ちを味わっているようだ。思わず周囲を見回したが、誰も彼も薔薇に夢中で、さらに言うならイベントで奏でられる音楽に夢中で、二人のことなんて意に介しちゃいない。
「おにいさんに、あなたに会いにきてたのよ」
それだけはっきり言うと、ぴょんと後ろへ距離をとる。そうしてはにかむ。それから、さようならと言った。幾度も顔を合わせていて初めて聞いた言葉。けど、走り去ってく後ろ姿は同じで、三つ編みが揺れ、ポシェットが跳ねた。
頬に触れると、少し熱い。手のなかの薔薇を眺めると、白いタグがついていた。ピンクの薔薇の花言葉、しとやかさ、かわいらしさ、感謝。それから、なにより、恋の誓い。立ち上がり、薔薇園を見回してみても、小さな背中は見つからなかった。きっともう、出会うこともないのだろう。
完成した絵を見直してみる。夕貴の絵に一目惚れをしたと言ったあの少女に再会することはきっとない。けれど、もう一度、この絵があの澄んだ瞳に映ればいい。ただ、そう思った。

錆山千草(東京都世田谷区)