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<第3回応募作品>「柿の木の涙」 著者: 田崎 大和

その日、僕は仕事の後に大学時代の友人と新宿で食事をした。大学を卒業してから、二年ぶりの再会ということもあってずいぶん話も盛り上がり、予定の帰宅時間をだいぶオーバーしていた。
帰りのバスの中で友人が話していたクラスメイトの近況を思い返しながら窓の外を眺めていると、深大寺というワードが耳に入ってきて急いでバスを降りた。バス停に飛び下りるや否や、スチームのようにきめの細かい雨が僕の腕にまとわりついきてきた。それはまるで真夏の暑さをなだめるかのような、涼やかな霧雨だった。
僕はいつものように深大寺につながる通り道を歩き、お寺が見え始めると左にそれた。昼間は参拝の人だかりで賑やかなこの小道も、夜遅くなると人通りは少なくなり、坂の上から闇がぼうっと近づいて来るような気がした。吸いこまれそうになる暗闇に一瞬ひるみながらも、僕は歩くピッチを早めた。聞こえてくるのは自分の靴の音と、おおげさに傘で反響する雨音だけだ。この曲がりくねった坂道を上りきれば、右手に手のひらのように大きな葉っぱを枝いっぱいに生い茂らせた柿の木が見えてくるはずだった。
僕はその柿木を二十四年間ほぼ毎日見続けてきた。家を出れば、必ずその老木のつくるトンネルの下を潜ってきた。僕が生まれて間もない頃から母は僕を抱えて日の当たる縁側で乳を与えていた、という話をよく祖母から聞かされていた。
頭上では薄くぼんやりと白い光を放つ外灯の回りで、霧雨が細かい結晶をつくって宙を舞っていた。正面からは、ゆるやかな風に乗った霧雨が僕のまつげに吸い付いて、やがてそれは水滴となってわずかに視界を塞いだ。お寺の生垣から道に覆いかぶさるように梢を伸ばしている柿の木を過ぎようとした時だった。僕の視界をかすかに黒い影が――それは確かに、僕の視界の右下隅にあった――遮った。驚いて振り返ってみると、その影はうずくまるようにして顔を伏せ、小刻みに揺れていた。よく見るとそれは、制服を着た女の子だった。首元に黄色いリボンのついた半袖のYシャツに紺色のスカートと、それと同色の靴下を身にまとっていた。わずかに見える横顔はまだあどけなく、十六、七歳に見えた。
よっぽどそのままにして先を急ごうかと思ったが、僕は思い返してその少女に近づいてみることにした。Yシャツが雨でべっとりとはりついていて、肩が透けて見えていた。肩までかかった黒々とした髪が、霧雨をはじいてきらきらと光っていた。それは、真冬に青白いイルミネーションを冷たく光り放つクリスマスツリーを連想させた。
僕は恐る恐るその少女に近づいて、そっと傘を被せてあげた。顔を覆ってすすり泣いている彼女からは、ほのかにシャンプーとまだ実っているはずもない柿の実が入り混じった甘いにおいがして、僕はまた酔いが回ってきたような気がした。
「あのぉ……。こんなところで傘もささないで風引くよ?」
僕にしてはかなり思い切って、愛想よく声をかけたつもりだった。
しかし、その少女は僕の存在にすら気付いていないのか、ぴくりとも反応しなかった。
「一体どうしたの?」
僕は一緒になってしゃがみこんで、今度はもっとゆっくりと、語尾をあげて、声をかけてみた。そして、ハンカチをそっとその少女の胸元に差し出した。少女の袖の短いシャツの脇からわずかに覗きみえる白い下着が間近で目に入った瞬間、僕の心臓は小さくトクンと音を立てた。そんな思いを見透かされないように、ハンカチを差し出したまま雨粒を弾いている少女のローファーを見つめながら、僕は彼女の反応を待った。しかし、少女はあいかわらず時々鼻をすする音を立てるだけで、手を顔で覆い小さく震えていた。
「もしもーし」
僕は半ば投げやり気味で声をかけた。どうやら彼女が僕の存在に気付いていないということはないようだった。その証拠として、この三度目となる僕のアクンションを機に、彼女のすすり泣きは止んだ。
僕の傘に柔らかく舞い降りてくる霧雨の音が、木の葉がこすれる音と心地よく混じって、眠気を誘う調和音を奏でていた。遠くの方で車がそのハーモニーを遮るようにして、水溜りを切る音を立てて走っていた。彼女の顔の輪郭を形作っている髪の毛は、滑らかな曲線を描いて口元に滑り込み、その毛先は求心力を失ってそこにべっとりとまとわり付いていた。
すっかり困り果てた僕は、傘の柄についているバンドをパチンパチンと人差し指で弾きながら、ただ一緒にしゃがみこんでいた。それから、ふと思い出したように頭上の柿の木に目をやった。
僕はその柿の木が好きだった。夏になるとカミキリがよく取れる木で、幹は乾燥して鱗のようだったが、秋になると見かけによらず柿をたわわに実らすという、幼少時代の僕を飽きさせることのない木だった。この老木に登ると、足元からは悲鳴に似た軋む音を発し、枝から手を離すたびに幹から剥がれ落ちた軽い木屑が、まるで髪の毛がはらはらと抜けて落ちていくように風に散った。

それは、ぼんやりと輪郭のない音だった。
「な……ら……」
突然少女が答えた。本当に彼女が発した言葉かどうか疑わしくなるほど聞き取りにくかったが、どこか余韻の残る声だった。僕は黙って彼女を見た。
少女は、両方の手のひらいっぱいを使って涙を拭ってから、うつむいたままもう一度言った。
「さようなら……をね……」
髪の影に隠れているピンク色をしたいかにも弾力のありそうな張りのいい唇。それが雨に濡れたのか涙で濡れたのか、艶やかに光を帯びていた。僕はその唇の光をじっとみつめながら、黙って続きを待った。
「さようならを言いたかったの……」
そう言って、少女は初めてちらりと僕の顔を見て、そしてまたうつむいた。
思ったより大きな瞳の奥に見える虹彩は、ずっと見ていたら誰でも簡単に催眠術にかかってしまいそうなほど美しい幾何学的な模様をしていた。
 僕はどう答えればいいかわからなかった。雨の降る夜更けに、少女が傘も差さずにさようならと言って泣いている。それら一つ一つの条件のどれをとってもわからなかったし、そもそも今自分の置かれている状況すら理解できなかった。
とにかく僕はその『さようなら』という言葉に対しては答えずに、
「いつからそこにいるの?」と訊ねた。
雨脚が強くなってきて、僕の傘から聞こえる雨粒の作り出すリズムのテンポが上がりはじめていた。
数秒間の沈黙後、彼女は囁くように答えた。
「ずっと前から・・・」
「ずっと前からってどのくらい前から?」
「ずっとずっと前。祐樹の生まれるずっと前からだよ」
電話ボックスの中から話しかけているのかと思うほど、彼女の声には遠近感がなかった。僕はぼうっと彼女を見つめていた。一体、彼女と僕との間にはどれほどの距離があるのだろう。目の前にいる彼女は、本当は僕の耳元でささやいているのであろうか、それとも百メートル離れた場所から糸電話を使って話しかけてきているのだろうか。そして彼女はなぜ僕の名前を知っているのであろうか。

そんなことを混乱した頭の中で考えていた時だった。強烈な光が上空からサーチライトで照らしたかのようにあたりの景色をはっきりと映し出し、その光は乱反射して鋭い閃光となって僕の目に刺し込んできた。そしてそれとほぼ同時に、眼前の空間を縦に裂くように天高くから響いてくる爆音がした。僕は驚いて体のバランスを崩しながら顔を伏せた。一瞬だけふわりと無重力状態を体感した気がした。それは何分、いや何秒間のできごとであったかわからなかったが、僕には永遠に続いていくのではないかと思われた。しばらくすると、その割れるような騒音はライオンの唸り声のような低い音に変わり、粘っこく焦げたにおいが僕の鼻腔をつんと刺激した。僕はしばらく目も開けられず、煎り豆がフライパンで弾かれるような乾いた音でようやく顔を上げる気になった。
つい今まで眼前にいた少女はいなくなっていた。ただ、さっき少女がしゃがみこんでいたそこだけは雨にもぬれず、代わりに乾燥した薄い灰色のアスファルトが、外灯によって楕円状にぼうっと映し出されているだけだ。僕の傘が風に乗ってころころと坂を下っていた。雨はすましたように小降りになっていた。
豆の煎る音はお寺の生垣の向こう側から聞こえてきた。立ち上がって首を伸ばしてみると、そこには変わり果てた柿の木の姿があった。その老木だけが、一つの葉も残さず真っ黒い巨大な炭と化して、見事に真っ二つに割れていた。それはまるで、計算して図ったかのようにYの字が縦に二等分されていたのだった。そして強い雨粒を受けながら煙をくすぶっていた。
少女がいたアスファルトから立ち昇る雨のにおいと、無残な姿の老木からの焦げたにおいが入り混じり、それらは、僕が高校生の頃にこの柿の木の下で友人たちと花火をした日のことを思い出させた。父のコレクションの一つとして棚に飾ってあった年代もののウィスキーを勝手に持ち出して、それを友人たちと回し飲みしながら、安っぽい打ち上げ花火に次々と点火をした。すべての花火が打ち上げられると、あたりは火薬のにおいで充満した。

この柿の木はずっと僕のことを見ていたのだろうか。
幼少時代、毎日のようにこの柿の木で遊んでいた。高校、大学と進学しても修学旅行と部活の合宿以外は毎日見かけていた。昔の恋人とこの通りを何度も通ったことがある。僕はさっきまで彼女がしゃがみこんでいたアスファルトが、少しずつ雨粒によって濃青色に変化していく様子を眺めていた。懐かしい青春時代の思い出と少女の姿が交錯しはじめた。
彼女は別れの言葉を口にしていた。それでも僕はここに来ればまた彼女に会えるような気がした。僕が彼女のことを忘れずに毎日毎日この通りを歩けば、ある雨の日にシャンプーと柿のにおいとともに彼女がふっと現れて、今度は素敵な笑顔でみせてくれるのではないか。そんな気がしたのだ。

田崎 大和(神奈川県三浦市/32歳/男性/会社員)

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