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<第3回応募作品>「だるまと第九」 著者:立石 信行 

その朝、電話がせかすように鳴り、父が大声で二階の杏子を呼んだ。電話はいとこの神山礼二からだった。電話口の礼二の声はくぐもり、頼りなげだった。そのため、杏子は大声で応対した。礼二が深大寺に来て欲しいといっているのがわかる頃、家族全員が二人の逢瀬を知っていた。
時代は、戦争統制下であり、調布駅に止まるおもちゃのような小さな車両の横にも「勝て、一億火の玉だ」というスローガンが貼られていた。恋にも明日という言葉が約束出来ない時代に杏子は生きていた。
杏子は着物の裾を押さえ埃っぽい川沿いの道を小走りに走った。道は飛行場と並行して走る。急に頭上で鼓膜を揺らす爆音が降ってきた。練習機は、エンジン音で空気を震わせながら、杏子の行く手をふさぐように下降してくる。多くの航空兵が調布飛行場で訓練をうけていた。近々に南方方面に神風飛行隊として出撃するともっぱらの噂だった。
一度、父の所用で飛行場の兵舎を訪ねた。応対に出た若い兵士は、杏子の来訪をまぶしそうに見ながら白い歯を出して「お使いご苦労様であります」と直立して敬礼した。同じ部屋にいた兵士たちも杏子にいっせいに注目した。杏子は着物の上から多くの視線の痛さを感じた。
礼二とは数年前にも、深大寺で会っていた。その時、境内は厄除元三大師大祭の縁日で賑わっていた。礼二は小さなだるまを一つ買い、杏子に片目を入れてくれとせがんだ。
今日の深大寺の山門は、人影もなく武蔵野の雑木林の中で、時が固まったように佇んでいる。礼二は既に山門の傍らで待っていた。学生服にゲートルを巻き、短くなったタバコをせわしげにふかしていた。杏子を認めるとはにかんだ笑顔を向けた。「急に電話で呼び出してしまって」と、ぽつりと言葉を投げた。その語気は五月の風に浚われるくらい小さく弱弱しかった。鐘楼は木漏れ陽を受けてゆったりと座る古老の姿のようだ。拝殿正面に来ると礼二は、大学の徽章のついた帽子を脱いで小脇に挟んだ。杏子に背を向けて、拝殿に向かいながらぼそっという。「僕にも召集令状が来ました」。杏子の耳は召集という言葉を拾いたがらない。大学生の兵役は猶予されていた。しかし戦況の悪化がそれを許せぬ状況となっていた。礼二も学徒兵として出陣せねばならなくなった。着物の袖で耳をおおいたいのを我慢して礼二の次の言葉を待つ。「二週間後に青森の連隊に入隊です。」礼二は拝殿で手を打った。乾いた音が木立に突き刺さる。「ご武運をお祈りいたします」月並みな言葉が杏子の口からでると礼二は、きっと眉を上げて振り向き、無精ひげが目立つ口元を引き締めて言葉をつないだ。「杏子さんに出征前にどうしても会いたくて。無理をいいました」杏子はその押さえた口調の陰の気迫に肌があわ立つ気がした。「さあ、そばでもご馳走しましょうか。ここのそばはうまい」。山門脇のそば屋には、客の姿はなく、中老の店主は、学生服と矢絣姿の二人連れを好奇な目で見ながら、そばを運んできた。「あと半年で卒業なのに無念です。戦地から戻ってきたらまた、勉強を続けて、父の貿易会社を手伝うつもりです。」。その貿易会社も今は米英との交戦下では、開店休業状態だった。礼二はタバコを出して火をつける。杏子はその煙の中に、次にかけるべき言葉を捜していた。
「少し歩きましょうか。」タバコを吸い終わると礼二は立ち上がった。「ご馳走様でございました」。杏子は短く礼を述べた。広い境内にある坂道のひとつを二人は登り始めた。坂を上りきると、急に視界が開けた。そこは雑木林が切れ、眼下には多摩丘陵が見下ろせた。のどかな藁葺き屋根の風景が点在し、野川がその中心を流れ、戦争を示すのは大きく緑をえぐった飛行場だけであった。丘陵から先に目を転じると、まだ冠雪を頂く富士が見えた。春のもやる空気の中でもその姿は凛々しく確固たる美しさを主張している。「綺麗ですこと」この日初めて杏子は自ら話の口火を切った。「晴れやかですね。子どもの頃親戚一同で芦ノ湖に行きましたね。富士山が綺麗だった。覚えてますか?」杏子はちいさくうなずいた。杏子の脳裏では、礼二が漕いでくれたボートの中で大人ぶって父親から教わった寮歌を歌ってくれた様子が幻灯のように再現された。
今再び、その礼二と二人きりで富士をみている。でもこの確かな瞬間は、砂時計よりも早く足跡を残さずに過ぎ去ってしまう。
「もう一度唄っていただけませんこと?あの時と同じように」礼二は杏子の唐突な願いにしばらく小さく口をあけて、無精ひげを手でなぜた。それから、恥じらいと学生らしい明るさが混在した口調でいった。「それじゃあ、ひとつ歌いますか!すごい音痴ですよ。」あたりは無人で、歌の聞き手が高くさえずる四十雀の一群だけなのを確かめて、礼二は歌い出した。歌は単語から始まった。低い腹に響く言葉で外国語だった。「フロイデ! オー、フロイデ! フロイデ・シェネル・ゲッテルフンケン」それはベートーベンの交響曲第九の歓喜の一節だった。たどたどしいドイツ語が、歌に置き換わるとなぜか空気を暖めるように杏子の心の隙間になだれ込んできた。短い一節は謡曲の義経のような勇猛さで丘陵を超えて、遠景の奥多摩連山の山肌にまで達するようだった。悲しみに凍っていた心を暖かい白湯で包むような歌声だった。その力強い響きは寺の古鐘にぶつかり安らいだ音を鳴らすのではないかと思えた。最後の節を歌い終わる時、礼二が拳を握って目を閉じて歌っているのに杏子は気づいた。曲が終章と思った矢先、聞きなれた言葉でその曲は無理やりに続けられた。杏子はその言葉に戸惑いと滑稽さを覚えて、礼二を制止しようとした。でも礼二の面に浮かぶ真摯さを目にし、否応のない現実に引き戻された。曲は悲しい言葉を載せる道具に変わっていた。「杏子さん。おー杏子。僕を待っていて下さい。僕を待っていて欲しい。必ず帰ってくるから。あなたを嫁に迎えたい」音符を無視した即興歌詞は、音を後から従えながら続けられた。荘厳歌とは不釣合いな言葉の羅列があった。礼二の肩は折々震え、手にした学帽はくちゃくちゃに丸められた。礼二の頬は赤みを増し、固く閉じた目尻から落涙が頬を伝った。あの照れ屋の礼二の思い切った独白に杏子の胸中のほのかな遠灯は、白色灯のような煌々とした明るさに変わっていた。前で組んでいる手を指が白くなるほど強く握って歌をきいた。歌い終わると礼二はすぐには振り向かず、腰に下げた手ぬぐいで頬の涙を拭いた。そして、風を切るような速さで振り向き、杏子の肩を思い切り引き寄せて固く抱いた。その抱き方はあまりに強く、乱暴すぎて杏子は息ができないほどだった。埃っぽい学生服の匂いと礼二の体臭が杏子の顔全体を包んだ。礼二は何もいわずただ強く抱くだけだった。杏子は、いつの間にか、自分の頬が涙でぬれ始めたのに気づいた。どのくらい抱擁が続いたかわからない。突然、礼二は両手で杏子を突き放し、自分の濡れた頬をこぶしでぬぐった。そして膨らんだポケットから縁日で買い求めた小さなだるまと大学の校章を取り出し杏子の手に乗せた。「自分と思ってもっていてくれませんか?自分が生きて帰ってきたら、その時両目をいれて下さい」その達磨は、まだ杏子が書き入れた片目のままだった。杏子の中で何かが急に破裂した。それは、観音菩薩の慈悲の御水が固く閉ざされた御堂の扉を急に開門させるような性急さで起こった。杏子は礼二から、まるめてしわになった学帽を奪い取り、自分の頭の上においた。そして背筋をまっすぐに伸ばし、一言一言を、高い震える声で堰を切る激しさでいった「神山二等兵は、必ず生きて帰還すべし。これは命令である。再度、山門前にて参集せん」礼二は唖然とした顔でその台詞をきいていた。そして間をおいて同じく背筋を伸ばして敬礼していった。「杏子分隊長殿。神山二等兵は、必ず無事に生還いたします。絶対に死にません。約束いたします」そう答えた顔には朝焼け空の神々しさが浮き出ていた。杏子は、自分が身に着けていた白い薄手のショールを肩からとり、礼二の首元に巻きつけた。ショールは、航空搭乗員のマフラーのように風をはらんでゆれた。ショールの片端をにぎり、軍事演習で日焼けした礼二の頬に片手を添えて熱くいった。「私、お待ちしております。ずっとお帰りをおまちしております。決して死んではいけません」礼二の二度目の抱擁は、緩やかで暖かくタバコのにおいがした。それは、礼二が残していったくちづけのためだったとしばらくして杏子は気づいた。礼二の涙で着物の襟はしとど濡れた。
やがて戦争が終わったが、礼二は南の島の石になって帰還した。礼二から預かっただるまは礼二の位牌の横でまだ片目を開けて杏子をみている。校章はすっかりくすんで闇に溶けいりそうだ。二人で、もう一つの目を書入れるという約束は履行することがなかった。
鯉のぼりが野川の風に泳ぐ頃、杏子はいつも杖に頼りながら、礼二と一緒に富士をみた丘陵へ登ることにしている。礼二は山門脇で待っている。杏子は当時と同じそば屋に入りそばを二人前注文する。店員は二人前?と決まって聞き返す。今の礼二は杏子にしか見えない光となっている。
旧盆の時節が来ると、杏子は予め買っておいただるまを取り出し、両目を書き、第九を口ずさみながら、送り火でだるまを燃やす。誰もその訳をしらない。だるまと第九の取り合わせは傍目には何とも奇妙である。でも杏子の心のなかでは、それが、寄木細工のように寸分の狂いもなくぴったりと組み合わさっている。

立石 信行(東京都三鷹市/58歳/男性/自由業)

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