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【第10回公募】「桜雨」著者:上原久美

今年の桜が一番きれいだ。
といっても、郡山和正は去年までの桜の美しさなど大して覚えてない。ただ、レジャーシートの上に寝転がり、桜を見ていると、今年の咲き具合は上出来だと思う。
佳苗と堂島にも桜を早く見せたい。
なのに、集合時間を過ぎても2人が現れる気配がなかった。
だから、折を見ては、和正は佳苗にメールを送っているけれど、返信はそっけない。
「まだ新宿出られません」
「あのね、今日は何の日だっけ?」
「とにかく舞台挨拶終わるまで、私は抜けられないの。堂島さんも転勤の引き継ぎみたいだし」
映画に興味ない和正は、佳苗の宣伝の仕事というのがよく分からない。だから、ただの資料配りという認識でいたら、2年前に佳苗にえらく叱られた。「はいはい。了解」と和正は返信し、空を見上げる。眺めていると、眠くなるようなくすんだ青色だ。

7年前の空も同じような色をしていた。
その年の桜の開花は早く、4月に入った頃には散り始めていた。
和正がゼミの先輩の堂島と井の頭公園をぶらぶらしたとき、同じゼミの佳苗が池のほとりにシートを広げ、ぽつんと座っているのが目に入った。最初は何も話さなかった佳苗だけれど、堂島が勧めたビールを飲み干すうちに、ぽつぽつと口を開く。
「東京に来たときから、井の頭公園の桜を楽しみにしてたのに。肝心のお花見の季節になってねえ」
「結局、二股掛けられて、一人で寂しく花見しているってことだろう?」
佳苗の長い失恋話を和正が短くまとめた。佳苗は怒りだし、「いいよ、もう」と立ち上がると、靴を急いで履こうとする。だが、ビールのためか、佳苗は足を滑らせ、
靴が斜面を転がって行く。
和正はすぐに立ち上がり、靴を追い掛けた。池の中に落ちた靴に手を伸ばすが、掴み損ね、そのまま池に落ちた。しかし、和正は靴を掴むと、何もなかったかのようにすぐに岸にあがった。が、駆け付けた佳苗は噴き出した。
全身ずぶ濡れの和正に、桜の花びらが風に吹かれて次々貼りつくのが面白いと佳苗は手を叩いて笑う。さっきまで泣いていたくせにと和正はすねる。後から来た堂島は携帯を取り出し、和正と佳苗を写した。
 それから、3人でお花見をするのが恒例行事となった。ただ、場所は神代植物公園となった。井の頭公園は方角が悪いと佳苗が主張したためである。

 和正はいつの間にか眠ってしまったらしい。気がつくと、佳苗がレジャーシートに座っていた。
「今、来たの?」と和正が聞くと、佳苗は
頷く。
「食うもん、用意してきたか」と和正が重
ねて尋ねると、
「あのね、新宿から直行したんだから、買う暇あるわけないでしょ」
「マジか?おい。どうすんだよ。決めてあ
ったろう。俺が場所取り、堂島さんが飲む物調達で・・・」
 佳苗はちょっとうんざりした顔で、和正に背中を向け、どこかに電話を掛けた。
「堂島さん、食べ物も買ってくるって」
「お前、堂島さんに指示したのか」
「別に大丈夫よ」
と言って、佳苗はレジャーシートの上に大の字になる。遠慮のないその姿に、和正はつい突っ込みを入れたくなる。
「お前さ、いつ髪切ったの?」
「去年の夏か秋頃」
「長い髪は数少ない長所だったのに」
 和正の憎まれ口に、佳苗は同じ調子で返すのがお約束だった。
「抜け毛が止まんないから、切るしかなかったのよね」
なのに、今日は言い返さない。
「ストレスがひどいんじゃないか。連絡くれれば良かったのに」
「はあ?メール一回出したけど返事くれなかったじゃない」
「去年はさ、修士論文に就職活動」
「ハイハイ。両方ともうまくいって良かったね」
「これからは佳苗の相手出来るよ」
和正としては想いをこめて投げたボールだけれど、空振りだった。
佳苗がトイレに行くと言って、立ちあがったからである。

佳苗が席を外している間に、堂島が来た。手にはスーパーの大きな袋を持っている。
和正はさっと立ちあがり、堂島の袋を受け取った。
「遅れて悪かったなあ」
 堂島がレジャーシートの上に腰かける。
「転勤って佳苗から聞きましたけど、どこ行くんですか?」
「シアトルだよ」
「花見が出来なくなるじゃないですか」
「まあな。それは残念だよな」
「寂しくなったら連絡下さいね。佳苗連れてアメリカ行きますから」
 和正は、先ほど佳苗相手には言えなかったことを語り始める。学生時代は何度も堂島に相談に乗ってもらったのだ。      
「久々に会ったら、佳苗の顔色が悪いんでびっくりしましたよ。仕事合わないんじゃないですかね。そろそろ本気で面倒見なきゃいけないときかもしんないですね」
 和正は、堂島が驚いた顔をしているのに気付いた。
「あれ、意外ですかね?」
「いや、そういうんじゃないけど」

佳苗が戻って来たので、花見の宴が始まった。とはいえ、空は雲が広がり、一雨きそうな雰囲気である。
例年、和正と佳苗との掛け合いに、時々堂島が茶々を入れるのが3人の花見のパターンだが、今日は和正のワンマンショーだ。桜などそっちのけで、自分の話ばかりをしている。
「とりあえずシンクタンクに入りましたけど、次の目標はアジアでの起業ですよ。そのときは佳苗が取締役で、堂島さんも社外取締役で行きたいんですよ」
「勝手に決めないでよ」
 佳苗に突っ込まれると、和正の口の滑らかさは増す。
「会社の発起式はやはりここだな。桜の季節がいいな。そのときは堂島さん、絶対に来てくださいね」
 和正のトークを止めたのは、空からポツリポツリ舞落ちる雨の雫だった。空には雨雲が広がっている。
「移動した方が良くない?」
 佳苗が指さしたのは、ばら園の奥にある屋根つきの休憩所だった。
 
 休憩所に移動後、和正は先ほどの将来の構想の続きを語ろうとする。ところが、佳苗がポケットやバッグの中を探し始めた。
「スマホがない」
 佳苗の言葉を聞くや否や、
「俺が探してきてやるよ」
 と言って、堂島が雨の中、飛び出していっ
た。和正は、呆気に取られた。
 堂島は女に冷たい男ではない。けれど、女のためにこんなに素早く動く姿を和正は見たことがなかった。
「5月の連休前に会社辞めるんだ」
 佳苗が小さな声で言ったので、和正は聞き落としそうになる。
「一緒にアメリカ行くの。堂島さんと。結婚するんだ。前もって言えば良かったけど、タイミングが分からなくって」
 次の言葉はしっかり聞こえたが、和正はすぐには何も言えなかった。佳苗の顔を覗き込む。冗談ではなさそうだ。
「プロポーズするつもりだった」
 ようやく出てきたのは情けない言葉だった。言った和正本人ですら、嘘臭く聞こえる。案の定、佳苗の顔が強張った。
「勝手なのよ。和正は。私が辛いときには返事くれなかったじゃない」
「職場の愚痴を聞かされても、返事のしようがないだろう」
「堂島さんは、ちゃんと相手してくれた」
 佳苗の言葉が和正の胸に突き刺さる。
 そこへ堂島が戻って来た。
「結婚おめでとうございます。記念に一枚撮りますか」
 和正が努めて明るい声を出すと、
「ありがとう、まあいいよ、でも」
 堂島は困ったような顔になる。
 和正は自分のスマホを取りだし、堂島と佳苗に向ける。シャッターボタンを押した。 「ちょっと用事思い出したんで、帰ります。2人とも元気で」
 佳苗が何か言ったような気がするが、和正は振り返らずに休憩所を出た。そのまま左に曲がり、自然林が続く道に出る。
立ち止まってスマホの画面を見た。
7年前に堂島が撮ってくれた写真と先ほどの写真。目が潤んでいる佳苗の横に髪に桜の花びらをつけた男が写っている。堂島と和正の立ち位置が変わってしまった。桜を背景に3人でいる時間が楽しすぎて、なかなか一歩踏み出せなかった和正に原因がある。
和正はまた歩き出す。神代植物公園で初めて踏み込む場所で、どこに続いているかも分かってない。ただ、桜が目に入ってこないのが有難かった。

上原 久美(東京都世田谷区)