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【第10回公募】「にがい、あまい、からい」著者:くくちてまり

 私が彼にふられたのは先月のこと。二十何年の人生で初めて私を愛してくれた男性だった。だからその日は泣いて泣いて、そして涙は涸れないのだと知った。そんな私が深大寺を訪れたのは、まだ失恋の傷が痛々しい頃。桜がひらひらと舞いだした、暖かい季節。そこはそばが有名だと、ふと思い出したのだ。その時に浮かんだ恋人だった人の顔。
 ああ、あの人はそばが好きだったなぁ。
 深大寺は縁結びのご利益もあるから、とあの人は張り切っていた。
私たち、もう付き合ってるのに?
そう尋ねた私に、彼は優しく髪をくしゃりと撫でて笑った。
縁結びには今ある縁をもっと強くする、って意味もあるんだよ。
 と。結局、その縁を強くする前に別れてしまったのだけれど。
それでも、行ってみたい。あの人と一緒に歩いていただろう道を、見ていただろう景色を、聞いていただろう音を、感じてみたい。そう思った途端、体は低い台の上にある埃のベールをまとったパソコンへと向いていた。使い慣れていない機械に四苦八苦しながらも、なんとか新幹線のチケットを購入する。
 そして、木から何の未練も無く離れていく桜の花びらに見守られながら、東京へと向かった。地図片手に迷いながらもなんとか付近まで着き、小さく安堵の息をもらす。そしてぐぅと切なく鳴く腹の虫を宥めながら、近くにあったそば屋に入った。ほどなくして優しそうなおばさんが、隅っこの席に座った私にそばを運んできた。ほかほかと真っ白な湯気が、鈍色の雲を思わせる麺を包んでいる。それに七味唐辛子をかけようと、瓢箪型の容器を傾ける。
「あ」
 かけすぎた、そう思った時にはもう遅かった。灰色が赤に一瞬で覆われた。緑色のねぎも茶色いお汁も、はっきりとした赤になる。慌てて割り箸で丼をまぜるが、しかし、それで赤がなくなるわけでも無く。
「……はあ」
小さく溜め息をついてそばをすする。早々ついていない。ピリリと唐辛子が舌を刺激した。想像以上の辛さに、私の動きが止まる。きっとこの場にあの人がいたら「仕方ないなぁ」と困ったように笑って自分の丼と交換してくれるのだろう。私より大きい男の人の手が、私の丼を掴む幻を見た。刹那、熱い雫が一筋、目から頬を伝って水色のスカートに落ちる。それでもずるずると私はそばをすすった。からいからい。赤がからい。どうしようもなくからくて、つらい。想いが外にあふれ出て、それは湯気となって天井を、私を、包む。優しく悲しいけれど、暖かい。ああ。小さく吐息がもれた。
 赤いそばに口内をヒリヒリさせながら深大寺へと向かう。周りを見るとカップルや家族連れが多く、その誰もが皆楽しそうだった。失恋し、悲しみの波にもまれている最中なのは自分一人だけの気がして、思わず早歩きになる。と、石畳の間に足が引っかかり、べたん、派手に転んだ。
「いった……」
 起き上がろうとすると、左膝に鈍い痛みが走った。おそるおそる膝へと手を伸ばす。ぬるっとした赤いものが手についた。血だ。途端さあっと血の気がひいた。どうしよう。ぼーっと歩くから、早歩きになるから。いい年をして派手にすっころんだ自分が情けない。とりあえず傷口を洗わなければ。ゆっくり立ち上り、一歩踏み出すとまた、ずきりと鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめた、その時。
「怪我したの?」
「え?」
 いきなり後ろから声をかけられて素っ頓狂な声が出た。振り返ると知らないおばさんが心配そうにこちらを見ている。
「あら、血が出てるじゃない。ちょっと来なさい」
 そう言って腕を引っ張られた。その力は私の怪我を思ってか意外にも優しかった。けれど痛みのせいで力がでない私は、彼女にただずるずると引っ張られた。
「え、あ、あの……っ」
 ずるずると連れてこられた先は小さな茶屋。示された丸椅子に私が座ると、おばさんは「ちょっと待ってね」と店の奥へと姿を消した。店内には団子の甘い香りが漂っている。その香りに少しだけ心が和んだ。暫くしてその香りとともにおばさんが救急箱を手に戻ってきた。
「あなた一人?」
「はい」
 慣れた手つきで彼女は私の膝の手当てをしていく。甘い香りをまとった沈黙が私たちの間に静かに落ちてくる。それが完全に沈み切る前に、おばさんは口を開いた。
「傷心旅行の最中?」
「え?」
 いきなりの問いに声が裏返る。そんな私におばさんは、元気がなさそうだったから、と柔らかく笑う。その笑顔に、失恋、したんです、と無理に笑ってみせるとポンと頭を撫でられた。それが彼の行動と重なって視界が滲む。仕方ないなぁ、と笑って彼は私の頭をよく撫でた。別れる直前でさえも。
ここでは泣くまい。小さく息を吸って涙をこらえる。そんな私に気付いたのか気付いていないのか、手当てが終わると彼女は抹茶とお団子を出してくれた。お礼を言って、いれたての抹茶に手を伸ばす。一口啜ると上品な苦みが口いっぱいに広がった。
「あなたなら大丈夫よ」
 外の景色を見ながら苦みを味わっていると、隣でおばさんがほろりと笑う。
「失恋の一つや二つ経験した方がいい女になるものよ。それにね、世の中楽しいことや嬉しいことの方が案外多かったりするの。だから今は我慢しないで、たくさん泣いていいのよ」
 ぽろり。おばさんのその言葉に、雫が一筋頬を伝って落ちる。それが合図のようにぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。そんな私を、おばさんはただ優しく見守ってくれていた。

「団子とお茶のお金はいいわよ。こっちが勝手に出したんだし」
 帰り際、財布を取り出した私に彼女はそう言った。苦い抹茶と甘い団子を胃に収めて、お礼を言って茶屋を後にする。深大寺へと向かう足取りは、不思議と軽かった。
 一礼してお賽銭を投げ、鈴を鳴らす。あの人と一緒に願うはずだったことは、もう願えない。祈れない。だから何を祈ろうか、と思案して、先ほどのおばさんの顔が思い浮かんだ。小さく頷いて胸の前で合掌する。
私のことを大好きだと言ってくれたあの人が、笑顔の日々を過ごせますように。
 そう祈った。楽しいことや嬉しいことがたくさん起こりますように。最後に、よろしくお願いします、と一礼してその場を去った。
「わあ」
その帰りは心に余裕ができたからか、周りが緑で覆われていることに気が付いた。お店の間にひょっこりと顔を出す深緑。空高く伸びる白っぽい緑。花と一緒に風にそよそよと楽しそうに揺れる青緑。なんてきれいなんだろう。私の周りを包む緑に目を細める。あのおばさんがくれた抹茶もきれいな色だったけど、こっちもきれいだ。
 あなたなら大丈夫よ。
小さな茶屋のおばさんの声が耳によみがえる。苦さと甘さ、それにそば屋でのからさも同時に戻ってきた。ゆっくりと目を閉じる。
私なら大丈夫よ。
小さく、呟いてみる。涼しい風が吹いて、そっと目を開けると飛び込んできたのはたくさんの緑と、賑やかなお店。聞こえてくるのは人々の楽しそうな声と、木々のざわめき。 
その仲間に入りたくて、一歩、踏み出した。

「あら、別にいいのに」
「いえ、やっぱりこれはきちんとしておきたくて」
 そう言って抹茶とお団子代をおばさんに渡す。少し悩んだ後、私が戻ってきたのは膝を手当てしてもらった小さい茶屋だった。
「手当てありがとうございます。抹茶もお団子もおいしかったです」
 さっきはまともにお礼も言えなくてごめんなさい。ペコリと頭を下げる。
「こっちは帰り道と反対なのに、わざわざありがとうね」
 顔を上げると、おばさんは嬉しそうに目じりにきゅっと皺を寄せる。
「本当にありがとうございます」
「気を付けてね」
 ありがとうございました、ともう一度頭を下げて店を出た。ゆっくり深呼吸をして緑に包まれる道を歩き出す。
「行ってらっしゃい」
 思わぬ言葉に、さっき出た店を振り返る。店先でおばさんが大きく手を振ってこっちを見ていた。
「……行ってきます!」
 笑顔で手を振り返し、前を向く。
失恋の傷が完全に癒えた訳でも、あの人への気持ちが無くなった訳でもない。暫くはあの人を思って泣くだろう。でもその代わり、苦い抹茶の味も、甘い団子の味も、からいそばの味も忘れない。
私なら大丈夫よ。口の中で呟く。
 春の気温はぽかぽかとして気持ち良く、空は写真を撮りたくなるほどの青空だ。どこからか漂ってきたそばの香りに頬をほころばせ、一歩踏み出す。
私の旅行は今、はじまったばかりだ。

くくち てまり(大阪府大阪市/18歳/女性/学生)