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【第10回】「酸っぱいけどほんのり甘い」著者:蔵野純助

小さい頃から梅干が好きだった。佐伯正春は母が送ってくれた梅干を一粒しゃぶった。酸っぱいけどほんのり甘い。佐伯家秘伝のこの味を父亡きあと母はずっと一人で守ってきた。
そうだ、室井にもあげよう。室井秀之は今夜決起する。両親の説得にほとほと疲れ果てたのだ。佐伯は彼が発つ前に会って激励したかった。我がことのように思えたからだ。
電話で必勝祈願に深大寺参詣を勧めると、神仏はかけおちを許すまいと室井はきっぱりと断った。縁結びの神様はその恋が許されるか許されないかなど一切気にしない。その恋が本物かどうかそれしか見ないものだ。佐伯は勝手な持論を尤(もっと)もらしく振りまくと室井は渋々承諾した。
梅雨空は変わりやすい。昼過ぎから突然豪雨となった。窓硝子にはパチンパチンと大きな雨粒が打ちつけられていた。白い稲妻が走り落雷のたびに板張りの床に地響きが伝わってきた。深大寺までバスか歩きか。貧乏なアルバイト生活にはバス代も響く。室井との約束は午後六時である。

雨が止んだのは午後五時過ぎだった。佐伯は着古したスーツを身にまとい、熨斗袋(のしぶくろ)には『餞別(せんべつ)』と書いてなけなしの一万円札を入れた。アパートを出ると雨で気温が一気に下がり肌寒さを感じた。上空の分厚い雲はどんどん流れていく。路面には所々に大きな水溜(みずたま)りができていた。
三軒隣りの民家の軒先に燕(つばめ)の巣がある。いつもなら大きな口を開けた愛らしい子燕が三羽いるのだが、その日は空っぽであった。佐伯が燕を捜していると玄関からエプロン姿のまま年配のご婦人が出てきた。
「今朝行ってしまったわよ」
「そうですか。行ってしまったんですか」
佐伯は深い溜息(ためいき)をついた。季節は知らないうちに移りゆくのだ。そのご婦人に一礼すると一路深大寺を目指した。
ちょっと待てよ。濡れた路面から薄っぺらな靴底を透し中底がじわじわと湿ってくる。靴下は肌にぴたりと貼り付いていた。ワゴンセールの靴はこんなものか。佐伯は納得した。

深大寺周辺は近年様変わりした。閑静な住宅街にマンションが次々と建っていく。それでも地元の特産品で賑わう【深大にぎわいの  里】辺りから深大寺にかけては都心では見られない緑多い田舎の風景が広がっている。
野川は荒れていた。雷雨の影響で水嵩(みずかさ)が増しいつもの清流は焦げ茶色の濁流(だくりゅう)となって河川敷まできていた。佐伯は橋の欄干からしばし時を忘れ川の流れに目を奪われた。約束を思い出し慌てたのが拙(まず)かった。右足の靴底がズルッとずれてしまった。剥(は)がれないように細心の注意を払ったが深大寺温泉横の急な上り坂では困難を極めた。追い立てられるように午後六時の鐘が聞こえてきた。

深大寺界隈は観光客で賑わう昼間の喧騒(けんそう)がまるで嘘のように静寂であった。日が長いのでまだ明るいのだが、蕎麦屋や土産物屋はこの時間にはほとんど閉まっているので参道には人影はなかった。湧き水の涼しげな音は歩いてきた疲れを癒(い)やしてくれた。
佐伯は石段を上がり山門を潜(くぐ)ると人気(ひとけ)のない境内をぐるりと一望した。五大尊池の傍(そば)に室井とその恋人中津川知子が見えた。寄り添う二人の背中には何処となく悲壮感が漂っていた。
「おお」
室井の第一声はいつもおおだ。
「もうお参りしたのか?」
「いや、まだだ」
「じゃ一緒にお参りしよう」
三人は本堂の前に並んで手を合わせた。佐伯は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、合わせた両手にぐいぐいと力を込めて二人の幸せを切に祈った。佐伯がこんなにも神仏に縋(すが)るのは実は人生で二度目である。

「今年も見れなかったなあ」
佐伯は残念そうに呟(つぶや)いた。ナンジャモンジャは木全体が雪化粧したような白い花を咲かせる。三人は一度も見たことがなかった。
佐伯は室井の手首を握ると『餞別』を手の平に無理やり掴(つか)ませた。
「受け取れないよ」
「僅(わず)かだ。共犯者になりたいんだ!」
佐伯の鋭い眼光(がんこう)の向こうにあるものは室井の想像以上であった。
室井の両親が結婚に反対なのは中津川がバツイチだからである。そんな古い考えが二十一世紀になった今でも存在している。人間の進歩は産業革命や技術革新のスピードに比べたらまだまだ遅いのかもしれない。そしてこの悪しき慣習を打ち破る一翼(いちよく)を担(にな)いたいと餞別にはそんな思いも込めた。

「実は今日・・・三島文子も呼んだんだ」
昔から室井は大事なことをニヤケながら言う癖があった。三島は佐伯のかつての恋人である。佐伯は不意打ちをくらったように動揺した。この七年筆舌に尽くし難い苦しみを味わってきたのだ。
「どうして?」
そのひと言を搾り出すのが精一杯であった。
「私が四人で会いたいと言ったの」
中津川は申し訳なさそうに俯(うつむ)いた。生暖かい風が佐伯の頬(ほお)をすり抜けた。静かだった木々たちがサラサラと枝を揺らし始めた。
佐伯は涙を見せまいと二人に背を向けた。懐かしさに押し潰されそうになった。彼女は今俺をどう思っているだろう。七年前何故彼女は来なかったのだろう。
「三島は来ないよ」
「え?来ない?」
振り返ると室井はまたニヤケてた。
「お子さんが熱を出して」
膨らんだ心の風船がパチンと弾けてしまった。気がつけば小石を拾って五大尊池に投げ込んでいた。緑色の水面(みなも)に波紋がふわっと広がると平和に泳いでいた鯉たちはびっくりして四方に散った。  
「ブンコ、今どうしてる?」
本名はフミコだが佐伯はそう呼んだ。室井は子供のようにもじもじして、中津川は意味なく髪を弄(いじ)りまくった、沈黙を破ったのは中津川だった。
「五年前に見合い結婚して・・・今は子供さんが一人いるみたい」
「見合い結婚?どうせあのくそ親父、あの赤鬼が勝手に決めたんだろ」
佐伯は興奮して砂利を蹴り上げ拳(こぶし)を何度も振った。
「違うわ。父親が末期ガンになってフミコのほうから見合いするって言ったそうよ」

十年前の就職氷河期。別々の大学を卒業した四人は不本意にもアルバイト生活を強(し)いられ、その職場で出会った。同じ境遇の四人は意気投合しすぐに仲良くなった。
やがて室井が就職、中津川が結婚して佐伯と三島は残された。お互い励まし合い愛が生まれたのは自然の流れであった。
「共稼ぎならアルバイトでも生活できる」
プロポーズらしくない言葉だが三島は受け入れた。安易だったかもしれない。夢が消えるように現実が浮き彫りになる。三島の父親は激高した。
「アルバイトの分際で結婚は許さん」
と佐伯を罵倒(ばとう)し頬を殴った。そして七年前のちょうど今頃二人はかけおちを決めた。
「明日六時に深大寺の山門で」
前日のこの電話が二人の最後の会話となった。運命の悪戯なのか。天罰なのか。佐伯は午後六時、三島は午前六時と解釈してしまった。二人はこうしてすれ違ったまま、それっきりになった。

三人は山門を出て石段をゆっくりと下りた。
夕闇に包まれた参道は三方向に分かれる。タクシー待たせているからと室井は左を指さし、
バスで帰るからと佐伯は正面を指さした。
そうだ、忘れるとこだ。佐伯は梅干の入った袋を室井に渡した。
「母が作ったものだ」
室井が袋を開けると周囲にぷーんと酸っぱい匂いが漂った。赤々としてしっとりとした一粒を室井は口に入れた。ゴロゴロと口内を踊らせる。
「うん?甘い」
室井は今日初めて満面の笑みになった。
「室井、絶対逃げ切れよ。頼むから逃げ切れよ。そうすれば・・・」
「そうすれば?」
「そうすれば俺は・・・」
佐伯は感極まって室井を抱きしめた。

室井と中津川が緑の中を消えていく。空は夕焼けで仄(ほの)かに赤かった。佐伯は役立たずの右靴を脱ぎ、バランスが悪いので左靴も脱いだ。そして靴下のまま石畳(いしだたみ)の上を歩いた。ひんやりした。足の裏が痛くなった。しかし不思議と平常心になれた。佐伯は誰もいないバス停のベンチに座ると、七年前に三島の父親に殴られた左頬をそっと触ってみた。もう痛むことはなかった。そして決心して母に電話した。
「腰の具合はどう?・・・そう・・・あんまり無理しないようにね。これからは俺も梅干作り手伝うよ。もう決めたんだ。いいよね?・・・」

蔵野 純助(東京都調布市/46歳/男性)

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