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【第10回】「過ぎ去った日々へ」著者:桐生あゆみ

 最後の日は、絶対に泣くと思っていた。
沢山の思い出を吸い込んだ俺達の城。お互いの趣味がごちゃ混ぜになったインテリアも、お揃いで買ったお気に入りのカップも、全て消え去ってしまった。
 俺は、段ボールだらけの部屋を見回しながら、そこまで悲しくない自分に、少し驚いている。
「直美。終わったぞ」
 直美は、丹念に化粧をしていた。出る時間を決めても、予定通りに進んだ試しはない。「化粧のノリが良いか悪いかって、その日の肌の調子とか、気温とか、気分とかで色々変わるのよ。男にはわからないでしょうけど」
 そんな言い訳を毎回聞くのも面倒なので、俺はいつしか予定を立てるのを辞めた。男には分からない事を考えたって、どうにもならない。直美の用意が出来たら家を出る。そう決めれば良いだけの話だ。
「ごめんね。お待たせ」
 いつもより赤味が強いチークを付けた直美もまた、寂しそうには見えなかった。
「じゃ、行きましょうか」
「俺は最後に忘れ物がないかチェックしとくから、先出てろよ」
「はいはい」
 誰もいなくなった我が家を隅々まで見通す。記念に写真を撮っておこうかと思ったが、何の記念か分からなくなったのでやめにした。
 玄関を出ると、直美は携帯から目を離して俺を見た。
 冷たい風が吹き付ける。
「随分真剣に眺めてたわね」
「そりゃ、十年間もお世話になった家だし」
 十年……その分俺も直美も年を取った。遥か遠くの未来だと思っていた三十の大台は、もう四年前に突破している。
「寂しい?」
「いや。そうでもない」
「そう」
 直美が、俺の手を握った。
「じゃ、行こうか」
 お互いの手が冷たくて、手を握り合ってもちっとも暖かくならなかった。

 冬の深大寺は空いていた。
 寒い寒いと叫びながら、元気に走り回る子供を眺める。直美が体を震わせた。
「さっむ!」
 確かに、今日はとんでもなく寒い。
「……どうする?」
「どうするって、何よ?」
「この寒さじゃ、外で弁当食べるのは無理だろう。どっか店入ろう」
「え! 嫌よ。外で食べるの! その為にお弁当作って来たんだから」
良一「え~」
直美「今更弱気な事言わないでよ」
良一「……わかったよ」
 近くのベンチに腰を下ろして、俺達は弁当を食べ始めた。
傍を通るカップルが、興味深そうに俺達を盗み見る。物好きな夫婦だと思っているのだろう。
 震える手でおにぎりを頬張る。ふと横を見ると、直美の手も小刻みに震えていた。
 何だかバカらしくなって、俺は笑いが止まらなくなった。
「何?」
「いや、傍から見たら変な奴だよな。こんな真冬にわざわざ外でおにぎりって」
直美の顔にも、笑顔が浮かんだ。
「本当ね」
「あの時は春だったもんな」
「そうそう、深大寺がお蕎麦で有名だって知らなくて、私がお弁当作って来ちゃったんだよね。良一君は嫌がらずに食べてくれたけど、本当は呆れてたんでしょう」
「俺は嬉しかったよ。彼女の手作り弁当って、ずっと憧れてたんだ」
 あの頃も今も、直美の作る料理の味は変わらない。
 変わってしまったのは何だろう?

 久しぶりにチケットを買って、神代植物公園の中を歩いてみる事にした。近場で良いデートスポットを思いつかなかった俺は、直美をよく此処へ連れてきた。バラなんか全く興味がないのに。女性は全員花が好きなんだろうと思っていた時期が、俺にもあったのだ。
「ここは変わらないわ」
「あぁ。そうだな」
「冬でもバラって咲いてるのね」
「だなぁ」
「ほら、覚えてない? 亮一君、此処に来るの初めてだって言ってたのに、何処に自動販売機があるのか知ってて」
「あったなぁ。そんな事」
 下見をしていたのがばれて、物凄く恥ずかしい思いをした。
「馬鹿だよなぁ。俺」
「私は嬉しかったよ。一生懸命考えてくれたんだなぁって思ったから」 
「……」
 二人で歩いたバラ園。大温室。色々な思い出がフラッシュバックして、思わず口をつぐんだ。
 直美が不思議そうに俺を見る。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「もう帰る?」
「え?」
ずっと繋がれていた直美の手が、離れた。
「……どうしたんだよ。まだ来たばかりだろう」
「うん。でも、良一君あんまり楽しそうじゃないから」
 確信を付かれて、ドキンと心臓が脈打った。それは、終わりを告げる鐘の音のように聞こえた。
 タイムリミット。
「ごめんね。我がまま言って、寒い思いさせて」
 最後に謝らせてしまうなんて、自分が情けなくて腹が立つ。
「最後に、初デートをもう一度やり直したいなんて変なお願い、よく聞いてくれたね」
「お前の我がまま聞くのも、きっと最後なんだろうから。別にいいんだよ。気にすんな」
「ありがとう」
「……手」
 もう一度手を繋ぎたかった。だから、直美の方へ手を伸ばした。
直美は、手の平を下に向けた状態で、俺の方にすっと腕を伸ばした。
「……」
 そのポーズがどういう意味を持っているのか、知っている。
俺は、直美の薬指に指輪をはめるマネをした。
「誓った癖にね」
 直美がポツリと言った。
「ごめん……」
「別に良いよ。どっちが悪いってわけでもな
いしね。お互いの問題だよ。良一君だけが悪いんじゃない」
「あぁ」
 分かっている。どちらが悪いのでもない。
 一緒に暮らす意味がなくなってしまった。いや、意味がないと思ってしまった事が、問題だった。子供が出来なかった事、一緒に過ごせる時間を、俺が確保出来なかった事、口げんかが絶えなくなった事、お互いの存在が重荷になった事……。
 色んな要素が重なって、徐々に壊れてしまっただけだ。

いきなり直美が、俺のお腹を力を込めて殴った。
「痛っ」
 意味が分からず、お腹を押さえて前かがみになる。
「罰だ、罰」
「……何の罰だよ」
「神様に嘘をついちゃったからね」
「……そうですね」
 一生幸せにする。
 確かにそう誓ったはずだった。
「私にもちょうだい。罰を」
「は?」
「良一君にだけ罰が下るなんて可哀想だし。私も神様に誓ったからさ。だから、殴っていいよ」
「はぁ?」
「いいから殴って。そうしないと、私もすっきりしないの」
 直美は時々、ビックリするけじめのつけ方をする。この突拍子もない思いつきに、付き合った当初は随分ドギマギしたものだ。
「こんな公衆の面前で女を殴れるわけないだろう」
「じゃあ、陰に隠れるとか」
「DVにしか見えないだろう」
「でも……」
 不満そうな直美を見ていたら、急に愛しさがこみあげてきた。
 こんな変な女、この先一生出会う事はないだろう。
気が付いたら、俺は直美を抱き寄せていた。
「ちょっと」
 戸惑ったような声が耳元で聞こえたが、知らないふりをして、更に腕に力を込めた。

 終わってしまった後も、お互いが幸せになれれば良い。俺が与えられなかった時間を、いつか誰かと掴んでくれれば……。
 そんな事を、思いながら。

桐生あゆみ(東京都八王子市/25歳/女性/アルバイト)

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