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【第10回】「待ち人」著者:武山怜史

おばあちゃんが、また、いなくなった。
「お母さん。おばあちゃんがいない……」
 おばあちゃんの部屋やトイレ、リビング。どこを探してもおばあちゃんは居なかった。
「え、また!?」母がキッチンから慌てて出てきた。「いつから!」
 私は首を振った。
「とにかく探しに行くよ」
 母と私はすぐに家を出た。むっとする熱気が身体を覆う。
「熱っ」
思わず声が出た。真夏日だとニュースで言っていたのを思い出した。
「私は駅のほう行ってみるから、あんた公園のほうお願い」
「分かった」
 母は右、私は左に向かった。
 最初のときは、公園で見つけた。二度目は駅の構内。今回で三度目になる。今度は一体どこに行ったのだろう。
 おばあちゃんがボケはじめてからしばらく経った。骨折して寝たきりになったのがいけなかったらしい。ボケは瞬く間に進行した。おばあちゃんは日に何度も朝刊を取りに行ったり、急にここはどこかと喚きだしたり、ひどいときは家族の名前すら忘れた。
 最近、街を徘徊するようになった。母は日に日にやつれていった。父は老人ホームに預けようかと提案した。私は預けるべきだと思った。でも母は可哀想だと断った
 公園に着いた。公園は入口から全体を一望できるほど小さい。人影はなかった。
 はずれ、だった。シャツは汗でびしょびしょになっていた。私はベンチに腰を下ろした。そうしていよいよ私は老人ホームのこと考え出した。
考えを巡らせていると、携帯が鳴った。液晶画面を確認すると、母からだった。
「もしもし」
「おばあちゃん見つかったわよ!」
「どこで」
「吉祥寺の交番」母は言った。「さっき連絡があったの」
「吉祥寺って……」
 おばあちゃんはどんどん徘徊範囲を広げている。次はどこまでいくのだろうと考えたら、ぞっとした。
「私迎えに行くよ。お母さんまだやることあるでしょ」
「え、でも」
「いいの。まかせて」
 私はおばあちゃんが保護されている交番の場所を聞いて、通話を切った。

「本当にすみません!」
 私は深々と警官に頭を下げた。
「いえいえ。怪我がなくてよかったですよ」
 優しそうな警官だった。
「本当にありがとうございました」
 私は重ねてお礼をいい、おばあちゃんに向き直った。
「帰ろう」
私はおばあちゃんの手を引いた。
「あぁそうそう」去り際に警官が言った。「おばあさん、深大寺に行きたかったらしいよ」
「深大寺、ですか」
 警官は頷いて、「よかったら連れて行ってあげてね」と言った。
 私は曖昧に頷いて、お辞儀をした。
「どうも、お世話様」とおばあちゃんもお辞儀をした。唇には赤い口紅が塗ってあった。
「おばあちゃん、その口紅どうしたの?」
 私がそう聞くと、おばあちゃんは、「あの人が待っとるきぃな」と笑った。

「本当によかった」母は心底安心したというように言った。「念のため、おばあちゃんのお財布に私の連絡先を入れておいて正解だったわ」
 おばあちゃんは家に着いた途端、すぐに眠りについた。今はリビングのソファで寝ている。
「迎えに行ってくれてありがとね」
 母はそう言って、よく冷えた麦茶をくれた。
「いいの。おかあさん大変そうだから」
「あなたは気を遣わなくていいのよ。私は平気だから」
 母は膝をついておばあちゃんの手を握った。おばあちゃんの顔を見るその顔は安堵と疲れのせいかいつもより老けて見えた。
「お母さん、あのね、やっぱりおばあちゃんは老人ホームに――」
「あら、いけない。お鍋が煮立ってる」
 そう言って母は、台所に戻ってしまって、結局言えなかった。
 私はソファによりかかって、目を閉じた。

 おばあちゃんの呻き声で目が覚めた。おばあちゃんはうわごとを言っている。
「し、シロウ、さん……」
ひどい汗だった。息も上がって苦しそうだ。
「え、なに、おばあちゃん。大丈夫」
 私はおばあちゃんを揺すってみるが苦しそうだった。
「薬、持ってくるから待てて!」
 私は二階に走った。おばあちゃんの部屋に薬があるはずだ。
 薬を探すのに手間取った。おばあちゃんは大丈夫だろうか。そう考えならリビングに戻ると、そこにおばあちゃんの姿はなかった。
「おばあちゃん!」家の中を探すがいない。まさかと思って玄関を見ると、おばあちゃんの靴がなくなっていた。
 私は慌てて、家を出た。おばあちゃんの後ろ姿が見えた。
「おばあちゃん、待って!」
 私は叫んだ。走っておばあちゃんを追った。そして羽交い絞めにするようにおばあちゃんを捕まえた。
「ねぇ、一体どこに行く気!」私は怒鳴った。
「やめんさい! 離しんさい!」
 しかし、おばあちゃんは今までにないようなすごい力で私の腕を振りほどいた。私は振り切られ、転倒した。
「おばあちゃん……」
 おばあちゃんは振り返らず、どこか朦朧とした足取りで歩いていく。
 一体どこへ行くの? あんなおばあちゃん初めてだった。記憶を失くしても向かうべき場所がわかるのだろうか。
 私はおばあちゃんがどこへ行くのか、確かめようと思った。

野川を超え、坂を上る。坂の中腹にある喫茶店を右に折れると、レンガ敷き風の石畳の道が現れる。緑がだんだんと深くなっていき、しばらくして深大寺が見えてきた。
おばあちゃんの足は深大寺に向かっていた。深大寺にいったい何があるのか。
雑木林のような駐輪場を抜けて、小径に入った。その道を沿うように小川が流れている。
境内が見える。石段をおばちゃんは登っていく。山門を超えて、神社が見えた。おばあちゃんの進むその先には、大きな樹があった。おばあちゃんはそこに向かっているようだった。
樹の下のベンチにはおじいさんが座っていた。いかにも高級そうなスーツに身を包み、帽子をかぶっている。しかし、よく見ると、足元は便所サンダルという奇妙な風貌だった。
(あれが、おばあちゃんを待ってる人?)
 ベンチにたどり着いたおばあちゃんは、そのおじいさんに言った。
「お隣、いいですか?」
 えぇ、もちろん、とおじいさんは笑った。しかし、なんの会話もないまま、しばらく経った。
 (なんだ、人違いか)私は落胆した。(そうだよね。待ってる人なんているわけないよね)
――おばあちゃんボケてるんだもん。
「またここにきてたんですか!」とすぐ後ろから声がした。「そんなおめかしなんてして!  もう、帰りますよ!」
 振り返ると、そこにはエプロン姿のおばさんが経っていた。
「やぁ、ツキコさん」と、おじいさんが手を挙げた。エプロンの胸元にネームプレートがかかっているが、名前は違う。 
「すまんのぅ。しかし待っとる人がおるんでなぁ。まだ帰れんよ」
「はいはい。それは何回も聞きましたよ」彼女はうんざりというように言った。「いつも待ってる人なんていないじゃないですか」
「おや、君、ひざを怪我しとるじゃないか」
 おじいさんは私に言った。ひざを見ると、確かに擦りむいた跡があり、血が滲んでいた。さっき転んだせいで怪我をしていたようだ。
「これを使いんさい」
 そう言って、おじいさんはポケットから白いハンカチを出した。
「いえ、そんな。これくらい大丈夫です」
「ええから、使いんさい。菌が入っと、あぶねぇからのう。ほれ、そこの水で洗ってな」
 おじいさんは神社のわきにある清めの水場を指した。
「すみません」
 私が頭を下げると、おじいさんは笑った。そして二人は境内を後にした。
 おじいさんに言われた通り、私は清めの水場で膝を洗い、汚れを落とした。思ったほど深くはない。これならこの綺麗なハンカチを使わずに済みそうだった。
 ハンカチを見ると、〈遠藤 士郎〉と名前が刺繍されていた。
 えんどう、しろう。
 私は、はっとして、おばあちゃんのいるベンチを振り返った。
 おばあちゃんは相変わらず、ニコニコと笑っていた。

武山 怜史(東京都調布市/23歳/男性/学生)

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