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【第10回公募】「期間限定修行僧」著者:新栄桃子

 青々とした緑の木々が、いきいきと葉を力強く開く夏。福子は、からからと音をたてて乾いていく洗濯物たちを、鼻歌まじりでせっせと取り込んでいた。そこへ、ピンポーン…と、ドアチャイムの音が耳にとどく。
(はて。こんな時間になんだろう。)
 ベランダからあわてて部屋にもどり、ちらりと壁掛けの時計を見る。お昼一時すこし前。今日は火曜日だから、生協のお届けものではないし。いっときハマっていたネット通販も、二回続けて故障した時計を引き当ててしまって以来、とんとご無沙汰なのだ。
「はーい、ただいま」
 トントントンと階段を下り、がちゃりと扉をあける。…と。福子の娘の幼稚園の先生、亀山すずがドアの前に立っていた。
 あれ、まだ紗香は幼稚園の時間のはず。何かあったかなと、不安気に福子がすずの顔色を伺ったとき、紗香が後ろからひょこんと勢いよく飛び出してきた。
 紗香は福子の姿をみとめた刹那、小さい目に涙をいっぱいためて、わぁっと泣き出してしまった。紗香の泣き声が、当たりに広がりこぼれる。
「ママ、おひっこし、して。おばけのおうち、やだぁ」

「…じゃあ、紗香はお友だちにからかわれたんですね。」
 すずが説明した経緯では、こうだった。それはお昼寝タイムの前。園児が仲良く遊んでいたとき、隣の組の男の子が「さやかちゃんち、おてらのすぐそばなんだって。ぜったい、おばけが出るぞ」と紗香をからかった。それを周りの子も一緒になって「おばけのうちー」とはやし立てたのだという。
 福子の家は、調布駅から自転車で二十分ほどの、深大寺の門前街すぐ裏手にある。初夏のこの時期、周辺は緑に囲まれ、木漏れ日がきらきらと輝いて街中が美しい。
特に『おばけのおうち』がある場所は、豊かな水源を生かした蕎麦屋が並ぶ参道から少し奥に入り、静かで真っ暗な正しい夜が来る。
 しかし目の前の紗香は、その小さな体を『おばけのおうち』への憎しみでいっぱいにして、体中で福子に訴えている。すずによれば、幼稚園を飛び出した紗香を先生総出でなだめようとしたのだが、いつも大人しい紗香がガンとして、家に帰る、と聞かなかったらしい。

 心配するすずに礼を言って帰したあと、福子はホッと一息ついて、床にぺたんと座った。ひんやりとした板張りの床が心地いい。ぐずる紗香をひざに抱きくるむと、高い体温を感じる。体温までもが熱を帯びて、一生懸命に彼女の不満を伝えてくるようだった。
「ママは『おばけのおうち』が大好きなんだけどなぁ。」
「どうして?」
間髪を入れず抗議の声をあげる紗香に、福子はにっこり笑って語りだした。
 
 ママはね、おばけのおうちのあるこの街で、パパと結婚することに決めたんだ。
 ママがパパと初めて会ったのは、ここからずうっと遠く離れた、京都っていうところ。深大寺は東京の中でもとっても古いお寺だけど、京都には古いお寺がたくさんあって、みんなで大切にしているの。
 ママは、そのとき重い病気が見つかって落ち込んでたんだ。今は治って元気だけど、そのときはどうしたらいいかわからなかった。そんなとき、友だちが教えてくれて京都のお寺にいくことにしたの。お寺にも、お坊さんと一緒にお勉強していいお寺があってね、ママはそこで修行してきたってわけ。そう、期間限定修行僧ってところね。
 ママが行ったのは二月で、京都はとっても寒かった。朝はまだ真っ暗な時間に起きて、雪が降る中で体操をしたあと、こうやって座禅をくんで、じーっとしてないといけないの。足がしびれて痛かったなぁ。暖房はないし、お湯も使えないし、靴下も禁止。冷たいお水で雑巾をしぼって、お寺のお掃除をするの。やっと朝ご飯を食べられるのは起きてから3時間もたってから。シーンとした修行中に、おなかがぐうぐうなったのを覚えてる。
 修行はとっても厳しかったけど、お昼ゴハンの後に自由時間があったの。そこで、はじめてパパと喋ったんだ。パパはお寺に半年もいたから、ママに色々教えてくれたの。最初はね、パパのことお坊さんなんだと思ってた。これ、パパにはヒミツだよ。
 パパの第一印象は、まじめすぎて面白いってこと!パパは、自己紹介でこう言ってた。
「僕はお笑い芸人になりたいんです。人を笑わせるのが楽しくて。でも、なかなか上手くいかなくて、ここで修行させてもらってます。」
 一瞬ぽかんとしてママは思った。
(お笑い芸人になりたくて修行って。…ここお笑い道場じゃなくて、お寺なんだけど。)って。だけど真面目な顔で言うパパが可笑しくて、笑っちゃった。全然お笑い芸人っぽくなかったし。でもパパはそのとき、ママが笑った顔をみて嬉しそうだったなぁ。
 お寺には色々な人がいたけど、みんな話してみると色んな悩みを持っていることがわかったの。大切なひとと別れたり、お仕事がうまくいかなかったりね。紗香みたいに、お友だちとケンカした人もいたよ。
 紗香とおんなじ?
 そう。つらいのはママ一人じゃないって思えて、少しずつ元気になったんだ。相変わらず真面目で面白いパパとの会話も楽しかった。一ヶ月も行ってたのに、あっという間に帰る日になっちゃった。
 ママが帰る準備をしていたら、パパが来て言ったの。修行が終わったら東京で会いませんかって。みんなに声をかけてるって言ってたけど、実はママだけを誘ったみたいよ。
 お寺から帰ってしばらくして、パパから連絡があったの。うちの近くに美味しいそば屋があるから来ませんかって。初めてのデートがおそば屋さんなんて、おかしくてまた笑っちゃった。パパにまた会えるのも楽しみで、わくわくしたなぁ。だけど初めてこの街に来たとき、1日で大好きになっちゃった。
 そのころママが住んでたところは、人もお店もいっぱいで、夜も明るかったけど、この街はずいぶん違ってた。緑に囲まれて、空気も空もお水も透き通って綺麗だった。パパと会ったのもお寺だったから、なんだか懐かしい感じもしたんだよ。お店の人も優しくて、面白いひとばっかり。パパのイメージにもぴったりで、パパともすぐ仲良くなったんだ。
 紗香の大好きな神代公園にもよくピクニックで遊びにいったなぁ。うん、今度の土日は、パパに頼んで一緒にまた遊びにいこう。サルスベリの可愛いお花咲いてるかな。おいしいママ特製おにぎり、たくさんつくってあげる。
 ほんとう?やくそく?
 うん、指きりげんまん、約束だよ。
だけどね、実はママは病気のことをパパになかなか言えなかったんだ。でもパパに結婚してくださいって言われたとき、思い切って打ち明けたの。
 小さい頃亡くなった、ママのおかあさんと同じ病気がママの体にも見つかったこと。もうすぐママも死んじゃうんじゃないかって思うと、不安なこと。

「満さん、貴方と一緒にいたいけれど,いつまでいられるか分からない。結婚しても、子どもを産んだり出来なかったら…。」
 最後は言葉にならなかった。涙があふれてとまらなくなったからだ。病気がわかってから、感情的にならない自分に気づいてはいた。穏やかになったんだと、そう思っていた。
 しかし間違っていた。今まで心のふたを無理やりキュッとしめて、気づかないふりをしていただけだったのだ。福子は、後から伝う涙をおさえる術を知らなかった。
「福子と同じ病気の人がね、治った話を知っているよ。どうしてだか分かる?」
 満は、福子をまっすぐに見てこう言った。福子は涙だらけの顔のまま、分からないと首をふった。満はいつもの真面目な顔で続けた。
「その人はお笑いが大好きでね、一日中テレビでお笑い番組を見て大笑いしてたんだって。そうしたら半年後、医者も諦めていた病気がきれいに治っていた」
 福子が驚いて顔を上げると、満は両腕を伸ばし、福子の両頬を優しくつねってから、にっこり笑った。
「暗い顔をしてないで笑って。いつまで修行中と同じ顔してるの?僕も福子も、もう修行僧の期間は終わりなんだよ。大丈夫、これからは僕が福子の専属お笑い芸人になってあげる。ここがそば屋だから言うんだけどね、ずっと福子のそばにいるよ。」
 満のつまらない冗談に、つい福子は吹き出す。そして二人で顔を見合わせると、たちまち幸せな笑いが弾けだした。

 すっかりのびきったその日のそばの歯ごたえを、福子は今でも思い出すことが出来る。
「パパは約束どおり毎日笑わせてくれて、ママはどんどん元気になって、紗香まで来てくれた。ママは『おばけのおうち』で育ったパパも、紗香も大好きだよ。紗香にも、気に入ってほしいなぁ。」
 そう言ってふと目を落とすと、紗香は福子のひざの上で、おだやかな寝息を立てていた。福子は微笑んで、紗香を両腕であたたかく包んだ。
 ベランダの竿に残った洗濯物たちが、静かに風に揺れている。そこへ、深大寺の夕方の鐘の音が響いて部屋を満たしていく。その調べは、福子の心にいつまでもやさしい余韻を残していった。

新栄 桃子(東京都/34歳/女性/会社員)

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