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「花火」 著者:花月 彩

「ですから、もう話し合うことなんてないんです。自分たちでは堂々巡りになるばかりで。そりゃ、娘のことは考えましたよ。でももうきりがないというか。」
キッチンの香苗の声が少しいらだちを含んでいる。狭いアパートの部屋で会話はこちらの部屋へ筒抜けである。私はそっと向かいのソファに座る男を盗み見た。何を考えているやら書棚に目をやっている。やけに潔く切った堅そうな髪、新しそうなのに折り目のないスーツ。編集者にしてもなにかちぐはぐな感じである。電話の会話は聞こえているだろうにしれっとしている。私は焦った。こんな男に香苗の電話を聞かせたくない。
 香苗は育児雑誌に時々のったりするエッセイストで4歳の娘を抱えて離婚調停中だ。大学の同級生で在学中は顔を知っている程度だったのに、たまたま私の近くに引っ越してきてうちのピアノ教室の看板を見かけたそうだ。子ども相手の仕事だから昼は時間が自由な私は、親切で雑用を引き受けている間になんとなくアシスタントのようになっている。彼女は果断でエネルギーに満ちた猛進タイプだけれど、よく気がつく人でさりげなくお礼をしてくれたりするので、私はこの立場が気にならない。お給料を払うと言われたら縛られるようで引きそうだし、ピンチにある彼女を助けたいような気もあって続いている。だから仮にもアシスタントもどきの私としては、この無神経そうな男に香苗の電話を聞かせたくなかった。
今日はちょっとした打ち合わせを始めたところにこの男がやってきた。来るということは知らせてあったようだ。しぶしぶと言った風で家にあげたところで電話がかかり、こうして時間が止まっている。男はいかにも「待つのは気にしていませんから。」風を装っているけれど、一方で「話すまで帰りません。」というオーラもちゃんと出している。電話は長引きそうだ。香苗がこっちに気を遣っていない様子から、この男の仕事を受ける気がないらしいことが分かる。だからってプライベートの電話を聞かせることもないのだが、構わないことで「あなたのことは気にしていませんから」と主張しているのだ。
どうしよう、どうしよう。だんだん密度が濃くなってきた。こんな女所帯の狭い空間にでかい男は空気を吸いつくす気がする。出てくれないかな。どっかへ。「出直してもらえませんか」と言いかけるが、そのくらいではてこでも動かなそうなオーラがある。そりゃ都心の出版社からこんな調布の果てまで出かけてきたのだ。手ぶらでは帰れないか…近くに喫茶店でもあればそこでお待ちくださいといえるし、そもそも自宅に押しかけられずに喫茶店を使えばいいのだ。だが住宅街のここではそんな気のきいた場所はない。ええと、ええと・・・
「あの。深大寺、ご存知ですか?この辺では有名で、あの、ほらゲゲゲの女房っていう朝のドラマに最近出たりするんですよ。」
「ほう」気のなさそうな返事。絶対知らないな。こいつ。
「ちょっと行ってみませんか。私、ご案内しますから」
有無を言わさず立ちあがる。反応が無いので空振りか、と思ってから3秒たって、のっそりと立ちあがる。一応私の意図は察したようだ。いくら独身男だからって(いかにも構ってません、といったなりである。これで奥さんがいたらよっぽど大事にされていないんだわ)人の離婚話に退席するくらいのデリカシーは持つべきだ。
さてと。どうやっていくんだっけ。歩いて10分くらいの近さではある。近すぎて近所の人間はそうそう行ったりはしない。ゲゲゲで人気っていうのも、どこかに書いてあったのの受け売りだ。案内するなんていったけど私だって小学校の遠足以来である。当時は国立に住んでいて小学校2年の遠足が神代植物公園だった。5月のバラの季節、うっとりするような香りの中で絵を描いた気もする。絵を描くのはいまいちだったなあ、なんて思う。今日は梅雨空らしい垂れこめた雲で雨の降りそうな湿った風が吹いている。ご案内するような陽気じゃない無いなあ、と一人で思いながら黙々と歩いてしまっているのに気がつく。相手も黙々とついてくるようだ。あたりはバス通りでさえうっそうとした茂みや張り出した木々が目立つ。夏の木々は暑苦しいくらいに、どこまでも、どこまでも貪欲に四方に触手を伸ばす。
バス通りから参道へ降りていく。並んで歩くにはちょっと狭いから自然と先に立って歩く。「妙なお天気ですね。」
場つなぎにしたってもう少し気のきいたことが言えないものか。我ながら舌打ちするが、狭い歩道をたったと降りながら相手の顔も見ていないのだから、もはやなんだって良く、天気の話題はどんな時でも万能なはずだ。
「・・・」え?無視?という間の後
「いや、梅雨には梅雨の楽しみがありますから」
「・・・・」
ぬれる足もと、畳んでも張りつくぬれた傘。雨が降ると、もうどこにも行きたくない私だ。どんないいことがあるんだ!と心のなかでつっこむくらいなら「あら、どんな楽しみですか?」なんてさわやかに聞ければいいものを、不器用な沈黙で流してしまった。なんでうまく話せないんだろう。参道には名物の深大寺蕎麦屋をはじめ、漬物や、まんじゅうや、干物やの屋台なんかもある。人通りも結構あってゲゲゲの鬼太郎の店には人がたかっている。どこの観光地もそうであるようにガイドブックを持った年配の人が多く帽子にウォーキングシューズ、リュックが標準装備である。眺めている間にこちらも遠足気分になってきた。深大寺は小さなお堂が点在して一帯をなし、そこここに小さな蕎麦屋があってこれまた人気を呼んでいる。そっと隣を盗み見るとまんざらでもない表情をしている。無理やり連れ出されてこんなところに連れてこられて怒ってやしないかと心配したけど、なんだかのんびりした表情だった。隣に立つと意外に背が高い。急に自分の普段着のなりが気になったりする。坂道の途中に花屋もある。植木屋さんといった方が近いような、山野草の小さな鉢や涼しげな桔梗、まだ緑色のほおずき、朝顔なんかを所狭しと並べている。アジサイの大鉢もあった。小さい花がぎっしり固まったまあるい手毬のような水色のアジサイ、はやりのガクアジサイ。思わず見とれた。なかでも薄い水色のとがって重なったガクを持つアジサイが目を引いた。華やかで洋風、モダンな感じだ。
「花火っていう品種です。アジサイはほら、梅雨の楽しみですね。」
彼は楽しそうに言う。
「よくご存じですね。」
私はびっくりして言った。気のきかない冴えない男だと思ったのに、違う人格が現れたようだった。
それから彼はポツリポツリと話し始めた。この4月に突然スポーツ雑誌から育児雑誌に異動になったこと、子どもどころか独身なのにどうしていいかわからず途方に暮れていたこと。とにかく何かアウトドア系の企画をせよと言われて香苗の「春の草で遊ぶ」というエッセイを読んで、この「落ち葉で遊ぼう」バージョンを頼みに来たのだと話した。秋だからもう目前で今日にもOKしてもらわなければと、とにかく自宅に押しかけたのだという。はあ、それでてこでも動かないオーラを出していたのね。でも今の彼は緑に洗われてくつろいだ雰囲気になっている。私はふっと植物園に菖蒲を見に行ってもいいなあ、なんて考えていやいやと否定する。
「申し訳ないことをしました。ああいう場面に居座りたかったわけじゃないんですが。」「こちらこそすみませんでした。お急ぎのお仕事だったのに、こんなところへお連れして」そろそろ戻りましょうと言いかけた時、携帯が鳴った。彼はメールを確認すると急に名刺を取り出して言った。
「いいところへご案内いただいてありがとうございました。いい空気を吸って生き返りましたよ。今日はもう失礼します。先生にはまたご連絡してから伺います。念のためにそちらのアドレスをいただけませんか。」
なんで私はためらいなく自分のアドレスをやったのだろう??そりゃあ、空振りで帰る彼が気の毒だったから・・・?

部屋へ戻ると香苗が言った。「ごめん、ごめん。」そしてニヤリと笑ってこう付け加えた。「でも彼、美雪の好みのタイプじゃなかった?」

花月 彩(東京都府中市/49歳/女性/主婦)

   - 第6回応募作品