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「白黒猫の縁結び」 著者: まひる 悠

 ひんやりとした静謐な空気。深い緑に溶け込む平屋建ての建物と、天を突くような供養塔の前で立ち尽くす、黒いワンピースの後ろ姿を、勝哉は黙って見ていた。
 時折鼻を啜る由美は、石のようにその場を動こうとせず、勝哉は溜息を吐いてその背に声をかけた。
「…お焼きが終わるまでまだ時間がある。待合室で待っていよう」
 由美が見つめる絡み合う銀色の太いパイプが生えた平屋の中で、彼女の愛猫が、今、灰に還ろうとしていた。
深大寺動物霊園―調布にある深大寺の緑深い敷地の奧に、ひっそりとある。
調布に住んで五年。都心に務めに出ているせいもあってか、家の近くにこんなに緑豊かな場所があるとは、勝哉は今日まで知らなかった。
待合室は火葬場の裏手、先ほどの供養塔をぐるりと迂回した場所にある。
由美を促して湿った緑の匂いの中を歩くと、無数に立てられた紫の幟が風にはためいていた。南無十二観音菩薩と白く染め抜かれた幟は、一本1本よく見ると、『愛猫ミケ』『愛犬太郎』などの名前が書かれている。
飼い主の愛情の現われか―どちらかというと動物が苦手な勝哉は、冷めた目でそれらを眺める。
振り返ると、由美が赤い目で1本の幟を凝視している。『愛猫チョビ』の名に、勝哉は思わず眉間を寄せずにはいられない。

由美から電話があったのは、昨夜遅くの事だった。
付き合って一年になるが、キスはおろか、手を繋ぐ事もままならない。
二十代後半にもなってもお互いの指先が触れただけで手を引っ込めてしまうのは、勝哉が女性に奥手なのと、由美が人見知りをする性格のせいだと思う。
ふたりの仲を進展させたくて、勝哉は連休前のデートで由美に旅行を切り出した。彼女は曇り顔でアイスティーの氷をストローで掻き回し、歯切れ悪く呟いた。
「あの…勝哉さんのお誘いは嬉しいんだけど…チョビの具合が良くなくて…」
 由美の返事は、はち切れんばかりに膨らんだ風船のような心を、音を立てて空気が抜けていくようにしぼませた。
自分との旅行より飼い猫を優先した由美とカフェで別れた後、持っていった旅行のパンフレットを道ばたのくずかごに放り込んだ時の苦みは、いまだ胸の奧にこびり付いている。
 最悪な状況でスタートした連休。部屋でテレビを観ながらゴロゴロするしかない勝哉は、由美から電話に顔を顰めた。
 普段はメールでしかやりとりをしない。鳴り響く着信音に、勝哉は訝しんで電話に出る。
「ひっく…勝哉…さん…」
「由美ちゃん…!?泣いて…いるのか!?」
 耳に聞えた由美の涙声に驚いてケータイを握り締めると、掠れた声が耳をついた。 
「助けて…勝哉さん…」
「だからどうしたんだよ!?もしもし!?」
「チョビが…死んじゃった…」
 電話の向こうで号泣する由美に、これから行くとだけ告げて、勝哉は財布とケータイだけを持って家を飛び出した。
 一度だけ訪ねた事のある、同じ調布市の彼女のマンションまでタクシーで飛ばし、インターフォンを鳴らす。
ほどなくして出て来た由美は、青い顔に目だけが真っ赤に充血し、見た事もないほどに憔悴仕切っていて、勝哉は声もなかった。
「勝哉…さ…ん」
「こ…こんな所じゃなんだから中に…」
 絞り出すようにやっとそう言って、由美を部屋の中に促し、リビングに足を踏み入れると、テーブルに敷かれたバスタオルの上に、彼女の飼い猫が静かに横たわっていた。
 チョビと名付けられた白黒の猫。以前、勝哉が来た時に、散々匂いを嗅ぎ回った挙げ句、歯をむき出して威嚇してきた憎たらしい猫。五月連休の由美との旅行を台無しにした元凶だ。
 猫の具合が悪かったのは本当だったのか。そんな事を頭の片隅でぼんやりと考えていた勝哉の前で、由美はテーブルの前に膝から崩れ落ち、猫を掻き抱く。
「あたし…もうどうしたらいいか…わかんない…」
 猫の毛に顔を埋めて震える由美に、勝哉こそ、どう言ってやればいいかわからなかった。
深大寺動物霊園を知ったのは、由美のパソコンで霊園を検索していた時だった。
 交通手段を考えていたら、車で迎えに来てくれると書いてあった。勝哉は猫を抱いたまま床に座り込んでいる由美の前に立った。
「近くに動物霊園がある。そこでチョビを見送ってやろう」
 由美はノロノロと顔を上げ、勝哉を見る。まるで由美こそが死人のようだったが、勝哉は構わず由美の前にしゃがみ込んだ。
「どこかに埋めるにも、ここら辺はそういう場所は無いし、由美ちゃんにとってチョビは家族なんだろ?俺も一緒にいくから…ね?」
 言い聞かせるように顔を覗き込むと、由美は腕の中の猫を見下ろす。
新たな涙を滲ませた彼女は、微かに頷いた。

 賑やかな笑い声が背後から響き、勝哉は回想から引き戻された。
ふたりの横を観光客らしいオバサマ方が、冊子を手にゾロゾロと歩きながら話していた。
「あら、そこにもお蕎麦屋さんがあるわね。深大寺って本当にお蕎麦が名物なのね」
「バス通りの水車小屋の側にも何軒かあったわね。これだけあるとどこに入るか迷うわぁ」
 その声に目を巡らせると、民芸調の店の前で、店員が声を張り上げ客引きをしている。
「由美ちゃん、昨夜からなにも食べてないだろ?蕎麦なら喉通るんじゃないか?」
 気を使って尋ねると、由美は小さく頷き、ホッとして勝哉は蕎麦屋に向かって歩き出した。
 木々の間に五月晴れの空が覗く屋外の席に案内され、毛氈を敷いた椅子にテーブルを挟んで腰を下ろし、ざるそばを注文する。
 店員を見送ると、店のガラス張りの窓の向こうで、手ぬぐいに作務衣姿の若い職人が麺棒を使ってリズミカルに蕎麦を打っていた。
「本格的な手打ち蕎麦だな。まさか調布にこんな場所があったなんて知らなかったよ」
「ごめんなさい…」
 小さな声に驚いて顔を上げると、由美は俯いたまま肩を窄めていた。
「えっと…なにが?」
「…色々…せっかくの連休なのにこんな事に付き合わせちゃって…」
「別にいいよ。どうせ予定はなかったんだし」
「…旅行も…せっかく誘ってくれたのに、どうしてもチョビを放っておけなくて…」  
「…本当に病気だったんだから、仕方ないと思ってるよ」
 正直言えば、猫は断る口実だと思っていた。猫が死んで窶れた由美を見るまでは。
「ありがと…」
 顔を上げると、由美は俯いたまま肩を窄めていた。
「別にいいよ。礼なんて」
「ううん…チョビのためにここまでしてくれて感謝してるの。勝哉さん…チョビが苦手だったのに…」
「ん~…苦手といえばそうだけど、俺を嫌っていたのはチョビの方だと思うけど」
「そうね…だからあたし…いまいちあなたに踏み込み込めなくて…」
 言葉途中で口を濁す由美に、勝哉は眉間に皺を寄せた。
「…そこは自分の目じゃなく、猫が判断するのか?」
「だって…動物は正直よ。良い人か悪い人か、猫にはわかるのよ」
「じゃあさ、俺、今まで君に悪い事した?」
「それは…そんな事は…」
 不穏な空気がふたりの間を流れた時だった。
ニャオウと猫の鳴き声が高く響き、由美はびくりと顎を上げ、勝哉も反射的に顔を向ける。
ふたりの視線の先、背の高い草の間から、白黒の猫が長い尻尾をゆったりと振っていた。
「チョビ…!」
 由美が声を上げたと同時に猫は身を翻し、神代植物公園の方向に駆けて行ってしまった。
「ざる蕎麦二丁お待たせしました~」
 店員の明るい声がかかり、蕎麦ちょこと薬味が蕎麦と共にふたりの前に置かれる。
 一足先に我に返った勝哉は、まだ猫が消えた方を呆然と眺める由美に声をかけた。
「…チョビとよく似た猫だったな。驚いたよ」
 由美はハンカチで顔を押さえ、掠れた声で呟いた。
「…喧嘩するなって…チョビが…」
「え?」
「そう言われた気がしたの…」
「…そう思うならいいんじゃないか?」
 あくまでも猫に判断を委ねようとする由美に、勝哉は呆れと諦めの溜息を吐く。
「それより蕎麦、伸びる前に食べよう」
 勝哉は箸を取り上げ、由美に差し出すと、彼女は箸ごと勝哉の手をそっと握りしめる。
 驚く勝哉に、由美は睫毛を伏せた。
「勝哉さんって…いつも自分の事よりあたしの言う事を優先してくれるよね…」
「そ…そうだっけ…そ…そんな事は…」
 口籠もる勝哉に、由美は顔を上げた。
「ありがと…側にいてくれて…」
向けられた由美の微笑みと温かな手のぬくもりに、勝哉は動揺に目を彷徨わせ、その手をぎこちなく握り返した。

まひる 悠(神奈川県厚木市/女性/自由業)

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