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<第9回・最終審査選出作品>「本卦の恋」 著者:ながた かおる

 僕がとんちゃんに出会ったのは、一年前のさくらんぼが美味しい季節だった。

 僕は還暦になったと同時に現役を引退した。
―これからは奥さんと楽しい時を過ごすぞ―
と、意気込み十分で隠遁生活に入ったのだけど・・・。
「あなた、今日は朝からボランティアのお仲間がいらっしゃるの。申し訳ないけれど夕方まで出掛けてくださらないかしら。
居てくださっても構わないけれど、お話に花が咲くと女性の声は五月蠅くなりますからね。貴方がお休みになれないと思って・・・。
ごめんなさい。」
と、週のなかで2、3日はこんな感じで追い出されるか、
「今日は、お友達とお芝居に行ってきますから、ごめんなさい、お昼とお夕飯ご自分でお願いします。」
と、家に取り残されてしまうか。
―つれないなあ―
でも、それは僕が仕事にかまけていた間、奥さんが逞しく過ごしてくれていた証拠で、そんな奥さんに惚れたのだから仕方がない。
そこで僕は僕なりの楽しみを見つけることにした。
―そうだ、散歩に行こう。―
 六月のある日、僕は思い立って家を出た。
この日は、梅雨に入るのか入らないのか微妙な空模様。散歩と言うからには、やはり近くをぶらぶらと思ったが、あまり近すぎても挙動不審になりそうで、まずは、最寄の調布駅に到着。まだホームが地下になる前で、開発工事の真っ最中。
―このあたりも随分変わったなぁ―
 としみじみ思った。昔の名残りと言えばグリーンホールの佇まいと前の公園くらいか。駅近くにあった大きな工場もいつのまにか、市の施設や保険会社のビルに替わっている。
 駅の周りのお店を少しのぞいて、深大寺行のバスに乗った。
 旧甲州街道の商店街を抜け、バスはだんだんと自然豊かな道に入って行った。
「次は、神代植物公園です。」
車内アナウンスを合図に、前に座っていた女性がボタンを押した。僕は、車窓の景色に気を取られていて女性の存在に気が付かなかった。女性は白髪のボブヘアで、赤いベレー帽を被っている。傍らに大きなキャンバスが見える。
「バスが停車してから、席をお立ち下さい。」
車内アナウンスが告げる。
 女性が、大きなキャンバスを持ち、立ち上がった。
―僕が、持ちましょう。―
僕は、思わず女性のキャンバスを持ってバスを降りた。
「ありがとうございます。」女性はにっこり微笑みながら「もう、持てますから大丈夫ですよ」と言うと僕の手からキャンバスを受け取り公園の方へと歩いて行った。
 もちろん、僕も公園に行ったことは言うまでもないけれど。
 六月の神代植物公園は、バラはもちろん、ねむの木や睡蓮も頃合いよく咲いている。
僕は、花を楽しみながら、文字通り、散歩を楽しんだ。でも、普段歩きなれていないせいか、いささか疲れを感じて、緑と小川で涼しい、せせらぎの小径にあるベンチに腰をおろした。

「先ほどは、ありがとうございました。」
 僕は、いつのまにか微睡んでしまったらしい。ハッと目をあけると、先ほどの女性が、僕の隣に腰掛けていた。
「起こしてしまってごめんなさい。眠っていらっしゃったの気づかなくて・・・。」
―いえ、全然かまいませんよ―
 女性は申し訳なさそうに、肩を縮めて
「あの、良かったらこれ、召し上がっていただけませんか。」とタッパーに入ったさくらんぼを差し出した。
「娘の嫁ぎ先から送られてくるのですが、私、一人暮らしなもので、とても食べきれなくて。」
―ありがとうございます。いただきます。―
 このさくらんぼの味は、僕は今でも覚えている。皮の歯触り、果肉の甘味、さわやかな香り、種の大きさ。どれひとつ忘れちゃいない。
―美味かった。―
 女性は、週に一、二回、この植物公園に来て絵を描いているのだそうだ。キャンバスを持っていたから、絵を描いているのはわざわざ言うまでもないか。キャンバスの他にも、スケッチブックを持っていて、公園の花はもちろん、深大寺の参道の風景も描かれていた。
僕は、絵に描かれている「tom」と書かれたサインを見つけて、ともこさんですか。と、聞いてみた。
「いえいえ、とみこですのよ。おばあさんの名前でしょ。」女性はクスッと可愛らしく微笑んだ。
―ああ、とんちゃんだ。―
僕は思わず、子どもの頃、近所にいたお姉さんのあだ名を呼んでしまった。
「ええ、私もとんちゃん。よく呼ばれていました。懐かしいですね。」
 その日の帰り道、僕は早速、スケッチブックとえんぴつを買った。そして、その後一、二回は偶然を装い、その後は、必然的にデートをするようになった。
 この界隈は、植物公園だけではなく、開山以来千三百年の歴史がある深大寺のお詣りなど、若者や家族連れだけでなく高齢者のデートスポットにも最適の場所である。
 僕らは、真夏の暑い日は、水生植物園で過ごしたし、時には趣向を替えて深大寺の句碑、歌碑を読んでまわった。中には、その季節にならないとピンとこない句もあって、
―また、その季節に来よう―
と約束もした。
僕は、とんちゃんと出逢い、とても良い時を過ごした。もちろん浮気じゃない。とんちゃんと出逢ったその日、あまりにうれしくてちゃんと奥さんに報告もしている。
「あら、良かったじゃないですか。だからといって、スケッチブックまで買ってきて、ご迷惑じゃないんですか。」僕の奥さんは心が広い。まあ、偶然を装って再会しようという試みはナイショだったけれど。
 でも、僕ととんちゃんは家の事や、家族の事はあまり話さない。僕たちの過ごし方は、とんちゃんが描く絵を後ろから眺めたり、僕がとんちゃんにデッサンの仕方を教わったり。食事をするときは、「お蕎麦が美味しいね。」とか、調布シネサロンの映画はいつも懐かしい作品でうれしいとか他愛もない話が多かった。
 高校生のカップルと変わらないと思う。
―あ、高校生は蕎麦ではないか―
十月のある日。
芝生広場で空に向かって穂が伸びたパンパスグラスのデッサンをしている時だった。
「娘も孫も、このパンパスグラスの前で撮った記念写真があるのですよ。ごめんなさい。今日でお別れです。」僕は耳を疑った。一瞬何を言われたのかわからなかった。
「娘のところに、住まう事になりました。」
とんちゃんは、申し訳なさそうに肩を縮めて「ごめんなさい。」と言うと、リュックの中から赤い包みを取り出して僕の手の上に置き、行ってしまった。
 僕は、あまりに突然のことでとんちゃんを追いかけることも出来なかった。
 どれくらい、そこにいただろうか。遠足に来た小学生たちが、パンパスグラスの前に並び記念写真を撮っている。
―そう言えば、息子の記念写真もあったか―

 僕は、しょんぼりして家に帰り、書斎に入ると赤い包みを開いた。そこには、小さいキャンバスに描かれた、深大寺の白鳳仏の姿があった。
その微笑みが、どことなくとんちゃんに似ていると思った。
―還暦の失恋は、かなりツライ―
その後、元気がなくなってしまった僕は、奥さんに本気で心配をされた。それはそれで嬉しかったけど。でも、とんちゃんがどうして突然去ったのか、ずっとそのことを考えていた。
あれから八ヶ月。
奥さんと出掛けたショッピングセンターで開かれていた市民の個展をたまたまみていた僕は、一枚の絵に釘付けになった。
芝生ひろばのパンパスグラス。穂が空に向かって伸び、前にはかけっこする子供たちの姿が描かれている。絵の隅っこには「tom」のサイン。まぎれもないとんちゃんの絵だ。前と違うところは、「o」の文字がさくらんぼになっていたこと。僕は、嬉しさを我慢できずに、係の女性に絵の事を尋ねた。
「とみこさん、亡くなられましたよ。娘さんと一緒に暮らすようになって間もなく…この絵は最後の作品です。」
 あの時の光景が目に浮かび、僕はその場に膝をついた。

 今日、僕は奥さんと深大寺を散策している。
―あなた、そろそろ帰りますか―
「奥さん、素敵な方ですね。いつもありがとうございます。」僕の耳元でとんちゃんの声が聞こえた。
 奥さんは、毎朝、白鳳仏の絵に手を合わせ、花を供えている。
 還暦の事を、本卦と言うらしい。
これが僕の本卦の恋だったことは言うまでもないか。

ながた かおる (東京都多摩市/46歳/女性/主婦)