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<第9回・最終審査選出作品>「それぞれの願い事」 著者:静音 奏

 あの日、「彩音ちゃんに許してもらえるまで待とう」と言った涼子は今にも泣き出しそうだった。思えばあの瞬間にはもう終わっていたのかもしれない。ただ、今と同じで気がつかない振りをしてきただけで。
「もう、お父さんってば。聞いてんの?」
 大きな声で健治は我に返る。夕食を食べているうちに物思いに沈んでいたらしい。食卓の向かいで娘の彩音が呆れた顔をしている。
「さっきからずっと、土曜日に何か予定はあるのかって訊いてたんだけど」
「土曜日って明日のことか?」訊き返すと、彩音がどこか緊張した面持ちで頷く。
 以前涼子と毎週土曜日に会う約束をしていたのを知っているのだ。健治が首を横に振ると、彩音の頬がほっと緩んだ。
「よかった。あたし、行きたい所があるんだ」
 彩音はいそいそと仏壇へ向かい、供えてあった紙を健治に差し出す。
 雑誌の切り抜きだろうか。深大寺と大書された文字と寺の写真が赤い丸で囲まれている。お参りねぇ、と健治は呟いた。珍しいことを言い出したものだ。妻を亡くして以来、二人にとって寺は法事で訪れる場所でしかなかったのに。
 しかしどうせお参りするなら学業成就の御利益がある所の方がいいのではないか。来年は彩音も高校生になるのだし。健治がそう口に出したとたん、彩音の声が尖る。
「うるさいなぁ。いいの、そういうのは」
「でもな、御利益はそれぞれ違うんだぞ」
 そもそも深大寺の御利益は何なんだ。健治が言いかけるのを遮って、彩音が一際大きな声を出した。
「美味しいお蕎麦屋さんがあるんだって!」
 予想外の返事に言葉が宙に浮く。蕎麦屋?
「そういうことだから、決まりね」彩音は一方的に宣言すると、食卓の皿を片付けにさっさと姿を消してしまった。
 
 バスが左に曲がると、突然緑に抱かれた広い空間が現れた。
「こんなに賑やかなお寺もあるんだねぇ」隣で彩音が目を見開いている。つられて健治も窓の外を覗くと、門前にいくつも店が連なっているのが見えた。確かに普段法事で世話になる寺とは雰囲気がだいぶ違う。彩音に引きずられるようにやってきたが、寺にも色々あることを教えてやれたのはよかったかもしれない。
 バスを降りて広い参道を抜けると、茅葺の大きな門の前に出た。
「三百年も前の山門なんだって」
 彩音が駅でもらった散策図を見て言う。見上げれば柱の朱色が初夏の緑に溶けて美しい。   
 その優しい色合は健治に涼子の口紅を思いださせる。
 淡く柔らかな色は涼子の色白な肌によく似合った。しかし初めて涼子と顔を合わせたあの日、彩音はケバイと投げつけるように言うなり、部屋に籠ってしまった。あれからもうどれくらい経つだろうか、と健治はぼんやりと考える。涼子が待てないのも当然だ。
 ふいに傍らから軽い足音が立った。視線を戻すと彩音が階段を上りかけている。
「いいのか。そっちは本堂だぞ」
 呼び止める健治を彩音が怪訝そうな顔で振り返る。
「知ってるけど。それが、何?」
「おまえが用があるのは、あっちだろう」そう言って健治は指を左へ向けた。
 彩音は顔を向けてから手元の紙に目を落とす。たちまちその顔が真っ赤に染まった。
「まぁ、まず本堂からご挨拶をしようかね」固まっている彩音の肩を軽く叩いて健治は山門をくぐった。 しおしおと後をついてくる彩音の姿に、口元が笑いで緩む。
 何が美味い蕎麦屋だ。そんなに簡単に親父を騙せると思うなよ。
 左へ行った先にあるのは縁結びで有名な深沙大王堂だ。女性に人気の参拝スポットとしてネットでも紹介されている。それを隠しおおせると思うあたり、彩音もまだまだ詰めが甘い。
それにしても、と健治は思う。俺に嘘をついてまで恋愛の成就を願いたい相手とは誰なのだろう。授業参観で見かけた同級生達の顔を思い起こそうとしているうちに、ふと昨夜見た深大寺の伝承が脳裏をよぎった。
――親に引き裂かれた恋人同士を深沙大王が引き合わせたという言伝えから、深大寺は縁結びの寺として名高くなった。――
 深沙大王の前で、隣にいる父親の反対を抑えてくださいと手を合わせる彩音の姿を想像して、健治は呻く。
 まさか、俺に反対されるような男との縁を願う気なのか。
 湧きあがったのは、強い怒りだった。そんな恋が許されてたまるか。だって――。健治はそこで慌てて考えるのをやめる。その理由の先に醜い本音が見え隠れしたような気がしたのだ。違う、と健治は頭を強く振ってその醜い姿を頭から追いだす。あれは、何かの間違いだ。
 本堂でお参りを済ませた後、二人は蕎麦屋へ立ち寄った。
「このお店が美味しいんだって」
 友人の勧めだという店の暖簾をくぐりながら彩音が言う。ずいぶんと落ち着いた雰囲気の店だった。彩音と同年輩の子供が好む店とは思えない。ひょっとしたら、と健治にある推測が浮かぶ。そいつが深沙大王に頼みたい相手じゃないのか。この店を好むのならかなり年上の男だろうから、彩音が父親の反対を心配するのも不思議はない。
「その友達って、幾つなんだ」
 尋ねると彩音はそっぽを向いて、さぁ、と素っ気なく答える。しかしその耳が赤くなったのを健治は見逃さなかった。間違いない、そいつが相手だ。
 やはり許せないと感じたのは正しかったのだ。中学生とそんな年上の男の交際を認める余地はまるでない。きっと子を思う親としての直感が健治に警鐘を鳴らしていたのだろう。健治はどこかほっとしながらそう考えた。許さない理由は手に入った。これで、見えかけた醜い本音と対峙しないままで許さないと言えるのだ。しかし手に入れたのが建前の理由にすぎないことから健治は無意識に目を逸らしていた。

 深沙大王堂の前は閑散としていた。彩音は財布から考え考え五百円玉を取り出している。月の小遣いの半分の額だ。いくらなんでも高すぎる。
 小言を言う健治に彩音はあかんべえをして、硬貨をぽんと賽銭箱へ放りこんだ。
 好きな男の前では小遣いも俺の反対も問題じゃないってことか。
 苛々しながら健治も賽銭を投げる。そして手を合わせようとしたが、手がうまく合わさらない。健治は閉じた扉の向こうを睨んだ。
 俺が娘の恋路を妨げる親だからか。しかし俺の反対は理に適っている。深沙大王に口出しされる筋合いはない。そう思って無理に合掌したとき、突如醜い本音が飛びだしてきた。
――本当は理由なんてどうでもいいくせに。
 娘思いの父親という仮面を取った本音は歯を剥いて健治を嘲る。
――ただ、同じ目に合わせてやりたいだけなんだろう?
「ねぇ、絵馬を買ってきてもいい?」
 ぼうっとしながら目を開くと、彩音が見上げている。その顔はひどくすっきりとしていた。健治が頷くと彩音は勢いよく駈けだした。小さくなる靴音を背中で聞きながら健治はその場から動けないでいる。
 彩音が先に俺の恋を台無しにしたのだから、と本音が醜く笑う。その傍らで仮面は彩音のために反対してやらねば、と微笑んでいる。そしてその双方から伸ばされた手が彩音を自分と同じ所まで引きずりこもうとしていた。
 いつのまにか健治の全身を冷たい汗が流れていた。涼子とだめになったのはあくまで自分のせいだと思っていたはずなのに。これが、自分の本音なのか。
 その醜悪な姿に吐き気すら覚えるが、覚えのない感情ではなかった。あれは俺の本音だと健治は認めざるを得ない。しかし認めたからこそ、ただ呑まれるつもりはなかった。
 娘が許さないから、俺もというのは父親のすることではない。
 健治は小銭を取り出すと、まとわりつく本音を振り払うように勢いよく賽銭箱へ投げた。改めて手を合わすと、今度はすっと合う。父親として祈ることは最初から一つしかない。
 彩音が幸せになりますように。
 祈るうちに醜い笑い声は段々と小さくなり、やがて消えた。健治は静かな気持ちで手を解く。気のせいか、少し心が軽くなったような気がした。
「お父さぁん」
 参道から彩音の呼ぶ声がする。その声を愛しいとためらいなく思えることに健治は安堵する。
 参道を振り返った健治は思いもかけない光景を目にして息を呑んだ。
 彩音が絵馬を片手に走ってくる。しかし、その隣にいるのは誰だ。
「健治さん」聞きなれた声が名前を呼ぶ。その声は泣き笑いしているように震えている。
「メールアドレス、勝手に見てごめんね」
 一足先に健治の元へ辿り着いた彩音が照れくさそうに笑って絵馬を突きだす。
 そこには丁寧な文字で『二人をちゃんと応援できますように』と書いてあった。
 やっと追いついた涼子を彩音が手を広げて迎えている。屈託なく笑うその横顔が、健治にはなぜだかひどく大人びて見えた。

静音 奏 (東京都多摩市/32歳/女性/主婦)