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<第9回公募・選外作品紹介>「ひと筋の風 ―二十五年の時をこえて―」 著者:森 きわこ

「明日からロシアへ語学研修に行ってきます。元気でね」
「頑張ってね。いつ帰るの?」
席に挨拶に来た同期の枝廣に、聡子は尋ねた。
「ちょうど一年後だから、来年6月だよ」
「あら、そうなの。残念ね。その頃帰って来ても、私は寿退職していないから、泣いても遅いわよ」
「そうか。残念だね。でも、僕もロシアへ行ったら、彫りの深いのに慣れちゃって、もう日本人の平たい顔は受けつけなくなってしまうと思うんだ」
「よく言うわよ。でも、気をつけて行ってきてね」
「うん、ありがとう」
ふと、枝廣と視線がからみ合った気がした。しかし、また他愛のない同期同士の顔に戻り、じゃあ、と言って枝廣が部屋を出て行った。
(もう会えない。これでいい)
 聡子は自席で誰にも気づかれないように小さくため息をつく。枝廣とはたまに何人かで飲みに行く同期の仲間でしかない。聡子は大学時代から付き合っている彼氏がいたし、枝廣にも京都に彼女がいると聞いていた。お互いに惹かれ合うものを感じつつも、それ以上は踏み込まないでいた。時はバブルの気配を感じさせる80年代終り。企業が新入社員の優秀者に語学研修に出させていた時代だった。
枝廣は法学部卒であったが、ツルゲーネフやショーロホフといったロシア文学に傾倒していて、研修先にロシアを選んだ、と言っていた。聡子は、
「恰好つけちゃって。国立大出は違うわね。でも、それで研修先を決めるなんて相当ね」
 と、枝廣にふざけて言ったことがある。
「ははは、そうだね。でもツルゲーネフの『初恋』を読んでごらん。読みやすいし、とてもいい話だよ」
 その時、聡子は枝廣に慕情を抱く。学生時代から男子にロシア文学を薦められたことなど一度もない。枝廣は秀才だがくだけた話もするし、イギリスの中世の伝説からお好み焼きの焼き方まで雑学の何でも知っている。やさしい性質で顔も悪くない。
(もっと早くに出会いたかった。でももう遅い。枝廣君の彼女は、一年もどうやって待つんだろう?)
 聡子はそう思って、余計なお世話だとそこからは考えるのをやめた。二人の間でちゃんと約束をして、今後のことも考えているはずだ。自分には関係ない。
 それから一年して、聡子は帰国したばかりの枝廣に、エレベーターホールでばったり会った。
「おっ、まだいたの?結婚やめたの?」
「違うわよ。式が秋に延びただけよ。来週退社するのよ。これからどうするの?」
「自分の部に挨拶に行くところ。一週間休みを貰っているからね。再来週から仕事に復帰だよ。浦島太郎状態だよ、どうしよう。今晩から島根の実家に帰るんだ」
「そうなの。ご実家に帰るのね……」
「海も山もあっていいところだぞ。一緒に来るか?」
「えっ?」
「ははは」
 そこでお互いにまた笑い合い、じゃあ元気で、と言って別れた。
 冗談とわかっていながら、聡子は一瞬動揺した。
(本当について行ったらどんな人生に?)
 枝廣の仕事についてロシアへ行き、最期は島根に骨を埋める。いきなりで想像がつかなかった。もともとあり得ない話だし、考えても仕方ないのだが。
(すてきな人、さようなら)
 枝廣とはそれきりだった。
二十年余りの月日が流れた。聡子は夫のたび重なる浮気が原因で、十年前に離婚していた。二人の間には、結婚五年目にして生まれた一人息子があり、聡子が引き取り育てた。離婚後、息子のママ友が始めた小さな派遣会社を手伝うようになり、今では共同経営者として働いている。
元夫は、付き合い始めた頃から猛烈にアタックしてきて、聡子にぞっこんだった。しかし、結婚後、父親の経営する会社に入り、自由になる金が増えた頃から、女癖が悪くなる。聡子は人並みに嫉妬もし、悩みもしたが、夫が愛人宅から帰って来なくなった時、吹っ切れた。
(要は飽きられたということかしら?)
 情けなく思う一方で、自分がいつも何処かうわの空でいることを、夫も感じ取ったのではないかと思い、夫ばかりを責められないと思った。
枝廣の消息は、同期の仲間から時折聞いていた。東京勤務とロシアの駐在を繰り返していると。数年前、シベリアで発見された冷凍マンモスを日本の万博に持ってくるプロジェクトに参加し、かなりの有名人になったとも。聡子は、商社も枝廣自身もいろんな仕事をするようになったものだと感心していた。
そしてこの夏も、永久凍土から発見された少女マンモスが横浜のイベント会場で展示されると知り、きっと枝廣が連れてきたに違いないと思っていた。
枝廣には会ってみたいとは思わなかった。学生時代からの彼女ではなく、ロシア人女性と結婚したと聞いていた。やはり彫りの深さに参ったか……。
聡子の息子裕輔は、今年から三鷹にある大学に入り、学生寮に住んでいた。第一志望に合格し、世界中の学生が集まるグローバルな環境で、裕輔は楽しくやっている様子だった。
聡子は仕事で入学式にも出席できなかったし、裕輔はちょくちょく帰ってきたので、結局一度も大学やその周辺を訪れることなく過ぎる。
「母さん、試験が終わったら、閉寮する前に大学の周辺を案内するから来ないか?近くにある深大寺は、縁結びの神様なんだよ。母さんはまだ若いから、拝んだら嫁に行けるかもしれないよ」
と、ある時裕輔がメールしてきた。
(何を生意気なこと言ってるのかしら。最近までママ、ママとまとわりついていたくせに)
 聡子は吹き出しつつ、了解、と返信した。
 七月初め、聡子は裕輔と三鷹駅南口に待ち合わせ、バスに乗って深大寺に行った。茅葺きされた立派な山門をくぐり、先ずは本堂をお参りする。
「母さん、腹へった。うまい蕎麦屋さんがあるんだよ。少し離れてるけど、深水庵って店。手打ちで細い麺なんだ。母さん好きだろ?」
「ええ、いいわね」
なんでもその店は水にこだわり、地下80メートルの井戸からくみ上げた天然水を使って、蕎麦を打ったり、茹でたりしているとか。
二階の座敷に座る。すると裕輔が隣のテーブルの金髪の少女に声をかけた。
「エレーナ、びっくりした。君だったんだね」「あら、裕輔じゃない。驚いた!私もパパと来ているのよ」
少女は流暢な日本語で答えた。そこに日本人の男性が現れる。枝廣君?
「もしかして聡子さん?久しぶりだね。変わらないねぇ!」
「まぁ枝廣君なのね。変わらないわけないじゃない。いつぶりかしら!」
「確かに変わらないわけないか。二十五年は経っているよ。でも、相変わらず綺麗だね。」
 こんな奇跡があるだろうか。裕輔の大学の友人が、枝廣の娘であ
った。そして偶然、深水庵で鉢合わせした。
枝廣は白髪が混じった髪を恥ずかしそうに掻き分けながら、正真正銘のおっさんになったよ、と言った。しかし、体型もさほど変わりはなく、昔の面影をとどめていた。
「よかったら、一緒に食べませんか?」
 誰ともなく言い、四人でテーブルを囲み、手打ちの蕎麦と天ぷらを味わった。
「これから母を縁結びの神様のところへ連れて行こうと思っているんです」
「え、縁結び?」
 枝廣がキョトンとした顔をした。
「裕輔ったらいやぁね。私、夫に逃げられてずっと一人なものだから、息子にそんな心配されているのよ」
 聡子が答えると、エレーナが言った。
「パパも一人です。母は十年前に亡くなりましたから」
 それから深水庵を出て、四人は原生林の生い茂った参道を行き、縁結びの神と祀られている深沙大王堂に向かった。裕輔とエレーナは嬉しそうにおしゃべりを続けている。聡子と枝廣も二人の後について、並んで歩いた。
「エレーナさんは本当にいいお嬢さんね。それにとても美人さんだわ」
「ありがとう。でも、裕輔君もとてもいい青年だね。聡子さんは仕事もして、ちゃんと子育てもして頑張ったね」
「そんな……。奥さまのことびっくりしたわ」
「ああ、結婚した時から身体が弱くてね。かわいそうなことをした」
一同はお堂の前に着き、縁結びの神に静かに手を合わせた。
(この偶然は、縁結びの神様のせい?)
聡子は二十五年ぶりに込み上げる思いに震えていた。別れ際、枝廣が言う。
「聡子さん、裕輔君も、よかったら、来週冷凍マンモスを見に、横浜へ来ませんか?ご案内します」
「僕は来週から予備校のバイトがあるんです。母さんは行けるよね?」
「ええ、喜んで」
 聡子は真っ直ぐに枝廣を見つめ、枝廣も聡子を見つめ返した。二人の間を涼やかな風がひと筋通っていった。

森 きわこ(東京都)

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