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<第9回・最終審査選出作品>「蝉の恋」 著者:小川 桜子

 そうね、要するにあの人にさえ愛されればそれでいいのよ。私はね、あの人がたった一秒でも私の事を愛してくれるなら生涯誰からも愛されなくたってかまわないって、本気でそう思っているのよ。私は君の想像をはるかに超えるほど心を病んだ女なの。だから、君の想いには答えられないな。
 これが、僕の告白に対する佐野ゆかりの返答だった。佐野ゆかりは、僕ではない誰かの影を見つめながらゆったりと煙草の煙を吐き出した。煙が大きく宙に広がる。僕は煙に向かって、
「僕ならあなたの心をそんなにも惑わせたりしない」
と小さく呟いた。
 だからこそよ。彼女は悲しそうな笑みを浮かべて言った。蝉の、命を嗄らすような鳴き声が響き続けている暑い八月の日だった。
 彼女は僕を玄関先まで見送ってくれた。またいつでも来て構わないから。そう言って彼女は煙草を人差し指と中指で挟んだまま、軽く手を振った。僕は俯いたまま返事をせずに自転車のサドルに跨り地面を蹴った。僕には彼女を救うことはできないのだろうか。長く急な坂道をブレーキもかけずに、ただ、ただ風を切って走り下りた。坂の上。深大寺の隣の赤い屋根の家。佐野ゆかりはそこで個人ピアノ教室の講師をしている。
僕が佐野ゆかりと初めて出会ったのは二か月前の事だった。深大寺の近くの蕎麦屋でアルバイトをしていた僕はこの急な坂を毎日自転車で往復していた。そして、坂道を上っている行きの道では子ども達の演奏する拙いピアノ曲がどこかから聞こえてくるのだが、坂道を下っている帰りの道には至極繊細で美しい音色が風に乗って聞こえてくることに気が付いた。音の粒が月の光に反射してきらきらと輝いているような、そんな音色だった。その音色に心を魅かれた僕は音を辿り、ピアノ教室という小さな看板と「佐野」という表札の掲げられた赤い屋根の家にたどり着いたのだ。次の日から僕は色々と理由をこじつけては佐野ゆかりと名乗る彼女のもとに通い続けた。
「僕、はじめてゆかりさんを見た時はびっくりしたんですよ。まさかこの家から煙草をくわえた女性が出てくるとは思いませんでしたから」
 僕が言うと彼女は声をあげてさも愉快そうに笑った。私だってびっくりしたわよ。突然インターホン越しにピアノを聴かせてくれなんて見知らぬ少年に頼まれちゃったんだから。
「それで、いつになったらピアノを聴かせてくれるんです?」
 言ったでしょう。私のピアノは人に聴かせるようなものじゃないの。専門は、教えることだから。そして、彼女が演奏する姿を僕が見る事は結局一度も無かった。
 僕は彼女のピアノレッスンの合間をぬっては彼女の家に通った。時には彼女から小一時間にわたって偉大な作曲家達のエピソードを聞き、また時にはごく簡単なピアノ曲の弾き方を教えてもらった。彼女は僕の生活に色を与えた。事実僕が毎日を生きる意味は佐野ゆかりにしかなかった。
 ある夜、一通りピアノを教わった後いつものように僕は彼女の家で雑談を交わしていた。佐野ゆかりは僕のために霜の降りたグラスに麦茶を注いだ。話の途切れた瞬間、水が流れるように自然に、彼女は言った。
私、好きな人がいるのよ。
軽く柔らかかった空気が突然ずっしりと重みをもった。乾ききった唇を舐め、僕は平静を装って言った。
「へえ。そうなんですか」
 いい年してあの人の事が頭から離れないの。ねえあの人、本当に美しくピアノを弾くのよ。私、全身であの人を愛しているの。そう、愛しているのよ、心から。ねえ、きっと私の全身に流れているのは血液なんかじゃなくて、あの人への愛なのよ。
 一息に言い終えると彼女は小さく身震いをした。口調こそ、いつも通りゆったりとしていたが、彼女の眼は長い前髪の後ろで爛々と紅く輝いていた。僕は再び唇を舐め、混沌とした頭の中と、高鳴る胸の鼓動を落ち着かせるように小さく深呼吸をした。彼女の言葉が僕の体の中に反響していた。彼女が言葉として発した感情は、僕の、佐野ゆかりに対するそれそのものだった。
「どうしてまたそんなことを僕に話してくれるんです」
 感情とは裏腹に僕の発した言葉は驚くほど冷静だった。どうしてって。彼女は笑って言った。あなた変なこと聞くのね。分からないわよ、どうして君なのかなんて。ただ、誰かに言ってみたくなっただけ。言葉にすれば、より思いが強くなることってあるじゃない。長いこと悶々と思い続けているとね、時々自分の気持ちに確証が持てなくなるのよ。だから、たまにこうして自分の気持ちをはっきりと言葉にして、確かめるの。それで強く確信するのよ。ああ、私は今もあの人を文字通り全身で愛しているんだわ、ってね。
返すべき言葉が見つからなかった。僕はグラスに麦茶を少し残したまま席を立った。
「今日はもう帰ります」
 ちょっと待って。彼女はカーディガンを羽織りながら椅子から立ち上がった。少し、お寺を散歩して帰らない?
 切った爪の欠片のように細長い月の下を僕たちはしばらく無言のまま歩いた。沈黙の中僕は、細い腕をさすりながら隣を歩く年上の女性の事を終始考えていたし、おそらく彼女は僕の知らない〝あの人〟のことを考えていた。昼間様々な出店や土産物屋の並ぶ参道は暗く静まり返っていた。草むらから、虫の音が聞こえた。のどかよね。彼女は呟いた。駅前はあんなに賑やかなのにこの周辺は本当にのどか。東京じゃないみたい。
「本当に、いいところですよね」
 僕がそう言うと、彼女は心から嬉しそうに微笑んだ。参道の一番奥まで歩き続けた僕たちは階段を上り、山門をくぐった。暗い参道とは違い、本堂はぼうっと明るく照らされていた。深大寺はね、縁結びのお寺なのよ。子供の様に無邪気に言うと彼女は本堂に走り寄った。僕も走って後を追う。賽銭を投げ入れ、僕達は手を合わせる。彼女が縁結びの神様に何を願っているかなんて考えなくとも分かった。そして僕は隣に立つ彼女のその情熱的な恋にいつか終わりが来ることをそっと願った。
 そして次の週の帰り道、僕が坂道を自転車で走り下りていると、繊細なピアノの音が風に乗って聞こえてきた。今日こそは彼女の演奏している姿を見られるかもしれない。そう思った僕は彼女の家へ向かって一心にペダルを漕いだ。そして自転車を停め、音の止んだタイミングを見計らってチャイムを鳴らそうとした。その瞬間、焦っていた僕は玄関先に置いてあった植木鉢を足で蹴り倒してしまった。ピアノの音が止み、静まり返る中、陶器が床に転がる乾いた音が大きく響きわたった。僕は思わず瞬時に玄関前を離れ、側の電柱に身を隠した。何故だかは分からない。ただ、体が勝手に動いたのだ。
 ドアを開け、出てきたのは怯えた目で神経質に辺りを見回す彼女だった。だが、明らかにいつもの佐野ゆかりとは様子が違った。いつも明るい色の衣類を好んでいた彼女が至極シンプルで地味な色のワンピースを着用し、煙草もくわえていなかった。大きく見開かれた目は恐怖に震えていた。何とも言えない違和感を覚えた僕はそっと傍に止めた自転車に跨り、彼女から見えないように走り去った。
 僕は言いようのない焦燥感に駆られ、次の日チャイムを鳴らして現れた佐野ゆかりに告白した。状況は読めなかったが、彼女の置かれた現状から彼女を救うことができるのは自分しかいないと、そう感じたのだ。それと同時にもう佐野ゆかりと会うことができなくなるようなそんな不安を感じたからでもあった。
そしてその予感は、現実となる。
その一週間後、彼女の家を訪ねると、佐野ゆかりはドアを開け訝しげに僕を見上げた。
「どちらさまですか」
 唖然とした僕は女性に名前を訊ねた。
「佐野ゆきですけど…」
「佐野、ゆき?」
ふいに佐野ゆきの目の色が変わった。
「あなたもしかしてストーカーですか」
 僕は呆気にとられて佐野ゆきを見つめ返した。佐野ゆきはか細い指で僕を指差すと震える声でヒステリック気味にまくしたてた。
「そうよ。今まで何年間も私を付け回していたストーカーよ。私の留守中に家に忍び込んで煙草を吸ったり、クローゼットの中をいじったり。証拠がないからずっと警察も動いてくれなかったのよ。ここ一週間、やっと現れなくなったと思って安心していたのに」
ヒステリーを起こした佐野ゆきに慌てて頭を下げた僕は気が付くと深大寺の参道を歩いていた。あの細い月の下、大らかで気さくで、それでいてたった一人の人間を病的なまでに愛していた、あの美しい人と歩いた道を。
 佐野ゆかりのことを、佐野ゆきの作り出したもう一つの人格だとは考えたくなかった。佐野ゆかりが、なぜ姿を消したのかは分からない。おそらく佐野ゆきを取り巻く環境に何らかの変化が生じ、それによって精神状態にも変化が生じた。そんなところだろう。だが僕は佐野ゆかりという一人の人間を全力で愛していた。彼女こそが僕の全てだった。ひと夏の恋。言葉にしてみるとなんて脆く哀しいのだろう。蝉が鳴き叫ぶ中、僕は俯いた。頬を熱いものが伝っているのを感じた。僕も、彼女も、全力で誰かを愛していた。命を嗄らしてまで鳴く蝉のように。
煙草の匂いが鼻の奥に沁みついて、離れなかった。

小川 桜子(東京都調布市/17歳/女性/学生)