*

「フォトシンセシス」著者: 神月柚子

「ママ、お風呂沸いたよ」
北向きのベランダの窓を開けて、うずくまるように座っていた母に声を掛ける。母は握りしめていた携帯をぱたんと閉じて、ゆっくりと頷いた。母が光合成をするようになって半年が経つ。それというのも、ある日どこかに出かけたかと思うと、突然髪を目の覚めるような緑に染めて帰ってきたのだった。それまで善き主婦だった母はパートをやめ、家事もやらなくなった。今では時折ふらりと出掛ける以外、日々の大半をパンジーと一緒にベランダで過ごしている。母は、守ってくれるものから、守らなくてはならないものに変わってしまった。
「私はお皿片付けてから入るから、ママ先に早く入っちゃってね」
せいぜい週の半分しか家に帰って来ない父は、もうずっと前からあからさまに母に興味を失っていた。母がこんな状態になっても何も言わず、かといって家のことをやってくれるわけでもない。仕方がないので、私は高校の吹奏楽部をやめて家事を引き受けた。
 母は携帯をコーデュロイのズボンのポケットに入れて立ち上がる。無表情のままのっぺりした声で、ありがとう、と言った。自分のありさまにきちんと負い目を感じていることを伝えようとしているみたいに。
「もう寒いんだから、風邪ひかないでよ」
 十一月だというのに、裸足にサンダルをひっかけてベランダにいた母をお風呂へと送り出して、私は台所へ戻った。
つけっぱなしのテレビになんとなく耳を傾けながら皿を洗っていると、お風呂場から母の声が聞こえた。シャンプーがきれたようだ。私はゴム手袋をはずし、脱衣場に向かった。
洗面台の下の戸棚の奥からシャンプーの替えを探し出す。浴室の扉を開けて、母に渡す。皿洗いに戻ろうとした、その時だった。近くでヴー、というくぐもった音が聞こえた。思わず息をのむ。洗濯機の上で綺麗に畳まれて置いてあった母の服の中で、携帯が震えた音だった。浴室では母がシャワーを流し続けている。
なにか魔法のような力が働いていたのだと思う。くらくらする私をよそに、私の手はまるで別の生き物みたいに、母の服の中からするりと茄子色の携帯を取り出した。静かに開く。ロックはかかっていなかった。新着メール、フロムいつき。
『アケミさん明日空いてますか? 前言ってた深大寺、連れて行ってくれませんか?』
 文末の赤いクエスチョンマークがやけに元気に動いている。アケミさん。母の名前をカタカナで表記するとこんなに漫画みたいになるんだ、と思った。深大寺には、まだ父と母の仲が良かった頃に何度か家族で行ったことがある。うちからはバスで十分弱。
『十二時に深大寺のバス停で』
 私の指は驚くほど滑らかにそう打ち込んだ。
送信。そして自分の書いたメールと、『いつき』のメールを消した。背中に汗が滲んでくる。不自然だったかもしれない。ばれたらどうしよう。頭の血管がじゅわじゅわ言う。ヴー。新着メール、フロムいつき。
『わかりました!』
 やけに元気に動く赤いエクスクラメーションマーク。メールを消す。携帯を閉じる。服の山に戻す。そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。私は大きく深呼吸して、なんでもないふうにシャンプーの替えを母に渡した。

「母は来ません」
 待ち合わせ場所でいつきを見つけられるかの心配は無用だった。髪が母と同じ緑色だったからだ。少し色が褪せて黄色っぽくなっていた。生え際も黒く見え始めている。朝から雨が降っていたせいで、前髪が濡れた枯芝みたいに額に貼りついていた。
「アケミさんのってことは……サキちゃん?」
いつきは腫れぼったい目をきょろきょろさせて、おそるおそるそう言った。頭が悪そうなつぶれた声。軟弱な身体つき。歳は二十代後半くらいだろう。私はいつきが自分の名前を知っていたことに少なからず驚いていた。
「母がお風呂に入っている間に私が勝手に返信しました」
「えーっと、どうしようか。まだ少し降ってるし。そうだな、昼ご飯はまだだよね」 
 いつきが首の後ろを掻きながら近くの蕎麦屋に入ることを提案したので、私は頷いた。
「好きなものなんでも食べて」
「私、自分で払います」
「アケミさん、いつも俺に出させてくれないんだ。だから、その分」
 覚悟していたはずなのに、このいつきとやらは本当に母の浮気相手なのだと改めて思い知らされて途方に暮れる。何も言えなくなった私の分までいつきは天ざるを頼んだ。お店の人に、私たちカップルじゃありませんよ、という顔をしたかったけれど、母といつきが、というよりは私たちがカップルであった方がまだましな気もして、俯くしかない。
蕎麦が来るのを待つ。じわじわと緊張の波が押し寄せてきて、いつきに訊ねるべきいくつもの質問が頭の中でミキサーにかけられていく。視線のやり場がわからず、水の入ったグラスを睨みつける。しばらくいつきもグラスを持ったり置いたりしていたが、全部飲み干してしまうと居心地悪そうに口を開いた。
「同じスーパーで働いてたんだ。店長と揉めた俺をかばって、アケミさんまで辞めることになっちゃったけど。アケミさんしか俺のことわかってくれなくて」
 アケミさん。
「……俺、アケミさんに会いたくて。アケミさんがいてくれて、俺すごい救われたから」
 アケミさん、アケミさん、アケミさん。嫌悪感で嘘みたいに小鼻が引き攣る。
「アケミさんは、俺のこと」
「やめてください!」
 気持ち悪い、と思うと同時に私の口から発された言葉の語気は荒く、いつきは圧倒されていて、向こうのお客さんはこっちを見ていて、でもいちばん驚いていたのは私だった。
「もういいです、ききたくないです」
「お待たせしました」
 天ざるを持って奥から出てきた店員さんの落ち着いた声が、不自然に響いた。
「ごめん、俺、いつもひとりよがりで」
 口を片側にひっぱって不恰好に笑いながらいつきは言って、あとは静かに蕎麦をすすっていた。わさびも葱も入れずに。雨粒がはたはたと屋根をうつ音だけが響いていた。

 店を出ると、雲の隙間から光が差していた。
「晴れたね」
 目を細めて言ういつきの髪はいつの間にか渇いていて、傷んだ毛先の向こうで太陽が輝いている。雨上がりの匂いがむんとした。
「お参りして行ってもいいかな」
 咄嗟に頷いてしまったが、すぐに後悔する。ここの神さまは縁結びで有名なのだ。でも神さまの力が強ければ強いほど、私にとっては大問題ではないか。このまま母といつきが結ばれでもしたら困ってしまう。もし私が今逃げ帰っても、いつきはお参りしていくだろうか。母はいつまでも、安っぽいパンジーのプランターと一緒にベランダでの生活を続けることになるのだろうか。
 お堂まで来ると私は素早く財布を出して、お辞儀をしてから賽銭箱に五百円玉を入れた。いつきより多くなくては意味がない。いつきの願いが叶わないことが私の願いだ。矛盾するお願いごとがいくつも来たときに、神さまはどうやって叶える方を選ぶのだろう。わからないけれど、とにかく私の願いの方を優先してもらわなくてはいけない。鈴を鳴らして手を合わせる。神さま、この男と母の縁を、結ばないでください。
 力強く祈ってお辞儀をしてから隣を見ると、いつきはまだ隣でモタモタと財布をしまっているところだった。手元の千円を賽銭箱に入れた。まさかお札を出すとは思っていなかった。焦る私をよそに、いつきは二度大きく手を叩き、ぎゅうと目をつぶって祈った。神社と寺の違いもわかっていない男のくせに。
「なんて祈ったんですか」
 当てつけみたいに訊ねる。責めてやろうと思った。このひとりよがりのバカ男を。他人の母親に恋をした愚かさを。いつきはたじろぎながら、後ろめたそうに答えた。
「アケミさんとアケミさんの『オット』が、またうまく行きますように……って」
 私は耳を疑った。この男は一体何を言っているんだ。何様のつもりだ。
「どうして貴方がそんなこと願うんですか」
思わず問い詰めるような口調になる。いつきは私と初めて目を合わせて、顔を歪めた。
「アケミさんには、幸せになって欲しいんだ。……俺のことは子供みたいに構ってくれてるだけから。それでも嬉しかったけど」
 泣き顔で必死に笑ういつき。さっき言いかけたのはこのことだったのか、と思った。私まで泣きたくなる。母はいつきのために光合成をしているというのに、この男はちっともわかっていない。どれだけ真剣な顔で母が携帯を眺めているのか。ベランダから戻るとき、どれだけ母の足が冷たくなっているのか。
本当に、なんてひとりよがりなんだろう。
「ごめんね。サキちゃんには嫌な思いさせちゃって。……アケミさんに、よろしく」
 じゃあね、と言っていつきは歩き出す。もし私の願いが五百円で叶うなら、千円も出したいつきの願いもいつか叶うのだろうか。そうすれば、私たち家族は元に戻れるのかもしれない。でも、なんだかあんまりじゃないか。
遠ざかるいつきの髪がきらきら揺れていた。私はやけに澄んだ空の下、取り残された。

神月柚子(東京都町田市/20歳/女性/学生)

   - 第11回応募作品