*

「思い出と歩く」著者:谷口美希

 あの人がいなくなって、一月が過ぎた。

 住宅街の隅にある、無個性な戸建ての二階の部屋で、ベッドに寝転んで文庫本を読んでいたら、階段を上ってくる足音が聞こえた。身体を起こして机の上の時計を見ると、もう十時半で、朝食を食べてからからもう二時間ほどが経過していた。大学の講義で使うその本を、ばさ、と無造作にベッドの上に放って、私は扉の方を見た。ノックもなしに扉が開き、この家のもう一人の住人たる男が顔を出した。
「仮にも女子大生の部屋なんだけど」
 わざと仏頂面をして出迎えると、無精ひげを生やした男が、しまった、と目を丸くした。
「ごめん……」
「朔冶さんはほんと、そういうとこ無神経だと思う。そんなんだから、」
 ちらと男の表情を見上げると、眉間に深い皺を刻んで、陰鬱そうに項垂れていたものだから、慌てて言葉を止めた。ノックをしなかったことは水に流してあげて、明るい声を出す。
「ていうかどうしたの? 何か用事? 書類、私が書くやつとかあるの?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
 いつもの能天気そうな表情に戻っているのを見て、私は内心ほっとする。朔冶さんは、窓の外へと視線を転じた。釣られて私も、彼と同じ方向を見る。閉め切った窓の向こうには、真っ青な夏の空が広がっていて、太陽がてっぺん近くで輝いていた。
「……散歩に行かない?」
 どこか気の抜けた声を聞いた私は、外を眺めたまま、何も考えずに頷いていた。

 今年買ったばかりの、真っ白い、ヒールのちょっと細いサンダルを履いて家を出た。コンクリート上に黒々と影をつくる太陽は、冷房の効いた部屋から見るのとは全く違う、高い攻撃力を持っていて、じりじりと肌を焼いてくる。白いシャツの背中を追って数歩ほど歩くだけで、あっという間に汗が噴き出す。ヒールを履いてもちっとも追いつくことのできない百八十二センチの男は、当然歩幅も大きい。追いかけようとするから余計に暑くなるんだと諦めて、途中からは影を睨みつけて歩いた。信号のところで追いついて、私はようやく彼の隣に並ぶ。
「歩くのが速いよ」
「……気を付ける」
 その言葉通り、信号が青になってからは、無理をせずとも彼の斜め後ろくらいを歩き続けることができた。きっともう、私の部屋にノックなしに入ってくることもないのだろう。
 深大寺の参道に足を踏み入れてしまえば、陽光を遮る木々のお陰で、いくらか涼しくなった。あの家に住み始めてもう三ヶ月が経つけれど、こんなに近所にある深大寺には未だ来たことがなかった。道の両脇に並ぶ茶店やら土産屋やらが珍しくて、辺りを眺めながら歩いていると、不意に斜め前を行く男が「あ」と声を出し振り返った。
「その靴、はまりやすいから危ないよ」
 彼が指差しているのは側溝だった。ヒールが穴にはまってしまう、ということらしい。道の真ん中へ寄りながら、ついでに前へと距離を詰めて隣に並んでしまう。
「気が利くんだ」
 からかうように言うと、見上げた先の口元に、悲しそうな、しかしそれでいてどこか慈しむような笑みが浮かべられた。
「一花ちゃん、はまってたから」
 彼の口から一日に一度は聞く、あの人の名が、今日もまた発せられる。
「よく履いてた、あの真っ赤な靴のヒールがさ、はまって抜けなくなってたんだよね。遠くからでもすっごい困ってるの分かったから、俺が手伝って。二人がかりで何とか抜けて、ありがとうございます、って言う顔がとんでもなく可愛くて、びっくりした」
 あの人のことを話すとき、朔冶さんの表情と声はぱぁっと花が開いたように明るくなる。毎日のことだから、もう相槌を打つのも面倒で、無言になって隣を歩いた。
「それでさ、お礼にお茶でも、って、あそこに行ったんだ」
 指差された先を見ると、何の変哲もない茶店だった。周りにあるほかの店と、外観はほとんど同じで、よくこの位置から分かったな、と感心してしまう。
「折角だし寄って行こっか。抹茶が美味しいんだよ」
 正直あまり気が進まなかったけれど、美味しい抹茶、というのは純粋に気になって、茶店まで足を進めた。しかし、木製の扉には、「休業日」と大きく筆文字で書かれた貼り紙がしてあった。肩を落として意気消沈する彼に、「間が悪いね」とだけ声を掛けて、また歩き出した。
 山門をくぐるとすぐに、朔冶さんは本堂へと小走りで向かってしまった。木々の間を通り抜けていく風の、静かでかつ存在感のある音に、目を細める。こういった場所特有の、ひどくのんびりとした空気が流れていて、私は一瞬、ここが東京都内だということも忘れてしまう。説明書きの立て札があったから、何とはなしに目を通した。
「……縁結びの神様」
 顔を上げると、熱心に手を合わせている後ろ姿が見えた。私は神様じゃないけれど、彼が何を神頼みしていたのかは簡単に分かってしまう。
「何お願いしてたの」
 戻ってきた彼に、それでもあえて、尋ねた。すると彼は、照れ臭そうに頬を掻いてから答えた。無精ひげに少し隠れた、唇がくしゃりと歪む。
「一花ちゃんが早く戻ってきてくれますように、って」

 初めて訪れる場所で、行きたいところなんて何もなかったから、彼の歩くままに私も歩いた。気付くと、深大寺同様、やはり存在だけは知っていた植物園に来ていた。見たことのない背の高い木や、色鮮やかな大きな花は、確かに物珍しくはあるけれど、それ以上の感想は正直言って浮かばない。適当に眺めながら、少し蒸し暑い園内を進む。
「抹茶を飲みながら、思い切って、恋人はいるんですか、って訊いたんだ」
 BGMは、朔冶さんの思い出話。
「そうしたら、長い睫毛を伏せて、夫を先月亡くしたの、って言うもんだから。不謹慎だけど、あぁすごく綺麗だなって思っちゃったんだ」
 当時に戻ったかのように、興奮した面持ちを向けられる。私の浮かべる暗い表情に、あ、と彼の太い眉毛が下がった。
「ごめん……」
 どうやら、死んだ父親のことを思い出して悲しくなっているように見えたらしい。夫を亡くしたばかりで縁結びの神様の元へやってくるあの人と、そんな女を心から愛している、目の前の男の神経を疑っているだけなのに。しょんぼりとしている中年の男、という絵面が面白くて、思わず小さく笑ってしまう。
「ほんと、朔冶さんは無神経」
 からかうと、彼は私が落ち込んではいないと分かったらしく、安堵めいた息を漏らした。
「……そろそろ俺のことも、お父さんって呼んでくれたらいいのに」
「知り合って三ヶ月くらいの人をお父さんって呼べるほど、私の神経は太くないよ」
「そっか、残念。……あ、これ」
 不意に朔冶さんが立ち止まる。
「何?」
 彼の見上げる先を見ると、ひときわ目立つ真っ赤な花が咲いていた。なぜ足を止めたのか分からず、今度は朔冶さんの顔を見る。また、例の悲しそうで嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「一花ちゃんが初めて見たとき、この園内で一番かわいい、ってはしゃいでたやつだ。何か子供みたいで、おかしくてさ。全然忘れられないや。……ほんと、早く戻ってきたらいいのにな」
 ふらりと恋をして、再婚をして、ふらりと出て行くような女だ。きっと今頃も、またどこかの縁結びの神様のところにいるんじゃないだろうか。浮かんだ考えは口にしないで、植物園を出た。

 太陽はちょうどてっぺんへと昇っていて、暑さが更に増していた。私と朔冶さんとの間は、また人一人分ほど開いていた。この道をまっすぐ行けば、あの無個性な家へと辿り着く。暑さのせいで、私たちは無言だった。耳をつんざくような蝉の声に邪魔されないよう、「ねえ」と声を張ったら、喉が渇いていたこともあってか変に甘えたような声が出てしまった。少し前を行く朔冶さんが振り返る。日に焼けた顔が此方を見る。
「そば屋が沢山あったでしょ。寄って行こうよ。お腹空いた」
 本当は、別にそばじゃなくても、たとえば茶店とかでも良かった。だけど、そばアレルギーのあの人と、彼は一度たりとも深大寺のそば屋を訪れていないはずだ。
「美味しい店、よくわかんないよ。他のものだったら、一花ちゃんと行ったとことか、美味しいとこ連れて行けるんだけど」
 眉が、困ったように下げられる。
「いいよ、美味しくなくても。私、そば好きだから」
 強い口調で小さな嘘をつくと、朔冶さんは迷いを帯びた背中を向けて、また歩き出す。置いて行かれないように、あわよくば隣に追いつけるように、ヒールを鳴らす。この土地で落ちた恋の思い出を引き連れて歩くその後ろ姿に、私は恋をしている。

谷口 美希(東京都三鷹市/20歳/女性/学生)