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「想い出まいりの鐘の夜に」著者:千坂佳央

 あたりが急に騒がしくなったのは、零時まであと三十分に差しかかった頃だった。境内に向かってぞろぞろ集まり始める人々が、夜更けの参道に明るいざわめきを作り出している。誰もがみな楽しそうな顔を浮かべているのは、特別な夜がもたらす高揚感のせいだ。
 満員で賑わう門前の店から出ると、鋭い冷気が肌を刺した。ストーブに近い席だったおかげで、天ぷらそばを食べ終える頃にはすっかり身体も温まったはずなのに、やはりそう甘くない。すぐに鼻先が痛くなるのを感じて、ぼくは小さく肩を震わせた。
「寒いね」
 待機列の最後尾に並んだとき、陵子が耐えかねるように身を摺り寄せてきた。この時期がつらくなってきたのも、互いに四十を過ぎてからだ。そうかな、と、本心とは真逆のことを言いながら、ぼくはマフラーを外して彼女の首に巻き足してやった。肩に手を回すと、恥ずかしそうに陵子が「もういい歳よ」と囁いたが、かまうもんか、と、ぼくはさらに強く抱き寄せていた。
 睫毛の長い瞳がふとぼくを見上げ、そしてゆっくり滑り落ちてゆく。静かに微笑んだまま、陵子はぼくの胸に頭を寄りかからせた。
 柔らかな髪が、ふわりと甘く香る。ひどく懐かしい感覚がこみ上げてきて、思わずぼくは瞼を閉じていた。
 あの日と、同じ匂いに──…… 
 瞬間、眩しい景色が目の前に蘇った。大学二年の夏休み。割れんばかりの蝉しぐれが降り注ぎ、生い茂る木々の合間から強い陽射しが石畳を白く映し出していた。
 道端の水路に流れてゆく湧き水の音。そば屋の軒先にぶら下がった丸い提灯。風に溶け込む、線香の匂い。
 あの日、ぼくは汗だくになって陵子を探していた。明け方のバイトを終え、帰ってウトウトし始めたところに、彼女の母親から連絡が入ったからだ。娘が家を飛び出した、と。
 確かに最近、様子がおかしいとは感じていた。けれど、風邪を引いただけよと微笑む顔に、それ以上の言葉を呑み込んでいた。
 思いもよらなかったのだ。
 ふたりの間に、命が芽生えているなんて。
 話を聞いたとき、衝撃のあとに残ったのは、迷いよりも強烈な怒りだった。自分の迂闊さを悔いたのは、妊娠させたからじゃない。どうして、陵子が悩んでいることに気付いてやれなかったのか。
 ──きっとここにいる。
 高校時代、互いの家が近いせいもあって、部活帰りに門前通りで出逢うことも珍しくなかった。無駄話をしながら、店先の小間物に触れたり、焼き立ての団子を齧ったりするひとときが、いつのまにか、ふたりの約束事になっていた。どちらからともなく指を絡め合うようになったのも、ごく自然な流れだった気がする。
 ぼくたちにとって、大切な場所。今も変わらない場所。だから、きっと、ここに──……
 ふと、一休庵のそば打ち場の前に見覚えのある人影が立っているのに気付き、ぼくは足を止めた。
「陵子……」
 ゆっくりと廻る水車を見つめる、睫毛の長い瞳。風にそよぐ、柔らかな髪。蝉しぐれがいっそう大きく鳴り響き、一瞬、まるでどこか遠くから映像を見ているような錯覚がした。肌には汗が滴っていたのに、身体は緊張して冷えきっていたのを憶えている。
 ふたりの距離が近づいたところで、彼女はようやく視線を上げた。
「産もう」
 息を揺らせながら、ぼくは陵子に向かって言った。陵子は瞠目したが、やがて瞳に涙を溜め、何を言ってるの、と切なげに微笑んだ。
「あなたの人生を変えてしまうのよ」
「なら、きみの人生を変えるのも俺だ」
 ぼくは陵子の肩を掴んだ。互いにまだ二十歳を過ぎたばかりの子供だったかもしれない。世の中の厳しさも、自分の甘さも知らなかった。それでも、きっと乗り越えてみせると心だけは頑なだった。
「どうなるかわからない先の未来より、今、この一瞬をきみと生きていたい。だから」

 俺、と。

「──……」
 後ろの客に押されて、ぼくは我に返った。腕の中では陵子が、かじかんだ両手を揉み合わせ、白い吐息をかけている。あの日、ぼくの胸に頭をもたせかけ、頷きながら涙を落とした彼女が。
 もう二十年も前のことだ。 
 大学を卒業するまでは親に助けてもらう形になったが、就職が決まってすぐ、ぼくたちは一緒に暮らし始めた。互いの若さが苦労を呼び、絆が揺らぐほどつらい時期も、幾度となくあった。そんなとき、そばを食べに来るふりをしてひとりここへ来ると、不思議なくらい心が落ち着いた。そしてまた、初志を取り戻していく。陵子も同じようにしていたと知ったのは、生活が安定してからずっとあとのことだ。
 生まれた娘はすくすく健康に育ち、ふたりが通った高校を出て、吉祥寺でキャンパスライフを満喫している。紆余曲折は当然のようにあったけれど、それなりにまともな大人になってくれそうだと、とりあえずは安心したところでもある。
 だが。
 今年の夏、陵子の病が発覚した。手術を終え、安静を取り戻しているが、長くはもたないだろうと医者に告げられていた。
 深大寺で年越しをしたい、と言い出したのは陵子の方だ。弱った身体で夜に外出などもってのほかだと反対したものの、これが最後の願いになるかもしれないと思うと、押し切られるしかなかった。
 大事を取って車で行こう。免許を取ったばかりの娘が今、駐車場で待ってくれている。
 ──せっかくだし、ふたりで恋人時代を思い出しながら行ってらっしゃい。
 生意気な言葉とは裏腹に、切なげに笑ったその顔は、母親の若い頃によく似ていた。
「二十年、か」
 溜息交じりに言うと、陵子が不思議そうにぼくを見上げた。
「何?」
「いや……」
 投薬のせいで、陵子はときおり記憶が飛ぶようになっていた。日常生活に影響は少ないけれど、同級生の顔や、昔よく行った店の名を思い出せないことが多くなっていた。
 初めて口づけを交わした日に咲いていた、紫陽花の艶やかな色。湧き出す水の音。雨上がりの、澄みきった空気。
 きみはいったい、どこまで憶えているのだろう。大切な想い出の後ろには、いつも同じ風景があったことを。
 本当に、これでよかったのか。若さゆえに前のめりだったぼくの想いが、きみの人生を奪い取ってしまったのではないか。そんなことない、と返してくれるのを期待する、ただ自分を安心させたいがための愚問に過ぎない。だからずっと訊けずにいた。なのにどうして、今になってこんなにも答えが欲しくなるのか。──……
 人混みがつらいと陵子が言ったので、ぼくたちは列を外れ、参道の端に身を寄せた。境内は混雑していて、中に入るのは諦めるしかなさそうだった。冷え切った屋外にいるのも身体にさわる。さすがに陵子もわきまえたようで、ここでいいわ、と、睫毛の長い瞳で淋しそうに山門を見つめていた。
「来年はお父さん一人になっちゃうかもね」
 ぽつりと、陵子が漏らすように言った。
「馬鹿なことを言うな」
 ぼくは思わず真顔になっていた。
「そうじゃないの」
 陵子は首を振ると、ゆっくり腕を上げ、左の方を指さした。古い水車のある場所を。昔と変わらないままの笑顔を、浮かべて。
「どうなるかわからない先の未来より、今この一瞬をあなたといられたから。私はずっと、幸せだった」
「陵子……」
 ふいに、鼻先が痛くなった。 
「ふふ。泣かないの」
「寒さがしみるだけだ」
 強がってみたものの、視界は霞み、吐息が熱くなっていく。歯を食いしばらなければ、すぐにでも喉元から何かが溢れ出してしまいそうだった。
 そっと、陵子がぼくの指に触れた。握りしめてくる手を、ぼくは握り返した。強く。もっと、強く。
「痛いよ」
 陵子は苦笑いしたが、振りほどこうともしなかった。
 手のひらの冷たさを。そして、ほんの少しの体温を。ぼくは忘れない。きっと、忘れられない。
 やがて、境内から僧侶たちの唱える経の声と、彼らが打ち鳴らす鈴の音が聞こえてくる。
「今年が終わるのね」
「ああ」
 まもなく迎える時刻とともに衝かれる梵鐘に、古い年の記憶を預けていく者もいれば、刻みつけていこうとする者もいる。
 ──ぼくたちは。
 笑い、迷い、泣きながら、一緒に歩いてきた。来し方、行く末、想い出をひとつ、またひとつ、積み重ねて。
 今、この一瞬を残していくんだ。
 暦を越える鐘の音が、武蔵野の夜空に響き渡っていった。

千坂佳央(神奈川県)