*

「リヤカーをめぐる思い出」著者:広瀬有

 八月に入ったばかりの火曜日、都心から自宅のある荻窪を素通りし三鷹駅で降りると、足の向くままに南口からバスに乗り込んだ。
 文字通りなんにも考えず、ただ足が動くものだから、もう参道の中途に差しかかっている自分が不思議だった。
 願掛けに来たんだとしばらくして思い出すと、参道の残りを急ぐ。途端に重くなった足は秒速5センチほどにしか進んでくれない。
 それでも気晴らしにと沿道の蕎麦屋を覗くが、昼をとうに廻った店はひっそりとし、天日干しの蕎麦ざるが風にカタカタと鳴る。
 久しぶりの深大寺は、随分と寂しかった。
 右耳下の腫れに気がついたのは梅雨に入ってすぐ。ぐりっと瘤のようだが痛みは無く、しばらく放っていたが、なかなか微熱が引かないので、仕方なく近所の内科に行った。
 細菌か何かでリンパ腺に炎症が起きていると言った老医師は、急に診断を撤回するや、築地にある専門病院の受診を強く勧めてきた。
 大小の検査に耐え、通院も5回目を迎えた今朝、「戸上さん」と初めて主治医に名前を呼ばれ、一通りの経過診断を聞かされた。
 内容はよく覚えていない。ただ、いつもは億劫そうな医者が妙に迅速で、どんなに早くても一週間を要した予約が首尾よく三日後に取れた。金曜日には結果が伝えられる。
 石段を上がり寺の山門をぬけると、左手にのびる小道に沿って進んだ。草いきれでムッとした藪に挟まれ、頭上には落葉樹が生い茂るその道は、夏の盛りにしては涼しい。 
 幾分か幻想的でもあったから、その先にそこだけ木洩れ陽の注ぐ深沙堂が見えると、現実感があせて、気分が少しだけ楽になった。
 薬師様や延命観音を詣ればいいのに、恋をとり持つ深沙大王に向かったのは、昔何度も母と訪ねていて馴染みだから、それだけの理由だった。
 なぜだかやけに信心深かった母は、「疫病とか病魔だけは嫌でしょ」と大王の神通力を買ってお堂に向かうが、そこには縁結びだの深大寺の寺号の由来だの、明るい理由はなかった。もしかしたら、若くして死んでしまった父と関係していたのかもしれない。
 しかし、結局理由はわからず仕舞いで、参道に近い秘仏が宿るこの堂で、母娘は多くの時間を過ごした。
「あ……変わんないや」
 本当になんにも構えずに踏み込んだ空間は、びっくりするほど昔のままで、切妻屋根を覆う雑木林の配列や自分の重みで全体が傾ぐ赤松の微妙なラインは、ぴったりと幼い記憶に符合していた。
 お堂わきの切石に座ると、ジジジと蝉時雨が頭をめぐり、今にも気が遠くなる。
 人知れぬ痛みや孤独を抱えていた母も、こんなふうに癒されていたのか。
 現実逃避も手伝い、記憶はやがて、三十六年の人生で幾度も掘り返した、手放すことの決してないある思い出をそのまま運んできた。
 物心ついたときから父はおらず、高校を卒業するまでずっと母とふたり、三鷹市の小さなアパートで暮らしていた。
 深大寺の北にある北ノ台小学校をさらに北上した三鷹通り沿いのアパートは、古くて騒々しかったが、居心地はよかったと思う。
 通り向こうには企業の野球場があってナイターが夜を照らし、沿道の劇団から聞こえる発声練習は、憂鬱な朝を少しだけ愉快にした。 
 母を深夜まで待つ幼い娘を気にする隣人は多く、よく世話になった隣の若夫婦から、初めてゼリーではないメロンをご馳走になった。
 もちろん、アパートの外でも言うほどの苦労は無く、放課後は学童と知り合いを転々としたが、おおかた祖母と一緒にいたから、いわゆる悲壮感とは無縁だった。
 調布駅の裏通りにあった祖母の居酒屋では、時々派手な諍いが起きたが、不思議とそこには諦めに似た節度があり、引き際のタイミングという得難い教訓を、幼い娘は肌で知る。
 そして常連客が揃うころ、母は迎えに来ると、決まって自分を自転車後部の荷台にのせて、一路、深大寺付近をめざすのだった。
「うちはねえ、貧乏だけど貧しくはない」
 そう豪語する母は、週に一二度馴染みの蕎麦屋に通い、ふたりで一枚ずつ笊蕎麦を平らげ、ひとり旨そうに熱燗をちびちびやる。
 多分、この習慣は亡くなる直前まで続いていたと思う。
 甘めのつけ汁に蕎麦をたっぷりと泳がせ、くどいくらい咀嚼する母は、決して蕎麦通ではないが、その酩酊する様は見ていて気分が良く、幸せを守るのではなく分け与える、そんな類の酔い方だった。
 その後、良くない事がつづきもしたが、一応腐らずにやってこれたのは、あの酩酊の功徳かもしれないと、本気で信じている。
 そんな母娘だったから、特に反抗することもなく、家事や雑事は協力してやっていた。
 そして中学二年生の春、初めて恋をした。
 それは、どんなに通じていた母にも決して明かせない、行き場のない衝動だったが、次第にその正体が初恋とわかり、絶望に転じた。

 当時所属していた吹奏楽部の同じフルートのパートに、藤原泉という一つ上の先輩がいた。フルートの腕はピカイチで文武に秀で、おまけに透ける肌と薄茶の目をした美人だったから、常に教師のご贔屓に与かっていた。
 彼女に接すると何か自分までが特別になったような、そんな優越感を抱かせてしまう存在。今でいうスクールカーストの頂点に君臨するような、特別の生徒。
 しかもそれでいて、性格だって良かった。
 大人の目や評価の枠外にあっても、後輩や同級生への配慮を怠らず、ちょっとの根回しで、誰もが傷つかない方法でいじめを解決することもしばしば。まさに完璧なひと。
 間違っても、藤原さんに避けられることだけは、絶対に絶対にいやだった。
 五月にしては蒸し暑い日だった。中間試験前の水曜日、早帰りした折り母につかまった。
 これから調布駅近くの果樹園に行くという母は、袖机をもらいに行くからと誘ってきた。
 まあ助手席にいればよいし、末は自分の勉強机になるのだからと、仕方なく承諾した。
 しかし、実際の机は意外に大きく我が家のミニカーには積みきれず、譲り主の好意で、代わりに軽トラをお借りして運ぶことに。
 けれども母は、なにを思ったか、不慣れな軽トラの運転に躊躇しだすと、突然、納屋に立てかけてあった古いリヤカーをせがんだ。
 今にも崩壊しそうな代物で、車輪や持ち手の塗料はすっかり剥げ落ち、触れば赤錆特有の臭いと鉄粉が手のひらに付着した。
 そんな事情から、リヤカーの旅が始まる。
 優に30キロを超す塊を載せたリヤカーは本当に重く、停止の状態から引き始めるには、母と二人、腹筋を張り歯を食い縛ってようやく一歩を踏みだすほどであった。
 逆に坂道では、惰性がついた車輪の下敷きにならないよう相当に気を使った。
 臭い汗が滴る。楽しさなんて微塵もない、ただの羞恥と苦痛の道のり。
 思春期の自分は、こんな姿を知り合いに見つからぬよう、唯それだけを祈っていた。
 しかし事態は、最悪を迎えてしまう。
 幹線道路を避け、迂回のため深大寺の敷地を突っ切ろうと、参道の向かいで信号待ちしていたその時、山門の黒い茅葺の下に目が留まった。全身が強張る。そこに母と並んで慎ましく歩く藤原さんの姿を一瞬で捕えていた。
 穴があったら……そんなものじゃない。万事休す。数多の部員に紛れて借り物のフルートなんかを持つ戸上純という存在を藤原さんが覚えていないこと、それだけに賭けた。
 しかし、藤原さんはやはり藤原さんだった。
 彼女は信号を待って一目散に駆けつけると、矮小な後輩の頑張りを親たちに讃え、意外な、いや最も藤原さんらしい展開をみせる。
 突如、藤原さんは右手の楽器ケースを親に託すと、自分と並んでリヤカー前方のバーを握り、「せーの!」っと力一杯に引き始めた。
 リヤカーはなぜか素直で、順調に滑りだす。
 汗で湿った藤原さんの腕と擦り合うたび、初めて、動悸に酷似した息苦しさを覚えた。
 と同時に、手の甲から汗が噴き上がる興奮と歓喜が湧きおこり、それが一気に体芯へと流れ込む感覚が走る。恋する素晴らしさ。
 しかしそれは、絶望と表裏のものであった。
 「試験前なのに、私達って外に出てるね」そう悪戯っぽく微笑み、ふたりだけの秘密の連帯を感じさせる藤原さんの隣で、自分はあの日、深く深く傷ついていた。
 この坂を登り切れば二度とない時間。確実に報われない恋。共有できない傷だけが残る。
 たまらなく好きな人、彼女の楽園にはきっと入れない……解りきったことなのに、いつまでもあのときの感情が綺麗で、自分を支え続けているのはなぜなんだろう。
 純、そりゃ初恋だからよ! ……母ならそう言うだろうか。今となっては分からない。

 晩鐘の音で思い出が途切れた。
 気がつくと、ついさっきまで感じていた寒さはなく、首筋にじっとりと汗をかいている。
 すると急に笑いがこみ上げてきた。下腹部を締め付ける動悸や明日が待ち遠しい興奮。こんな感覚が蘇るなんて、命の一大事に。
 しかし、もう一度愛しそして愛される時間は残っているのだろうか、誰か教えてほしい。
 小一時間前、うなされたようにこの寺に辿り着いたのが随分と昔に思える。
 立ち上がると妙な胸騒ぎを覚え、お堂に近づく。そして、格子の奥をそっと覗いてみた。
 そこには白木の厨子がひとつ。けれども実は、箱の中に仏はなく、母や父、そしてまだ世界の中心にいる藤原さんがこっそりといて、じっと箱の隙間からこちらを見つめている。
 そんな気がしてならなかった。

広瀬有(東京都国立市/41歳/女性/会社員)

   - 第11回応募作品