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「仏師のしずく」著者:町田さくら

 手織りの特別柔らかい布で指先まで丁寧に拭い、角度を確かめては撫でるように指股に薄い布片を差し込んでいく。直手で仏像に触れないよう左手で台座をくるみ、二尺八寸もある金剛仏は、磨き終えるまでにゆうに一刻はかかってしまう代物であった。
木片に刃を入れることすら許されていない修行中の身の上でありながら、朝夕の手入れ時には湧水でみそぎを済まさなければ堂にすら立ち入らない市(いち)助(すけ)に、師匠であり大仏師の上樂(じょうらく)は少しだけ面白そうに片眉を上げる。
「魅入られるは仏師の素質でありますれば」
 仏像を彫る職人を目指すならば磨くのも一生、そう言って、市助の気の済むようにさせてくれるのが常であった。
 四月に慶応と改元されてから早四カ月。武蔵野の風景も少しずつ変化してきた。
当世は動乱の世でもある。
新選組などと息巻く武蔵野の若者達はいったいどうなってしまうのか。
しかし当世が動乱の世であるのならばなおのこと、腕の中の白鳳仏を心より磨かねばなるまい、市助はそう決意するのであった。
「市助様、白鳳様のお手入れでござりますか」
本堂正面にひっそりと立つ鮮やかな緋色の着物を身に着けた年の頃十六、七の少女の姿を認め、市助は糸目を和らげた。
「お鈴さん、どうされました」
「もう昼九つを半刻も過ぎております。昼食をお持ちしました」
 お鈴が風呂敷包みを上げて笑む。
「これはかたじけない。昼刻の鐘の音をすっかり聞き逃しておりました。上樂様は?」
「父は先に済ませてござります」
 市助は頷き、布にくるめたまま白鳳仏を香炉脇の床に安置すると、蒸し暑い本堂を出たのであった。

 本堂を出ると八月の熱射に照らされ、市助は右手でひさしを作った。
「これは暑い。しかし不思議と空気は乾燥しておりますような」
「茅葺屋根の下はきっと涼しいでしょう」
 数十歩先にそびえる薬井門まで歩く道すがら、お鈴の抱える弁当の風呂敷を黙って引き受けるとお鈴は少しだけ嬉しがった。市助はお鈴の控え目で素直な性分が好ましかった。 
茅葺屋根の日陰に入り、二人は遠慮するように門の端に蓙(ござ)を敷いて、並んで腰掛けた。
「白鳳様の魅力はその純粋で優しいお顔立ちにござりますか?」
 昼食を忘れ手入れに没頭していた市助をからかうようにお鈴が笑う。市助も少し笑った。
「白鳳様を磨いていると心が洗われる気持ちになるのです。左手の五指からは宝珠をもたらし甘露水を降らす。あの仏さまは、まさしく衆生の希望でござりましょう?」
 お鈴が握り飯を持ったまま、すっと視線を上げた。黒目のふちに朱が走り、白目の清廉さは市助の網膜に反射する。
「鈴のことも……もっと見てくださりませ」
蜜桃のように頬を染めるお鈴は眩しくて、市助はそっと視線を逸らした。自分はもう二十二にもなるのに、お鈴の愛らしい瞳に見つめられる度にはやる心臓が恥ずかしく、身体の芯はしびれるような心地があった。
遠くを望めば多摩の松林の青々とした緑が盛夏をいろどり、左右に分かつ池中の島には祠がいくつも祀られている。
市助はふいに幼き日のことを思い出した。まだ十に満たない自分を「いち兄さま」と慕い後を追いかけてきた四つのお鈴。
もみじのような手を握り、遠くに傾く夕焼けの扇状に輝くその息を呑む美しさを。
「深大寺は真に美しき場所にござります」
「はい」
 お鈴が秀でた額を空に向けた。
その時、風が凪いだ。
直後に地鳴りのような轟音が響く。
「な、なに? ア! 熱い……ッ」
 お鈴が手を伸ばすより早く、市助はお鈴を懐にかき抱き、本能的に門を飛び出していた。
「ああ……市助様、そんな……」
 お鈴の瞳は恐怖に染まっていた。
 木々がざわめいている。鳥獣はキィキィと警戒の鳴き声を仰ぎ、堀に四方を囲まれた本堂、太子堂の方から僧侶の声が、庫裡(くり)からは女房衆や子供の悲鳴が聞こえた。
 空が夕闇にあえいでいる。
赤紫の火花を一面に散らし、灰塵が風に攫われ雪のように舞っている。
 ――深大寺は炎に包まれていた。

「あ、あ……そんな、深大寺が……」
 ひざから地面に崩れ落ちるお鈴を背で守り、吹き付ける熱波にチリチリ全身を晒されながら、市助は鋭利な刃物の切っ先で背を撫ぜられるような恐ろしさを感じていた。
(……深大寺が燃えている……)
 風の関係なのか炎が到達しない薬井門の太い柱の陰に身を隠しながらも、視線は本堂から外せなかった。なぜもどうしても混乱の渦の中。本堂は龍がとぐろを巻くように太い火柱にからめとられ燃え盛り、火の玉がまやかしのようにそこかしこで生まれては市助の頬を叩いた。熱湯に肩まで浸かったような動悸と汗が幾筋も顎先から滴り落ち、時折薬井門を吹き抜ける熱風は炎を吐く地獄の使者のように容赦がなかった。
「市助様、逃げましょう!」
 お鈴が背に片頬を押し付ける。市助は頷きかけ、動きを止めた。
(――白鳳仏が本堂に取り残されている)
 どっと鼓動が嫌なふうに高鳴った。
 いけない、あれを残してはいけない。あの仏像は衆生の希望なのだ――!
 市助はそっとお鈴を振り返った。お鈴は市助の瞳に宿る意志を悟って瞳を潤ませた。
「いや、いやでござります……行かないで」
 泣いてうつむくお鈴の頭を抱き寄せたい。――抱き寄せられない。
「希望を取り戻さなくてはなりませぬ」
「あの炎の中では無理でござります。……鈴はあなた様が大事です。白鳳様よりも」
 潤んだ瞳ですがりつくお鈴が愛しかった。
 それなのに、市助の両手はこぶしを握り、優しい言葉の一つもかけられない。
「お許しください」
そう言うと、もう振り返らなかった。
「市助さまあっ!」
 お鈴の悲痛な叫びが背を打ったまま、市助は炎の本堂に飛び込んだ。

 足を踏み入れた瞬間、猛烈な熱風と空気圧に押され、市助は一歩よろめいた。
(こ、これはひどい……)
あちこちで炎を吹き上げる本堂は、今にも崩れ落ちそうだった。どす黒い煙が充満し視界もかすんでいる。とっさに屈みこんだがわずかに煙を吸ってしまい、空咳を繰り返すと喉が焼けて痛かった。黒煙と炎に眼球が乾いてひりひりする。炎塵で腕や首に火傷を作りながら必死に周囲を見渡すが、白鳳仏の姿を見つけるのは困難を極めた。炎火は激しく燃えうねり呼吸もままならず、焦りが募り始めた頃、市助は堂の奥の香炉脇で何かが燃えていることに気がついた。
(白鳳様!)
 飛びつくように白鳳仏の元に辿りつくと、たもとの帯で素早く火種を消した。白鳳仏は災厄の中でもその穏やかな微笑を絶やしてはいなかった。市助はほっとしたのも束の間、すぐさま踵を返し、唖然となった。
「あ……」
 そこはすでに炎の海。堂は一筋の光すら通さない一面の業火に埋め尽くされていた。
 この状態は――これではもう戻れない。
 市助は腕の中の金剛仏をそっと床に下ろすと、力が抜けてその場に座り込んだ。
(私の命もここまでか――)
 燃える炎は絶望と共に今や市助の袴の裾近くまでチロチロと舌を伸ばしていた。  
(白鳳様、最後までご一緒いたしましょう)
 瞳を閉じて覚悟を決めた時、脳裏に浮かんだのはお鈴の顔だった。
 愛らしい笑顔ではない。泣き顔だ。それが最後のお鈴の表情だとは、少し寂しい。
(お鈴さん……本当は無事に戻れたらあなた様を妻にしたいと上樂様にお願いしようと思っていたのです。今度こそ抱きしめたかった)
 それも今はもう叶わない――。
 市助の頬に何かが穿たれた。
 ぽつん、ぴちゃん。
 この熱気の中ではすぐに蒸発してしまうけれど、それは炎ではない、儚い感触であった。
(なんだ……この感触はまさか、しずく?)
 天井を見上げても紅蓮が全体を覆い、水滴などどこにもついていない。それなのに、堂の中がわずかに湿気を帯び始めた気がする。
 いったいこれは……? そう思考を巡らせる間もしずくは絶え間なく降ってきた。最初は一滴だったのが、二滴、三滴と増えていく。
 そのうちに炎を打ち負かす勢いの豪雨に変わり、朽ちかけた本堂を滝のように打ち始めた。あまりの出来事にぽかんと口を開ける市助の口中にも大粒のしずくが滴り落ちる。
しずくは舌の上で溶けると甘かった。
(なんとこれは甘露のようだ!)
 驚き、市助ははっと床に鎮座する白鳳仏を振り返った。吸い寄せられるはその左手。
白鳳仏は――釈迦如来倚像は――衆生の願望に応えるもの。その左手の印相からは宝珠をもたらし、甘露水を降り注ぐ――。
市助の胸の内に奇跡と歓喜が満ち溢れた。
(――白鳳様がお助けくださった)
とめどなく涙が溢れ、またしずくとなった。

そうしてからからくも助け出された市助は、泣きながら市助の胸を叩くお鈴を今度こそ抱きしめたのであった。

町田さくら(東京都稲城市/34歳/女性/会社員)

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