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<第8回公募・選外作品紹介>「虹の向こうに」 著者:田中 範

 神代水生植物園の入り口から右手へ続く道を行くと、雑木林の間に坂が見えた。緑豊かで、最近は都市に戻りはじめたという狐や狸が住んでいてもおかしくなさそうだ。坂を登り切ると、芝生広場が目の前に現れた。弁当を広げて楽しむ人たちがいる他、写生の人たちのお目当ては蕎麦畑だろうか。その向こうで、空堀と土塁らしきものが僕を待っていた。
 深大寺城跡だ。
 一息ついて、説明板を読んだ。空堀は敵の侵入を防ぐに充分なようだったが、築城された頃は、もっと深かったらしい。扇谷上杉氏の砦として、守備力を発揮したに違いない。
 芝生広場は二の丸で、空堀から土橋を渡ったところが本丸だ。雑木林の中には、本丸をぐるりと周れる小道があった。しかし、昔は眺望抜群であったという南側方向には、それこそ狐でも住んでいそうなほどに雑木が茂っていて、視界が悪いのは残念だった。
 いったん引き返して芝生広場に腰を下ろし、ノートに書き付けたプランを確認した。
「深沙大王は縁結びの神様で、パワースポットとしても有名なんです。入場無料ですよ」
 最後の一言は余計だろうか。多分、そうだ。
「神代植物公園には、都内最大のバラ園もあります。バラの花言葉は「愛」「美」「内気な恥ずかしさ」などたくさんあるそうですね」
 こちらの方が、すこしマシかもしれない。
「内気な恥ずかしさって、僕らみたいですね」
 書き加えてみて、読み返してから、消した。思わず溜息が出た。もう少し気のきいた会話を考えなければならない。ねじり鉢巻でかかろうとしたが、何だか少し寒気がして顔を上げると、空の一部に雨雲がかかり、芝生でのんびりしていた人たちも、けげんな顔をしている。あわてたときにはもう遅く、派手な音とともに大粒の雨が降り出した。向こうの空は晴れているのに、なんてこった。
 雨宿りの場所を探して闇雲に走ると、本丸の木陰に田舎のバス停のような屋根付きベンチが見えた。こんなものあっただろうかと不思議に思ったが、雨に追われて背に腹はかえられない。うひゃあ、と声をあげて飛び込むと、薄暗い中に先客がいた。僕よりも少し年上らしき男が、驚いたような顔で僕を見た。
「天気雨ですね」
 照れ隠しに挨拶すると、静かに目礼を返された。小柄だが筋肉質で、まるでスポーツ選手のようだ。体育会系は苦手なので目を合わせないよう、ベンチの端と端に離れて座ったが、男もそれっきり僕に構わず、雨にけむる本丸跡を見ながら考えごとをする様子だった。雨のやむ気配はなく、僕はまたノートを取り出して、プランの復習をすることにした。

「あいかわらずきれいな発音ですね。僕のなんかたどたどしくて、英語になってないですよ。突然ですけど、午後は暇なので昼ごはんに行きませんか。深大寺まで行くと蕎麦が美味しいらしいです。バスに乗ればわりと近いらしいですよ。昼ごはんのあとですが、植物園はどうですか。バラがきれいらしいですよ」
 
「突然に誘うのは、よろしくない。それに、暇なので、というのもよろしくなかろう」
 驚いて隣を見ると、男がノートをのぞき込んでいた。失礼、と謝りはしたものの、顔は笑っていて、少しも申し訳なさそうでない。
「綿密な作戦を立てる方とお見受けした」
「ええ、まあ」
 怒るつもりが、素直な笑顔とへんてこな話し方に気勢をそがれ、普通に答えてしまった。
「植物園か。なにゆえ深大寺城にされんのだ」
「実は、僕は城マニアなんです。ここには前から興味があったんでデートの下見をかねて来たんですけど、女性は城なんかに興味ないですよ。植物園とか深沙大王にしておきます」
「それは残念。深大寺城はよきところだ。小さな砦だが、南北には虎口が設けられ、櫓台からの眺めもじつに素晴らしい」
 ふと、男の年齢が気になった。よく見ると、少年のようにきれいな紅い頬をしている。
「二十二歳になるのだが、いかがされた?」
 ずいぶん年下だ。勝手に緊張していた分、なんだか少しむっとしたが、許してやることにした。同じ城マニアでもあるようだし、結構面白いヤツかもしれない、と思ったのだ。
「ずいぶん詳しいね、深大寺城。マニアなんでしょ?関東の廃城だと他はどこが好き?」
「好きだからではない。ここは重要な砦なので、今日のような日は、様子を見に参るのだ」
 城マニアにも二派ある。天守閣などが目当ての派手好きと、ヤツのように廃城などを巡る、渋いタイプだ。僕も後者なので気が合いそうだ。もっと深大寺城のことを訊きたくて質問しようとしたが、ヤツにさえぎられた。
「暇なので、とは、たいへんによろしくない」
 年上に向かって、お説教を始めるつもりらしい。なんとも生意気なヤツだ。
「暇つぶしに誘われたかと思うと、人は不快を感ずる。人との交わりは、正直が良い。前もって、堂々の正攻法で行くのだ。さすれば、必ずうまくゆく。その女性を深大寺城に誘われるが良い。ここはよきところだ」
 癪にさわるが、言いたいことは分かるし、正論だ。僕はいちおう年上風を吹かせ、まあそうかもな、とうそぶいてから、質問してみた。誘い方について、もう少し参考になる意見を聞けるかもしれないと思ったのだ。
「でも、深大寺城を女子にアピールするとしたら何がベストかなあ。結構、地味だよ」
「難攻不落なところだ」
「マニアにしか受けないって、それ。えらそうに言ってるけど、お前だってそっち方面の、つまり恋愛関係の調子はどうなんだよ」
「い、いや、その。恋は、してみたかったが」
 ヤツは、それまでの落ち着きぶりが嘘のように、細い目をパチパチさせて下を向いた。結構、かわいらしいところもあるではないか。
「してみたかったって、まだ二十二歳だろう。これからさ。恋をすると人生が充実するぜ」
「いや、でも、自分勝手なことではないか」
「いい歳なんだし、彼女の一人でもいた方が周りのみんなも、親だって喜ぶと思うけどな」
「みなも喜ぶ、か。父も、母も」
 ヤツは小さくつぶやいて、顔を上げた。
「ならば恋を、恋をしてみたい」
「そうこなくちゃ。じゃあコツだけど、彼女いない歴うん十年の俺が思うには、そもそも」
 勢い込んだところを、また、さえぎられた。
「もう雨がやむ。そうすると、虹がでる」
 いつの間にかまた、陽の光が射していた。ヤツは言いながら腰を上げた。
「私が大好きな深大寺城の虹だ。美しいが、すぐに消えるのだ。行こう、急いで渡らねば」
 かわいらしい二十二歳はロマンチストでもあるらしい。こみあげてくる笑いをこらえて急ぐと、南側の木々の間から、とても美しい虹が空に弧をかけているのが見えた。そういえば僕の祖母は、天気雨のときは虹が出たり狐に化かされたりいろいろ不思議なことが起きる、と言って小学生の僕を怖がらせたものだった。まさか、と思いながらヤツの尻のあたりに目をやった。あのシャツの裾には、狐のシッポが隠れていたりするのだろうか。
 ブログにアップするためにスマホを構えたが、木で周りが暗いので露出が結構むずかしい。やっとそれらしい写真が撮れたので、見せてやろうと振り返ったが、ヤツの姿はもうどこにもなかった。挨拶もなしに帰ってしまうなんて、失礼なヤツだ。家に戻ってから確かめてみたが、せっかくの虹はほとんど写っておらず、ヤツとの出会いも含めて、やっぱりなんだか狐に化かされたような一日だった。

「来週の教室のあと、深大寺で昼ごはんですか?ぜひご一緒しましょう!ちょうど暇だったんです。あ、気を悪くしないで下さいね」
 英会話スクールで一緒のクラスになった篠田さんを、ヤツの言ったとおりに前もって堂々と誘うと、我ながら見事なまでにうまくいった。ヤツめ、なかなかやるではないか。お昼は、名物の蕎麦にした。篠田さんは美味しそうに食べ、よく笑い、おかげで話もはずんだ。良かった、今のところは大成功だ。もう一つのお誘いも、堂々と行くことにしよう。
「深大寺城跡の方へ行ってみませんか?」
 城跡なんて初めてだ、と少しとまどい気味にも見える篠田さんと雑木林の坂道を進んだ。予報では快晴だったのに、今日も晴れたり曇ったりのややこしい空模様だ。芝生広場まで来ると、少し雨の匂いがした。
「ここは戦国時代に使われたお城です」
 僕は、縄張りの特徴などというマニアな知識には踏み込まないように注意しながら、家で調べ直した深大寺城の歴史を説明した。
「上杉朝定という人が最後の城主です。朝定は、たった二十二歳で討死したのですが、父親の死で家を継いだ時は、まだ十二歳でした。戦いに明け暮れた人生だったと思いますよ」
「なんだか、かわいそうな人だったんですね」
 憂い顔の篠田さんに、ヤツが教えてくれた、とっておきの情報をプレゼントした。
「こんな天気の日は虹が見えるかも、ですよ」
「そうなんですか!私、虹って大好きなんです。ギリシャ神話に出てくる女神様は、人間の世界と天国とを、虹の橋で結んで渡ったんだそうですよ。ロマンチックなお話ですよね」
 ここで出会うロマンチストは二人目だ。思い出し笑いをこらえながら南側に進んだ時、ふいに、ヤツの言葉がよみがえった。
「行こう、急いで渡らねば」
 まさか、そんなことがあるのだろうか。ヤツは、虹の向こうの、どこへ行こうとしていたのだろう。そっとあたりを見まわしてみたが、僕らの他に、誰の姿もどこにもなかった。

 篠田さんの小さな歓声の先には、深大寺城の美しい虹があった。くっきりした弧を見せたのは一瞬で、やがて静かに、消えていった。


田中 範(東京都新宿区/43歳/男性/会社員)

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