晴れの得意日とは言ったものだ、10月10日の秋の日が快晴の空から斎場を照らしていた。何時もより小さく見える祖父の姿を私は黙って見ていた。葬儀も滞りなく終わり、丁度一ヶ月くらい過ぎて、店も平穏さを取り戻した頃、祖父が2,3日、父に任せ、旅行へ行くと言い出した。蕎麦打ちも仕込みも、今は父が行っているとは言え、味の見極めは、何時も祖父がしていた。戦後に店を出した歴史の浅い蕎麦屋にとって、味の維持が重要だとの思いが祖父にはあったのだろう。
「何処に行くんだ?まだ35日も終わってないじゃないか。」
父は、祖父の外出にこう苦言を呈した。特に反対するつもりはないが、35日の法要の直前であったことに多少不満があったのだろう。
「今行かないと間に合わないから。」
ぽつりと一言いって祖父は厨房の奥へ行ってしまった。私は、祖父が祖母の死を期に引退を考えたのではないかと勝手に思い込み、祖父のこの一言など気にせずに、
「行かせてあげればいいじゃん。店をお父さんに全て任せるなんて無かったことだし、おばあちゃんが死んだから、もうそろそろとでも思ったんじゃないの。」
などと、余計なことを言っていた。

 次の朝になって、祖父は、旅行へ行くと言うメモを残して、家からいなくなってしまった。旅行へ行ってしまったことは明らかであったが、行き先も日程も告げずに消えてしまったので、家族はそれなりに動揺した。とは言え、35日の法要の準備もあったし、店のこともあったので、帰ってきたら文句を言おうと言うことで、父の一括の元、家族会議は終わりになった。
 私は、家族会議の輪の中にいながら、全く別の事を考えていた。昨晩、非常に不思議な夢を見たのである。夢の中で私は、深大寺の池の前に立っていた。子供の時より親しんだ場所だけにそこが、深大寺の池であることはすぐに分かった。ところが、池の畔の社が無いのである。それが気になって、ふと、池を見ると大きな亀がこちらに泳いでくるのである。亀は水面より頭を持ち上げると、私の頭の中に直接話しかけてきた。
「声をかけねば恋もかなわん。お前の様な奴は自分の気持ちも良く分かっておらんだろうがの。」
と亀に言われて、何かを私は言い返そうとして目が覚めたのであった。私には、確かに気にかける異性がいる。しかし、それほど強い恋愛感情を持っているとも、自分の気持ちを伝えられない自分自身を厭になってもいなかったので、心の奥底では亀に言われた様な心理が有って、ストレスにでもなっていたのだろうかと真剣に悩んでしまったのである。

 家族中が浮き足立って、私も別のことに浮き足立って、3日が過ぎ、祖母の35日の法要を翌々日に控えた夕方、祖父は、泥だらけの靴で帰ってきた。様々にそれぞれの立場から祖父に、文句や、心配であった事などを告げたが、生返事をするばかりで、何処へ行ったの問いかけには、一言こう言った。
「奥久慈へ行って来た。」
父は、その一言を聞いただけで思い当たることでもあったのか、家族にもう失踪事件の事では、何も聞かない様に諭した。母は、嫁の立場というのがあってか、まだかなり不満顔であったが父の言葉に従った。私は、奥久慈が何処に有るかも分からず、ただ奥と地名に付くのだから紅葉のきれいな所で紅葉狩りにても行ったのだろう位に思った。祖父は、非常に疲れた様子で直ぐに床に就いてしまった。

 翌日の朝になって、祖父に宅配便が二つ届いた。送り主も祖父だったので、土産かと思い、祖父にその事を告げると、祖父は、店の開店前に、店内のレジ前の飛び石に使っている石臼を掘り出した。掘り出した後の穴の始末を父に告げ、奥でこの石臼を丁寧に洗っ
て、中央に小穴のあいた方に使い古したベルトと、荷縄ですりこぎ棒を側面に固定した。宅配便の荷を解くと蕎麦の実と籾殻を梱包材にした自然薯が入っていた。我が家の蕎麦屋は、生蕎麦であって、繋を使っていないのに自然薯とはとか、今は長野の新蕎麦の粉が店でも出しているのにと、私は変に思った。祖父は、蕎麦の実や自然薯を見ながら、嬉しそうに独り言をいった。
「この実はよく天日で干してある。良い匂いだ。天然物は細いが、やはり堀たては、泥も乾いて無くて新鮮だな。」
その言葉を聞いて、私は、祖父がなにやら素材への拘りが有った事と、靴を泥だらけにする程、入手困難で旅行に3日間歩き回った事を感じた。

 昼の営業時間も終え、昼休みなると、祖父は、父に夜の分の仕込みを任せて、石臼に向かい、蕎麦の実を製粉した。そして、ざるで外皮の粗いところを除き、さらに、菓子箱の一辺を切り落とした即席の箕で細かい外皮を器用に取り除いていた。
「昔は、もっと道具が揃っていたのに。」
と、言いながら、祖父は、この繰り返しを延々と夜遅くまで繰り返していた。
 翌朝、祖母の35日法要の当日、朝早くから、祖父は、擂り鉢で丁寧に擦り潰した自然薯を繋に蕎麦をうった。天然の物の自然薯は非常に粘度が高く、八百屋で売っている山芋とは、明らかに別物で有った。後で教えて貰ったが、自然薯はその辺で売っている山芋とは別品種で、自然薯自体山芋と呼ばれる事が昔は一般的だったとの事であった。法要も終わり、参集して貰った親類縁者にこの特製蕎麦が振る舞われた。この特製蕎麦は、蕎麦屋の子である私も初めての香りの強いもので、素朴という言葉が非常にぴったりの味だった。この時、祖父の失踪事件が話題となったが、当の本人は旅行の目的を語らず、深大寺に行くと言って席を外した。しかし、旅行目的が、材料の蕎麦の実と自然薯の入手に有ったことは、誰の目から見ても明らかだったし、席を外した事も照れ隠しであると思われた。叔母が、充分に特製蕎麦を堪能した後、奥久慈と言う単語から旅行目的の推理を披露した。
「初めての家族旅行の場所だったからね。お母さんの疎開先って聞いていたけど。だから奥久慈だったじゃないの今回の旅行先が。それに、この蕎麦の味は、疎開先だった家で頂いた蕎麦の味みたいじゃないの。お父さん、だからこの蕎麦をうちたかったんでしょう。」
言葉の最後の方には、叔母の目が少し潤んでいた。この推理に誰もが納得した。私は、父が、奥久慈の言葉で、家族をなだめた時、同じ思いが有っただろう事を思った。一同は祖父の祖母への思いの深さの様なものを感じた。

 会食も終わりに近づいて来たのに一向に帰る気配の無い祖父が気になり、私は、母に耳打ちし祖父を迎えに深大寺へ向かった。しかし、深大寺の表境内に祖父はいなかった。私は、夢の事を思い出し、池の方へ足を向けた。池の畔の社の前に祖父はいた。社には、祖父の特製蕎麦が、供えてあった。私は、祖父に家に帰る様に促し、祖父もそれに従った。帰り道で私は、叔母の蕎麦への推理を祖父に話した。すると、祖父は、天日干しの蕎麦の実が入手困難であったこと、自然薯を掘る人の家を譲って貰う様にお願いして回った事などを話してくれた。そして、
「昔は貧乏だったから、何処へも連れて行けなかったから、そんな昔の事を覚えていたんだろうな。小学校の夏休みなんて何処にもつれていかないとよく文句を言われたからな。」
と叔母の推理が正しかったことを認めた。しかし、蕎麦へのこだわりか、今日の蕎麦については、
「今日の蕎麦は、もてなしの料理で、店に出す物じゃないんだ。蕎麦屋は、蕎麦でお客に喜んで貰えばいい。でも、今日のは、婆さんの客への振る舞いだから別物だ。昔の旅行の時に連絡もしないで押しかけて、それでも最高のもてなしをしてくれた、婆さんの親戚の心遣いの真似事みたいな物だ。」
と言って、まだまだ、その域には達していないかの様に話をした。私は、その疎開先の家の人が今回、参列していないことを訪ねると、
「あの家の息子は優秀で旧制の高等学校に行って、そのまま学徒で戦死して、跡継ぎがいなくなった。今回も墓にだけには行ってきた。」
と答えた。子供のいなくなった夫婦が、自分の娘の様に祖母を思っていたであろう事は何となく理解できた。そして、家族旅行でわざわざ突然押しかけたり、それでも祖父の家族旅行で最高のもてなしをしてくれたのもその為であると思った。

 私は、夢の事もあって、あの社に何故、お供えをしたのかを祖父に尋ねた。する、祖父は、聞こえるか聞こえないかのような声で、
「あの池の亀が・・・。」
と言いかけ、思い直した様に、
「いやいや、婆さんが子供らや孫らをこの辺でお守りしてからな。」
と言い換えた。
 私は、祖父が気恥ずかしいだけでなく、この池の亀に祖母との出会いのお礼をしたくて、席を外したのだと思った。そして、意中の人に告白することを決意した。




<著者紹介>
倉嶋 秀樹(茨城県牛久市/37歳/男性/会社員)

8月31日必着で募集させて頂いておりました『深大寺恋物語』の公募を締め切らせていただきました。
ご応募いただきました方、有難うございました。
現在、応募作品の集計・選定作業を急ピッチで行っております。


受賞等に関しましては、今暫くお待ちくださいませ。

 あー、むかつく!
 都立高校の合格発表のあった日の夜だ。あいつ、何てメールしてきたと思う?
「今度の土曜、ヒマ?付き合ってよ」
 デート?
 そんなんじゃないって。あいつなんて別にどーでもいい存在だ。ただ、近所ってだけ。小学校6年間と中学3年間、たまたまずっと一緒のクラスだったけど。もっとさかのぼれば、幼稚園も同じ。そりゃ長いけど、そう、腐れ縁とかいうやつ。嫌だ、嫌だ。
「ある人にプレゼントしようと思ってるんだけど、何を贈ったらいいか分からないから、選ぶの手伝って」
 ある人?
 何それ?
 好きな子ってこと?
 いっちょまえに色気づきやがって。プレゼントだと?
「相手は誰? 同じ学年? 何組? アタシの知ってる子?」
メールであまりにしつこく訊ねたので、あいつは逆ギレした。
「誰だっていいだろ」
 誰でもよくないだろ。卒業を前にして、片想いだった子に贈るつもりだろうか。そこでアタシに助けを求めにきた。普通、そういうこと、別の女の子に頼むかよ。
「アクセサリーなんかがいいんじゃないの?
でも、アタシの意見、参考にならないよ」
「いいんだよ。お前だって一応、同じ女だろ」
 一応、は余計だろ。なんでアタシがあいつの恋の手助けをしなきゃいけないんだ。けど断ったら、やきもちを妬いているんじゃないかって思われるのが癪だから、こう返信した。
「しょうがないから付き合ってやる。その代わり、メシおごれ」
 送信してから失敗したと悟った。案の定、食い気に対して、ツッコミを入れられた。

 土曜は渋谷で待ち合わせた。近所なんだから一緒に行けば、せめて地元の調布からでもいいと思うかもしれないが、そうはいかない。クラスメートの誰かに見られでもしたら大変だ。
 よく考えてみたら、あいつと二人きりになるなんて、中学に入って初めてかも。小さい頃はよく一緒に遊んだし、よく泣かした。アタシがあいつを泣かしたっていう意味。だって、あいつ、ウジウジしているから、ついキツイこと言ったり、蹴りとか入れたくなるんだよね。ま、昔のことは水に流してって言いたいけど、今でも根に持っているんだろうな。掃除当番の時、ほうきでゴミをアタシに向かって掃いてくる嫌がらせをするくらいだから。
 モヤイの前で待っていたら、いきなり背後からダッフルコートのフードをかぶせられた。やりやがったな。せっかくの髪型が台無しじゃんか。アタシは思いっきり睨み返した。からかうようにしてあいつは覗き込んできた。
「お前って、よく見ると可愛いな」
 えっ......。
「化粧がうまいんだな。てゆうか、化粧、濃
くない?」
 余計なお世話だ。まったく頭に来る奴だ!

 春休み前なのに、渋谷は賑やかだった。いつもそうなんだろう。マルキューへ入ろうとして、あいつは躊躇した。恥ずかしいのだ。実はアタシもマルキューは初めて。でも、女の子の定番といえばココでしょ......たぶん。
 あいつはいちいち意見を訊いてくるのだが、アタシの反応がイマイチだったからだろう、なかなか選べずにいた。はっきり言って、アタシ、あんまり興味ないんだよね、アクセサリーとかって。
 スペイン坂でも決められず、あいつは原宿へ行こうと言い出した。アタシはお腹が空いて、仕方がなかった。しかし、乙女としては口が裂けても言えない。か弱いフリしてみた。
「アタシ、もう歩けない」
「なんだ、もう腹減ったのか」
 なんでズバリ言い当てるんだ。あいつは懐石料理なんて年寄りくさい、失礼、高級そうなお店へ入ろうとした。あいつなりのサービスのつもりだったのだろうけど、アタシは慌ててマックでいいと引き止めた。プライドが許さないのか、イタめし屋になったんだけど。
「お前、北高に決めたんだろ」
「近所だからね。ぎりぎりまで寝ていられるし。それにしても、またあんたと一緒だよ」
「俺、私立へ行くことにしたんだ」
 初耳だった。合格発表の時、お互いの受験番号を見つけて喜んだのに。
「残念だな。からかう相手がいなくなって」
「こっちだって、もうこんな厄介なことに巻き込まれなくて済むと思うと、せいせいする」
 そっか......別れ別れになっちゃうのか。そうしたら、あいつは言った。
「別に永遠の別れってわけじゃないしな」

 昼飯後、再びあいつは買い物の続きをした。
アタシはうわの空だったので、あいつが怒っていることに気づかなかった。
「どっちがいいか、決めろよ」
 アタシはキレた。
「なんで、アタシが決めなきゃいけないのよ。アタシは関係ないでしょ!」
 アタシはお店の前で、お客や通行人が見ているのも構わず怒鳴り散らしていた。
「第一、プレゼントする前に、相手に気持ち伝えたらどうなの!」
「できるわけねえだろ」
「どして?」
「......いいんだよ。ただ、俺のこと、ちょっとでも覚えてくれていたらと思って」
「分かんない。全然、分かんない」
「分かってたまるか」
「女の子はモノより気持ちの方がずっとずっと嬉しいの!」
 いきなり周囲から拍手が起こった。ギャラリーの野次馬たちが一斉に手を叩いていた。アタシは顔から火が噴き出るような思いで、一目散に逃げ出した。走って、走って、走った。が、その腕を掴まれた。あいつだった。あいつの握りしめる力は強く痛かった。
「悪かったよ。お前にこんなこと頼んじゃって。もう帰ろう」
 アタシは何も言えなかった。

 調布の駅に着くまでアタシたちはずっと無言だった。改札を出て、バスで帰ろうと思っていたアタシに、あいつは自分のチャリンコの荷台を示した。いつもなら、憎まれ口でも叩いて何か言い返すアタシだが、おとなしく従った。でも、やっぱりアタシはアタシ。二人乗りったって、普通の乗り方じゃない。後ろ向きだ。
「女らしく横坐りしろとは言わないけど、フツー、そんな乗り方するか?」
「だって、疲れたから、背もたれがほしい」
 アタシはあいつの背中に寄りかかった。
「それとも、腰に手を回してほしかった?」
「バ〜カ」
 あいつは御塔坂をいっきに駆け上ろうとした。アタシはバランスを崩し、荷台から飛び降りた。あわやひっくり返るところだった。
「それがレディに対する仕打ち?」
「だから、ちゃんと坐れって言っただろ」
 しょうがなくチャリンコを押して、アタシたちは歩いた。
「このまままっすぐ行くと北高だな」
「あんたはこの道を下って、通学するんだね。アタシと正反対」
 深大寺入口の信号まで来た時、気づいた。
「ねえ、ちょっと寄っていこうよ」

 深大寺はちょうどだるま市で、屋台の並ぶ境内はものすごい数の人と威勢のいい声で熱気に包まれていた。アタシはもみくちゃにされ、あいつの姿を見失った。見回してもどこにもいない。焦った。そして、心細くなった。思わずあいつの名前を叫んでいた。するといきなり、目の前にチョコバナナとあんず飴とタコ焼きが差し出された。あいつはアタシの気持ちなんか知らずに抜かしやがった。
「そろそろエサの時間だと思って。あれ、食べないのか?」
 もちろん食べるさ。現金な奴だ、アタシは。
「だるまは買わないの?」
「受験が終わったら、必要ねえよ」
「恋愛成就祈願ってのもあるよ」
 アタシの目に入ってきたのは、ピンクとブルーの小さなだるまのセットだった。
「これ、これ、これにしなよ、プレゼント」
「こんなのが? この色、気持ち悪いぞ」
「カワイイじゃん。絶対、いいって。ピンクのだるま、もらったらきっと嬉しいよ」
「そうかな......」
 気乗りしないあいつを見て、アタシは気づいた。これはアタシがもらうんじゃない。
「そうだね......アタシはカワイイと思っても、その子は気に入らないかも......」
 アタシとあいつは植物公園の前で別れた。
「じゃあね」
「じゃあな」
 いつもと同じ挨拶。でも、これが最後の挨拶かもしれない。

 家に帰ると、アタシはぐったりとベッドに倒れ込んだ。
「痛ッ」
 首の付け根に何か当たった。ダッフルコートのフードの中だ。また、あいつの悪戯か?「......!」
 アタシはそれを手にしたまま、じっと見つめていた。何だよ、あいつ。何なんだよ、あいつ。アタシは怒っているのに、笑顔を作り、しかも涙までこぼしていた。忙しいやつだ。
 アタシの手の中にあるのは、小さなピンクのだるま。





<著者紹介>
高橋 祐太(東京都調布市/34歳/男性/脚本家)

 新緑の深大寺は、木漏れ日が溢れ、流れる水も輝いて、眩しいばかりだった。打ち水された石畳までが春を喜ぶようで、行き交う人の足もとも軽やかだ。門前に並ぶ店からは、茹で上がったばかりの蕎麦の香りがこぼれ出し、舌鼓を打つ人々のざわめきが聞こえる。こんな佇まいが、深大寺の魅力の一つと言えるだろう。
 爽やかなせせらぎに乗って、今、僕の傍らを五月の風が通り過ぎていく。

「おや、可愛い赤ちゃんだな。」
 お母さんがニコニコと赤ちゃんをあやしている。今は母となったこの娘のことを、僕はよく知っていた。もちろん、この赤ちゃんのお父さんのことも忘れられない。ほぉら、現れたよ。面影はそのままだ。この二人の間にできた赤ちゃんだったとはね。時の流れるのは早いものだ。まるでさっき通り過ぎていった風のように感じられる。
 この二人を初めて僕が見たのは、あれはもう十年も前のことだろうか。まだ二人とも幼い感じの学生だった。いつもこの石畳を歩いて...。そう、手も繋がずに歩いて、門前の石段を登って行った。
 あれは何度目のことだっただろう。寒い冬の日だった。うっすらと雪が積もっていた。夕暮れは早く、小百合ちゃんは寒そうにじっと待っていた。ときどき足踏みをしながら。僕は彼女に尋ねた。
「そんなところで立っていたら、足も手も冷たかろう。」
 小百合ちゃんは言った。
「ちっとも寒くはないの。だって待っていることが嬉しいんだもの。」
 僕はなるほどと思った。彼女はきっと寒くはないのだ。そう思ったのは、僕を見つめる小百合ちゃんの瞳が輝いていたからだ。彼女はそのきらきら輝く瞳で僕を見つめながらおしゃべりを始めた。
「もうすぐ私ね、彼と結婚するの。きっとすてきな家庭を作れると思うわ。」
 僕にもそんな気がして、彼女の報告がとても嬉しかった。うなずいて聞いている僕に、小百合ちゃんは彼のことを話しだした。
「彼ってね。ほんとは、とっても気が小さいの。優しいくせに強がりを言うし、私には偉そうにいばったようなことも言うのよ。でも、私はそんなところも全部好き。どうして好きだかわからないくらいに、そんな彼のことがみぃんな大好きなの。」
「あはは。そうかい。そうかい。」
 僕は、『そんな男はやめちまえ。』なんてことは、心に思っても言い出さなかったさ。父親のような心境だったのかもしれないな。それに、誰でも男にはそんなところがあるからね。僕だって強がってばかりいるけれど、一番傍にいてくれる人には、なんでもかんでも預けてしまいたくなる。そんな気持ちがあるしね。一緒になる前に、男のそういう弱い部分もちゃんと受け止めているんだから、きっと幸せになるだろう。そう思ってニコニコと聞いていたよ。
「ほら、政人君のお出ましだ。」
 僕の声も耳に入らないかのように、小百合ちゃんは彼の元へ駆けて行った。そして、まるでじゃれつく子犬みたいに政人君の腕にしがみつき、そして彼を見つめた。意地の悪い北風もたまにはいいことをするものさ。二人が真っ直ぐ見つめ合ったそのとき、彼女の背中をピューっと思い切り押したんだ。「時が止まる」ってことを知っているかな?
 言葉だけならみんな知っているだろう。でも、ほんとに時間は止まったり速くなったりするんだよ。まったく天の時というのも粋な計らいをするものさ。周りのみんながじっと息を詰めて、二人の時間を止めた。小百合ちゃんは政人君の胸の中へふんわり倒れこむと、冷たくなった頬を赤らめながら、そっと彼を見上げていた。きっと彼女は、彼の胸の中を蒲団のように暖かく気持ちがいいと思ったことだろう。その証拠に、彼女はうっとりとして目を瞑ってしまった。政人君はちょっとどぎまぎしていた。小百合ちゃんの可愛い唇がすぐ目の前にあるのだからね。彼は身じろぎもせず、目だけで天を仰いでいる。さっきまでの夕暮れはもう夜の闇に取って代わられていた。一瞬、政人君がきょろきょろと首を回した。僕はもう北風と笑っていたよ。さあ早く。時が動き出す前に、さあ早く。君の愛した可愛い彼女に、君の唇で気持ちを伝えなさい。おせっかいな夜の帳もざわめきだした。
「こんなときは本当にじれったい。」
 気の短い北風がそんなことを呟いた。誰もがじっと息を詰めて二人を見守っている。
 そのときだった。二人の周りがピンクに染まって燃えている。僕はこんな景色を何度も見てきていた。北風もほっとしたように見つめていたよ。二人を包むピンクの炎。こんな素敵な景色は他にはないだろう。誰の目にも映らない二人だけの時間が、二人の中だけに流れている。話し声が聞こえるようだ。
「あなたを愛してるわ。大好きなの。」
「ぼくも君が大好きだよ。誰よりも愛しているよ。」
 二人の心の声が、ピンクの炎の中で燃えている。そっと二人が体を起こして見つめ合った瞬間、そうさ、時間が流れ出した。息を詰めて時間を止めていたさまざまな精霊たちも、一瞬にして姿を消した。きっとみんなほっとしたことだろうよ。北風ももうひと働きしてくると僕に告げて、飛び立っていった。小百合ちゃんは微笑んでいた。政人君も照れたように微笑んでいた。二人は僕の前をゆっくり手を繋いで歩いていった。彼の右手には彼女の左手がしっかりと握られ、その手は彼の大きなポケットの中に入っていた。
 あの二人が今はもう父親と母親になったなんてね。これからきっとあの新しい命の塊みたいな赤ん坊に、二人の気持ちをいっぱい伝えて育ててくれることだろう。二人と小さな一人を見送りながら、そんなことを僕は思っていた。

「よっこらしょ。」
 誰かと思えば、もう何百回となく僕にその言葉を聞かせてきた女性の姿がそこにはあった。足も腰もひどく重そうだ。あぁ...。もちろん早苗さんのことも僕は知っている。もう五十年以上になるのだろうか。彼女の周りの時間は今はもうゆっくりゆっくりと進んでいる。早苗さんもそれをわかっているようだ。穏やかな瞳でこの深大寺を見つめてきた一人だった。
 早苗さんがこの深大寺の中でも有名な蕎麦屋に嫁いできたのは、深大寺が紅葉で染まる季節だった。若い嫁として店を手伝い、そしてやがて子どもができると背中に背負い、緑豊かな深大寺の境内を子どもたちは駆け回り大きくなった。豊かな水に支えられたこの深大寺で一生を送ってきた彼女の瞳は、僕と同じようにこの地を愛してやまない瞳に見える。「よっこらしょ」という言葉が早苗さんの口から出るようになったのは、彼女の夫が亡くなってからだった。僕ははっきりと思い出す。彼女が僕の傍に駆けてきて、声を殺して泣いていた夜のことを。人はいつかは死を迎える。そして、長い人生を共に歩くということもたやすいことではない。それだからこそ彼女は、この深大寺に嫁いだ日からのことを振り返って、現実となった別れに涙を流したのだろう。

「よっこらしょ」と言う口癖は変わりなかったが、早苗さんは微笑んで僕を見つめていた。そっと僕に触れると、懐かしい気持ちがその手のひらから流れ込んでくる。彼女の心の中に、今は何かしら暖かな想いが育まれているようだ。僕は早苗さんに尋ねた。
「何かいいことでもあったのかい?」
 彼女はふっと笑って黙った。けれど僕には彼女が幸せな気持ちに浸っているのがはっきりわかった。見つめる彼女の瞳はただ優しくて、僕は穏やかな幸せな気持ちを分けてもらっているような気分になっていた。
 きゃっきゃと走り回る子どもたちからは、溢れるようなエネルギーを与えられる。こうして年老いた彼女からは、今まさに深い慈愛のような心地よさを与えられていた。空にも風にもそれぞれに役割があるように、赤ん坊にも、子どもたちにも、若い男女にも、そして年老いた人々にもその役割がある。この地球上のすべてのものたちは、互いに連動し合いかかわり合って、そのエネルギーを交換し合っているのだろう。
 早苗さんは僕をゆっくりと擦った。その手は痛みを知った尊い手だった。
「よっこらしょ。」
 彼女はもう一度そういって立ち上がると、ゆっくりと彼女の方へ近づいてくる老人に会釈をした。言葉を交わすわけでもない。ただ眩しいばかりの生まれたての若葉を二人で眺めている。そのとき僕には見えた。蜻蛉のようにうっすらと二人を包むピンクの炎が...。足も腰も支えるのが精一杯のはずなのに、今二人の心は軽やかに青空を駆けている。

 爽やかな五月の風が花びらを揺らした。二人が僕の花びらを見つめながらこう囁いたのが聞こえた。

「今年も綺麗に咲きましたね。」
「あぁ、ほんとうに綺麗な、そして不思議な花だね。このなんじゃもんじゃの花は...。」



<著者紹介>
長沼 直(東京都練馬区/44歳/女性/主婦)

 このところ、携帯電話を握っている時間が確実に増えた。誰かからの連絡を待つ時間が増えたということだ。それは、楽しくもあり、息苦しくもある時間だった。
 麻衣は携帯の液晶画面をちらっと確認して、小さくため息をついた。翼からのメールはない。二つ折りにパチンと閉じる音が妙に大きく聞こえた。携帯をテーブルの脇に置き、お茶でも飲もうと冷蔵庫を開けに立ったとき、ブーンと振動音。麻衣はぱっと携帯を開き、メールを確認した。翼からのメールだった。そういうちょっとズレたタイミングだ。小さな落胆のあと、それを振り切って、諦めがついたころ。 それでも嬉しくてメールを読んで返事を打つ間、麻衣は顔にうっすら微笑みを浮かべている。送信して、携帯を閉じる。また翼からの返事を待つ時間。
 今、二人を繋いでいるのは携帯電話だけ。麻衣のもとから350キロ離れた東京三鷹に、翼は暮らしている。
 毎日ゆるやかに続く、翼からのメールに一喜一憂。不安になったり心配になったり、嬉しくなったり笑ったり、どうしようもなく会いたくなったり。そうして自分がメールに振り回されていると思うと苛立ちもしたが、翼とのやりとりでは許せてしまう。それはたぶん離れているからだ、と麻衣は思う。離れている自分たちを繋ぐものは、この携帯電話のメールしかない。そう気づいたとき、麻衣は翼にこう伝えた。

すぐに返事できるかわからないけど、いつでもメールしてね。

けれど、途切れることなく送受信を繰り返していると、 麻衣はときどきわからなくなる。自分はいったい何と繋がっているのだろう、向き合っているのは、この小さな機械じゃないか、と。翼との繋がりを確かめたくて、翼の気持ちを確かめたくて、麻衣はついつい挑発的な言葉を選んでしまうことがある。そしていつも後悔する。

怒った?
なんで?むしろニヤけた。
わざと言ったから。うーん、試した。
試す?そんなことしなくていいよ。...

翼は、麻衣のほうが恥ずかしくなってしまうような甘い言葉で、麻衣の不安をくるっと包んでしまう。翼の腕の中にいるみたい、そう感じると安心して、素直に「ごめんね」と言える。メールは表情が見えないぶん、本当に怒っているのか、冗談なのかわからない。
返事を待つ間の後悔と不安、怖いくらいだった。もうあんな気持ちにはなりたくない。試さなくてもいいという、翼のまっすぐな気持ちを信じよう、と麻衣は思った。
日差しと湿気で空気が重みを増し、夏の気配を感じるころ、麻衣は友人の部屋で妙なものを見つけた。目玉おやじの棒付きキャンディ、ブルーベリー味。
「有加ちゃん!これなに?」
「ああ、それ意外においしんだよ。食べてみて?ちょっと途中気持ち悪いけど。見た目が」
「目玉の親父?」
 有加はニコニコして「そうだよー」と言う。
「ちっちゃいころから好きなんだよねー、鬼太郎。なんか懐かしくてかわいくて買っちゃった」
 竹串に刺さった目玉の飴を有加は麻衣に手渡して、自分も一つほおばった。
「かわいい...わ。かわいいような、きもちわるいような。キモチワルカワイイ」
 そう言って麻衣も目玉を口に入れた。ほわん、と甘い匂い。懐かしいような、優しいような。
「うん、私も好きだったよ、鬼太郎。テレビ欠かさず見てた。妖怪の学校行きたかった」「行きたかった行きたかった。試験ないの、いいなあって」
「そう!むしろ夜中迎えに来てってかんじ」
 目玉の飴をなめながら、二人は声をたてて笑う。有加は、そういえばと甘い息で言った。「調布の深大寺ってところに鬼太郎茶屋っていうのがあるらしいんだけど、麻衣知ってる?」
 一瞬息が止まったかもしれない。麻衣は自分の身体がきゅっと固まるのを感じた。ゆっくりまばたきをしてから問い直す。
「どこだって?」
「調布。深大寺」
 聞き覚えがあった。随分前に翼が話してくれたはずだ。お祭りの話だったっけ?

  ねえ、翼の家の近くに鬼太郎茶屋があるってホント?
  ああ、深大寺のところでしょ?
  行ってみたい。
  じゃあ今度行ってみようか。深大寺は近いしよく行くよ。東京っぽくなくていい味だしてる感じが好きなんだ。麻衣にも見せたい。
  楽しみにしてる!

 雨が降っていた。
 麻衣は翼が運転する車の助手席で、左手に広がる森を見ていた。
「あのさ、次の信号左に曲がったら、深大寺の前なんだけど、俺が地元で一番好きな道なんだ」
 車はゆっくり左折した。
「うわ、すごい。木のトンネルだぁ」
 翼が車の速度を落す。麻衣は身を乗り出した。よく見ると両側の木は桜だとわかる。
「春とか...すごい綺麗なんだろうな」
「うん、みんなここで20キロくらいに速度落としてゆっくり運転するから渋滞しちゃうんだよね」
そう言って笑う翼の隣で麻衣は「今私、好きな人の好きな場所に一緒にいるんだなぁ」と思い、なんだか息が詰まるくらい、いとおしい気持ちでいっぱいになった。
車を蕎麦屋さんの駐車場に止めさせてもらい、翼は蕎麦屋さんに声をかけに行った。麻衣は傘をさし、翼が来るのを待った。透明なビニール傘越しに木々の枝葉を見上げると、大粒の雫がぽたんぽたんと傘をたたく。
「お待たせ」
「...すごいね。トトロの森みたいだね。このバス停でずっと待ってたら、猫バスが本当に来そう」
「んん、言われてみれば。今まで気にしたことなかったけど、そうかも」
 少しサビのついた停留所看板は、バス停ではなくタクシー乗り場と書いてあった。
「あそこの蕎麦屋のおかみさんが言ってたけど、今日は月曜日で植物園が休みだからほとんどの店もお休みだって。鬼太郎茶屋も休みかも」
 石畳の参道に差しかかったころ、翼が言った。
「ホントだ。閉まってるわ」
 すぐ左側に一目でそれとわかる鬼太郎茶屋があった。
「麻衣、上、上!」
 見上げた木の上に「鬼太郎の家がある!」と麻衣がはしゃぐ。それを見た翼も「この車、ぬりかべだし」と笑う。
「見て、庭にもいっぱい。ぬらりひょんまでいる!ああ今度は絶対、絶対月曜以外の日に来る!」
 ひっそりした参道に二人の笑い声が跳ねている。
 参道を進む間、翼は麻衣に話し続けていた。
「店が開いてるとね、お祭りみたいなかんじなんだ」とか「この裏の植物園、小さいころおじいちゃんとよく行ったなぁ、自転車で」とか「初詣は毎年ここって決まってるんだ」とか。そして山門の前で、ゆっくり石段を上ってくる麻衣を振り返って言った。
「蛇の目傘あったらなぁ。ビニ傘じゃちょっとなぁ...」
「浴衣に蛇の目が似合う風情?」
 麻衣は少し傘を持ち上げて笑った。
 山門の草葺屋根は、空からまっすぐ落ちてくる雨を吸い込んで、またまっすぐに雨垂れを落としている。麻衣は先に歩く翼の背中に話かける。「でもビニ傘は味気ないけど、透明だから景色がちゃんと見えるよ」普段は見ることができない翼の背中も。
境内は凛とした静けさに包まれて、その中にあるのは雨の音と二人の足音だけだった。翼の穏やかな顔の表情や声色は、深大寺の空気に溶け込んでしまっているようだと麻衣は思う。翼はきっと、この社がいつできたとか、この石はいつからここにあるとか、いちいち考えないのだろう。翼にとってそれはこの場所に当たり前にあるものとして、身体の一部に含まれているように馴染んでいるのだろう。
そう思うと、今深大寺に来ていることは麻衣にとって翼をもっと近くに感じることと同じだ。
「ここって恋愛成就のお寺なんだって」
「そうなんだ」
「最近知ったんだけどね。小さいころから来てるのに」
そう言って翼は笑う。
「...なんか、小さいころから馴染みのある景色の中に麻衣がいるって、変な感じ」
翼と、見上げた麻衣の視線が絡む。
「だけど、すごくいい」
翼があまりにも嬉しそうな顔をするので、麻衣は翼の手をぎゅうっと握る。自分も翼の中の一部になってしまいたいというように。
境内を背に、赤い橋と石橋が二つの社の浮島を結ぶ池に出る。紫陽花が池の端を飾っていた。静かに、大きく。池に手を伸ばしている木々たちも、しっとりと雨の雫に濡れていた。翼が呟く。
「雨もいいもんだね。なんだか綺麗だ」
「雨も好きになった?」
「うん」
今この景色を二人で並んで見ていること、今日翼と一緒にこの雨の日を好きだと思うこと、それが嬉しくて麻衣は翼に寄り添った。メールのときのように実体があやふやになったりしない。
あなたが隣にいて話す。あなたの声が聞こえる。手をつなぐ。あなたが温かい人だとわかる。ぎゅっと力をこめる。あなたが握り返してくれる。私たち、ちゃんと繋がってる。お互いの手で。離れていても大丈夫。きっと私、この手の感触を覚えている。思い出せる。麻衣は祈るような気持ちで目を閉じた。翼の手のぬくもりを、力強さを確かめながら。




<著者紹介>
佐藤 里奈(愛知県名古屋市/23歳/女性/アルバイト)

 薫には、まさかの失恋だった。和樹が友達の奈穂と自分と二股をかけていたなどとは思いもよらなかった。
 均整のとれたプロポーションとキュートな小顔を持つ薫にいい寄る男は何人もいた。和樹に絞ったのは、薫好みの繊細な容姿が大きな魅力だったが、それ以上に二十五歳だった薫が結婚を真剣に考える年齢だと自覚したからであった。
 それなのに、当時あれほど結婚しようと迫っていた和樹は、二年経っても結婚を具体化する気配がなく、逆に一週間前に「実は奈穂と付き合っているんだ。ごめん」と今日の深大寺行きを断ってきたのだ。
 傷心からか体がだるいし熱っぽい。何もしたくないけど、何かをせずにいられない。のろのろと立ち上がると、予定通りホームページに載せる写真を撮りに深大寺に向かった。 神代植物園の門を入ると広大な自然が目の前に広がっている。薫は花木の写真を撮りながらハナミズキ園に来た。木を見上げると葉の隙間に赤い実がなっている。薫はデジカメを構えた。
 その時、背後でシャッターの音がした。振り返ると、三十過ぎの赤のアロハに茶のジャケット、ジーンズ姿のがっちりとした体躯の男が、一眼レフのカメラを覗いている。撮り終えた男は、薫の視線に気が付いたらしく照れたような笑みを浮かべた。
 ださいのは服装のセンスだけでない。顔つきもギョロ目に大きな口、色黒の見るからに暑苦しい顔をしている。薫は思わず目を逸らした。
 男を無視して歩き始めると、男は親しげに話しながらついてくる。
「あの木、ハナミズキっていうんですよね」
男の馴れ馴れしさに警戒しながら、
「そうです。ホームページにハナミズキの紅葉を載せようと思ったのだけど、ちょっと早かったみたい」と素っ気なく答えた。
「えっ、ホームページ持っているの? 見たいなあ。ね、アドレス教えてくれない?」
薫は口が滑ったと後悔した。それが表情に現れたのか、男は慌てて付け加えた。
「あ、僕、怪しい者じゃないです」
 男はポケットをまさぐって探しあてた名刺を薫に差し出した。名前は木原ひろし、A広告代理店のコピーライターとある。薫が仕方なくパソコンで作った名刺を出すと、木原と名乗る男は「薫さんですか。よろしく」と押し戴くようにしてポケットにしまい込んだ。 植物園の出入り口にあたる深大寺門を出ると石畳の坂道がある。坂の途中にある門から境内に入ると、木原もついてきた。和樹のようなハンサムな男、とまでの欲は言わないが、人一倍面食いの薫は木原と肩を並べて歩くのが厭だった。だが、木原はまるで薫と旧知のような親しさで寄り添ってくる。
 深大寺の御堂をカメラにおさめた木原は、「縁結びの神様らしいですよ」と言って賽銭を投げ入れると手を合わせた。
「へえーそうなんだ。じゃ、私も祈ろっと」薫は慌てて硬貨を賽銭箱に入れると、和樹が戻って来ますように、と長〜い時間を掛けて祈った。

 あれから一週間が過ぎた。木原は頻繁にメールを送ってくるようになった。木原のメールには人を惹きつける魅力がある。しかし、読み終えると木原のことはどこかに追いやられ、いつの間にか和樹のことを考えている。
 最近、薫は体に異常を感じていた。疲れやすく、息切れや動悸もする。顔面蒼白の娘を心配した母は強引に病院に連れて行った。
 血液検査と悲鳴をあげそうな痛い骨髄穿刺の検査で「再生不良性貧血」だとわかった。 医師は厄介な病気だが、軽症なので、まず蛋白同化ステロイド薬の投与で様子をみましょう、と言った。
 ネットで病名を検索した薫は、病気が難病だと知った。進む道もない、掴む所もない宇宙にいきなり放り出されたような気がする。
 終日、ベッドに横たわっていると、健康な時は意識さえしなかった他愛のない事が、あれもこれもまだやっていないと大きくクローズアップされてくる。
 こんな時、和樹がいてくれたらどんなに心強いだろう。携帯電話を手にとって保存してある涼しげな顔の和樹の写真を眺めた。奈穂が独占しているのだと思うと悔しくてたまらない。
 涙が溢れてきて目をしばたたいた時、携帯のバイブ音が鳴った。見ると薫の病気を知らない木原から能天気なメールがきている。
 薫はふと木原に病状を知らせたい衝動に駆られた。メールを送信すると、一分も経たないうちに返事が来た。気が動転しているのか珍しく誤字脱字のひどい文だ。木原は無神経なメールを謝り、病気を知らせてくれなかったことを詰っている。そんな木原のメールを和樹からのメールに置き換えてみた。すると幸せな気分になってきた。薫は木原に返事を書いた。
「病気って、未来を覆い隠して絶望的な心境に追い込むよね。これって結構残酷。いっそ狂って何もがわからなくなるといいな。そうしたら楽になれるかも。副作用もひどいし」 木原から直ぐに返事が来た。
「あのさ、提案。辛い時、独りじゃないと声に出して言ってごらんよ。元気が出ると思う。それから副作用があると書いてあったけど、どんな症状なの? 僕に何かできる?」
 そんなこと訊ねられても、副作用で髭が濃くなり声も太い男性化が進んでいるとは言えるはずがない。私はプライドが高い女なのだ。
 返事を書きあぐねていると携帯が鳴った。
 驚いたことに電話は和樹からで、菜穂と別れたからデートしないかとの誘いだった。病気だと告げると、見舞いに行くよと言う。優しい言葉にホロリとなって副作用で顔がひどいことを打ち明けてしまった。すると和樹は、じゃ無理だな。元気になったら会おうぜ、とそそくさと電話を切った。切れた携帯から流れるプープー音を聞きながら、和樹への熱い想いが急速に冷めていくのを感じていた。
 それからの薫は不安と空虚さを紛らわすかのように木原と電話で話すようになった。気が付くと薫ひとりが喋っている。木原は話をじっくりと聞き、適切な相槌を打ってくる。 ある日、木原が、「気分のいい日があったら、深大寺に行ってみない?」と言った。外の空気を吸わせてやろうとする木原の好意だったに違いない。しかし、気が付くと薫はヒステリックに叫んでいた。
「木原さんなんか大嫌い。副作用のこんなひどい顔で外を歩けると思うの?こんな顔を見られるなら死んだ方がましだわ」
 木原は答えず、しばし沈黙の時が流れた。それから諭すように静かな口調で言った。
「顔が醜くなったから死にたいなんて贅沢だなあ。僕なんか生まれつきこの顔なんだからね。ひどいって言っても僕よりずっとましだと思うよ。それに薬をやめれば元に戻るしさ。僕がいう資格はないけれど、顔なんか問題ないんじゃないのかなあ」
 薫ははっとした。僕がいう資格......木原の言葉は、実を知らないでスープの上澄みだけの世界で生きてきた薫の傲慢さを突いていた。

 桜にはまだ早い三月の中旬、木原が車で迎えに来た。都会の喧騒から離れた深大寺界隈は昔懐かしい雰囲気を漂わせている。
「あれを見てごらんよ」
 木原が指差す方を見ると、蕎麦屋の前に緋毛氈を敷いた縁台がある。ほかの店の前には休憩用の椅子が置いてある。
「深大寺の蕎麦屋っていいよな。さりげない温かさ。ね、そう思わない? 蕎麦がうまいのは蕎麦そのものと、うまいと感じさせる心配りじゃないかな。お参りを済ませたら蕎麦を食って土産物店を覗こうね」
 薫は頷いて周囲を見た。すると店も景色も、そして漂う風にさえほのぼのとしたものを感じる。
 寺ヘは石段を避けて坂道から行くことにした。坂の勾配は緩やかだが、病身の薫にはこたえる。すばやく察知した木原は、「おんぶしようか」と言った。薫は「いやよ。恥ずかしいわ」と首を強く横に振った。「恥ずかしがることなんかないよ」そういうと薫の前にしゃがんだ。「早く」と急かされて、厚い背中に体を預けた。木原の背中に顔を凭せかけると、日光をいっぱいに吸収したような陽の匂いがする。安心して身をゆだねることができる大きな背中である。
「重いでしょ」「軽すぎるよ」彼の声は涙声に聞こえる。
薫は、親鳥の愛情を一身に受けている雛鳥のように甘やいだ気分になった。
「私、死にたくない。木原さんといつまでも一緒にいたい」と木原の後ろ耳に囁いた。
「僕は薫さんが好きだよ。君のぬくもりを背に感じている僕は、世界一幸せ者だね。僕は薫さんのために生きる。だから僕のために生きて欲しい。初めてハナミズキの下で君を見た時、顔が真っ青なので驚いた。心配で後を付いて行ったんだ。君は突っ張っていたけど、それが僕にはすっごく可愛く見えた。白状するとね、あの時、深大寺で薫さんと交際できるように祈ったんだ」
 語尾は聴き取れないくらいの小声だった。
「そうだったの。真っ暗な宇宙を彷徨っていたみたいだったけど、木原さんにおんぶされて、やっと安らげる場所にたどり着けたって感じ。木原さんの背中って大きくて好き」
 木原は背中の薫を揺すった。
「僕におぶさっていればいい。薫さんの苦しみや悲しみを全部背負っていくからね」
 薫は木原の背中に顔を埋めて泣きじゃくった。
 二人が深大寺の前に立ち手を合わせた時、薫は木原と思いが重なるのを感じていた。




<著者紹介>
野末 ひな子(東京都杉並区/女性/主婦)

 何を隠そう私の彼は亀だ。
 別に甲羅があるわけではなし、のそのそ歩くわけでもない。苗字にも名前にも「亀」が入っている訳でもないし、持ち物全てに亀のエンブレムが入っているとか、家紋が亀の模様だとか、水の匂いがするとか、そんな事もない。
「俺、実は亀なんだ」
彼は昨日の夜、ビールを飲みながら言った。
それは「俺、明日仕事なんだ」というようにとても日常に溶け込んでいて、私はびっくりもしなかったし、泣いたりもしなかった。なぜかそれはそれでいいような気がした。
「そうなんだ」と私。
「びっくりしないの?」
彼は新しい缶ビールを開けながら言った。
びっくりしなかったけど、こういう時には何か聞いてあげた方がいいような気がしたので「じゃあ証拠は?」と聞いた。
彼は首から下げた鼈甲のペンダントを見せてくれた。
「親父の形見だよ、昨日送られて来たんだ」と彼。
その鼈甲は濃い琥珀色で子供の頃に食べた美しい等軸晶系の飴のようでとても懐かしい感じがした。
「親父はまだ生きてるんだけどね。でも親父が形見って言うから形見なんだ、きっと」
彼はキムチを一つまみ食べてビールを飲んだ。
「僕は明日、約束があるんだ」
私もキムチを食べた。
「それは慎吾として?亀として?」
彼はグラスに注いだビールが泡だらけになって慌てて口を付けた。
「まぁどっちかと言えば亀の方かな」
「ふうん」
私もビールを飲んだ。

 慎吾は畳に横になってサッカー中継を見ている。日本代表がWカップ出場を賭けて闘っていた。
「日本の亀は歴史上でも活躍しているんだ」
慎吾の背中が語る。
「浦島太郎の亀は僕の遠い親戚の正広さんだし、うさぎと亀のあの亀は、吾郎さんと言って僕のヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイヒイぐらいのお爺さんなんだ」
「へぇ、慎吾の家って凄いんだね」
「亀ってとても鈍い感じがするけど実はそうじゃないんだ。鈍いのはどっちかというと外国の亀で、日本の亀は働き者で、いや、働き亀で、教訓やなんかもいっぱい残してるんだ。全部、亀島さんの受け売りだけど」
日本代表のFWが決定的なチャンスを外して大歓声が大きな溜息に変わる。
「亀島さんって誰?」
「えっ?なんだって?」
慎吾はTVのヴォリュームを下げる。
「亀島さんって誰?」
「ああっ、亀島さんね。昨日携帯に連絡があってさ、亀の中でも凄く偉い亀らしいよ。今どきの亀は携帯を持っているんだね。そういえば俺も持ってるけど」
「ふうん」それはそうだ。亀も携帯を持っていた方が便利だ。
「それで?」
「明日の午後、深大寺で待ち合わせをしたんだよ」
「調布の?」
「そう、香織さんも一緒にって、さ」
慎吾と私は深大寺で亀島さんに会う事にしなった。その時、日本代表のFWがゴールを決めてTVから大歓声が上がった。

 翌日、深大寺の待ち合わせ場所に向かうと、亀島さんが右手をしなやかに上げ、私達を出迎えてくれた。亀島さんは、私が思っていたような白くて長いヒゲや杖を持った仙人風ではなく、オーダーメイドのスーツを着こなした上品でお洒落な叔父様だった。帽子を取って挨拶をした。
「やぁ慎吾君、そちらは香織さんだね」
五月の光と風のような笑顔に私はうれしくなって微笑んだ。
「はい。初めまして」
亀島さんの微笑みは消えない。
「深大寺と言えば蕎麦だね、お二人は、蕎麦は好きかい?」
深大寺の蕎麦は有名だ。私達は幾つも並ぶお蕎麦屋さんのひとつ、「剛」に入った。亀島さんはこのお店の常連みたいで、迷うことなく奥のテーブルに着いた。どうやらそのテーブルは亀島さんの特等席らしかった。
「まかせて貰っていいかな?」
亀島さんは日本酒を二合と卵焼き、板わさ、焼き海苔を頼んだ。
亀島さんの笑顔と同じくらいに深大寺は素敵だ。お店の外を寄り添い歩く若いカップル。熟年のカップル。そして家族連れ。深く濃い木々の緑と枯れる事のない優しい水の流れが、みんなの日常のわだかまりをゆっくり溶かしてくれるのか、笑顔が溢れてる。
亀島さんは、NASAに頼まれてスペースシャトルの部品を作る会社を経営しているん
だよ、と、卵焼きを頬張りながら言う。
「亀ものんびりとは暮らせない世の中でね」
亀島さんはお店のお母さんに天ざるを三つ頼んで、天ぷらだけ先に、と言った。
卵焼きは少し甘くて、ほくほくして、とてもおいしい。卵焼きに良く冷えた日本酒。
これもまたとてもおいしい。
慎吾は板わさを食べて、うれしそうにワサビに目を瞑る。それを見て亀島さんが上品に笑う。私も板わさを食べ、卵焼きを食べ、日本酒をちびりとやり、海苔を食べる。そしてお腹が四分になって天ぷら食べたいなと思った頃、お店のお母さんがぴったりのタイミングであつあつの天ぷらを運んで来る。
「ここは塩で」
亀島さんはそう言って海老を頬張る。会話の代わりに私達のさくさくという心地良い音が三人分。さくさくの次はずるずるが三人分。亀島さんはそばつゆに蕎麦を全部つけない。先の方だけ、ちょろっとだけ。慎吾も私もその真似をした。蕎麦は素晴らしく、喉越しも風味も申し分ない。

「ところで」
蕎麦湯を飲んでいると亀島さんが言う。
「慎吾君、おめでとう。君は全日本亀審査会の金賞に輝いたんだ」
「それはありがとうございます」
慎吾は照れているが嬉しそうだ。
「先週、全国の亀の審査会があってね。君が亀・オブ・ジ・イヤーに選ばれたんだよ。今日はその授賞式なのだよ」
亀島さんは白いハンカチで口を拭き、内ポケットから一枚の封筒を取り出し、慎吾に手渡した。慎吾は表彰状を受け取るように恭しく両手で受け取る。
「開けてみたまえ」
封筒の中には一枚の申込書。
「私がその主催者なのだよ」
その申込書には「2005 深大寺そば祭縁結びそば」と書かれている。
「慎吾君と香織さんはこのイベントの特別参加の権利が自動的に授与されたわけだね。金賞のカップルという事でね」
名前のところには慎吾と私の名前がタイピングされている。
「昔は百年に一人とか、十年に一人の割合のイベントだったんだけどね。HPを立ち上げたら凄い応募になっちゃってね。まぁ途中で辞める訳にもいかないし、もともとは私があの青年を手助けしたのが始まりだからね。一年に一度ぐらいはあの頃を思い出して、手を貸してあげてもいいんじゃないかと思ってね」
亀島さんはそういうと名刺を取り出し、慎吾に渡した。
「何かあったらここに連絡してくれたまえ」
名刺には金の文字で微笑んでいる亀のロゴと、全日本亀審査会名誉会長 亀島拓也(本名 深沙大王)と携帯番号が書いてある。
「ちょっと失礼」
そう言うと亀島さんは店の外に出て携帯でなにやら話している。仕事の話しのようだ。NASAからの電話だろうか。忙しい人なのだ。お店に戻って来た亀島さんは「急に会社に戻らなくてはならなくなったから、すまないがここで失礼させてもらうよ、ゆっくりして行ってくれたまえ。十月にまたお会いしょう」そういうと帽子を被り、腕時計を見ながら急ぎ足で店を出て行った。
「俺、金賞だって」
「よかったね」
「うん」慎吾は嬉しそうだ。私も嬉しい。
私達は申込用紙に必要事項を書き込み、お母さんに渡し、お礼を言ってお店を後にした。帰り際にお母さんは「私達もずっと昔、金賞のカップルだったの」と笑顔で言った。
お母さんは亀島さんの奥さんだった。

 私達はバス停に続く小道を歩いている。小道は木々に囲まれ、木々の間から光が零れ落ちる。私と慎吾は光のシャワーを浴びながら歩いている。

 私の彼は亀だ。しかも金賞の亀。誰も信じてくれないだろうけど。
光の粒に包まれた慎吾が私の手を包む。私も慎吾の手を包む。私と慎吾の手の中には生まれたてのやさしい光の粒がいっぱい詰まっている。
私達は小道を抜ける。
「ビールを買って帰ろうよ」と慎吾。
「良く冷えた日本酒はどう?」
そう言いながら、私は五月の光と風のような亀島さんの笑顔を思い出した。


<著者紹介> 佐藤 洋一郎(福岡県福岡市/38歳/男性/ラジオ番組制作)

「あーあ、つまんない」
 真希子は両手で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外を眺めた。いつもなら、同じクラスの仲良しメンバーで一緒に勉強するのに、ここ最近、真希子は学校が終わるとすぐに帰宅し、たった一人で受験勉強をしている。だって最近、美雪ちゃんは坂野くんと、さっちんは山田くんと。そんでもって、タカちゃんは広野くんと付き合いだしたから。公立高の受験が終われば、中学はすぐに卒業。どうせみんなバラバラになるのだからと、最近クラスのあちこちでカップルが誕生しているのだ。真希子はというと、カップルどころか好きな人すらいない。"好き"という感覚が、まだよくわからない。
「あーあ、つまんないなぁ」
 "つまらない"を二度繰り返したところで、「ちょっと真希ちゃん」という台所からの母の呼び声に、現実に引き戻された。二階の自室から一階の台所に降りてみると、母は大きな白いタッパに漬け物を詰めている真っ最中だった。
「これ、おそば屋の由美子おばちゃんのところに届けてちょうだい」
「えー、あたし受験生だよ?。受験を一週間後に控えた娘にそんなこと頼む? ふつー」
「どうせ、勉強なんてしてないんでしょ? ま、息抜きにいいじゃない。おばちゃんのお店、これがないと大変なのよ」
 だったら自分で届けりゃいいじゃん、という言葉をごくりと飲み込んで、真希子はしぶしぶ母親から漬け物がいっぱいに詰まった重たいタッパを受け取ると、自転車の荷台に積み込んだ。そして勢い良くペダルをこぎ出す。
 由美子おばちゃんは、調布の『深大寺』の門前で、そば屋を営んでいる。真希子の母親の漬け物は、そこでそばの添え物として客に出される。
 三鷹に住む真希子の家から、『深大寺』までは自転車でおよそ十五分。途中森のような植物園を抜けると、甘味処やそば屋の並ぶ街道に出る。その中の一軒が、由美子おばちゃんの店だ。
 もう三月になろうというのに、ぴゅーっと吹き付ける風は、まだまだ冷たい。コートを着て、自転車には手袋も欠かせない。
 由美子おばちゃんの店の前に自転車を止めると、真希子は「よいしょ」とタッパを持ち上げ、店の中に入った。
「こんにちはー」
 お客さんの邪魔にならないように、店内をスルスルと抜けると、直接厨房に向かって声をかける。すると奥から「あらあら」とエプロンで濡れた手を拭きながら、由美子おばちゃんが出てきた。
「あの、これ。お母さんから頼まれて」
「悪いわねー、真希ちゃんもうすぐ受験なのに」
 わかってるなら、頼まないで......と思ったけれど、ここはにこやかに「いいえー」と答えておく。
「そうそう、真希ちゃん。あなたここにはしょっちゅう来てるけど、『深大寺』の本堂はお参りしたことある?」
「いえ、ないですけど......」
 そういえば、そうだ。由美子おばちゃんの店へは、もう何度も来ているけれど、いつもここ止まりだ。この店を出て、自転車をUターンさせて、来た道をそっくりそのまま戻っていくだけ。このすぐ先にある『深大寺』には、まだ一度もお参りをしたことがなかった。「あらー、じゃあ、一度ちゃんとお参りしてみたら? 学業成就ではないみたいだけれど、縁結びの神様なのよ。ほら、真希ちゃんも春から高校生なんだし、ね?」
 由美子おばちゃんは、意味深な笑みを浮かべながら、特に後半を強調した。
 真希子は「あはは......」と空笑いをしつつも、おばちゃんの店を出ると、自転車は店の前に置いたまま、『深大寺』の山門をくぐった。財布を見ると丁度五円玉が一枚あったので、賽銭箱にチャリンと放り込む。何をお願いしようかと迷ったけれど、学問の神様でないのであれば、やはりあれなんだろうか......。由美子おばちゃんが言っていた縁結び......。正直真希子はまだ人を好きなったことがなかった。"つき合う"ということに関してもよくわかっていない。でも、ここでお参りすれば、何か自分にも良縁があるかも知れない。
「私にも好きな人ができますように......」
 真希子が合わせた手を解き、ふと視線を横に移すと、「おみくじ」の文字が目に入ってきた。しかも「おみくじの元祖」を示す添え書きもある。受験を前に、凶でも引いたら縁起が悪いと、初詣に行った時も今年は引くのを控えていたけれど、「おみくじの元祖」と言われると心は揺れる。気づくと真希子は、黒い筒状のおみくじを夢中になって振っていた。
 筒の中から一本の棒が出て来る。お札やお守りの店番をしていたお姉さんが何番ですか?
 と聞いてきたので、棒に書いてある番号を告げると、ふたつ折りにしてその番号のおみくじを手渡してくれた。
 真希子がドキドキしながら、渡されたおみくじを開くと、そこに書かれていたのは「凶」。
「げ......。やっぱ引かなきゃよかった......」
 生まれてこのかた十五年。何度もおみくじを引いてきたが、「凶」なんて初めて引いた。ショックを受けつつも、真希子はあることを思いついた。そうだ。飛ばしてしまおう! 真希子は、凶のおみくじを畳んで長方形にすると、それで小さな紙飛行機を作った。凶よ。私の悪運よ、風に吹かれて飛んでいけー。
 高台から勢いよく放つと、ゆらゆらと飛んで行く紙飛行機の行く末を身守った。すると......。
「イテっ」
「?!」
 階段の下を歩いていた男の子の額に、真希子が放った紙飛行機が見事にあたり、はらりと地面に落ちた。
 男の子は真希子の紙飛行機を拾うと、きょろきょろと飛ばし主を探し始める。
 やばっ。もうすぐ三月と言えど、風はまだまだ冷たい。しかも夕方五時を回り、辺りはすでに薄暗くなってきている。そんな深大寺境内は、さっきまで誰もいなかったのに。この人、どっから出てきたの?!
 真希子は恥かしくなって逃げ出そうとしたが、いかんせん下からは丸見えで、逃げ場がない。おろおろする真希子を、男の子の視線がとらえた。
「これ? あんたの?」
「そ、そう......だけど......」
「うわー、凶やんか。あんた凶飛ばして俺にぶつけてんや。俺にまで凶がうつってまうやんか」
 関西弁だ。東京生まれの東京育ちの真希子にとって、テレビでは聞き慣れているけれど、生で聞くのは初めてだ。突然のことに戸惑いが隠せず、一瞬言葉が出なかった。
「なんや、凶をうつしといて、あやまりの言葉もあれへんのか」
「あ、ごめんなさい!」
 真希子は男の子の言葉に我を取り戻すと、咄嗟に謝った。
「人に謝る時は、そんな高いとっからやなく、ちゃんと下に降りて謝るもんやろ?」
「あ、あたし......」
 真希子は慌てて階段を駆け降りると、男の子の隣でもう一度謝った。
「あははは、そんなマジにならんでもええって。ほら、これあんたのおみくじ。いくら凶やったからゆうて、こないな紙飛行機にして飛ばさんと、ちゃんと結びや」
 そう言うと男の子は、真希子の手をとり、手の平を開かせると、しっかりとそこに真希子が飛ばしたおみくじを握らせた。
「おみくじは返したで。ほな、さいなら」
 真希子に背を向けたまま、男の子は二、三度手の平をひらひらと振ると、そのまま山門のほうへ歩いて行った。
 真希子の手には、凶のおみくじと、そして、男の子の手のぬくもりが残された。
 何だろう、この気持ち。この男の子と、もっと話してみたい。年齢とか、住んでいる場所とか、もっともっとこの男の子のことが知りたい!
 真希子がそう思った時、すでに男の子の姿は消えていた。
 一ヶ月半後。真希子は希望の高校に無事合格し、今日から高校生になった。これから始まる新しい生活。期待半分、どこかむなしい気持ち半分......。なぜなら真希子の心の中には、まだ一ヶ月半前に『深大寺』で会った、あの男の子がいたから。あの時感じた、胸の高なりというか、初めて味わう抑えようのない高揚感が、感覚としてしっかりと真希子の心の中に残っていたのだ。もう一度あの男の子に会いたい。でも、きっと彼は関西の人。東京にいるはずがない......。そう思って真希子がため息をついた時だった。
「何、入学式初日からため息ついてんねん」
 不意に真希子の背後から、声がかかった。それも、聞きたくて聞きたくてたまらなかった関西弁。うそっ!
 真希子が、勢いよく後ろをむくと、そこには「まっさか、おみくじで紙飛行機を作るような罰当たりと同じ高校になるとはなー。俺の初めての東京生活も、先が思いやられるわ」と笑いながらぼやく、あの時の男の子の姿があった。
『マジ?! 信じらんない!!』
 おみくじは凶だったけれど......。縁結びの神様は、本当にいるのかも知れない。



<著者紹介>
(東京都三鷹市/28歳/女性/会社員)

 フウーっと真夏の青い空に向かって、ため息をついた。また遅刻かぁ!トモエは呟いた。深大寺に古くからある蕎麦屋の角に大きな桜の木がある。その桜の木がトモエ達のいつもの待ち合わせ場所だ。真夏だけれどこの辺りは緑が多く、日陰はわりと過ごしやすい。そういえばタクヤは昔っから時間にはルーズだったなぁ。小学校の頃からいつも遅刻してた。あっと、今日の私もルーズソックス!!・・・・・あの頃のタクヤは可愛かったなぁ。大きなグリグリ眼してて、いつもズボンからシャツがはみ出していて、髪はもじゃもじゃで、出ベソで・・・・・・「トモっ!」と耳もとで声がしてビックリしてひっくり返りそうになった!!そこには真黒に日焼けしたタクヤの顔があった。あのグリグリ眼と、野球部特有のイガグリ頭も健在だ。
「わー、ビックリした」
「なに一人でニヤニヤしてんだよ。俺のことでも考えてんのか?」
タクヤはそう言いながら右手の親指をたてる得意のポーズを作る。
「遅いぞ!タク。まったく!それにだらしなーい!」
彼のシャツは制服のズボンからはみ出していないことはない。
「気にしない、気にしない!」
「そんなんで、よく野球部のエースやってるねぇ」
「うっせーなぁ、格好で野球はやんねーんだよ!」
幼なじみの二人はまるで兄弟のような会話を楽しんでいた。それは青春真っ只中の高校二年生の夏だ。

 ハァーッと真赤になった手のひらを自分の息で暖める。今朝からの大雪で深大寺はいつもとは別世界。辺りに人影はなくピーンと張り詰めた空気が漂っている。木の枝も、境内から続く道も、池のまわりの凄然と並んだ石ころ達も、みんな、みーんな真白だ。やっぱ来ない!トモエは囁く。
 残念ながら高校生最後の夏の大会でタクヤのチームは5回戦で敗退した。甲子園を目指し日々練習に明け暮れていた彼らにとって、一つの節目を迎えた。最後の挨拶の時、今まで一回もトモエの前で涙など見せたことのない彼が号泣した。そんな彼を見て(そーかァ、私も負けたなァ・・・野球に・・・)トモエはタクヤの涙に目を潤ませながらそう思った。
 不意に頭にドーンと衝撃をうけた。なに?何?突然、スローモーションの映画のように真っ白い粉がキラキラと輝きながら、地面に舞い落ちていく・・・・・・。
「あっ、はっ、はっは」
「あっ、やったなー」
 トモエの足元には、大きなおおきな雪球のかけらが、転がっていた。

 タクヤの部活が唯一ない金曜日の放課後、トモエはタクヤと深大寺の神社の境内でデートをする。それは9月の初めのまだ残暑が厳しい日だった。
 いつものように二人が、他愛のない会話に花を咲かせていると、そこに一匹の子犬が迷い込んできた。「あっかわいい、こっちおいで」動物好きのトモエはすぐにその子犬を抱き上げた。その姿にタクヤは微笑む。子犬はトモエの頬をペロペロと舐めはじめる。「くすぐったーい」と首をすくめる。タクヤは、ハッ!とした。はじめ微笑ましかった姿が、急に何故か艶かしく感じられる。こんな感じは今までで初めてだ。うっすらと汗をかいたトモエのうなじや、汗ばんでうなじに纏わりついた後れ毛を、直立不動に近いかたちで見つめる。そんなタクヤに気づかずに、トモエは無邪気な笑顔でこちらを振り返った。えーっ・・・・うそっ、突然タクヤに抱きすくめられたトモエは言葉を失った。「キャン」子犬はトモエの腕から逃げていった。「ちょっと、痛いよぉ」なんて声を絞り出しても、タクヤはしっかりとトモエを抱きしめ、その力を緩めることはしなかった。しばらくすると、どちらからともなく境内の床に倒れこんだ。タクヤが不器用に唇を重ねてきた。トモエは静かに瞳を閉じる。遠くから、いく夏を惜しむかのように、蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 「お母さん、こっちにおいでよ。ほらっ、こんなに綺麗」
 紅葉した木々を見ながら、6才になる娘が小躍りしながら得意げに喋っている。深大寺の紅葉はその見事さに、東京近郊から人々が集まってくるほどだ。もともと感性が豊かなトモエの長女も紅葉の艶やかさを目の前に、感じたままを表現している。無邪気な彼女の振る舞いに、まわりにいる人々も笑顔で通り過ぎてゆく。
 あれからもう20年になるなぁー、昔の懐かしい思い出が頭をよぎる。やがてあの境内が目に入ってくると、以前のタクヤとの思い出がいっそう強く思い出される。
 9月のまだ暑かったあの日、キスの後、わたしはタクヤを拒んだ。何故?なんであの時あんな態度をしてしまったんだろう・・・。なんて、最近妙にしんみりと考えたりする。 高校卒業後タクヤはある有名な大学の野球部に入部した。かなりの名門とあってタクヤは練習についていくのが必死だった。トモエは服飾の専門学校に通いながら、その帰りによくタクヤの練習を見にいった。初めのうちはトモエが見にいくと得意げな表情を見せていたタクヤも、半年程すると表情に余裕がなくなっていった。トモエがショックだったのは、彼がだんだんとトモエを無視するようになっていったことだ。誰か好きな人でも出来たのね・・・?彼女は次第にグラウンドから足が遠のくようになった。
 タクヤはトモエを嫌いになったわけではなかった。別に他に好きな娘がいたわけでもない。まだ未熟な彼にとって、野球とトモエの両方にいい顔が出来なくなっていただけだ。レギュラーになるまでは大好きなトモエを忘れよう。真剣に野球に打ち込んでみよう!と彼は思っていた。と同時にレギュラーになれたらトモエに本気で告白しょう、なんて漠然と、でもそんな風に決意していた。

 人生には、ほんのちょっとしたボタンの《かけちがい》がある。

 ひらり、ひらりと桜の花が散っていく。深大寺の桜はちょうど今見頃だ。ある天気の良い日曜日トモエ達は家族で花見にきていた。
 「サクラってほんとうに命が短いから、可憐だわ」
 流石にトモエの娘の言う事がふるっていた。あっ。あのお蕎麦屋さんの角の桜の木・・・トモエは眩しい眼差しでその大きな木を見ていた。その木には、まわりに比べ一際美しい桜が、枝からこぼれんばかりに咲いている。少し甘酸っぱい思い出が、彼女の脳裏を駆け巡る。(この思い出だけは胸にしまっておこう)なんてニヤニヤしながら歩いていた。「あっ、すみません」ポーッとして歩いていた彼女は人とぶつかってしまった。「大丈夫ですよ」と言われ、ホッとしてその男性に眼を向ける。(きちんと答えてくれると気持ちいいんだよねぇ・・・・最近は世の中が殺伐としちゃって・・・・あれっ!!)そこには紛れもなく、思い出の主人公のタクヤがいた。少し頬はこけていたが、相変わらずの浅黒い顔がそこにあった。お互いギョっとして眼と眼が合うが、一瞬のうちにそらしてしまった。二人とも確信はあるが、声はかけずにすれ違ってゆく。ギューンとした胸の高まりを感じながら、今にも走り出したい衝動を抑えながらトモエは歩いていく。止まって振り返りたい気持ちはあるが、雑踏の中、止まるほどの言い訳は見つけられない。どんどんと彼からは距離が離れていく。
 どんどんと、どんどんと離れていく。
 フウーっ、と一回深いため息をつくと、トモエは決心し、えーい!!と思い切って振り返ってみた。花見客で人々がごった返す中、やっと彼らしい後ろ姿を見つけた。彼は子どもと手をつなぎながら、振り返りもせず歩いていく。(やっぱり人違い?)
 するとっ、タクヤはあっちを向いたまま右手をすっと上に挙げた。桜がたくさん舞い散る天に真っ直ぐに手をのばし、親指をたてる得意のガッツポーズをつくって見せると、その後バイバイっと手を振って、歩いていった・・・・・ツーッと、一筋の涙がトモエの頬をつたっていく。(タクヤ、やったね!)
 その瞬間にお互いの幸せを確信したトモエは、桜が舞う爽やかな春風の中、胸を張り、颯爽と歩いていった。
 もう振り返ることはない・・・・・


<著者紹介> 黒米 譲二(東京都東大和市/42歳/男性/歯科医師)

 初詣でひいたおみくじは大吉だったのに、今年最初のイベントは、ずっと好きだった彼女と親友の結婚式だった。付き合っているのは知っていたから、そのうち、そんな日が来ることは予想できた。が、ショックだったのは、彼女の言葉だ。
「私、本当は羽鳥さんが好きだったのよ。だけど、一度も話しかけてくれなかった」
 嫌われていた方がまだましだ。
 僕、羽鳥鷹雄は、名前は勇ましいが気が小さくて特に女の子にはからきしだらしがない。二十八年間、何回女の子と話をしたか...
 梅の香おりに誘われて、神代植物園をひとまわりした後、深大寺側の出口から外に出た。二人の幸せを願い、自分の健康に感謝してから帰ろうとすると声をかけられた。
「羽鳥さん、ですよね」
 声の方を見たが覚えがない。若い...きれいな女性だ。意気地なしとはいえ、僕だって男だ。こんなきれいな人を見たら忘れるわけはない。
「...はい、そうですが...」
「○×社の受付の宮城千鶴です」
 女性は、仕事でよく行く大手の会社の名前を言った。受付嬢なんてご縁があるわけないので顔を見たことがなかったのだ。
「わからないんでしょう。羽鳥さん、私の顔、見たことないもの。ふふふ」
 女性は春のような声で笑った。
「すいません」
 髪型が違うから、とか、洋服が違うから、とか気のきいたことを言えばいいのかもしれないが、そんなこと口に出せるわけもない。それにしても覚えててくれたなんて、僕は幸せ者だ。
「今日、にゃんこの命日なんです。この上に動物慰霊塔があるんです」
 宮城さんは言った。
「慰霊塔ですか。知りませんでした」
「羽鳥さん、動物、好きですか」
 僕は、好き、という言葉にうろたえてしまったのだろう。
「子供の頃、動物の入った県名を言えと言われて、宮城県と言ったことがあります。正解は熊本とか、群馬とかだったんですけど」
と、僕が早口で言うと、
「み、ヤギ? あはははっ」
 宮城さんは大笑いした。
「子供の頃から漢字、苦手で。ごめんなさい、変な話して。ネコを悼んでいたんですよね。僕も、カメを飼っていますから気持ちわかります。亀吉がいない人生なんて...」
「カメ飼っているんですか」
 宮城さんはきらきらした目で僕を見つめる。僕は目をそらし、歩きながら話した。
「小学生の頃、縁日で出会ったんです。大学進学で上京する時、つれて来ました。十五年も一緒にいます。僕の一部です。亀は万年と言いますから、僕が死んだら、亀吉はどうなるかと思うと心配になります」
「うちのパンダは十四歳だったわ、猫としては長生きの方ね」
「パンダ?」
「猫の名前です、パンダ柄だったので。変ですか?」
「いえ、宮城さんは鶴だし、僕は鷹ですから、猫がパンダなのは自然の流れです」
 僕の脳裏にパンダに抱かれた、いや、パンダ柄の猫を抱いた宮城さんの姿がうかんだ。なんて幸せな猫なんだ。ときどきほっぺにちゅうなんてしてもらったんだろう。十四年のにゃん生を心行くまで満喫したに違いない、うらやましいぞ、パンダ。そのいなくなった大きな空洞のすみに僕を入れてくれ。
「この池、亀島弁才天池って言うんです、結婚を反対されていた二人を大きな亀が助けたんですって。亀って夢を運んでくれるのよね」
 亀が立派なのはうれしいが、結婚という言葉が僕の胸にぐさりとつきさし、僕はまるで明後日のことを言ってしまった。
「こ、このあたり、てづくりそばが体験できるんですね」
 近くの張り紙を指差す。
「あら、おもしろそう。やってみたいわ。おそば、大好きなんです」
「ぼ、僕もです。楽しそうですね」
「お料理するんですか」
「一人暮らしですから」
 夢のようなひと時を僕は心から感謝した。くだんの彼女のことなど、すっかり忘れていた。本当は、そばよりも、かつどんとかラーメンとかカレーの方が好きだ。二十八の健康な男ならそんなものだ。でも、千鶴さんが好きなものは僕だって好きになるさ。なんたって、結婚したら羽鳥千鶴だぜ。ぴったりじゃないか。
 鶴と、鷹と、亀。めでたい。
 家に帰ると、インターネットで、深大寺周辺でそば打ち体験できる場所と時間をチェックした。
 今度こそ、誘うんだ。
 あたって砕けてやる。粉々に。いや、砕けてなんかやるもんか。そば粉がそばになるように、僕だって僕だってそばになる。千鶴さんのおそばにゆく。ぬはははは。
「な、亀吉、応援してくれよ」
 亀吉に餌をやりながら妄想する。隣に千鶴さんがいて、亀吉のことをかわいい、ってほめてくれるんだ。目をつぶると、いや、つぶらなくても千鶴さんの顔が脳裏に浮かぶ。やさしい笑い声が耳に響く。

 数日後、○×会社に意気込んで行ったが、千鶴さんはいない。
「あの、宮城さんは...」
「お休みをいただいております」
「じゃ、こ、これを」
 急いで名刺の裏に、『○月×日、午前十時、蕎麦「△」、メン棒持参』、と記して受付嬢に託した。

 お昼時、愛妻弁当をニヤケ面で食う親友をしりめに、勇んで社員食堂に行き、蕎麦をすする。千鶴さんを思いながら食べれば、どんなものだってうまい。恋は最高の調味料っとくらあ。親友の顔が僕にかわり、愛妻が千鶴さんにかわる。いやさ、僕が作ってあげてもいい。千鶴さんのためなら料理学校に通ってもいい。婿養子だってかまやしない。
 宮城鷹雄。ヤギとタカか?
「蕎麦、うまいか」
 唐突に聞いたのは親友だ。ざる蕎麦を手にしている。
「まあね」
「妻がさあ、食事を作ってくれるけど量が少ないんだよね。腹へってさ」
「言えばいいじゃん」
「だって傷つけちゃうかもしれないじゃないか。よかれと思って作ってくれるんだよ」
「ふーん、そんなものなのか」
 以前だったら、嫌味に聞こえる言葉だが、今後のためには重要な知識だ。つい身をのりだしてしまう。
「お、うまい蕎麦だなあ」
 親友は言った。
「そうか?」
「なんでも、うまいって言っておけば問題はない。だから、練習しているんだよ」
「料理、へたなの?」
「そんなことはない。...ときどき口に合わないだけだ。とにかく、作ってもらった食事は、そのまま食うんだぜ。ソースかけたり、カレーとご飯をまぜたりしちゃだめなんだ」
「なるほど」
 人間、余裕があるとすべての人から学ぶことができるのだ。僕はいたく満足して、親友に心から感謝した。

 そして、当日。僕は三時間も前から、蕎麦「△」の前に立った。
 家族づれ、カップルカップル。
 千鶴さんは来ない。
 順番を次の人にゆずり、待つ。
 僕は泣きそうになっていた。
 空は快晴、子供達は元気に走り回る。
 カップルはいちゃつく。
 そばの香りがしてくる。
 千鶴さんは来ない。
 三月の空気はまだまだ冷たい。
 約束したわけじゃないけれど。
 亀吉、助けてくれよ。
 慌てて亀島弁才天池に走り、祈る。
 深沙大王様、亀様。おねがい。
 僕の恋をかなえてくださいませ。
 深沙堂に向かい、全身全霊をこめて、合掌。
 もしかすると、用事があったのかもしれない、名刺が手にわたってないのかもしれない。
 もう、帰ろうかな、と思った時、
「羽鳥さーん」
 千鶴さんは現れたんだ。
「ごめんなさい。夕べ、隣家の風鈴がうるさくて眠れなかったんです」
 だきついて、お礼を言いたい気持ちをぐっとおさえる。
「この季節の風鈴は怖いですね。けど、何か事情があったんじゃないですか」
 僕が言うと、どういうこと、と千鶴さんは怪訝な顔をした。
「風鈴をくれた方の月命日かもしれないし、大切な誰かにメッセージを送りたかったのかもしれません。一晩中なっていたと言うことは、願いが叶わなかったのだと思います...」 僕は妄想癖を発揮してしまった。
「羽鳥さん、やさしいんですね」
「いや...気の毒な人だから許してあげよう、と思って言葉をのみこむのは文句を言えない小心者が腹をたてない手段なんです」
 僕はぼそぼそと言った。
「優しいんですよ。苛々していた気持ちが軽くなったわ。ありがとう」
「いえ...そんな」
「ところで、メン棒って何に使うんですか」
 千鶴さんはきょとんとした顔で綿棒を取り出した。
「あははははっ」
 僕は腹を抱えて笑った。
 僕は宮城千鶴さんが大好きだーっ。
 亀様、ありがとーうっ。



<著者紹介>
釛子ふたみ(東京都世田谷区)

<<前の10件 2345678|9|1011 次の10件>>

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。 何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
第4回公募が始まりました。
応募要綱をよくお読みいただいた上、すばらしい作品をどしどしお送りください。
ご応募、お待ちしております!

共催

最近のトラックバック