パソコンの画面がふいに薄暗くなった。見上げると、生い茂る樹々の合間から覗いていた太陽に雲が掛かり、東に向かうに従って灰色のグラデーションが増している。そう言えば天気予報で夕方から曇りになると言っていたが、どうやら少し早まったようだ。雨を心配し、出ようと公園の出口へ向かう人の姿も見え始めた。
「3時か」そうつぶやいて、亮二もノートパソコンを仕舞う準備を始めた。
いつものように吉夢庵の蕎麦を食べて帰ろうと立ち上がると、足元にある小さな赤い花に気が付いた。緑に映えた真紅は綺麗だが、花にしては細長い、そう思ってよく見るとそれは小指程の赤い組み紐細工だった。
何気なく拾い上げると、その先には小指大の黒いUSBメモリーが付いていた。一昨日の土曜に来た時には無かったはずだ。ペンを落として拾った記憶があり、その時には気づかなかった。ということは昨日の日曜に落としたものだろうと亮二は考えた。まさか同じような人がいるのだろうか?神代植物公園の中でパソコンを開く人などが...。

亮二が調布に住み始めて5年になる。大学を卒業し、京王線沿線にある広告会社に就職した際、通勤に便利な調布に越して来た。不動産屋が勧めてくれた深大寺と、その参道にある吉夢庵に訪れたのはその翌日のことだ。蕎麦に対してそれほど興味は無かったが、たちまち吉夢庵の虜になった。そして深大寺とそれに隣接する神代植物公園にも。
それからは、雨や冬の日以外は毎週の様に自転車で10分の距離を通っている。亮二がそこまでして通うのは、公園内に置かれた、あるベンチとテーブルが気に入ったからだ。
神代植物公園には三鷹街道に面した大きな正門と、深大寺裏から入る小さな深大寺門の2か所の入口がある。そして深大寺門近くの雑木林の中に、亮二が気に入ったロッジ風の木製ベンチとテーブルがあり、休日にはそこで企画書などを書く仕事をしている。
何が楽しくて休みの日にまで仕事をとも思うが、恋人も無く、趣味もない身としては、致し方ない休日だ。だからこそ「お前が一番ヒマだろう」と言う理由から、昨日は日曜だと言うのにクレーム処理に向かわされた。まあ、翌日に代休を貰えただけ良かったが。
けれど、緑の中で仕事をするのも悪くないと亮二は思う。閉鎖された室内よりも良いアイデアが出そうな気がするし、何となく自分が優雅に仕事をしている気になれる。
調布市には22万人を超える人がいるという。同じように優雅な気持ちで仕事をなんて考える人が他にいてもおかしくないだろう。そう思うと何かしら、USBの落とし主に少し親近感が湧いてきた。さぞや困っているだろうと思った亮二は深大寺門を出る際に、職員に落し物として届け出た。その時、もしかて、ベンチの周りを探しに来るかもしれないと言う考えが頭に浮かび、来た道を戻り出した。
そして雨が降らないことを祈りながら、テーブルに丁寧に畳んだメモを挟んだ。
【USBを拾いました。深大寺門に落とし物として届けてあります】

「ごめんね、付き合わせて」と春奈は片手で拝む仕草を見せた。「まぁ、隣駅だし、どうせヒマだしね」そう言って蕎麦を口に入れた佑香は「でも良かったね、雨にも濡れず、データも壊れてないし」と口を動かしながら、もう何度目か分からない「美味しい」を付け加えた。ここ吉夢庵の蕎麦は青々とした蕎麦の風味を手軽な値段で楽しめるため、子供の頃から調布に住む春奈は、深大寺に来た際は、必ず訪れている。夏でも冬でも盛り蕎麦を注文し、半分は汁で、半分は七味で食べる。日曜も仕事をしに来た植物公園の帰りに寄ったが、夜になってUSBが無いことに気が付いた。公園で落としたに違いないと思ったが、どうしても月曜は職員会議で来られず、たまたま飛び休だった火曜日に探しに来たのだ。
朝一で行こうと準備していると、同じ福祉施設で働く佑香から買い物への誘いの電話があり、事情を話すと「たまには森林浴もいいか」と付き合ってくれることになった。
「電話で問い合わせるか、入口で聞けばすぐだったのにね」蕎麦湯を飲みながら佑香は意味ありげに微笑んだ。確かに電話しておけば深大寺門ですぐに受け取れただろう。あるいは入口で聞けばすぐだったのだが、春奈は何故か、あの雑木林のベンチの下だと思い込み、開門と同時に一目散に向かってしまった。
「でも、そしたら...そのメモ見られなかったしね」そう言って佑香はまた意味ありげな笑みを浮かべた。
USBを拾って届けてくれたと、ノートを千切った2行の伝言。何のことは無い、親切な人からの伝言。文字から男性と思えるが、ただそれだけで、お礼の言いようもない。そう思っていると「さぁ、食べたらさっさと、さっきのベンチに戻るわよ」と佑香はバッグを肩に掛けながら立ち上がった。
「戻るって?」驚きながら尋ねると、「気になるんでしょ!そのメモの字。春奈ってさぁ昔から字の綺麗な人、好きだよねぇー。これも出会いの一つだって」そう言って歩き出した。そして春奈の方へ振り返り「お礼を言いに行くのよ」と手招きした。お礼ってどうやって...。訳の分からないまま佑香の後を追い、緑深まる深大寺門へと再び向かった。

【USBメモリー届けて頂き、ありがとうございました。本当に助かりました】
「で?次に雑木林に行ったら、このメモが挟んであったと...」左手で薄いピンクの付箋を亮二に返しながら、吉永は右手で焼き鳥の串を頬張った。吉永とは営業とデザインと言う違いはあるが同期入社で、ある程度は何でも話せる仲だ。お互い早く仕事が終わり、久しぶりに飲もうかと、会社近くの居酒屋に入った。仕事の話から、いつの間にか最近拾ったUSBの話になり、何となく、その女性が気になることも打ち明けた。
「笑われるかもって言ったけど、俺は笑わないよ」と吉永は言い、焼き鳥の串を振りながら「デザインってさ、その文面も大切だけど、色や大きさ、行間なんかも大事な訳よ」と真面目に語り出した。「文字とか文章ってさ、その人を表すものだよ。文字と文字の間の取り方とか、どこで改行するかとかさ」
確かにそうかもしれない。せっかちな人は文字間が狭いような気がするし...そんな事を思っていると、吉永は「最近じゃインターネットなんかで、顔も知らない相手と出会ったりする時代だぜ、ちょっとレトロだけど、それと同じだよ」と言い、ビールを流し込んだ。別れ際の改札で「上手く誘ってみろよ、連絡先書くとかさ。優秀なデザイナーの俺が言うんだ間違いない!その女性は良い感じだ!」そう言った吉永の言葉に、そんな器用な真似が出来るなら、彼女ぐらいいるって。そう思いながら亮二は少しだけ笑ってみせた。

休憩所のソファーで口を尖らせた佑香が「今平成何年だと思う?」と聞いてきた。
「27年?」横でお弁当の蓋を開けながら答えると、「じゃなくて!」と春奈の足を軽く叩いて佑香はさらに口を尖らせた。彼女の怒る理由、といっても本当に怒っている訳ではなく、春奈を思ってのことだが、それは分かっている。4か月前に始まった週に1度程度の数行のメモの交換。それが遅々として進展を見せない、いや進められない春奈と見えない相手に、じれったさを感じているのだ。
落し物から始まった小さな手紙の行き来。もちろん、どんな人かと想像もするし、遭ってみたいとも思う。だけど、何だか改めて会うのが怖い気もするのだ。単調な生活の中での、小さな楽しみ、それが会えば単調な現実に組み込まれてしまう気がして。

「ある意味、2つの奇跡だな」そう言うと吉永はタバコの煙を吐き出した。「一つは、28になる男が中学生みたく女を誘えないこと」そしてタバコをもみ消し「二つ目はそれだけ通っていて、4か月もベンチで鉢合わせしないってことだ」そうだろと言う顔をして吉永は肩をすくめ喫煙所を出て行った。
確かにそうだなと、我ながら亮二も情けなく思うが、会うのは簡単だ。連絡先を書くなり聞くなりすればいい。彼女が望まないなら、それまでのことで、始まる前に終わっただけだ。けれど、偶然始まった小さな世界を壊さず大切にしたい気持ちが強いのも本当だった。

特に仕事が無い日でも亮二は必ずメモの確認と、置きに行くために公園に通い、吉夢庵にも訪れる。その日は混雑時を避けて昼過ぎに店に入ったが、それでもかなりの盛況で、入口付近に、若い女性二人組の隣が一席空いているだけだった。
「で、今日もこの後メモを置きに行くんでしょ?」そんな言葉が亮二の耳に入ってきた。「うん」そう微笑んだ女性は亮二の見慣れたピンクの付箋をバッグから取り出した。「USB落としたの春だよ、もうすぐ秋だってのに、ホントにもう」ともう一人も微笑んだ。
隣からこちらを見つめる男性を不審に思ったのか、付箋を持った女性が亮二の方に目を向けた。ショートカットの似合う人だな。
そんな事を思いながら亮二はメモ用紙に文字を書き連ねた。いつもより緊張した固い文字になってしまったが、ぎこちなく立ち上がりそして女性に近づき、メモを差し出した。

【初めて直接渡せますね。
はじめまして。でいいのかなあ
塚本亮二と言います】

江原間(東京都調布市/44歳/男性/会社員)
石垣のある坂を下りながら、ふぅん、とタカシがつぶやいた。感動でも、相づちでもない、乾いたつぶやきだった。
「結構、人がいる。」
そば屋の前の行列に目をとめて、「ここで食う?」と聞く。
「まだ、お腹、すいてない。」
通りがかりの女子高生が、ちらっと振り返りさざめくように笑った。
「~に似てない?」「ね。」
背が高く、浅黒い肌に鋭いまなざし。俳優の誰かに似ているらしく、タカシは時々、周囲の目をひく。不愉快そうなため息をついて、
「似てるって、いやだな。」とタカシは言う。
「かっこいい人に似てるって言われるなら、いいんじゃない。」
「自分を否定されてる気がする。」と、眉をしかめる。
「しかも、あいつ、おっさんじゃん。」
思わず笑った。30前の俳優をおっさんだと言い切る傲慢さは、ある意味、爽快だった。
年齢よりも幼く見える私とは逆に、タカシは大人びている。まだ20歳なのに、25、6歳に見えなくもない。高校の頃から野球を続けていて、筋肉質で体つきがしっかりしていることと、落ち着いた雰囲気のせいだ。父親が不在の家庭環境で育ったことも関係があるのかもしれない。
日差しが強いので、車道沿いから、右手の、木々が生い茂る砂利道に入った。緑の香り。空気が変わる。
「喉、乾いたな。」
「あそこで何か飲もうか。」
古い民家を改装したような、趣のある店の前にビールと書かれた赤い旗がひらめく。
「ところで、誕生日に深大寺に来たいって、なんで?」
「なんでって。」
「バイト代でたばっかだし、もっと派手なとこでもよかったのに。」
「つまらない?」
タカシはぐるりと首をめぐらし、空をあおぐ。
「思ってたより悪くないけど。」
店で、深大寺ビールを二本買った。時代劇にでてくるような長方形の椅子が、水路沿いに並んでいたので座る。手になじむ茶色い瓶は、染みるように冷たかった。
「実はね」どこまで話そうか、そう考えながらビールを一口飲む。
「ここ、思い出の場所なんだ。」
「へぇ。」タカシもビールを口に含む。
「どんな?」
興味もなさそうにたずねられ、ふっとおかしくなり、口が軽くなる。
「ここから、7~8分歩けば実家なの。父も母も、多分、今もそこに住んでる。」
タカシの目が細められ、強さと鋭さを増す。触れたら切れそうなほど、だが、触れてみたいと思わせる危うさのある表情。
あぁ、私は、この表情を知っている。
胸の奥がうずくように痛んだ。
「...んだよ、それ。」
低い声でタカシがつぶやく。
声まで似ている。
私はタカシを見つめる。いや違う。私が見ているのは、タカシの向こう側にいるあの人だ。
...ただいま
私は思い出を引き寄せる。今も、自分も、タカシも、何もかもがどうでもよくなる。
私は、ただ、あなたに逢いたかった。

あの人に初めてあったのは、中学3年生の夏休みだった。当時、母と義父の折り合いが悪く、私は近所の母の実家によく預けられた。
数年前に祖父がなくなり、祖母だけが住む古い平屋の一軒家は、いつも静かだった。気を使う義父もおらず、母の怒鳴り声も聞こえない空間は、唯一の安らぎの場所だった。
ある日、いつものように祖母の家の玄関を開けると、見知らぬ男が立っていた。家を間違えたのではないかと慌てたが、夏の日差しと蝉の声が降り注ぐ廊下は、間違いなく見慣れたものだった。
彼は無言で振り返った。
鋭いまなざしに、射すくめられた。
身動きができなくなった。呼吸すら忘れた。
どれくらいの時間、そうしていたのか。長いような短いような不思議な時間が過ぎた後、祖母が廊下の向こうから現れた。
「あらあら、二人ともお帰り。」
彼は視線をそらし、祖母と入れ違いに、廊下の奥へと歩み去った。戸惑う私に、祖母はいつものように優しく笑った。だが、そこには少しだけ困ったような表情が混じっていた。

彼について、はっきりとは何も教えられなかった。祖母の家を訪ねても、部屋に閉じこもっているのか、外出しているのか、顔を合わせることもなかった。祖母と母は、よく小声で秘密めいた話しをするようになった。好奇心を抑えきれず、私はいつも聞き耳をたてた。内容は、やはり彼のことで、言葉の断片をつなぎ合わせ、一週間もすると大体の事情を察することができた。彼の生い立ちや、なぜ、今、祖母の家に滞在しているのかも。
祖母が友人と出かけて留守の日のことだ。
いつもように合鍵で中に入り、喉が渇いていたのでキッチンに向かった。家の中は静かで、人の気配がなかった。
すっかり油断して、キッチンの扉を開けたら、彼がいた。入り口に背を向ける位置に座り、気だるそうにテーブルに頬杖をついていた。電気もつけず、何をするでもなく、時間の流れが止まってしまったかのように、じっとしていた。
彼は、ゆっくりと振り返った。いつかの鋭いまなざしを思い出し、体がすくんだ。
だが、彼は私を見ると「お帰り」と笑った。
彼の声を聞いたのは初めてだった。思っていたよりずっと耳に心地よい低い声で、私はうつむいて「どうも」とつぶやいた。早足に彼の横を通り過ぎ冷蔵庫を開ける。麦茶のポットを取り出す指先が震えた。顔が熱くてたまらなかった。きっと真っ赤だ。夏の暑さのせいだと思ってくれるようにと、願った。
麦茶をグラスに注いでいると「あ、ついでに俺の分も」と頼まれた。昔からの知り合いに話しかけるような、気さくな言い方だった。テーブルにグラスを置くと、今度は「座りなよ。」と前を指さした。
採光の少ないキッチンは薄暗く、どこか夢の中のようなおぼつかなさがあった。
向かい合っても、顔をあげられず、浅黒い肌と脱色された茶色の髪をそっと盗み見た。猫背がちで、全体に投げやりな雰囲気。余り周囲にはいないタイプだったし、外であったら、かかわり合いになろうとは思わないだろう。だけど、彼の微笑みはとても優しげだった。私の心臓は不自然に震えた。
「あのさ。」彼が言う。「俺のこと嫌いでしょ?」
予想外の台詞だった。答えようもなく黙っていると、「ま、人に好かれたことなんかないから、いいんだけどね。」
と、勝手に皮肉めいた言葉を続ける。
「いいえ。」なんだか腹が立ったので、きっぱりと首を振った。「嫌いじゃない、です。」
しばらくの沈黙のあと、
「深大寺、行こうよ。」
彼は唐突に立ち上がった。ぐずぐずと迷っていると、腕を強くひっぱられた。掌が触れた場所に、痛みにも似た熱さがはしった。

誘ったのは、どっちだったのか。
覚えていない。でも、多分、私だったと思う。
私は彼と二人の時間を望んだし、そうなるように仕組んだ。彼も私も、自暴自棄で投げやりだった。でも、それだけじゃなかったと、私は信じている。

「俺が誰か知ってる?」
夏の終わり、山門付近の遊歩道を歩きながら、彼が聞いた。私がうなずくと、彼は、ほっとしたような、悲しいような、複雑な顔をした。
「おばあちゃんの初めての子供なんでしょ。」
わざと軽く言ってみせる。
「そ。つまり、お前のお母さんの異父兄弟。」
彼も軽く返す。会話がふっと途切れた。これ以上、踏み込めない話題だった。
「この年になってさ、最後の最後にあいたいのが、母親って笑えるよな。」
彼は、来年で37になるという。...もし、誕生日をむかえられるなら。
数歩先の彼の背中は、病魔に蝕まれ、日に日に痩せ衰えていた。
もし私が最後に誰かに逢うなら、彼がいい。叶わないと知りながら願った。少なくとも親には逢いたくない。
母は、義父との関係を修復しつつあった。私にあんなひどいことをした男を、許そうとしていた。母も義父も絶望的に憎い。それでも、私は一つだけ義父に感謝している。義父が私の無知と無垢を引き裂いたことで、新しい自分が生まれたからだ。以前の私なら、彼に近づく勇気はなかっただろう。
遅れて歩く私を、彼が振り返った。鋭く澄んだ目に、とらえられる。私は駆け寄った。

結局、彼は次の誕生日をむかえることはなかった。それと同時に、私は家を飛び出した。
苦しみと喜びを繰り返し、気づけば20年以上が過ぎ去り、私は彼と同じ年になった。

「母さん」と、呼びかけられ我に返る。彼の幻はどこかに消え、目の前にはタカシがいた。
「曇ってきたし、そば食って帰ろう。」
「母さんの実家には、興味ない?」
少し考えてから「ないよ。」と、タカシは立ち上がり歩き出す。その背中は、真っ直ぐで力強い。思わず、笑いと涙が同時にこぼれた。


宮沢瞬(東京都)
 都心から電車で数十分、更にバスに乗って数十分、彼女が僕を連れて行った先は、深大寺という場所だった。
 春と夏の間の季節、抜けるような空の色を見上げて、湿気と濃い緑の匂いでむせ返る。
「悠君のお父さんとお母さんがね、私と一緒に遊んでおいでって」
 そう僕に話しかける彼女は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「行こう」
 そう言って、彼女の腰ほどしか身長のない僕に手を差し伸べる。僕はその掌に触れていいものかしばし悩み、撫でる様にそっと繋ぐ。  
 すると彼女はぎゅっと握り返して来て、少し意表を突かれた。
「いっぱい楽しい事しようね」
 緩やかに、しかし力強く僕の手を引かれた。
彼女のさらさらとしたロングヘアと白いワンピースが揺れる。僕はしばらくそれを見つめながら歩いた。
 ふと「全部知ってるよ」と言おうと思ったが、彼女の微かに震える声に気付いてしまい、言葉を飲み込んだ。きっと、優しい人なのだ。
 彼女はころころと表情を変えながら話しかけてきた。
「悠君、お花が咲いてるよ」
「悠君、あっちまで競争だよ」
「悠君、はぐれちゃ駄目だよ」
 彼女は僕が寂しくないように沢山の言葉をかけてくれた。手が離れたら繋ぎ直してくれた。決して表現が豊かな訳ではなかったが、大人達に静かに嘘を吐かれ続けていた心には、裏表のない言葉が心地よかった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 日が高くなった頃、彼女が少し恥ずかしそうに笑った。そろそろ御飯時である。彼女が指差した先には、蕎麦屋ばかりがぎゅっとひしめき合っていた。
 それぞれの違いが分からず、彼女を見上げる。彼女はさっと幾つかの店先を見た後、その内の一つに入る事を決めた。
 店員に促され、窓際の席に着く。
「そろそろ長袖じゃ暑いね」
 と頬を膨らませ一息ついた後、何を頼むか聞いてきた。外食なんて久しぶりの僕は、勝手が分からずに
「同じものでいいです」
 とぶっきら棒に答えてしまった。
 彼女とぽつりぽつりと話していると、注文の品が運ばれてきた。微かに、蕎麦粉の素朴な香りがした。
 誰かと出かけて食事をする。その尊い凡庸さに、当てられてしまったのかもしれない。 
 それは、本当に突然だったのだ。
 この季節には嬉しい、さっぱりとした味を堪能していると、突然鼻の奥がつんとした。
 ああ、不味い。
 そう思った時には既に涙は目に溜まり、溢れ落ちるのを待つだけだった。
 最初に感じたのは羞恥だった。両親でもなく、親しい友人でも無い彼女の前で泣くのは、幼いながらに恥ずかしいの一言だった。
 凄まじい勢いで考えた結果、蕎麦をすすりながら、鼻をすする音を誤魔化すことにした。
それが幼かった僕に出来た、プライドを守る唯一の術だった。
 しかし、細やかな抵抗虚しく、どんどん視界は揺れていく。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めて我慢しようとしても、涙は次々に溢れてきて、遂に箸を置いて手の甲で拭わなくてはいけなくなった。
 正面に座っていた彼女は、何かを言おうと口を開け、しかしそのまま閉じてしまった。
 僕は情けなくて、恥ずかしくて、とうとう自分の膝を見たまま顔を上げられなくなってしまった。
 どれくらい時が流れただろう。隣の席が微かに軋む音がした。
 はっと顔を上げると、いつの間にか彼女が隣に腰掛けていた。そして腕を広げ、そのまま僕の頭をそっと抱いてくれた。
 喉の奥から、何かがせり上がってくる。確かな震え。暗い感情。涙を、もう止めることはできなかった。
 誰を責めることも出来なかった。誰を責めれば良いのかすら分からなかった。
 お父さんとお母さんのどちらについて来たいかと言われた。三人で一緒にいたいと言えなかった。
 新しいお家は広いよと言われた。狭くても良いからこのままが良いと言えなかった。
 言えなかった言葉を吐き出す様に、僕の身体はしばらく嗚咽と共に震え続けていた。
 ぽんぽんと、彼女が僕の頭を叩く。彼女の白いワンピースの胸元に、僕の涙が滲んでいった。
 心が張り裂けそうだった。明るい未来なんて来ない気がした。それでも僕の元に、明日はやってくる。暗くのし掛かってくる現実を思い、今この瞬間だけは彼女に縋った。
 彼女の悲哀を帯びた瞳が、下を向く僕を見下ろした気がした。
 
 彼女に縋った僕の心の意味は、その時はまだ分からなかった。深大寺が縁結びで有名と知ったのは、それからずっと先の事である。

 いくつもの季節が流れて、僕は再び深大寺に訪れた。
 あの頃とは名字は違うが、心はあの頃に戻ったようだった。
 今思えば、この深大寺から数駅先に行った所には賑やかな観光名所が幾つもあった。そちらへ連れて行かなかったのは、家族に対して神経質だった僕への、彼女なりの配慮だったのだろうか。
 彼女との待ち合わせは、境内の中である。
「悠君、久しぶり」
 彼女は僕よりも目線が低くなり、顔に残っていた幼さが無くなっていた。すっきりとしたセミロングの髪と、ネイビーのタイトスカートがよく似合っている。
 僕を見る眼差しは、ただただ真っ直ぐだ。
「お久しぶりです」
「うわ、声低くなったね」
「もう子供ではないので」
「そっか、そうだよね。私も歳をとるよね」
 あはは、と軽く笑い、少し俯く。
「そろそろ行こうか。いっぱい楽しい事しようね」
 そのまま、あの頃をなぞるように共に歩く。
「悠君、お花が綺麗よ」
「悠君、あそこまで走ってみない」
「悠君、余所見してはぐれないでね」
 もう子供と呼ぶには難しい年頃の僕を、あの頃のまま名前で呼ぶ。彼女の言葉も当時の様だった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 少し悪戯っぽく笑いながら、彼女は聞いてきた。
 ひしめき合っているお蕎麦屋さんの中から、今度は僕が一件を選び、席についた。
「どれにしますか」
「うーん、悠君と同じので」
 少しぶっきら棒に彼女が答える。
「...からかわないで下さい」
 明るい印象の彼女だが、根に持つタイプらしい。
 ほのかな蕎麦の香りを堪能し、箸を手に取った所で、僕はなるべくさりげなく言った。
「ご結婚、おめでとうございます」
 自然に、けれどしっかり言おうと思っていたのに上手くはいってくれなかった。喉はいつの間にか乾いていて、最後は掠れてしまった。それを誤魔化すように、急いで蕎麦に手を伸ばす。
「ありがとう」
 少し間を置いて返ってきた、その言葉を聞いた途端、目の前の景色が歪み始める。やがて、僕の目尻から零れ落ちていく。
 鼻をすする音を、蕎麦をすする音で誤魔化す。プライドの護り方が、何も変わっていない。
 彼女は真っ直ぐな眼差しで僕を見つめてくる。彼女はもう、僕の隣には来てくれない。
 彼女は確かに今僕の前にいるのに、これから先、彼女の隣にいるのは、僕ではない誰かなのだ。あの時僕の頭を撫でてくれた指には、シンプルな指輪が光っている。
 仕方ない。
 幾ら縁結びの神様だって、十二歳の年の差と、過去の事とはいえ親族という間柄には勝てないのだ。
 彼女が僕をまだ名前で呼ぶのは、名字の変わってしまった僕の扱い方に、少々戸惑っただけの事なのだ。たった、それだけのことなのだ。
 彼女はいつの間にか、窓の外を眺めていた。
きっと僕に気を使い、どこでもないどこかを眺める事に決めたのだ。
 髪型が変わっても、服の好みが変わっても、眼差し変わっても、その少しだけ悲しい優しさだけは変わっていない。
 窓から入ってくる風に、彼女の短くなった髪が揺れる。
「僕は髪の長いあなたも好きですよ」
 そう言いたかった。言ったら何かが変わったかもしれない。勿論、何も変わらないかもしれない。けれど、言えなかった。
 言いたい事が言えないままなのも、苦しいくらいあの頃のままだ。僕の弱さも、変わっていない。けれど、この涙は自分で止めなくてはならない。
 風と共に、緑のむせ返るような匂いが流れてくる。遠くでセミが鳴く声が聞こえる。
 ああ、今年も夏がやってくる。

柊硝(東京都/23歳)
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8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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