ある日、彼女は現れた。
彼女が部屋に入ってきた瞬間、何か胸に突き刺さるような感覚があった。二十七歳から渋谷で占い師を始めて十年になるが、このような感覚は初めてだった。
彼女のカウンセリングシートには「柏木美咲、平成元年生まれ。三鷹市在住」とあった。
彼女は、可愛らしく上品で好感の持てる女性だった。だが、その容貌とは反するように、鋭い目つきで私を見つめ、私に対して個人的に強い感情を抱いているように感じた。
「どのようなお悩みをお持ちですか」
 彼女はやっと私から目をそらし、一瞬曇った顔をして言った。
「彼との結婚について占って頂きたいのです。お付き合いをはじめて半年になります。私は結婚をしたいと思っているのですが、彼がどのように思っているのかお聞きしたくて」
「わかりました。ではまずはお相手のお気持ちを占ってみましょう」
私はタロットカードを使い、占いを始めた。
彼女の恋人の様子がタロットカードに表れる。あるカードをめくったとき、私は思わず息を飲んだ。「まさか......」心の中で呟く。私は自分の動揺を彼女に悟られないよう、平静を装いながら言った。
「彼はご結婚に関して、とても慎重でいらっしゃるようです。またお二人のご結婚に関しては、美咲さんのご両親も反対されていますね。彼は美咲さんより一回り近く年上で、自分で事業をされていらっしゃる方ですね」
「......」
「彼は二十代半ばころ、一度離婚していますね。もう恋はしないと決め、仕事一筋で生きてきたようですが、美咲さんに出会い恋をした。美咲さんを好いています。しかし、彼の心の中には他の女性がいるようです。その女性とは縁が切れていますが、彼はずっとその人を想っているようです。美咲さんとの結婚は難しいでしょう」
 彼女は顔を下に向け、涙を落とした。
私は、自分が占った結果と目の前の彼女と自分の感情とが繊細に絡まり合うのを感じていた。そして、私はそっと席を立ち、彼女を抱きしめた。しばらくの沈黙の後、
「すべてその通りです」 
 と、彼女は言って、私の目を見た。先程までの鋭い感じではなく、何かの糸が切れたような、それでいてほっとしたような複雑な表情だった。
彼女は、それでも彼と結婚したいのだと言った。そして、次の日曜日に、縁結びで有名な「深大寺」に、彼と一緒に参拝に行く予定だと告げて帰っていった。
「深大寺」その名前には深い思い出があった。長い間、記憶の奥にしまい込んでいた場所。彼女が去った後、私はあらゆる葛藤の末、深大寺に行くことを決めた。
次の休みは、日曜日だった。

調布駅から京王バスに乗り、深大寺についたのは午前十時だった。山門までの道は蕎麦屋が軒を連ねていて、観光客で賑やかだった。以前深大寺に来たのはもう十五年も前になる。
山門をくぐり、本堂へ。手水舎で手と口を清め、常香炉で線香の煙を浴びてから参拝した。本堂脇のなんじゃもんじゃの木に、白く可憐な花が咲いていた。「あの時も、この花が咲いていた」私は小さく呟いた。
 階段を登り、元三大師堂に向かった。お賽銭を入れ、手を合わせた。
その時、背後から懐かしい声が聞こえてきた。一瞬、背中が硬直する。私は覚悟を持って振り返った。そこには、若い女性と共に階段を登ってくる背の高い男性がいた。
「洋介......、やっぱり」閉じ込めていた記憶と複雑な感情が交差する。
 一緒にいたのは先日のお客様、美咲さんだ。
私は二人に気付かれないように、とっさに左奥にある開山堂参詣道へと向かった。脈が高鳴っている。
あれは確かに、洋介だった。ひょろっとして背が高く、ジャケットを羽織り、着るものにはこだわるわりに、髪は無造作でくしゃくしゃなままでいるところも変わっていない。
 私は参詣道を足早に登って行った。二人とも私には気づいていないようだ。気付かれずに安心したと頭では思っているのに、心臓は強く早く動いていた。
 開山堂に到着しても、心は上の空だった。私は、北門を出て、神代植物園へと自然と歩を進めていた。季節の花々を見て、自分の気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。
私は植物園を黙々と歩いた。まだバラは咲いていなかったけれど、ツツジが満開で美しかった。しかし、頭の中は洋介のことでいっぱいだった。
 洋介と私は、十二年前に離婚した。二年の結婚生活を送った後、まるで初めからこうなることが決まっていたかのように、私たちは離婚した。原因は価値観の相違だ。今はそう思うようにしている。
 洋介はそれなりにいい男で仕事も成功していたから、洋介に好意を持つ女性はたくさんいた。私の親友だった芳美も、その一人だ。
でも洋介は私を選び結婚した。芳美にとっては、気持ちの良いものではなかったと思う。
結婚して半年が過ぎた頃、芳美から「洋介が他の女と浮気している」ということを聞いた。洋介は、自分は浮気なんてしていないと言ったけれど、私は芳美の話を信じるようになっていった。そしてだんだんとうつ病のような状態になり、占いにはまるようになった。
占い師も、洋介が浮気をしていると言った。私への愛は冷めているとも。占いに行くときはいつも芳美が一緒だった。そしてその後、芳美は決まって「別れなよ」と言った。
私たちが離婚したのは、私が占いにはまるようになって一年後のことだった。もちろん洋介は離婚を承諾しなかった。しかし芳美が間に入り遂には洋介も離婚届にサインをした。
離婚後、占い師に勧められるまま、占いの学校に通い始めた。その後しばらくして、芳美は洋介のことが好きで、私に嘘をついていたことがわかった。芳美は「幸せそうなあんたを見てて悔しかった」と言った。
私はそれ以来、芳美とは会っていない。三ヶ月間家に閉じこもった。占い学校の先生が連絡をくれて、良かったら自分の店で働かないかと誘ってくれた。それが今のお店だ。
時計を見ると二時間が経っていた。帰宅する前にどうしても参拝したいところがあった。「深沙堂」だ。深大寺が縁結びの寺と言われる由来となった、深沙大王が祀られている。私と洋介にとって思い出深い場所だった。
十五年前、私は洋介と深大寺に来て、深沙堂で参拝し、その後結婚した。
神代植物園から坂を下り深沙堂に着くと、辺りは十五年前よりも開けていたが、人通りはまばらで付近には誰もいなかった。私は洋介の幸せを願い、手を合わせた。
「絵理子......」
 突然、背後からとても、とても懐かしい声が私を呼んだ。反射的に振り返る。
「洋介......」驚きと熱い思いが込み上げる。
「やっと会えた」洋介は微笑んだ。
「美咲さんは?」
「帰ったよ。美咲が、今日絵理子が深大寺にいるはずだって。美咲とは別れたんだ。全部話したよ、美咲に。絵理子が渋谷で占い師をしていることは芳美から聞いた。急に電話があって、渋谷で絵理子を見つけて後をつけて行ったら占いの店だったって。芳美も反省していたよ。絵理子に会ったら謝っておいて欲しいって。芳美は今や二児の母だそうだ」
 複雑な気持ちになった。洋介は続けた。
「美咲は、絵理子に会うためにあの店に行った。来ただろ、この前の火曜日。絵理子は、俺の名前も生年月日も何も聞かないで全部言い当てたんだってな。美咲が驚いてたよ。で、あいつが泣いたとき、絵理子が抱きしめてくれたって。そのとき、あいつは決めたって」
「決めた?」
「今日、ここに来ること、あいつわざと絵理子に言ったんだ」
「わざと」
「......俺は、今でも絵理子を愛している」
「......」
「離婚届書くとき、約束しただろ。もし絵理子の気持ちが変わって、俺への疑いも晴れて、十年後お互いに結婚していなかったら、もう一度、俺たちやり直そうって」
洋介はそう言って鞄から絵馬とペンを取り出した。そこには、「結婚します」と大きな文字が書いてあり、左下に洋介の名前が書かれていた。驚きと嬉しさで言葉が出ない。
「ここに名前を書いて」
 洋介は、私の前に絵馬とペンを差し出した。私は、洋介の名前の横に自分の名前を書いた。
「深沙大王に報告しよう。俺たちは再び結ばれる。そして、もう絶対離れないって」
 私は洋介に促されるまま、もう一度手を合わせ、目を閉じた。
「絵理子が幸せになりますように......」
洋介が小声で言った。
「洋介が幸せになりますように......」
私も小声で言った。
「深沙大王様、もう叶いました。俺今すごく幸せです」洋介がはっきりした声で言った。
「私も叶いました。今、とても幸せです」
私たちは、目を合わせて笑った。
「蕎麦食べようぜ。あの時行った、門前でも行くか」
「うん。私、門前そばにする。大根おろしと椎茸食べたい」
「俺はとろろだな。そのあと、蕎麦団子に、くずきりとあんみつも食べよう」
「うん。あのときみたいにね」
 私は深沙堂を振り返り、心の中でもう一度手を合わせ、心から感謝した。

伊越啓(千葉県市川市/35歳/女性/主婦)
引っ越しの荷造りをしていると、押入れの奥から黄色と黒色の横縞柄の『ちゃんちゃんこ』が出て来た。
アニメのキャラクターグッズで、時には武器としても使用されていた。悪い妖怪相手にえぃっと投げつけ、ヒロインである夢子ちゃんを守っていた。
 
 『ちゃんちゃんこ』は満男が買った。
付き合って間もなく縁結びの神様がいると聞き深大寺に参拝に行った時のことだ。
満男とは五年付き合った。しかし、結婚までは至らなかった。深大寺のご利益が足りなかったのか、それともご利益の御蔭で五年付き合えたのか、どちらなのかは良く分からない。そして何故『ちゃんちゃんこ』を買ったのかも分からない。付き合い始めたばかりのカップルの悪乗りに近いと思う。

 『ちゃんちゃんこ』を見ていると、荷造りの手が完全に止まってしまった。
 一度だけ、満男はこの『ちゃんちゃんこ』を着たことがあった。ハロウィーンの日にバンドのライブがあり、イベント名が『仮装パーティーナイツ』だったため、『ちゃんちゃんこ』を無理矢理着てハーフパンツと草履(下駄が無かったので)の出で立ちでステージに上がった。
仮装が中途半端だった挙句、愛用のギターが黄色だったこともあり、『ちゃんちゃんこ』は全く目立たなかった。しかも他のメンバーは仮装を諦め、普段と同じ衣装で演奏していたため、より滑稽に映った。前日の夜、「イケるイケる、ゲゲゲしてる!」と焚き付けてしまった私は少し罪の意識を覚えた。

その時の写真があったはずだ。
私はふとそう思い、荷造中の段ボールを掻き分けて、パソコンを起動し、当時の写真を探した。
写真を見てみると思っていたほど悪くないコスプレだった。意外とイケてるように思えた。少なくとも『ちゃんちゃんこ』とハーフパンツ、草履の組み合わせは悪くない、問題は靴下だった。靴下に関して私は指示を出していない。当日の朝、勝手に五本指ソックスを履いて出掛けたのは満男だった。

思いにふけている場合では無かった。
引っ越しの荷造りを進めなくてはならない。
私はパソコンを閉じ急いで箪笥の前に戻り、荷造りを再開した。暫くすると、妙な心の引っ掛かりを覚えた。
靴下が気に入らなかった出来事が他にもあったような気がしたのだ。しかもそれは深大寺に行ったときだったような...。
私は気になってしまい荷造りに集中できなくなった。すぐに手を止め、またパソコンに向かい当時の写真を探した。
深大寺で撮影した写真は百七枚あった。
緩やかに下る蛇行した桜道、アスファルトに花弁が少し落ちている。そこを歩く満男。ジャケットにサルエルパンツ、蝶ネクタイをしている。付き合い始めたばかりだからか、明らかに気取っている衣装。しかし、足首に覗く靴下はあからさまに失敗の組み合わせ、異様な心地の悪さを出している。
深大寺参道前の石垣。よじ登る仕草をする満男。深大寺参道、ひょっとこの様な石造の横で同じ顔をする満男。亀島弁財天池の横で亀のように首を伸ばす満男。河鍋暁斎の天井画『竜』の説明看板の前で竜の顔真似をする満男。その全てに変な靴下を履く福田満男の姿が写っていた。

写真を見ていて少しずつ思い出したことがある。百七枚の写真のうちの大半が某キャラクターの顔ハメ看板から顔を出した写真だった。この時をきっかけに私達は顔ハメ写真を集めることを共通の趣味とした。
顔ハメの魅力は幾つかある。
まず神出鬼没ということ。顔ハメがあるという情報は旅行雑誌やサイトには謳っていない。旅行先や出先で唐突に現れ、その中には何でこの顔ハメ?と思う物も良くある。それに出会えた時は言い知れない喜びがある。
そして何よりも笑顔になれる。
例えば、私は人並みにお化粧をする。その状態でねずみ男の顔ハメをすると、モードメイクとねずみ男のミスマッチが強烈な違和感を出す、と思いきや意外にもマッチしたりする。
「実写いけるね。」
満男と二人してけらけらと笑ったことがあった。

私は深大寺の写真を一通り見ると、荷造りを再開した。
この引っ越しが無事に終わったら深大寺にもう一度行ってみようと思った。満男と行った時は、深大寺そばを食べ損ねたからだ。今回は引っ越しそばを兼ねて食べに行こうと思う。上手く行けばちょうど桜が満開の頃だ。

ほどなくして引っ越しが無事に終わり、早速、その週末に深大寺に向かった。桜が残っているかと期待したのだが、全て綺麗に散ってしまっていた。
参道の前に立つと、写真だけでは思い出せなかった事が、瞬時に頭の中に広がった。
確か、案内板の前で笑った記憶がある。
私は案内板の地図に近づいた。何で満男と笑ったのか、それを思い出そうと必死で案内板の地図を見上げた。
『武蔵野の水と緑と寺とそば』。
これだ!案内板の上に謳われているこの文句、
様々なしがらみを感じさせるこの言い回しに笑ったのだ!私は思い出して嬉しくなった。
私は踵を返し、少し駆け足で参道前に向かった。そこには『ちゃんちゃんこ』を買ったお店があり、その手前に顔ハメがあった。まだ残っていたことにホッとし、まじまじと眺めた。 
そうだ!確か満男は、「これなら靴下が隠れる」と言いながら顔ハメの裏に回り、あの写真に残っているくしゃくしゃな笑顔で穴から顔を出したのだ。
私は当時を懐かしく思った。
 三つの穴が開いた顔ハメの正面に立ち、穴の向こうの丸見えの緑を眺めながら、急にそこに満男の笑顔がにゅっと出てくることを想像した。
 
三つの顔すべてに満男の顔が現れることを想像していると、唐突に、後ろから男の人の声がした。
「撮りましょうか?」
振り返ってみると、私より少し若く、まだあどけなさが残る男性が立っていた。お洒落な出で立ちをしている。
私が困惑していると、
「撮りましょうか?ずっと眺めていたので。」
と言い、カメラを構えるジェスチャーをして二度人差し指を動かし架空のシャッターを押した。
 私は思わず「大丈夫です。」と断った。
「いいじゃないですか、一枚だけ。」
洒落た男は意外と強引だった。そしてハンサムだった。
私は少し考えて、せっかく親切に声を駆けてくれたのだから、一枚だけ撮ってもらうのもいいかも、イケメンだし、と思った。
「では一枚だけお願いします」と言い、カバンからデジカメを取り出して男に渡した。
 私は顔ハメに向かいながら、三つあるキャラクター、片目、ねずみ、吊目女のどの穴から顔を出すかで迷った。満男とはねずみが最も面白いとなった。しかし今回は見知らぬお洒落なイケメンだ。可笑しくてもあからさまに笑うようなことはしないだろうし、よくよく考えると笑いを求める必要もない。
片目だ。私は無難に真ん中の穴に顔を入れようとした。
 すると、洒落坊は図々しくも指示を出してきた。
「ねずみ男がいいですよ。似合うと思います。」
私はどういう意味だ、と思いながらも、「そうかしら」と微笑みながら、ねずみ男の顔ハメに顔をセットした。
 少し強引な洒落坊に苛立ちを覚えたが、顔ハメから覗く深大寺の風景は、そんなくさくさした心を洗うものがあった。
微笑む顔をきっちり作り、カメラを構える生意気な洒落坊に目を向けると、ふと違和感を覚えた。すごく懐かしい、前にも感じたことがある違和感。何だろうと思いながら注意深く探ってみると、洒落坊の足首から激烈にダサい靴下が見えていた。
折角作った笑顔が崩れ、前歯が出たような苦笑いになってしまったと心配していると、
「やっぱりお似合いです!上手く撮れています!」
洒落坊が、撮ったばかりの写真を見せながら私に近づいてくる。

柿久米田郎(神奈川県相模原市/39歳/男性/会社員)
パソコンの画面がふいに薄暗くなった。見上げると、生い茂る樹々の合間から覗いていた太陽に雲が掛かり、東に向かうに従って灰色のグラデーションが増している。そう言えば天気予報で夕方から曇りになると言っていたが、どうやら少し早まったようだ。雨を心配し、出ようと公園の出口へ向かう人の姿も見え始めた。
「3時か」そうつぶやいて、亮二もノートパソコンを仕舞う準備を始めた。
いつものように吉夢庵の蕎麦を食べて帰ろうと立ち上がると、足元にある小さな赤い花に気が付いた。緑に映えた真紅は綺麗だが、花にしては細長い、そう思ってよく見るとそれは小指程の赤い組み紐細工だった。
何気なく拾い上げると、その先には小指大の黒いUSBメモリーが付いていた。一昨日の土曜に来た時には無かったはずだ。ペンを落として拾った記憶があり、その時には気づかなかった。ということは昨日の日曜に落としたものだろうと亮二は考えた。まさか同じような人がいるのだろうか?神代植物公園の中でパソコンを開く人などが...。

亮二が調布に住み始めて5年になる。大学を卒業し、京王線沿線にある広告会社に就職した際、通勤に便利な調布に越して来た。不動産屋が勧めてくれた深大寺と、その参道にある吉夢庵に訪れたのはその翌日のことだ。蕎麦に対してそれほど興味は無かったが、たちまち吉夢庵の虜になった。そして深大寺とそれに隣接する神代植物公園にも。
それからは、雨や冬の日以外は毎週の様に自転車で10分の距離を通っている。亮二がそこまでして通うのは、公園内に置かれた、あるベンチとテーブルが気に入ったからだ。
神代植物公園には三鷹街道に面した大きな正門と、深大寺裏から入る小さな深大寺門の2か所の入口がある。そして深大寺門近くの雑木林の中に、亮二が気に入ったロッジ風の木製ベンチとテーブルがあり、休日にはそこで企画書などを書く仕事をしている。
何が楽しくて休みの日にまで仕事をとも思うが、恋人も無く、趣味もない身としては、致し方ない休日だ。だからこそ「お前が一番ヒマだろう」と言う理由から、昨日は日曜だと言うのにクレーム処理に向かわされた。まあ、翌日に代休を貰えただけ良かったが。
けれど、緑の中で仕事をするのも悪くないと亮二は思う。閉鎖された室内よりも良いアイデアが出そうな気がするし、何となく自分が優雅に仕事をしている気になれる。
調布市には22万人を超える人がいるという。同じように優雅な気持ちで仕事をなんて考える人が他にいてもおかしくないだろう。そう思うと何かしら、USBの落とし主に少し親近感が湧いてきた。さぞや困っているだろうと思った亮二は深大寺門を出る際に、職員に落し物として届け出た。その時、もしかて、ベンチの周りを探しに来るかもしれないと言う考えが頭に浮かび、来た道を戻り出した。
そして雨が降らないことを祈りながら、テーブルに丁寧に畳んだメモを挟んだ。
【USBを拾いました。深大寺門に落とし物として届けてあります】

「ごめんね、付き合わせて」と春奈は片手で拝む仕草を見せた。「まぁ、隣駅だし、どうせヒマだしね」そう言って蕎麦を口に入れた佑香は「でも良かったね、雨にも濡れず、データも壊れてないし」と口を動かしながら、もう何度目か分からない「美味しい」を付け加えた。ここ吉夢庵の蕎麦は青々とした蕎麦の風味を手軽な値段で楽しめるため、子供の頃から調布に住む春奈は、深大寺に来た際は、必ず訪れている。夏でも冬でも盛り蕎麦を注文し、半分は汁で、半分は七味で食べる。日曜も仕事をしに来た植物公園の帰りに寄ったが、夜になってUSBが無いことに気が付いた。公園で落としたに違いないと思ったが、どうしても月曜は職員会議で来られず、たまたま飛び休だった火曜日に探しに来たのだ。
朝一で行こうと準備していると、同じ福祉施設で働く佑香から買い物への誘いの電話があり、事情を話すと「たまには森林浴もいいか」と付き合ってくれることになった。
「電話で問い合わせるか、入口で聞けばすぐだったのにね」蕎麦湯を飲みながら佑香は意味ありげに微笑んだ。確かに電話しておけば深大寺門ですぐに受け取れただろう。あるいは入口で聞けばすぐだったのだが、春奈は何故か、あの雑木林のベンチの下だと思い込み、開門と同時に一目散に向かってしまった。
「でも、そしたら...そのメモ見られなかったしね」そう言って佑香はまた意味ありげな笑みを浮かべた。
USBを拾って届けてくれたと、ノートを千切った2行の伝言。何のことは無い、親切な人からの伝言。文字から男性と思えるが、ただそれだけで、お礼の言いようもない。そう思っていると「さぁ、食べたらさっさと、さっきのベンチに戻るわよ」と佑香はバッグを肩に掛けながら立ち上がった。
「戻るって?」驚きながら尋ねると、「気になるんでしょ!そのメモの字。春奈ってさぁ昔から字の綺麗な人、好きだよねぇー。これも出会いの一つだって」そう言って歩き出した。そして春奈の方へ振り返り「お礼を言いに行くのよ」と手招きした。お礼ってどうやって...。訳の分からないまま佑香の後を追い、緑深まる深大寺門へと再び向かった。

【USBメモリー届けて頂き、ありがとうございました。本当に助かりました】
「で?次に雑木林に行ったら、このメモが挟んであったと...」左手で薄いピンクの付箋を亮二に返しながら、吉永は右手で焼き鳥の串を頬張った。吉永とは営業とデザインと言う違いはあるが同期入社で、ある程度は何でも話せる仲だ。お互い早く仕事が終わり、久しぶりに飲もうかと、会社近くの居酒屋に入った。仕事の話から、いつの間にか最近拾ったUSBの話になり、何となく、その女性が気になることも打ち明けた。
「笑われるかもって言ったけど、俺は笑わないよ」と吉永は言い、焼き鳥の串を振りながら「デザインってさ、その文面も大切だけど、色や大きさ、行間なんかも大事な訳よ」と真面目に語り出した。「文字とか文章ってさ、その人を表すものだよ。文字と文字の間の取り方とか、どこで改行するかとかさ」
確かにそうかもしれない。せっかちな人は文字間が狭いような気がするし...そんな事を思っていると、吉永は「最近じゃインターネットなんかで、顔も知らない相手と出会ったりする時代だぜ、ちょっとレトロだけど、それと同じだよ」と言い、ビールを流し込んだ。別れ際の改札で「上手く誘ってみろよ、連絡先書くとかさ。優秀なデザイナーの俺が言うんだ間違いない!その女性は良い感じだ!」そう言った吉永の言葉に、そんな器用な真似が出来るなら、彼女ぐらいいるって。そう思いながら亮二は少しだけ笑ってみせた。

休憩所のソファーで口を尖らせた佑香が「今平成何年だと思う?」と聞いてきた。
「27年?」横でお弁当の蓋を開けながら答えると、「じゃなくて!」と春奈の足を軽く叩いて佑香はさらに口を尖らせた。彼女の怒る理由、といっても本当に怒っている訳ではなく、春奈を思ってのことだが、それは分かっている。4か月前に始まった週に1度程度の数行のメモの交換。それが遅々として進展を見せない、いや進められない春奈と見えない相手に、じれったさを感じているのだ。
落し物から始まった小さな手紙の行き来。もちろん、どんな人かと想像もするし、遭ってみたいとも思う。だけど、何だか改めて会うのが怖い気もするのだ。単調な生活の中での、小さな楽しみ、それが会えば単調な現実に組み込まれてしまう気がして。

「ある意味、2つの奇跡だな」そう言うと吉永はタバコの煙を吐き出した。「一つは、28になる男が中学生みたく女を誘えないこと」そしてタバコをもみ消し「二つ目はそれだけ通っていて、4か月もベンチで鉢合わせしないってことだ」そうだろと言う顔をして吉永は肩をすくめ喫煙所を出て行った。
確かにそうだなと、我ながら亮二も情けなく思うが、会うのは簡単だ。連絡先を書くなり聞くなりすればいい。彼女が望まないなら、それまでのことで、始まる前に終わっただけだ。けれど、偶然始まった小さな世界を壊さず大切にしたい気持ちが強いのも本当だった。

特に仕事が無い日でも亮二は必ずメモの確認と、置きに行くために公園に通い、吉夢庵にも訪れる。その日は混雑時を避けて昼過ぎに店に入ったが、それでもかなりの盛況で、入口付近に、若い女性二人組の隣が一席空いているだけだった。
「で、今日もこの後メモを置きに行くんでしょ?」そんな言葉が亮二の耳に入ってきた。「うん」そう微笑んだ女性は亮二の見慣れたピンクの付箋をバッグから取り出した。「USB落としたの春だよ、もうすぐ秋だってのに、ホントにもう」ともう一人も微笑んだ。
隣からこちらを見つめる男性を不審に思ったのか、付箋を持った女性が亮二の方に目を向けた。ショートカットの似合う人だな。
そんな事を思いながら亮二はメモ用紙に文字を書き連ねた。いつもより緊張した固い文字になってしまったが、ぎこちなく立ち上がりそして女性に近づき、メモを差し出した。

【初めて直接渡せますね。
はじめまして。でいいのかなあ
塚本亮二と言います】

江原間(東京都調布市/44歳/男性/会社員)
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主催

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